訪問記

掘り起こされた記憶―対馬丸記念館を訪れて

 
 
 対馬丸事件を伝えるために建てられたこの記念館は、那覇市唯一の海水浴場「波の上ビーチ」近くの公園の一角にある2階建てのこじんまりした建物だった。

 対馬丸事件とはどんなものだったのか?
 サイパンを失った日本軍は沖縄を次の決戦の地と決め、子どもや一般人10万人の本土への集団疎開を計画した。戦闘の妨害にならないこと、軍の食料を確保すること、子どもは戦争継続の資源─将来の兵士であることなどが理由だった。1944年8月21日、対馬丸を含む3隻の貨物船が2隻の護衛艦とともに那覇から出港していった。しかし翌日夜米潜水艦の魚雷攻撃を受けわずか11分後対馬丸は沈没、乗船者1661名のうち生存が確認されたのは177名だった。(ちなみに1912年に沈没したタイタニック号の犠牲者も約1500名)近くを通過した台風も被害をいっそう大きくした。大波に耐えてようやく奄美諸島の島々にたどり着いた生存者たちには軍からのかん口令が布かれ、事件は本土にも沖縄にも知らされなかった。そのあらましが資料だけでなく子どもたちの言葉・軍の思惑・送りだす父母の思いもまじえて、わかりやすく展示されている。



対馬丸
 犠牲者の遺影や遺品が展示されているコーナーではその数の少なさに驚く。沖縄に残されたはずの品々は10・10空襲と、続く沖縄戦のなかでほとんど失われてしまっていた。出征中に家族を亡くした父親が戦後数十年もたって、遺族会からの連絡で初めてわが子が対馬丸事件の犠牲者だったと知らされたこともあったという。

 記念館では当時の子どもたちの暮らしも紹介されている。教室が再現され黒板には「一億一心 言葉モ一ツ」と書かれていた。方言札を下げさせられた姿が浮かぶ。「クウシュウケイホウノウタ(空襲警報の歌)」というのもあった。

 入館するとすぐに「いま対馬丸を語ること」と書かれた文章が目に入る。「いま『対馬丸』を語ること、それは何でしょう?」「戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます 悲しみの大きさを『希望』にかえる努力をしないと憎しみが報復の連鎖をよびます」「この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された 私たちへの『課題』ではないでしょうか」この館が開館したのは2004年8月22日、事件から60年目のことだ。そして「対テロ戦争」の嵐が吹き荒れていたときでもある。子どもたちに(大人にも)報復の連鎖では解決しないことを強く訴えているのが印象的だった。対馬丸記念館のHPにもキッズページが用意され子どもたちへの働きかけが工夫されている。

国際通りからも徒歩15分、沖縄の戦争の歴史を知る貴重な場のひとつとして、修学旅行のグループ行動などでもぜひ訪れてもらいたい場である。



対馬丸記念館HP 
http://www.tsushimamaru.or.jp/index.html
Y.A