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   論文>藤岡「自由主義史観」批判−そのデマゴギーを暴く 広瀬信
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広瀬氏より、平和SIGライブラリへの登録依頼がありましたので、博物館ならび
にライブラリ「平和の本棚」に登録します。改行位置など若干の変更はPEACEが行い
ました。転載については、広瀬氏hirose@edu.toyama-u.ac.jpまで直接申し込むか、
私PEACE PEACE@pcvan.or.jp までEmailをお願いします。

広瀬論文開始
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96年1月16日付で、『社会科教育』または『社会科教育別冊 「近現代史」の授
業改革』への掲載を求めて、樋口雅子編集長宛に投稿し、「投稿の呼びかけも行って
いない」というウソの理由(『社会科教育別冊』は「*投稿歓迎*」と宣伝してい
る)で門前払いにされた論文です。(広瀬)


      藤岡「自由主義史観」批判
     ――そのデマゴギーを暴く

                   930 富山市五福3190
                   富山大学教育学部助教授 広瀬 信
                   Email:hirose@edu.toyama-u.ac.jp

はじめに
 戦後50年の昨年、「韓国併合」を美化する江藤前総務庁長官発言や、「欧米も
やっていたので、日本だけが悪いのではない」という趣旨を盛り込んだ「戦後50年
国会決議」など、かつての日本の侵略戦争や植民地支配を美化・合理化する動きが強
められた。自民党のタカ派的潮流からなる「歴史・検討委員会」によって発行された
『大東亜戦争の総括』(展転社)は、そうした流れの理論的支柱ともいうべき書物で
ある。
 「歴史・検討委員会」は、1993年8月10日、細川首相(当時)が、就任後初
の記者会見で、かつて日本が行った戦争は「侵略戦争であった」と発言した(半月後
の所信表明演説では「植民地支配と侵略的行為」と修正)ことをきっかけに、危機意
識にかられて結成されたもので、その趣旨は、「細川首相の『侵略戦争』発言や、連
立政権の『戦争責任の謝罪表明』の意図等に見る如く、戦争に対する反省の名のもと
に、一方的な、自虐的な史観の横行は看過できない。われわれは、公正な史実に基づ
く日本人自身の歴史観の確立が緊急の課題と確信する」というものであった。そし
て、93年10月から95年2月まで、20回におよぶ会合を重ねて、その「成果」
を戦後50年の8月15日に出版したのである。
 このような動きに呼応するかのように、94年4月から『社会科教育』(明治図
書)誌上で連載が始められたのが、藤岡信勝東京大学教育学部教授による「『近現代
史』の授業をどう改造するか」である。95年9月からは『社会科教育別冊』シリー
ズとして『「近現代史」の授業改革』の刊行も開始された。これは、教育運動内部で
公然と始められた侵略戦争美化の動き(その総体は「近現代史」全体の見直しという
大がかりなものだが、その核心は「侵略戦争」という戦争評価の見直し)として、看
過できない動きである。本稿では、連載にみられる藤岡氏の手法が、いかに作為的
で、デマゴギーに満ちたものであるかを解明することによって、「自由主義史観」な
るものの正体を明らかにしたい。

1、「歴史像先にありき」の「自由主義史観」
  藤岡氏は、「近現代史」の見直しを提唱し、自分たちのアプローチを「自由主義史
観」とよんでいる。その問題意識は、「戦後の『近現代史』教育は、自国の歴史に対
する誇りを欠き、未来を展望する知恵と勇気を与えるものではありませんでした。日
