jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第4章 イエス・キリストはどんな方ですか

 エホバの証人の主張ではイエスは「神の子」ではあるけれども、被造物であり、地上に来られるまでは大天使ミカエルでした。特段、彼らの出版物では公開していませんが、協会内の知識では、ほかのカルトと同じく、イエスはサタンの霊的な兄弟だと信じているのです。 「聖書は実際に何を教えていますか」には次のように書かれています

つまりミカエルの率いるものと、イエスの率いるものとが別々にあるとは示されていないので、ミカエルとは、天での役割を担うイエス・キリストにほかならない、という結論は筋が通っています。(「聖書は実際に何を教えていますか」P.219)

 エホバの証人に言わせると、イエスは神の唯一の生んだ子(被造物である初子)であり、神ご自身に近い地位に就いているらしいのです。イエスは神ではないと教えています。また、イエスは「万能の神のようなもの」だと教えています。
  使徒パウロは、来るべき時に異なるイエスを説く人が来るであろうと警告しています。

というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです(コリント第二11:4)

 異なるイエスを伝えている人が来ると言ってますがどうしてそれが問題になるのでしょうか。聖書に書かれているように人は主、イエス・キリストによってのみ救われることをサタンは知ってますから、サタンは偽のイエスを創造して人々を悪の道(滅び)に導びこうとします。ほかのカルトも聖書的でないイエス、まったく違うイエスを伝道します。それが最もわかりやすいカルトの特徴です。
  まず、イエス・キリストは救いに至る唯一の道であることを示します。

 この方以外に、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒行伝4:12)

  この聖句は、ほかの名では救われないと、特に強調にしています。永遠の命を与えるものは王国会館でもないし、出版物を発行している日本支部でもありません。イエスだけです。福音書に書かれたイエスのみことばを忘れないように。

  イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

  サタンは多くの偽イエスを創造して、人々から救いを取り上げようと、一生懸命に真理の人々を騙そうとします。
  エホバは神の名前です。次の聖句から分かるように神には三つの格があります。

  あかしするものが三つあります。(ヨハネ第一5:7)

 創世記1:26では「われわれの形に、われわれにかたどって人を造り」とあります。それがイエス・キリストについて聖書的に何の意味があるかを調べます。

 あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、(申命記10:17)

 ここから、「主」は「神の神」、「主の主」であることがわかります。エホバの証人はこれを「主たち(複数)のエホバ」に置き替えます。しかし、この聖句だけを読めば、神は、「神の神」、「主の主」である唯一のものであると分かります。マルコの福音書には唯一の神がいると書かれています。

イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。(マルコ12:29)

 黙示録を読みますと、

 この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(黙示録17:14)

 エホバの証人は、子羊を見て、神の子羊がイエス・キリストを指していることは認めます。上の聖句では「神の子羊」は唯一の神に当てる称号(「主の主」)が与えられていることが分かります。「主の主」は神です。そして、主、イエスは「主の主」であると読めます。
  イザヤ書を読みますと、

 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ44:6)

 この聖句を注意深く読めば、単一の神として述べられているこの聖句では複数の神の格が書かれていることが分かります。「イスラエルの王」と「初めであり、終わりである方」に注目します。 新約聖書では「イスラエルの王」の称号は誰に与えられていますか。

 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:49)

 ここではナタナエルは主、イエスを「イスラエルの王」の称号で呼んでいます。この箇所では イエスはここでナタナエルをとがめていません。なぜでしょうか。それはナタナエルはイエスが何者かを知っていて、正しく「イスラエルの王」の称号を当てているからです。そして主、イエスはナタナエルの尊称を歓迎しています。 エホバの証人は新世界訳ではこの箇所の「イスラエルの王」はエホバを指すと言います。
  エホバの証人は、主、イエスが「初めであり、終わりである方」であるとは言いません。主、イエスがイザヤ書に書かれている「アルファであり、オメガである方」だとは信じません。黙示録には「初めであり、終わりである」「アルファであり、オメガである」と書かれている箇所があります。

  「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」 (黙示録22:12から13)

 間違いなく、主、イエスは自らを、「アルファであり、オメガである」、「最初であり、最後である」「初めであり、終わりである」と呼んでいます。16節では誰が語っているのかが示されます。

  「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(黙示録22:16)

 旧約聖書では「主」は「主の主」、「王の王」、「初めであり、終わりである方」、「あがない人」と言われていますから、旧約のエホバは新約のイエスになります。エホバには一つではなく 三つの格があり、単一の神です。
  そして、テモテへの手紙を読めば神が肉の形で来られることが分かります。

 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(テモテ第一3:16)

