jw.orgの「聖書は実際に何を教えていますか」解説
第19章 神の愛のうちにとどまる

 エホバの証人は、永遠の命を受けるには、エホバに祈り続け、良い行いを続け、神を信仰し、ものみの塔に入り、組織にとどまり続けてエホバの愛の中にとどまり続けなければならないと言います。しかし、本当の神の子はその信仰や献身の如何にかかわらず、常に神の愛の中にとどまります。

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:35、38、39)。

 エホバの証人の主張に従って、神の愛にとどまるために何かをしなければならないのなら、神によって受け入れられるまで行いを続けることになります。聖書的には、行いや組織によって救われるのではなく、主、イエス・キリストによって救われると説かれています。

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒行伝4:12)
それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。(テトス1:2)

 ほかのカルトと同じく、エホバの証人は、組織の外では救いは得られないと主張します。組織内の信者だけが永遠の命を受けられるという主張を書いた出版物を以下に引用します。

地上の楽園で永遠の命を受けるには、その組織を見分け、その組織の一員として神に仕えなければなりません。(「ものみの塔」1983/5/15 P.12)
エホバの証人だけが、つまり至上の組織者の保護のもとで一つに結ばれた組織となっている、油そそがれた残りの者と「大群衆」の人々だけが、悪魔サタンの支配する、滅びに定められたこの体制の差し迫った終わりを生き残るという聖書的な希望を抱いています。(「ものみの塔」1989/9/1 P.19)

 エホバの証人は、もし組織を離れるなら、死んだ者となり、永遠の命を絶たれることは免れないと教えます。それでも愛と思いやりに満たされた組織だと胸を張って言っているのです。
 エホバの証人は、協会の外には救いはありませんと主張しています。

エホバの組織から漂い出ても、救いと真の喜びを求めて行くべき場所はほかにありません。(「ものみの塔」1993/9/15 P.22)

 聖書は、組織による救いではなく、主、イエス・キリストによる救いを語っています。また、キリストにあるとき、どのように主が人を受け入れるか、不信仰になったら、どのように応じるかを教えています。
 誰が何を言おうとも、救いに至る道は一つしかありません。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6) 

 どんな組織に入っているかによって救いが決まるのではありません。罪人であってもその全員に主、イエスによる救いがありえます。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。

しかし、聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。(ガラテア3:22)

 キリストを信じてしまえば、永遠の命が約束されます。神が破ることができない約束です。キリストを信じた瞬間に与えられる無料の賜物です。
 エホバの証人に限らず、カルトは、神に畏怖の念を表さず、不信仰になれば救いはなくなると主張します。しかし、人は死ぬまで(空中でキリストに出会うときまで)救われると聖書は教えています。

またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。 (エフェソ1:13、14)

 この聖句を順に見ると大事な語句が分かります。
信じて――救いのために誰を信じるか。主、イエス・キリストです。
真理のことばを聞き――真理のみことば(福音)を聞いたら信仰によって救われます。次の聖句に対応しています。

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)

約束された聖霊の証印の捺印。証印を押されなくなることはありません。クリスチャンは証印を剥がされるとか、もう一度証印を捺印する必要があるとかを書いている聖句は一つもありません。ひとたび救いのためにキリストを信じると、王の王は聖霊による証印を付けます。取り消しのできない証印を持つことになります。
 これと似ている聖句はエステル記にもあります。エステルはアシュエロス王にユダヤ人の安全に関する手紙を送る時の手順を語っています。手紙には取り消せないように、王の証印を押します。それは誰も取り消せない印です。この世の王はそのことばを取り消せません。ですから「王の王」もその決定を取り消せません。

あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。(エステル8:8)

 エホバの証人は、重大な罪を犯したり、組織を脱会して排斥されると救いは取り消されると教えています。だから大勢のエホバの証人は組織を出されるのではないかという恐怖におびえているのです。家族が組織の中に残っているからでもあり、組織の外には救いはないと教えているからです。しかし、聖書には、罪によって主を信じなくても、主を悲しませなくても、永遠に救われると明瞭に書かれています。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エフェソ4:30)

 クリスチャンが常習的な罪を通して聖霊を悲しませるときもあります。それだからこそ、聖書の聖霊を悲しませるべきではないと教えているのです。購いの日は死ぬというときです。その日、キリストは聖徒を集めるために空中に戻られます。聖霊はクリスチャンを見放しません。聖霊が離れるとしたら、神の証印を失うでしょう。
 上述のエフェソの聖句は次のテモテへの手紙の聖句と一致しています。

それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(第二テモテ2:19)

 救いはキリスト信仰によってです。しかし、神の家族として生まれ変わるときに不法から離れることはクリスチャンの義務です。良い働きをしないなら救われてはいても聖霊を悲しませています。一度救われると神の証印を押されます。それも、取り消されない証印です。取り消されるとなると、神の約束は取り消されます。使徒パウロは、神の約束をさらに述べています。

神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリントへの手紙第二1:20から22)

 聖書は、救われるとすぐに永遠の命を持つと説いています。永遠の命が確かでなかったなら、永遠の命は賜物ではなく、働きに対する報酬になります。しかし、聖書では永遠の命は神からの賜物であると説いていて、パウロはローマ人に対し、救いは報酬ではないと説いています 。

もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:1から5)

救いは賜物であると述べている聖句はほかにもあります。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)

 ローマ書の中でさらにパウロは、神の賜物は無料の賜物であると説いています。

ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。(ローマ5:15、16、18)
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)

 使徒行伝の中では、ペテロは金銭で神の賜物を買おうとしている魔術師シモンをしかっています。

ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。(使徒行伝8:20)

 神からの賜物は行いや金銭では買えません。愛の神から無料で得られます。

もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。(ローマ11:6)

 エホバの証人のみならず、ほとんどの人は良い行いを続けなければ救われないとか、救いを失うと信じています。しかし上記の聖句の通り、救いは神の賜物です。ここで使徒パウロが神が下された賜物について確約した箇所を見ます。

 神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29)

 神の賜物は変わりません。神は賜物を下さるという考えを変えません。もう一度、「変える」という語句に注目するとそれは心変わりを表してます。神は救いを与えるかどうかは変えないことを表していて、一度その貴重な血によって救われたなら永遠に救われます。誘惑に負けるときまでではありません。
 人が救われたのなら、死から生に移ってます。ヨハネは福音書の中でそれを書いてます。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)

 救われるに足る唯一の資格は、主、イエス・キリストを信じることです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。(ヨハネ6:47)

 キリストの信徒が罪を犯したとしても救われなくなるわけではありません。まだキリストを信じているのです。罪を犯したとか、不信仰になったとして救われなくなるなんてありません。
 永遠の命を受けられなくなる罪は一つだけです。主、イエス・キリストを否定する罪です。

信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、(ヘブル4:3、6)

 福音書の中で、主、イエスはイエスに来る者を拒んだり、追い出したりは決してしませんと述べ、慰めのことばをかけています。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
(ヨハネ6:37)

 救いは神のみわざであり、人間のわざではありません。聖書は神のみわざは永遠だと宣告しています。

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない(伝道の書3:14)

 救いが自分のわざであったなら、それは保証されない救いです。しかし、聖書はキリストにあって何重にも保証されていると書いています。ともあれ、主、イエスは、安全であり、追放しないと約束され、最後の日に信徒を甦らせ、一人として奪い去られないと、保証しています。

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:40)
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10:28)

 「父」は一人として奪い去られないと保証しています。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネ10:29)

 ペテロへの手紙の中では、神の力によって守られていて、受け継ぐ資格は失われずに天に蓄えられると書かれています。

また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。(ペテロ第一1:4、5)

 ヨハネの手紙第一には確信させてくれることばがあります。

私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(ヨハネの手紙第一5:13)

 救いがなくなるとしたら、永遠の命は考えられません。
 エホバの証人は罪を犯し続ける者は救われないし、再び救われるためには組織に入った時と同じ手順を再度経験しなければならないと主張します。しかし、聖句と比較し、当時の信徒の生き方をよく読むと、救われなくなることは明らかにありません。特にキリストの信徒が罪を犯すときにどうなるのでしょうか。そのときにも主、イエスの内に守られていることが分かります。

もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。  もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(ヨハネの手紙第一1:6から10)

