■藤岡信勝氏の近現代史授業「改造」批判   京都歴教協事務局 大八木賢治■

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  目次>
  はじめに
  1.藤岡氏は何を主張しているのか
   −藤岡信勝講演「二十一世社会科の展望」から−
  2.歴史観、歴史教育をめぐって−東京裁判史観という認識にかかわって−
  3.日本の近現代史をどう構想するか−戦争学習を中心に−
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はじめに

一昨年の93年l 0月の社会科教育学会以来、東京大学教育学部教授、藤岡信勝氏が「東
京裁判史「批判」を中心として「近現代史」の授業の改造を月刊誌「社会科教育」誌
上において主張している。藤岡氏は1970年代の学力論争で「徹底したマルクス主義の
立場を取り、学力を『計測可能』なものに限定すぺきとして注目を浴びた」人物で、
その後「授業作りネットワーク」を提唱し、教育科学研究会「授業づくり」部会の中
心人物である。そして今日の彼の授業作りの中心はデイペイトにあり、デイペイトこ
そ社会科教育の中心に位置すぺきだという主張のように思われる。今回の「近現代」
の改造もデイベイトの手法で展開されている。
氏の今日の主張は氏の研究の歩みから見て「転向」「変節」といわれてのやむえない
ものであり、谷川氏の「私がこだわりたいのは、研究者としての姿勢である。藤岡氏
の研究の軌跡を見ると、何が藤岡氏の研究の核であるのか、ますますわからなくな
る。・・・そして考えというものは変わるだけの必然性がなければならないし、その
論理も明示されなければならない。」(1)という批判は当を得ている。また本人の
藤岡氏も谷川氏との討論の中で、転向したことを認めている。しかし、このような態
度ば研究者としての基本的責任を放棄してしたといわなければならない。
このような藤岡氏の主張する「近現代史」とばどのようなものか、さらに藤岡氏の歴
史認識も含め、その間題点を明らかにしていきたい。その中で歴史教育のあり方や意
義について深めるとともに、今日における近現代史教育の内容とあり方のついて深め
てみたい。

l.藤岡信勝氏は何を主張しているか
一藤岡信勝講演「二十一世紀社会科の展望」から一

(1)「ifの歴史」という手法からでてくる歴史認識
デイベイトこそが新しいものの見方を作ることができる。「i f」によって新しい歴史
観が育つという。

●「原爆投下」デイベイト
「歴史の因果関係をたどりながら、原爆投下というものについて政治的評価を決めな
ければならない。特に肯定する側を持った子供たちは、まったく今まで考えてみな
かった思考回路を使って自分で歴史を組み立てていくということをせまられた」(藤
岡)

賛成「原爆投下は人命の被害を少なくするためのものだった。」
反対「いやそうではない」
賛成「もし原爆が投下されなかったら、日本の幸福はもっと先にのぴていただろう。
・・・・・で、もしあの時点で原爆が投下されなかったら、ソ連が日本に攻め込んで
きただろう・・ソ連の軍隊は先頭に犯罪者の部隊をおいて、強姦など非行の限りを尽
くします。・・・もしソ連が日本に攻め込んできたら日本は原爆を投下されたよりも
ある意味ではもっと悲惨な事態になっただろう」
このような中学生2年生のデイベイトを「ある文脈において成り立つ」として積極的に
評価する。これまでの日本の教師は一方的に原爆悲惨論を押しつけてきたとして、そ
れに変わる「大変すばらしい」実践であると評価する。,岡氏は生徒の賛成討論に感
心をしているが、仮の立場として無理やり主張させられた中学生の歴史認,はゆがめ
られないだろうか。賛成の意見として表明されている内容は、保守政治を主張してき
た一定の政治的見解を代表するもので、目新しいものではない。逆にデイペイトのた
めに無理やり一定の政治的見解を「自分のもの」のようにして発言させられるのであ
る。中学生の発達段階を考えてみてもきわめて危険な実践と言わなければならない。

(2)「東京裁判史観」という規定から生まれる近現代史認識とその批判
「極東国際軍事裁判」は「日本の戦前の行為一1928年から1945年までですが一その
期間の日本の行為を断罪したわけです。そういう日本を断罪した歴史観を私たちは戦
後基本的に受容してきた」と主張する。そして氏がどのような戦後史を展開する
か・・・

a「(その)憲法は、いわば日本が連合国に対して行ったわび証文、始末書のような性
格を持っていたと思います」
b「冷戦が始まっていたのでアメリカが日本に対し、軍備をもてるように憲法を変えて
いいよと言ってきた」
C「(吉田首相は)“いや”日本はまだ食うことのほうが先なんだ”と言って、いわゆ
る『軽武装プラス経済建設路線』を敷いた」
d「日本人はいつしか自国の防衛や安全保陣について自分で責任を持って考えるのでな
くl00%アメリカに任せて、アメリカの核の傘に入ることを選んだ」

