ここがあぶない!「つくる会」教科書と現行教科書の違い(歴史)

「つくる会」教科書と現行の教科書はどこが違っているのだろうか?ここでは「歴史」の一部に限って比較してみた。なお教科書引用中の下線は引用者が後からつけたものである。 また<>は小見出しを─・・・─はb社の中見出し下のリード(その項目での問題点が示されている)を表している。             

日本の朝鮮植民地化(韓国併合)
中国侵略関係

太平洋戦争

日本の朝鮮植民地支配(韓国併合)を中心に

●中国侵略を中心に

●太平洋戦争を中心に

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)


第5章1節「第一次世界大戦の時代」

57.「世界列強の仲間入りをした日本」    

<韓国併合>


第7章3節「日清・日露戦争と資本主義の発展

「朝鮮国に黒々と−韓国併合と辛亥革命」

─日本は、朝鮮を植民地化するうえで、どのような政策をとったのだろう。─

★タイトル

タイトルそのものから大きく異なる。

aでは「世界列強の仲間入りした日本」として「韓国併合」を挙げている。朝鮮を植民地支配したことの反省は微塵も感じさせない。

bではその当時の世界的状況を客観的にのべ、サブタイトルで「朝鮮の植民地化」ということをはっきり述べている。

 bの「朝鮮国に黒々と」とは韓国併合を批判した啄木の「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」という唄。タイトルの直後のリードで紹介し植民地化への反省をにじませている。

 

52.「朝鮮半島と中華秩序の崩壊」

<朝鮮半島と日本の安全保障>

「東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて、海に浮かぶ島国である。この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本の敵対的な大国の支配化に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難になると考えられていた。」

<朝鮮をめぐる日清の対立>

「長い間、清に朝貢してきた琉球が沖縄県となり・・・ベトナムがフランスの支配下に入った。朝貢国が次々と消滅していくことは皇帝の得の衰退を意味し、中華秩序の危機を示すものだった。そこで清は、最後の有力な朝貢国である朝鮮だけは失うまいとし、日本を仮想敵国とするようになった。日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは、日本の安全にとっても重要だった。」

   

 

「せまる列強の足音−帝国主義の時代と東アジア」

<帝国主義の時代>

19世紀後半から20世紀初めにかけて・・列強は、輸出市場や資源、植民地を求め、現地の人々の抵抗を武力でおさえつけて、アジア、アフリカなどの発展途上地域に勢力を拡大した。イギリスは、インド、エジプト、ビルマなどを植民地とし、フランスは、北アフリカやインドシナに進出した。・・このような列強の動きを帝国主義という。

「『眠れる獅子』と呼ばれ、実力をおそれられていた清が、日清戦争で新興国日本に敗れたため、欧米列強はいっせいに清に勢力をのばした。」

 

「朝鮮(韓国)を勢力下に置こうとしていた日本は、ロシアの満州占領に大きな脅威を感じた。そこで日本は、ロシアの行動に警戒を深めたイギリスに近づき、1902年、日英同盟を結んだ。

<日清戦争>

朝鮮に勢力を広げようとした日本の政策は、朝鮮を属国とみなす清と対立した。」

aの記述は非常に主観的。朝鮮半島が日本を「攻撃する」「大陸から(突き出た)一本の腕(と考えられていた)」ということが学ぶべき歴史的事実であろうか。

朝鮮をめぐる日清の対立はaでは清の衰退による「中華秩序の崩壊」によるものであり、日本は朝鮮の独立を援助した善意の被害者のような記述である。

bでは当時の列強による植民地支配が客観的に述べられており、そのもとでの朝鮮をめぐる日清の対立が描かれている。

 aで述べている当時の時代のそれらしき記述は「19世紀末から20世紀はじめにかけて、日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では、単独で自国を防衛するのは不可能だった。」−aで学んだ生徒が「19世紀後半から20世紀にかけて列強が植民地化したことを何と言うか」というテストで「弱肉強食」と答え×をもらわないよう祈るのみである。