 上の聖句では、ヨハネは神との交わりについて書いています。神と交わりがあるか、交わりを求めている神の子すべてにとって重要です。神の交わりがあっても、罪から離れていないことはありえません。もしそうであるなら聖書的にいって嘘です。神の光の中で歩んでいるか、自分の暗やみの中を歩いているかのどちらかです。もしクリスチャンが暗やみの中を歩むなら死んでしまい、地獄は免れないという意味ではありません。神に喜ばれない道を歩んでいて自分なりの生き方を選んでいるという意味です。主の光の中を歩み、暗やみから離れることを確かなものにする――それは神の子にとって大事なことです。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。(ヨハネの手紙第一2:28)

 キリストのうちにとどま.ることは恵みであり、神の誉れであり、キリストの裁きの座の前でキリストの前に立つ時、報いとなります。神の愛の内にとどまるクリスチャンは、主の前に立つと確信できますし、恥じ入ることはありません。
 暗やみの中にとどまると不正直となり、恥じ入り、最終的には主からの懲らしめがなくなります。それは主のために生きなければならない理由です。上の聖句はキリストの再臨のときに恥じ入るクリスチャンの存在を教えています。信じて救われたのに光ではなく暗やみの中にとどまっているからです。優れたキャリアや健康、繁栄を求めているクリスチャンは多くいます。一方、主を優先しないで自分探しをするクリスチャンもいます。そうなるとキリストに冷淡になるでしょう。聖書を読んだり、祈りをしなくなります。主との関係が希薄になり、堕落します。
  ヨハネの福音書には、主の再臨のとき、二種の信徒が見られると書かれています。

そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(ヨハネ21:7)

 ペテロは、処刑の前の晩に三度、キリストを否認したほどに世に迎合しました。あのとき誓ってもいました。ペテロは故郷に帰り、昔の仕事に復帰しました。そこは主が、魚ではなく、人をすなどるように語ったところでした。主は弟子に会うためにかつての地に戻られました。ヨハネが主と会った時、叫び声を上げ、主の来臨を賛美しました。そのときペテロは裸だったことに気づき、恥じ入りました。
 クリスチャンは二種類に分けられます。空中で主と会い、来臨を賛美する人たちとヨハネの第一の手紙にあるように、来臨のときに恥じ入る人たちです。
 黙示録の中で主、イエスは、主を待ち望み、主への奉仕を続けて、衣類を身につけ、報いを受けられ、裸に恥じ入ることがないようにと説いています。

わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(黙示録3:18)
――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。(黙示録16:15)

 主の来臨のとき、裸になっていて恥じ入るクリスチャンもいるでしょう。そのとき、主の足元にひざまづこうとしても王冠を持たないクリスチャンもいるでしょう。信じるだけで救われるクリスチャンがいても(その救いは取り消されません)、地上にいる間は実りの無いクリスチャン生活を送るでしょう。
 パウロが書いたテモテへの手紙第二にはクリスチャンの来臨を大切に思っている人には王冠があると説かれてます。その人たちは再臨を熱心に待ち望んていて見張りを怠りません。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(テモテへの手紙第二4:8)

 主、イエスを信じる信徒がことごとく冠を受けるわけではないと説いていますが、これは注目に値します。イエスの再臨を見張っているようにとの主の命令を守っていないクリスチャンが多いからです。
 さらにパウロは救いを受けるためにではなく、清められるにはどう生きるべきかを説いています。

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、(テサロニケ第一4:3)

 聖書全体では明らかに主イエスの信者が淫行をしていました。コリントの教会でもそれがうかがえます。パウロがそれを指摘したとき、キリストにあってどのようにキリストにあって生きるかを、そして清められて主にあって成長できるように指示します。上の聖句の中でパウロは救いを説いてません。清めを説いています。主にある信徒は罪を避けなければなりません。神のみこころは、救われることではなく、清められることです。
 コリントの教会員は得意になっていました。このような淫行の罪に関与していたのにそれを嘆かず、うぬぼれていました。パウロは、救われていることに疑いを持ちません。肉の滅びのためにこれらのクリスチャンをサタンに引き渡します。

このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(コリント第一5:5)

 注目すべきことに、パウロは、サタンに引き渡された人たちもキリストにあっていまだに救われていると教えています。処刑される前に主、イエスはペテロに対し、サタンがふるいにかけたと説いています。しかし、主はペテロの信仰が失われないように祈り続けると気づかせました。

シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。(ルカ22:31)

