戦争を記憶する旅_オランダ編


やっと更新できました。
オランダはもうすぐ春。
暖かくなってきたらもっと積極的に出掛けてみようと思います。(2001年3月9日

更新個所:
URLが判明したところはリンクしました。
長らく[書き込み予定]としてサボっていたレジスタンス博物館(改修後)に行って来ました。
ヴェスターボルク収容所記念センター(Camp Westerbork Museum)への行き方の鉄道運賃の改定版。

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アムステルダムとアムステルヴェーンにあるモニュメント(慰霊碑)を訪問しました。(2001年3月20日
Indie Monument の詩に訳を加えました。(2001年3月22日)


Nationaal Monument Dachau (Het Amsterdamse Bos)

アムステルダム中央駅よりバス 170, 171, 173番 で Van Nijenrodeweg 下車
アムステルダム森林公園の入り口近く、ボート競技場の向かい側

ドイツのダッハウ強制収容所で犠牲になった人々の慰霊碑。
1996年12月1日、ユリアナ前女王の夫、ベルンハルト公により序幕された。

(2001/03/20)



Indie Monument (Broersepark, Molenweg, Amstelveen)


De Jonge Dikkert(日本人社会の通称:風車のレストラン) からMolenwegを少し入ったところに公園の入り口がある。
レストランの駐車場からも公園への入り口がある。 バス194番でMolenweg下車。

(表壁面)
in spiegel
het verleden
de toekomst
weerspiegeling
wij waren er
wij zijn hier
heden
tezamen
bijeen



(側壁面)
8 december 1941..
ned-oost-indie in oorlog
  strijd
  bezetting
  bevrijding...?
 allen die ginds het leven lieten
gedenken wij.


鏡の中に
映った
過去
未来
私たちはそこにいた
今日ともに集い
私たちはここにいる






1941年12月8日
戦時下の蘭領東インド
 戦争
 占領
 解放...?
 かの地で起きたこれらのことを 
人生の記憶に残しておこう

閑静な住宅街に囲まれるようにして公園がある。その中央にインドネシアモニュメントがあるのだ。
ここアムステルヴェ−ンは日本人駐在員家族がたくさん住んでいる。
しかし、インドネシアで日本軍により全財産を失い、命からがら逃げてきた人、日本へ連行され炭鉱で強制労働に従事させられた人、ビルマの鉄道建設に従事させられた人、家族が死んだ人、いろんな悲劇の歴史を背負ったオランダ人もアムステルヴェ−ンやその周りの地域に住んでいる。

5月4日が近づくと日本人の居心地が悪くなる雰囲気になってくる。なにしろテレビで戦時中のフィルムを連日流されるのだから。
歴史教育は政治に利用されやすいが、付け入る隙を与えないためには事実をちゃんと教えるべきなのだが。  
(2001/03/20)



Museum Bronbeek (ブロンベーク博物館)

Velperweg 147, 6824 MB Arnhem tel. 026-3840840, fax.026-3840890
e-mail: ktomm.bronbeek@army.disp.mindef.nl
開館時間:火〜日10-17、休館日:月曜日、1月1日、12月25日

ドイツとの国境に近いArnhemのVelp地区に古い館が建っています。
オランダがイン ドネシアを植民地としていた頃の歴史と、当時の日本軍の軍服がこの古い館内に展 示されています。
建物の一部は退役軍人の住居ともなっています。最近改修工事が 完了し、日本軍人が捕虜の首切り処刑をしているモデルが作られたとオランダの新 聞報道であったそうです。一度確かめに行って来る予定です。

広い庭園にはいくつかのモニュメントがあります。
そのうちのひとつは、「1941-45蘭 印における、日本軍による女性強制収容所のオランダ人犠牲者を記念して」という追 悼碑で、"ONVERSAAGD EN ONGEBROKEN"(おそれず、くじけず)という表題が付 いています。ユリアナ前女王が1971年12月15日に序幕しています。

もう一つは、強制収容所に入れられていた少年を追悼するもので、生き残った人た ちが、人生の晩年に自分達の過去に起こったことを記憶しようと作ったものです。ク ワを担いだ、裸のやせこけた少年の像です。足元には、小さな銅板に、"Zij waren nog zo' jong"(僕らはこんなに若かった)と彫られています。

