- 幻想録 (11月)- 

2009年11月28日(土)

ここのところ郷里の年老いた母親の電話の声の向こうに感じるある一定の感情について何か今まで理性で押さえていたものが少し綻びて来ていることに気付く。こういう時、私は、どうかすると、1964年頃に読んだ坂口安吾全集のことを思い出す。どの作品のどういう文章でと説明しようにも、もう既に郷里の家の2階の私の部屋の本棚にあったその全集も1975年頃までには他の約800冊の本たちと一緒に市内の古本屋で幾許かの人生という船出の旅費の足しにしたのだったが。たしか、奈良や京都の有名なお寺を壊して、人々の住宅問題を解消するために高層マンションを建てるべきであるというような、1968年頃に羽仁五郎が「都市の論理」の講演で言っていたようなことを読んでいる。それは古い価値観や偶像崇拝主義に対する理性の夜明けであるかのように思えた。「 お父さんが今際の際に「セイジ、後をたのむ。」と言ったのを母さんも聞いたでしょう。」と言っても、「あら、そんなこと言ったかしら。」という感じなのだ。

2009年11月27日(金)

中央区月島で競売物件で1戸建て長家だが、4DK( 約44F )で、812万円というのがある。借地権ではない。写真だと1960年頃の建物のようである。私は、借地権付きのものでも構わないと思っているが、マリアもいつか銀行の担保になるからというのではなく、福生の米軍ハウスが借地で厭な思いをしたからだと言う。後は、売りマンションで新宿区下落合に2DK ( 26F )でちょうど900万円というのがある。所有者居住中で契約後2ヶ月したら入れるらしい。11階建の10階である。文京区の雑司ヶ谷にも、890万円というのがある。7階建の1階の南向きで修繕積立金は2420円で管理費も7220円と安い。1970年築であるが。さて、遂に決断しなければならない。手持ちは、200万円しかなく。後はここの立退料が50万円くらい出るだけだ。26年間も家賃を115000円も毎月毎月払って来たことをマリアは馬鹿だったと言うけれど、私は、そうは思わない。福生は、忌わしい死の家なんかじゃない、私達家族にとって、朝日の当たる家であったし、もしかしたら浄土だったのかも知れないと思えるからだ。

2009年11月25日(水)

昨夜は、何年ぶりかに浦和駅に降りてひどい田舎町だと思ったと福生に帰って電気炬燵の中のマリアに言ったら、「あら、そんなことないわ。アタシなんか、福生よりも都会だなっていつも思うけど、」って言われて、ふ〜ん、人によって偉く感じ方が違うものだと思う。それでは、忌野清志郎のCD群を聞いている時に例えて言うと、私が非常にリアリステイックな風景を想像している時に、貴女は恋のひとみでただロマンチックに腰を振っているだけなんだねって言ったら、少し考えて、そして嬉しそうに納得していた。今日は午後6時半から水道橋の全水道会舘でやる来年の参議院選挙の懇談会の案内が来ていたので行こうかどうしようか迷っていたのだけれど、結局行かなかった。それはどうも私の野心というような高邁なものではなく、もっと情けないような理由からだった。きっといつか自然に柿のみが熟して大地に落ちるように、本当に道は開けるのだと思いたい。明け方、浅い夢を見たのだが、郷里の母がこう言ってくれた。「 最後の最後の最後まで自分の信じる道を突き進め、」ってね。いやあ〜、参ったね。それは、いつも私が母に言っている言葉だったから。 

2009年11月23日(月)

