1993年(クリスマスカード)


クリスマス おめでとうございます
1994年こそ へだてなき世へと近づく時となりますように

オランダに来てこうしてクリスマスの時期に一年を振り返るのも、これで4度目。いたずらに月日が流れて、少々焦っています。子ども達の進路進学と次の転勤の時期のタイミングがそろそろ気になりだしました。外国で人とコミュニケートする道具である言語の習得にあまり得意でもない私としては、外国で人生の重要な時期を送ることにそれなりの意味があると思いつつも、もし日本にいたらあれも出来た、これも出来たという仮定可能性に、通算9年になる海外生活のこの頃ふっと思ったりします。まだ希望の量が両手に抱えるほどたくさんあった若い時代への未練が、人生の、年齢でいうところの折り返し地点にきて、実現可能性のある希望の量も見えてきて、それで少々焦りを感じた、というわけです。人の運命は神に予定されている、というカルヴィニズムを「なるようにしかならぬ」と居直りの論理にすり替えてしまえば肩の力も少しは抜けるのですが。

多分オランダの生活に少し疲れを感じているのだと思います。この秋から冬にかけて家のシャワーは出なくなる、暖房は故障する、修理が一度で終わらない。で、2週間もシャワーが使えずよその家へもらい湯に行ったり、暖炉で薪を燃やしたり(全然ロマンティックじゃありませんよ、そこだけしか暖かくないですから。寝室はもう北極かという位の寒さ、外は氷点下)、なんども何度も修理に来てちっとも直らず、もうこれで最後の完了の修理よ、という修理屋が来るはずの日に修理屋が来なくて2日も待ちぼうけを食わされた挙げ句、新しく取り替えるべき部品を持ってこず、何しに来たのかと怒ったことなど、労働の質の低さと能率の悪さに唖然。知人でオランダ人と結婚している日本人女性いわく、ここはオランダよ、だそうな。(難しい修理を頼んだわけではありません。最後の修理はパネルヒーターのつまみの取り替えなのです。)修理は年を越すのではないか、と気が気ではありません。


今年は子ども達の一時帰国がありました。

去年(1992)の年末から今年(1993)初めにかけて2週間、まず末っ子の息子が英国航空のアムステルダム発ロンドン乗り換え名古屋行きという便利な路線で帰国。名古屋空港からバスで名鉄名古屋駅まで行き、JR新幹線で京都へ。姉(長女)のアパートを拠点に、姉の大学やクラブを見たり、飛鳥、高松塚古墳などをひとりで訪れ、とても印象深かったようです。また両親のそれぞれの故郷に行き、いとこ達とも会い、日本の年末年始の雰囲気にもふれ、意義深いものがあったようです。出発前に「ボクの日本語通じるかなあ」と心配していまして、というのも名古屋での乗り換えが複雑で、もし迷ったら制服を着た駅員に尋ねるようにと注意を与えたのです。父親に「通じるわけネエだろ」とからかわれていましたが、アムステルダムに帰着したとき、やったぜ、という満足気な顔をしていました。

息子がオランダに戻って1週間後、次女は3学期が始まり、デンマークへ帰りました。その2週間後(1月下旬)、長女がやってきました。日本の私立大学は入試のため早々と春休みになるのですね。父親と二人でシャモニーへスキーに行ったり、バーゲンセールで服を買ったり(何しろ収入が円高メリットの影響をまるで受けないオランダ通貨なので、サイズが少々でっかくても我慢してこちらで買う)、編み物をしたりして4週間過ごして日本へ帰国しました。

3月、次女が春休みになり、デンマークから帰ってきました。しばらくオランダの我が家で過ごした後、日本航空のアムステルダムー東京成田ー大阪というルートで帰国。関西に住んでいる友達と会って一緒に京都見物をしたり、念願の買い物をしたり(何しろ日本では魅力的で便利な物が次から次にと開発され、高校生の年代には刺激的なのです)、親戚を訪ねたりして、3週間過ごして戻ってきました。

これで我が家の子ども3人とも、日本ーオランダを単独で往復したことになり、今後の行動半径がぐんと広がるきっかけが出来たように思います。長女はこの夏までに6回も往復しており、長期休暇でオランダの親元に帰省(?)するのに十数時間もかかる不便さにちょっぴりうんざりして、早く日本に帰っておいでよ、とぼやいていますが。