東京裁判史観によって「邪悪な国」であった日本は日本だけが戦争をしないようにす
ることだ、そして日本は一国平和主義の中で安穏と暮らしてきた。「『日本こそ悪い
のだ』ということによって、『日本さえ何もしなければ世界は平和だ』というストー
リー」を椎持してきたという。
このような見解が特に新しいものでない。まさに90年の湾岸戦争以後憲法改悪をねら
う自衛隊の海外派兵の実現を求める政治勢力の見解そのものである。しかしaからdの
ような論理はどこから出てくるのだろうか?ここには日本国民がいつも歴史に状況に
流され、主体性なく生きてきた無責任な日本人という像が浮かび上がってくる。しか
し一方でアメリカに許された憲法改悪の方針に従順に従わなかった日本人民衆の主体
性については藤岡氏はまったく目をつむるのである。逆にアメリカの勧めに素直に従
わず、東西対立の冷戦構造の中に自ら主体的に入っていかなかったとして非難してい
るのである。氏の「歴史観」はいったいどのような立場に立ったものか、最低平和主
義を基本とする日本国憩法の立場ではない。
そして戦後の歴史教育の主流は「東京裁判史額」をペースに「講座派」の歴史家が唱
えた歴史観の枠内で、「明治以降の近代日本の歴史をもっぱらまっ黒けに描いてき
た」(下)と主張する。その対局として「大東亜戦争史観」を二つ目の歴史観として
位置付け、これには反対のように言いながら「繰り返し、ああいう発言が出てくるの
は(『東京裁判史観』をタテマエとして、『日本だけが悪い』というストーリーを守
ることで)その問題を日本人がまだオープンに討論せずに封印してきた、そのツケで
ある」として「大東亜戦争・史観」を事実上擁護している。
そして藤岡氏は第一の「東京裁判史観」でも、第二の「大東亜史観」でもない第三の
歴史観として「自由主義史観」なるものを提起している。この「自由主義史観」なる
ものがどのようなものか、それを代表するものとして司馬遼太郎の歴史小説の方法を
「司馬史観」としてとりあげている。その性格をB健全なナショナリズム、Aリアリ
ズム、Bイデオロギー不信、◎官僚主義批判をあげ、「自由主義史観」と呼ぶにふさ
わしい内実を持っていると主張する。そのポイントは明治期と昭和期をまったく違う
時代、異なる時代であって、明治期というのは日本を植民地化の危機から救い出し、
国民国家を成立させた希望に満ちた明るい時代であったという。しかし日露戦争の教
訓を正しく受け継がなかった一部軍人や政治家のために昭和期というのは狂ってし
まったのだという歴史認識で近現代史を構成しようとしている。そしてそれを誤らせ
たのは「戦路論」がなかったからとして、岡崎久彦の「戦略的思考」を持ち上げてい
る。日本の近代の時代とは「(日本は)基本的にアングロ・サクソンにつくかロシア
につくか迫られていた。」日露戦争のときは「祖国防衛戦争」として戦い、国際的に
はアングロ・サクソンについたので勝利することができた。しかしアメリカの鉄道王
ハリマンが南満州鉄道の共同経営を提案したとき、資本の余力のない日本はそれを受
け入れたらよかったのに、アメリカに権益を譲り渡すからという小村寿太郎の反対で
結局だめになったという。これさえうまくいっていれば昭和期のような失敗をせずに
すんだのだと展開する。さらに藤岡は自分の主張を強めるため、自由主義者の代表と
して「東洋経済新報」の石橋湛山を持ち上げ、彼が展開した「植民地放棄論」を自分
の主張の中に位置付けようとしている。

藤岡の出してきた第三の歴史観の「自由主義史観」というのが何か新しい歴史認識で
あるように見せかけるが、その内実は80年代に出てきた「戦略論」を認識の基礎にし
て、戦略論による「近現代史像」と「司馬史観」による英雄主義を結びつけるもの
で、何ら目新しいものではない。この「戦略論」というのは戦前の「地政学」に流れ
を持つものであり、帝国主義の国際関係論そのものである。その認識の仕方は「国
家」の利益がすべての前提にあるもので、それにすべてを従属させるところに特徴が
ある。また「地政学入門」(曽村保信著)では会話体で地政学を紹介しているが、そ
の学問としての科学性について自らむつかしさを次のように認めている。A「・・独断
と偏見の固まりではないかと感じられる部分も、かなり多いと思われますが.・・」
B「その点は私も同感です。何しろ膨大なデーターを個人の考えで処理しようとする
と、そこにどうしても先入見が入りやすい。・・いったんどこかでインプットする材
料を取り違えると結果はひどいことになってしまう・・。」しかも藤岡は「司馬史
観」による近代史の総括として次のようなことをいって何も恥じないのである。「日
本近代の歴史を見ますと、実は満州事変に始まる15年間だけが、非常に異常な時代で
あって、その以前と以後とは、一以後いうのは戦後の時代ですが−、日本は国際的に
見てそんなに間違ったひどい行為をしていなかった。」(藤岡講演「2l世紀の社会科
の展望」明治、社会科教育別冊)

