衆議院憲法調査会(4・20)

平成十二年四月二十日(木曜日)
    午前九時三十三分開議
 出席委員
   会長 中山 太郎君
   幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君
   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君
   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君
   幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君
   幹事 佐々木陸海君
      石川 要三君    石破  茂君
      奥田 幹生君    奥野 誠亮君
      久間 章生君    小泉純一郎君
      左藤  恵君    白川 勝彦君
      田中眞紀子君    高市 早苗君
      中曽根康弘君    平沼 赳夫君
      船田  元君    穂積 良行君
      三塚  博君    森山 眞弓君
      柳沢 伯夫君    山崎  拓君
      横内 正明君    石毛えい子君
      枝野 幸男君    島   聡君
      樽床 伸二君    土肥 隆一君
      中田  宏君    中野 寛成君
      畑 英次郎君    藤村  修君
      石田 勝之君    太田 昭宏君
      倉田 栄喜君    福島  豊君
      春名 直章君    東中 光雄君
      安倍 基雄君    中村 鋭一君
      達増 拓也君    二見 伸明君
      伊藤  茂君    辻元 清美君
    …………………………………
   参考人
   (神戸大学大学院法学研究科教授)
                五百旗頭真君
   参考人
   (横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授)
                天川  晃君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
委員の異動
四月七日
 辞任         補欠選任
  中川 秀直君     高市 早苗君
同月十一日
 辞任         補欠選任
  福岡 宗也君     島   聡君
同月二十日
 辞任         補欠選任
  藤村  修君     中田  宏君
  横路 孝弘君     樽床 伸二君
  志位 和夫君     春名 直章君
  深田  肇君     辻元 清美君
同日
 辞任         補欠選任
  樽床 伸二君     土肥 隆一君
  中田  宏君     藤村  修君
  春名 直章君     志位 和夫君
  辻元 清美君     深田  肇君
同日
 辞任         補欠選任
  土肥 隆一君     横路 孝弘君
同日
 佐々木陸海君が幹事に当選した。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 幹事の補欠選任
 日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)

    午前九時三十三分開議
     ――――◇―――――
○中山会長 これより会議を開きます。
 議事に入るに先立ち、この際、御報告を申し上げます。
 本調査会の委員であられました福岡宗也君が、去る十一日、逝去されました。
まことに痛惜の念にたえません。
 ここに、故福岡宗也君の御冥福を祈り、謹んで黙祷をささげたいと思います。
 御起立をお願いいたします。――黙祷。
    〔総員起立、黙祷〕
○中山会長 ありがとうございました。
     ――――◇―――――
○中山会長 次に、幹事の選任についてお諮りいたします。
 去る七日の議院運営委員会における幹事の各会派割当基準の変更に伴い、幹
事の選任を行いたいと存じます。その選任につきましては、会長において指名
することに御異議ございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。
 それでは、幹事に佐々木陸海君を指名します。
     ――――◇―――――
○中山会長 日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査
を進めます。
 本日、午前の参考人として神戸大学大学院法学研究科教授五百旗頭真君に御
出席をいただいております。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 五百旗頭参考人には、本日、御多忙の中を当調査会に参考人として御出席い
ただき、まことにありがとうございました。どうぞ先生の御意見を十分お述べ
いただき、有意義な調査会の参考資料にさせていただきたいと思います。
 なお、御説明は一時間というふうにお願いをいたしたいと思います。
 なお、参考人におかれましては、発言の際は会長の許可のもとに御発言をい
ただきたいと思います。なお、参考人の方から委員に対して質疑はできないこ
とになっておりますので、あらかじめ御了承をお願いしたいと思います。
 それでは、五百旗頭参考人、よろしくお願いします。
○五百旗頭参考人 皆様には、日本国憲法の制定経緯、既に四回、八名の方か
らのお話を聞かれまして、本日最終回と伺っております。
 さまざまな事実経緯、それをめぐる議論、意見を聴取されたわけであります
けれども、現在の政治そのものが激動への対応に追われる中、長期的な、根本
的な問題にこうして対処していらっしゃることに敬意を表したいと思います。
そういう場に御一緒させていただくことを大変光栄に思っている次第です。
 私は歴史家でありますので、いろいろな観点からの議論や細かい事実経緯は
ございますけれども、その骨格的な、主要な筋道ということをまず私なりに申
し上げまして、そして、その経緯の意味するものが何であるか、バランスを失
さない妥当な全体的理解とは何かということについて、私なりに思うところを
申し上げたいと思います。
 テーマが制憲の経緯でありますので、当然ながら、押しつけがあったか、あ
ったとすれば改憲でなければいけない、いや、押しつけはあったかどうかは別
にして、これは有効のものであるからその改憲の必要はないというふうな議論
があるわけでありますけれども、過去の経緯と改憲の必要の有無ということを
直結させるべきではないと考えております。
 経緯がこうであったから将来こうしなければいけないというのは、ある種の
原理主義であって、生まれ出たときの経緯がこうだったから私は永遠にそれに
こだわるということをやりますと、将来への対処を誤ることがしばしばござい
ます。むしろ、これからどうするかということは、現在までの体験をもとに将
来への洞察を持って考えていくということを基調にする。ある意味で、過去の
経緯というのはぐっと胸にしまって耐えながら、それは大きな動機になるので
しょうけれども、過去がこうだったからこうだとやりますと、歴史はしばしば
誤るというふうに思っております。
 そういうわけで、現在どういう状況にあってこういう改憲の必要が論議され
ているのかということを、私なりに申し添えたいというふうに思っている次第
です。
 まず最初の、憲法制定をめぐる経緯を、第九条を中心に私なりに整理して申
し上げたいと思います。
 御承知のように、昭和二十一年の二月三日、マッカーサー・ノートというも
のが、ホイットニー民政局長からケーディス以下の民政局の実務レベルに手渡
されました。そのマッカーサー・ノートは、三原則と呼ばれておりますけれど
も、その第二項におきまして、侵略と自衛の双方の戦争を明確に否定していた
ということは御承知のとおりかと思います。
 添えております資料1の左側の欄の中、これは私が二年ほど前に書きました、
「占領期」という吉野作造賞をいただいた本の二百六十九ページでありますが、
マッカーサー三原則の第二項が(A)に出ております。「国権の発動たる戦争
は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、」これは侵略戦争のこ
とをいう、「さらに自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する。」侵略
も自衛も、両方の戦争を放棄するということを明確にマッカーサーは指示いた
しまして、この三原則だけは守りなさい、その他は任せるというふうに、ホイ
ットニーから民政局、ケーディス以下に伝えさせたわけであります。
 なお、私は、民政局次長であったケーディスさん、今は亡くなりましたけれ
ども、亡くなる前に、一九九二年十一月に彼のマサチューセッツ州のお宅に訪
ねまして、二日間にわたりかなり詳細なインタビューを行いました。
 そのときの話で、このマッカーサー・メモ、三原則を書いたもの、それはど
ういうものだったかというと、よくアメリカでありますように、黄色地の紙に
緑色のような横線の入った、それに手書きで書いてあった。その手書きは、マ
ッカーサーのものだったかホイットニーのものだったか、どちらかと聞くと、
それはわからない。どうしてかというと、ホイットニー民政局長は本当にマッ
カーサーの分身であって、いつも二人で一緒に相談して大事なことを決めるわ
けですが、筆跡までそっくりになっちゃって、どっちのものであるか識別でき
ないほどだった。ホイットニーの奥さんは、あなたは私と結婚したの、マッカ
ーサーと結婚したのと怒るほどにマッカーサーとホイットニーは近しかったと
いうので、その手書きメモの筆跡はどちらが書いたのかわからないけれども、
二人の合作であることは明らかと。
 それで、これだけは絶対に守れと言われたのを受け取って、ケーディス以下
が民政局内でほぼ一週間の間に憲法を起案したというわけでありますが、絶対
に手を下してはいけないこの三原則の第二原則にケーディスが修正を加えまし
た。今の二つの、侵略戦争と自衛戦争、「自己の安全を保持するための戦争を
も、」ということを削除してしまったんですね。
 どうして下僚がマッカーサーの絶対指示に抗してそういうことができたのか
と聞きますと、やはりこの憲法が、戦後日本が独立後も生きていくためにはこ
ういうのには無理がある。いかなる国も、生存することの権利を奪われるもの
ではない。もしこんな無理な、自衛も許さないということを占領下で強いるな
らば、我々が去った後、速やかに憲法は改正されるだろう。そうなると、彼ら
なりにある理想を持って戦後日本社会をつくりかえたいと思っていたわけです
が、そのすべてが流されてしまって、我々の努力は無意味になる。そういうこ
とを避けるために、やはり自衛禁止というところは外しておいた方がいいとい
う判断を持って、ケーディスはそれを上に上げた。
 そうしたところ、ホイットニー及びマッカーサーから、それをしかりつける
のではなくて、それが受け入れられた。その瞬間から、ケーディス、そして恐
らくはマッカーサー、ホイットニー、GHQのトップ三人、実力者三人の間で
は、侵略戦争は明確に否定するけれども、自衛戦争はオーケーであるというこ
との了解ができ上がっていた。
 密室の中で、民政局内で大急ぎで手分けして用意されました憲法草案が取り
まとめられる。ケーディス以下の運営委員会と、そのもとでの小委員会合わせ
て、それをマッカーサーに上げて、フィードバックがあって、そして最終案が
つくられて日本政府に渡されたのが二月十三日であります。
 日本政府としては、このとき、既に提出してあった、松本委員会によって用
意した日本国政府の憲法改正案に対するGHQ側の回答を得られるものと会談
に臨んだわけですが、ホイットニー局長から、あれは受け入れられない、そし
て、これをもとにしてもらいたいというふうに、民政局が用意したいわゆるマ
ッカーサー草案というのを渡されたわけであります。
 その際に、ホイットニーは、もしこれが受け入れられれば、日本は国際社会
に受け入れられ、そして新しい歩みを始めることができるだろう、しかし、も
し保守的な、日本政府案のようなものにこだわるならば非常に難しくなる、そ
して、マッカーサーは天皇制を守りたいというふうに思って努力している、そ
のことを容易にするのがこの憲法であるというふうに言った。
 それを聞いたのは松本国務大臣と吉田茂外務大臣らでありましたけれども、
松本博士は大変に怒りに打ち震えた回想をしております。そのやりとりの中で、
「パーソン・オブ・ゼ・エンペラー」、天皇の身にというふうな言葉があった、
これは何と卑劣な脅迫であることかというふうに憤っていらっしゃいます。押
しつけと言われる、現場にいた松本博士は、そういうふうに受け取ったわけで
あります。
 ケーディスにも聞きました、露骨な押しつけではないかと。それに対して、
ケーディスはこういうふうに答えました。私は弁護士である、弁護士はクライ
アントに対して、もしあなたがこういうふうにされればこうなりますよという
事情を説明するのが職務である。もしあの保守的な、帝国憲法の手直しのよう
なものでやったら、絶対に行き詰まる。どんなことが起こるかわからない。天
皇制維持も難しくなるだろうし、直接軍政への移行ということが当時日本政府
にとって悪夢でありまして、間接統治の役割を果たす日本政府そのものが排除
されるのではないかという悪夢をいつも意識しておりましたけれども、そうい
うことになりかねないという事情を説明するのが弁護士の職務であって、それ
は押しつけとかなんとかというものじゃない。どう判断なさるかは御自由であ
るが、事情をよく言っておかないと職務を果たしたことにならないんだという
説明でありました。
 こうして、日本政府は、閣議は大荒れになりまして、二月二十一日にマッカ
ーサーと幣原首相がもう一度会見する、天皇の意見も伺う。そういう中で、幣
原首相は、これを大局から受け入れるほかはないというふうにマッカーサーと
の会談後考え、天皇からもそうするようにと励まされまして、二月二十二日の
閣議において、日本政府は基本的にこのマッカーサー草案を原案として受諾し、
あと手直しをして進むという決断をいたします。
 その後、第九条につきましては、有名な芦田修正、「前項の目的を達するた
め、」
という語句を挟むことを中心とする芦田修正が行われたことについて、もう御
説明するまでもないと思います。
 ケーディスは、この点についても次のように言っておりました。あるとき、
芦田小委員長が自分のところへ来てこの修正案を示した。一読して自分は直ち
に賛成した。
なぜならば、ケーディスなりに、侵略戦争は否定するが自衛戦争はオーケーと
するという考えに立ち、さらに、彼の説明では、国連加盟ということを展望す
ると、国連加盟国の義務である国際安全保障の軍事行動への参加、それも必要
であって、それを容易にする修正として芦田修正はよろしいと思い、上司の考
えとも背馳するものではないというふうに思ったので、自分は即座に芦田に対
してこれでいいと答えたと。ところが、そう言ったところ驚いたのは芦田の方
であって、本当にいいのですか、独断でそうおっしゃっていいのですか、上に
聞かなくてもいいのですかというふうに心配したので、大丈夫だというふうに
自分は保証を与えたというふうに回想しておりました。
 これは、一九九二年にこのインタビューでそういうふうに聞きましたとき、
私はいささか信じがたい思いがいたしました。そういうことならば、もっと知
られていいはずではなかったか。ケーディスにインタビューした人は数限りな
くあるかと思うのですが、そういうことは余り伝えられていないのを大変不思
議に思いました。
 当時、九二年といいますと、御承知のようにPKO法がつくられて、ああい
う国際平和維持活動への参加ということが日本でホットイシューでありました。
そういう新しい現実の中で、ケーディスさんは歴史の記憶をかなり柔軟にモデ
ィファイして説明しているのではないかと、そのとき伺いましてかなりしつこ
く聞きましたが、彼は、記録を見れば明らかなはずだ、金森国務大臣はこうい
う発言をした、幣原だってこういう発言をしていたといったようなことを言っ
て、自信ありげでありました。日本へ帰りましてから調べましたところ、基本
的にケーディスの言っていることはほぼそのとおりであるというふうに私は感
じた次第です。
 というわけで、民政局といたしましては、あの修正された、芦田修正が加え
られた第九条によって、侵略戦争は明確に否定するけれども、自衛及び国連の
もとでの国際安全保障活動への参加という形での軍事活動、これは可能である
というふうに考えていた。民政局、GHQがそう考えただけではなくて、極東
委員会もまたそう考えたからこそ、文民条項を要求してきた。日本が自衛のた
めであれ再軍備できるのであれば、その軍隊はしっかりとシビリアンコントロ
ールが貫徹されなきゃいけないという観点から文民条項が加えられたことは、
これまでの参考人も繰り返し述べられたところでありまして、私がそれに深く
立ち入る必要はないかと存じます。
 そういうわけで、非常に不思議な感じがいたします。そういうふうにGHQ
も極東委員会も、侵略戦争のみを否定した第九条であると理解しておりました
が、戦後、日本国民は、吉田茂首相の国会における答弁、侵略戦争はいけない
が自衛戦争はいいのではないかという質問に対して、戦前の日本が自衛を名に
して侵略を繰り返した歴史に言及いたしまして、そういうふうなことにかんが
み、自衛はいいというふうに考えるのは有害であるというふうに国会答弁いた
しまして、侵略戦争のみならず、自衛戦争をも第九条のもとで我々は持たない
のだという解釈を示した。それが広く国民に知られ、かつ支持され、野党にも
支持されて、議論がそこでほぼ固定する。そういう状況が非常に長く、ほぼ冷
戦終結まで続いたと言えようかと思います。
 どうしてそういう妙なことをしたか。その点について、マッカーサーの方で
も顕教と密教の使い分けをしていた。