★「韓国併合」について

<韓国併合>

「日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。・・こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。

 韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。」                       

                 

                 

 

<朝鮮の植民地化>

「日露戦争に勝利すると、日本は韓国を保護国とし、統監府を置いて、韓国の外交権や内政の実権を完全に奪った(韓国併合)。この後日本は36年にわたって、朝鮮を植民地として武力で支配し、朝鮮民族にいいつくせない苦しみをあたえた。」

<日本統治下の朝鮮>

 「日本は朝鮮人を日本に同化させようとし、朝鮮人の学校の授業で日本語を「国語」として強制し、朝鮮の歴史・地理よりも日本の歴史・地理を教え、朝鮮人から民族の自覚やほこりをうばおうとした。会社の設立も許可制として、朝鮮人の会社はできるだけつくらせないようにした。また、土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった。このため、生活に困ったたくさんの朝鮮人が日本や中国東北部に移住したが、朝鮮人は賃金や社会生活の上で、さまざまな差別を受けた。こうした中で、日本人の中に、朝鮮人をけいべつするまちがった考えが強められた。」

★植民地での独立運動


<アジアの独立運動>

「一方、朝鮮では、1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった知識人らがソウルで独立を宣言し、人々が「独立万歳」を叫んでデモ行進を行うと、この独立運動はたちまち朝鮮全土に広まった(三・一独立運動)。朝鮮総督府(日本が朝鮮支配のために置いた統治機関)はこれを武力で弾圧したが、その一方で、それまでの統治の仕方を変えた。

 中国でも、パリ講和会議で日本が中国の旧ドイツ権益を引きつぐことが決定すると、同年5月4日、北京の学生が抗日運動を起こし、各地に広がった(五・四運動)。

 

 

 

 


「わきあがる独立マンセーの声−アジアの民族運動」─第一次世界大戦後、アジアの人々はどのように独立運動を起こしたのだろう。─

<三・一独立運動>

日本の植民地とされ、自由と独立をうばわれていた朝鮮民族は、1919年3月1日、ソウルなどの主な都市で朝鮮の独立を宣言した。独立運動は、はじめ平和的な非暴力の運動として進められ、またたくまに朝鮮の全土に広まった。これに対し日本は、警察や軍隊の力で弾圧したため、ついに朝鮮の民衆は各地で蜂起した。多くの犠牲者を出しながらも、運動は3か月にわたって続けられた。約200万人が参加し、自由と独立を求める朝鮮民族の力を内外に示した。これを三・一独立運動という。

「五・四運動−略−」

※さらに「世界から歴史を考える」「三・一独立運動」のコラム2ページ分続く。

aの記述では、インドの独立運動の記述に続いて、三・一運動の記述が続くため、ここからだけでは、朝鮮の人々が何からの「独立万歳」を叫んで立ち上がったのか読み取れない。「日本が武力で弾圧」と言うべきところを「朝鮮総督府は」とわざわざ置き換えて言っている。巧妙なトリック。

bの記述では、はっきりと事実関係を理解できる。

「つくる会」教科書執筆者は、よほど日本のアジア植民地支配の歴史的事実を隠したいのであろう。それほどうしろめたいことを感じているのだろうか。bの記述は「自虐的」「反日的」でもなんでもない。客観的で冷静である。

aは日本の朝鮮植民地支配がどんなことをしたのかあいまいにしかわからない。「耕作地から追われた」と「土地をうばった」では意味が違う。「日本語教育」と「日本語を『国語』として強制」では全く意味が異なる。

bでは、日本が植民地朝鮮に対してどのようなことをしたのかはっきり分かる。

bでは朝鮮人差別の原因までに論及しており広がりがある。

★韓国併合にいたるまでの過程
★タイトル

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)


2、「第二時世界大戦の時代」

 

64「協調外交の挫折と軍部の台頭」

<しめ出される日本商品>

<中国の排日運動>

<協調外交の行き詰まり>

<高まる軍部への期待>

 