司馬遼太郎の歴史小説が伊藤らの明治期の元勲らの悩みという歴史の一面を映し出し
ているとしても、また戦略論から15年戦争期において支配階級が選択を誤ったことを
浮かびあがらせたとしても、それは歴史の大きな展開の中での一面に遇ぎない。それ
で歴史を叙述するということは歴史学、歴史教育を支配者の教訓話に追いやっていく
もので、手のこんだ国史教育の焼き直しに過ぎない。その結果、第二に「自由主義史
観」では歴史の舞台に民衆は常に除外されており、民衆が歴史にどう主体的に働きか
けどう成長していったのか、どのような課題を抱えていったのかという視点はまった
く見られない。それは氏の「自由主義史観」なるものが支配者の学間であることを象
徴している。そして第三に必然的に日本のアジア侵略の視点がまったく抜け落ちてい
るのである。たとえ15年戦争を侵略戦争であることを認めた(一部政治家や軍人の責
任)としても、その出発点が明治期の日清戦争にあり、そのアジアへの帝国主義的進
出の上に昭和期の15年戦争が連続していることを認めようとしない。しかしすでに虐
殺行為は日清戦争から始まっており、また日本のアジアヘの帝国主義的進出がすすむ
につれて、意図的にアジア蔑視が学校教育などを通じて注ぎ込まれてきた。「満蒙生
命線」論がこうした帝国主義的侵略とアジア蔑視の中で作られてきたことは周知の車
実である。それが15年戦争につながってきたことはこれまでの歴史学が明らかにして
いる。また石橋湛山のデーターを使い日本が、植民地経営に国庫の資金を注ぎ込み
「植民地をいかに本土並に扱い橋を作り、学校を建て、いわば『善政』を施してき
た」とする大東亜戦争史観の言い分に「事実として」「正しい面もあることを実感す
るに至たった」という。しかし石橋湛山は日本帝国の「善政」を証明したのではな
く、「満蒙放棄論」の経済的側面を強調したのに過ぎないのである。。湛山はJSミ
ルの植民地放棄論とその思想を早稲田の天野為之や三浦槻太郎から受けつぎ「大日本
主義」に反対し、「小日本主義」を主張してきた人物で、辛亥革命を一貫して支援し
中国の民族独立の展望を語ってきた。また、彼の「満蒙放棄論」ば単に「経済的」な
側面だけを言っているのではなく、「政治外交論」「人口・移民」「軍事」「国際間
係」も含め、「1910年代に一段と体系化された満蒙放棄論」として形成されたもの
で、日本の植民地支配を根底から否定したものである。(3) しかも「帝国日本」の
軍国主義による民主主義圧殺が石橋湛山の「満蒙放棄論」を実現させなかった最大の
理由であることを忘れてはならない。このような石橋湛山の思想や見解を「自由主
義」であるからといって藤岡の「自由主義史観」とどこで結びつくのか不明である。
そして第四に、歴史の発展についての視点がまったく欠如しており、全体像をまった
く示すことができないでいる。ある意味ではそれは必然である。それは15年戦争期だ
けが「異常な時期であり」「その前後はそんなに間違ったことはしていない」という
歴史の見方から出てくるもので、自分の都合のよいと思われる意見や見解をつなげて
いるに過ぎないからである。石橋湛山の例はその典型で、「『数量データー』から見
た日本近現代史」(4)の中に登場させるが、湛山の主張とまったく反対のことを「実
感」しても何とも思わないところに「自由主義史観」の無節操さを表している。