 当時、何しろ侵略戦争の記憶が生々しい。三十年来、日本軍がアジア大陸で
軍事活動を繰り返し行って、そして敗戦に終わった。その後、日本が国際社会
で信用を回復するためには、徹底した平和主義が望ましいというふうにマッカ
ーサーが判断していたわけで、マッカーサーは、先ほどの資料1の(A)の中
で、それでは侵略、自衛、両方の戦争を否定するとすれば日本はどうやって安
全を保障するのか、それを、「今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。」
というふうに書いているわけですね。そういう姿勢を日本がとることが日本の
信用回復、戦後への船出のために必要であるという判断をして、そう強く印象
づけることは意図するところであった。けれども、実際にそれをもって日本が
長きにわたって安全を図れるかということは難しいわけであって、ケーディス
修正のように、実際のところは自衛はふさがない、可能とするというふうに、
顕教と密教の使い分け。
 そのようなアクロバットを行ったのは、当時、つまり一九四六年初めの時点
におきましては、まだ冷戦が始まっておらず、二つの総力戦、すさまじい人類
的な戦争を行った後の世界が、国連のもとで新しい安全保障体制を得、平和の
うちにやっていくという希望が非常に強かった時期で、マッカーサーは、彼自
身の個人的体験をも加味して、その線で憲法を打ち出す。特に、敗戦国日本が
信用を回復するために、国際社会、アメリカからいろいろな点で理解を得るた
めに、天皇制を維持し、比較的寛大な日本処理をするためにもそれが必要だと
いう判断を加味して、そのように行った。極めて状況の特殊性を反映したもの
であるというふうに申し上げておきたいと思います。
 それで次に、以上の経緯の意味するものでありますけれども、見てまいりま
したように、日本政府が自由意思によって定めた憲法ではない。何しろ占領下
であります。最高権力は、ポツダム宣言及びその後の終戦交渉ではっきりと示
されましたように、スキャップにある、連合国最高司令官にある。天皇及び日
本政府はそれに従属する、サブジェクト・ツーするということが明記されてお
ります。最高権力が外部からの支配者、勝者の手にある、そういう状況での憲
法改正でありました。のみならず、一般状況がそうであるだけではなくて、日
本政府が用意いたしました松本案をはねのけて、みずから用意した案を日本政
府が基本的に採択するように強要したわけであります。
 そういう意味で、自由意思によって日本がみずからの手でつくり上げた憲法
であると言いようもない経緯でありました。
 ならば、これは押しつけ憲法であって、違法であり無効であると言うべきか。
そうではない。現憲法は、違法でもないし無効でもないと私は思います。
 第一に、連合国最高司令官の権力というのは、戦勝を背景にしてポツダム宣
言を日本に発し、そこに何がしか寛大な対処方針、ドイツの場合の全土を制圧
して直接軍政に移ったという方式とは違って、日本政府を通しての間接統治を
可能にする、そして妥当な平和的復活ということを許容するような条件を提示
しつつ、本土決戦による日本全土の荒廃かあるいはポツダム宣言受諾かという
ふうに迫ったわけで、それに対して日本側は、堪えがたきを堪え忍びがたきを
忍んでこれを受け入れたわけですね。ポツダム宣言受諾という合意を行って最
高権力をマッカーサーにゆだね、そのもとで日本政府が存続するということを
了承したわけであります。
 ハーグの陸戦法規四十三条、占領下において法制を変えてはならないという
のに違反するから無効だという意見がございますが、そのような一般法、個別
法、個別合意というのはオーバーライドできます。
 また、四十三条自体が、絶対の必要のない限りしないように、なるべくしな
いように、こういうふうな非常に腰の引けた規定でありまして、一種の望まし
いことを語ったまででありまして、では、絶対の必要がある、ないはどういう
条件か。通常には、治安、安全の維持ができなくなるような事態が絶対の必要
だというふうに解されておりますけれども、それとても、有権解釈はその状況
の中で勝者が持ち得るものであるというのが歴史のならわしであります。なる
べくなんという言い方をしているのは、絶対、なるべくというふうなものは、
それに違反しているというふうに追及することが容易ではない規定でありまし
て、この陸戦法規をもって違法、無効と言うことには無理があると思います。
 ポツダム宣言という括弧つきの合意、その十項に、日本政府は民主化のあら
ゆる障害を除去しなければならないということが記されておりまして、最高権
力を得た者が、この民主化のあらゆる障害除去の中に憲法改正が必要であると
いうふうに言ってきた場合、日本はそれを断ることは難しいという状況があっ
た。
 そういうわけですから、スキャップが憲法改正を指示してきたことが違法、
無効というふうには言えませんが、もちろんこれは政治でありますので、日本
政府が抵抗することは可能であります。例えば、幣原内閣の前の東久邇宮内閣
は、内務省のパージを言い渡されたときに、抗議の総辞職をいたしました。い
かに間接統治とはいえ我々にも誇りがある、こんなむちゃをするGHQには協
力できないといって総辞職する。この憲法改正の要求がむちゃであると思えば、
幣原内閣も総辞職して抗議することも政治的に可能でありました。
 問題は、そうした場合、果たしてそれが自分たち政府にとって、そして、大
きく見れば、これは国民のいわば地獄のふちに立った事態ですから、国民にと
ってそれがいいことなのかどうかというぎりぎりの判断を迫られたわけですね。
そういう中で、幣原内閣は、むしろ天皇制を存続する、日本国家を存続させ、
戦後への船出を可能にするためにこれを受け入れよう、のみ込もうと。あと、
手を加えるところは加えて、国内手続を踏んで有効な憲法として成立させる決
断をしたわけですね。
 そういうものでありますので、大変異例な事態でありますけれども、これを
違法、無効であるというふうに言うことは無理であります。
 それで、そういう場合、結局のところこれは政治の大きな営みでありますの
で、問題の中心は、果たして日本政府、日本国民がこれを望むかどうか、この
憲法をよきものとして受け入れるかどうか。よくないと思えば、占領下ではと
もかく、占領終結後速やかに修正すればいいわけであります。
 当時の日本政府にとってこの憲法は、先ほども申しましたように、天皇制と
国家存立を守り、戦後世界へ船出するための避けられない必要事、いわば代償
として受け入れたわけであります。
 内容的に、もちろん賛成するところもたくさんありました。幣原首相自身、
大正デモクラシーと呼ばれる二〇年代の比較的リベラルであった時代の外交指
導者でありました。それになじんでおりましたので、自由主義的な諸改革は彼
自身望むところで、強制されての改革ではなくて先取り改革をしばしばやって
いるのですね。例えば選挙法の改正や労働法の改正は、GHQに指示されてで
はなくて、幣原内閣としてみずからの戦前来の体験に基づいて自主的に改革を
して、それができ上がった後、GHQは英語訳を出せと言うので出したところ、
いいじゃないかというので了承している。
 そういうふうなのもありまして、戦前日本が達成した民主主義に立っての、
その先にある、日本としてもやりたかったというふうなところもたくさんござ
いましたし、いささか無理があるかと思われたところも、象徴天皇制であれ天
皇制を守り、国家存立のためにこれは大局から受け入れた方がいいという判断
をしたわけであります。
 それから、当時の日本国民は、この憲法が三月六日に括弧つきで日本政府案
として発表されますと、大変よろしいというので概して好評であり、一部は熱
狂的と言っていい。民主化も、日本近代史がジグザグの中で求め続けていた一
方の望みでありましたし、平和主義というのも、戦争のあの体験の後のよきも
のというふうに受けとめられたという面がございます。象徴天皇制も案外、こ
れが望ましいという支持が七割から八割に達した。当時の世論調査は今ほど精
密なものではございませんが、概して高い支持を与えたわけであります。
 占領終結後もこの国民の憲法への支持は変わらず、改憲、再軍備というふう
なことが五〇年代後半熱心に提唱されもいたしましたけれども、結局のところ
定着していったというのが実情でございます。この憲法のもとで、戦後日本は
目覚ましい復興を遂げまして、先進社会の一つに発展する。平和のうちに豊か
な社会を形成することができたわけで、それを支える憲法として高い支持を国
民のうちに得ることができたというのが実際でございます。
 それならば、どうして憲法改正問題が今起こり、このような調査会がつくら
れるのかという点でございます。
 やはり、冷戦終結後の国際環境の変化というのが、非常に大きなインパクト
を日本国民の憲法観にも与えました。湾岸危機、湾岸戦争。
 日本は、第九条のもとで侵略戦争はしない、自衛については、いいといけな
いというのに分かれている恐らく世界でただ一つの国民である。世界じゅうど
こにあっても、外国から攻撃を受けた場合、それに対抗するというのは、政府
の国民に対する最高の責務である。国民の安全を守る、それがいわば究極の政
府の任務です。
それをしないなどという政府は存立しようがないというのが国際常識でありま
すけれども、戦後の日本は、特異な体験のもとで、そしてこの憲法のもとで、
自衛戦争をしていいかどうかということが本気で議論されている恐らく世界で
唯一の国ではないかと思います。
 そういうふうに分かれておりますが、侵略戦争と自衛戦争の二分法というふ
うに、ずっと日本人の心の辞書は固定されてまいりました。
 ところで、湾岸危機でサダム・フセインのイラクがお隣のクウェートを侵略
した。これは日本にとって何なのか。日本の侵略戦争か。関係ない。日本の自
衛戦争か。
それも関係ない。だから我々の問題ではないというのが基本的な認識であった
かと思います。遠くの戦争に、ほら火事だ、ほらけんかだといっておっ取り刀
で駆け出すようなやくざ者ではもうないんだ、我々は平和を好む日本国民であ
るというふうに、いい子であるという思いを持っていたわけですね。
 ところが、それに対して国際社会は激しい非難を浴びせまして、日本は何を
考えておるのかと、サンドバッグのように打たれたというほどの厳しい非難が
参りました。
 一体どういうことなのか。日本が、戦争に責任のあった国として、もう決し
て二度とけんかはいたしませんというふうに社会更生中であったときには、日
本が全く平和的で国際安全保障に関与しないということは安心材料であったで
しょう。また、日本が貧しい国であったときには関与のしようもないかもしれ
ない。
 しかし、一九七五年にG7サミットができたとき、日本はその構成国であっ
た。米欧日、世界の先進社会三極の一つを構成する存在である。冷戦が終わっ
たとき、日本のGNPは世界全体のGNPの一五%を占める。百八十何カ国が
ある中で一五%を一国で占める。アメリカの二五%はとんでもないところです
が、それに次いで一五%を占めるという信じがたい経済超大国になっていたわ
けですね。そして、G7サミットの三極の一つとして先進社会グループを構成
する、そういう現実。
 例えて言うならば、百八十人の大教室で、三人の先生が教壇の上に立って教
室全体のことをやっている。そういうときに、教室の一角で乱暴者がお隣の女
の子にいきなり殴りかかって、倒して、馬乗りになって殺そうとしている。騒
然といたしまして、その周辺の生徒たちは、とめようとしても権太坊主が怖い
ので、先生と言うわけですね。教壇におりますジョージ先生は、何をするかと
言って大またでそちらへ向かっていく。女性ながら大変強いマーガレット先生
も、一緒になって、ジョージ、今度という今度はだまされたらだめよ、あいつ
は悪いやつだから、今度はしっかりやりましょうと言って先導していく。ずう
っと行ったところでふと気がついた。あれ、もう一人来ないというので教壇を
振り返ると、日本の先生はまだそこで立ちすくんでいる。
どうしたんだ、おまえどうして来ないんだと言ったら、いや、御家訓がありま
して、けんかだけは絶対しないことになっていますのでと。おまえ、けんかが
いけないと言って、これがいいと思っているのかと。いやいや、そんなことは
思っていないから、差し入れはちゃんといたしますのでというふうな情景にな
っちゃったわけですね。
 おまえ先生なのか、先生なら、自分がけんかする、しないじゃないだろう、
教室全体が、みんながやっていけるように面倒を見るのが先生の務めじゃない
か。三極の一つというのであれば、その三極は経済分野を中心にしております
が、首脳が集まる以上、世界の運命にとって重大なことにはかかわらざるを得
ない、そういう存在でありながら、世界の安全保障にかかわる重要な問題にま
るで人ごとのようにかかわらないというのはどうしたことかというおしかりだ
ったわけですね。
 その体験を経て、日本もPKO法案をつくる。軍事力をもって平和を強制す
るということについては、戦後の生き方、そして、憲法上直ちに決断できるこ
とではないけれども、平和維持ということであればいい、法をつくって対応す
る。幸い、カンボジアの平和構築ということに日本は極めて重要な役割を果た
すことができまして、そこでのPKO、UNTACには、明石さんがその長と
なって、いわば日本の活動として、地域の平和、再建に大きな役割を果たすこ
とができた。
 そのカンボジアPKOをやっている間は、日本人はまだ非常に乱れた。中田
君や高田文民警察官が殺されたときに、日本世論は千々に乱れた。もう引き揚
げるべきではないかというふうに思ったりいたしました。しかし、その後カン
ボジアで総選挙が行われ、九割もの人たちが投票に向かう。暗い中から隣村ま
で出かけていく人たち、やはり平和が欲しかった、政府を再建したかったとい
うカンボジア国民の意思が表明され、それにお役に立てたということが事実に
よって示された。その後、日本国民の意識がかなり変わったように思われます。
 資料の2の方の「憲法意識の変遷」という左側の表を見ていただければと思
いますが、改憲賛成が実線の白い丸ですね。改憲反対、つまり、憲法はこのま
までいい、支持するというのが点線で、高い位置にある。圧倒する勢いにあり
ました。ところが九二年、三年に、カンボジアPKOが成功に終わった後、そ
れが逆転している。
同じ質問による持続的な意識調査が必ずしも行われているわけではないので、
絶対に確かというものではありませんが、いろいろに行われたものをつないで
みますと、こういう逆転が起こったことはほぼ間違いない。第九条ゆえに我々
が国際貢献というのを拒否し続けるべきではない、むしろ、第九条が間尺に合
わなくなった、我々が必要とする国際活動を制約するものであるならば、それ
を変えていいのではないかというふうな変化がここに読み取れるかと思います。
 湾岸危機のみならず、九〇年代には相次ぐ危機が起こりました。北朝鮮の核
による危ない伝い歩き交渉、テポドンの発射、それから国内では、オウムの問
題もあり、阪神・淡路大震災があり、私の家も全壊いたしましたけれども、ま
た、不審船がやってくるというふうに、さまざまな種類の危機が次々に襲った
わけですね。冷戦後非常に変わってきた。
 冷戦下において日本の安全保障上の危機は何か。これは、東西冷戦のもとで
超大国ソ連が北海道に侵攻してきたら困るというわけで、それに対してできる
こと、もちろん日本の自助努力は大事でありますが、最終的に日本でやれるこ
とというのには限度があって、超大国の脅威に対しては、もう一つの超大国で、
もっと強大な友人であるアメリカの力をかりるということが不可欠で、最後の
ところはそれを大事にするというのが答えであったわけですね。
 ところが、冷戦終結後、依然として北朝鮮の問題あるいは台湾海峡の問題等
を考えまして、日米安保が要らなくなったとは考えない、むしろ、さまざまな
不安定要因に対して日米安保を、日本の安全のみならずアジア太平洋地域全体
の安定装置として活用するのが賢明であるというのが、橋本内閣のときにクリ
ントン大統領との間で結ばれた日米安保再定義の共同声明であります。それは
極めて妥当であると思います。
 では、日米安保、日米同盟に万事安全保障上の危機はお願い申し上げたらい
いか。不審船です、済みません、アメリカさんよろしく、オウムが来たのでよ
ろしくとか、これはとんでもない話ですね。低強度紛争というのが非常にふえ
てきた。超大国の脅威の時代は去ったけれども、さまざまな種類の低強度紛争
が至るところから来る。それでいてばかにならない。
 北朝鮮のように、経済的破産の危機に瀕した国も、核とミサイルで脅かすこ
とができるわけですね。それを、本来ならば、日本ほどの国ならば、自前で対
応する能力を持ちたい。持てていいはずだとも思いますが、それはできない。
やはり、かくも軍事技術のレベルが高くなり、世界が一体化しますと、一国主
義による対応というのは非常に限界があります。やはりここは、日米同盟、さ
らに韓国と放列をそろえて、変な軍事の火遊びは絶対に実らないということを
しっかりと、ペリー調整官の努力もあってでき上がる。そして、もう一つのか
たぎの道へ来るならば協力は惜しまないという方へ誘導していく。これは妥当
な対応でありますが、それにしても、この地域の一国の問題に対しても日本は
自前でできない。日米同盟は依然として必要である。
 こういうわけで、同盟関係を延長、強化しながらも、自前でやるべきことは
非常にふえてきた。基本的に自助努力でやらないのはお笑いぐさであるという
のが冷戦後の状況であって、したがって、九〇年代のもろもろの危機を経験し
た日本は自助努力を拡大する、安全保障上の危機の対処ということについて今
までよりも本格的に自分で取り組む。その必要がこういうふうな皆さんの調査
会における討議というものの重要な背景なのではないかと思います。
 自助努力、同盟友好関係、そして国際システムという三つの努力が日本の安
全のために必要であります。
 マッカーサーの言うような崇高な理念にゆだねるということはできませんが、
しかし現在、百八十幾つの国で、自助努力で自国の安全を全うできる国などと
