jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
16章 
クリスチャンは宗教的な祝祭日をどうみなしますか

 ものみの塔が発足した当時、エホバの証人はクリスマスの祝いを認めていた。現在の教えとは雲泥の差だ。現代のエホバの証人はクリスマスの祝いは許されていない。クリスマスは異教だと、教えられている。何が何でも、クリスマスを避ける。
  協会は1919年までクリスマスを盛大に祝い、誕生日や母の日も奨励した。それらの祝日は、明らかに神に導かれていると考えられ、受け入れられると説明していた。今では、その同じ神が異教だと断罪し、参加する者は「知恵が足りない」と決めつけている。
  「シオンのものみの塔」1904/11/1 P.364には次のように書かれている。

クリスマスが「主」の本当の誕生日ではないにしても、受胎告知の日であり、人として胎に宿った日である(ルカ1:28)。「主」への敬意の表れである。「主」の誕生の祝いは神の約束ではないから、その日が間違っているなどと異を唱える必要はない。大多数が祝う日(クリスマス)を盛大に祝う世の人と一緒に祝ってもよろしい。

 エホバの証人は1928年以前はクリスマスを祝ったのに、1928年以来、その祝いを止めた。聖書研究生はなぜクリスマスの祝いを止めたのだろうか。バーバーがそれに答えている。

クリスマスについてのラジオ中継の中で一時間ばかり話をさせてもらえないかと頼まれた。「黄金時代」(「目ざめよ!」の前身)1928/12/12に書かれているし、一年後の号にも書かれている。クリスマスは異教に起源があると指摘して、やらないと言った。それ以来、ベテル・ファミリは一度もクリスマスを祝っていない(「年鑑」1970年(英文)、P.147)

 クリスチャンはクリスマスを祝わなければならないのか。まずクリスマスツリーを取り上げて、家の中でのクリスマスの過ごし方を説いてみたい。クリスマスツリーを咎める人はエレミア書に書かれている聖句を引く。

 国々のならわしはむなしいからだ。
それは林から切り出された木。
木工が、なたで造った物にすぎない。
それは金と銀で飾られ、
釘や、槌で動かないように打ちつけられる。(エレミア10:3、4)

 家の中でクリスマスを祝わない根拠は、ハバクク書の中に書かれている。

 彫刻師の刻んだ彫刻や彫像、偽りを教える者が、何の役に立とう。
物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、
それにたよったところで、何の役に立とう。
ああ、水に向かって目をさませと言い、
黙っている石に向かって起きろと言う者よ。
それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。
その中には何の息もない。(ハバクク2:18、19)

 樹木を切り倒した人たちは、崇拝するために切り倒して偶像にし、樹木を礼拝していた。神を崇拝しないで木々を礼拝し、金・銀で飾って木偶(でく)の偶像にしていた。
  クリスマスツリーに頭(こうべ)を垂れるなら、まさしく、愚行と言える。偶像崇拝だと責められても仕方ない。
レビ記によれば、「主」は特定の季節、仮庵の祭と呼ばれる日に「主」を礼拝するようにイスラエル人に命じたことが分かる 。

 このほか、主の安息日、また、あなたがたが主にささげる献上物、あらゆる誓願のささげ物、進んでささげるあらゆるささげ物がある。  特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。  最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。  年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。(レビ記23:38-41)

「主」は、特定の日に木々を用いて「主」を礼拝するため、異なる木々を集め、供え物を運ぶようにと、イスラエル人に命じた点に注意しよう。「主」は木々を礼拝しなさいとは一度も命じなかった。「主」を礼拝する時に飾りとして木々を使うようにと命じた。聖書を読めば、当時はイスラエル人は厳格なレビ記の律法に従っていたことが分かる。「主」の命令に従わない者は懲らしめを受けるし、死に至る宿命にある。
  クリスマスツリーを入れてはならないと主張しているエホバの証人は、聖書的でない。神の権威を有していない。家の中にクリスマスツリーを入れていいかは、個人の判断に依ると分かる。
  イスラエル人はレビ記の律法に縛られていた。しかし、忘れてならないのは、現代人は律法に縛られていないことだ。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:14)