2.歴史観、歴史教育をめぐって一東京裁判史観という認譲にかかわって一

(1)東京裁判史観という歴史認識について
 藤岡氏の「東京裁判史観批判」の中心的な柱は南京大虐殺についての教科書記
述と「南京大虐殺派」の研究者批判にある。そのボイントは、a.南京事件の犠牲
者(死者)の数が十数万人、二十万人、三十万人以上と、数字の主張者を示さず
まちまちに記述していること。そしてb.これらの数は「日本を犯罪国家として断
罪した東京裁判の呪縛」を受けた教科書著者の中国側、もしくは東京裁判の結論
をあげている自主性のない態度を示している。B東京裁判二十万人説は日本を戦
争犯罪国家として政治的に断罪するために信憑性のない中国人の証言をうのみに
してでき上かった白髪三千丈式の数を合算してでき上がった数字である。C南京
事件の死者の数についての教科書の扱いが不当だということが立証できれば、教
科書記述のもとにある「東京裁判史観」の問題性に迫ることができる。しかしこ
れらの内容がいかに根拠のない主張であるかについては「アジアの中の日本軍」
(著者、笠原十九司)に詳しい。すでに明らかなように東京裁判にしても埋葬
隊、その他の団体の埋葬記録に基づいたものであり、日本の代表的な研究者の洞
富雄氏の「二十万人をくだらない中国軍民の犠牲者が生じた」(「決定版・南京
大虐殺」徳間書店)という結論にしても洞氏自身の埋葬記録を検討した結果に基
づいている。この事実だけでも藤岡氏の「東京裁判史観批判」は崩れ去ってしま
うものである、しかし藤岡氏が一連の人物の文章を引用して「東京裁判史観批
判」の根拠を出してくる。さらにアジア太平洋戦争のみならず、近現代史全体に
その認識を広げている。

■富士信男(「私のみた東京裁判史観下」)
「東京裁判法廷が下した本判決の内容をすべて真実であるとなし、日本が行った
戦争は国際法、条約、協定など侵犯した侵略行為であって、過去における日本の
行為・行動はすべて犯罪的であり、『悪』であった、とする歴史観」である
■安藤仁(「東京裁判勝者の裁きマイテイア著」訳)「第二次世界大戦後のわが
国でば、いわゆる東京裁判史観なるものが幅を手I!かせている。これはある意味
で、東京裁判の検察側の主張や多数意見に範を取り、要するに戦前の、ひいては
明治以後の日本の歴史が、富国強兵と侵略のそれであったとして、これを全面的
に否定するとともに、その責任を一部の財閥や旧軍部に帰す発想である」
そしてこの安藤の主張をもとに、東京裁判が直接対象としてl928年からl945年の
間のみならずそれ以前の時期を含む、明治以後の日本の近現代史全体の評価に及
ぶものとして「東京裁判史観」なるものを定義づけている。その根拠として明治
維新の廃藩置県の評価を取り上げ、それが日本を欧米の植民地化から守った革命
的な事業であったにもかかわらず「東京裁判史観」に基づく教科書は「明治の変
革を日本民族が列強の圧力下にあって自前の近代国家を創出する生みの苦しみと
してロマンと共感を持って描き出すという姿勢がまったく欠如している」(5)と
いう。そして「そういう民族の歴史の大きな物語を欠いているがゆえに、教科書
は気の抜けたビールのような客観主義か職業的歴史家以外に関心のない個別抹消
の事象の羅列に陥るのである。」(6)とまで言い切っている。そして近現代史を
暗く描いてきたのが「マルクス主義歴史学」であり、これが東京裁判と結びつ
き、日本人の「洗脳」作戦が国民的規模で展開されてきたと主張している。そし
て近現代全体を暗黒に描き出す歴史像を「東京裁判史観」と勝手にけているので
ある。

そもそも「東京裁判史観」というの言葉はl985年、当時の中曽根康弘首相が自民
党の研修会・軽井沢セミナーで述べた「『東京裁判史観』を克服する必要があ
る、日本人のアイデンテイテイーを確立する必要がある」が最初であった。それ
ば中曽根首相が「戦後政治総決算論」を唱え、首相としてめて靖国神社公式参拝
を行ったり、文部省通達という形で学校に「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱の徹
底を指令を出すという、一連の右傾化のなかで登場してきたものである。しかし
藤岡がこれまでの右翼学者たちと異なる点は、全面的に近現代史そのものを書き
換え、教科書や授業そのものを根本的に変え、戦後の歴史学や歴史教育、民主教
育が創造してきた成果を根本的に覆そうというものである。