いうものはありません。ほとんど防衛力のないような独立国もたくさんありま
す。それは、ある意味で、そういう国だからといって侵略すると許さないよと
いうふうな、国際システムによる保護というのが一定働いていると言えると思
います。
 そういう国際システムを、世界政府ができるわけではありませんが、強化し
ていく。多くの国が核武装に走らなくていいようなシステムを日本などは非核
先進社会として熱心に追求するというふうな努力はやはり必要であり、有効で
ありまして、その意味で、自助努力、同盟友好、国際システム、三つのレベル
を重層的に推進して、組み合わせて、日本の安全保障努力を意義あるものにし
ていくということが必要であると考えます。
 「異端としての改憲論と正統としての改憲論」ということをレジュメの中に
書きました。
 制定当時、あれは押しつけであった、だから改憲しなきゃいけないというの
は、内容を見ずに一般的、抽象的に論ずる、これは原理主義でありまして、そ
れは私は異端としての改憲論たらざるを得ないと思います。それが強く言われ
ている間、日本国民は決して、先ほどのグラフで見ていただきましたように、
改憲論に多数を与えませんでした。
 それに対して、何十年かの経験を経て、この憲法が示した自由の価値、民主
主義、そして国際協調主義、平和主義というのが国民の間に定着してきた。九
〇年代に危機があったからといって、それを振り捨てるわけではない。依然と
して国際協調主義のもとで共同対処の努力をしていく。しかし、この憲法があ
の時点で決めたことには無理がある。崇高な理念にゆだね切れるものであろう
か。
 あの憲法が川上でつくられた以後、川は流れ続けております。あの瞬間風速
的な、戦後、国連のもとでの世界の安全保障が可能になるのではないかと思わ
れていた時代は、翌四七年には冷戦の開始によって難しくなってきた。その中
で、日米安保条約という個別努力、集団的な自衛権を行使する必要があるとい
う認識のもとで、講和とともに安保条約を結んだわけでありますが、今ではそ
の冷戦状況も終わって、また違った文脈で日米同盟は意味を持ち続けている。
 しかしながら、低強度紛争が多発して、それをすべて日米同盟に頼るわけに
はいかないので、自前の努力が要る。そういう事態を迎え、さらに、日本の国
際的役割というのが大きく拡大した中で、国際安全保障については全く知りま
せん、日本人だけは血を流さないという対応というものが、国際システムにと
って、国際的な共同対処にとって不可能であるという事態を迎えたわけですね。
川は流れて、川上の方で考えた、あのとき考えたものと違った条件がいっぱい
出てきている。
 そうすると、基本精神である自由、民主主義、国際協調主義、これはもう国
民の間に定着して、コンセンサスである。そのコンセンサスの上に立ちながら、
より意味のある方向づけ、対応を可能にする基本法というものを持ったらいい
じゃないか。
 これは、トータルにあの憲法は無効だ、有効だとかいうのではなくて、基本
的にこれは意味のあった憲法だと評価し、受けとめながら、その上でこれから
の必要を方向づける。現在の時点、そして洞察を持って国民の安全と繁栄のた
めに必要な憲法に改めていく、これが私の言う正統としての改憲。一部の人が
金切り声を上げる異端としての改憲論ではなくて、国民的必要に対応する正統
としての改憲論をぜひ展開していただければと思う次第です。
 ほぼ時間になったかと思いますので、以上で私の冒頭の話を終わらせていた
だきます。
 長い間、御清聴ありがとうございました。(拍手)
○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沼赳夫君。
○平沼委員 五百旗頭先生、大変お忙しい中、当憲法調査会のために貴重なお
時間をお割きいただき、さすがに歴史学者でいらっしゃるので、一つの視点か
ら含蓄のあるお話をしていただきまして、本当にありがとうございました。
 押しつけ憲法論に関して先生は、異端論、こういう形で位置づけられたわけ
でありますけれども、私は若干見解を異にいたします。
 およそ古今東西、戦いに勝った国というのは、打ち負かした国に対して基本
的なことを必ず二つしているわけであります。
 それは古代のアレキサンダー大王にしても、我が国の戦国時代のそれぞれの
武将にしても例外じゃなくて、負かした相手に対しては、まず一つは、非常に
厳しいそういう世界でありますから、二度と再び立ち上がらせない、こういう
ことをやるわけであります。もう一つは、その打ち負かした国というものに対
して、未来永劫、でき得べくんば友好的な属国として位置づけて、そして勝っ
た側の論理を押しつけながら、自国の安泰を図っていく。私は、戦勝国の最高
司令官であったマッカーサー元帥も例外じゃなかったと思うんです。
 これはもうみんな承知のことでありますけれども、厚木飛行場に乗り込んで
きて、そしていろいろな指令を出しましたけれども、真っ先にやったことが憲
法改正の示唆でありました。
 それは、なぜ憲法に着目したかというと、日本は、いろいろな紆余曲折があ
ったと思うんですけれども、大陸から法律システムを入れ、聖徳太子の十七条
の憲法、さらには大宝律令等々、法治国家で長い間存続してきた国柄でありま
す。法治国というのは、これは言うまでもなく法が支配、運営する国家体系で
ありますから、その基本法というものを、やはり今の二つの目的を円滑に達成
するために自分たちの意に沿ったものを押しつけるということは標準動作だっ
たと思うわけであります。
 しかし、これは不戦条約やあるいはハーグの陸戦法規その他その他、やはり
戦いに勝った側が一方的に最高法規というものを押しつけるべきじゃない、そ
ういう国際世論にも配慮いたしまして、そして日本に、先生がお話しのように、
担当したのは松本烝治博士でありましたけれども、憲法改正を命じたわけです。
その間、これはいわゆるポツダム勅令と言われていますけれども、連合国側は
日本に対して二千を超えるいろいろな勅令を出して、徹底的な日本の改造を図
ってきたことも事実です。
 そして、さらには、昭和二十年の九月からマスコミに対して事前検閲という
ものを強行いたしました。これは二十三年の七月まで続くわけでありまして、
さらに、二十三年の七月からは事後検閲になりました。これは江藤淳先生なん
かの綿密な調査によって大変明らかになってきた事実ですけれども、そういっ
て徹底的な事前調査をする。
 また、これはポツダム宣言の中にも盛り込まれていたわけですけれども、極
東軍事裁判というものを開き、極東軍事裁判というのは、法の原理原則をある
意味では無視して、罪刑法定主義というものが原則でありますけれども、これ
を全く無視して、それまでなかった「平和ニ対スル罪」、「人道ニ対スル罪」、
こういうものを事後法として設定して、そして構成する判事も中立国は一人も
いない、そういう形で一方的に裁判を開き、判決を下した。
 その中で、有名な話でありますけれども、その判事を構成していたインドの
パル博士の非常に大部にわたる判決文があります。裁判というものの記録であ
りますけれども、その当時は、これも一切公表を禁止したというような形で、
非常に目的的に強力にやってきたわけであります。
 憲法は、先生もお認めいただいたとおり、押しつけだったわけであります。
この押しつけという一つの事実というものを、先生のお考え、それはそれで評
価すべきものがありますけれども、法が支配、運営する国家体系をとっていく
以上、その根本のいわゆる法律たる憲法の出発点が今言ったような背景の中で
意図的にやられたということは、やはり独立国の我々日本人としては、これは
やり過ごすわけにはいかない。
 新しい、確かに理念的には、先生御指摘のように、多分アメリカンデモクラ
シーに基づいておりますし、二十五名から成るいわゆる憲法草案に携わった人
たちも、初回、西先生から詳細に承りましたけれども、ハイエデュケーテッド
な、ケーディスにしてもハーバード大学のロースクールを出ている、ハッシー、
ラウエルもしかり、そういう法律的な素養があったことは事実です。しかし、
この二十五名の起草した人たちも、明らかにそういう意図であり、また多分に
理想主義者的で、ある意味では、アメリカのニューディール政策、こういうも
のに大変傾倒していた人たちだったのです。
 ですから、彼らが日本に押しつけてきた憲法というのは、例えば前文一つと
っても、これはアメリカンデモクラシーの有名なリンカーンのゲティスバーグ
演説の、バイ・ザ・ピープル、フォー・ザ・ピープル、オブ・ザ・ピープル、
これがそのまま入ってきておりますし、それからまた、いわゆる九条に生かさ
れている不戦条約そのものの精神が、マッカーサーを経由して、これはフィリ
ピンの憲法にも入っているわけですけれども、そういう形でそのまま入ってき
ている。
 私は、そういう出自の憲法であるからして、いいことは率直に認めますけれ
ども、半世紀以上たって、今この日本でいろいろな社会的な忌まわしき問題が
起きております。そういうものは、やはり法が支配、運営する国家体系で法治
国である以上は、今の憲法と無関係ではない。もとをただせば――今、例えば
犯罪が多発する、また子が親の面倒を余り見ない、そしてまた平気で親が子を
殺し、子が親を殺す、そういったことが多発して、教育の荒廃も目を覆わしめ
るものがある。だから、そんなことを考えてみると、繰り返し言いますけれど
も、いい面は率直に認めますけれども、しかしそういった面も、占領政策の目
的で、こういう言葉を使うのは嫌なんですけれども、日本を弱体化する、そう
いうために押しつけた憲法でありますから、そういう現象も我々はこれから力
を合わせて直していかなければいけない。
 そういう中で、原点に立ち返って、勇気を持って、押しつけ憲法論が異端論
だとおっしゃいますけれども、そうじゃなくて、そういったところをこの憲法
調査会でも皆さん方で討議をしながら、そういう出自の憲法であるからこそ、
やはり我々日本民族の手に成る憲法をつくっていくことが大切なことじゃない
か。そこを避けて通ってしまうと、その場その場を糊塗するだけで、やはりい
つまでたっても本当の、我々が理想とするようないわゆる法治国日本、こうい
うものをつくることができないじゃないか、そんな危惧を私は持っています。
 先生の御提言に大変水を差すような私の見解でありますけれども、今、そう
いった憲法の出自が、現状のいろいろな、我が国にとって喫緊に解決しなきゃ
ならないそういう問題と関係あるかどうか、また、今私が申し上げたこと、そ
れに対して先生の御見解をぜひ承りたいと思います。
○五百旗頭参考人 ありがとうございました。
 第二次大戦終結のときの平沼騏一郎枢密院議長は、おじい様でいらっしゃい
ますか。(平沼委員「ひいじいさんです」と呼ぶ)ひいおじいさんでいらっし
ゃいますか。
 今の平沼先生のお話を聞いて、私、この資料のもう一つの方、「戦後日本外
交史」という昨年私の編著で出版したもののあるページが先ほどの「憲法意識
の変遷」のグラフでありますが、その中の占領を扱ったところのコラムにも書
いたのですけれども、ひいおじいさんの平沼枢密院議長さんは、日本がポツダ
ム宣言を受諾するに当たって、御承知のように、陸軍は、徹底抗戦、本土決戦
を主張し、それに対して外務大臣、東郷外相は、国体護持ということの保証の
みを得てポツダム宣言を受諾しようという主張をして、三対三に割れたわけで
す。軍部の指導者、それから外務大臣、首相に加えて、枢密院は、憲法改正と
か条約とか極めて重要な問題を審議するその時間がない事態において、枢密院
議長に最高戦争指導会議に加わってもらうということをもって満たそうという
手続があったわけです。枢密院議長の平沼氏がどういうふうに発言するか、み
んな息をのむ思いで、その割れたところでの発言に注目したわけです。
 それで、いろいろ質問した後、平沼枢密院議長は、基本的に外務大臣が言う
ようにポツダム宣言を受諾するほかないというふうに、聖断に至るその線を支
持された。ただ、言葉遣いに注意をしなさいということをおっしゃったんです。
そこで、平沼枢密院議長の意向によって、国体護持を確かめるという照会の文
書において、天皇大権に関する変更要求を含みおらざるものとの了解のもとに
ポツダム宣言を受諾するというふうに文書をつくったんですね。
 これは、天皇制が形骸化しても、ともかく残ればいいというのではいけない。
明治憲法の中で至るところに、大事なことは全部天皇大権となっておりまして、
しかし、後ろの方の五十五条において「輔弼」、天皇を補佐するのが国務各大
臣であって、その副署を決定に必要とするというので、実際には各大臣がサイ
ンをすることによって効力を発するというので、すべては天皇大権だけれども、
国事については国務各大臣がというふうな構造だったわけですね。それで平沼
議長は、天皇大権を変えないという条件のもとでというふうに言った。
 これを受け取ったワシントンのアメリカ政府では、トルーマン大統領のもと
で御前会議を開きまして、一部、バーンズ国務長官のように、我々がポツダム
宣言を出したときは原爆投下前だった、ソ連参戦前だった、それ以後この二つ
の要因によって我々は優位になった、だのにこういうふうな新たなる修正を加
えて配慮する必要はないという主張をする人もおりましたが、スチムソン陸軍
長官や何かが中心になって、日本は、ここまで来て、こんな絶望的事態でもな
お天皇を守ろうとしていることに共感を持つ人もおり、トルーマン大統領とし
ては、犠牲を最低限に抑えて早く平和を回復するということがアメリカ国民の
利益だから、この日本側の答え、これを平和回復に生かすように、ただ、アメ
リカの利益を損なわないような返書を工夫して書きなさいとバーンズ国務長官
に命じたんですね。
 そこで、返事をつくる中で、天皇大権についての要求を含まないということ
についてイエスと言ってはだめですよと知恵をつけたのが、知日派の外交官で
あったバランタインとドーマンなんです。この二人は文面を見て、もし天皇大
権について変更をしないということでイエスと言ったら我々は改革ができなく
なる、民主化を要求することは難しくなるだろう、だからこれについてはイエ
スと言っちゃいけない、しかし、ノーと言って徹底抗戦、本土決戦はお互いの
ためによくないと。そこで、イエスともノーとも言わず、終戦とともに占領が
行われる。その占領下においては天皇及び日本政府は最高司令官にサブジェク
ト・ツーするというふうにして、イエスともノーとも言わず、しかし天皇と日
本政府は存続し得るということを示唆して、そして日本が民主化され、平和志
向であるということが明らかになった時点では、占領を終わって、自由に表明
する日本国民の意思によって最終的な政治体制を決める、そういう返事をして、
イエス、ノーを回避しながらこうだということを言ったわけです。
 平沼議長が何とか基本的な明治憲法の制度を維持するという知恵を出す努力
をされたわけですが、知日派がそれを回避させた結果、結局、ポツダム宣言に
おいて日本政府が民主化のためのあらゆる障害を除去しなきゃいけないという
のと対抗するような関係にならない、それを貫徹するような終戦交渉となった
わけです。
 平沼先生御指摘のとおり、勝者が敗者を無力化する、二度と足腰立たないよ
うにとまでは言わないにせよ、二度と刃物を持って飛びかかってくるような存
在でなくするというのは、勝者の敗者に対する基本的な政策である、歴史上、
多くの場合そうであるというのは、御指摘のとおり、全くそうだろうと思いま
す。日本に対しても、非軍事化という名において無力化政策を追求した、弱体
化を図ったということは明らかだと思います。占領政策のおもしろさは、もし
それ一辺倒で行われましたならば、恐らく日本国民はフラストレーションの塊
になって、戦後速やかに憲法を改正したと思います。
 他方、その無力化、非力化というのも、マッカーサー流の、崇高な理想とい
うふうな普遍的価値に結びつけてプレゼンテーションすることによって日本国
内に共感を得るということも上手でありましたし、それから民主化という、現
代世界が、近代日本史を含めて、ジグザグの中でも追求し、拡大していく共通
の価値、それを多く体現しておりましたし、そして平沼先生も今指摘されまし
たように、配慮に満ちた親切な占領政策でもある。戦後、日本を軍事的には刃
物を持って飛びかかれないようにしたにせよ、経済社会的には立派なものを再
建できるようにということをやった。
それを強権を振るってやりますと、さまざまなプレスコードがあったとか、検
閲がひどかったとか、いろいろうれしくないことが起こるのも当然で、歴史の
常であります。
 ですけれども、四捨五入いたしますと、内容的にはかなり悪くない占領政策
であったと日本国民が受けとめた。それで、憲法そのものを、それを日本はい
ろいろな利害を考え、みずからの存続の必要を考えて受け入れる決断をして、
合法的手続をとったわけです。ですから、向こうが押しつけたということばか
りを言い立てて、自分がそれを受けて立ってやりましょうと言った、そのこと
を見失うということになると、悪いのはあのときあなたがこうしたからよ、す
べてそこがいけないと言って、繰り言を繰り返すという存在になってはならな
いと思うのですね。そのときの難しい状況で、強要というのはあった。
 もし日本が、占領下でなくて、敗戦の後、自前でつくったとしても、国際環
境の圧力のもとで、相当その圧力を意識しながらつくらざるを得ないものにな
った。その場合にどうなったかという問題がありますけれども、およそ憲法が
つくられるときというのは、戦争、革命などがあり、普通じゃない状況である
場合が多い。それが存続できるかどうかは、その内容が国民的にいいものかど
うかということに基本的にかかると思います。
 したがって、今憲法改正ということを提起される場合に、いろいろ忌まわし
いことが起こっているのも、諸悪の根源はあの押しつけにあるというふうにあ
るいは論証できるかもしれません。一つの要因かもしれません。しかし、同じ
ようなことは、世界じゅう至るところで、勝者の社会にも起こっていることが
