暗黒の火曜日:イスラマバードから
ペルベース・フッドボーイ (Pervez Hoodbhoy)
廣田和馬、田崎晴明訳(改訳版)

 「文明の衝突」というサミュエル・ハンチントンの邪悪な願望は、火曜日のテロ事件を契機におそらく現実のものとなるだろう。世界各地のイスラム教徒を外の世界と隔てていたひび割れは、もはや単なるひび割れではない。それは深い溝であり、橋をかけない限りは、必ずやその両岸を破滅させるだろう。世界中のほとんどの人々にとって、罪のない人間を満載したジェット機が、やはり罪のない人間でいっぱいのビルに突入していくのを目の当たりにするのは、言葉で表せないほどにむごい体験だった。

 ビルの中の地獄の火炎に焼かれるよりはと、崩れ落ちる世界貿易センタービルの八十階から人々が飛び降りていくのは、まさに身の毛もよだつ光景だ。そう、そして、大勢のイスラム教徒たちもまた全く同じ思いを抱きつつこれらの光景を見て、燃えんばかりの苦悩を同じように痛烈に感じたのである。それは事実だ。イスラム教国の首脳たちはみな、サダム・フセインを除いて、攻撃を非難した。アメリカ、カナダ、イギリス、ヨーロッパそしてオーストラリアのイスラム教共同社会のリーダーたちも、熱意をこめてテロを弾劾し、一般のイスラム教徒と過激派を区別する必要があることを訴えている。

 しかし、現実はこれに尽きている、などというふりをするのはやめよう。それは、単に事実を見えにくくし、解決への模索を遅らせることにしかならない。テレビで流されたパレスチナ人たちが歓喜する光景を、例外的なものとして、ひと握りの人々の愚かな政治的未熟さを示すものとして、片づけてしまいたくなるかもしれない。だが、それは楽観的にすぎるだろう。同じように、政府の厳しい管理下にあるパキスタンテレビは、テロ攻撃への糾弾で一致団結した国の姿を映し出そうとしている。ここイスラマバードにある私の大学の学生や、町の人たちや、ウルドゥー語の新聞をとおして知った限りでは、これもまた真実とは食い違っている。私の友人によると、イスラマバード空港の公共テレビに集った群衆は、世界貿易センタービルが崩壊するのを見て喝采の声をあげたという。どうにもやりきれない思いになる。

 奇怪な新しい世界がわれわれを待ち受けている。そこでは、社会的、政治的な行動についての古い規範は崩れ去り、新しい規範は未だ定められていない。一連の事件の圧倒的な力によって暗闇と恐怖にみちた状況へと投げ落とされてしまった以上、理性をもった人間として、われわれは早急に何らかの対応を練りあげなくてはならない。権力や実用性に根ざしたものではなく、道義的な対応を。そのためには、「全人類の根本的な平等性」という明解に定義された道義的な前提から出発する必要がある。さらに、入れ替えの効かない明確な順序にしたがって行動する必要もある。

 何よりも前に、「暗黒の火曜日」の大量虐殺は、いっさいの限定や条件抜きに、もっとも苛烈な言葉によって糾弾されなければならない。たとえ間接的にであっても、虐殺を正当化するような原因や理由を探す必要はないし、被害者や犯罪者たちの国籍を考慮する必要もない。襲撃者たちの狂った自滅的な憤激が、この無差別大量殺人という忌むべき行為を生み、それは世界をより悪い方向へ変えてしまったのだ。道義的な議論は、付け入る隙のない糾弾から始めなくてはならない。それなくしては、人々が意見を交換するための言語さえもが失われてしまいかねない。

 その上で、分析に移ろう。これも同様に不可欠である。「テロリスト」遺伝子などというものは知られていないし、今後も見つからないだろう。だから、攻撃者たちもそれを支援した者たちも、おそらくはみな普通に生まれてきたのだろう。だが、何物かに苦しめられたために、彼らは、優しさや愛情を抱きうる普通の人間から、人を殺すことしか頭にない自暴自棄の狂った悪魔へと変貌してしまったのだ。それはいったい何だったのだろうか?