 クリスチャンがふるいのためサタンに引き渡されると、肉のために滅ぼされるのでしょうか。それはその信者を磨くためであり、その人を神に奉仕に用いられるようにします。クリスチャンがふるいにかけられるとき、それは好ましくはありません。しかしクリスチャンが試みに遭うと、よりすぐれたクリスチャンになるよう、純金のように精錬されます。
 テモテへの手紙の中でパウロは、二人のクリスチャンが冒涜をしていたので、将来、その二人が二度と冒涜をしないよう、戒めなければならないと説きました。パウロはその人たちの救いは間違いないと述べて、私たちの罪のために死なれた主を冒涜しないように対応をしました。主とともにさらにより良く生きるためでした。

その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。(テモテの手紙第一1:20)

 現代では地上においてそのような対応をする使徒は一人も生きていません。神は正しい神の道を神の子に教えるやり方を今でも実行しています。旧約ではイスラエルは神を捨てましたが、今でも神の民です。神は今でも民を世話します。神が神の道に立ち返らせ、再び交わりを回復させる一つの方法は、敵に引き渡した上で、神に立ち返らせ、回復させる方法です。今の信者には熱気あふれる敵や肉と戦いはありません。しかし、神は今でも神の子が再び神と交わり、回復するために敵に引き渡すことができます。神の子に対する憎しみを前提にするのではなく、個々人の内面を考え、神との交わりを求める、愛のある方法です。
 パウロは、コリントの教会に宛てて、キリストの裁きの座において個々人の働き(奉仕)が裁かれると説いています。その日に与えられる報酬を語るとき、パウロはその報酬が火に焼かれ、試みられるクリスチャンがいると語っています。そのようなクリスチャンは主のための奉仕の内に生きてはいなかったのでしょう。おそらくは特定の罪のある生き方をやめなかったのでしょう。マタイの福音書六章にあるように、主が信者に命じたような、永遠の果実を収穫できなかったし、天に宝を積み上げられなかったのです。しかし、パウロはその彼らさえ守られていると説いています。

各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(コリント第一3:13から15)

 この聖句では一人の人が言われています。その人の魂は、主、イエスの高価な血潮によって守られています。しかし、世的な私利私欲でその寿命をすり減らし、実りの無い生き方をしています。
 イエス・キリストの裁きの座において、罪が再び取り上げられることはありません。キリストの血によって済んでいます。しかし、キリストに奉仕をしたかどうかが試みられます。主にある信徒は、喜びのうちにキリストの前で傷のない状態で立つと、ユダの手紙に書かれています。

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、(ユダ24)

 実りの無いクリスチャン生活を送っているなら、神は愛する「父」として懲らしめます。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル12:6)

 主の懲らしめは常に、再び交わりに立ち返らせ、清らかさを取り戻すという神の目的に由来します。聖書のどこにも、実りを結ばない生き方をしている信徒の救いを取り消すとは書かれていません。生涯にわたり、実を結ぶように凝らしめをすると書かれています。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。(ヘブル12:10)

 ヨハネの福音書では主、イエスは、実を結ばない行いをしている者について語られています。

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。  あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。(ヨハネ15:1から3)

 主、イエスは、イエスにある者が実を結ぶことを熱望されています。主は神の子を懲らしめるのではなく、むしろ祝福されるのです。イエスにある者が霊的に成長することを熱望されます。成長するための実を結ばない生き方をしても、さほど深刻に考えません。実が大きくなるとさらに実を結ぶように清められます。主は決して追放しません。しかし、ものみの塔の言い分はこれとは違ってます。
 ものみの塔をやめると脱会者は見向きもされません。元信者は切り捨てられた者とか、存在しない者と呼ばれます。(「ものみの塔」1981/11/15 P.20 ではシナゴーグから追い出された者に加える処置の箇所を引用し脱会者に対する忌避行為を示しました)

   それゆえに、その人は死者も同然だった。他の人と学ぶことも許されず、「親睦のための」交流も持てず、その人には道を教えることさえなかった。実際、生活に必要な物を買うことはできたようだが、そうした人と飲食をともにすることは禁じられていた。

 しかし、神は、愛する神として神との交わりを回復させます。
 信徒の救いはなくなりません。しかし、エホバの証人は救われるかどうかを確信できないまま、恐怖を感じながら生きています。しかし、聖書は、神が安心させるから恐れてはならないと説いています。

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(テモテへの手紙第二1:7)


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