本の『近現代史』を暗黒に塗りつぶしてきた『東京裁判史観』の克服が今こそ必要で
す」(『「近現代史」の授業改革』創刊の辞)というものである。
 藤岡氏にとって、日本の行った戦争を「侵略戦争」と描く歴史像(彼はこれを「東
京裁判史観」と攻撃する)こそ、「自国の歴史に対する誇りを欠き……日本の『近現
代史』を暗黒に塗りつぶ」すことになる元凶であり、「『戦争の授業』のパラダイム
を大胆に転換する」ことが、「『近現代史』の授業改革の最も重要な課題の一つ」
1)と位置づけられることになる。そして、「新しい『戦争の授業』のパラダイム」
の「最も重要な観点として」強調されるのは、「自国に対する肯定的イメージに裏付
けられた授業」「ひとことで言えば、『元気の出る』歴史」2)ということになる。
誤解のないように述べておくが、これは近現代史一般についてではなく、「元気ので
る戦争の授業」3)ということなのである。あらかじめ設定されたこのような歴史像
に合わせて、作為的に日本の近現代史像(日本の行った戦争)を描くのが、藤岡氏の
提唱する「自由主義史観」である。それは、決して歴史の真実を学問的に探求するも
のではなく、自民党のタカ派的潮流による『大東亜戦争の総括』と呼応する、かつて
の侵略戦争を美化・合理化するイデオロギーに他ならない。

2、その本質は「大東亜戦争肯定論」
  藤岡氏は、「日本だけ悪者にする『東京裁判史観』も、日本は少しも悪くなかった
とする『大東亜戦争肯定史観』も、ともに一面的です」(『「近現代史」の授業改
革』創刊の辞)と、自分の「自由主義史観」はそのどちらでもない第3の立場である
かのように装っているが、その攻撃目標は、彼が「東京裁判(=コミンテルン)史
観」と歪んだレッテル貼りを行っている(「大東亜戦争肯定論者」からの借り物にす
ぎないが)、日本の行った戦争を「侵略戦争」と見る歴史認識である。
 彼が「一面的」と批判する「大東亜戦争肯定史観」とは何かというと、「単に大東
亜戦争を何らかの意味で肯定することによって特徴づけられる歴史観なのではない。
それに加えてこの戦争の『侵略戦争』としての性格をほぼ全面的に否定するような歴
史観」4)であるとされる。つまり、さすがに彼も、あの戦争が「侵略戦争」である
ということを100%否定することはできないため、「『侵略戦争』としての性格を
ほぼ全面的に否定する」極論のみを「一面的」と批判するのである。しかし、日本の
行った戦争を「侵略戦争」と見る歴史認識を攻撃するためには、彼の言う100%
「大東亜戦争肯定史観」に立つ論者も含め、「大東亜戦争を何らかの意味で肯定す
る」論者とは喜んで手を結ぶのである。実際、彼の論点はもっぱらそれらの「大東亜
戦争肯定論者」からの借り物にすぎない。そのことを簡潔に明らかにするために、彼
の援用する論者と、自民党タカ派的潮流の手になる『大東亜戦争の総括』に登場する
論者との重なり具合を見てみよう。
 藤岡氏が援用している論者の内、『大東亜戦争の総括』に登場する論者は、富士信
夫、江藤淳、小堀桂一郎、西尾幹二、岡崎久彦、総山孝雄、佐藤和男、高橋史朗、田
中正明の9氏である。「一面的」「大東亜戦争肯定史観」と一応批判されながらも、
その著『大東亜戦争への道』を、「戦前の日本の国家行動について最も好意的な解釈
とその裏付けとなる事実を知ろうとすれば、本書に当たるのが一番よいだろう」と推
奨されている中村粲氏を加えれば、『大東亜戦争の総括』の19人の論者中の10人
を占める。
 藤岡氏は、「『大東亜戦争肯定史観』の定義的条件として『一つでも「肯定」の論
拠を認めること』、という条件を設定するなら、今日よほど極端な『東京裁判史観』
信奉者以外は、私を含めてたいていの人が『大東亜戦争肯定史観』のカテゴリーに
入ってしまう」5)と自らも認めているように、「大東亜戦争肯定論者」なのであ
る。それも、さまざまなバリエーションを持つ「『肯定』の論拠」をほとんど否定す