 悲しむべきことに、CNN もアメリカのメディアも、今までのところ、ほとんどこの苦しみを理解しようとはしていない。もしこの状況が続くのなら、理解を怠ったことの代償は恐ろしいものにならざるを得ない。おそらくは、われわれが目撃したことは、やがて二十一世紀を「テロの世紀」と呼ばせることになる、同様の多くの悲劇の第一番目となるだろう。「テロとの闘い」には多分に場当たり的なところがあり、現在でもおそらく何十億ドルもが、ミサイル防衛システムという馬鹿げた計画は言うに及ばず、監視や防衛や緊急対策などにつぎ込まれている。

 しかし、ナイフとカッターだけで武装したほんの数人の自爆テロリストたちが、どうしようもないほど効果的に証明してみせたように、これらはすべて全くもって無意味なのだ。近代国家は、あまりに脆弱で、防衛などできないのである。スーツケース入りの核兵器なら、ビルを一つ二つだけでなく、マンハッタン全体を瓦礫にすることもできるだろう。したがって、生存のためのごく単純な論理に従えば、テロリズムの根本にあるものに立ち向かうとき、生き残る確率がもっとも高くなると結論できる。

 自爆テロリストのサービスを金で買うことができる、あるいは、どんな場所でも彼らを意のままに養成できる、などと信じるのは愚か者だけだ。テロリストたちが養成される土壌は、そうではなく、文明から取り残され朽ちはてて行くにまかされた、難民キャンプなど人間がくずのように捨てられた場所にあるのだ。世界的な超大国は、彼らの窮状に関心を示さず、明らかに抑圧者の側に立って、その政治姿勢に対する限りない憎しみを育て上げてきた。

 アメリカ合衆国は、この上ない傲慢さをもって、世界各国の意見に関心を払うこともなく、イスラエル占領軍によるパレスチナ人への日常的な強奪と拷問を公然と容認してきた。カナ、サブラ、シャティラの難民キャンプでの虐殺についての完璧なまでの沈黙。ペンタゴンが行なったイラクでの七万人にものぼる人々のテレビゲームのような殺戮。これらが、ついに、人としてなしうる最悪の行為を招き寄せてしまったのだ。ロバート・フィスクの言葉を借りれば、「抑圧され屈服させられてきた階層を代表すると称する者たちが、滅ぶべき民の邪悪さと恐るべき残虐性をもって反撃してきた」のである。

 そのような復讐から、あるいは、オサマ・ビン・ラディンとその一派はアフガニスタンでの CIA の失敗の落とし子であるという明白な事実から、満足感を引き出すのは、馬鹿馬鹿しいし、残酷でもある。真に問われるべきなのは、そうではなく、この惑星に住むわれわれが、ここから先どこへ進んでいくのか、ということである。いまだくすぶり続けている世界貿易センターの廃墟からどのような教訓を学び取るべきなのか?もし、その教訓が、アメリカはその軍事力を見せつける必要がある、ということであるなら、未来は限りなく暗い。実際、コリン・パウエル国務長官は「一回の報復攻撃では終わらせない」と約束している。だが、いったい誰に対して? そして、どんな目的のために? アメリカが大虐殺に打って出るのが馬鹿馬鹿しいほど容易だということを疑う人はいない。しかし、数千人のアフガニスタンの人々の死体が、平和をもたらすことはないし、より一層悲惨なテロがおこる可能性を微塵も減らすことはないのだ。

 行動を起こすな、と主張しているのではない。同じようなテロ組織の場合と同様に、オサマ・ビン・ラディンと彼の組織を発見することができれば、彼らは法の下で裁かれねばならない。しかし、無差別の大量殺戮を行なっても、すでに燃えている憎しみの炎にさらなる油を注ぐことにしかならないのだ。現在、アメリカは被害者だが、アフガニスタンへの絨毯爆撃を行えば、世界からアメリカによせられている同情心の大きな高まりは無駄に散っていくだろう。爆撃は、むしろ、強い反感だけを生み出し、とどまるところのない殺戮と報復の泥仕合を押し進めることになる。

 つきつめていけば、アメリカが安全を確保するための道は、世界の人々、殊にこれまでアメリカが過酷に迫害してきた人々と、再び結びつきを深めることにある。市民の生命と自由を保護する素晴らしい憲法をもった偉大な国家として、アメリカはその「人間」の定義を世界中の人々にあてはめなくてはならない。アメリカは、温室効果や生物兵器などについての国際条約を守り、NMD を押し進めることで新しい冷戦を作り出そうとすることを止め、国際連合に分担金を支払い、また、グローバリゼーションの大義名分のもとで富を拡大することをやめねばならない。