65「日本の運命を変えた満州事変」

<事変前夜の満州>

<仕組まれた柳条湖事件>

<満州事変を世界はどう見たか>

<二・二六事件と天皇の決意>

66「日中戦争」

<盧溝橋における日中衝突>

<目的不明の泥沼戦争>

<悪化する日米関係>

 


3、「日本の中国侵略」

 

「日本を不景気がおそう−世界恐慌と日本」

─日本は、恐慌による打撃をどのように打開しようとしたのだろう。─

<日本の不景気>

<国民の不満>

<中国革命の進展と日本>

15年にわたる戦争の始まり−軍国主義への道」

─中国への侵略は、日本国内をどのように変えていったのだろう。─

<満州事変>

<軍国主義の高まり>

「宣戦布告なき戦争−中国との全面戦争」

─「戦争は、中国・朝鮮の人々をどのようにまきこんでいったのだろう。─

「中国全土に広がる戦争」

「抗日民族統一戦線」

aには、「中国侵略」という言葉がない。第二時世界大戦の一局面というような扱いである。(実はこの教科書は、日本が侵略戦争をしたという事実を一切教えないのだ) bでは、「日本の中国侵略」という項立てになっている。

中国への侵略戦争に至る背景として、日本の内的要因を説明する現行教科書にたいし、外的要因のせいにする「つくる会」教科書。しかも、満州事変までもが背景で、「盧溝橋」からを「日中戦争」としている。

「中国の排日運動」:中国人民の抗日運動を「排日運動」と呼び、それが日本の「中国進出」の原因であるかのごとく描く歴史歪曲。(侵略者日本に何の非も認めずに、それに抵抗した人々に罪をなすりつけている。これは、現在の日本の経済進出先での反日、反日本企業、反日本ODA等の運動に全く応用できる考え方であり、極めて危険な歴史の見方である。)

日本の侵略こそが、中国人民の抗日運動の主因である。

★コラム


コラム「南京でおこった外国人襲撃事件」

 

19273月、南京を占領した国民党軍の兵士が、英・米・日各国の領事館とキリスト教会をおそい、居留民に暴行・掠奪をはたらき、死者を出した。

英米両国は武力で反撃したが、日本は・・・かたく無抵抗を守った。・・・これを南京事件という(1937年の同名の事件と区別して第一次南京事件とよぶこともある)。」


コラム「世界から歴史を考える」

「東南アジアの中学生が学ぶ日本の侵略」

─東南アジア諸国の中学生は、日本の侵略をどのように学んでいるのだろうか。各国の教科書から調べてみよう。─

(中国の教科書紹介は無い)

但し、シンガポール教科書にシンガポール在住中国人が「何千人も」虐殺されたことが書かれていることを紹介している

コラム「地域から歴史を考える」

「朝鮮・中国から強制連行された人々」

─朝鮮人・中国人の強制連行は、どのようにして行われたのだろうか。また、連行された人々は、どのような労働を強いられたのだろうか─

花岡事件について紹介

この時期のコラム記事として、現行教科書とは正反対に、「つくる会」教科書では、日本が中国国内で「被害者」となった事件を取り上げている。

しかも、ここでは、日本は「無抵抗を守った」ことを強調。

(従来教科書の侵略の反省を促す記述に対して、南京大虐殺事件に比べれば小さな事件をことさらに取り上げて、中国だってやったんだといわんばかりである。)

さらに、この事件を「南京事件という」として、南京大虐殺事件と混同させようという意図も感じられる。(南京大虐殺事件についての記述は以下に紹介)

★中国侵略の背景

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

aは、中国人民の抵抗を「排日運動」と呼んだ上に、その原因が「暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響」として、20年代の日本軍国主義の中国拡張への抵抗である事実を隠している。

 中国人民の抵抗運動(「正義の戦い」)を、「過激な性格」と表現。「過激」とはなんだ ..