(2)戦後の歴史学や歴史教育の立場
藤岡の言い方では、戦後の歴史学や歴史教育はすべて「東京裁判史観」である。
戦後の歴史学や歴史教育、社会科教育、さらには教育のあり方の出発点が戦争へ
の「反省」と平和の大切さ、さらにはその基礎となる民主主義の尊重を基本とす
るものであった。いわば日本の過去について正しく認識することを基本とすると
ころから出発したのである。(l947年「学習指導要領試案」)しかし藤岡は「青
年時代に、いかに間違ったことをした人間でも、どこかいいところがあるはずで
す。その人格を全昔的に否定することばできない。」(8)とい、同様に「日本の
国の歴史についても同じことが言える」と主張する。そして藤岡にすれぱ「マル
クス主義歴史学」が日本の近現代史を暗く描き、国家を全面否定し、ひいては人
格の全面否定をし、「東京裁判史観」として「日本人から国家意識を奪い、国家
への誇りをそぎ落とす『洗脳』工作」(9)の役割を担ったとするのである。その
ことは南京事件の犠牲者の数の問題について教科書の扱いが不当であることを証
明することによって明らかにできるというのである。しかし同じことを主張して
きたのが南京事件を幻とする人達である。彼らは侵略戦争の謝罪と反省を進める
世論が強まるのに危機感を抱き、侵略戦争であったという認識を覆そうと、東京
裁判は勝者の論理にたって一方的に侵略戦争という認識を押しつけたものである
と主張したい。彼らにとってその決定打は南京事件の犠牲者の数の問題でなので
ある。しかし30万人か、20万人かということの違いはその本質を変えることにな
るはずがないにもかかわらずである。そして「戦後50年、日本人の史観を持って
アメリカ式の戦争史観・東京裁判史観を払拭して日本人の心・真実を求めて、国
家・民族の尊厳を取り戻し、確立してほしい」(畝本正己)(I0)と願うのであ
る「日本人の心・真実」「国家・民族の尊厳」とば一体どういうものだろう。実
は戦後の教育、歴史教育はそのためにこそ歴史の真実を大切にして平和と民主主
義を基本とした多面的な教育をしてきたのである。すなわち侵略問題で言えぱ、
真実に目をつむるのでばなく「負の歴史を直視」して再び同じ失敗を繰り返さな
いために歴史的教訓を学ぶことを重視してきたのである。南京事件の犠牲者の数
に難癖をつけて「負の歴史」をあいまいにしていくことは歴史の過誤を民族の教
訓としない道であり、それこそ「国家・民族の尊厳」をおとしめるものといわな
ければならない。そして明確にしておかなければならないのは過去の問題に目を
つむる人達が実際には政治権力を握ってきたのであり、彼らはその権力で学習指
導要領を「法的拘束力」あるものとし、内容的には神話の復活、日清・日露戦争
を大国主義的に美化する認識を持ち込み、l 5年戦争についてば侵略戦争であるこ
とを明記することを拒否してきたのである。そして真に「国家・民族の尊厳」を
求める憲法や教育基本法の空文化をはかり、今やそれを根本的になくしてしまお
うと画策しているのである。それに対し国民の側が教科書裁判をはじめ、多様な
形態で憲法や民主教育擁護の運動を展開してきた。これらの運動が教科書問題の
「国際化」を呼び起こし、それが侵略戦争についてのわれわれ日本国民自身の歴
史認識をさらに深めさせたし、これらの運動が必然的に日本の民主主義の発展へ
とつながってきた。このような国民の運動と意識が憲法や教育基本法を守ってき
た。決して現在の支配者の側が守ってきたのではない。
藤岡はこのような国民の運動や平和への願いを戦前使い古された「言霊主義」と
いいくるめ、日本の平和教育は平和へのタプーをつくってきた「言霊主義」と断
定し、「戦争への怒りと憎しみの感情を育てる」感性を刺激する教育に終始して
きたという。(11)しかしこのような「総括」は戦後の歴史教育、平和教育の発
展の過程の歴史を無視したものであると同時に平和への願いを育てる教育を敵視
するものにほかならない。

3.日本の近現代史をどう構想するか一戦争学習を中心に一

(l)戦後50年の地点にたって一戦前50年との関連を軸に一
l 945年から50年とは第二次世界大戦、日本に引き寄せていえばアジア太平洋戦争
が終わってから50年というだけでなく、1945年までの50年、すなわち日清戦争か
ら15年戦争の敗戦まで、言い換えれば「日本帝国」の形成から100年、滅亡してか
ら50年たつという歴史の時点にたって考えるという視点を抜きにして、今日の近
現代史を構想できない。私たちのまわりには「日の丸・君が代」間題、「日本国
家」のアジア諸国の人達と日本国民への戦争責任に対する「戦後処理の未処理問
題」、「天皇制」をめぐる問題、「近代的人権意識と民主主義の問題」など実は
日本の近代史との関連を抜きにして考えることのできない問題が山積しているの
である。そのことが戦後50年たった今日、現代の課題と結びつきながら私たちの
前に明確な形となって現れてきたということではないか。
1894年から95年にかけての日清戦争をへて日本が「西欧型国際秩序」のもとに入
り、帝国主義の世界支配の中で「極東の憲兵」としての役割を積極的に果たし東
アジアの「植民帝国」の地位を築いてきたのであり、そのいきついた先が15年戦
争の敗北、「日本帝国」の滅亡であった。(2)また日本近代史のそのような過程
は同時に世界の「西欧型国際秩序」による「パワーポリテックス」の帝国主義的
な世界支配と植民地支配に対し、民族独立、民族問の対等平等とファシズムに反
対し民主主義を規範とする、世界平和をめざす民衆や被圧迫民族による闘いが前
進して、世界史が大きく発展していく過程でもあった。しかし学習指導要領をは
じめ、反動勢力は日清日露の戦争によって植民地を獲得してきた膨張的大国主義
を賛美し、それを日本の発展として見てきた。そして15年戦争を「日本だけが悪
くない」としたり、たまたま失敗したのだとする見方をするのである。藤岡の
「自由主義史観」もそのひとつであるが、このような歴史観かいかに皮相で、世
界史の流れに反するものか明らかである。

