ジオ日記「ぐりいんえあ」

2001年01月28日 08時36分34秒

小説を書くひそかな楽しみ

「 朝気一丁目日記 」の2日目に登場する「 S 」とは誰だろう?

30年振りに目にするノートを見てもしばらくの間、分からない。

ヒントは、明幸温泉が、朝気一丁目にあるのならば、それは、読書家の「 斎藤 」のことだ

ろう。 だけど、すぐに、そういう風には思い出せなくて、なぜか甲府駅北口の宮前のムサク

の四畳半一間のアパート に居候していた島根県出身の一年生の「 末次 」なのか?

この大学には稀有なアジテーターの彼が、咄嗟に思い出されて、それで、心が、少し混乱した

のだろう。 同じ町内、それも、三軒隣りの家が、バイト先のホテル・談露館の下足番の小沢

さんという60過ぎのお爺さん の家であったというのも、30年振りに改めて気が付いて、

じっとノートを見詰めて、自らの心のひだに何か 生じて来るものを待つというのも、小説を

書くもののみが知る人生を2度味わう至福の瞬間なのである。

だが、と書くべきなのか?

だが、小説をウエッブに立ち上げて置く、インターネット上に発表してしまうということは、

著者自身に とって一体どのような野心が、そこに秘められるというのだろう。

なにもない、さながら、赤茶けた砂漠に空から落ちた一冊の本のように、物語りは終わるの

か?

野心は、ない。

なにもない。

物語りは、終わらない。

2001年01月19日 21時57分54秒

お昼ころ鎌倉に着いた。

よりによってシャコタンのミニ(一応、ソレッックスのツインキャブの、)しか適当なのがな

かったので、おまけに 直したばかりのはずなのにまた電動ファンが回っても水温計の針があ

んまり下がらなくて すぐまた回るという症状を刑事コロンボなら気にしないだろうなあ等と

思いながら、ヒーターを入れたり切ったり しながら週末の国道16号線の恐るべき渋滞の中

でじっと我慢できるのは、なぜなのだろう?

