jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
5章 犠牲 神からの偉大な賜物

 ものみの塔「聖書は実際に何を教えていますか」のP.55には

20イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせる。イエスについて、「子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている」と述べられています。(ヨハネ3:36)イエスに信仰を働かせるにはどうすればよいのでしょうか。そうした信仰は言葉だけで示されるわけではありません。ヤコブ2章26節には、「業のない信仰は死んだもの」と述べられています。そうです。真の信仰は「業」によって、つまり行動によって実証されるのです。

と書かれています。
  ヤコブ2章には「行い」が例示されています。
1.人をえこひいきしてはならない。
4.裁きを設けない。人を裁かない。
5.貧しい人を軽蔑しない。
8.「隣人を愛する」という律法を守る。
9.人をえこひいきしない。
11.人殺しをしない、
12.自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行なう。
16.からだに必要なものを与える。
  2章全体を読めば、ヤコブは「聖書をいくら読んでもキリスト教精神から外れる行為をすると自由の律法に反している」と言っていることが分かります。
  新約聖書全体ではイエスを信じれば義とされ、永遠の命が得られると書かれています。現役の証人は行いのない信仰は、むなしいと信じているのでしょう。 しかし人は律法の行いによっては義と認められず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、イエス・キリストを信じたのです。これは行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。

なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないためです。(ガラテア2:16)

   行いによって救われるのではありません、何かを実行して救われるのではありません。イエスを信じるときに救われるのだとパウロが教えていたのは間違いありません。
  マタイ伝ではイエスは救いのために自分の行いを信じている者に対し驚くぺき警告をしています。

 わたしに向かって、「主よ」、「主よ」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「『主よ』、『主よ』、私はあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったのではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け。(マタイ7:21-23)

 主、イエスは天の王国に入れない理由を述べていますが、それは「父」の意思ではないから入れないのだと語られています。「父」の意思とは、「父」の名で伝道したり、預言したり、素晴らしい行いをすることではないことが分かります。そうすると何が分かるのでしょうか。その者は神の目からはずれ、地獄に入ります。主、イエスはそれらの者を「不法を働く者」と呼びました。天への清らかな入り口となる良い行いをして神の歓心を得ようとしてもかないませんでした。  
 「神の意思は何か」の答えは、ヨハネ伝にあります。

 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか」。イエスは答えて言われた。「あなかがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:28,29)

 神は外見では判断しません。人は救いのために心で考えますが神はその心を見分けられます。

 人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)

 人は神の家族であると神に対して証明する必要はありません。神は人の心を見分けられるし、救いのために「子」を受け入れたかをご存知です。
  新約を通して、人は救いのために行いをしなくてもよいことは明らかです。神から見て義とされるために行いをするのではありません。人は罪が許されるために行いをするのではありません。

 


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