これらのことについては、 [週刊金曜日 96/8/9 第134号 p60-p63]の=『朝日』と『文春』のための 世界現代史講座 7<「忘れてはならない」とは、どういうことなのか>= に梶村太一郎さんが詳しく書いておられます。
またオランダ在住の天文学者、難波収さんが、在蘭日本商工会議所会報 「かわら版 No.112」で『日蘭の間に戦争があった』という論文で、オランダ人の反日感情の歴史的背景を第二次大戦時の蘭印の状況から説明 されています。(A4・8枚)

=*この2点のコピーをご希望のかたはreiziger@jca.apc.org までご連絡ください。=

(訪問時期:1997年8月12日)

気になっていた日本軍の首切り展示は人形ではなく写真でした。しかも錆びた日本刀を添えて。何の説明もなく、憎悪剥き出しの展示かな、という感想。

最後の第6室に「BUURMAN JAPAN 隣の人 日本」というテーマで展示があったが、楽焼数個、日本刀数本、浮世絵2枚といったやる気全然なしの特別展。日蘭友好400周年記念行事の一環としてアリバイだけは作っておいたぞ、という意思表示なのかも。(特別展開催期間は 5/13-10/29,2000)

この博物館には現在、退役軍人やインドネシアからの引揚者が実際住んでいるんだから、現在の日本政府の対応や日本人の認識では彼らに友好なんて考えられない。

(訪問時期:2000年8月22日)



Bevrijdingsmuseum 1944 Rijk Van Nijmege
Museum of the 1944 Liberation in Groesbeek(1944年解放博物館

アムステルダムから115km南
Wijlerbaan 4, 6561 KR Groesbeek tel. 024-3974404

映画「遠すぎた橋」で有名になりましたが、1944年、連合軍が総攻撃をかけ、激戦地 となった、アーネム、ナイメーヘン地域。
激戦の模様を周辺の地形の大きな模型で解 説しています。

戦災で犠牲となった市民の名簿、連合軍各軍や義勇軍の戦死者の名 簿と、墓地の空中写真などが公開されています。
そして名簿に載っていない死亡した 人(行方不明者)を、今も探しています。

民間人の戦災犠牲者、 兵士の戦死者を一 人一人、名前、出身地、生年月日まで特定してファイルし、公開する、この発想に、
個人を尊重する人権意識の根源を見た思いがしました。 (訪問時期:1996年8月28日)



Nationaal Oorlogs-en Verzetsmuseum Overloon
(National War and Resistance Museum at Overloon )
(オベルローン・戦争と抵抗博物館)

1944年解放博物館から南45km
Museumpark 1, 5825 AM Overloon tel. 0478-641820
http://www.oorlogsmuseum-overloon.nl

野外には戦車や戦闘機の陳列、屋内にはレジスタンスの記録や陳列品。
あいにく連 日雨でブルブル震えながらの参観だったので暖かい気候であればもっとゆっくり見る ことができたかな、と思いました。
(訪問時期:1996年8月29日)



Herinneringscentrum Kamp Westerbork (Hooghalen)
ヴェスターボルク強制収容所記念センター(Camp Westerbork Museum)

―アムステルダムから約190km北東
Oosthalen 8, 9414 TG Hooghalen
tel. 0593-59 26 00 fax. 0593-59 25 46
hckampw@bart.nl
http://www.kampwesterbork.nl

行き方: *鉄道の場合 : AmsterdamCSからAmersfoort乗換Assen下車、電車で2時間弱。
(189km、片道21.10ユーロ、往復33.10ユーロ) Schiphol Airportから直行あり。(199km、上記と同額)
乗車券を買う時 'treintaxi'のチケットも一緒に購入しておく。ひとり片道3,50ユーロ(現地で運転手から買うと4.50ユーロ)。
Assen駅から'trein-taxi'に乗ってCamp Westerbork Museumまで行く。
オランダ名はVoormalig Kamp Westerborkです。(料金は2002年1月現在)

*車の場合: アムステルダム方面から、A10(環状線)、A1経由、A28号線を Assen方面へ走る。
Hooghalenで出て、'Voormalig Kamp Westerbork' の標識に従って行く。

開館時期、時間:
Feb.24 to Nov.1
Monday to Friday:10:00am-5:00pm
Saturday and Sunday:1:00pm -5:00
Holidays:11:00am-5:00pm