おそらく、人によっては、そんな我慢は絶対に出来ないという人もいるのであろう。

3時間走って、突然、視界が広がり、銀色の不思議な色をした海が見えた。

2001年01月16日 22時12分47秒

岡山の実家を出たのが昼ちょうどだった。

バスに乗ったのが12時20分で、新幹線ひかりが岡山駅を出たのが1時20分だった。

東京駅で中央線・青梅直通に乗って福生の自宅に着いたのが6時半だった。

なにか近いような遠いような、早く着いたような気もするが、やはり、なんというか新幹線ひ

かりの車窓から見える 景色もそうだが、うんざりという感じの長い時間だったような気もす

る。

往きは、もっと嫌だった。

朝、3時半に起こされて、弁当に作ってくれたおむすびを3つとも食ってしまった。

だいこんの味噌汁は、自分で 作った。

4時45分の始発に乗って東京駅に着いたのが6時15分だった。

山手線に乗り換えて浜松町からモノレールに乗り羽田空港に着いたのは、7時5分くらい前

だった。

機械に予約番号と1万7千円を入れると、7時半に飛行機は滑走路から鋭角に空に向かっている

のが機内からも分

かった。

高松空港に着いたのは、少し予定より遅れて、9時15分くらいだった。

空港からバスでJR予讃線・高松駅まで30分くらいだったような気がする。

走って駅に入ると3分後に出るというので、絶対に食おうと思っていたここの駅のさぬきうど

んを食いそこねた。

丸亀駅に着いたのは10時くらいだったのだろう、丸亀市民会館まで走って10分くらいだっ

た。

遅刻だったが、なんとか少林寺拳法・全国支部長研修会に出席したのだった。

研修会は、5時に終わり、私たちはなぜかまた駅まで走った。途中、老人の支部長に、「 ど

ちらから来られたの ですか? 」と聞いたら、「 九州のなんとかいうところ 」と答えら

れた。

「 あなたは、どちらからですか? 」と案の定聞き返されたので、「 東京です。 」と言うと

「 うわあっ、私には、住めないな、あんな都会には、でも、あなたは若いのだから、若いう

ちは都会で稼ぎなさい。」 と言ってくれた。

丸亀駅から、坂出経由の岡山駅直通の快速瀬戸なんとかライナーに乗った、

岡山駅で、武蔵村山支部と八王子松枝支部を兼任しているなんとかいう名前の支部長と笑顔で

別れ、私は 西口に降り立ち、まっすぐ、ノートルダム清心女子大学の隣の「 清心湯 」と

いう銭湯まで霧雨の中を5分くらい 歩いた。

番台に人はいなく、探して、出てきたうろ覚えのおばあさんにタオルは売っていないのかと尋

ねたら、ないけれど 貸しタオルなら、30円だよと言われたので、不安になったが石鹸はな

いのかと聞いたら、やっぱり、ないと 言われたので、タオルだけでどうやって風呂に入るの

かとも思ったが、そんなことよりも、私がこの近所で生まれて 幼年期と師団道の自宅にヒノ

キの風呂が出来た中学生のころまで、ここのこんな小さな銭湯に家族全員で来て いたのだっ

たのかと思うと不思議というか何か輪廻転生というか、いつもは忘れてしまっている故郷とい

うか ついに帰ってきたというか、50年も前のことを思い出すというか、そういうことってあ

るのです。

2001年01月06日 02時14分22秒

午前3時に急に眠くなって

途中やめにしておいたのを今朝10時に妹からのTelで起きて また続きをやろうとPCをONに

して結局、来客が2件あって2時間くらい中断したが、 PM4時までやって黒色の5MTで

2500CCのスカイラインGTに乗って都留市の妻の実家に行くと 義兄は、炬燵でBS2の三国

志を見ていて一緒に見ることになった。

何をやっていたかというと、2000Meのムービーメーカーでキャプチャーしたファイル<

WMV>というのを いきなり、Webの<NBCI>の私のサイトに立ち上げて見て、ハッタと気

が付いて、これはだめだと、 それで、またリアル・プロデユーサーG2でファイル変換をやろ

うとしたのだけど、これが出来ないわけ、

結局、Ulead社のビデオ・スタジオ3,0で<AVI>にして、また、リアル・プロデユーサー

G2で<rm>に変換して さて、ジオ村ジャパンの”空中栗”にアップロードしようとした

ら、ついにフリーサイトの割り当てのデイスク許容量を オーバーなので、USジオの”木の

葉経”で更新したのだった。

それから、Macの56キロモデム( ¥5770−)が動作しない原因がわからないので、

PCデポに持って行き 2時間くらいあれこれやっていたが、やはり分からなかったようで、

お金はいいですと言うけど、 こうやって、1万円かけるくらいなら、もう、アイマックが、

7〜8万円で手に入る時代なのだからね、

やんなっちゃうと言うか、別にパフォーマーなんかに愛着を感じているからじゃないんだ、

あと、PCの日付けが、2001年にならなくて、1980年になったせいでメインのFMV

は、特にファイル管理でブロー していて、はげしくクラッシュを繰り返している、ノート

ン・ユーテイリテイーのスピードデイスクもハングってしまい、 Cの最適化もできない、

ファイルの断片化が進み警告値の90パーセントを下回ったままなので、明日はまた

フォーマットから再インストールするのだ。

2001年01月03日 02時23分37秒

一日中、電気炬燵の中で過ごすっていいね

大晦日は、忌野清志郎のラフィータフィーの、京都駅のカウントダウン・ライブをWebでやる

つうから11時20分から0時40分までWindows2000MeのMedia Playerで見た。

ひでえ画質と音質で最初は、うーんと思ったがなすすべもなく見た。やはり臨場感はあった。

見た感想もこれを企画したなんとかいうサイトの専用掲示板に書き込んでおいた。

そのサイトでは他のミュージシャンのWebライブを流しているんだな、俺もこの間の日本武道

館でやった少林寺拳法全国大会をWebでライブ中継を実験的にやってみようかなと思ったのだ

が、いまいち実行委員会に提言するだけのものが、こちら側に用意できていなかったのさ、若

干、機材もいるしね、

今日はもう2日だけれど、だらだらと最後まで10時間ものの宮本武蔵を見てしまった。その

前にやったプロデユーサー・八木なんとかいう人のドラマも面白かったな、どちらも現代的と

いうかぜんぜんまったく重くないんだ、現実には絶対ああわならないようなことを平気でドラ

マにしているんだ、ちょっといいのかなあとも思う、

あと、先刻、寝ようかなあと思って自分の部屋のベッドでTVをつけたら、プライドをやって

いてまた一時間見て、桜庭が勝つとこを見たのだった。

あとミャンマーの若いバイヤーから国際電話があった。