少なくない。むしろ、そういうふうな忌まわしいことがあるとすれば、それに
対処し、それを克服する制度は何なのか、それを魅力的に提示するという努力
が何より大事でありまして、それを提示すれば、今や日本国民は、押しつけで
あったかなかったかを超えて、いいじゃないか、そういう改正案をもってこれ
からの国民生活を支えてもらいたいと言うわけで、内容的にいいものかどうか
と、ぜひ内容を提起していただきたいというふうに感じる次第です。
○平沼委員 私の先祖まで紹介していただきまして、大変恐縮でございました。
 限られた時間でございますので、先生は、ケーディス次長、大佐にもお会い
になられて、二日にわたってインタビューされた、こういうことを伺いました
けれども、日本国憲法の前文を起草したと言われるハッシー中佐にはインタビ
ューはされたのでございましょうか。
 その成立過程をそれなりに勉強させていただくと、先ほどのお話にもちょっ
と出ましたけれども、ケーディスが、やはり国には固有の自衛権があるから、
したがって、ある意味ではその場の独断のような形でぴしっと修正をした、そ
れを知ってハッシー中佐がケーディスのところにやってきて、これは最高司令
官の意図するところと違うじゃないかと非常に抗議したそうなんですけれども、
そうすると、ハッシーが起草した前文と、もともとマッカーサーのイエローペ
ーパーに書いてあった九条、そして、それに修正が加えられた、第二項が加え
られた、その辺は、先生は前文と九条の関係というのはどういうふうにごらん
になっているか、ちょっとお伺いしたいと思います。
○五百旗頭参考人 重ねてありがとうございます。
 九二年十一月にケーディスのマサチューセッツの家を訪ねてインタビューし
たということを覚えているのは、二日間のインタビューを終わってホテルに帰
りましたら、クリントン夫妻、ゴア夫妻がアーカンソーのリトルロックの舞台
の上で大統領選挙の勝利を四人で手をつないで祝っている画面があらわれたか
ら覚えているんですが、その二日間にわたるインタビューは、鈴木昭典さんと
いう、ドキュメンタリー工房というテレビ制作会社の社長さんに依頼されまし
て、憲法制定過程にかかわった人を根こそぎインタビューしようというもので、
当時、民政局員でかかわった人のうち八名がなお存命だったんですね。
 中心にいたケーディスが健在であったことは大変幸いでありましたが、その
ほか七名の方にも順次インタビューして、その内容につきましては、鈴木昭典
さんが、その後テレビ番組も幾つかおつくりになりましたが、本として、「日
本国憲法を生んだ密室の九日間」という本を創元社から出版していらっしゃい
ます。その監修のようなことを頼まれて同行し、ケーディスさんに私がインタ
ビューするということをいたしましたが、残念ながらハッシーさんは既にお亡
くなりでありまして、そのときにはできませんでした。
 ハッシー・ペーパーがありまして、あれは七〇年代でありますが、ミシガン
大学へ行きましたときに、ロバート・ウォードさんの了承を得て見せていただ
くことはいたしましたけれども、ハッシーさん本人へのインタビューはできま
せんでした。
 しかし、今平沼先生がおっしゃいましたことは、私もケーディスさんからか
なりつぶさに伺いました。
 芦田修正をケーディスは認めた、了承した、自分の独断なのに大丈夫だと言
った。それに対して芦田自身はびっくりしたと先ほど申しましたけれども、そ
の後、民政局内の反作用がありまして、ハッシーがもう一人の若い人を伴って
やってきて、これでは日本が再軍備できるじゃないかと自分に迫った。それに
対してケーディスは、いや、だって自衛権まで奪うわけにはいかないだろう、
それではこの憲法が生き長らえることができなくなるじゃないかというふうに
言ったけれども、ハッシーは、それはおかしい、マッカーサーがおっしゃって
いることと、崇高な理想にゆだねるというのと違うじゃないかというふうに頑
張る。
 ケーディスは、マッカーサー、ホイットニーとのやりとりというのを披露し
たとは言いませんでしたけれども、あくまで、いや、これでいいんだ、芦田修
正でいいんだと言い張ったところ、ハッシーが、それじゃボスに自分が直接か
け合っていいかと聞いたので、どうぞと。それで、ホイットニーのところへハ
ッシーともう一人は行った。
 そして、その後、帰ってきたときにどうだったと聞いたところ、ホイットニ
ーはハッシーの訴えに対して、これでは日本が再軍備できるじゃないのと言っ
たら、ソー・ホワット、それがどうしたと、ドント・ユー・シンク・イット・
グッド・アイデア、いい考えと思わないかと言われてチョンになっちゃったと、
がっくりして帰ってきたというわけです。
 御指摘のように、そのハッシーが前文をかぐわしくうたい上げる草案を書い
た。松本委員会は、この点では、敗北というか、負け戦をやったんですね。各
条項、この民政局草案、マッカーサー草案に対して、日本政府が修正案を書く
機会をもらったわけです。ところが、前文は余りにも違和感がある、アメリカ
独立宣言のくだりやリンカーンの演説を思い浮かべさせる、もうアメリカ語で
あることが明らかだ、こんなものは日本における憲法で書くようなことではな
いというので、対抗修正案を松本博士は用意しないで、もっと格調高くという
か実務的にというか、そういうのであっさりといくというふうに考えて、修正
案を出さなかったんです。そうしましたところ、ケーディスが、前文について
は日本側に対抗修正案がないのでこのまま採択すると宣言してしまって、やら
れちゃったんですね。というわけで、ハッシーのかぐわしくうたったものが前
面に出ている。
 それに対して第九条は、御指摘のように、密教においては自衛はオーケーと
いうふうに、侵略戦争だけを禁止するというふうに使えるようにしてある。そ
の間のそごというのは、先ほど申し上げました顕教の必要ということでありま
す。
 当時、マッカーサー司令部としては、自分たちは、日本が本当に平和的に生
まれ変わったということをアメリカを初め世界にアピールしたいんです。そう
することが、日本に対する、復興を可能にする占領政策遂行上必要であって、
日本が戦後世界に船出するためには、大いに、生まれ変わった、本当に変わっ
たんだと思わせたいわけですね。
 その政治的必要のために、前文では、ハッシーがああいうふうにうたい上げ
ることはオーケー。第九条も、一見して読むと、陸海空その他の戦力はこれを
保持しない、ああ、完全に自衛までやめちゃったのかと読む人がいたら、それ
は通ではない。そこつかもしれないが、そう読まれることは苦しゅうない、あ
る政治的効果は期待できる。その意味で、前文と第九条の顕教部分というのは
一致していて、オーケー。しかし、プロが読んでいけば、これはできるんです
よというふうに、そっと可能にしておくというふうな扱いをしたと見ておりま
す。
○平沼委員 時間が参りましたのでやめさせていただきますけれども、実は、
もう少し前文のことを先生からいろいろお聞きをし、勉強させていただこうと
思いましたけれども、次の機会に譲らせていただきます。
 先生、どうもありがとうございました。
○中山会長 樽床伸二君。
○樽床委員 きょうは、どうもありがとうございます。
 本日お集まりの諸先生方に比べまして、私はまだ四十年しか生きておりませ
んので、大変失礼なことを申し上げるかもわかりません。
 その四十年のみずからの人生の中で、物心がつきましてから私は一貫して改
憲論者でありました。しかし、先ほどお話がありました平沼先生とは意見を異
にいたしておりまして、私も、先生が先ほど冒頭におっしゃいました、過去の
経緯にこだわって改憲の是非を論ずるのはいかがなものかということは常に頭
から離れていないという状況の中にありました。
 正直申し上げまして、ベルリンの壁が壊れまして、ソ連がなくなりまして、
もう十年たちます。そういう中で、今、三度目の大きな転換期というふうにい
ろいろ言われているわけでありますが、言うまでもなく、明治維新、さきの終
戦、そして今、三回目ということでありますが、明治維新は、当然明治政府と
いうことでありますから、旧憲法がつくられ、そして二度目の転換期には現行
憲法がつくられ、三度目の転換期という今であれば、時代に合わなくなったも
のは変えていってしかるべきではないのかということは常に考えているところ
であります。
 また、歴史というものは何が真実なのかというのは、私はよくわかりません。
それは、それぞれのそのときの経験の中で、ある方にとっては真実であること
が、ある方にとっては真実でない場合もあるのかもわかりません。例えば、攻
める側から見た真実と攻められた側から見た真実というのは、同じ事実であっ
ても意見が異になることもあるだろうと私は思います。
 そういうようなことに基づいていろいろ言っても、時計の針は戻ってこない
わけでありますから、もうそんなことはやめた方がいいというふうに私は正直
に考えております。そうではなく、時の流れに合う憲法をどうやってつくるの
かという観点が今どうしても必要であって、それに対してちゅうちょしてはな
らぬというふうに私は考えているわけであります。
 そういう中で、憲法が定着してきた、また制定当時の経緯等々、いろいろあ
ろうと思いますが、戦後ほぼ一貫して流れてきた我々の価値観はイデオロギー
でありました。当然、右、左、保守、革新というイデオロギーをほとんどの価
値観の基準にして物事を考えてきたわけであります。そのイデオロギーの価値
観の物差しにまさにずぼっと入ったのが憲法の問題でありまして、特に九条の
問題があるからそれは顕著になってきたわけであります。そういう観点から、
改憲を言う者は右であり、憲法を守ると言う人は左である、進歩的というのか
わかりませんが、そういう二極分化の構図がずっと続いてきた。もっと前は知
りませんけれども、我々が知っている範囲ではそういう二極分化がされてきた。
その過程の中でタブー視をされてきた、憲法については余り論議をしない方が
いい、避けて通ってきたというところが大変問題であるだろうというふうに思
っております。
 もう既に、先ほど申し上げましたように、ベルリンの壁がつぶれて十一年、
ソ連がなくなってかなりの年月がたちます。世界はイデオロギーの時代は終わ
ったわけでありますから、これからはイデオロギーを脱却した改憲論をしてい
かなければならないということを強く感じるわけであります。そのポイントは
九条の問題であろうと思いますので、その点につきましては後ほどもう一回質
問させていただきますが、イデオロギーを脱却した改憲論ということにつきま
して、先生のお考えをお聞きしたいと思います。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 基本的に同感でありまして、原理主義的な改憲論というのは異端であるとい
うふうに私は申し上げましたが、言いかえれば、それはイデオロギーというこ
とと表裏をなすのではないかと思います。
 国民の基本的必要、生存と利益、繁栄を基礎づける憲法というのを考える。
その国民の必要というのは非常に多面的でありまして、それに対して原理主義
は、原理主義を提供するのがイデオロギーと言ってもいいかと思いますが、ト
ータルにすべての問題を説明するということを自己主張する、一つの極めて鮮
明な立場であるわけですね。それが問題を深く理解させるという効用を持って
いる。だからこそ、多くの人はそうしたイデオロギーに栄養分を得たり、影響
されたり、支配されたりするわけであります。
 けれども、国民の多面的な必要を一つの原理でばさっと切りますと、これは
必ず無理が来る、そごが来るというところがございます。したがって、現在の
憲法も、これはほとんど世界の先進国の共通項でありますけれども、自由権的
な、基本権と呼ばれる自由の保障ということを大事にし、そして合法的な、法
による支配を大事にし、そして国民の多数の意向を反映した制度、装置をつく
る。自由主義、民主主義、法の支配を組み合わせて形成していく。
 第一次世界大戦が現代史の分水嶺になったと思いますが、主権国家がこの世
で最高の存在であって、主権というのは、内に民を統治し、外に外敵を排除す
る能力を持つ最高権力で、それ以上のものはない存在として、それが最終的な
手段を決定する。外交によって他国との関係の調整をすべく努力するが、それ
でどうしても話がつかないという場合には、表へ出ようというので戦争手段に
訴えて、力によって決めるということが歴史のならわしであったわけですね。
それしかないと。
 ところが、それしかないでは困るということを人類に教えたのが第一次大戦、
さらに第二次大戦でありまして、戦争の惨禍というものが想像を絶するものに
なった。
全国民が巻き込まれて、家庭生活がばらばらになり、多くの人が殺される。ど
ちらの側もそうなる。そういうことになりますと、戦争手段というものを限定
して、飼いならさなきゃいけない、そういう状況が出てまいりまして、国家主
権万能、リヴァイアサンとかビヒモスとかいう怪獣として例えられる進軍とい
うことが両大戦間にまた行われましたけれども、第二次大戦を経て、核時代を
迎える。広島、長崎以後、国家が最終手段を、それが成功するならば欲しいま
まにしていいというのではなくて、ある種の国際協調の枠の中でやるというの
で、連盟や国連が出てくる。侵略戦争はしないというふうになっていく。
 そういうわけで、自由主義、民主主義、法の支配、そして国際協調主義の中
で国益を図る、そういう諸要素が組み合わされていくというのが先進国共通の
憲法の成り立ちでありまして、ある種のイデオロギーでばさっと一つにやると
いうのも戦後生きておりましたけれども、そういうシステムはやはりもたない
というのが冷戦終結という結果であろうかと思います。
 したがって、多面的な国民の必要を組み合わせて、それでいて、全体として
一つのよき作品になるという憲法を編み出す。その組み合わせていく努力とい
うことが必要なので、そうしたことを成功させていただきたいと思っている次
第で、イデオロギーを脱却した、イデオロギー以後の、もっと基本的な国民の
必要という価値を上手に生かしていくということが必要なのだろう、同感でご
ざいます。
○樽床委員 私は、内政的な面におきましても、地方分権をさらに徹底して日
本型連邦国家的な形態にした方がいいという個人的な考えもありますし、また、
対米追従外交もやめなきゃいかぬ、ただ、自立と協調を両立させなきゃいかぬ
とか、いろいろ考えているわけでありますが、そんなときに、必ず憲法の問題
に最後は突き当たるということを何度も経験してまいりました。
 そういう中で、先ほどイデオロギーを脱却したということを申し上げました
が、しかし、いろいろなことを議論するに当たりましても、九条がこのままで
あるならば、イデオロギーを脱却した改憲論ができないわけであります。です
から、この九条は乗り越えないといかぬ条項であろう、このように私は考えて
おります。こういうことを言うと、かつてであると、おまえは右だとか反動だ
とか、いろいろ言われてきたわけでありますが、そういう考え方そのものが古
いというふうに私は思っているわけであります。
 そういう点からいいますと、先生は御意見の中で、この九条をプロから見れ
ば、密教として自衛権はある、自衛戦争はできる、こういう先生の見解であり
ます。その見解が間違っているとは私は申しません。また、そういう考えもあ
るのでありましょうが、しかし一方で、持てないと主張されている方々もおら
れるであろうというふうに思います。ですから、過去になぜこういう文面にな
ったかという経緯は、それはそれとして、今に至れば、もっと明確な表現にす
べきではないのかという感じを私は強くいたしております。
 特に、解釈でいったらこう読める、解釈でいったらこう読めるといきますと、
どこまで解釈で読めるのかという行き先がさっぱりわからぬわけであります。
結局それが、なし崩し的な形で、かつて来た道を行く可能性がなきにしもあら
ず。なし崩しで解釈の変更をして物事を進めていくという、この体質そのもの
に私はある種の一抹の不安を感じるわけでもありますし、先ほど言いました、
イデオロギーを脱却するためには九条は苦しくても乗り越えなければいけない
項目であるという観点からいくと、例えば自衛隊は認める、シビリアンコント
ロールを徹底するために国会承認の項目を入れるのがいいのか悪いのか、これ
は専門家の先生方とまたいろいろ議論をしたいわけでありますが、そのことを
明確にして、はっきりした文章にして――理想を忘れろとは言いません。ただ、
理想ある現実主義に基づいた新しい憲法をつくっていく必要があるのではない
かというふうに私は考えております。
 その点につきまして、先生、いかがお考えでしょうか。
○五百旗頭参考人 全く同感であります。
 上流でつくられてから川は流れる。そのつくった時点での存在拘束性という
のは、これは人間がやる以上免れ得ないですね。それが比較的致命的でない場
合もあるし、非常に困ったものである場合もある。そのときの状況、機運に余
りにも交感度が高い場合、長期持続性を持ち得ないという問題がある。
 先ほどから繰り返し申していますように、あの状況のもとでは、戦後日本が
国際的信認を回復して船出ができるために必要、そういう状況への配慮という
のが強く出ているわけですね。顕教と密教の使い分けということがそこから出
てきたと私は理解するわけであります。
 それは今では必要ないといいますか、逆の信頼性、今御指摘のとおりであり
まして、日本は陸海空その他の戦力を持たないと言っていて、持っているもの
は世界で何番目か。軍事予算はGNP一%以内ということをやっておりまして
も、何しろ巨大な経済国家でありますので、これほどある。それで、憲法とは
どうなっているのか、そこで苦しい説明をごちゃごちゃしなきゃいけない。次
に、そうはいっても、いろいろ九〇年代に安全保障上の危機も起こったのでこ
うする。そうすると、あれとの関係はどうなるのかと。おっしゃるように、な
し崩し的にごしょごしょ変えて、何が限定なのか、はっきりと何をするのかと
いうことが読めない。そうすると要らざる不信感を逆に招くという、マイナス
効果を今では強めていると思います。