July and August
Monday to Friday:10:00am-5:00
Saturday and Sunday:11:00am-5:00pm

グループ(15名以上)は予約の上、年中見学できる。

アンネ フランクとその家族、及び一緒に隠れていた他の家族らが最終的 に命を落とすことになる絶滅収容所へ送られる前に、一時収容されていた 強制収容所が、戦時中、アムステルダムから北東190km行ったところ にありました。 アンネがベルゲンベルゼンへ送られる前まで収容されていたところ、といえ ばわかりやすいでしょうか。

オランダ各地のユダヤ人が絶滅収容所へ貨車で送られる前に一時的に収容されたキャンプです。跡地の片隅に鉄道線路の一部が慰霊碑として残 されています。

94年夏、アウシュビッツを見学したさい、「他の強制収容所の展示」でこの慰霊碑の実物大写真を見て、初めてドイツやポーランドだけでなく、自分が今住んでいるオランダ にもそういう悲劇の跡があった、ということを知りました。

【1942年から1945年の間に10万人のオランダ系ユダヤ人とユダヤ人難民が、オランダからドイツ占領軍によって拘禁・移送されました。 ナチにこの目的のために使われたCamp Westerborkは、実は1939年にオランダ政府によって、ドイツから逃れてきたユダヤ人難民のために開設 されたのでした。しかし1942年、Camp Westerborkはオランダ系 ユダヤ人と、その他ドイツが抹殺したい人を臨時にとどめ置く中継キャ ンプとして指定されました。 キャンプ生活は望みと、なによりも恐れが支配していました。 毎火曜日、列車は出て行き、貨物車は一定数の犠牲者で満杯でした。 93回輸送が実施され、わずか数千人が戻ってきただけでした。】(以上、英文パンフレットの一部より要訳)

当時の建物は何も残っていませんが、土台や跡が保存されています。広大な収容所跡地に立つともう言葉なんか要りません。ただただ事実を突き付けられて、沈黙あるのみ。収容所跡地には102000個の石がオランダの国土をかたどった中におかれてあります。これらは決して戻ることのなかった犠牲者の数なのです。おび ただしい数のオランダ系ユダヤ人がナチスの狂気の犠牲になったのです。

ミュージアムには収容所内の生活ぶりが描かれたスケッチ画や資料の展示があります。また私たち日本人は、アンネフランクに関心が傾き勝ちですが、ここではアンネ はたくさんの犠牲になったユダヤ人の一人であり、ほかにもっともっとたくさんのユダ ヤ人の人生があったのだ、という重い当然のことを知らされます。

Museumと収容所跡地の間は歩きますが、ミニバスが用意されています。(有料) 今は国立公園になっているこの収容所跡地は、車乗り入れ禁止です。 博物館の駐車場に車を停めて移動します。
(訪問時期:1996年8月31日)



アンネフランクの隠れ家を見学しただけではわからない、
もう一つの戦争を記憶する旅
Hollandsche Schouwburg (オランダ劇場モニュメント)
http://www.jhm.nl/e_museum/frame_museum.htm

Plantage Middenlaan 24, Amsterdam
TEL. 020-626-9945
tram 7,9,14,20, metro 51
入場無料

Persecution of the Jews of Amsterdam 1940-1945

at home, in gathering isolation
waiting at night in fear
rounded up by soldiers
caught in a trap.

Hollandsche Schouwburg
grim assembly point
a stop for a day

the tram,
the train
to Westerbork
to the deadly
east


前述Westerborkへ移送される前に、ユダヤ人を一時集めておく集合場所が、オランダ各地にありました。
ナチスに捕まったオランダのユダヤ人は、Westerbork に一時 収容された後アウシュビッツへ送られたのですが、
Westerbork に送られる前に集められたひとつが、この Hollandsche Shouwburg なのです。

1942年6月から43年7月までの間に6〜8万人ものユダヤ人がこのアムステルダムの Hollandsche Schouwburg を
経由して収容 所へ送られました。現在は エントランスホールのみしか残っていませんが、
当時のアムステルダムのユダヤ人の状況を展示物で物語っています。

このモニュメントにはオランダから運ばれ、殺された104000人ものユダヤ人のうちの6700人の名前が
エントランスホールの壁面に公開されています。そのモニュメントはガラスで仕切られていて、
ガラス越しにホールから眺めることは出来ますが、ガイド付きで中に入ることも出来ます。
ガイドが説明をしてくれます。今日 なお、花を持って、ここを 訪れる人が絶えません。