(2)日本の敗戦の意義一ポッダム宣言受諾の歴史的意義
ポツタム宣言を受諾したということは「太平洋戦争」に敗北したというだけでな
く、日本近代の膨張的大国主義そのものを否定されたことを意味する。カイロ宣
言(l 943年11月、日本国に対する英、米・中の三国宣言)では「・・l 914年の
第一次世界大戦の開始以後において日本国が奪取しまた占領したる・・一切の島
並びに満州、台湾及び膨湖島のごとき日本国が清国人より盗取したる一切の地域
を中華民国に返還する・・・やがて朝鮮を自由独立のもの・・」とし、ポツダム
宣言ではその履行を保障している。このことは「つまり、日本が受諾したポッダ
ム宣言は、実ば日清戦争にさかのぼって、近代日本の日清戦争、義和団事件、日
露戦争、韓国併合、第一次世界大戦、シベリア出兵、そして三次にわたる山東出
兵、満州事変、日中戦争、そしてアジア太平洋戦争と膨張の成果を完壁にトータ
ルに否認したもの」(江口圭一著、日本の侵略と日本人の戦争観)であることを
表している。つまりl 5年戦争というのがそれまでの近代日本行ってきた対外侵略
戦争と密接に結びついていること、また切り離して考えることができないという
ことを歴史は示しているのである。そのことはいわゆる「戦勝国」の一方的な解
釈でなく、当時の日本政府も、侵略されていたアジアの人達もそう考えていたこ
とは次の発言でも明らかである。(江口、前掲書)

<日本政府の認識>
l 941年10月、東条英機陸相の発言(日米交渉が行き詰まったとき)「撤兵問題は
心臓だ。撤兵を何と考えるのか。陸軍としてはこれを重大視しているものだ。米
国の主張にそのまま服したらシナ事変の成果はせん滅するものだ。満州国も危う
くする。さらに朝鮮も危うくなる」l 945年5月、第一(作戦)部長宮崎周一中将
(本土決戦をめぐって中国戦線の兵力を本土へ「収約」するかどうかで)
「いったいこの戦争の終末をいずれに帰着せんとするや。大東亜戦争前か、日支
事変か、満州事変か、日露戦争後か前か、日清戦争前か後か、更に遡って御一新
なるべきや」

<中国の認識、周恩来首相の発言>1972年9月26日
「1894年から半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって、中国人民はき
わめてひどい災難を被り、日本人民も大きな損害を受けました。前のことを忘れ
ることなく、後の戒めにする、といいますが、我々はそのような経験と教訓を
しっかり銘記しておかなければなりません」

(3)戦争違法化の歴史(13)
極東軍事裁判、いわゆる「東京裁判」を戦勝国が敗戦国に対し、ー方的に押しつ
けたものと断罪し、そのものを認めないとする人達がいる。しかしそれがいかに
皮相で一方的であるかというだけでなく、「東京裁判」の歴史的意義を確認しな
ければならない。

<無差別戦争観から戦争犯罪ヘ>
第一次世界大戦前までは戦争は合法的なもので、「戦争の本来の動因としての政
治的目的は、軍事行動によって達成されなければならぬ目標を設定するための尺
度」(クラウゼビッツ「戦争論」)とされ、戦争は権力者の政治的目的を達成す
るための手段となってきたものである。このことを無差別戦争観といい、一般に
二国間ないし、わずかの国の問で行われ、多くの国々が中立国にとどまるような
戦争を前提にしていた。つまり「無差別戦争観のもとで、国家ないし戦争を遂行
する君主あるいは指導者は戦争責任を負わないし、正規軍の構成員またはそれに
相当するパルチザンは敵に捕らえられれば捕虜として待遇され戦争犯罪人にはな
らない」(藤田久一著、戦争犯罪とは何か)とされていたものである。しかし、
l 899年、1907年のハーグ陸戦条約によって、「捕虜の取り扱い」「害敵」「手
段や方法」「軍使」「降伏規定」などが規定されていた。しかしこれはあくまで民
事責任に限られ、交戦国兵士の戦争犯罪の処罰はもっぱら交戦国の国内制度によっ
ていた。

