【映画の紹介】

A Boy’s Summer in 1945
黒木和雄監督
2002年/日本映画/カラー
シネマスコープ/DTSステレオ/上映時間1時間58分
c2003ランブルフィッシュ
配給:パンドラ




 重い映画である。話の舞台である1945年夏から60年近く経ち、戦後の日本社会に確かにあったはずの決意が幻覚だったのかと思うほどに大きな岐路に立たされている今の日本に生きる私達に対して、とても重い警句と宿題を突きつけているように感じるからである。

 この映画は一義的な解釈はできないかもしれない。戦争の悲惨さを直視させ反戦の決意を強固にさせたり、あるいは戦争を行おうとする側の不当性を徹底的にあばいて笑いとばしたり・・と言ったタイプの映画ではない。戦闘シーンも爆撃シーンも出てこない。そうではなくて戦時下の日常生活を濃密に描くなかで、観ているものに深く考えさせる・・そういったタイプの映画である。しかし私はこの映画をまぎれもない反戦映画だと感じた。





 映画は黒木和雄監督が、敗戦の年1945年の夏に実際に経験したことをもとにしている。 主人公の康夫は監督自身の60年前の姿である。当時15歳の康夫は学徒勤労動員された航空機工場からの帰りに友人と共に米軍機の機銃掃射に会い、友人を失う。ほとんど即死状態の友人を助けようともせずその場から逃げ出した康夫は、そのことの呵責を背負い生きている。その呵責は今でいうPTSD(心的外傷ストレス障害)であったのだが、当時はそんな病名もあるはずはなく、肺浸潤と「診断」され自宅療養のなかでもんもんとした生活を続ける。映画はその康夫を中心とした日常生活が描かれている。

 舞台は宮崎県霧島。戦争中とはいえ豊かな自然に恵まれ、美しい風景はそれだけを見ていれば戦争など微塵も感じさせない。映画はそうした自然と風景の美しさを十分に映し出す。そしてそうした田園風景ののどかな農村での生活を緻密に描いている。しかしその日常生活は、そうしたのどかな風景とは極めて対照的に戦争の影響が色濃く写し出されている。

 1945年夏、わずか半月ほどの日々の描写の中に、戦争の現実がいやというほど描き込まれている。それは別の意味での戦争そのものと言っても良い。沖縄戦で家族を失い遠い親戚にあずけられ何時も一人で遠くを見ている少女、広島と長崎への原爆投下、満州から転戦し本土決戦に備え村に塹壕を掘り備える部隊、夜中に軍事物資をコソドロする兵士、南方の戦線で片足を失い帰国して幽霊のように生きる男、夫を戦争で亡くし生活苦の中で自暴自棄になり駐屯する兵士と姦通する女、話に夢中になり国旗と軍旗を捧げて行進する兵隊を無視したために憲兵にリンチを受ける少年、国民義勇隊の竹槍訓練、天皇、ソ連参戦、玉音放送・・そして「何故俺でなくあいつがしんだのか」と友人を助けず逃げ出した自分を責めつづける主人公の少年。全てが戦争そのものである。



 映画の要所要所に白い蝶が出てくる。その蝶はいつも風に吹かれてゆらゆらと頼りなげにさまよっている。康夫の姿と蝶の姿が重なる。ふわふわと風にながされて、戦争や体制に積極的に従わず、後ろを向いているようであるが、かといって確信をもっているわけではない。何故友達を助けず逃げ出してしまったか・・そのことをずっと気にしながら、友人の妹に許しを請う。妹の「そんなら仇をとってください」という言葉に、こんどは穴倉にこもり竹やりで闘おうとする。戦後になって進駐してきた米軍に対して竹槍で突っ込んで行くが、軽くあしらわれ、そして脅しの銃声で気を失う。

 この頼りなさは、私にとってはこの映画の他の多くの登場人物にも共通するものに見えた。確信を持って賛同するわけでも反対するわけでもない。疑問を持ちながらもそれを突き詰めるわけでもない。教えられたとおりの言い方で戦争を正当化しながらそれに確信を持っているわけでもない。多少の幅はあっても結局それぞれの対処の仕方で、大きな流れの中に流されていく。

 結局この映画の中に描かれている日本人は、戦後ほぼ60年の今、風のように軽い論理にやすやすと流されていく今の日本人そのものではないのか?白い羽に丸い赤い斑点をつけたアカボシウスバシロチョウという蝶のようにふわふわと流されてゆく・・。


 

 
 映画に出てきた蝶
アカボシウスバシロチョウ:赤い紋のあるパルナシウス属の蝶で、朝鮮半島から中国南部、ロシアの沿海州にかけて分布。




 映画を見てからしばらくして、この映画のなかに極めて存在感のある登場人物がいたことに気が付いた。小作農の夫を戦争で亡くして食うや食わずで自暴自棄になり駐屯兵と姦通する女イネである。

 男との逢瀬の場面でイネはその泥沼のような状態を
「私が私の形を失うて、あんたがあんたの形を失うて、けもののごとくなって、死んでるもんでも生きてるもんでもなか、気色の悪かもんになってゆくのが恐ろしゅうして、気持ちが良かと・・」と語る。

 戦争の醜さをずばり身を挺して言い当てているような台詞である。夫が生きていることを知って彼女は死のうとするが助けられる。イネは結局自分の家を全て焼き払い、自分の過去をも焼き払い出てゆく。戦後が始まる。

 監督は重い警句に対する、希望をこの女イネの姿に託したのかもしれない。



K.A


●2003年12月6日(土)より2004年2月20日(金)まで 東京:岩波ホールにて上映中
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