さて、8月、家族旅行にフランスのオラドゥールを選びました。上野千鶴子さんの『うわの空』という、朝日新聞社から出版された本の”戦争を記憶する”という章に出てきたナチスに破壊された村を見に行ったのです。

オラドゥールという地名探しからはじめました。息子のフランス語の先生に聞いてもらいましたが、知らないとのこと。次にANWB(日本のJAF、合州国のAAAと同類の組織)で地図を見ましたが、オラドゥールらしきスペルの地名が見当たりません。デパートの本屋でいくつかのフランスの地図のひとつからやっと見出しましたが、なんとOradourが2個所もある。大きな本屋へトラムで出掛け、英語のフランスガイドブックを何種類も立ち読み、数行の記述を見つけ、ようやく場所を特定したときは、この旅も半分は成功した、と思わずにんまりしてしまいました。蛇足ですが、英語のガイドブックの中には地図、写真など視覚に訴える部分は日本語のより少ないがポピュラーでない場所を細かく網羅してある本もあり、便利です。

トゥール(Tours)を拠点にオラドゥールへ行きました。夏の暑い盛りで、長距離のドライブは快適とはいえなかったが、現地に着いたとき、一瞬時代が逆戻りしたような気がしました。49年前に起きた破壊と虐殺の事実をそのままに保存してある静寂な雰囲気に、 たとえようもない戦慄が体中を襲いました。郵便局、パン屋、肉屋、カフェ、ホテル、自動車修理工場、学校、教会、個人の住宅等々、隅々までドイツ兵が住民を捜し見つけ、殺し、建物に火をつけ、燃やし、破壊し尽くしたのです。あちこちにはめ込まれたプレートにはフランス語で、ナチス兵士によってここで虐殺された、とあり、もっともショックだったのは247人の学校の生徒中、生き残りはたった一人ということでした。

オラドゥールのあとは、ロワールの古城を眺め、シャルトルの大聖堂を仰ぎ、パリで札幌ラーメンをすすり、ユーロディズニーで遊びました。そ0のコントラストはあまりにも対照的というか、別世界のようで、そのためにかえって鮮明に戦争の悲惨を感じました。

"戦争を記憶する"ということは敗戦後生まれの、戦争を体験していない私の一生のテーマですから、アムステルダムのアンネ・フランクの隠れ家やレジスタンス博物館はもちろん、ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所跡はいち早く行きましたが、来年は遠いという理由で延ばし延ばしにしていたアウシュビッツへ行こうと思います。


我が祖国では政権が変るという予想だにしなかった変化がありましたが、海外に居住している日本人には選挙権がないため国政に意志表示することが出来ず、米国大統領選挙のときのように興奮の渦に巻き込まれるということもなく、お国のわたしたち海外在住者に対する姿勢を感じました。海外居住のアメリカ人有権者は大統領選挙での投票権を有しています。クリントンとブッシュの戦いはここオランダのアメリカンスクールでも繰り広げられました。息子は授業で、もしアメリカ人だったら誰に投票するか、またその理由は、と聞かれ、僕は日本人だから、と答えを保留したら、もしという仮定には仮定で答えなければならない、と言われたそうです。教師も生徒も自分の支持する候補者と違う場合はきちんと討論するそうです。生徒といえど将来の有権者ですから、こういう時期に生きた教育をされると、論理的思考能力と判断力が養われます。

新聞を毎日読んでいて、PKOにしろ、米問題にしろ、小選挙区制賛否にしろ、本当に論理を戦わせて将来のことを見据えて考えているのかな、と特に政治家に疑問と不安を感じてしまいます。信念をコロコロ変える政治家は尊敬されない、と思ったけど日本は例外の国なのかな、政治集団ぐるみそれをやっている。今海外で教育を受けている日本人の子どものどれだけが、祖国の政治家に関心を持ち、他の国の子どもからの質問に答えることが出来ましょうか。

Prettige Kerstdagen en een Gelukkig Nieuwjaar !
Merry Christmas and A Happy New Year !
(1993年12月)