不平等条約を一方的に無効と通告できるという方針を掲げたことをも中国侵略の要因にしようとしている。

 以上のごとくで何か中国のせいで「日中戦争」に突き進んでいくはめになったかのように描いている。
 一方、bは、「軍部や国家主義団体が、」としながらも、「恐慌による日本の危機を中国への侵略で打開しよう」という日本サイドの中国侵略政策を記述している。もっとも、主体が「財閥」になると、「大陸進出」と表現しているのは、限界を示しているか?

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

<中国の排日運動>

「・・・それは中国のナショナリズムのあらわれであったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義思想の影響も受けていたので、過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本商品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった。」

 

<協調外交の行き詰まり>

「南京でおこった外国人襲撃事件でも、日本は中国に対してもっとも寛大な態度をとった。・・・

一方、中国政府は1928年、日本を含めた各国との不平等条約の無効を一方的に通告できるとする方針をかかげ、これを革命外交と称した。」

 

<高まる軍部への期待>

経済不況による社会不安を背景に、中国における排日運動と満州権益への脅威に対処できない政党政治に対する強い不満から、・・・国民もしだいに軍部に期待を寄せるようになった。」

<国民の不満>

「都市では、企業の賃金切り下げ、首切りなどに対する労働争議が増え、農村でも、小作争議が激しくなった。こうした中で、これらの運動に力を入れた人々は、治安維持法によって取りしまられた。」

 

<中国革命の進展と日本>

「・・・これに対し日本国内では軍部や国家主義団体が、「満州は日本の生命線である」とさけび、恐慌による日本の危機を中国への侵略で打開しようとしていた。財閥の中にも、軍部と結んで大陸進出をくわだてる動きが広がった。」

★満州事変

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

<事変前夜の満州>

「昭和の初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいた。その保護と関東州および満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた。・・・中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害などが頻発した。さらに日本にとって、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおよんできた。」

 

<満州事変を世界はどう見たか>

「国際連盟は満州にイギリスのリットンを団長とするリットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告書は、満州における不法行為によって日本の安全がおびやかされていたことは認め、満州における日本の権益を承認した。一方で、報告書は、満州事変における日本軍の行動を自衛行為とは認めず、日本軍の撤兵と満州の国際管理を勧告した。日本は、これを拒否して満州国を承認し、1933年国際連盟脱退を通告した。」

「満州国は、五族協和、王道楽土建設をスローガンに、日本の重工業の進出などにより経済成長を遂げ、中国人などの著しい人口の流入があった。」

<満州事変>

「政府も軍部に追従して満州国を認め、「王道楽土」と宣伝し、恐慌になやむ農民を集団移住させた。」

 

「(国際)連盟は調査団を派遣して実情を調査し、その報告にもとづき、満州国の承認の取り消しと占領地からの日本軍の引き揚げを勧告する案を、421で可決した。日本はこれを不満として、1933年、国際連盟から脱退し、国際社会から孤立した。」

 満州事変は日本(関東軍)の謀略により、一方的に引き起こされた侵略戦争である。aはそのきっかけとなった柳条湖事件についてだけ、関東軍の陰謀を認めたが、<事変前夜の満州>の項目をわざわざもうけて、事変の原因が中国側にあるように描いている。

 国際連盟では、日本の侵略を支持する国はなく、完全に孤立していたのに、リットン調査団の報告が、「日本の立場は世界から十分理解されることはなかった」として満州事変を正当化している。