文章作法について書こうとしている。その前にと、これから続けて、紙文化だった時代の終わりに生きる人々に向けてとか、では本題に入りますがとか、毎月のお家賃のことですがとか、公務員宿舎に入っている人々と、都営アパートに入っている人々と、我々のような零細自営業者で毎月の収入の圧倒的な割合いというか下手をすると家賃にも足りないくらいな収入でかつ民間の高額な(と言っても全然大したことない、普通の11万5千円ですが、)一戸建ての借家に入っている人々とでは、同じことを考えても考え方が本質的に違うような気がする。ふむふむ、なかなか良い書き出しになったぞと思うなども総じてここまでに書いたような惨めったらしいことを書いてはいけない。そもそもドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフが高利貸しの老婆を殺害したのと本質は同じなのだが、大家に対する憎悪など公務員宿舎に入っている者には到底、理解出来ぬであろう。ただ、人々は理性的であろうと努めているに過ぎない。せいぜい溜め込むがいい、資本家の豚共めなどというのも書いてはいけない。昨夜、とうとう鳩山首相が暗殺された夢を見た。<ぱれ献>の後、金曜日だというのに閑散としたチムニーで、松田さんが、『(今、居るのは)何人だ。』と言うから、私は、『5人です。』と答えて、続けて『ムキンポと女友達は、今日は来ないようですねえ〜。』と言うと、松田さんは、5分前まで皆と一致団結してイスラエル大使館に向かってアラブ語でシュプレヒコールをしたばかりだと言うのに、プイッと何か急に不機嫌になって、『ムキンポは、いつも来ないよ。』と言ったので、私は、『それは、可哀想だよ、いつも大体は来ているよ。』と言うと、松田さんは、更に意固地になって、『否、彼は、チムニーには来たことが一度もない。』等と無茶苦茶なことを言うので、私は、やれやれまたかあ〜、と思って頭の中で、これは松田さん特有の実存主義的な表現方法できっとまた何か私を試しているに違いないぞと思っていたら、いつもの万年笑顔のムキンポ観光左翼大臣は女友達と共に5分位遅れて来たのだった。

2009年11月16日(月)

テレビのCMで、小学生が『WWWに繋がっていなかった頃っていったいどんな感じだったのか全然想像できない。』と言っていた。それが自己疎外された社会だったのだと説明してもますます分からなくなるだけなのだろう。しかし、常時繋がっていると言ったって人々は何故助けてと言えなかったり、殺して欲しいという自殺サイトが人気であったりするのだろう。だいいち人々のなかには、繋がっていることをあらかじめ拒絶している人だってけっこうたくさんいるみたいなのだ。それにさあ、けっこうダーテイな感じのBlogっていっぱいある訳です。そんなページの批評なんかしたくないしね、でも最近『世に倦む日々』というのを見つけたのだけど、結構知的水準が高い硬派な文章です。いつもなら直ぐにプロフィルを探すのだけど、この人の場合、筆者の生年月日や住んでいる所やどんな仕事をしているかなど公開しなくとも書いている内容で充分なんだ。私くらいになると彼がどんな経歴の人物か大体の想像は付くしね。言わないけど、そうなのである、最近は流石に15年もこういうことをしていると少しはチャラ男じゃなくなるのだが。ただ、いやこれは言わないで置こう。富田さんに読んでもらうにはここいら辺までが妥当な文の長さだと思うので。ただ、何故長文になるかという理由も分からない訳ではないのであるが、

2009年11月7日(土)