しかし第一次世界大戦は無差別戦争史観が想定していた「戦争」の様相を大きく
変えた世界大戦であったということ。多国間、さらには中立国までまきこみ、世
界中を戦争にまきこんだことである。第二に毒ガスや潜水艦、航空機など兵器の
高度化やその結果大規模な残虐行為が行われたことである。その結果、1919年の
連合国による平和予備会議でばA「戦争を企てたものの責任」A「戦争法規慣例
違反」−32項目の犯罪リストB「個人責任」が検討されていた。そこでは無差別
戦争観では不問にされていた戦争開始者の責任を取り上げ、三国同盟の侵略政策
を取り上げ初めて「侵略」に言及した。結果的にドイツのウイルヘルム2世の戦争
犯罪追及はできなかったが、はじめて戦争を始めること自体を違法とし、また犯
罪としてその責任者の処罰することを始めたのである。そして世界大戦の残虐さ
に対し、戦争禁止を求める国際世論の高まりを背景に不十分ながら国際連盟規約
に戦争の禁止・制限が規定されるにいたった。しかし1928年の「戦争放棄に関す
る条約」(不戦条約)が日本を含む15か国で調印された。これは「国際紛争解決
のため戦争に訴えることを非とし且其の相互関係に於て国家の政策の手段として
戦争を放棄することを其の各自の人民の名において厳粛に宣言す。」(第1条)と
いうもので、画期的なものとなった。つまり戦争を行うことが違法となったので
ある。これは無差別戦争観に立つ国際社会の秩序を逆転させたものであった。し
かし違反者に対して罰則がないことや戦争犯罪を処理する国際刑事裁判所は設置
できなかった。いずれにしても第一次世界大戦後の戦争違法化のあゆみの中で頂
点に位置するものであった。

<第二次世界大戦の歴史的意義>
第二次世界大戦では第一次世界大戦の被害をはるかに上回る犠牲者が出た。日本
やドイツでは「ナチズムや軍国主義が政治を支配し、人権無視の国内専制体制を
作り上げ、戦争を契機にそれを周辺諸国や自己の勢力圏に持ち込もうとしたので
ある。それが外国でのその住民のさまざまな抵抗にあい、人間性無視の残虐行為
が一層平気に行われ住民の被害は急増した」(藤田前掲書)のである。このよう
な第二次世界大戦の中で、194l年8月の「大西洋憲章」ば「すべての国民が彼ら自
身の政治形態を選ぷ権利を尊重する。また両国は強制的に主権と自治を剥奪され
た国民に対し、これらが回復されることを望む」とし、ファシズムに対する民主
主義の立場を明確にした。その年の12月の日本の東南アジア、ハワイ真珠湾への
軍事攻撃に始まる「太平洋戦争」に突入する中で1942年1月、大西洋憲章にそっ
て、26か国による「連合国共同宣言」(l4)が出されファシズムの日独伊三国軍
事同盟に対する民主主義擁護の戦争を宣言した。これらの内容が先のカイロ宣
言、ポツダム宣言の民主主義的な内容上の基礎となった。また戦後の国際連合に
よる集団安全保障の方向を明確にしていった。ニュールンベルグ国際軍事裁判や
極東国際軍事裁判では第一次世界大戦によって創出された戦争違法化のあゆみと
ファシズムに反対する民主主義の戦争としての性格を受け、戦争犯罪を追及して
いった。そこでは「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」を訴追事
項として、第一次世界大戦のときば設置できなかった国際軍事裁判所が設置され
るようになった。
「平和に対する罪」では、「侵略戦争」が犯罪であることをはじめて明確にし、
また国際条約や協定に反する戦争も含め、計画準備、開始、また実行、もしくは
共同謀議に参加することも犯罪であるとした。この規定はまさに第一次世界大戦
からの戦争法の発展である。そして国家の責任追及は前提だか、同時に国家機関
の地位にあるものの個人責任として追及することを重視した。しかしこれ事後法
にあたるとして罪刑法定主義に反する批判もあったが、侵略戦争の犯罪的性格に
ついて裁判所は「国家の政策の手段としての戦争の放棄(不戦条約)は、かかる
戦争が国際法上違法である、そして、かかる戦争を計画しかつ実行するものば、
その不可避のかつ恐るべき結果とともに、そうすることによって犯罪を犯してい
る、という命題を当然含む。」という見解を出している。これは第二次世界大戦
の実態を反映した当時の国際社会の要求の添うものであり、その後の第1回国連総
会において「ニュールンベルグ裁判所条例によって認められた国際法の諸原則」
として決議されているのである。それは国連のシステムの中で戦争犯罪の概念が
確認され、普遍化されていったことをしめしている。

