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会報「JWの夫たち」バックナンバー


リレー連載・素人が聖書を読む/4

「永遠の命」をめぐって

アントニオ須田

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「また殉教の精神にもし価値があるなら、殉教対象がキリスト教であろうとユダ ヤ教であろうと神道であろうと、その心情価値に変りはない。そしてそれにもし 価値がないのなら、その対象が、未来のためであろうと、社会のためであろうと 、愛のためであろうと等しく無価値であるはずだ。」 高橋和巳「散華」より
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 およそ人間にとって、死を忌避することほど根源的な願望はない。食と性の二 大欲求も、前者は個体の、後者は種の生存を維持するための欲求に他ならない。
 いっぽう、通常私たちがこの世で見聞きしまた経験するのは、せいぜい数十年 、長くても100年ちょっとの個体の生であって、誰にとっても常に死は免れがた いものとして存在している。そのような現実のなかにある人間にとって、もし自 分の命が絶えることなくとこしえに続くというのが本当であるならば、それが渇 望の対象になるのは無理からぬことであろう。
 さて、ここに「永遠の命」というものがあって、ある宗教の人はある種の精神 的手続きを踏めばそれが得られるといい、また別の人はある組織に属してその教 えに従った精神的物理的行いをすれば、それが得られるであろうという。もし、 そのようなことが実際にあるならば、まさにそれは少なからぬ人にとって「福音 」であろうし、教理を普及しようとする側からいえば、信者獲得の絶対の切り札 になるであろう。従って、どちらからみてもその内実を明らかにすることは重大 な関心事といえる。
 よく知られているように、聖書には「永遠の命」という言葉が度々登場する。 このことが何を意味するのか、それに至るにはどうしたらよいのか、ということ を理解するのは容易なことではないが、このコンセプトの理解が「ものみの塔」 (以下、塔)教理理解の中心キーのひとつでもある以上、私たちの立場からは避 けて通ることはできない。以下、表題に背中を押されて、素人なりの考察を試み よう。

塔出版物にみる「永遠の命」
 まずは、私たちが関心を持たざるを得ない塔の教理のなかで、「永遠の命」コ ンセプトがどのような位置を占めているかをみてみよう。塔が信者獲得活動にあ たって用いる主要な教科書のタイトルをみると、彼らの教理において、このコン セプトが非常に重視されていることがわかる。
 現在使われているテキスト「知識」の正式タイトルは「永遠の命に導く知識」 、95年秋のあの歴史的修正、すなわち「1914年を見た世代」予言撤回時まで使わ れていた「楽園」のそれは、「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」であ った。この新旧両エースのタイトルのどちらにも「永遠の命」コンセプトが用い られていることは、塔の教理にとってこの概念がきわめて重要であり、かつまた 信者獲得の現場においても一定の有効性をもっていることを示している。
 実際に「知識」を開くと、最初の見開きから「永遠の命」という見出しの段落 があり、ここで「彼らが、唯一まことの神であるあなたと、あなたがお遣わしに なったイエス・キリストについての知識を取り入れること、これが永遠の命を意 味しています」(P7)と、有名なヨハネ17:3を引用して、「神についての知 識はわたしたちに胸の躍るような良いたよりを知らせてくれるのです」(P7) と、今後の学習によって<神についての知識を取り入れる>ことが<永遠の命> につながることを説いている。 
 本来ここで重要なことは、ではそも「永遠の命」なるものは一体なんであるか という、目標の概念規定であるはずだが、そのことは実はあまり明確には書かれ ていない。むしろ、「永遠の命」という言葉を聞いてごく普通の読者が思い浮か べるだろう「死なないでずーっと生きる」という単純なイメージを利用しながら 、断定的でない言い方で受け手側に「永遠の命」イメージを形成する手法がとら れている。すなわち「創造者はわたしたちが幸福な生活を送って命を永遠に享受 することを望んでおられると結論するほうが道理にかなっているのではないでし ょうか」(P8)というわけである(やや余談だが、このように、読者が思うで あろうイメージを利用してそのうえに意図あるメッセージをのせるという手法は 、塔のテキスト執筆陣一流の高等戦術であって、その練達は恐るべきものである )。
 さて、このような仕方で導入される「永遠の命」イメージだが、テキストの進 行に従って、その詳細説明と聖句を断片的に引用しての理論付けがすすめられて いく。「知識」全体を通して述べられていることを結論的に言えば、
・「永遠の命」とは「地上の楽園」でまさに永遠に生きることである。
・その「楽園」とは、創世記でいわれるアダムとエバが住んでいたところであっ て、近い将来におきるハルマゲドンで神が勝利した後、この地上に現れる。
・ハルマゲドン後、キリストの千年統治の間、死や病気や老いはなくなり、死者 の復活が起きる。
・千年統治の終りに最後の審判があって、悪行者とサタンは死刑に処せられるが 、それ以外の人々はそれ以降、楽園で永遠の生を享受することができる。 と、概ねこのようなことになる。
 これを要すれば、塔教理における「永遠の命」とは<将来生じる地上の楽園で の、物理的に終りのない生存>ということになろう。

