[フィールドワーク報告]

何故、原爆は広島に落とされたのか?
「戦跡をたどるフィールドワーク」その3
広島平和教育研究所 フィールドワーク


 その2に引き続き、広島の「戦跡をたどるフィールドワーク」の参加報告です。
文責:ピースニュース

 比治山陸軍墓地

 比治山の旧ABCC建物の裏手には比治山陸軍墓地があります。比治山には明治以来、日本陸軍の戦死者の墓地がありました。日本が行う戦争のたびにこの陸軍墓地の墓の数は増えて行きました。ここに眠っている戦(病)死した将兵の墓は46都道府県の4千5百柱に上ります。

 戦後、米は原爆の効果調査のためこの比治山にABCC(原爆傷害調査委員会)を建てることになります。この比治山にあった陸軍墓地を墓石も土も埋葬してあった骨ももろともブルドーザーで掘り崩し整地してABCCを建てました。

 したがって山の斜面には戦後長い間、倒れた墓石が転がっていた状態でした。地元の人たちが墓石を立て直しながら、ここをこのままでいいのか、という声があがり、県や市や国に働きかけて、この場所に整地して共同墓地を復活させたのです。

 共同墓地を復元するための場所はこのように狭い場所でした。したがって、ここで皆さんが見ているように、墓石は1cmも離れない間隔でずらーっと並んでいるのです。

 

比治山陸軍墓地
狭い場所に復元したため墓石はくっついて立っている


墓石の大きさも兵士の階級と比例している


 宇品港と広島湾を望む

 軍人墓地の最奥の所からは宇品港と広島湾が望めます。広島湾には右手から似島(にのしま)、元宇品、峠島、金輪島を見ることができます。金輪島は私が被爆当時いた場所です。

 広島市内に軍事拠点が次々と置かれますが、最後は金輪島、峠島、元宇品、似島全てが軍事拠点になっていくわけです。特に、似島には検疫所が置かれました。
 被爆した時に、似島は検疫所があるからお医者さんがいて手術室が合って薬がありますから、1万人を超える被爆者が似島に送られたのです。8月25日に検疫所が閉鎖されました。そのとき軍港宇品港に戻って来た被爆者はわずか500人でした。

 戻ってこなかった9500人はどうなったのでしょうか。それが似島の歴史なのです。戦後26年経って似島中学校を作るときに運動場の下から四体の頭蓋骨が出て来たのです。運動場の下を掘ると617体の遺骨が出て来ました。その後、似島では今日にいたるまで次々と遺骨が出て来ます。今なお、無数の被爆者が似島には眠っているのです。

軍港宇品港と広島湾望む
一番右手に似島には9500人の被爆者が眠っている

 陸軍被服支廠跡

 比治山から軍港宇品港に向かう途中に陸軍被服支廠跡が残っています。17万m2という広大な敷地に強固な煉瓦作りの倉庫が98棟ありました。出兵する兵士の軍服などを一時保管し軍港宇品港から送り出すための倉庫です。


陸軍被服支廠の煉瓦作りの倉庫
爆風でひしゃげた鉄の窓が残っている
 煉瓦作りの建物の一部は今でも残っています。窓を覆う分厚い鉄板が爆風でひしゃげているのが今でも見ることができます。

 戦争末期には倉庫には何も物資は無くなっていました。被爆時にはその何もない倉庫が被爆者を収容する救護所として使われたのです。
 
軍港宇品港跡


 宇品港の陸地部分は今、コンクリートが塗られていますから当時の様子は分かりません。しかし、岸壁の石組みは当時のままです。岸壁を見れば当時の港の状況が推測できます。港の一部に当時の石畳が残してありますのでそこを見て下さい。

 日清戦争当時は宇品線は仮設でした。この宇品港の桟橋も仮設だったのです。仮設した桟橋から兵士は船に乗り、沖合の船へ乗り込み、それから朝鮮へ送られたのです。その後、軍港宇品港はどんどん拡張され強化されていったのです。

軍港宇品港
岸壁部分は当時の石組みが残っている


日清戦争当時は宇品港は仮設だった
その後どんどん増強された


 被爆直後の江種さんの体験

 軍港宇品港のすぐ近くに金輪島があります。江種さんはそこで被爆しました。江種さんは被爆直後の様子を軍港宇品港跡地でお話されました。

 被爆時、左側の頬が一瞬「熱い」と感じました。目の前をいろんな色の渦が巻きました。それからもう意識はありませんでした。気付いた時は無意識のうちに鉄カブトをかぶり長机の下にしゃがんでいました。


 物音はなにも聞こえてきませんでした。あたりは静まり返っていたのです。金輪島は造船所があり朝から晩までクレーンが轟々と音を立てて動き回っているのですが、被爆直後はそうした物音は全て途絶えて静まり返っていました。とても怖かったです。

 被爆の跡、防空壕へ逃げるために建物の外へ出ました。その時、自分の後頭部にガラスの破片が沢山突き刺さっていることに気づきました。

 きのこ雲は1万2千mまで見る見るうちに舞い上がっていきます。とても恐ろしい雲でした。表面は緑、紫、橙、いろいろな色が見えました。


被爆直後の様子を語る江種さん

 広場の方で声が聞こえるのでそちらを見ました。そこには女学生たちがブラウスと黒のもんぺ姿でいたのです。その女学生の胸には一面に窓ガラスの破片が突き刺さっているのです。血がだらーと流れ落ちていました。

 女学生たちは朝から、工場で軍服を縫っていました。作業場所の前は明りとりの大きな窓ガラスがあったのです。そのガラスの破片が彼女たちの胸に容赦なく刺さったのでした。これが爆心地から6キロmの金輪島の光景です。もっともガラスが破れたのは27キロ先までの範囲でした。


 広島平和公園へ向かうバスの中での江種さんのお話

 フィールドワークの最後、広島公園へ向かうバスの中で、江種さんは再び被爆直後の広島の様子を語られました。

 被爆直後広島市内を流れる猿猴川(えんこうがわ)は風船のように膨らんだ遺体でびっしりと覆いつくされていました。

 1945年9月17日、枕崎台風の濁流によりそれらの遺体は全て川底に埋もれました。その後、この川底をさらったという話は聞きません。ですから、それらの骨は全て、今でも川底に沈んだままなのです。