米軍がサマラでイラク人一般市民を虐殺!
米軍のウソ情報をそのまま垂れ流す大新聞報道にだまされるな!


 11月30日、サマラでの米軍のイラク人一般市民に対する虐殺を、大新聞は「民兵組織46人殺害」などと米軍のウソ情報をそのまま垂れ流しています。ウソが暴露された翌日になっても「武装勢力側の巧妙な戦術が市民の巻き添えを増やした」などと、どこまでも米軍本位の報道を続けています。
 アルジャジーラの報道は現地イラク人の数々の証言から米軍の虐殺の事実を明らかにしています


米兵の死亡とサマラ事件の報道への疑惑
2003年12月2日(火)
アルジャジーラ・ネットより


 日曜の夜サマラで起こった惨劇についてのペンタゴンによる報道の仕方に疑問が投げかけられる中、米兵が銃弾によって受けた怪我により死亡した。占領任務に当たっていたこの兵士は月曜の朝、バグダッドの西側で起こった抵抗勢力による攻撃によって怪我をした。詳しい情報は今のところわかっていない。

 サマラではいたるところにアメリカ軍の激しい攻撃の爪あとが残っている。警察と病院の担当者の話では、この攻撃によって少なくとも8人以上の民間人と数十人以上のけが人がでた。

 アメリカ軍の月曜日の発表によると、54名の抵抗勢力が日曜日の軍との衝突の際に死亡した。しかし、本誌および他のメディアが確認した病院や地元住民の情報によると、アメリカ軍が民間人8人を殺したといわれている。

占領の矛先に
耐える市民
 サマラ病院救急科の麻酔医師場サムイブラハム氏は、「女性と子供を含む八人の民間人死傷者が病院に運ばれてきた」と語る。

 後でわかった情報によると、民間人死傷者の中には、バスの中で発見された2名の聖地訪問中のイラン人も含まれていた。

 病院長のアブドタウフィク氏は、「;アメリカ軍の発砲と榴散弾によって出た60名以上の負傷者が今もなお病院で治療を受けている」と話す。

 米陸軍大佐のフレデリック・ラデシェイムによると、死傷者数は最初の発表の際と変わらず46名であった。彼はまた、この数字は厳密に死体の数を数えたわけではなく、兵士の証言に基づいたおおよその数字であると付け加えた。彼はさらに、アメリカへの攻撃は、イラクの新貨幣を輸送する米軍護送隊2隊に仕向けられたものだと語った。

 AFPの記者は、民間人の乗ったバスが燃えるのを町の病院の30メートル先で見たといった。記者はさらに、バスの中で焼死体で発見されたイラン人観光客2名のパスポートを見たと語った。また、病院に勤務していた守衛の話では、他9名のイラン人が怪我をした。

テヘランの懸念

 イラン政府はこの事件に懸念を示し、即刻真相解明の為の調査にのりだした。
 イラン議会安全保障対外政策委員会のレダ・ヨソフャン氏は、今回のイラン人の死についてワシントンに直接責任があるとした。彼は「この事件はイランと米国の関係をさらに悪化させる」とアルジャジーラネットに話した。ヨソフャン氏はさらに、米国監視下のイラク統治機構に事件の調査を依頼し、結果をテヘランに報告するよう問合せた。

 しかしながら、統治機構の広報担当者ハミド・アルキファイ氏はサマラでのイラン人死傷者については何も聞いていないと語った。彼はアルジャジーラネットに対し、「何も報告がないことに対してはコメントできない」といった。

テヘランはこの事件がイランと米の
関係を更に傷つけると警告した

 ヨソフャンはこのような事件が未調査に終わればバグダッドとテヘランの関係に障碍をもたらすであろうと忠告した。

 本誌の取材に対し、米軍のバグダッドの広報担当者は軍はイラン人の死亡について確認していないと話した。米軍の死亡者数の発表については、「詳しい情報がないので何も話すことはない」といった。

 アメリカのイラク侵攻以来米軍の攻撃によるイラン人の死亡者が確認されたのは初めてではない。侵攻が始まったばかりの頃には、イランの西側の国境で軌道のそれた弾丸がたくさんの民間人負傷者を出した。

礼拝者の負傷

 サマラの町の警察長であるイスマリ・モハメッド・ムハンマド氏によると、イスラム教寺院で日没のお祈りをしていた約20名の礼拝者が重傷を負った。
 ムハンマド氏によるとアメリカのイラク占領軍を襲った抵抗勢力のグループはアメリカ軍が発砲した時にはほぼ退去していた。米軍は兵器庫にあったすべての武器を使って無差別に発砲したという。

 「アメリカ軍と抵抗勢力は半時間ほど攻防を続けた。抵抗勢力が退去した後、無差別攻撃は四方八方にまたがって行われた」と彼は語る。また、子供を含む八名の死者がでたと付け加えた。

2冊のイラン人パスポートは
米の攻撃の犠牲者のものだという
アパッチ・ヘリコプターの使用

 町の警備担当者であるシャーク・ムハンマド・アブド・アルカリム氏は、警察の情報を元に、貨幣をアル・ラシド銀行に運んでいた米軍護送隊を抵抗勢力が襲った時には衝突が起こっていたと言った。「半時間に及ぶ発砲交戦のあと、抵抗勢力が逃げた。その後米軍は大規模な爆撃を開始し礼拝所や学校などの建物を破壊した」と彼は語った。アルカリム氏によると、この爆撃はアパッチ・ヘリコプターによって始まり、その爆撃の炎はカノン砲に見間違えるほどだったという。

 この爆撃の威力がよくわかる例として、病院から50メートル離れたところにあるイスラム教寺院の窓は爆風により粉々になっていた。

 アリ・アブド・アラー・アミンさん(12)は寺院にいた5歳の弟とともに爆撃で怪我をし病院で治療で受けている。彼らの父親は爆撃で亡くなったという。

 もう一つの護送隊が襲撃された通りでは、薬局の前に駐車してあった車が戦車によってぺしゃんこにされていた。