建物の1階(階上)には写真、書類、ビデオでナチ占領下におけるユダヤ人の活動が、
またそのあと続いて起きたHollandsche Schouwburg と Westerbork を経由しての
捕虜収容所への移送の様子が説明されています。
その他、ナチから身を隠した生活状態、レジスタンス運動のさまざまな方法などもテーマにしています。

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1892年から1941年10月までHollandsche Schouwburgはアムステルダムの
プランターヘ(Plantage)周辺地域でのもっとも重要な劇場の一つでした。
この劇場は他のどこよりもオランダらしい出し物を上演していました。
ナチがユダヤ人を迫害していた頃、この劇場は、1941年10月にユダヤ劇場と改称されました。
その時点からユダヤ人音楽家と役者だけがユダヤ人観客に演奏する、という閉鎖的な許可があたえられました。

1942年夏、占領軍はおよそ750席のこの劇場を集合地点として接収しました。
ユダヤ人達は、通過キャンプWesterborkへ移送されるまで、ここで待たされたのです。
そして6万から8万人の人々が ここHollandsche Schouwburgから捕虜収容所、絶滅収容所へ送られたのです。
(ホームページより要約)

(訪問時期:1998年10月29日)



アンネの隠れ家 Anne Frank Huis

Prinsengracht 263, Amsterdam
TEL. 020-556-7100
http://www.annefrank.nl
開館時間:毎日午前9:00〜午後5:00
4/1- 9/1 午前9:00〜 午後9:00
12/25 - 1/1 正午〜 午後5:00
休館日:あがないの日(1999/9/30, 2000/9/20)
行き方:tram 13,14,17,20: bus 21,170,171,172 でWestermarkt 下車、
運河沿いに西教会の奥。 ミュージアムボート

あまりにも有名で観光案内書に載っていないことはありません。詳細は各種ガイドブックにも書かれていますので、省略します。 ここでは、アンネフランク財団の活動をお知らせします。 財団にはボランティアはいません。責任ある仕事は素人のボランティア には任せない、というのがオランダの考え方です。必ず何がしかの給与 を払って雇用する形態をとります。財源はミュージアムの入場料、寄付、 プロジェクトの収入が中心です。財団には80人の専任職員がいます。 ミュージアム部門、教育部門、異文化経営コース、国際展示活動が その活動内容です。 またネオナチズムからの「日記は偽物」攻撃にも裁判などで粘り強い戦いを続けています。



ユダヤ歴史博物館
Joods Historisch Museum (Jewish Historical Museum)

Jonas Daniel Meijerplein 2-4, Postbus 1673, 1001 RE Aamsterdam
TEL.020-626-9945; info.020-625-42-29; fax.020-624-1721
e-mail: info@jhm.nl
http://www.jhm.nl
開館:毎日11時〜17時、休館:ヨムキッパー(1999/9/20)
トラム、メトロ で、Waterlooplein ワーテルロー広場下車
(書き込み予定)


New!!

レジスタンス博物館
Het Verzetsmuseum Amsterdam 
(The Dutch Resistance Museum)

Plantage Kerklaan 61, 1018CX Amsterdam
tel.020-620-2535, fax.020-620-2960
e-mail: info@verzetsmuseum.org
http://www.verzetsmuseum.org
開館時間:火〜金10:00〜17:00、土・日・月・祝12:00〜17:00

1985年にアムステルダム南部にオープンしたが、10年後手狭になり、現地に移転したものの、しばらく改修工事中だったが、1999年4月28日にやっとリニューアルオープンした。序幕はユリアナ前女王の夫、ベルンハルト公(この博物館の後援者)。

アムステルダムがレジスタンス運動の拠点として、いかに機能したか、民衆はナチスとどう戦ったか、トピック、エピソードを豊富に使い、解説が加えられる。

平日にもかかわらず、来訪者が多かった。学校からのグループ参観も多いようだ。

(内容はまた後日、書き込み予定)



