本の紹介

堀田善衛著「広場の孤独」を再び読む
−朝鮮戦争から50年後の日本−

堀田善衛
1918年富山県生、慶応義塾大卒。51年「広場の孤独」などで芥川賞受賞。また、モンテーニュの生涯を描いた近著「ミシェル城館の人・全3部」で第8回和辻哲郎文化賞受賞。

H.H



 今、なぜ堀田善衛なのか。

 私にとっての堀田善衛は、今の日本社会の政治的経済的混乱と、アフガニスタン侵略戦争への加担という状況を見るにもっともふさわしい戦後文学作家の1人である。


 米国は今、アフガニスタンの民衆を大量殺人兵器によって虐殺し、アフガニスタンの国土を徹底的に破壊している。そしてその米国に対し大慌てになった小泉内閣は、戦争の放棄をうたった日本国憲法に違反し、パキスタン近海への自衛隊派兵を行っている。第二次世界大戦の深い反省を全く無視して再び「戦争への道」を歩みだしている政府の責任者に対し強い怒りを覚える。私達はこのままでよいはずが無い。






 小説「広場の孤独」は、作家堀田善衛が、当時十五年戦争が終わって再び朝鮮戦争という時期、昭和26年(1951年)に発表した作品で、翌年昭和27年1月に芥川賞を受けた。これは、もちろん、堀田善衛の処女作ではない。しかし、この時期、戦後にただよっていた漠然たる平和と自由の雰囲気を一挙に吹きとばし海峡をひとつ隔てた隣の国で起こった新たな戦争に、当時置かれていた日本の立場、あるいは日本人が漠然と感じていた気持ちに深く通じ合うものが「広場の孤独」という表題に合ったといわれている。


 日本はアメリカ軍基地としての重要な役割をはたした。人間として、どのようにこの時代の中で生きていけばよいのかという事を「時代の動き」を主人公にしてその中で揺れ動くものを表現しようとした作品である。


 私がそもそも堀田善衛という作家の存在を知ったのはずっと昔の事であった。もっともそのころの私は、「青年の環」に代表される野間宏に夢中になって読み続けていて、被差別部落問題や戦前の革命運動の実態と、青年たちの夢と性を重厚に描くスケールの大きなテーマに当時の社会の雰囲気を感じていた。堀田善衛について知っていたのは「広場の孤独」で芥川賞をとった人物ということぐらいであったから、作家としての堀田を知っていたとはいえないものであった。


 その「堀田善衛」が再び私の前に現れたのは、今から四年前、O市の喫茶店で「戦争の惨禍」という画家ゴヤの版画を友人から見せられた時である。その画家の生涯を大作「ゴヤ」で活写したのが堀田善衛であった。ヨーロッパ近代の夜明けともいうべき時期にスペイン宮廷画家に上り詰めたゴヤの生涯とその画業、その背景にあるヨーロッパ社会を見事に描いた堀田善衛の力業に私は魅せられ、それから彼の本を読むようになった。







 「広場の孤独」は、冒頭、主人公の木垣が勤める新聞社に飛び込んできた南北朝鮮の動乱情報を伝える電文から始まる。


 電文は二分おきぐらいに長短いりまじってどしどし流れ込んできた。「えーと、(戦車5台を含む共産軍タスク・フォースは)と。土井君、タスク・フォースって何と訳すのだ?」「前の戦争中はアメリカの海軍用語で、たしか機動部隊と訳したと思いますが・・・・」「そうか。それじゃ、戦車五台を含むタスク・・いや敵機動部隊は、と」
副部長の原口と土井がそんな会話をかわしていた。木垣は「敵」と聞いてびっくりした。敵?敵とは何か、北朝鮮軍は日本の敵か? 



 昭和26年朝鮮戦争勃発によって起きた新たな内外の情勢の中で新聞社の渉外部に臨時雇いになった主人公木垣が外信のテレックスを翻訳する仕事をする。そのなかで北朝鮮共産軍を「敵」と訳すべきかどうか自己決定を迫られる。木垣は、自らの戦争体験によって「人間というものはたまらない」という人間に対する深い絶望感を抱いていた。彼はそのためあらゆることへのコミットを極度に恐れていた。彼の妻もまた、戦前の上海時代の過酷な体験から同じであった。


 彼の周囲にはこの戦争を日本再建の絶好のチャンスと考える物欲丸出しの上司や、この機会を革命に転化しようと考えている若い生真面目な共産党員たちがいた。前の戦争で死んでいった多くの若者たち(それは、長編「若き日の詩人たちの肖像」に詳細に書き込まれているが)を見てきた主人公木垣はただうろうろと迷うばかりであった。


 新聞はこの戦争に積極的にコミットし日本の世論も「米国人が血を流して持ちこたえている」としてしか見ていない。主人公木垣にとっては、この朝鮮戦争は地獄の朝鮮戦線から戻った米国特派員がいうような「人間の幸福」のためではなく、人間の「惨劇」としか映らなかった。日本は再び人殺しの行為を始めようとするのか、そして自分もまた・・・。