ることのない、かなりの「大東亜戦争肯定論者」である。

3、藤岡氏の果たしている役割
 藤岡氏の援用する論者の多くが、自民党タカ派による『大東亜戦争の総括』に登場
する論者でもあることを見たが、それ以外にも、渡部昇一氏ら、『諸君』、『正論』
などの右派ジャーナリズムの常連が援用されていることは、彼の引用文献をていねい
に見れば確認できる。つまり、藤岡氏の果たしている役割は、これまでなら教育雑誌
にはなかなか登場することのできなかった右派ジャーナリズムの常連達の主張を、彼
の連載を通じて、社会科教育研究者や現場教師へと媒介することなのである。
 藤岡氏がもともと右派的な人物なら、読者もそのような目で見るであろうが、教育
科学研究会の常任委員で、どちらかといえばこれまで文部省に対抗する側に身を置い
てきたと見られている人物であり、『授業づくりネットワーク』誌の編集代表の仕事
などを通じて現場教師に非常に大きな影響力を持っている人物だけに、その媒介効果
は絶大である。また、授業づくりの専門家である彼は、彼を信奉する教育実践家を擁
して、いっしょに教材づくりや授業実践に乗り出している。「侵略戦争美化」を、
「有能な」教育実践家を巻き込んだ教育運動として展開している点が、従来には見ら
れなかった重要な特徴といえる。戦略家でもある彼は、この動きを、やがて「自由主
義史観」に基づく教科書づくりに結びつけることも展望しているものと考えられる。

4「克服」すべき「東京裁判史観」とは
 藤岡氏が、「克服」すべきであると主張する「東京裁判史観」とは何なのか。彼が
依拠する論者の規定によって確認しておこう。
 彼はまず、富士信夫氏の、「東京裁判法廷が下した本判決の内容をすべて真実であ
るとなし、日本が行った戦争は国際法、条約、協定等を侵犯した『侵略戦争』であっ
て、過去における日本の行為・行動はすべて犯罪的であり、『悪』であった、とする
歴史観」(傍線は筆者)6)という定義を引用する。次に、安藤仁介氏の、「第二次
世界大戦後のわが国では、いわゆる東京裁判史観なるものが幅を利かせている。これ
はある意味で、東京裁判の検察側の主張や多数意見判決に範をとり、要するに戦前
の、ひいては明治以後の日本の歴史が、富国強兵と侵略のそれであったとして、これ
を全面的に否定するとともに、その責任を一部の財閥や旧軍部に帰する発想である」
(傍線は筆者)7)という規定を引用し、「安藤の説明により明瞭に示されているよ
うに、『東京裁判史観』は東京裁判が直接の対象とした1928〜45年の期間の日
本の歴史の見方にとどまらず、それ以前の時期を含む明治以後の日本の近現代史全体
の評価におよぶものである。本稿ではそのような意味でこのことばを使うことにした
い」8)と自ら規定している。
 しかし、そもそも、富士の言うように、「東京裁判法廷が下した本判決の内容をす
べて真実であるとなし」「日本の行為・行動はすべて……『悪』であった」とする歴
史観にもとづいて書かれた歴史叙述など存在しないし、安藤のいうように、「明治以
後の日本の歴史」を「全面的に否定する」歴史叙述も存在しない。善か悪かの二元論
で歴史を描くようなやり方は、まじめな歴史研究や歴史教育とは相容れないものであ
る。にもかかわらず、このようなありもしない架空の攻撃目標(「東京裁判史観」)
を設定しておいて、次にみるように、あたかも学校の教科書がそのような「東京裁判
史観」に毒されているかのように読者を惑わすのが藤岡氏の手法なのである。教科書
=「東京裁判史観」という図式を作り上げた上で、「百パーセントの日本弁護論」の
「大東亜戦争肯定史観」も、「悪いのは日本だけ」の「東京裁判史観」も「善玉・悪
玉史観としての共通性」を持っているなどと攻撃する9)に至っては、自分で爆破し
ながら中国側の仕業とした、柳条湖事件での関東軍の謀略的手法とウリ二つである。
富士らの「善玉・悪玉史観」的定義を採用したのはそもそも藤岡氏自身なのだから、