Museum Amstelkring

O.Z.Voorburgwal 40 TEL.020-624-6604
アムステルダム中央駅より徒歩7分

いわゆる隠れキリシタンならぬ、隠れカソリック信徒の礼拝堂があったところ。Oude Kerk(旧教会) のすぐ側、というのがおもしろい。この辺は赤線地区、通称「飾り窓」です。建物はアムステルダムの典型的な商人館であり、1661年以降、プロテスタント支配とな ったオランダで祭壇とオルガンのあるローマンカソリックの屋根裏教会として黙認されてきた。



<私の超オススメ  戦争を記憶するミュージアム>
Museun Corrie ten Boomhuis コリーテンボームの隠れ家

住所:Barteljorisstraat 19, Haarlem tel.023-531-0823, fax.023-525-1515
開館時間:火〜土10:00〜16:00(11月1日〜4月1日は11:00〜15:00)
休館:日・月・祝日
http://www.corrietenboom.com

第二次大戦中にユダヤ人がかくまわれていた民家。ハーレムの大聖堂(セントバヴォ)の近く、マルクト広場から入ったところの角の時計屋さんにひっそりとあります。目立たないですが、表の壁にプレートが掲げられています。テンボーム家の関係者がガイドをしてくれます。ガイドツアーは約1時間。入り口扉に次のガイドの時間が示されます。私が行った時は2:30pmが最終でした。

映画"The Hiding Place"(145min)が1975年に制作されています。また映画を元にコリーが話すビデオ "Corrie Behind the Scenes with THE HIDING PLACE"(61min)が1983に作られ、この2本はここで購入することが出来ます。(1本40ギルダー)


1988年4月15日にオープンしたこのミュージアムは偉大なる勇気と強い宗教的信仰の家族の物語に捧げられました。時計職人は1837年から続く家業でした。カスパー・テン・ボーム(1859-1944) の娘コリーはオランダで初めての女性の公認時計職人でした。 間口4メートルの家は今でも、ミュージアムの入り口になっている階下で時計屋をしています。階上は家族の居住部分です。もし第二次大戦がなかったなら、そしてナチによる迫害がなかったなら テン・ボーム家の人々は多分普通の人生を送ったでしょう。 しかし、父カスパーと子ども達、ベッツィー、ウィレム、コリー、ウィレムの息子クリスチャンはユダヤ人や危険な状態の人たちをかくまうことを引き受けたのです。その結果、コリー以外みんな刑務所で死んでしまったのです。逮捕された時、カスパーは84歳で、スヘベニンヘンへ送られ、1年後に亡くなりました。ベッツィーはラベンスブリュック(ベルリンの北60kmの収容所)で1944年に、ウィレムはヒルバーサムで1946年に、クリスチャンは1945年4月、拷問を受け場所不明のまま死亡。コリーはラベンスブリュックで生き残りました。 ベッツィーは死ぬ前、コリーに頼みました。たとえどんなに悲惨な状況であっても神がいつもそこにおられることを、ここを出たら人々に伝えて欲しい。

1940年5月10日ドイツ軍がオランダに侵攻。1944年2月28日、ゲシュタポが家に入り、そこにいた人々を逮捕しました。カスパー、コリー、それにベッツィーは4年の長きに渡ってその家に住んでいたのです。
ガイドは家の中を、隠れ場所を見せてくれます。コリーの寝室の外の階段の隠し場所に配給カードが隠されています。 隠れ場所を提供するために大工がコリーの部屋の外の壁に対し、落し戸と空気穴のついた二重壁を作りました。ゲシュタポは時々やってきて家を調べていました。 コリーはベッドに座って、何も都合悪くなんかないわという態度を取っていました。テンボーム家の人々がゲシュタポに逮捕された時、1度に7人もこのちいさなスペースに隠れ、レジスタンスが助けに来るまで2日半、トイレもシャワーもなく、じっと過ごしました。

コリーは52歳の時収容所から釈放されましたが、姉の言葉を覚えていました。彼女はたくさんの本を書き60を越える国々を訪れ、話をしました。1983年91歳でなくなりました。

家はアメリカの基金が買いましたがオランダの組織はミュージアムを維持する必要がありました。コリーの先生はコリーテンボーム博物館基金を創設するのに尽力しました。私的借款は 家を直し、ボランティアが年間7000人もの人々をガイドするのに役に立っています。(パンフレットから要約)

(訪問時期:1999年8月25日)(再訪時期:2000年1月4日)


[戦争を記憶する旅]
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