本の紹介

「キムはなぜ裁かれたのか ─ 朝鮮人BC級戦犯の軌跡」

  内海愛子 著  (2008朝日新聞出版)

 
  1941年12月8日(日本時間)マレー半島コタバル上陸により東南アジアに戦線を拡大した日本軍は破竹の勢いでシンガポール・ジャワを占領し、翌年春には25〜30万もの連合国軍兵士を捕虜とした。

 彼ら連合軍兵士はジュネーブ条約で捕虜の人権が守られていることを知っていたし、連合国からの要請に対して日本政府も条約の準用を約束した。

 しかし日本の軍隊では「生きて虜囚の辱めを受けず」との教育が徹底され、上級将校さえ条約の存在すらも無知だった。日本軍では捕虜の管理は軍人の仕事として最も侮られたものだったのだ。

 しかも戦線拡大で兵士は一人でも必要な時だ。この状況で東南アジアでの捕虜収容所の監視員として採用されたのが日本語の使える朝鮮人・台湾人だった。
 
 日本兵に対してさえ十分な補給がなかった戦地の収容所で、食料・医薬品の不足と過酷な労働のもとで捕虜の死亡率は27%(ドイツ・イタリアでは4%)に達し、生き残った者も心身に大きな傷を負わされた。

 日本軍の「教育」しか受けなかった監視員は、言葉も通じない捕虜に対し暴力でしか対応できなかったことも多かった。

 戦後解放された捕虜たちの怒りは、直接命令する立場にあった朝鮮人・台湾人監視員へも向けられた。

 
  A級戦犯が人道に対する罪を問われているのに対してBC級戦犯は通例の戦争犯罪者をさす。当時の戦争法規では集団殺害、一般民衆への拷問、強姦、捕虜の虐待などが禁じられていた。

 捕虜収容所で軍属として働いた3000名余りの朝鮮人のうち129名が捕虜の虐待の罪で戦争犯罪者とされたのだった。 

 この本はなぜ彼らが戦争犯罪者とされどのような人生を送らねばならなかったかを描いている。軍属として徴用されどんな「教育」を受けたのか、どんなふうに訴えられ裁判にかけられたのか、その部分だけでも理不尽さに心が痛む。

 でももっと彼らを苦しめたのは講和条約後の扱いだった。日本人として服役させられながら刑期が終わると外国人とされ、補償もない。「対日協力者」とされ祖国に帰るお金もなく日本に放り出される。日本が戦後も「在日」外国人をいかに差別してきたかを思い知らされる。

 一方で加害者としての自分の行為を認め元捕虜たちに謝罪する姿には頭をたれるばかりだ。元捕虜に対し心から謝罪した日本の旧軍人や政治家がどれほどいただろうか?

 植民地支配、戦争裁判だけでなく、「戦後」責任についても厳しく問いかける一冊である。

Y.A