昼、既に太陽は高くして眩しくて雨戸を閉めたい気分だったが米軍ハウスの跳ね上げ式窓にそんなものないので、濃い焦げ茶のカーテンを閉めたまま、G4Cubeの電源を入れて、たまには古武術な気持ちになって昭和の剣聖・持田盛二の動画を見た。Wikiの略歴を見ると明治40年に21才の折りに大日本武徳会剣道師範の内藤高治という人から北辰一刀流を学んでいる、北辰一刀流と言えば私が高校時代に入門した岡山の鎌誠館々長・川村師範と同じ流派である。3つともなかなか良い動画だった。甲府市にある舞鶴城趾にある武徳殿で山梨県警の午後の練習に『山梨学院』と白文字で書かれた垂れを付けて大抵いつも飛び入りで掛り稽古に汗を流したことが何度もあるが、その時にいつも背が低いかなりの年寄りの元立ちの藩士に県警の大方のばりばりの猛者どもがまったく近付くことも出来ないといった案配で、いやあ〜、物凄い光景を私は日常的に見ていたのだなあと今さらながら背筋に熱いものが走るのだった。大学の中をうろうろと家捜ししていたら剣道着と防具一式を5人分くらい見つけて大学教務部に聞くと何年か前にやはり誰かが剣道部を作ろうとして大学側に買ってもらったものらしい。それではと全部もらって法学部の先輩に3段の人がいたので何とかして剣道部を作ろうと思っていたのであるが、運命とは皮肉なもので、その防具はすべて少林寺拳法部の乱捕りの練習に使い、竹製の胴は無惨にも70人の部員たちの蹴りでささらに折れてしまったのだった。それから昭和の武蔵と呼ばれたという日本古流武術から鹿島神流剣術の国井善弥という圧倒的な強さの動画を見た。何処となく海軍の飛行機乗りで3回も米軍に打ち落とされ3回とも海の底から生還した岡山の測量士のT叔父の顔に似ていた。すごく勉強になる。

2009年11月6日(金)

きょうのしごとは、精神的にけっこうきつかった。午後4時に港区港南二丁目辺りまで軽自動車検査協会で名変を終えて歩いて帰っていたら橋の向こうに鴎が浮いているのが見えたのでしばらく欄干に寄り掛かって鴎たちがゆらゆら海辺の波に揺れているのをながめていた。ぼくは、それからしばらく駅に向かってだらだら歩きながら聳え立つ近代的な高層マンション群を見上げて、ここら辺に住むのもいいかも知れないぞと思うのだった。

2009年11月1日(日)

10年近く毎月1度だけ( いや何度かは2度3度会った月もあったのだろう、)会って酒を呑みながら彼の高邁な思想に触れていると( いや思想などという高邁なものではなかった。松田政男が、三上治に会うことがあったら、こう伝えてくれと3ヶ月くらい前に図書新聞で重信房子について書いた所でと言うのであるが、そう言えば三上さんにも3ヶ月くらい前に会った時に図書新聞に重信さんのことを書いておいたから感想を聞かせてくれって言われていたのであるが、先月は三上さんとは某小委員会と某大総会と3度顔を合わせているが、集会の大テーマのためになかなか個人的な話をする気になれない。二次会に行けば可能なのだが、ここのところ運動と生活( とどの詰まりは家庭のことだが、もっと分かりやすく言うと専業主婦と言えば聞こえはいいが経済的に成り立っていない家庭の隣室で毎日絵を描いているばかりの人と自営業と言うとまるで毎日仕事をしているかのように聞こえるがかと言って社会からドロップアウトしたヤクザなんかじゃない、当の本人は大真面目で2つの株式会社の経営者で1つの協同組合の理事や1つのNPOの理事であると半分は信じていて、そもそも一般には社会的にも経済的にも余裕のある人が多い市の体育協会の理事だったり、本当はもっと周到に考えた利口な人なら決して手放さなかっただろう地位や名誉もいとも簡単に、では1ヶ月後にとただの口約束だけでまるでいい大人がおれおれ詐欺に騙されたみたいに可愛い10人の小学生たちの弟子と道場を隣の市の250人も弟子のいる師範に僅か数万円の会費未払いのカタに譲ってしまった余りに自分勝手なというか余りにも自由奔放というより単なる馬鹿と言ったほうが早いような30年間も少林寺拳法の師範だった人が世過ぎ見過ぎに自動車リサイクル法指定解体工場の管理人( と言うかゴミ釜の火の番人のようなもの、)やただ人脈だけで頼まれてやるユーザー車検代行なんかで仕事だ仕事だとバタバタして月に稼ぐ金額はたったの10万円を少し切るくらいだ。年に1度30万円くらいの月があるかないかだ。2〜3年前までは隣人の突発的なヒステリー( ヒステリーはいつも突然やって来るものだが、)に大真面目で何時間も話し合ったものなのだが、とうとう根負けしたのか見放されたか、そのどちらもであるのか却って事態は深刻なのだろう、本当は。15年前に鬼籍に入った親父の残してくれた幾許かの僅かな現金も( と言っても1000万円位だが、もう底をついてしまった。やれやれ書こうかと思ったことと全然違う方向に筆は進んで行くばかり。)松田さんはきっと寂しいのだろう。どうして私の出会う友人たちは次から次へと死んでばかり行くのだろう。次はオサフネ君の番だぞ、死ぬのはキミだ。ああ神はいつも私から友人たちを取り上げて行くといった調子なんだ。図書新聞は読みましたよ、三上さん、昔は共産主義者同盟・反旗派で神津陽氏とヘゲモニー( 理論的指導者 )だったのですね、それで1968年に三上さんは保釈金を権力に80万円も取られたのですねえ。ぼくは1969年に15万円でしたが友人はフムフム長船くんも当時の学生運動家の相場だったねえとクールに批評されましたが。それで肝心の伝言のことですが、松田さんが読んだ図書新聞の三上さんのことで三上さんが「映画関係の人の集まりに顔を出した、」という下りのことで何か言いたい見たいで、神津陽が三上さんの保釈金を作るために奔走したので「映画批評」で50万円と、大島渚と松田さんともう1人で10万円ずつ出したのだということです。