 「421」を書かない。

 aは満州事変を正当化するにとどまらず、美化している。
実際に「経済成長」したのは「対中国侵略の戦争経済」であって、その生産物は中国内陸部の戦略や、太平洋戦争に使われたのである。また、石炭や粗鉄は、その生産量の3〜4割が日本に運ばれた。
「著しい人口流入」は、強制連行や詐欺などの手段により、「1200万人の中国人を東北に入れて労働力にした結果である。」
また、日本人入植者などのために、「当時東北の耕地全体の十分の一以上」を日本軍が強奪したために、大量の中国農民が苦境に陥っている。いったい、誰の「生活は向上」したのか。

 bは満州事変での、日本の国際社会からの「孤立」を紹介している。

★タイトル・写真と説明

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

「大東亜戦争(太平洋戦争)」

[写真]ハワイの真珠湾攻撃。黒煙に包まれる戦艦アリゾナ。このとき、戦艦4隻が撃沈、4隻を撃破したが、空母に損害を与えることはできなかった。

「米英軍と戦闘状態に入れリ−太平洋戦争」

─日本は、なぜ東南アジアを侵略したのだろう。また、そこでは何が行われたのだろう。─

[写真]シンガポールの「血債の塔」。台座には「1042年2月15日から1945年8月18日までの間、日本軍によってシンガポールは占領されていた。その間、われら住民の内から無実の罪で殺されたものは多く、数えきれないほどだった。20余年が過ぎた今、初めてここに遺骨を収集し、丁重に埋葬するとともに、この碑を建立して、その悲痛の念を永久に誌してとどめる。」と刻まれている。なぜ無実の住民が殺されたのだろうか。


 aの記述では「大東亜戦争」「大東亜」という用語が頻繁に出てくる。「日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した」、「日本の戦争目的は・・『大東亜共栄圏』を建設」、「日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め・・大東亜会議を開催」、「大東亜共栄圏のもとでは、・・反発が強まった」、「大東亜共栄圏の考え方も・・批判された」等々。当時の政府・軍部の見解を全面的に説明し、最後に「アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった」として、全体の流れからすれば大東亜戦争を肯定・賛美している。
 aの写真と解説はその明確な反映。写真と解説、地図の雰囲気は戦争の「悲惨さ」や「反省」ではなく「勇猛さ」や「意義」が強調されている。
★太平洋戦争にいたる経緯

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)


<日独伊三国軍事同盟の盲点>

「日本はフランスを打ち破ったドイツがイギリスにも勝つことを期待して、1940年、イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結した。」、

1941年4月、日本はソ連との間にも日ソ中立条約を結んだ。(略)ドイツがソ連に侵攻し、独ソ戦が始まって、松岡の構想は破綻した。 この事態を予想しなかった日本は、北進してソ連を撃ちドイツを助けるか、それともソ連と戦わずに南進するかの選択を迫られた。7月の御前会議は南進を決定した。」

「日本は石油の輸入先を求めてインドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうしてアメリカ(A)、イギリス(B),中国(C)、オランダ(D)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成された」。

<経済封鎖で追いつめられる日本>

7月、日本の陸海軍は南部仏印進駐を断行し、サイゴンに入城した。・・11月、アメリカのハル国務長官は・・強硬な提案を突きつけた・・。日本が中国から無条件で撤退することを要求していた」。


<戦争の拡大と三国同盟>

「日本軍は、中国で、人々の根強い抵抗にあって泥沼に入った状態になっていた。軍や政府は、中国の抵抗が長引くのは、アメリカ、イギリスが東南アジア経由で中国を援助しているからだと考えていた。そこで、この補給路を断ち切り、合わせて、石油・ゴムなどの軍需物資を得るため、東南アジアへの侵略の機会を狙っていた。1940年、フランスがドイツに敗れると、日本は、フランス領のベトナム北部に軍隊を送った。同時に、アメリカの参戦をおさえるため、ドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結んだ。翌年、ソ連とも中立条約を結び、侵略の準備を整えた。」

「これに対して、警戒を強めていたアメリカは、日本が7月にベトナム北部へ侵攻すると、石油・鉄などの日本への輸出を禁止し、中国や東南アジアからの日本軍の撤兵を求めた。」