 新世界訳聖書では彼らなりの教義に合わせて「彼は肉において明らかにされ」と訳してその部分だけ取り出します。
  上の テモテ第一の聖句はヨハネの福音書と一致しています。

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父の みもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)

 「ことば」は神であり、「ことば」のほかに神はいません。「ことば」は肉の形となって現れ、十字架の上で死なれ、人類の罪をあがないました。イエスの形で人類の元に現れました。 エホバの証人はイエス=み使いだったと主張します。そのみ使いは神の僕として、人間として地上に来て、死んで霊者として甦ったらしいのです。これは冒涜です。まったく、主、イエスを聖書的に表してはいません。イエス・キリストは「主」であり、「すべての者の主」です。

 神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。(使徒行伝10:36)

 次に、イエス・キリストが「父なる神」に等しいことを示します。

 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。(ヨハネ5:16から18)

 ユダヤ人はイエスが誰を自称しているか正確に知っていました。それが一度ならずもイエスを殺そうとした理由です。イエスははっきりと、神と等しいと語っていました。使徒パウロはそれを自分のことばで語っています。

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、(ピリピ2:6)

 エホバの証人は、イエスが「父」はイエスより偉大な方だと強調していると弁解して、次の聖句を持ち出します。

『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。(ヨハネ14:28)

 イエスは地上に来られたとき、自分を卑下し、み使いより低くされたという意味です。
イエスがみ使いではないことを示す聖句があります。

 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(ヘブル2:9)

 イエスは死の苦しみのため、み使いよりも低くされました。この聖句はそれを説明しています。しかし「父なる神」との関係ではイエスの神の格はその地位も、その権威も、「父なる神」と等しいのです。 
  主、イエスは人間となりましたが、それでも地上では神でした。それはマタイの福音書の通りです。

 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23)

 主、イエスは自らを卑下していながら、主、イエスの本性を信じなかったユダヤ人に説明しました。関連する旧約の箇所を引用します。

 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」(出エジプト記3:14)

 神はモーセに自分の名を伝えました。それは「私はある」でした。
  福音書では、主、イエスは神がモーセに伝えた称号と同じ称号を用いています。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。 (ヨハネ8:58、59)

 この場面でユダヤ人たちは、イエスを石打にしようとしました。神に匹敵すると言っている以上は神を冒涜していると考えたからです。イエスは神に匹敵すると語られていましたし、アブラハムがいたときよりも前にいて、今も生きていて、「私はある」と伝えましたからユダヤ人はこれに憤慨し、石でイエスを殺そうとしました。もし、イエスがアブラハムより前に生きていたとしてもユダヤ人がイエスを石打にする理由にはなりません。ユダヤ人は、「私はある」の名を聞いた途端、イエスが何者を名乗っているかを正しく理解できましたからイエスを石打にしようとしました。
  ヨハネ八章に書かれている次の聖句を読めば主、イエスの神性に関する戒めが分かります。

 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:24)

 現代のエホバの証人は”イエス・キリスト=「私はある」方”だとは信じていません。イエス・キリストが肉の形で現れた神であるとは信じていません。ですからエホバの証人は罪のうちに死にます。なぜなら、彼らの罪は許されなかったからです。人がキリストを受け入れないうちに死ねばセカンドチャンスはありません。主であり、救い主であるイエスを拒んだのですから永遠に地獄で過ごします。ですから、ものみの塔協会の間違いに気がつくことは大事です。協会は過去に偽予言をしてきましたし、主、イエスの格などについて嘘を教えてきました。
  イエスは被造物だとエホバの証人は主張します。その問題を聖書から示します。

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初 めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1から3)

 最後の行には主、イエスがいなければ被造物は一つとして造られなかったと書かれています。主、イエスは万物の創造者であり、主ご自身がご自分を創造したわけではありません。聖書のどこにも「父」が主、イエスを創造したとは書かれていません。それをエホバの証人に指摘すると、コロサイ書を取り出し、イエスは初子であったから創造されたに違いないと言います。この部分を文脈から見ますと

 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 (コロサイ1:14から18)

 この聖句から、人はイエスの血だけによって贖われるのであり、行いによっては義認されないことが分かります。キリストを受け入れて罪の許しを受けられるのです。組織を受け入れてではありませんし、忠実に神に奉仕を続けたといっても、許されません。さらに主、イエスが目に見えない神の形であることが分かります。しかし、エホバの証人は次の節を読み飛ばし、イエスは初子であるから被造物だといいます。この箇所の初子は被造物を意味しません。イエスが創造された万物よりも高い地位を与えられた意味です。
  旧約聖書から説明しますと、詩篇89篇にはダビデについて書かれています。

  わたしは、わたしのしもべダビデを見いだし、わたしの聖なる油を彼にそそいだ。(詩篇 89:20)