 不誠実である、うそをついているのではないかというような意味合いの方が
多くなってきて、成立させたときの顕教と密教の使い分けがそれなりに双方意
味を持ち、理由があり、効果があるというのとは、文脈がすっかり変わってき
ている。日本ほど大きな、責任ある国が、書いてあることとやっていることが
余りにも違う。精神分裂状況であって、どこが真意でどこが本当でないことな
のかがわからない。そういうことは、決していいことではない。
 よく、アジア諸国がまだ日本に対する軍国主義化、軍事大国化の危惧を持っ
ていて、その面では第九条になお存続理由、効用があるのではないかという議
論もあります。
 私も、アジア諸国と行き来をする中で、第九条の前段、つまり、国際紛争解
決の手段としての戦争を行わないという侵略戦争の否定部分、これは堅持する、
日本国民の間で広く定着している。しかしながら、後段部分、何を言おうとし
ているのか今ではわかりにくくなった。陸海空その他の戦力を持たない、国の
交戦権は認めないという、そこのところは、削除するか、あるいはもう少し明
白に、自衛戦争はその限りでないというふうな説明句をつけ加えるか、三つの
戦争のカテゴリー、侵略戦争、自衛戦争、そして国際安全保障上の共同行動へ
の参画というこの三つの中で、あとの二つは可能であるということまで言うか、
単に前段のみにして侵略戦争は否定しているということにするか、そのいずれ
かで検討していくべきではないかというふうに思っております。
○樽床委員 この九条の後段でありますが、確かに、プロから見て、また歴史
学者から見て、いろいろな経緯からいってこの言葉はこう読むんだ、こういう
説明は、それはそれでわかるのですけれども、単純に国語的に、日本語として
見ると、いろいろ意見はありますけれども、「前項の目的を達するため、陸海
空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と、ここでは丸がついているわけ
であります。この「前項の目的を達するため、」がこの丸で終わるのか、よく
わからないということもありますから、私は、国語的にもすっきりさせてもら
わなければ困るというふうに考えているわけであります。
 そのことは、今先生がおっしゃいました、アジア諸国に対しても、九条があ
るからこそ、やっていることと言っていることが違って、逆にいつまでたって
もずるずると過去のことを引きずることになってしまうのではないかという意
見について、私は全く同感であります。
 そのようなことをいろいろ申し上げてまいりましたが、時間が参りました。
 必ず時代というのは移り変わっていくものでありまして、かつて我が国の憲
法は、吉田元総理の方針の中で、経済重視、復興から経済というものを重視し
てきた時代にはちょうどいいフィットしたものであったかもわかりませんが、
もう余りにも時間がたち、時が変わってくるわけでありますから、かつての成
功が必ず失敗の原因になるというのは歴史の必然でありますから、そういうこ
とにならないためにもそのような真摯な前向きな議論をしていかなければなら
ない、このように強く考えているところであります。
 今後ともまた御指導賜りますことをお願い申し上げまして、私の質問を終わ
ります。ありがとうございました。
○中山会長 福島豊君。
○福島委員 公明党・改革クラブの福島豊でございます。五百旗頭先生、本日
はお忙しいところ大変ありがとうございます。
 私も樽床委員と同じように戦後生まれでございまして、きょうお話のござい
ました先生の御説明に大変共感を持って聞かせていただきました。これからは、
どういうふうに見直していくのか、将来に向かっての議論こそが大事であると
いうふうに思っております。
 ただしかし、現実問題としまして、例えば昨年の国旗国歌法の制定のときで
ございますけれども、私も地元でさまざまな御意見をちょうだいいたしました。
冷戦は世界的には終わったのかもしれませんが、日本の国内における世論の分
断というのはまだ厳然として存在をしているという思いがいたします。
 そう考えますと、単にイデオロギーだけの問題ではなくて、過去についてど
う考えるのかとか、国民の安全保障に関しての認識の深さがどうなのかとか、
幾つかのファクターも重なっているのかなというような思いもいたします。
 ですから、この世論の分断ということがなぜ起こったのかということについ
ての理解を深める必要がまずあるのではないか。
 そしてまた、もう一つは、そういうことを踏まえつつ、では将来に向かって、
どうしたら国民の意思というものを統合しつつ新たな憲法を構想していくこと
ができるのか。
 この二つの課題が非常に大切ではないかというふうに私は思っております。
 まずお尋ねしたいことは、顕教と密教の使い分けということでございます。
 これはマッカーサーがそう考えただけではなくて、吉田首相もそう考えたと
いうことだと思います。このこと自体は、為政者の立場でいえば両方使い分け
があるという話になるわけでございますけれども、国民の立場からすれば、そ
ういう使い分けをしているということはわからないわけでございまして、この
ように定めたこと自体が、私は、国民の意識を大きく変えてしまったのではな
いか、縛ってしまったのではないかというような思いがいたします。
 とりわけ安全保障ということについての認識を大きくゆがめたのではないか
というふうに私は思っておりますが、この点についての先生の御見解をお聞き
したいと思います。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 マッカーサーだけでなく、吉田茂もまた顕教、密教の使い分けに協力したと
いうのは、御指摘のとおりであります。
 吉田茂の言葉で言えば、これは外交としての憲法制定である。例えば、超大
国と小国が外交交渉をして、何とか大事な自国の存立、死活の利益を守るため
に、ここではひとつ、こういう共同声明を出して、条約を結んで、この難しい
局面をしのがなければいけないというふうな努力として憲法をつくったと。
 そういうことを、実は吉田茂自身、憲法国会のあいさつにおいて、我々は完
全な自由を持っているわけではない、この困難な時期をどうやってくぐり抜け
て天皇制を守り、国を守っていくかという必要のためにつくる文書であるとい
うことで御理解いただきたい、難しく言い出せば切りがないけれども、今はと
もかく、この国をこれ以上悪くしないように、船出できるようにするためにこ
の憲法が必要だということを言っておりました。
 そのことは、マッカーサーがあのような第九条をつくらせたこと、そして、
その顕教部分において吉田茂が国会答弁をしたということに示されますように、
福島先生のおっしゃるとおり、吉田茂もまたそうであった。
 そのことは国民にはわかりにくいので、例えば横田喜三郎という国際法学者
は、三月六日に日本政府案と称するマッカーサーが司令部で用意した案を発表
した三日後に、毎日新聞に第九条の分析を書きました。これはまだ芦田修正が
ないので、前段の国際紛争解決の手段のための戦争を放棄する、これは不戦条
約にあるとおり、侵略戦争の放棄である、後段には、何の脈絡もなく、陸海空
その他の戦力を持たないとなっている、しかし、前段の枠内においてそう言っ
たのであって、このもとでも自衛権はあるし、自衛の戦力は持てる、そういう
ふうに解釈すべきであるという論考を毎日新聞に書きました。これは御明察だ
と思います。
 しかしながら、国民と、あの時代の社会で、非常に不評判な議論になりまし
た。せっかく我々はあの戦争を反省して、心から平和主義で崇高な理想にゆだ
ねてやろうとしているのに、こそくな自衛はいいというふうなことでは困る。
吉田茂の答弁で、いわばそういう国民の当時の機運、願望というのが公的に承
認されるという形を得て、国民は非常にそれを信じて、戦後の教科書、教育、
そして憲法学界では八割ぐらいがそれを支持するという状況が続いたわけです
ね。
 しかしながら、きょう私がお話ししましたような当時の成立の経緯を見、そ
して九〇年代に、日本が敗戦国であり貧しい国であるのを超え、さらに冷戦が
終わったという状況で見直すと、実は密教部分でこういうふうに読めるという
ことを当時から考えていた。そして日本政府は、吉田茂首相がああいうふうに
一度言った結果、何だかばつが悪いけれども、特に自衛については、当時装備
が非常に貧しかったですから、この程度のものは近代的な意味で戦力とは言え
ないと言いながら認めて、そして、鳩山内閣にかわったところから、自衛のた
めのものであればいいんだという読み方をはっきりと打ち出して、実際の運用
はそれに従う。しっかりと密教解釈で、戦後日本政府は今日に至るまで、村山
社会党委員長が総理大臣になられた後一層それをはっきりさせてきたわけで、
今ではそのような密教的読み方がこの社会における多数になったということだ
と思いますが、御指摘のように、心の部分で、国民意識の中で、そこにどこか
納得のいかない、わからないという気持ちが一人一人にあるとともに、依然と
して分裂はある。
 ただ、大勢は冷戦後非常にはっきりしてきて、今でもなお自衛のためであれ
いけないという議論を最近はまず聞くことがなくなったように思っております
が、社会党委員長も自衛隊を承認し、日米安保を堅持というふうに言われてか
ら、分断の程度はかなり変わってきたのではないか、むしろ、この世論調査の
結果に示されるような趨勢である。
 しかし、そうはいっても、まだ決定的ではないというわけで迷いがある。そ
ういう中で、やはり今日とあすの必要というものを洞察する筋道を示すことが
なければ、国民意識の分断は超えにくいだろうなというふうに思っている次第
です。
○福島委員 密教的な解釈で政府は切り抜けてきた。しかし、実はその密教的
な解釈そのものは、国民の中でもかなり理解をされつつあるのではないかとい
う先生の御指摘でございましたが、当調査会の会長の中山先生は、二つの戦後
ということで、ドイツと日本を比較しておられるわけです。ドイツの場合は、
顕教、密教というような使い分けをしなかったんだと私は思うんですね。むし
ろ、基本法にしましても、戦後見直すべきものは国民的な議論を経ながらきち
っと見直してきている。この違いがなぜ生まれたんだろうかというのを私は感
じるんです。
 一つは、ドイツの場合には、ナチス・ドイツということで、過去に対しての
決別が非常に明確になされたということから、この顕教、密教のような立て分
けをして、解釈によって現実に合わせるというようなアクロバット的な政治技
法を使う必要がなかったんじゃないかというような思いがいたしますし、また、
国民にもそういう議論がきちっと受け入れられる素地があったのではないかと
思います。
 そういう意味では、日本は、戦前をどうとらえ直すのかということが非常に
大切な課題だというふうに私は思っております。それは、すべて丸ごと否定す
るというようなイデオロギー的なとらえ方ではなくて、誤っているところは誤
っている、こういういいところがあったということは事実だということで、そ
の立て分けをきちっとして受けとめ直すということがその前提として大切なの
ではないか、そんな思いがするわけです。
 この点について、先生のお考えをお聞きしたいと思います。
○五百旗頭参考人 時間が無限にあるわけではないので、簡潔に申し上げたい
と思います。
 ドイツはそのような顕教、密教の使い分けをしなかった、なぜ日本は。
 御指摘のように、論理明快を好む西欧国家のドイツと、日本のあいまいさを
好む、そういう違いというのもあろうかと思いますが、あの状況の中で言える
と思いますのは、一つには、ドイツは完全破壊まで行われた。本土決戦までや
ったわけですね。全部廃墟になって、完全に政府もなくなった。そこで、次に
占領下でやり始めたことは再建だけであって、過去の処断はもう戦場で終わっ
ていたんですね。そこで論理が非常にはっきりしていたのが一つ。
 加えて、憲法をつくった時点の問題でありまして、日本の場合には、戦争は
終わったが冷戦が始まらないという一瞬の一九四六年につくったんですね。そ
のために、実は冷戦の厳しい現実というのを読み込んでおりません。ドイツの
方は、冷戦が始まって大分たってからつくったんですね。したがって、崇高な
理想に身をゆだねると、寝言を言うなというので、そういうのは問題にもなら
ない、具体的に必要な対処は何かということでやれと。
 その二つの理由が御指摘に加えて大きいのではないかというふうに思ってお
ります。
○福島委員 そろそろ、顕教、密教の使い分けというのをやめるべきだという
ふうに私も思いますが、ただ、その場合に、例えばPKOを開始した時点でも
大変な議論がありましたし、そしてまた、マスコミの論調等を見ておりますと、
必ずしも、先生がおっしゃっておられますように、密教的部分が大分浸透して
きたわけでもないのかなという気がしないでもないのです。ですから、この調
査会が今後五年間議論を続ける過程の中で、どこまでそういうことが国民社会
に対して発信ができるのかということも大切な課題だというふうに思っておる
のです。
 ただ、こういうことを言うとあれですが、例えば現在の若い世代の社会に対
しての考え方、私もまだ若いですけれども、どうも安全保障のような問題につ
いて、頭の片隅にすらないのではないかというような思いもするんです。です
から、果たしてそういうことについての国民的な合意がそれほどスムーズに進
むものか。これは別の意味で、今までのイデオロギー的な対決というのは超え
たとしましても、むしろそれ以上に、空洞化といいますか、テーマにすら上が
ってこないという状況があるのではないかというような思いがいたします。
 世代間の物すごいギャップについては先生はどのようにお考えでしょうか。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 相次いで戦後生まれの若い方が質問してくださっておりますが、私は昭和十
八年生まれですから、物心ついたら皆さんと同じ戦後であったという世代です。
ですから、共通する部分は多いと思うんですが、やはり押しつけ憲法という経
緯ゆえに、私は歴史家ですから、経緯を非常に大事にして原資料に立ち返って
勉強する方でありますけれども、にもかかわらず、それと直結して、だからこ
うしようということについては非常な違和感を覚える。
 そもそも政治の必要というのは過去に規定される。そもそもという過去の扉
を開いた瞬間から悲劇は避けがたいものとなったというのはギリシャ悲劇のオ
イディプス王のせりふですけれども、ユーゴの事態なんかまさにそうですね。
昔、あの民族がうちのおじいちゃんの時代にとかやり出すと、もう血みどろの
悲劇というのが避けがたくなる。そういうことが起こり得るんですね。
 むしろ、この憲法の問題については、何十年か幸せな家庭生活を送ってきた
お父さんが、ある日突然、私は信念として自由恋愛によって結婚すべきだとず
っと思ってきた、今も思っている、しかるにあのとき、自分はあの状況のもと
で、母ちゃんと親の意思で見合い結婚をさせられちゃった、おまえたちもおか
げでこういうふうに大きくなって、いい教育も受けられてよかったとは思うが、
やはり自分は納得いかないから離婚をするという宣言をしたがる。それに対し
て子供が唖然として、お母ちゃんのどこが悪いの、よくやっているじゃない。
いや、これは原理の問題だ、そういうのは大変迷惑であるわけですね。もし具
体的にお母さんのここがいけないというのであれば、そこを直すように言えば
いいじゃないですかというふうに子供が思っている、そういう世代の共通性が
あると思います。顕教と密教の使い分け、特に、特殊状況で必要になったもの
はもう克服すべきだということは全く同じであります。
 我々そういう世代が今度若い学生たちを教えるということになると、安全保
障への意識が余り強くない、これは仕方がないですね。戦争に鍛えられた世代
に比べて弱っていくということは起こります。じゃ、全然ないかというと、ゼ
ミでテキストを読んで討論しますと結構熱心にディベート、ディベートなんか
だと負けると嫌ですから、憲法改正どうすべきか、来月は、台湾海峡のあの中
国側、台湾側の主張でどうすべきかということを、合宿をして六甲山の山にゼ
ミ生を隔離して討論する、そういうことになると結構熱心にやります。
 ですから、みんなとはいきません。おっしゃるように、多くの人は、楽しい
番組を見て、いろいろ人生楽しみが多いですから、そちらに行くというのは当
たり前であって、例えば、比較的国際問題に関心の多かった冷戦下のアメリカ
ですら、アーネスト・メイという歴史家の「歴史の教訓」という本によります
と、外交問題に関心のあるアメリカ国民はどれぐらいか、五%だと言っていま
すね。ベトナム戦争のようにみんな社会が大騒ぎになる、こういうときはふえ
ますけれども、普通には五%。
 その五%というのは、例えば、ニューヨーク・タイムズのようなクオリティ
ーペーパーを読み、フォーリン・アフェアーズだとかフォーリン・ポリシーと
いう外交雑誌に目を通し、そしてパスポートに出入国のスタンプがたくさん押
してある、そういう人が大体五%ぐらいで、その人たちが常時アメリカの外交
世論を形成し支えている。それ以上に全国民に外交問題、安全保障問題にしっ
かり関心を持ってくれといっても、これはちょっと無理で、それを強要するわ
けにはいかない。
 そういうことになりますと、五%の人がしっかりしているということがその
社会にとって非常に大事、それは、政府にいる人と民間とあわせて支える、パ
ブリックを支えるというのは非常に大事で、そして、実は責任感を持ってその
人たちがやるということが非常に大事だと思うんですね。
 五%といっても、アメリカの場合、二億四千万いますから、千二百万人です
か、大変な数です。日本でいえばその半分ですから、六百万人の人が外交や安
全保障に真剣な関心を持ってくれればどんなにうれしいかと思いますね。実際
にはそれまでもとてもいかない。
 だけれども、その人たちが全体の必要、責任感を持って討議し、皆さんがや
るし、我々は、民間で、大学で、そういう関心を持てる人たちにしっかりした