2009年10月22日(木)

好転反応だと自覚できるくらいのぼうっとした全身の気だるさの中で確かに発熱しているものを感じるのだが体温計は寧ろ低めの26度を示している。名古屋でイラク派兵差し止め訴訟で国に勝訴した原告の一人である近藤ゆり子さんの名前を始めて見たのはつい最近の新聞で防衛省に今まで自民党政権時代に開示請求が許可にならなかったものを民主党連立政権になってすぐに再請求をしたのだろう。素晴らしいおばちゃんだ、偉いと私は<市民のML>に書いて、今まであまり熱心な読者でなかったのであるが、政権交代して急にいや当然だが、近藤さんが<川辺河ダムML>でよく発信していることに気が付いた。いや、今日書こうとしていることは、1回目の10月6日の開示請求で分かったことで、航空自衛隊が空輸した人道支援物資の7割近くがじつは米軍の兵隊だったことで、さらに驚くべきことは2回目の一昨日の開示請求ではサマワで毎月何百万円も地代を払って飲み水等の人道支援活動をしているという不思議な陸上自衛隊に送った人道支援物資のほとんどがバグダッド向けの銃器・弾薬であったことである。これは一体どういう風に理解したら良いのだろうかと、しばし、あんぐりと言うか開いた口が締まらないという話では済まないだろう。完全に国民に対する日本政府の裏切り行為である。戦争犯罪である。日本国民は、イラク国民に対して如何様に謝罪してもそれで済まされる問題ではない。自衛隊員が何人も自殺しているというのにその理由が報道されなかった理由もこれで分かった。元・石波防衛大臣や元・小泉首相や元・麻生首相は、この嘘で塗固められたイラク人道支援活動の内実について国民の前できちんと謝罪すべきではないのか。または、我々は彼らを国際戦犯として国際法廷に訴えるべきではないのか。民主党連立政権はこの事実を如何にとらえているのだろう。あるいは、新聞・テレビ等の報道機関はなぜこんな大変なニュースを報道せず、どうして芸能人の大麻や覚醒剤のニュースばかり繰り返し流すのだろうか。 

2009年10月17日(土)