彼によって「東京裁判史観」と描かれるものが「善玉・悪玉史観」なのは当然なので
ある。

5、「南京大虐殺」の犠牲者数にこだわるのはなぜか
 藤岡氏は、『社会科教育』誌上での連載を「『南京事件』についての教科書記述」
で開始し、その後も執拗に犠牲者の「数」にこだわり、「大虐殺派」「虐殺少数派」
「虐殺否定派」のパネルディスカッションまで設定している(結果的に「大虐殺派」
は出席を断り、他の2派で開催)。藤岡氏が、このように虐殺の犠牲者数にこだわる
のはなぜか。
 彼は、何が歴史の真実かということに関心があるわけではさらさらない。とりあえ
ず、最初は、虐殺の「数」には諸説があるということを読者に強く印象づけられさえ
すればよいのである。その上で、虐殺の「数」については、田中正明氏らの「まぼろ
し派」から、板倉由明氏(1.3万人)、秦郁彦氏(3.8〜4.2万人)らの「少
数派」、洞富雄、藤原彰、笠原十九司、本多勝一、家永三郎の各氏らの「大虐殺派」
まで諸説があるにも関わらず、教科書には「大虐殺派」(藤岡氏は、「大虐殺派」は
中国側の数や東京裁判の結論をうのみにしていると不当に攻撃した上で、秦説の約4
万人が最新の研究成果と持ち上げている10) )の10数万〜30万人という数し
か載っていない→教科書の扱いは不当だ→それは教科書が「東京裁判史観」に支配さ
れているからだ、教科書=「東京裁判史観」だという図式に読者を誘導する。「南京
大虐殺」はそのための舞台装置としての役割を担わされているのである。
 戦略家の藤岡氏は、そのような自分の戦略を次のように述べている。「南京事件の
死者の数についての教科書の扱いが確かに不当だということが立証できれば、その扱
い方に集約的に表現されている一方的な見方、すなわち日本は大陸で犯罪を犯したの
だから被害者の言い分はすべて真実として受け入れるべきだ、という卑屈な見方が教
科書を支配していることが確実に言え、そこからその淵源としての『東京裁判史観』
の問題性に迫っていくことができる。これが、私が前回、意図的に採用したストラテ
ジーであった」11)。
 なお、「まぼろし説」や「少数説」が教科書に載っていないのは、教科書が「東京
裁判史観」に支配されているからではなく、それらの説が、学問的に説得力を持って
いないからである。藤岡氏はそれらの説を、「否定派の方々の著書(たとえば田中正
明……)を読むと、その主張もまた本当らしく思える」12) とか、「歴史の真実
を実証的に研究する立場から、板倉論文を本誌に掲載させていただく」13) とか
いって持ち上げるが、「まぼろし説」の田中正明氏が、虐殺の事実を隠すために松井
石根大将の「陣中日記」や「日誌抜粋」を改竄(1985年11月25日付『朝日新
聞』)したり、「少数説」の板倉由明氏が、「数」を少しでも少なく見せるために、
「戦闘で敵兵を殺すこと、付随して不可避的に起こる非戦闘員の犠牲は、『虐殺』で
はないと考えている」とか、将校や兵士の日記などの個人の記録は「原則として人数
算定の資料としては使っていない」14) とするなど、これらの論者は、日本軍の
戦争犯罪である「南京大虐殺」を「まぼろし」にしたり、特別重大な事件ではないも
の(「『数万から十万程度の虐殺』なら戦場では常態」15) )のように歴史を改
竄したいという政治的意図を持った議論なのである。藤原彰氏も述べているように、
「なるべく犠牲者数を少なく計算しようとする意図が見え見えなのが少数論であ」
16) り、学問的には相手にされないのである。

6、藤岡氏のだましのテクニック
 藤岡氏は、授業へのディベート導入の提唱者でもあるが、ディベートとは、設定さ
れた論題に対して、肯定側と否定側が、聴衆に対するその説得力を競う競技であり、
どちらが本当に正しいのかを明らかにすることを目的にはしていない。藤岡氏は、
ディベート研究の専門家であるだけに、極めて巧妙に、読者に自分の立論に説得力が