 キリストを信じる者が従うべき聖別の指針は聖書に書かれていない。また、キリストの信者が従うべき律法はない。聖書は、キリストの信者に対し、姦淫するなとか、盗むなとか、殺すなとか教えているが、クリスマスツリーを禁じてはいない。それでもクリスマスツリーに頭を垂れたり、礼拝してもいいかと問われれば常識が優先するはずだ。
 聖書は、人の言い伝えによるむなしいだましごとのとりこにならないようにと、警告している。

あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。(コロサイ2:8)

 パウロはさらに、特定の祝日を祝いたい人がいたら、その人を裁いてはならないと説いている。

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。(コロサイ2:16)

 聖書は、クリスマスの祝いの可否については、許されるほうに軍配を上げている。
 クリスチャンはクリスマスツリーを家に入れていいのだろうか。入れるかどうかは個人の判断次第だ。偶像崇拝と関連する木の使用は悪いに決まっている。イスラエルの仮庵の祭りで飾りとして使れているにすぎない。
 クリスチャンは贈り物を贈ったり、受け取ったり、集まりを催してクリスマスを祝ってもいいのだろうか。福音書には、はっきりと大勢の人たちがイエスの誕生を祝ったと書かれている。

イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)(マタイ1:18-23)

 「主」イエスは聖霊により、処女マリアに受胎した。イエスの名はエマニエルと呼ばれた。「神と共にある」と訳された。神は神の民を罪から救うために来られ、赤子として地上に来られた。


イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:1-2)

 この時、賢人たちはイエスを拝むためにイエスを探していた。賢人たちがイエスを礼拝するために来たという事実から、イエスは神として拝まれたことが分かる。神だけが礼拝を受けるからだ。
イエスは生まれてから昇天するまで礼拝を受けた。今でも礼拝の対象である。協会からイエス礼拝を止めなければならないと教えられるまでエホバの証人はイエスを礼拝していた。
 エホバの証人はクリスマスや誕生日のお祝いは異教であると主張し、誕生日を祝ったと聖書に書かれている二人の人物はエホバの民ではないと言う。誕生日のお祝いに参加する者は異教徒になる。クリスチャンがクリスマスを祝う理由は、キリストの誕生を思い起こし、その思いをほかの人と共有するためである。
 永遠の命を受けるためにイエスを信じるのであり、キリストについて教えるにはイエスの誕生の箇所を読み返すのが何にもまして大事であり、神の民を救うために神が世に来られたわけを思い起こす――それこそがまさしく聖書的である。

彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。(マタイ2:9-11)

 エホバの証人はプレゼントの受け取りを禁止されている。職場の同僚から渡されても突き返すのだ。
「聖書は実際に何を教えていますか」P.160、161では次のように教えている。

あなたへのプレゼントを考えている人がいたらどうでしょうか。答えは状況によってかなり異なります。プレゼントをする側の人は,「あなたがこの祝祭日を祝わないのは知っています。でも,これを受け取ってほしいのです」と言うかもしれません。あなたは,その状況で受け取るのは祝祭日の祝いに加わることにはならないと判断するかもしれません。もちろん,プレゼントをする側があなたの信じている事柄をよく知らないなら,自分はその祝祭日を祝うつもりはないと述べることができます。そう伝えておけば,プレゼントは受け取るがこの日に自分からはプレゼントしない理由も説明しやすくなります。一方、プレゼントをする側に明確な意図があり,あなたは信仰を貫かないとか,物質的な利得のために妥協する,ということを示させようとしているなら,受け取らないほうが賢明でしょう。

 クリスマスや誕生日にプレゼントを贈ってもらえるなら、それは名誉である。しかし、エホバの証人は贈り物を拒む。本当は神からの贈り物を拒んでいるのだ。エホバの証人に与えられる贈り物を受け取らないで捨て去り、永遠の命を与えてくれる贈り物を(それも主イエスを通して)拒否した。なんてサタンは巧妙なんだ。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

 救いは行いによるのではない。行いで救われるのなら、救いはその行いをした人に対する報酬になる。神の栄光による救いと神の子イエスを信じたゆえの救いは、無料の贈り物である。
キリストが誕生したとき、天のみ使いと天の軍勢はことごとく、キリストの誕生を祝した。

すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。(ルカ2:13、14)

前にも書いた通り、パウロは、特定の祝日を祝おうとする人を裁いてはならないとコリントの民に説いた。クリスチャンは自らの確信に従ってクリスマスを祝うならそれは自由である。クリスマスの祝いに反対していない――それが聖書的だ。


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