 

aの記述では、日本が中国に侵略していたことの記述がないため、なぜ日独伊三国同盟や日ソ中立条約を結んだか、独ソ戦開始で南進を決定したのはなぜかよく分からない。

aの記述では、米と対立を深めたのは「石油の輸入先を求めて・・断られた」ということになり、日本の要求が正当であり被害者であるかのように描かれている。

 bの記述では、日本の対外政策と諸外国の関係が客観的に描かれており理解しやすい。bの記述では当時の日本政府・軍部から見た見解で描かれており非常に一面的で偏っている。

★太平洋戦争の開始と戦局の変化

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

 

68.「大東亜戦争(太平洋戦争)」

<初期の勝利>

1941年12月8日午前7時、人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った

日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると、日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降、力をつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである。

同じ日に、日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し、イギリス軍との戦いを開始した。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に、日本軍は、ジャングルとゴム林の間をぬって英軍を撃退しながら、シンガポールを目指して快進撃を行った。55日間でマレー半島1000キロを縦断し、翌年2月には、わずか70日でシンガポールを陥落させ、ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリッピン・ジャワ・ビルマなどでも、日本は米・蘭・英軍を破り、結局100日ほどで、大勝利のうちに緒戦を制した。」

「これは、数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた、現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ。」

<暗転する戦局>

「・・ここから米軍の反抗が始まった。・・アリューシャン列島のアッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。こうして、南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で、日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していったのである。

「・・ついに日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖開戦で、『神風特別攻撃隊』(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである。」

「沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、一般住民約9万4000人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した。」

※特攻隊の出撃風景の写真、特攻隊員の遺書。

 

<米英との開戦と東南アジア侵略>

「日本では、1941年10月、陸軍大臣東条英機が首相となり、アメリカとの戦争準備を進め、12月1日、昭和天皇臨席の御前会議で開戦を決定した。日本陸軍は、同月8日、イギリス領マレー半島に奇襲上陸し、1時間後、海軍がハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲した。」

「日本軍は、ホンコン、シンガポール、マライ、フィリッピン、インドネシアなどや、南太平洋の島々を占領した。しかし、1942年には、アメリカ軍の反撃が始まり、ミッドウエー沖開戦での敗北以来、日本軍の形勢は不利になっていった。」

 
aの記述は教科書としては「異常」「異様」というしかない。「午前7時」、「臨時ニュースで知った」という記述で物語風の臨場感を煽り、真珠湾攻撃、マレー半島進撃、シンガポール陥落の記述は戦争賛美以外の何ものでもない。

教科書の制限された字数のなかで、これだけの分量をこうした情緒的で煽動的な記述で埋めることは何をもたらすのか。教室で教師はこの2ページにわたる記述を、どのように教えるのか。

「この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ。」のが事実であれば、現在も続く、韓国・中国他、東南アジア諸国の、日本に対する戦争責任追求の運動はどう説明するのか。

この部分がaの執筆者である西尾幹二の最も言いたかったことのようである。

「大東亜戦争については、四ページにまとめられていますが、最初の二ページは東南アジアにおける緒戦の大勝利を描いています。わずか百日ほどでアジアから白人支配を追い出したので、『東南アジアやインドの人々、さらにはアフリカの人々にまで独立への夢と勇気を育んだ』と記述しています。後半二ページはミッドウエーから敗北への悲惨が描かれています。/われわれの教科書で、自分でいうのもなんですが、日本人の心を強く打つものがあります。おそらくこれまでの教科書ではじめてではないかと思われますが、神風特別攻撃隊について叙述的に写真と隊員の家族への手紙入りで書かれています。そしてその章のしめくくりに『戦争は悲劇である。しかし戦争に善悪はつけがたい。・・国と国とが国益のぶつかり合いの果てに、政治では決着がつかず、最終手段として行うのが戦争である。アメリカ軍と戦わずして敗北することを、当時の日本人は選ばなかったのである』と、あの時代の日本人の決意と自己認識をまとめています。この部分はわれわれの志を強く訴えたものであり、「つくる会」の原点ともいえるかもしれません。」(「新しい教科書誕生!!」p.26)