あるように思い込ませていく。彼がアメリカで弁護士をやれば、有罪を無罪にする
(陪審員にそう思いこませる)名うての弁護士と評判をとるのではないかとさえ思え
るほどである(少しほめすぎか)。しかも、本当のディベートなら、肯定側と否定側
にほぼ互角の論者が立ち、同じ持ち時間内で闘うのだが、藤岡氏の『社会科教育』誌
上の連載の場合は、一方的な一人勝負であり、対抗する論者は登場しない。読者(教
師)の多くは細かな歴史的事実を知らないから、具体的な「事実」を挙げながら、一
定の歴史像をもって歴史が語られると、足をすくわれ、本当のように思えてしまう。
藤岡氏は、このようなことを十分承知した上で、2年計画で長々と一方的に語り続け
ているのである。彼は、様々なだましのテクニックを駆使しているが、一、二、具体
的事例を挙げてみよう。
 (1)「『南京事件』についての教科書記述」について
 藤岡氏は、連載を「『南京事件』についての教科書記述」で始めている。中学校歴
史教科書記述の犠牲者数が、「各社まちまちだ」(実際は、十数万〜20万人で、
30万人は戦死者とあわせた数)と違いを誇張した後、「犠牲者数については長い論
争があり」と、教科書が取り上げていない「少数説」へつなげるための伏線を張り、
「右の教科書にみるようにさまざまな説が行われている(実際は、教科書では、「ま
ぼろし説」や「少数説」は採用されていないが、まずは、さまざまな説があると読者
に印象づける)。ことの性質からして事実は一つしかないのに、数字の見積もりはあ
まりにもちがう(はっきりした犠牲者数の算定は不可能であることをよく承知した上
でこのように述べて、うさんくささを醸し出している)。このような場合、『誰が』
主張している数字なのかを明示して、生徒がその主張のもとの文献にあたり批判的に
検討する手掛かりを与えておくことが最低限必要である(今の教科書が、学術論文の
ようにいちいち出典を明示していないことを百も承知で、うさんくささを醸し出すた
めに意図的に言っている)」と述べる。
 次に、中国人の証言と、それが「反対尋問」に耐えないという富士信夫氏の主張を
引き(「反対尋問」に耐えない証言は誇大妄想だと読者に印象づけることがねらい
で、自分では、証言のどこが事実で、どこが事実でないのかという証明は何もしてい
ない。しかも、反対尋問に耐えないという証言を富士氏の著書から探してきて紹介し
ているのは藤岡氏自身で、「大虐殺派」がそれを決定的証拠だとしているようなもの
ではない)、「問題はこうした証言(一つの証言をやり玉にあげて、他のあらゆる証
言等も信用できないと印象づけるやり方)をうのみにして、白髪三千丈式の数字を合
算する(「うのみ」にしていることを自分で証明もせずに断言する)政治的意図のほ
うにある。東京裁判の『20数万人』説はこのようにしてでき上がったのである」
17) と、何も証明せずに断言し、次の「東京裁判史観」批判につなげている。
 藤岡氏は、連載第二回目でも「南京事件の犠牲者数」を取り上げる。「前回、南京
事件の死者の数について中学校の歴史教科書に記述されている数字が根拠の乏しいも
のであることを書いた」と、教科書の記述が、何を根拠にしているのかはいっさい検
証せず、「根拠の乏しいもの」と断定とした上で、秦郁彦氏の主張を紹介しながら、
「虐殺されたと考えられている人数をみずからの責任においてあげているのが、秦郁
彦、板倉由明、畝本正己の三氏だけ」と根拠も示さず断定し、さらに「虐殺派の場合
は中国側の数字を『そのまま紹介、引用』(秦論文)しているだけ」と攻撃し、信用
できない数字だと読者に印象づける。そして、秦氏の著書を「歴史家らしい史料批判
に基づく冷静な検討が行われている」と持ち上げ、「日本の教科書は中国側や東京裁
判の結論をうのみにするのではなく、日本の歴史家の最新の研究成果に依拠すべきで
ある」「すでにみたように、現行の教科書のほとんどは、……中国側または東京裁判