議論をして支え、やがてそういう人がまたこういうところで活躍されるという
のを用意するというわけで、全国民がついてきてくれないと嘆くべきではなく
て、むしろ全国民を代表して、成りかわって、しっかりした責任のある仕事を
するというふうに頑張るほかないんじゃないかというふうに思います。
○福島委員 どうもありがとうございました。
 以上で終わります。
○中山会長 佐々木陸海君。
○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。
 最初にお聞きしたいと思うんですが、参考人は、憲法第九条というものが、
制定された当初から、侵略のための戦争、侵略のための軍隊は否定していたけ
れども、しかし、自衛のための戦争、自衛のための軍隊、あるいは国際安全保
障活動のための軍隊や戦争、こういったものは認めているというふうに解釈で
きるものであったというお考えなんでしょうか。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 先ほど申しましたとおり、内容的にそうであった。そして、そのことをGH
Qのトップであるマッカーサー、ホイットニー、ケーディスは了承、合意して
いた。そして、極東委員会もそのように考えて文民条項を求めたというわけで、
勝者の側ではそれはほぼ共通見解であった。有権的な人たちの共通見解であっ
た。日本政府につきましては、顕教部分で吉田茂が国会答弁等で発言したとい
うことは申し上げたとおりでありまして、その経緯を振り返り、今までの経緯
を振り返って、歴史家として私は、その当時から、あのような非常に派手な顕
教にもかかわらず、密教部分で実はそれを許容するような工夫をしていたとい
うふうに考えております。そのとおりでございます。
○佐々木(陸)委員 顕教と密教というような言葉をお使いになることも含め
て、かなり特異な解釈だろうと私は思います。
 吉田茂が憲法制定議会の中で、第一項は自衛権を直接否定してはいないけれ
ども、第二項において一切の軍備と軍の交戦権を認めない結果、自衛権の発動
としての戦争、また交戦権も放棄したのだということを明確に述べているし、
そして、当時の国際社会もそういうものとして理解をし、当然国民もまたそう
いうものとしてこれを歓迎して、当時のあの憲法はそういうものとして確定を
された、これが当然だろうというふうに思うんです。
 その当時、既に、吉田も含めて、当時の日本の指導部も含めて、軍隊を持つ
こともこの憲法は認めているんだというようなことを言えば国際社会から反発
を受けるだろうから、そういうことは言わないで、ごまかしてこうしておこう
というようなことを、密教というのは結局そういうことになるんだろうと思う
んですが、そういう解釈が今通用するということでは私は到底ないというふう
に思います。そういう顕教と密教の使い分けというようなものがあの憲法の制
定過程から成り立つというような見解は到底受け入れがたい、私ははっきりそ
う申し上げておきたいと思いますし、国民はやはりこの吉田のような解釈のも
のとして憲法を確定した。そして、吉田のような有権解釈があの国会でなされ
ているわけですから、そういうものとして憲法は確定された。
 それからまた、これは参考人も書いたものの中でおっしゃっていることです
が、普通の人が読めば、あの憲法九条の条文から、たとえあの芦田の修正があ
あいうふうにつけ加えられたとしても、自衛のための軍隊は持てるとか、国際
安全保障行動のための軍隊は持てるとかいうようなことを到底あの九条から読
むことはできないわけでありまして、その密教という説にはいささか同意しか
ねるということを申し上げておきたいと思います。
 そして、しかし、そういうものとして私たち国民があの憲法を確定して以後、
これはさっき参考人も言われましたが、アメリカの占領政策の転換、いわゆる
冷戦の開始があって、そういうもとで、例えばロイヤル陸軍長官の反共の防波
堤に日本をしていくんだというような声明も受けて、日本の再軍備ということ
がアメリカから持ち出され、警察予備隊、保安隊、そして自衛隊というような
形で再軍備の過程が進んでいくというふうに思うんですが、この再軍備の過程
を憲法との関係で参考人はどうごらんになっているのか、お聞きをしたいと思
います。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 吉田茂のあの答弁を引き出したのは共産党の野坂参三さんで、野坂参三さん
は、極めて明快に、戦争一般というのではなくて、侵略戦争は悪い、しかし、
防衛のための戦争はこれは正義の戦争、国民を守るための正当な戦争ではない
かと吉田首相に迫ったところ、吉田さんは共産党嫌いだったせいか大変かっか
して、いかなる戦力もだ、そのような意見は有害と信ずるものでありますと言
って拍手を受けたんですね。
 もしここで反問権が許されるのであれば、共産党は野坂さんがあそこでおっ
しゃった正論をずっと維持していらっしゃるのかどうか伺いたいところですが、
それはここでは許されないというふうに最初に、御法度となっておりますので、
およろしければ論じていただければと思いますが。
 その後、冷戦が始まり占領政策というのがロイヤルの、おっしゃるとおりの
ような経過、その経過は非常に強くインプレスされて、表面に出てきた姿、そ
こで変わってきたんだと思っていたんですね。そのことをおっしゃっているん
ですね。
 ですけれども、そのときには知られていなかったけれども、実は、GHQ内
でもああいうプロセスがあった。そしてある意味で独立後の、冷戦が激化する
事態まで読んでいたとは言いにくいですけれども、少なくとも、日本が占領を
脱して独立すれば、独立国として自衛の権利、権利があるならばそれを行使す
る手段を持つのは当然であって、そこまでは否定できないということを読んで
ケーディスは修正したわけですね。そのことを、崇高な理想を語ることに非常
に意味を見出していたマッカーサーも了承したというわけで、冷戦が始まって、
その後がたがたと政策を変えていったという表面のことよりも、もう少し基本
的な認識、長続きする認識を持って、あのような読み方ができるような配慮を
した。
 実態は、むしろそうしながら、人目には非常に平和主義的な意向というのを
日本政府が憲法にまで入れている。そして、吉田首相があのような答弁を野坂
参三さんに対してすることが国際社会に好感を持って受け入れられる。自衛す
ら放棄する、戦争は徹底的に放棄するとまで日本政府は憲法解釈として言って
おる。
 吉田茂という人はプラグマティストですから、今それが必要だ、いわば外交
交渉上の必要としてこういうふうにしてみた。だけれども、将来はそれではや
っていけないということはある意味で当然だと思って、外交というのは今国益
を守るために必要な努力をするわけで、その表現というふうに考えております
ので、憲法を不磨の大典として、一度決めたら国を滅ぼしてでもそれを抱いて
死ななければいけないなどというふうな発想は、イギリス流のプラグマティス
トである吉田にはないのですね。
 吉田は、したがって、いずれはこの自分の説明したものは変えなければいけ
ない。しかし、今大事なことは、国際的信用とともに経済復興である、国民に
食わせていくことだ。戦前の日本は、体力は大してないのによろいかぶとをい
っぱい持って、武器をいっぱい持って、それで自分でつぶれたようなものだ、
あの愚劣なバランスはやってはいけない。むしろ健全な身体をつくる、非軍事
面。軍事は無用だとは思わないけれども、二義的重要性しかない。そういう観
点に立って、特に今は軍備を持つんだとかそういうことを言うべきではない、
そういう判断に立っていた。
 しかし独立をして講和条約ということになったときに、主客転倒といいます
か、とんでもない逆転が起こりまして、アメリカの方が再軍備を急いでやれと
いうふうに言い出したわけですね。ロイヤル声明あたりでそういうのが出てお
りましたが、お隣の国、朝鮮半島で戦争が起こる、五〇年六月。それ以降に、
講和のための交渉にダレスがやってくる。そのときに、自由世界に貢献するた
めに日本はどうするのか、早く再軍備をして自由世界に貢献すべきではないか、
そういう論理でダレスは迫ってきたわけですね。吉田茂は、終局的には、もち
ろん独立国として再軍備はせざるを得ないだろうというふうなことを当時語っ
たりしております。けれどもダレスに対しては、いいえ、再軍備はいたしませ
ん、できませんと。
 なぜか。第一に、まず経済復興が第一である。それが健全である。二番目に
は、アジア諸国が反発する。日本軍国主義の再現を恐れておる。ダレスさんは
日本に来て、私とたびたび話してくださるのは大変結構だけれども、アジア諸
国が日本の再軍備を歓迎するかどうか確かめられた方がいいというので、ダレ
スさんはフィリピンやオーストラリアへ行って吉田の言葉の正しさを確認いた
しますね、かくも日本の再軍備に対する反発、アレルギーが強いのかと。
 そして、日本国民の平和を希望する意向というふうな世論にも触れまして、
吉田茂はダレスに対してしぶとく再軍備を断った。ついに最後には、わかった、
それでは、今すぐではないが将来、独立後、限られた五万人の国防軍をつくる
ことをやりましょう、それはしかし、戦前のような参謀本部、軍部支配に突き
進むようなそういう軍部ではなくて、英米型のシビリアンコントロールがしっ
かりきいた、健全な立派な軍隊を小規模でつくりたい、そういうことを言って
了承されたわけですね。
 というわけで、吉田は、ああいう朝鮮戦争がお隣で起こり、まだ主権を回復
しない中で怒濤のごとく再軍備するのを避けて、軽軍備、そして安全保障はア
メリカに依存する。しかしそのもとで、アメリカの主宰する自由貿易体制のも
とで通商国家として、経済国家として、まず健全な身体をつくるのだというこ
とにプライオリティーを置くという路線を貫き、そのような講和と日米安保を
サンフランシスコで結んだ。そしてその後、約束どおり限られた軽軍備をつく
るということについて、憲法との、第九条との関係ということで苦しい説明を
迫られた。
 彼がやった説明というのは、第九条に書いてある陸海空その他の戦力という
のは、近代戦争を遂行するような本格的なものであって、やっと警察予備隊か
ら出発して、お下がりになった武器で貧しい装備でやっておる、そのようなも
のはここで言う戦力ではないから、まだ第九条に触れるものではない。しかし、
これは妙な議論になってしまって、ちゃんと防衛できるものになったら憲法違
反だ、ちゃんと防衛できないような怪しげな、だめなものだからまだ違憲では
ないというおかしな議論。
 それが長続きしないというので法制局の方で検討し、鳩山内閣にかわったと
ころで採択したのが、自衛はこの憲法のもとでオーケーであって、侵略戦争は
否定している、最小限のものしか持たないのだという統一見解を、五四年の末
だったですか打ち出しまして、それ以後、実はそこは変わっていないというの
が今日に至るまでの経緯であります。
○佐々木(陸)委員 長い御説明をいただくような質問をした方が悪かったの
かもしれませんけれども、もう時間は終わってしまいました。
 そういう、アメリカの側から再軍備を迫ってくるのに呼応していろいろ解釈
を変えていく。同時に、その過程の中で、最初の御発言でもありましたように、
五〇年代後半といいますか鳩山内閣時代から自主憲法制定とか、実際にはアメ
リカの要求に合致する形で、本当に自主かどうか疑わしい、自主憲法の制定と
いうようなことでの改憲の運動、九条を変えたい、変えなければならぬという
ことが政府の側からも提起をされるけれども、しかし、それは結局国民の強い
反対に遭って成功せずに、そのままその後ずっと解釈改憲が進んで、今日では
世界有数の自衛隊があの憲法のもとで、憲法制定議会で吉田が解釈したような、
あの解釈のはずの憲法のもとでどんどん進んで、しかも、アメリカが海外で行
う作戦計画行動への後方地域支援などというのもできるようになった。あるい
はPKOにも、多少の限定つきながらも参加できるように解釈が変えられたと
いうところまで来ているわけであります。
 もう質問してはまずいでしょうから、時間が来ましたので終わりますけれど
も、その上に憲法を今変えて一体何をしようとするのかということが残るわけ
ですが、それに回答していただいていると時間がかかってしまいますから、こ
れで終わりにします。
○中山会長 中村鋭一君。
○中村(鋭)委員 きょうは参考人、御苦労さまでございます。
 私は、初めに、立場を明らかにしておきたいと思いますが、私は最も強固な
改憲論者でございますので、その立場を明らかにして、一、二お尋ねをさせて
いただきたいと思うのです。
 実は先生、私は以前は大阪の朝日放送に勤めておりまして、私が報道部長を
しておりましたときに私の部におりましたのが鈴木昭典君でございました。当
時は、朝日放送に鈴木あり、こう言われて、ドキュメント、ルポ物をつくらせ
たら日本一だ、こういうことで、民放関係のそういったドキュメンタリー部門
での賞は彼がほとんどひとり占めにしておりました。ですから、先ほど名前が
出て、大変懐かしく思い出したところでございます。
 一方で私、長年の間アナウンサーをしておりまして、ですから日本語という
ものを、わかりやすくだれが聞いても理解ができるように、幾通りも解釈がで
きる、こういう日本語を使ってはだめだということを後輩のアナウンサーにも
常に指導をしてまいりました。
 きょうは、その点で、憲法九条と修正について一、二お尋ねをさせていただ
こう、こう思います。これまでの経過とかこの憲法調査会で議論されました経
緯はすべて一たん捨てさせていただきまして、日本語という観点からお尋ねを
させていただきます。
 九条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決す
る手段としては、永久にこれを放棄する。」非常にわかりやすく、明快であり
ます。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しな
い。国の交戦権は、これを認めない。」これは、いきさつとかそういうことを
全部捨てて、その後五十年に及ぶ、自衛隊がつくられ、いろいろな国際紛争が
ありという経緯をすべてのけて、日本語としてこの文章を見れば、「前項の目
的を達するため、」以下のこの一行は、むしろ前段を補強する効果がある、要
するに、読んで字のとおりでございますから、国権の発動たる戦争をしない、
その目的を達するためには陸海空軍は持たない、こう言っている、これは実に
明快なわけでありますね。
 ですから、その点は、佐々木さんのおっしゃったことと私は、字どおりの解
釈からすれば実に同一でございまして、これを密教的解釈で、いやそれは自衛
のためのというようなことは、率直に言えばやや牽強付会を免れないというふ
うにも私は理解をするものであります。
 そこで、先生にお尋ねをいたしますが、芦田さんがケーディスのところへ行
って、どうですかと言った。先ほど先生は、ケーディスは言下に、いいじゃな
いか、こう言ってこれにコミットしたということでございますけれども、歴史
学者としての先生は、芦田さんがこの修正条項を持ってケーディスのところに
行った、その心の中は本当は何が言いたかったんだろう、何のためにケーディ
スのところにこの一行の文を持っていったんだろう、それを、長年の学問的研
究の中から先生の御見解をお示し願いたい、こう思います。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。仲よくしている鈴木昭典さんとド
キュメンタリー番組を幾つか一緒させていただいて、その幾つかが賞を得まし
たので、これも中村さんというよき上司に恵まれて彼もそういうふうに伸びた
のではないか、御同慶の至りでございます。
 日本語としてという点、そこで予期したのは、あの前文は日本語としておか
しいんじゃないか、変える必要があるんじゃないか、初めの最も強固な改憲論
というところと結びつけてそう予期しておりましたら、ちょっと違うところへ
の議論でございましたけれども。
 芦田修正について、私はこういうふうに思っております。彼は、後に説明い
たしましたように、やはり自衛のための戦力は必要であるというふうに考えて
いて、当時の雰囲気の中で、それを刺激しないように、反発を受けてたたきつ
ぶされないようにするにはどうするかということを考えてやったんだというふ
うに思っております。
 この文面、牽強付会だとおっしゃる、「前項の目的を達するため、」「戦力
は、これを保持しない。」ですから、普通に読めば、侵略戦争を否定すると。
その目的以外のとあったら明確ですね、その目的以外の戦力を保持しないとや
ればもう完璧です。ところが、そう言ったら、では日本は自衛戦力は再軍備す
るんですねというので大騒ぎになるんです。当時の世論が平和主義にフィーバ
ーだったですから、それを刺激するだけじゃなくて、日本政府はGHQの意図
を必ずしも正確につかんでいなくて、国際的圧力のもとで平和主義に徹しなき
ゃいけないというふうにかなり思い込んでいるところがあるんですね。そこを
十分に確かめられずにいるんです。
 芦田さんは、そこで、あの改憲の本会議だったと思いますが、彼は議員とし
て質問をいたしまして、これでは自衛のための必要に日本として将来直面した
ときに十分な対応ができなくなるではないかということを芦田修正前の第九条
に対して政府に質問したんですね。そうしたところ、金森国務大臣が返答いた
しまして、それはおっしゃるところまことに理由があるというふうなことを言
いまして、しかしながら今諸般の事情のもとでこれ以上のことは差し控えたい
というふうなことをもごもごもごと言って、芦田さんもそれでおりたわけです
ね。それで、自分が主宰している小委員会の小委員長としてこれを入れたんで
すね。
 ということは、彼はやはり、長い目で見て、この憲法のもとで独立後も日本
がやっていくならばこれでは無理があるということを、彼は歴史家でもありま
すし、西洋外交史についてたくさんの著作を出している外交官なんですね、パ