つまり彼らの「志」とは「政治では決着がつかず、最終手段として行う」戦争は悪ではない。堂々とやろうということ。埼玉大長谷川三千子教授は同じ考えを以下のように言っている。

「人殺しと一言でいうけれども、それはたとえばカレーの鍋にこっそり砒素を入れて人を殺すなんていう、そういう卑怯卑劣な人殺しとは違う。ちゃんと軍服を着て(武器を野菜籠ののなかにかくしたりするんじゃなしに)公然と武器を携えて、指揮官の指令のもとに交戦法規に従って戦う--。こういう形で、いわば自分自身の命と相手の命とを五分と五分の危険にさらしながら戦うということで初めて「戦争」というものになる。」、「ひるがえって考えてみると、こういうふうに大規模におんなじ種のなかで殺し合いをするのは人間だけ」、「そうしてみると、この帯に、『戦争に行きますか。それとも日本人やめますか』とかいてあるんですけれども、本当に正確に言うと、じつは、『戦争にいきますか。それとも人間やめますか』という、これが本当は帯の真の意味だったんじゃないかと思います(拍手)。」(「新しい歴史教科書!!」p.94)

★占領地での実態

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

 

69.大東亜会議とアジア諸国

<アジア諸国と日本>

「大東亜共栄圏の元では、日本語教育や神社参拝が強要されたので、現地の人の反発が強まった。また戦局が悪化し、日本軍によって現地の人々が過酷な労働に従事させられる場合もしばしばおきた。そしてフィリッピンやマレーのように、連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動がさかんになる地域も出てきた。日本はこれに厳しく対処し、また日本軍によって死傷する人々の数も多数にのぼった。

「戦時中、日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心になって独立戦争を開始し、1949年独立を達成した」

「インドは1947年、イギリスから独立した・・ビルマは戦後・・1948年に独立を勝ち取った。/これらの地域では戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった。」

 

<米英との開戦と東南アジア侵略>

「占領地では、日本軍は住民に激しい労働をさせ、戦争に必要な資源や米などを強制的に取り立て、占領に反対する住民などを殺害した。このため、ベトナム、フィリピン、ビルマなど、各地で、日本軍に抵抗し、独立を目指す運動が強まっていった」


aの記述はきわめて意図的。「反発」は「日本語教育や神社参拝」の「強要」によるもの。「戦局が悪化」したから「過酷な労働」に従事させられた(米や資源の取り立てはしていない?)。死傷(殺害されたではない!)したのは「連合軍と組んだ抗日ゲリラ活動」をしたから。

★戦時下での生活(戦争と民衆)

「つくる会」教科書の記述(以下aとする)

97年版b社の記述(以下bとする)

 

70.戦時下の生活

<国民の動員>

「第一次世界大戦以降、戦争は前線の軍隊だけが行うものではなく、・・総力戦の時代になっていた。日本も日中戦争勃発とともに総力戦に備え、国の人員、物資、経済、産業、交通などのすべてを政府が統制し、運用する総動員体制をつくることが必要になった。」

 

・右記に対応する記述なし。

 

「労働力の不足を埋めるため徴用が行われ、また、中学3年生以上の生徒・学生は勤労動員、未婚女性は女子挺身隊として工場で働くことになった。また、大学生や高等専門学校生は徴兵猶予が取り消され、心残りを抱えつつも、祖国を思い出征していった(学徒出陣)。」

このような徴兵や徴用などは、植民地でも行われ、朝鮮や台湾の多くの人々にさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。このほかにも、多数の朝鮮人や占領下の中国人が、日本の鉱山などに連れてこられて、きびしい条件のもとで働かされた。

「物的にもあらゆるものが不足し、寺の鐘など、金属と言う金属は戦争のために供出され、生活物資は窮乏を極めた。だが、このような困難の中、多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった。」

 

「欲しがりません勝つまでは-戦争と民衆」

<戦争と国民生活>

「戦局が不利になっても、ほとんどの国民は、真実の情報が知らされないまま、「お国のため」に、積極的に戦争に協力した。戦争に批判的だったり消極的だったりすると、非国民と非難された