の結論をあげているだけなのである」18) と断定・攻撃する。だが、賢明な読者
ならお気づきだと思うが、藤岡氏自身が紹介した6つの教科書の内、3つの教科書が
採用している「十数万人」というのは、中国側の30万人説や、東京裁判の20万人
説を「うのみ」にした数ではない。藤岡氏は、自分の立論のためには、自分で作った
土俵も勝手にゆがめて平気なのである。「虐殺派の場合は中国側の数字を『そのまま
紹介、引用』しているだけ」と断定するのも、藤原彰氏も批判するように、「事実に
反する言いがかり」であり、数々の研究を「知っていても全然無視したうえでの」
19) デマゴギーなのである。しかし、詳しい知識を持たない読者の場合は、本当
のことに気づかない。藤岡氏はそのことを十分承知した上で論じている確信犯なので
ある。

 (2)「『非戦闘員三〇万虐殺』の虚構」について20)
 藤岡氏は、連載第18回目でも「犠牲者数」の問題を取り上げている。まず、
「『虐殺』とは何か」と問いを立て、「非戦闘員=民間人を殺害するような時に『虐
殺』という言葉が抵抗感なく使える」とし、「兵士が敵の兵士を殺すのは普通の戦闘
行為であって『虐殺』とはよべない。このことこそ、『虐殺』の定義においてもっと
も重要なポイントである」と定義する。次に、「『南京大虐殺』とはどういう事実を
指すのかということについて、私が長い間抱いていたイメージは、南京市内に入城し
た日本軍が、丸腰の中国人市民を無差別に掠奪、強姦、放火、虐殺した結果、死者
30万人に及んだ、というものである。ここでのポイントは、死者の中に中国軍の兵
士は含まれていないということである。武装した日本軍が無この市民を襲撃して殺害
する。だから『大虐殺』なのである。『南京事件』について特に自分で調べてみよう
としない限り、大方の人々のイメージは右のようなものではないかと思う」と、自分
も含め「大方の人々」がそうだ述べて、読者が、自分も「南京大虐殺」=「中国市民
30万人虐殺」と教えられてきたと自己確認するように仕向けていく。その上で、本
多公栄氏の実践記録『ぼくらの太平洋戦争』の中から、本多が中国の教科書の記述と
して提示した史料として、「一ヶ月あまりのうちに殺された非戦闘員は30万を下ら
なかった」という部分を引用する。次に、南京陥落から4日後の12月17日の文書
が南京市民の数を「20万人」としていることを示し、「正常な知能をもった人なら
ば、あることに気づくはずである。そう、20万の人口の市で30万の『虐殺』をす
ることはできないということである」と述べ、この事実が、本多の示した「中国の教
科書のウソを暴露している」と結論づける。さらに、中国の教科書という「旧敵国の
プロパガンダを史実として与える」から、「反対尋問の機会を保障しない」から
「『非戦闘員三〇万虐殺』の虚構」が真実であるかのように印象づけられてしまうの
だとたたみかける。そして再度、「『虐殺』の定義にかかわるポイントは、戦闘員と
非戦闘員の区別である」と主張する。
 このように、「事実」を具体的に積み上げた議論を展開されると、いかにも「『非
戦闘員三〇万虐殺』の虚構」ということに納得してしまいそうになる。見事なディ
ベーターである。しかし、藤岡氏はここでも、読者が何も知らないものと馬鹿にし
て、だましのテクニックを確信犯的に駆使しているのである。そのトリックは、「非
戦闘員=民間人」というすり替えにある。しかし、「非戦闘員」には、武器を捨てて
市内に逃げ込んだ兵士や、捕虜も含まれるのである。「30万人」が正しいかどうか
は別にして、「非戦闘員三〇万虐殺」=「一般市民三〇万人虐殺」ではないのであ
る。そして、事実、「南京大虐殺」では、武器を捨てて逃げ込んだ兵士や、無抵抗の
捕虜がたくさん虐殺されたのである。「大虐殺派」の文献にも通じている藤岡氏がこ
の事実を知らないはずがない。藤岡氏は、そのことを十分承知しながら、読者をだま