聖書のなかの「永遠の命」
 一方、聖書のなかでは「永遠の命」なるものはどのようなものとして説かれて いるのだろうか。「聖書大辞典」(いのちのことば社)によれば、この表現は「 旧約聖書では、特に後期の文書(ダニエル12:2)以外には明確な形では出てこ ない」が「新約聖書には43回使用されて」おり、イエスの時代になって初めて明 確に現れてきたコンセプトであることがわかる。
 実際どんな意味合いでこの言葉が用いられているのかをみるために、とりあえ ず4つの福音書を「永遠の命」というキーワードに注目して通読してみると、そ の出現回数は(私の算術に誤りがなければ)以下のようであることがわかる。
マタイ--2個所
マルコ--2個所
ルカ---3個所
ヨハネ--17個所
一見して、ヨハネにおける出現回数が突出して多いのが瞭然である。マタイとマ ルコの2個所というのは、まったく同じ文脈でのものであり、その意味でも「永 遠の命」コンセプト理解におけるヨハネの重要性が際立ってくる。 では、理解のてがかりになりそうな聖句をヨハネのなかからいくつか拾ってみよ う。 
(1)「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を 信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)
(2)「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわ されたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から 命に移っているのである」(5:24)
(3)「わたしの父のみこころは、子をみて信じる者が、ことごとく永遠の命を得る ことなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろ う」(6:40)
(4)「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」(6:47)
(5)「あなたは、子に賜ったすべての者に、永遠の命を授けさせるため、万民を支 配する権威を子にお与えになったのですから。永遠の命とは、唯一の、まことの 神でいますあなたと、またあなたがつかわされたイエス・キリストを知ることで あります」(17:2-3)
上の5つのコメントのうち、(1)は福音書筆者によるもの、残り4つがイエス自身に よるものである。
 これらの聖句を素直に読んでいくならば少なくともヨハネの世界では、「永遠の 命」とは、どうやら「死なないでずーっと生きる」というような単純なものでは なく、イエスキリストへの信仰とほぼ等価のもの、イエスにとってもまた被造物 たる人間にとっても等しく目的であるようなものであるらしいことが、おぼろげ ながらわかってくる。また福音書以外の文書に目を向けると、たとえば「しかし 今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。 その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は 、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」(ローマ6: 23−24)とあって、信仰の賜物としての「永遠の命」が説かれているのであ る。
 試みに、前出の「聖書大辞典」をひいてみると、「永遠の命」とは「霊魂の不滅 とか、地上の生命の延長のようなものではなく、全く新しいいのち」で、「主イ エス・キリストによってよみがえらされ、与えられたいのち」であって、そして それは「主イエス・キリストを信じることによって神との交わりに入り、体得す るものなのである」と解説されている。これを要すれば、伝統的キリスト教の立 場からすると、「永遠の命」とは物理的な永遠の生存を言うのでなく、イエス・ キリストへの回心に基づく、ある種の鮮明な信仰体験のことを言っている、と理 解できる。

信仰の極みとしての「永遠の命」
 塔の教理と比較するならば、「永遠の命」は「ハルマゲドン後の『楽園』におい て初めて得られる」とする塔に対し、それは「主イエス・キリストへの信仰によ って、現在すでに得られるもの」とする福音主義キリスト教という、整理ができ るだろう。
 そして、ヨハネやローマの聖句を素直に読み進むならば、イエス・キリストへの 信仰と等価なものとしての「永遠の命」という後者の理解のほうに、妥当性がある のははっきりしていると言えるだろう。ただ、これにも例によってやっかいな問 題がたぶんあって、それはたとえばルカ18:29-30である。ここには「イエスは いわれた、『よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、 両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、またきたるべき世 では永遠の生命を受けるのである』」とあって、「永遠の生命」(新改訳では「 永遠のいのち」、新世界訳では「永遠の命」)が、将来のものであることが言及 されているのである。しかしまた、いっぽうでは同じルカの23:43において は「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであ ろう」とイエスは述べていて、パラダイスなるものが、いま得られるものである ということも言われているのだが。
 いずれにしても「永遠の命」なるものが、キリスト教信仰の究極の目標であるこ とはどうやら間違いなく、それは全体を俯瞰してみるならば「神による天地万物 なかんづく人間の創造」→「神の命に背いて知恵の木の実を食べた原罪」→「イ エス・キリストの十字架死による贖罪」→「イエス・キリストの復活」→「イエ ス・キリストへの信仰による永遠の命」という5つの根本要素のなかの最後に位 置づけられるものといえる。逆に言えば、「永遠の命」コンセプトを理解するた めにはこの「創造」「原罪」「贖罪」「復活」「永遠の命」という5つのキーワー ドで、キリスト教教理の全体フレームを理解することが必要であるのだろう。

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 聖書が多義的な書物である限り、その解釈には常に多様であり得る。どのように 解釈するかは、まったく個人の自由であり、どの解釈が正しいのかということを 議論したいのであればまっとうな学問的手続のなかで論ずればよい。しかし、こ れだけは言っておきたいが、その伝道活動のなかでごまかしを使うのだけは許さ れない。
 塔の伝道者の常套句に「ごいっしょに家庭で聖書研究をしませんか」というのが あるが、これはそのごまかしの典型である。いったいこれまで何千人何万人の人 が、無知と軽率さのためにこのごまかしの罠に落ち、後になって後悔のほぞを噛 んだだろうか。海老名は「私たちはうそは言っていない」と強弁するかもしれな いが、仮にうそではないとしても「消防署のほうからきました」と言って消火器 を法外な値段で売りつける販売業者には似ているだろう。
 勧誘者たちはこう言うべきなのだ、「私はエホバの証人ですが、ごいっしょ に私たちの組織が出版しているテキストの勉強をしませんか。私たちの独自の翻訳に よる聖書を辞書のように使いながら」と。自身の教理に自信があるのならそう言 ってなんの不都合もないはずであり、「誠実なクリスチャン」としての塔伝道者の 方々には、人間としての最低の礼儀を踏まえた布教活動をやっていただきたいも のである。◆
聖書からの引用は「日本聖書協会訳」、塔出版物のものは「新世界訳」。例外 については、特記している。

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