「徴兵された兵士は、日本人は優秀な民族だと教えられていたこともあり、中国、東南アジアの国民を蔑視し、軍の命令のもとで住民を虐殺することもした。一方で、天皇の軍人として生きてほりょになるのははじだと教えられた兵士は、絶望的な戦闘命令のもとで死ぬまで戦うことを強いられ、太平洋の島々などでは全滅することがしばしばあった。

「戦争が激しくなるにつれて、国内の民衆の生活もますます苦しくなった。軍需品の生産が優先され、政府や軍部の注文を受ける一部の企業は大きな利益をあげたが、生活物資はほとんど配給制となった。・・多くの労働者が招集されて労働力が不足したため、中学校や女学生も働かされた。また、政府は理科系以外の学生も徴兵し、多くの学生が学業の半ばで戦場に向かった。」

「労働力不足を補うため、強制的に日本に連行された約70万人の朝鮮人や、約4万人の中国人は、炭鉱などで重労働に従事させられた。さらに徴兵制のもとで、台湾や朝鮮の多くの男性が兵士として戦場に送られた。また、多くの朝鮮人女性なども、従軍慰安婦として戦地に送り出された。」

 aの記述では総力戦と総動員体制の説明のみで、国と軍部による情報操作、「非国民」という形での戦争批判者への攻撃等について何も書いていない。逆に、「多くの国民はよく働き、よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった」というように、戦時体制そのものを擁護し美化している。

bの記述では天皇の軍隊としての日本軍の虐殺や全滅にふれている。

aの記述は、「緒戦の勝利」や「戦局の変化のもとでの日本軍の敗北までの過程」について、物語的に異様に詳しいのに比べ、戦時下の民衆の生活や、戦場での日本軍の行為、朝鮮・中国人強制連行については記述が抽象的であいまい。

★コラム

ドイツはユダヤ人虐殺というホロコーストを行ったが、日本はユダヤ人を救った人もいた、ホロコーストはしなかった、ドイツとは違うということを強調したいしい。このことについてはやはり西部幹二の次の言葉がそれを告白している。

「戦争は絶対悪で犯罪だなんていう考えは元来ヨーロッパ人はもっておりませんし、いまだってもっておりません。いったいヨーロッパのなかでいま、ドイツが侵略戦争をしたからといって問われていますか。あれはホロコーストが問われているだけで、侵略戦争をドイツがしたといってそれを問責する声はヨーロッパ内にはぜんぜんありません。侵略戦争はお互いさまなんだから。フランスもやり、イギリスもやって、ずーっとやってきてるんですから。戦争すりゃ侵略戦争に決まっているんですから。だけれども、ホロコースト、ナチスのユダヤ人大量虐殺は別案件だから、これは非難されているけれども、侵略戦争が問題にされることはないんですよ、ヨーロッパでは。」(「新しい歴史教科書誕生!!」p.102)

原爆ドームの写真を載せ、世界遺産に「負の遺産」として登録されたのは、他にアウシュビッツとアフリカの奴隷の家(セネガル)だということを解説している。日本も被害者だったということが言いたいようだ。


戦争と現代を考える]

「戦争の悲劇」

「戦争の犠牲者は、武装した兵士だけではない」「これまでの歴史で、戦争をして、非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなく、日本も例外ではない」「一方、多くの日本の兵士や民間人も犠牲になっている。例えば第二次世界大戦末期、ソ連は満州に侵入し、日本の一般市民の殺害や略奪、暴行を繰り返した」

[ナチスによるユダヤ人虐殺]

「ナチスドイツは第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行った。これをホロコーストとよび、戦場における戦争の犠牲者と区別される。」

「日本はドイツと同盟を結んでいたけれども、日本人の中にはユダヤ人を助けた人もいた。」

b社のものは中国侵略の項参照

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