 どのように神がダビデを高く上げていたかが分かります。次の箇所を読んでみます。

わたしもまた、彼をわたしの長子とし、地の王たちのうちの最も高い者としよう。(詩篇89:27)

 ここでは、「主」がダビデを初子にし、地上のどの王よりも高い名声を与えていることが分かります。聖書を読めば、ダビデは長子ではなかったとはっきり分かります。ダビデにはほかに七人の兄弟がいましたし、彼は末子でした。ですからこの聖句では、文脈上、初子という語にはすべての地上の王よりも高い名声を受ける意味がこめられています。コロサイに戻って読めば、”主、イエス=被造物”という意味ではないことが分かります。主、イエスが造られた万物に勝る名声を与えられているのです。初子という語には、主、イエスには万物に勝る名声が与えられていることがこめられています。主、イエスはサタンも、その他の大勢のみ使いも創造しました。主はご自身のすべての被造物よりも高くされました。
  しかし、エホバの証人は、主、イエスが「昔から」いたのだから被造物だと言うためにミカ5:2を用います。新世界訳聖書は嘘を書いています。ほかの聖書ではイエスは被造物ではなく、永遠の昔から存在していたと示しています。

 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ5:2)

 主、イエスは彼造物ではないし、永遠に存在します。ですからそれがイエスはみ使いではない証明です。次の聖句でも証明できます。

 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょ う、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」(ヘブル1:5)
  神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」(ヘブル1:13)

 ヘブル第一章には人類に語るためには神はもはや預言は用いないと説かれています。「神の子」を用い、そのみことばを通して語られます。エホバの証人はその教義に新しい光を当てるため、地上で神からの「啓示」を語る預言者を用いています。ヘブル書の5節では主、イエスはすべてのみ使いよりも高い地位にあると書かれています。「父なる神」がみ使いに対し、「あなたは私の子」とは言ったとはどこにも書かれていません。み使いは一人として神の「唯一のひとり子」として任命されてはいません。
  8節では「父なる神」が「子」と話を交わし、次のように話しています。

 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。(ヘブル1:8)

 ここでは「父」が「神の子」を「神よ」と呼んでいることが分かります。神のほかに神はいないのですから、イエスは「父」と同じく「神」であり、「主」なのです。
  イエス・キリストは「主の主」であり、万物の「主」です。ユダの聖句を読んでみます。

 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。(ユダ9)

 ミカエルはサタンと議論をしていますが、ここでミカエルはサタンに「主がお前を戒めてくださるように」と答えています。「私は汝を戒める」とは言っていないのです。ミカエルは明確に主が誰であるかを了解していたからです。主、イエスがミカエルであったなら、主が悪魔と議論したことになります。しかし、主、イエスは、天使長ミカエルをふくむすべてのみ使いを創造されました。主、イエスが天使長ミカエルであったとか、主、イエス・キリストの格についての間違った教えや悪い考えをもたらすためにイエスが来られたなどとは、聖書のどこにも書かれていません。
  現代のエホバの証人は、イエスを崇拝できないと教えられていて、イエス崇拝は偶像崇拝だと考えます。しかし、1950年代以前にはエホバの証人はイエスを崇拝できると教えていました。
  C・T・ラッセルはイエスを崇拝すべきだと教え、エホバとイエスに祈るように勧めていました。

 明らかに人間の属性の中に彼の神の格が維持された。彼は繰り返し、天から下ってきたと語っていたし、人間として試みに遭い、悲痛を感じたにもかかわらず、彼は神の権威を帯びていたし、神の特権を行使したからだ。赤子のときにさえ、生まれたばかりの王に会いに来た三人の賢者から崇拝を受ける対象であった。(マタイ22:2から11)天使さえも彼を賛美していた。(ヘブル1:6)彼は誰かから崇拝されたからといって、それをたしなめようとはしなかった。……(略)……コルネリオがペテロを崇拝しようとしたとき(使徒行伝)キリストが人間以上のものでなかったなら、その崇拝をさまたげる理由になるだろう。(「シオンのものみの塔」1880/10 P.2,3)
間違いなく、購い主、擁護者である方への祈願は適切である。彼は人類を愛し、犠牲となった。……(略)……祈願をするように命じられていないが、明らかにそれは不適切ではない。その祈願は、禁じられていないし、彼の弟子は彼を崇拝していた。(「シオンのものみの塔」1892/5/15 P.157)

  イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

 イエスは救いに至る唯一の道ですから、サタンは、イエス崇拝を思いとどまらせようとしたに違いありません。サタンはイエスについて間違った教えを積み上げました。イエスは神であり、イエスは永遠であり、一度もみ使いになっていません。聖書からそれは明らかです。

 


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