おもに国際法の発展を軸に戦争違法化の歴史を確認してきたが、同時にそれはま
さに世界史の発展を反映しているものであることば明らかである。それを承認せ
ず一方的な「勝者の裁き」であるとする見方は世界史の発展を見ない独りよがり
の認識といわざるをえない。逆に極東国際軍事裁判では戦争違法化の歴史から見
れば「平和の対する罪」で天皇を訴追すべきであったにもかかわらず、そうなら
なかったという不徹底さを持っていたと言わざるを得ないのである。それが今日
の時代錯誤の戦争認識を残してきたひとつの大きな原因となっていると考えるの
は不当なことだろうか。

(4)平和を願う民衆の声は歴史とともに発展してきた
明治以降日本は、「西欧型国際秩序」による「パワーポリテックス(力の政
治)」の世界の中で、日本は欧米諸国による植民地化の危機にあり、中央集権国
家による富国強兵政策により軍事力を増強して西欧諸国のようにアジアへの植民
地を求め進出していくことは必然であったとして、日本のアジア侵略を合理化す
る意見がある。当時その意見を代表するのが福沢諭吉の「脱亜論」であった。
「百巻の万国公法は数門の大砲に若かず・・」(通俗国権論l878年)「各国交際
の大本は腕力にあり」(時事証言188l年)というもので、「パワーポリテック
ス」の国際社会を認識していたといえる。そんな中で日本は急速に近代化の方向
に進んで行ったが、アジア全体で見れば清を中心とする封建的な「華夷秩序」が
依然として存在していた。だから日清戦争を野蛮=清と文明=日本の戦であり
「正義」の戦争であるという主張がされたのである。内村鑑三でさえ、一時その
ような主張をしたほどである。

しかしすべての人達が「力の政治」に妥協していたわけではない。すでに自由民
権論者である植木枝盛は「力の政治」の国際社会に対抗して戦争や侵略を否定す
る「無上政法論」(1883年)を発表していたのである。ここでは「万国共議政府
を設け宇内無上憲法を立つる」ことを主張している。その基本は「無上政法は民
権伸長の上について最も大なる関係あり」として自主・独立と民権の伸長を訴え
ている。(5)この主張は当時では、理想主義的であり「一片のユートピア」
(「革命思想の先駆者」家永三郎)であったが最も根本的な批判的な立場を明ら
かにしていた。その後、日露戦争のときキリスト者の内村鑑三や社会主義者の幸
徳秋水が非戦・反戦論をとなえ、さらには中国の辛亥革命のときは三浦銕太郎や
石橋湛山らは「東洋経済新報」で中国革命を断国として支持したのである。そし
て大正デモクラシーの流れのなか、石橋湛山は「満蒙放棄論」「軍備全廃論」ま
で発展していくことになる。世界史的に見ても、社会主義者たちの第二インター
ナショナルの反戦運動、さらにさきにみた第一次世界大戦を契機に侵略戦争を否
定する国際世論が大きく盛り上がることになる。また三一運動や五四運動に象徴
されるようなアジアを中心に植民地主義に反対する民族解放運動が大きく発展し
ていくことになる。
これらの契機になったのが19l 7年のロシア革命であることは誰も否定はできな
い。とくに革命直後、レーニンの提起した「平和についての布告」は無併合、無
賠償の即時講和を提案し、「力の政治」に対し「民族が、どれほど発達した民族
であるか、あるいは遅れた民族であるかにかかわりない。最後に、その民族が
ヨーロッパに住んでいようと、遠い大洋を越えた諸国に住んでいようとかかわり
な」く、完全な民族自決権を主張している。またこれまで帝国主義国による取り
引きの場となってきた秘密外交の廃止を宣言した。これがウイルソンの「平和の
ための14か条」を引き出し、先に見たように戦争の違法化の本格的あゆみを作り
出してきたのである。

このように近代の歴史は「力の政治」の現実に対し、平和と民主主義と道理を基
調として国際関係や政治のあり方を民主主義的に変革させていったのである。し
かしこの方向ばはじめば決して「現実」的ではなかったが、素朴に平和や生活向
上を求める民衆の願いを基礎に発展してきたのである。それば民衆として世界の
それぞれの国民が「主権者lとして成長していく過程でもあり、そして「国家」の
あり方も民主主義的に変革していったのである。近現代史の歴史を学ぶとき、
個々の局面の連続面だけで見るのではなく、やはりl 9世紀から20世紀全体の変遷
を見通した、民主主義を軸にした大局的な歴史の発展の構造が見えるかどうかが
鍵になってくる。歴史の個々の局面の流れに一喜一憂するような近現代史学習で
は未来への展望は見ることはできないのである。

(注)(1)から(15)については、省略させていただきます。(by PEACE)

                                  以上