最近は明け方見る夢を馬鹿にしているかも知れない。しかし、今、私自身の生命維持装置であるところの肉体の老化と、幽かな異空間に対する一種、憧憬に似た感情と紡ぎ出される思い出のエネルギーを使ってほんとうに少しだが、中心道強健術のつもりで朝仏壇で合掌したついでに仙骨や頸骨をぶるぶる揺すって見るだけのことであるが、例えば、昼まで寝て、居間の秋の優しい陽だまりの下で股関節の緊張をほぐすための何種類かのストレッチをやって見たり、夜中に姿見の前で太極拳の呼吸法のひとつである五禽戯の熊と猿と鹿を私流に解釈して少林寺拳法の順突きと内受けと燕返しのそれぞれの体捌きに丹田呼吸法を組合わせたものをただひたすら無心無我の境地でやっている。ただ単純に腕を大きく振り回すだけとか、固まったアキレス腱をほぐす目的でただ飛び跳ねたり、2〜3個の自護体を作ってただじっとしているだけとかね。それから、『たそがれ日記』の故・山鹿泰治さんの耳根円通法が今いち良く分からないままただ闇雲に耳たぶから始まって耳の根元から後頭部から頭蓋骨のつなぎ目に沿って両手でこれまたただ闇雲に指圧しているだけなのだが1週間ほど経ったある朝、起きるとまだ何も知らない長女が、食卓で、『あれっ、どうしたの、父の耳の形が変だと思わない?こんな形だったっけ、何だか真っ赤じゃない。』と言うのだ。私は、少しは好転反応が出ているかも知れないと思う。それに『たそがれ日記』では円通に成功すると上頭部の筋肉に力が入りピクピクと後頭部の皮が動くとあるのだが、私の後頭部はなぜかこれを始める前からデコボコに波立った状態で固まっているので、昔はこんな後頭部ではなかったはずなのだが、やはり交通事故で頭を強く打ってから、15年間に何か自然な現象としてこういう頭蓋骨の変型というか後頭部の皮と筋肉が変型したのだろう。もっと早く気が付くべきだった。5年ぶり位に会った福岡のH君が、『どうしたの先輩の顔、』と余りの崩れかたに絶句していたのを思い出した。 

2009年10月12日(月)

ベッドの中で古屋久昭氏のエッセイ『日用散策』(山梨ふるさと文庫)の中から『多才なる人、自由なる眼−生保内育さんを偲ぶ』を読む、それから、生保内育の画号である伊藤弘風『遺墨集』の作品群のとりわけ彼が山梨時事新聞や同人誌『鵺』に書いた辛口エッセイを懐かしく読む。私がはじめて生保内氏に会ったのは1968年の夏である。新日本文学会の機関誌『新日本文学』を片手に甲府読者会に参加した時だった。その年の暮れに同人誌『1970』に掌編小説を載せてもらうまでの短い数カ月だったが私は彼の自宅を何度も原稿を見てもらいに足繁く通った記憶がある。そして何度も何度も書き直した記憶がある。いつも2時間以上、彼は熱心に私の硬い心の壁を打ち砕いて見せるのだった。そして帰りにはおそらく次回来る日までに読むように宿題として中野重治全集の何巻かを貸し与えた。私のいかにも老成した古臭いおどろおどろしく血なまぐさい、凡そ今とは似ても似つかぬ恐ろしい文体は、その時、彼によって完全に破壊されたのだった。しかし、創刊号の合評会で、私の処女作『秋の日』は誰もがまさか20才のうら若き学生の作品だとは分からなかった。当時、すでに山梨県芸術祭の詩の部門で最優秀賞を獲得していた同人の雨宮禮子は、その余りに老成した作品に絶句して、う〜んと唸って「これ、本当に長船君が書いたの?おじいさんが書く文章じゃない。」と言っていたのを生保内氏は嬉しそうにニコニコとしばしその光景を見ていたのを記憶している。私は、長い間、氏が下関で佐木隆三や深田俊介らと同人誌を出していたことからずっと出身は下関と思っていたのだが、今年の夏に少し早い墓参りをさせて頂いた折、奥様より秋田と聞き愕然としたのでした。ユセフ・檜森と同じことに驚くのである。

2009年10月11日(日)

