フィールドワーク報告

毒ガスの島・大久野島、広島被爆地域、江田島を歩く その1
広島スタディツァーに参加して


 広島スタディツアーへ参加した方から投稿がありました。分量が多いので3回に分けてアップします。



 「沖縄平和ネットワーク首都圏の会」主催の広島で戦争の被害と加害について考えるスタディツァーに参加した。以下この報告記である。

沖縄平和ネットワーク首都圏の会
http://www.okinawaheiwa.net/metro/

「沖縄平和ネットワーク」は学習活動を基本に、修学旅行などの平和ガイド、
戦争遺跡の保存・活用運動に取り組んできた市民グループ。
本土に住む会員は沖縄での活動に参加しづらいため、
首都圏在住の会員が参加できる活動をめざし首都圏の会を結成した。
沖縄に関する学習会や戦跡・米軍基地などのフィールドワークを行っている。





 第一日目 広島戦跡めぐり

  63年前原爆投下後の広島は一面の焼け野原となり、鉄筋の建物がわずかに残っただけだった。広島市はこれらの被災建造物に原爆被災説明版を設置し、惨禍の記憶をとどめようとしている。今回のツァー第一日目は、爆心地付近に住む竹崎さんの案内でこれらの説明版や慰霊碑など広島の戦跡を巡った。竹崎さんは写真から地図を作る専門家で、原爆投下前の広島の復元に取り組んでいる被爆二世である。

 ちょうど平和記念資料館で「被爆建造物は語る」という企画展を開いていたので、まずそこを回る。2枚の写真があった。1枚は原爆投下直前の1945年7月25日に、もう1枚は投下直後の8月11日に米軍が広島市上空から撮影したものである。8月のものは立ち並んでいた建物が消え全体に白っぽい。これほど違うものかと驚いてしまう。広島市は被爆建物90件、被爆樹木約150本、被爆橋梁6本を登録している。建物や橋はすでに取り壊されたものも多いが、一部を保存したり元の場所に説明版を設置したりしている。


 資料館を出てまず原爆ドームへ。ちょうど修学旅行シーズンであり海外からの観光客も多い。ここを訪れた人たちが本当に核兵器の、戦争の悲惨さを知って行動してくれたらと思う。

 相生橋のたもとには、繁華街だった猿楽町の町並みを再現した地図があった。当時の地図はすべて失われているので、人々の記憶と当時の写真から作ったそうだ。さまざまな店が道の両脇にびっしりと立て込んでいて多くの人々がここで生活していたことがわかる。




爆心地付近に建てられた説明版

 「壁に残された伝言」で知られている袋町小学校を訪れた。改築にあたり被災当時の建物の一部が平和資料館として残されている。保護のため実物はまた壁に塗りこめられているが、改築時に写した実物大の写真が当時の思いを伝えている。その日は夏休み中の朝礼で校庭にいた児童・職員は命を失い、鉄筋コンクリート造だった西校舎にいた児童だけが助かったそうだ。その校舎が救護所となって伝言が書かれ、偶然が重なって今に伝えられている。



袋町小学校平和資料館

 日銀広島支店も残り、8日から支払い業務を再開したそうだ。今建物は市の文化施設となり中に入ることができる。銀行業務の窓口や、地下の金庫を見ることが出来た。

 帝銀広島支店はベーカリーショップとレストランとして利用されている。増改築は行われたが、2階の窓枠などは当時のままの優雅な姿であった。この窓から見た歴史を思う。



旧帝銀跡の説明版 


 平和公園から東に1キロメートル四方にも満たない地域を歩いてみると、あちこちに被災説明版や慰霊碑があることがわかった。建物はすでになく壁に貼られたプレートにかつて被災した建物があったことを示したものもあった。ハンバーグレストランの看板のビルに入っていくと、通路の一角に彫像が飾られこれが被災した建物の柱頭だったという。今は雑居ビルに建て替えられたがこんな形で残しているのに驚いた。

 広島市と市民が協力して被爆の実態を残している。核兵器の悲惨さ、戦争の現実を世界に知らせ、平和都市ヒロシマの名を守ってほしいと願う。

 夜は広島市民活動ネットワークの一室を借りて交流会が行われた。ここは本通りのアーケードからも近くさまざまな市民グループの活動を支えるフリースペースとなっている。

 交流会には、大久野島を取材した番組「眠る島」を制作した中国放送ディレクター尾崎さんと昼ガイドをしてくださった竹崎さんも参加し興味深いお話が続いた。短い時間だったのが残念だった。
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