リ講和会議を初め修羅場もいっぱい見ているんです。ですから、彼から見れば、
崇高な理想一発で今後の日本の安全保障ができるとは絶対に思っていないとい
うことは明らかで、しかも、そういう質問をして、その後このイニシアチブを
とったということから見て明らかです。
 それならば、どうしてその意図を明らかにしなかったか。明らかにしたらつ
ぶされるからですね。そして秘密会にしてやっている。最近になって秘密会の
議事録が公開されたんです。それを開いてみたらやはりそういうことは言って
いないんです。むしろ、テクニカルに、文理上の構成、日本語といたしまして
とかなんとか言って、こういうふうに入れたというのを全然別の理由を説明し
ているんですね。それを読んだ人が、ほらやっぱりこれで自衛はできるという
その後の説明はうそじゃないか、秘密会でも違うことを言っているじゃないか
とおっしゃるんですが、私はそうは思わない。
 周到な、利口な政治家であれば、たとえ秘密会であっても、これで自衛のた
めの再軍備できるんだよ、秘密会だから言うけどねと言ったら、もう翌日には
みんな政治家は知っているというのが多分実情ではないかと、私は中の人間じ
ゃないけれども拝察するんですが、そういうリパーカッションを避けるために、
芦田は注意深く避けたけれども、真意はそうであったというふうに私は理解し
ております。
○中村(鋭)委員 今お伺いしていて、おおむね私も了解したような気がする
んですけれども、しかし、少なくとも言えることは、芦田さんがこの修正条項
を持ってケーディスのところへ行ったときは、後に朝鮮戦争が起こることも、
ついには北朝鮮がテポドンやノドンを保有するに至るであろうことも、社会主
義の世界が見るも無残に全く崩壊をしてソ連邦がロシアと国名を変えることも、
全く予測はされていなかったわけですね。
 そして、仮に、ここのところで、例えばマッカーサーにおけるホイットニー
のように、有能なる参謀もしくはアドバイザリースタッフがいて、この修正二
項を持っていこうとするときに、芦田さん、ちょっと待ってください、これを
用意することもいいですが、もう一つ別の文章も用意していきませんか、先方
にオプションを与えましょうと言って、二通りか三通りの修正を用意すること
も私は可能であったと思う。
 ということは、そのことによってどう世論が沸騰するのか、それから、それ
から後の五十年に、今日我々が置かれているような限りない論争を、まあいわ
ば不毛の論争も中にはあるでしょう、解釈改憲の問題もあるでしょう、そうい
うことは予測をできていなかったわけですから、であれば、二通りや三通りの
オプションを用意してもよかったのではないか。だから、仮に私がアドバイザ
リースタッフであれば、今の二項もいいが、芦田さん、例えば自衛のための最
小限のアーム・アンド・フォースはこれを保持することを妨げない、こういう
文章も用意していきましょうというようなこともあり得たんじゃないか、こう
思うんです。
 それが、さっきから言っているように、日本語としても、もしその意図がそ
こにあるならば、「最小限の武装や戦力は、これを妨げない。」ぐらいのこと
は用意する方が、日本語の続きぐあいとしても非常に明快なわけですね。
 こんな裏の裏を読むような解釈を、やれ顕教だ密教だと言って後にやるので
あれば、それぐらいの用心はされてもよかったのではないか、こう思うんです
が、その点は先生、いかがお考えですか。
○五百旗頭参考人 中村先生が当時芦田さんのスタッフとしておられたらよか
ったなという気もいたします。その点を確かめてよかったと思うんですね。
 実は、今になってみれば、GHQのトップスリーはそれを了承していたわけ
です。ところが日本政府は、そんなことを言ったら大変だと思い込んでいたの
ですね。吉田茂に代表されるように、今をしのぐには、ここは徹底した平和主
義を大いにプレーアップした方がいいのだというふうに思い込んでいて、意外
にリアルな認識を持っているということをつかみ切れずにおりました。
 それは、松本博士とケーディスの不幸な関係ということにかなり起因してお
ります。松本博士は、商法の大家、民法の大家で、明治憲法体制は私の体が知
っているというほど自信を持っているんですね。それに対して、日本のことを
何も知らぬ、日本語もろくにしゃべらないアメリカのオフィサーがああだこう
だと言って、日本国憲法のここはこうでなければならないなどと言うんですね。
もう彼はかっと怒って、血が上って、あるときにはテーブルが震えて水ががた
がた震えるというぐらい怒りに満ちて、もし手が届くならば手が出かねないと
いうぐらいの雰囲気になって退席するんですね。自分がこれ以上やったらつぶ
してしまうかもしれないというので、部下にお願いすると言って帰ってしまう
ということがあったのです。
 そういう中でやりとりしたときに、松本博士は、戦前の枠組みを守るために
かなり努力するんです。そうすると、そこのところはがんとやられるんです。
がんとやられる中で、どこが欠いてはならないところですか、それは象徴天皇
制と戦争放棄のところが大事だと言われるんです。しかし、戦争放棄について
は、日本側が余り、おっしゃるような修正案を出さないものですから、ケーデ
ィスの方がかなり柔軟に修正してくれた文章にこれでもなっているんですね。
日本側の対案として出てきたものよりも、もっと柔軟なものに変えているんで
す。
 ということを考えますと、中村先生がおっしゃったような、自衛のための戦
力はこの限りではないという一項を入れてはどうかというと、いや、考えとし
てはわかるよ、自分たちも実はそう思っている、しかしながら、今これは国際
社会の前で言わないのが日本の国益ではないかと諭されて、ああそうか、本当
はわかっているんですねと。ならば、この字句が、こんな顕教、密教の使い分
けをしなきゃいけないものじゃなくて、もう少し真っ当なものにして了承を得
られたかもしれないですね。
 歴史のイフ、言えませんけれども、それはむしろ確かめるべきであった。そ
のことを日本は当時いろいろな特別な事情でできずにいた、一つのミスだと思
います。
○中村(鋭)委員 終わります。
○中山会長 二見伸明君。
○二見委員 自由党の二見伸明です。
 私の立場は、先生のお言葉をかりますと、正統としての改憲論者だと思いま
す。
 実は、先生の一九九六年六月の外交フォーラムを読みながら、二、三お尋ね
したいと思いますけれども、先生のこの論文の冒頭に、マッカーサーと幣原首
相との会話の内容が出ています。ちょっと読んでみます。
 マッカーサー最高司令官 マッカーサー草案では軍に関する条項を全部削除
した。この際、日本政府は国内の意向よりも外国のおもわくを考えるべきであ
る。もし軍に関する条項を保存しておけば諸外国はなんというだろうか。また
も日本は軍備の復旧を企てる、と考えるにきまっておる。日本のためにはかる
に、むしろ第二章のごとく国策遂行のためにする戦争を放棄すると声明して、
日本がモラル・リーダーシップをとるべきだと思う。
 幣原喜重郎首相 (口をはさんで)リーダーシップといわれるが、おそらく
だれもついて行く者(フォロアー)はないだろう。
 マッカーサー フォロアーズがなくても日本は失うところはない。これを支
持しないのは、しない者が悪いのである。(アメリカ案を容認しなければ)日
本の安泰を期すること不可能と思う。
 この場合のマッカーサーの発言というのは、先ほど、侵略戦争はだめだけれ
ども、自衛戦争はオーケーだと言われましたですね。これは、これだけ見ると、
侵略戦争はだめだけれども自衛戦争はオーケーだというふうにも読めるし、侵
略戦争も自衛戦争も全部だめだというふうにも読めるんですけれども、これは
どういうふうに解釈したらいいでしょう。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 今の中で、国策遂行のための戦争を放棄した方がいいとマッカーサーが言っ
た、これは国際紛争解決の手段としてというのの類語でありまして、侵略戦争
を放棄するという意味ですね。ですから、ここでも自衛戦争のことは触れてい
ないわけで、きれいさっぱりと侵略戦争はやめるようにと言っているだけなん
です。
 幣原がこれをどう受けとめていたか。これは、幣原がマッカーサーと話した
内容というのを閣議で報告したのを、芦田が書き取ったものなんですね。です
から、幣原が、マッカーサーの真意を侵略戦争のみの放棄と受け取っていたの
か、あるいは自衛を含めて放棄と受け取っていたのか、実はこれはなぞなんで
す。いまだ明らかじゃないんですね。ケーディスは生きていて、インタビュー
をして、事細かに説明をして、かなりそれを裏づけるような傍証もあるので、
ああいうふうに当時から考えていたということは確認できるんですが、幣原に
ついては実はなぞのまま行っております。
 吉田や幣原という人は、プラグマティズムで、その状況の中で政治家として
やらなければならないこと、それが真意であろうとなかろうと、苦渋であろう
と喜びであろうと、それを潔くやる。彼は、タレランのごとく、ガンベッタの
ごとく、敗戦の日本を担っていかなきゃいけないというふうな抱負を持って、
七十代を過ぎた後、首相に舞い戻ってきた人なんですね。したがって、彼は、
弁明、説明をしないんです。
 ですから、昭和二十一年一月二十四日のマッカーサーとの会見の中で、ペニ
シリンを下さって、おかげで死なずに済んだというお礼を言った後、自分の方
から、幣原の方から戦争放棄を申し出たという有名なお話、これはマッカーサ
ーの回想録で説明されているんですが、その経緯についても、実は、幣原はは
っきりと自分では書き残しておりません。親しい者にしゃべったものの記録が、
一度失われたものを、その記憶を再現したというものがあるんですが、それぐ
らいしかないのですね。
 ですから、ここで、この文面に出ていることは、侵略戦争の放棄ということ
だけであって、幣原がそれを言っているということは大変注目されますけれど
も、自衛戦争まで放棄するつもりでいたかどうかについては、幣原首相につい
てはわかりません。
○二見委員 また、横田喜三郎教授の論評を先生は引かれていますね。
 それは、第九条が一九二八年の不戦条約第一条に等しいと指摘するものであ
った。その意味するところは、双方とも侵略戦争のみの放棄であるとの解釈に
あった。「不戦条約でも国際法上自衛のための戦争は禁止されてはいないし、
自衛権発動の場合の戦争を放棄するものではない」。この説明は第九条の第一
項については疑念の余地はないであろう。
私もそう思います。その次ですね。
 しかし、第二項では無条件に戦力と交戦権を否定している。
そして、横田教授の言葉として、
 「これは第一項を受けたものと解すべきで、自衛権の発動、国際協力の場合
には兵力の使用は可能なのである」。
 この考えが定着していれば、集団自衛権が違憲だとか違憲じゃないとかとい
う議論はないと思うんですけれども、当時の社会情勢等々で、こういう意見は
恐らく受け入れられなかったのだと思うけれども、当時の日本の政府側はどう
だったのでしょうか、こういう解釈については。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 戦後日本の極めて例外的な、特殊な、先ほど最初にも申しましたように、自
衛戦争もしていいのか、いけないのかと本気で国民的に考えているのは、世界
じゅうで日本だけなんですね。外から不当に攻められたら、それは対抗するの
は当たり前であって、国民の安全を守らなくていい政府などというのは政府じ
ゃない。そのように考えない極めてユニークな存在であるわけで、したがって、
外部の人、GHQの人を含めて、自衛はできるというふうに考えたのは当然で
すし、日本でも、古つわものの松本博士のみならず、幣原首相も吉田外務大臣
も、およそ国際社会で活動してきた人、伝統派の人たちはみんなそう思ってお
りました。
 ただ、マッカーサー司令部が今要求しているのが自衛戦争の放棄まで含むの
ではないか、そういうふうに危惧したんですね。今は本当のところ、歴史上、
どこであっても自衛はオーケーなんだけれども、そういうことを言っちゃいか
ぬという状況にあるんだというので、そのように司令部は我々に迫ってきてい
るという思い込みがあった。だから、そこのところが実ははっきりしない。
 吉田茂は、今をしのぐにはこうしたらいいというふうに信じていたわけです
が、それがGHQの強い意思であるというふうに恐らく思っていたんでしょう
ね。実は、トップスリーが考えている自衛はオーケーなんですよということを
確かめないで、そう思い込んでいた。
 幣原については、ちょっとはっきりしませんが、恐らく、やはりあの状況で
はそうせざるを得ないのではないか。マッカーサー憲法を強いられる、松本案
をつくり上げる一月の閣議において、幣原は松本に対して、戦争、軍備につい
ての条項は削除したらどうかというふうに松本に求めているんですね、助言し
ているんです。その真意というのは、やはり侵略戦争の放棄というのが外交官
としての常識であって、自衛戦争まで放棄しましょうなんということは考えて
もいなかったと思うんですね。
 だけれども、あの草案がマッカーサー側から渡されて、松本が大きくぶつか
ってばんとはねつけられた後は、それがGHQの意向だから、今はそういうふ
うに演じなきゃいけないというふうに思っていたのではないかと想像いたしま
す。
○二見委員 実は私は、昭和二十二年五月三日は新制中学一年でして、社会科
の先生が、これから日本は戦争をしない、軍備も持たない、そういう憲法がで
きたんだ、こう教えてくれました。私、そのときに、もし日本が攻められたら
どうするんですかと伺ったらば、社会科の先生が、そのときは世界じゅうが日
本を助けに来てくれるから、軍隊は要らないんだというふうに言われたのを今
でも覚えております。
恐らく、当時はそういう風潮だったんだろうと思います。
 ただ、横田喜三郎教授の解釈がもし定着するとすれば、この立場からいくと、
今、国会で議論される集団的自衛権というのは合憲ということになりますけれ
ども、内閣法制局の解釈はおかしいのであって、むしろ、集団的自衛権は、日
本は憲法上持っているという解釈をしても何ら不思議はないと思いますけれど
も、先生、いかがでしょうか。
○五百旗頭参考人 集団的自衛権は、憲法そのものに記されていることではな
くて憲法解釈の問題でありますが、自衛権の中で個別的自衛権と集団的自衛権
を峻別して、一方をよしとし、他方は、原理的にはあるにせよ、行使はできな
いという内閣法制局の説明というのは、やはり川は流れている中で、そのとき
の状況に対する苦しい説明としてつくったものだと思います。
 限定的にやらなければ国会は寝転んじゃって動かないという事情がある中で、
我々は、自国の安全、生存のためならば自衛権を発動するが、外には行かない
んですということを強調するために、あえて個別的と集団的を区別して、一方
を非とし、一方を是とするという説明をしたんだと思うんですね。
 しかし、その集団的自衛権というのは、共通の敵に対して一国ずつが対処す
ると、これの方が激しくやり合っちゃうという危険は結構多いんですね、むし
ろ多くの国と一緒になって抑制するということが容易になる。
 今の北朝鮮に対して、ペリー調整官の努力で米国、日本、韓国が一緒になっ
てやったから、結局、戦争にならずに、抑えがきいていくというのがその一例
ですけれども、もしそれを破ったら、我々は、一緒に共同対処しますよ、共通
の脅威に対して共同の対処をしますよというふうにする方が抑制的たり得る。
そういう観点に立って、国連のもとでも、国際社会みんなが侵略に対してはこ
れを制止し、処罰するという形をつくっているわけですね。
 そういうのでありますから、日本一国が、テポドン大変だというので、撃た
れる前にもっと撃たなきゃとかなんとかいってかっかしてやるというよりは、
これの方がはるかに平和的である。そういうふうな効用を考えてできた概念が
集団的自衛権なんですね。
 ですから、これをまるで何か危険なことのように言って、自国のためならい
いが共同はいけないというふうに切り分けるのは時の特殊事情である。特に、
国際共同ということを大事にしないと、改正後の憲法、僕は長らえることはで
きないと思います。
 例えば、アルバニアで動乱があったときに、ドイツが初めて域外へ単独で軍
事行動を起こして、ドイツ人を救出したんですね。そのときに、日本人十数名
を含む外国人も救出したんですね。これは、いわば国際社会の公益を代表する
形でドイツ軍が単独行動を起こした。だから、非常に評価されて、イタリアも
しっかりしなきゃいけないというので、ついに自分で単独行動をし始めて、け
しからぬという世論は国際的に全然なかった。どうしてかといえば、国際共同
の必要に対処したからなんですね。
 日本の場合にも、日本は大体において、議論は、我が国の安全にかかわるか
どうかということをもって正当か不当かというのをやりますが、これでいきま
すと、必ず行き詰まります。国際社会の共同の必要を、日本がそれを体して、
代弁して行うという広い文脈でやらなければ袋小路に入っていくというふうに
思います。正当性というのは、やはり日本の国益ですが、同時に、国際社会の
共同の必要ということを体現してやるという心がけを持たないと、二十一世紀、
長くもたないというふうに思っております。
○二見委員 大変貴重な御意見、ありがとうございました。
○中山会長 辻元清美君。
○辻元委員 社民党、社会民主党の辻元清美です。
 本日は、国会にお越しいただきまして、ありがとうございます。
 さて私は、まず最初に、きょうお話しいただきました、押しつけ論というこ
とに対する御意見、補足して幾つかお聞きしたいと思います。
 私もこの点に関しては先生と同じような考えを持っていて、その憲法の制定
過程について検証すること、それは事実を検証するということですが、押しつ
けだからいい悪いという議論と分けて考えないと、誤った方向に議論を持って
いってしまうのではないかと思うんです。
 といいますのは、国際社会の仲間入りを当時の日本はしなければいけないと
