jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説

第7章
亡くなった愛する人についての確かな希望

 エホバの証人は、正しい人々とは、老いている人や現在、死亡した人たちでエホバの証人として神に仕える者だと主張する。エホバの証人はこれら「義者」は復活の日に甦り、地上の楽園で永遠に生きると言う。地上でエホバに仕えなかった、この世で死んだ「不義者」はその滝、義者として地上の楽園でエホバに仕えるために「セカンドチャンス」を与えられ、エホバに関するすべてのことを学習する猶予が与えられると教える(「聖書は実際に何を教えていますか」P.72,73)
  これは偽りの教義だといえる。何を信仰しているかに関わらず、将来、エホバと地上の楽園で生きるのなら、何でエホバの証人になる必要があると言えるのか。駅頭でたたずむエホバの証人に目もくれない人たちが地上の楽園で生きられると言うなら、なぜ文書を手にして駅頭に立つ必要があるのだろうか。何の意味も無い。ものみの塔は矛盾に満ちている。楽園に行くには、バブテスマを受けなければならないとか、罪を清算しなければならないとか、謙遜してエホバに仕えなければならないと教えるが、みのみの塔の教えに従えば、今やらなくても楽園に行ってから宿題を片付けてもよい。
  愛する人が亡くなると、エホバの証人は、遺族を組織に誘いこむために遺族に偽りの希望を与える。サタンであれば、地獄がないとか、義者として生きている人にも、不義者の状態にある人にも、将来には地上の楽園で生きられるという教えが気に入るだろう。

こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(マタイ25:46)


  神から見て正しい人である義者は永遠の命に入る。不義者は入らない。それでは義者とは誰を指しているのだろうか。次の聖句を見よう。

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10)

 上の聖句には、正しいものは一人もいないとある。字ぷなり、美点によって正しいとされる者がいないなら、どのようにして義者となるのか。聖書のどこにも良い行いをしたり、法を守っている者が義者であるとは書かれていない。ここでイザヤのことばを引くと

私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。(イザヤ64:6)

 上の聖句は神が関わる限り、自分にとって正しいことをしても「汚れた者」であると示している。私たちは、「汚れて」生まれ、罪人であり、良い行いをしたり、「義者」であることだけでは決して「汚れ」は拭い取れない。パウロはテトスへの手紙の中で行いや義によっては救われないと説いている。

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5)

 自分から正しいことをして救われるのではない。「神の子」の犠牲によって、神の憐れみによって、救われる。良い行いをしても神を信じて行いをしても人は義者になれない。
 パウロは、どうすれば神から見て義とされるかを説いている。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント第二5:21)

 主、イエス・キリストは私たちのために罪とされたのだから、私たちはキリストにあって神の義とされるであろう。主、イエス・キリストを信じれば神から見てすでに義者となっている。どうすれば神から見て人が正当とされるか、パウロがローマ書の中で説いている。

すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(ローマ3:22-28)

 神の義はイエス・キリストを信じる者の信仰による。行いによってではなく、神の無料の賜物を通した信仰によって神から義とされるとパウロは説いている。イエス・キリストが十字架の上で私たちのために流された血潮を信じて神から義を宣告され、罪が赦される。行いは必要でない。さもなければ得意げにうぬぼれてしまうとパウロは説いている。人は律法の行いなしに信仰によって正当とされると、結んでいる。
 コリント第二では義者と不義者には違いはないことを明らかにしている。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(コリント第二6:14)

 パウロは、不信者(キリストを信じていない者)は不義であり、不信者と付き合いをしないよう、コリントの信者に説いている。主、イエスの信者である者が義であると明らかにしている。
 エホバの証人は、不義者は地上の楽園に入ると主張するが、不義者に対する神のことばがつぎのように示されている。

あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(コリント第一6:9-11)

 聖書は、エホバの証人の教えに反して不義者は神の王国を継がないと教えている。パウロは、後半で一時は不義として生きていたが、主、イエスの名によって洗われ、清められ、聖とされ、義とされたと説いている。組織の名によってではない。
 使徒行伝10章を読むとコルネリオは、神に対し多くの良い行いをし、神を畏れる人であった。明らかに神への奉仕を願っていた。しかしペテロが来るまで救われていなかった。ペテロはコルネリオのためにキリストが何をしたかを説明した。十字架上の血潮によってイエスを信じる者は罪が赦される。コルネリオはペテロからそれを聞いてすぐに信じ、すぐに救われた。だからコルネリオはキリストについて聞き、信じるまでは不義者であった。神に祈り、良い行いをして神を畏れる生活をしても、神から見れば義者にはならない。神から義認されるために、人類のためにキリストがなされたみわざを信じなければならない。
 ヘブル書ではいわゆる休息の場所について学ぶ。休息に入らない者を説いている。

また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(ヘブル3:18)

 真理の福音を信じない者は神の休息に入らない。

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒行伝20:24)

 神の栄光の福音を証しするため、パウロは、主、イエスからの指示を受けた。栄光の福音はエホバの証人が伝道している福音とは異なる。
神の栄光の福音を拒んだ者や主、イエス・キリストを拒んだ者の全員の身の上に何が起きるかを読んでみる。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20:12-15)

 神の栄光の福音を拒む者、救い主としてのイエス・キリストを拒む者はそれぞれ生涯にわたる勘定書きを神に差し出す。彼らは裁かれ、自分の罪に対する罰のため永遠に血の池に追放される。キリストが十字架の上で人類のために死なれ、罪のための罰を取り除き、罪の赦しのために血を注ぎだされたと信じる者は赦され、永遠の命を受ける。それこそが良いたよりである。行いとか、忍耐とか、何を差し出せるとか、組織とか、神に祈るとか、行儀よく生きるとか、「神に喜ばれる生き方をする」とかが福音ではない。福音はキリストについて書かれている。キリストは十字架の上で死なれた。キリストを信じて救われる。それを受け入れる者にとって救いは無料の賜物である。


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