しているのである。
 しかし、藤岡氏は、ここでついに墓穴を掘ってしまった。自分が反対尋問にさらさ
れずに、一方的に長々と語り続けられる安逸さに油断してしまったのであろう。賢明
な読者ならお気づきであろうが、連載の第一回目に、藤岡氏自身が引用した現行中学
校の教科書に「その死者の数は、……女性・子どもをふくむ一般市民で7〜8万、武
器を捨てた兵士をふくめると、20万にもおよぶといわれる」(東書)と書いてあっ
たのである。藤岡氏は、自分の文章でもその事実を確認しているため、「知らなかっ
た」と言い逃れはできない。明らかに、この事実を知りながら、意図的に読者をだま
したのである。藤岡氏自身の表現をもじって言えば、藤岡氏が、「南京大虐殺」の犠
牲者に「武器を捨てた兵士」が多数含まれているということを知りながら、「大虐
殺」説=「一般市民三〇万人虐殺」説だと意図的にねじまげるデマゴーグだ「という
ことが立証されれば」、そのデマに「集約的に表現されている」デマゴーグとしての
体質が、藤岡氏の連載全体に貫かれているということが「確実に言え」、それによっ
て「自由主義史観」なるもののインチキ性を暴くことができるのである。

おわりに
 最後に、これまでの歴史教育が、「日本の社会を暗く描きだした」ために、子ども
たちが「自国の歴史に対する誇りを欠」いてしまうのだという藤岡氏の主張に共感を
覚えておられる読者のみなさんに、私からのメッセージを送りたい。
 藤岡氏や「大東亜戦争肯定論者」の言うように、過去の歴史の事実を覆い隠すこと
によって、作為的に、日本の近現代史を「明るく」描くことで本当によいのであろう
か。そうではなくて、過去の歴史の真実を真摯に見つめ、そこから教訓を汲み取り、
明るい未来を展望できる歴史をこそ語っていくべきなのではないか。決して「暗い歴
史」でもいいではないかと言っているわけではない。私は、民主主義と平和の実現を
追求し、前進してきた20世紀の人類史という「大きな物語」の中に位置づけて、日
本の近現代史を語るべきではないかと思うのである。森田俊男編著『増補版 人類の
良心=平和の思想』(平和文化)のご一読をお薦めする。
<注>
 1)『「近現代史」の授業改革1』明治図書、1995年9月、12頁。
 2)、3)前掲誌、15頁。
  4)『社会科教育』明治図書、1994年9月号、122頁。
 5)前掲誌、121頁。
  6)前掲誌、1994年4月号、118頁(富士信夫『私の見た東京裁判(下)』
    講談社学術文庫、1988年、542頁)。
  7)前掲誌、118〜9頁(マイニア(安藤仁介訳)『東京裁判勝者の裁き』新装
      版、福村出版、1985年、216〜7頁)。
  8)前掲誌、119頁。
  9)前掲誌、1994年8月号、118〜9頁。
  10)前掲誌、1994年5月号、115〜6頁。
 11)前掲誌、118頁。
  12)前掲誌、1995年6月号、117頁。
  13)『「近現代史」の授業改革1』明治図書、1995年9月、72頁。
  14)前掲誌、73頁、75頁。
  15)前掲誌、74頁。
 16)藤原彰「南京大虐殺の犠牲者数について」『歴史地理教育』、1995年3月
      号、67頁。
 17)『社会科教育』明治図書、1994年4月号、114〜7頁。
 18)前掲誌、1994年5月号、115〜6頁。
 19)藤原前掲論文、66〜7頁。なお、笠原十九司「戦争責任と歴史教育――藤岡
      信勝氏の『東京裁判史観批判論』を批判する」(『アジアの中の日本軍』大月
      書店、1994年9月、所収)が、南京事件の専門家の立場から、藤岡氏のこ
      れらの議論に対する詳細な批判を行っているが、藤岡氏は、『社会科教育』の
      読者がこの本を読むことはほとんどないと高をくくって、まともに批判に答え
      ていない。
 20)『社会科教育』、1995年9月号、118〜21頁。