台風で倒れたテレビのアンテナを、屋根の上に上って修理していたら、俺としたことが桐の木の枝に絡まったテレビ用同軸ケーブルを取ろうと背伸びして手当たり次第に邪魔な枝をポキリポキリと折っていたら弓なりになった枝の反動で身体のバランスを崩し屋根の上から落ちそうになったので足を踏ん張った時にセメントでできた一番安物のおまけに50年以上の雨風に削られ薄っぺらで厚さは1センチなかったので丁度屋根の頂上のへの字型のが割れてしまった。それで、近所の荒物屋に行き250円で家庭用のモルタルを2キロ買って風呂桶で水を180CC入れてやや固めのを作ってもう一度屋根に上って雨が漏らないように中にビニール袋なんかを詰めて塗って置いた。

2009年10月8日(木)

昼からママチャリで多摩川の土手沿いに走る全行程50キロに及ぶサイクリングロードを通って拝島橋を渡ったところにある八王子陸運局で転入同時抹消を2件やって帰る。途中にある福生南公園で台風18号が通過した後の青い空に浮かぶ白いわた雲の群れに自転車を降りてしばし見蕩れる。拝島橋を渡るとずっと上り坂なのだが、体調が良い日は一気に自転車を降りずに上り切る所を今日はずっと自転車を押しててくてくと歩いて行く。やはり風邪を引いている性かも知れない。痰は出なくなったが時々、今までにないコホンコホンと陰にこもった厭な咳をする。親分肌のS氏のメール文中『舞台が変れば、当然、仕事も変る、』という下りに何故か救われたような気分になった。彼は想像力が逞しいのだろう。『戦略』が必要と言い切るところなど、ある種の頭脳が論理的に明晰なタイプで私の知る何人かの友人とよく似ている。ただし、論理的な思考が必ずしも逞しい想像力を得るとは限らないようだ。寧ろ、妄想癖のある人が突然、豊かな想像力を展開して見せてくれるほうがぼくは好きだけどね。左腕の皮膚の下に少し痛みを伴って現われた小さな石ころのような出来ものは、癌だろうか?実に久しぶりに姿見の前で腰を落として自護体(後屈立ち)を作り、待ち蹴りを何発か蹴ったり、五禽戯の鹿から胆田呼吸を数回やって見たが。ところでスリラーのマイケルのニュースを見ていてあれっと思うのだが、ぼくの道場に18才に来日して20年くらい熱心な弟子だった人が、練習試合や型の演武のときなどは、練習の成果があってきちんと足の親指を立てて蹴り上げるのだが、フトした瞬間に、つまり無意識に蹴る時にステージ上のマイケルのような親指を真直ぐ延ばして足の甲で蹴上げるでもなく何と言うか足が長過ぎて親指の先はまるで綺麗な蝶々のように自由な存在を指し示すといった案配なのであるが。

2009年10月6日(火)

結局、長野から所長はわざわざ代車を日高から福生まで運ぶために帰ってきた。今日は朝からずっと小雨が降ったり止んだりしている。日曜の夜に身体の異変に気が付いて、昨夜は手首のリンパ節に痛みを覚える。なんとなく近年、そう言えばと思い当たる事柄がある。腕立て伏せをやる時、あれっと何となく手首が捻挫しそうな感じだった。昨夜は、夜通し疼いて眠れなかった。夜中に手首にタイガーバームを塗り伸縮ほう帯でしばって見たが、余り効果はなかったようだ。97才になる義母の小さくなった顔は絶えず微笑んでいるように見え、まるで神々しい。昼までベッドの中で昏々と眠ってしまった。時を同じくして先週の金曜日に銀座のクラブのママのVOLVOの車検をやった時にどうも都心の夜の極度に汚れた空気を吸ったためか、翌日から気管支炎っぽくなってしまう。ねっとりとして咽からなかなか離れないうす緑色をした小さな痰が出るようになった。とどのつまりインフルエンザでなければ良いのだがと思う。

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