 しかし最後になって、木垣は戦争のない外国へ逃げようと企てる妻を押しとどめて、旧オーストリ−貴族が亡命資金としてよこした千三百ドルの紙幣を(それはこの貴族が第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で稼いだ金であったが)を自らの手で焼いたのだった。彼は、日本の現実に踏みとどまろうと決心したのだった。







 なぜか。


 戦後日本の民主主義はマッカーサーが1947年の2.1ゼネストに中止命令を出したとき、多くの若者たちがレッドパージで職場を追われ、捕まっていったことで、すでに深くゆがめられていたのだった。一人の青年が朗読する声を聞く。


「雨ニモ負ケテ  風ニモ負ケテ  アチラニ気兼ネシ  コチラニ気兼ネシ  ペロペロベンガコウ云エバハイト云イ  ペロペロべンガアア云エバハイト云イ  アッチヘウロウロコッチヘウロウロ  ソノウチ進退キワマッテ  窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ  オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ  ソウイウモノニワタシハナリソウダ  ソウイウモノニニホンハナリソウダ・・・・・・」


 「広場の孤独」の主人公木垣は、どこまでも第三者として、自己の現実を持たぬ国内亡命者として終始する事は出来ない。現実を動かす巨大な力にもみくちゃにされ、その力からはね出されている存在にすぎぬ自分の条件こそ、ほかならぬ自分の現実である事をついにようやく自覚するに至った。自分には現実がないという事実の確認とはなんだろうか。


 それは、堀田善衛の言葉から言えば「芸術至上主義」の自分が、中国での戦争体験でメチャクチャなことをやっていた日本の占領の実態を見て、日本の近代化が帝国主義的になっていった現実をはっきり認識した事なのだ。自分の文学、芸術が、中国侵略と結びついているという覚醒であった。その認識の上に自らの現実を創造する以外に道がない事を悟る。主人公木垣の紙幣を燃やす行為は、個人的な脱出とか自己形成が戦時利潤のおこぼれによってしか行われないことにたいする自覚とそういう余得の断固たる拒否とを物語っている。


 自分の文学、芸術が、日本帝国主義の中国侵略と深く結びついていたという覚醒は、決して、書物の中の理解ではなく、実際の中国本土での敗戦直後の上海から日本崩壊を見ていた詩人堀田善衛の原点であった。


 小説の最後は次のように結ばれている。


・・・・二人の跫音が消えたとき、木垣はぶるっと頭を振って再び空を仰いだ。星々はいつの間にか消えてしまって、空はいつものように暗かった。光りは、クレムリンの広場とかワシントンの広場とか、そういうところにだけ、虚しいほどに煌々と輝いているように思われた。そして彼はそこにむき出しになっている自分を感じた。生まれてはじめて、彼は祈った。レンズの焦点をひきしぼるような気持ちで先ず書いた。


 広場の孤独  と。


 こうして、主人公木垣は、新たな自己の現実を創造する以外に道のないことを悟り、その一歩を踏み出したところで、この小説は終わっている。



           




 「自分には現実がないという事実の確認」と「新たな自己の現実を創造する以外に道はない」という覚悟は、文学者堀田善衛の覚悟でもあったが、それはまた、「世界の中の日本が、世界の情勢の中で新たな現実を創造していくべきだ」との主張も込められていたはずだ。それがゆえに小説「広場の孤独」は、作者である堀田善衛にとって、朝鮮戦争によって新たな資本主義的発展を遂げようとする日本の現実に対して、その深層を探り、また、アジア、アフリカ作家会議に奔走する始まりでもあったのだ。


 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件をきっかけにして、アメリカはアフガニスタンへの侵略戦争をおこない、多くのアフガニスタン人をその大量殺戮兵器によって虐殺している。私達は、韓国を訪ね、強制連行された人や従軍慰安婦となった人々と交流し韓国が日本の植民地であったという歴史と、今もそのことを、ソウルの日本大使館前で、告発し、日本各地で訴えている人々の現実を知った。そして、沖縄では、基地撤去のために戦う反戦地主の皆さんと、基地沖縄の現実をこの目で見てきた。


 そしていま、「力こそ正義」のアメリカ帝国主義に世界中の国々の政府権力者たちが追従している現実を見ている。


 アフガニスタンで18年間医療活動を行ってきた医師が、日本の国会で「自衛隊のパキスタン派遣は有害無益のなにものでもない」と言い放ったとき、日本国の国会議員は笑い、そして怒り出した。私達は、そのような国会議員を笑えるのだろうか。怒れるのだろうか。日本人全体が、私達も含めて、日本列島の中で生きてきて、このような視点からの現実認識を、本当に持ち得なかったのではなかろうか。あるいは忘れてしまったのではなかろうか。


 堀田善衛は、今から丁度半世紀まえに、小説「広場の孤独」で、そのことを日本人に訴えていたと思う。