 しかし、新しい行動の流儀を学ぶ必要があるのはアメリカだけではない。イスラム教徒、とくにアメリカ、カナダ、ヨーロッパに住むものたちにとっても、重要な教訓がある。昨年、パキスタン・イスラム党の超保守主義の党首、カジ・フセイン・アマドが、ワシントンにおいてアメリカ人の聴衆の前で講演を行なった際に、「自分の好きな服を着て、モスクで祈りを捧げ、自分の宗教について説くことができる多元的な社会」のことを高く褒め称えるのを、私は聞いた。パキスタン、あるいはほとんどのイスラム教国での宗教的少数派には、そのような自由は、確実に存在しないのである。罪のないイスラム教徒に向けられた見当違いの怒りが早く静まること、そして、宗教に対するそのような自由が大きく損なわれることがないように希望している。それでも、この多元主義が永続しうるかどうかについては深刻な疑問がある。もし続かないとしたら、それはいったい誰の責任になるのだろうか。

 問題は、移民してきたイスラム教徒の共同体が、概して、一体化よりも孤立化を選んできたことにある。これは、長い目で見れば、根本的に不健全な状況である。疑惑と摩擦を生み出し、ともに生活していくことをますます困難にしてしまうからだ。さらに、自分たちとは別と見なしている社会、敵対心を感じている社会の富に頼って生きているということについての深刻な倫理的疑問も生じてくる。もちろん、イスラム教徒としての自己を捨て去れと主張しているわけではない。しかし、主流をなす人々との密接な交流がなければ、多元主義は脅威にさらされることになる。結局のところ、この共同体が生き残れるかどうかは、過激派と一般のイスラム教徒との違いを強く際立たせることと、暴力に身を任せた聖戦分子たちを共同体内部から追放することにかかっている。アメリカ政府の政策が悪いからといって、一般のアメリカ人を格好の標的だとみなすようなイスラム共同体のメンバーには、そこにいる資格はないのだ。ブッシュ氏の「間違えないでほしい[1]。」という言葉をそのまま返そう。ただ、ここでいう間違いとは、すさまじい恐怖からさめやらぬまま、理性よりも感情を優先してしまうこと、非力なアフガニスタンの人々を爆撃して石器時代のより初期にまで追いやってしまうこと[2]、そして、脊髄反射的にこれらと類似の行動をとってしまうこと、であろう。われわれは、それよりも、何十億年にわたる忍耐強い進化に敬意を表して、頭脳に責任を委ねるべきなのだ。さもなければ、人類という種が生き残ることはまったく保証されない。


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これは、Hoodbhoy 教授がその知人に回覧した BLACK TUESDAY: THE VIEW FROMISLAMABAD の全訳である。(暫定版公開 9/19/2001、改訳版最終更新日 9/27/2001)

引用、印刷、複製、ファイルのコピー等は自由に行なってよいが、ネットワーク上で行なう場合には、インデックスページ(日本語、英語)へのリンクをはっていただくとありがたい。翻訳について有益なコメントをくださった、佐藤大、原隆、廣瀬覚、松竹龍之輔、 katok の各氏に感謝する。英語の原文と翻訳の最新版は、http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/hoodbhoy/ から入手できる。

訳注 1: 原文は "Let there be no mistake." だが、ブッシュ氏の口癖である"Makeno mistake." のことであろう。たとえば、テロ関連の演説のなかでも、ブッシュ氏は、"But make no mistake: We will show the world that we will pass thistest." (スピーチの全文)と語っている。彼の場合は、「間違えないでほしい(=以下の事は本気で言うのです):われわれは、この試練にうち勝つところを世界に見せることでしょう。」のように以下の文を強調する前置きとして使っている。

訳注 2: 「・・・を爆撃して石器時代に追いやる (bomb ... back to the StoneAge)」というのは以前からある表現だそうである。(ベトナム戦争当時の(醜い)例文:"Let's just bomb them back into the Stone Age and get this thing overwith once and for all.")ここで「石器時代のより初期」と言っているのは、現在アフガニスタンが既に「石器時代」にあるようなものだ、ということをほのめかすためであろう。近代国家からは想像もつかないアフガニスタンの惨状は、日本のマスコミでも昨今頻繁に取りあげられている。

南アジアの核化に反対するパキスタンの物理学者

ペルベース・フッドボーイ Pervez Hoodbhoy (パキスタン)
メリーランド大学客員研究員、カイゼアザム大学教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)より核物理学の博士号取得。 長年南アジアの核化に反対する論陣を張ってきた。その他、イスラムと科学、女性問題、教育問題などさまざまな社会問題についても執筆・講演活動を続けている。

この記事はhttp://www.gakushuin.ac.jp/~881791/hoodbhoy/index-j.htmlを参照いたしました。報復戦争反対の声を広げたい一心で、全文引用させていただきました。