フィールドワーク報告

毒ガスの島・大久野島、広島被爆地域、江田島を歩く その3
広島スタディツァーに参加して


 前回に引き続き広島スタディツアーについての報告を掲載します。



■ 毒ガス貯蔵庫跡

 工場で生産された毒ガスはがけを掘って作られた貯蔵庫のタンクに保管された。タンクの台座跡が今も残っている。
 危険性の少ないガスのタンクには野ざらしで置かれたものもあった。たくさんの台座が並んでいる。ガスの充填などに使った陶器の破片や金属片も散らばっている。60年以上の歳月がたっているから地上にあるものは大丈夫と言われても、やはりいい気持ちはしなかった。

 工場跡の北に長浦毒ガス貯蔵庫跡がある。ここには100tタンクが6基置かれていた。
その台座の大きさに驚く。戦後処理では火炎放射器で焼き払ったそうだ。壁が黒くなっている。
 ここには環境省の説明板もあり、島内をサイクリングしている観光客も足を止めていた。





環境省の説明板



100tタンクの台座跡 縦にタンクが置かれていた

 ■ 北部砲台跡

 日清戦争後、瀬戸内の島々には広島と呉を守るためにいくつもの要塞が築かれた。大久野島にも3ヶ所設置され、第一次大戦後これらは廃止された。毒ガスの製造が始まると、ここは貯蔵庫や原料置き場として使用された。また、戦後には北部砲台跡の広場で毒ガスの焼却処分が行われた。ここからは96年に砒素が検出され、土壌の洗浄が行われている。

 明治時代に建てられたレンガ造りの土台はまだしっかりしていた。ここで兵隊達が寝泊りし、動員された若者達が毒ガスに蝕まれていったのだ。




北部砲台兵舎跡 

 ■ 発電所跡

 島内の電力をまかなうため建てられた火力発電所跡。重油を燃やして工場へ電力を送っていたが、生産の拡大のため忠海からも海底ケーブルで送電していた。

 壁や土台はしっかりしているが、中は空っぽで大きな体育館のようだ。戦争末期にはここで風船爆弾も作られていたそうだ。 
 すぐ前には明治時代に作られた桟橋の跡もある。29年の工場開所式には賑やかに飾られて招待客を迎えた場所だ。




発電所跡

 島で生産された毒ガスの半分は兵器に充填され主に中国へ送られた。その一部は戦場で使われ、残りは敗戦時に旧満州の地中などに遺棄された。この毒ガス弾によって今もなお多くの人が被害を受け後遺症に苦しんでいる。日本は化学兵器禁止条約により遺棄兵器の処理は行っているが被害者への補償は行われていない。国内での被害者に対しても「救済措置」として一部医療保障するのみである。このため国の責任を求めての裁判が中国の被害者からも日本の被害者からも起こされ審理中である。

 日本は毒ガス兵器が国際的に禁止されていることを承知の上で、極秘に製造・使用してきた。工場の作業員にも何も知らせず、敗戦が濃厚となってからは製造を停止し作業員に口封じしてきた。十分その責任はわかっていたのである。

 この島はかつて唐松が繁る緑豊かなところだったと言う。今は戦後植えられた木々が繁り始めているが唐松は残っていない。休暇村本部前の南国風の植栽以外は大きな木が非常に少ない。木々がさらに根を張って砒素に汚染された土を吸い上げた時、どう変わっていくのだろうか。さらに海中に廃棄された毒ガスは?

 戦後60年以上が過ぎても過ちの償いは放棄されたままである。
 


第三日目 江田島海上自衛隊基地を歩く(有志で参加)

 江田島は呉の対岸に浮かぶ島である。ここの海上自衛隊基地には第1術科学校(中卒で入学し卒業すると「曹」として任務に就くか防衛大学へ進む)と幹部候補生学校、訓練施設がある。ここは一般でも見学でき「じゃらん」でも紹介されている。

 9時半に受付が始まった。代表者の氏名を書いた後、見学開始時間まで待合所でビデオを見る。幹部候補生学校の学生生活だった。売店などもあったがまだ閉まっていた。コンビニ風だが、お土産もあるそうだ。

 10時に見学開始。簡単な注意事項があり、案内係が紹介される。まだ初々しい少年二人、術科学校の生徒で16歳だった。カンペを見ながらの説明は少したどたどしいが制服を着て質問に答える姿は誇らしげだ。見学者は50人ほど、家族連れや老夫婦などさまざまだった。大講堂、幹部候補生学校(旧海軍兵学校の建物を使用)、術科学校、表桟橋など案内された。ほかにも団体で申し込んでいるグループもあり、休日のせいか見物人の多いのに驚いた。





幹部候補生学校(旧海軍兵学校 通称赤レンガ)

 最後に教育参考館に案内される。他の建物は外から見るだけだったが、ここは内部をじっくり見学できる。ただし生徒にとって「神聖な場所」ということで、写真撮影も禁止だった。

 赤いじゅうたんの階段を行くと幕末からの日本の海軍の歴史が示されていた。吉田松陰は海軍と関係あるのかなどと思ってしまう。歴代の海軍大将たちの書状や遺品とともに、軍神広瀬の血がついた軍服などが解説つきで示されている。特に力を割いているのが「大東亜戦争」のコーナーである。山本五十六長官の生涯や数々の特攻隊員の遺書・血染めの日章旗など延々と続く。途中で疲れてしまった。

 最後に小さな部屋に自衛隊の歴史や卒業生の写真、名簿などがこじんまりと置いてあった。ここは出口をはさんで奥なので見ないで終る人もいる。

 どうみても海上自衛隊は大日本帝国海軍の栄光を慕っているとしか思えない展示内容だった。靖国の遊就館から海軍関係を抜き出したようだ。ここで日々教育された自衛官がかつての戦争を間違ったもの、侵略戦争として捉えられようか。田母神論文の問題が出てくるのも当然としか思えない。しかもこれを一般に公開する事で、訪問者にも旧海軍と自衛隊が連綿と続いていることを強く印象付けている。

■ 呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」
 
  東洋一の軍港「呉」が生んだ世界最大最強の戦艦「大和」がここに蘇る(大和ミュージアムパンフレット表紙より)





  江田島より呉に足をのばした。この街の観光の目玉「大和ミュージアム」は開館2年余りで入館者数300万人を記録している。

 まず、映画「男たちの大和<YAMATO>」でも使われた1/10サイズで再現された戦艦大和が目を引く。この製作には海上自衛隊が全面的に協力したことで話題になった。

 呉の歴史は海軍の歴史となり、過去が華々しく語られる。戦争で傷つき殺されていった人々の歴史は示されない。人間魚雷「回天」なども展示されているが印象は薄い。ともかくここでは「大和」賛美である。栄光の「大和」、悲劇の「大和」、あこがれの「YAMATO」。

 江田島とちがい修学旅行生も多い。平和公園とこのミュージアムと、彼等の心にはどのように映っているのだろうか。
  
 侵略戦争の結果として広島には原爆が投下され日本は敗戦した。「あやまちは二度と繰り返さない」とあの時誓ったはずである。それを守り続けるには戦争の中身と結果をもっと知り伝えなければならない。今回の旅は地元で事実を発掘し発信している方たちの力で実現した。次は私が、ここで知った戦争を伝えていかなくてはと強く思った。



参考サイト
  
  大久野島から平和と環境を考える会   

参考サイト

  大久野島から平和と環境を考える会   http://www7.ocn.ne.jp/~dgjrkma/

  毒ガス島歴史研究所          http://homepage3.nifty.com/dokugasu/