いう状況の中で、例えば、先ほどから、違う文脈でカンボジアのPKOの話が
出ております。カンボジアも、あの後、憲法や法律をつくらなければいけない
というときに、さまざまな国際社会が協力をしました。
 例えば、アフリカの小さな独立国のエリトリアという国の憲法や法律の制定
に、私は以前NGOの活動をしていましたが、その仲間がかかわっております。
というように、それぞれ民主化の進んだ国であったりさまざまな国が国際的に
協力して、その国の憲法や、それから法律などをつくる手助けをするというこ
とは、他でも多々起こっていることだと思うんですね。
 例えば、この憲法を見まして、制定過程で、二十四条に男女平等の問題が出
てくるわけです。この男女平等の問題が出てきた折に、これの制定にかかわっ
たあるアメリカの女性の話は有名ですけれども、当時はこのような概念がなか
なか日本の中では定着していなかったということで、この二十四条を削除する
方がいいのではないかという日本側の意見があった。
 しかし、それを強く議論し、特に、「配偶者の選択、財産権、相続、住居の
選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個
人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」この
「本質的平等」という、当時の男女平等観からいえばかなり進歩的なことが盛
り込まれています。この二十四条などを見ますと、私はこれは非常にすばらし
いものだというように考えているわけです。
 きょうは、九条の話を中心に御意見を伺ったわけですが、その他の部分につ
いてどのようにお考えなのか、一、二聞かせていただきたいのです。
○五百旗頭参考人 ありがとうございます。
 ケーディスに二日間インタビューしたと申しましたが、その民政局の部下の
中で一番若かったのがベアテ・シロタさんでありまして、アメリカでカレッジ
を出たばかりのところで戻ってきたので、二十三歳ではなかったかと思います。
戦前、音楽家であったお父さんは、滝廉太郎なんかの知遇を得て、日本で音楽
を教えるというふうな機会を得て、その娘であったベアテさんは、戦前の日本
で生活したわけですね。
 学校の友人なんかの家に遊びに行ったりすると、大家族の中で、どうして奥
様というのがかくも、かいがいしくお世話をしていると言ったらいいけれども、
みんなそこへ厄介を押しつけてしまって、大家族を一人で支えている。けなげ
で立派だと言うけれども、それが構造的にある場合、これは余りにも女性の尊
重ということにもとる姿があるのではないか。それをちゃんとやらないときに、
どんなに厳しい社会的な圧力、制裁があるかというふうなことを見て、これは
困った。
 そして戦争中、親は日本に残りましたけれども、アメリカのカレッジで過ご
して、自由と民主主義というものについてますます理論的確信を強めて帰って
きて、民政局、民法改正の小委員会に入った。彼女は日本語も自由ですので、
蝋山政道先生だとか、あるいはいろいろな図書館、大学や自治体の図書館を訪
ねて、憲法を考える上で役に立つ材料を集めて回って、持って帰ってきたので
すね。
 そういう人で、彼女は大変に情熱があって、自分の体験の中から、日本の自
由、男女平等が実現されなきゃいけないと信じていたために、初め千八百字も
書いたのです、これを憲法に入れてくださいと。ケーディス運営委員長のとこ
ろへ、これが私たちの望む憲法案ですというふうにやったら、ケーディスは、
君、憲法というのはこういう細々したことを一々書くものじゃないんだよ、妊
婦の権限がどうだとか児童がどうだとかいうことを一々書く、それは民法典で
やるべきであって、憲法は大きな原則を書くだけだよと言うので、うんと減ら
したのがこれなんですね。
 減らされて、削除されたとき、ベアテさんは思い余って泣きました。ケーデ
ィスとベアテを一緒に日本へお招きしたときに、本当にそういうことがあった
のと言うと、うん、左胸のここで彼女が顔を埋めて泣いたと。ベアテさんは大
変美人のかわいい人でありまして、ケーディスは得意げに、おれのこっちの胸
で泣いたとか言っておりました。つまり、それほどベアテさんは、戦後日本の
民主主義というもの、自由、人間の尊厳ということが根づかなければいけない
という情熱を持ってやったのですね。
 そういうことは、今お話しになった、NGOでアフリカの小さな国の法律を
つくるときに協力される、そういうこととともに共通の問題でありまして、つ
まり、世界史は、いろいろな貴族政治、専守政治、独裁政治を経験してまいり
ました。チャーチルの言葉をかりれば、そういうものの中で民主主義が一番理
想的ないい制度とは言わないですね。一番少なく悪い制度だと。ほかの制度は
もっと困った問題を起こす。民主主義は、非効率であって、もたもたしている
けれども、やはり最も悪くない制度だという確信を人類史はこの二十世紀にほ
ぼ共通見解にしていったのではないか。
そのような、共通の、いわば人類がいろいろな歴史、苦闘の中で確立したもの
を、よその国が憲法をつくるとき、法律制度をつくるときに、国境を越えて協
力するということは非常に多くなってきたのですね。そのようなことはいいこ
とではないか。
 つまり、人類の共有財産をお互いに提供し合うというボランティア、日本の
場合にはそれがかなり強制の要素が加味されたというので、一方でアレルギー
が起こるわけですが、内容的には、そのような普遍文明の遺産のようなものを
提供した面が少なくない、民主主義の側面はそういうものだ、だからこそ今に
至るまでむしろ定着している。それを基本的に受けとめながら、でももっと新
しい権利として、環境の問題はどうなのか、プライバシーの問題はどうなのか、
日本人ばかり言って、人間一般についてはどうなのか。そういうところをより
よいものに改めていくというアプローチではないかと思っております。
○辻元委員 今お話の中の、普遍的な真理の追求といいますか、そういうこと
を国境を越えてやっていく作業は今ふえてきていると思います。
 さて、そういう中で、先ほど異端としての改憲論という話が出まして、なる
ほどうまくおっしゃっているなと思いました。押しつけ論のところだけ言われ
る人がいらっしゃるわけですよ。日本の自尊心がつぶされるとか、制定過程が
おかしいから憲法そのものを否定してしまうような議論というのは後ろ向きの
議論だと、私の意見をはっきり申し上げさせていただきたいと思うわけです。
 さて、そういう中で、今環境権とか知る権利の問題などというのも新しく出
てきておりますが、私は三年半ほど国会で議員として活動をさせていただいて
いるわけですが、そういうようなものが大事である、だから憲法調査会を設置
しようと主張されていた方の中に、例えば環境アセスメント法をつくる折に、
さらに環境権を強固に確保していくようなことに抵抗されるとか、情報公開法
という法律をつくる折に、一条に、目的のところに知る権利を入れよう、とこ
ろがそれについて抵抗されているという方が、憲法調査会設置の折だけ、環境
権や知る権利とかプライバシー権のことも大事だから調査会を設置しなきゃい
けないというような論理を展開されるので、私は、何だか非常に摩訶不思議と
いいますか、それであるならば、法律でまず実行した上で憲法について議論し
ていけばいいのに、そこでは明らかに抵抗した、しかし、憲法では必要である
と言う、この国会の中でもそういうプロセスがあるということを私は申し上げ
たいと思うのですね。
 ですから、今回は九条の問題を中心に触れていらっしゃいますけれども、そ
ういう意図を見ていると、何だか、九条だけ変えたいから憲法調査会を設置し
たいというような、その根拠を、異端としての改憲論という話がありましたけ
れども、そこなどを中心に議論を展開しようとしているという危惧があるので
すけれども、先生はいかがお考えですか。
○中山会長 参考人、ちょっとお待ちください。
 改めて申し上げるまでもございませんが、会長としては、当調査会は憲法に
関する総合的、広範な調査を行うということでスタートいたしておりますから、
その点御理解の上、御質問をいただきたいと思います。
 五百旗頭参考人。
○五百旗頭参考人 私が答えるべき筋合いのことではないものも含まれている
と思いますが、どういう方がどういうふうにしていらっしゃるかはそちら様の
問題で、私は存じ上げませんが、言えることは、知る権利とか情報公開とか環
境権、これは新しく注目されるようになった権利で、人権をさらに支える上で
望ましいものという側面があります。
 しかし、その権利を全面的、一面的に、またこれも原理主義で突っ走って規
定いたしますと、これは他の原理との対抗関係で社会は成り立っておりますの
で、非常に微妙な問題が起こると思うのですね。
 例えば情報公開について、私は、歴史研究家として、アメリカのように、三
十年たったら、例外規定はあるものの、原則に沿って大きく開く、そのことが
大変さわやかだと思いますし、賢いとも思うのですね。結局、アメリカの資料
を使って我々は分析する。資料をたくさん提供したらおれの考えの言うとおり
にしてくれななんて言わないのですね。だけれども、それを広範に使いますと、
いつしか、それに基づいて議論をするというふうになっちゃって、それをふん
だんに提供しているアメリカは利口だ。
 そして、国民に対する責務、つまり高い責任を負って権限を得て政治をやっ
た者が、今すぐということになりますと難しいかもしれない、外交交渉中自分
のカードを全部表に出すべきだとはだれも言えない、けれども何十年かたった
らそれは国民に帰すべきものである、そのことはいつか来るんだという責任感
を持って政治をやっていただくというのは非常にいいと思うのですね。
 だけれども、もし情報公開が価値であり原則だというので何でも出さなきゃ
いけないというと、政治運営ができなくなる、結局国民の幸せにもならないこ
とが起こるかもしれない。
 そういうことを考えますと、非常に微妙な問題がありますので、そういうこ
とをおっしゃってだれかが反対するとすれば、それは理由のあること。その中
でどういうふうに両方の必要価値を組み合わせていくかということについては、
これは憲法ではなくて法のレベルでやるべきであるとか、憲法ではこの程度の
一般規定を置いて、あと具体的にはこれとの緊張関係において対処するんだと
いう方針を示すべきだとか、いろいろな工夫があると思うのですね。
 だけれども、人間の尊厳、そして二十一世紀の国民生活が成り立つ、それを
支えるために望ましいのは何かというので、第九条に限らず全般的に検討して
いただくのがいいんだと、私は国民の一人として確信しております。
○辻元委員 時間が参りましたので、最後に一言申し上げたいのですが、今申
し上げましたような点について強く反対したのは自由民主党だったということ
を申し上げたいと思います。というのは、私は、実際に今情報公開の問題など、
先生の御意見も伺いましたけれども、やはり憲法に基づいて法律をつくってい
くということで、憲法と法律の関係というのも非常に重要だと思うのですね。
という意味で、法律の場面で入れられないことを憲法で議論していこうと言う
ならば、まず法律で実行してみる、その上で、憲法を議論していこうじゃない
かという、プロセスを検討するのも非常に重要ではないかと思いますので、申
し上げました。
 以上です。
○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 五百旗頭参考人におかれましては、貴重な御意見をちょうだいいたしまして、
まことにありがとうございました。調査会を代表してお礼を申し上げます。
(拍手)
 この際、暫時休憩いたします。
    午後零時三十二分休憩
     ――――◇―――――
    午後三時二十三分開議
○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行いた
します。
 午後の参考人として横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授天川晃君に
御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、まことに御多忙の中を御出席いただきまして、ありがとうございま
した。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委
員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言される際はその都度会長の許可を得ることになっております。ま
た、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、
あらかじめ御承知おきを願いたいと存じます。
 それでは、天川参考人、お願いをいたします。
○天川参考人 御紹介いただきました天川でございます。
 私は、日本国憲法の制定の経緯について、全般的な問題ではなく、第八章の
「地方自治」を中心に話をしたいと思います。
 日本国憲法と大日本帝国憲法、以下明治憲法と申しますが、これを形式的に
比較いたしますと、日本国憲法になって新しくつけ加えられた章が幾つかあり
ます。
第二章の「戦争の放棄」については最もよく知られている新しい章であります
が、第八章の「地方自治」もその一つであります。
 「戦争の放棄」の章については、さまざまな論議があるところでありますが、
第八章の「地方自治」に関しては、地方自治の研究者や実務家の間では、この
章が憲法に設けられたことが戦後の地方自治の発展の上において大きな意義が
あったと評価しているように思われます。
 以下、私は大きく二つのことをお話し申し上げます。
 一つは、憲法の中にどのような経緯でこの新しい「地方自治」の章が設けら
れることになったのかという、第八章の制定経緯であります。それからもう一
つは、憲法に「地方自治」の章が設けられたことが、当時の日本の状況、とり
わけ地方自治をめぐる状況において、いかなる意義を持ち、インパクトを与え
たのかということであります。
 私自身は、占領期の歴史を当時の資料をもとに研究している者で、憲法の条
文そのものとか地方自治の全般的な問題を研究している者ではありません。し
たがって、このような内容の話になることをあらかじめお断りしておきたいと
思います。
 まず最初に、憲法の第八章の制定経緯に関してであります。
 しばしば指摘されることではありますが、日本政府の憲法問題調査委員会、
松本委員会で検討していた憲法改正案では、地方自治の章を置くことは考えら
れておりませんでした。内大臣府で憲法調査を進めた近衛草案にも、民間の憲
法草案にもそういう考え方はありませんでした。日本側で唯一憲法に自治の章
を置くことを考えていたのは、近衛案の作成を補佐した京都大学の佐々木惣一
教授の案であります。
 佐々木案では、新たに「第七章 自治」という章を設けて、三つの条文を置
くことになっておりました。
 佐々木氏は、この章を設けた理由を、「蓋シ自治ハ民意主義ニ依ル国ノ統治
ノ基礎地盤ニシテ自治ノ健全ニ発達スルコトハ民意主義ニ依ル国ノ統治ノ実ヲ
挙グルガ為ニ必要ナリ。」と説明しております。具体的には、いわゆる団体の
自治とか団体の構成員による責任者の選任、そして「自治団体ノ構成組織権能
責務其ノ他必要ナル事項ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」というような三つの条文を置
くというもので、その内容を見れば、明治の自治制制定以降一九二〇年代末ご
ろまでに積み重ねられてきた自治制の経験と実績を憲法に盛り込もうとしたも
のと見ることができるかと思います。
 さて、一方、四六年の二月十三日に日本側に手渡された総司令部案の中には、
三つの条文から成る「Local Government」という章が第八章として置かれてお
りました。現行の憲法に「地方自治」の章が置かれることになった直接の起源
は、この総司令部案にあると言っていいかと思います。
 それでは、総司令部案にローカルガバメントの章が置かれたのはどうしてな
のかということでありますが、これに関連して三つのことを指摘しておきたい
と思います。
 まず第一に、アメリカの占領政策が、日本の非軍事化と民主化とを基本とし
ていたということであります。
 アメリカの認識では、日本が軍国主義化したのは民主主義的ではなかったか
らである、民意を反映する政治システムに変えることが日本が再び軍国主義化
しない保障になると考えていたわけであります。そして、この民主化の一環と
して分権化ということが置かれていたのであります。というのも、日本では地
方の民意は十分に反映されておらず、地方行政は内務省が任命する知事を中心
とする中央集権的なシステムで動いているとの認識を持っており、これを分権
化する必要があると考えていたことによります。
 ワシントンで作成されました憲法改正の基準とも言える「日本の統治体制の
改革」、SWNCCの二二八文書でも、都道府県の職員は、できるだけ多数を
民選するかその地方庁で任命するものとする、そう定めていたのでありますが、
これは、内務大臣が都道府県知事の任命を行う結果として従来保持していた政
治権力を弱めることになろう、同時に、それは地方における真の代議政の発達
を一層助長することにもなろうと指摘していたわけであります。
 第二に、総司令部で憲法草案の起草に関与した人の中に、憲法に分権化に関
する規定を置くことを重視した人がいたということであります。
 総司令部の民政局にいたラウエルは、四五年十二月の「憲法についての準備
的覚書」の中で、地方制度の面での中央集権というのを問題として取り上げ、
「地方に責任を分与すること」という附属文書の中で、憲法が改正される際に
は、都道府県及び市町村に一定の範囲内で地方自治を認める規定を置くべきで
あるとしておりました。
 彼は、民間の憲法研究会が提案した憲法改正案を高く評価していたのですが、
それが地方自治に言及していないことを指摘し、都道府県及び市町村の主要職
員の公選を規定する条項を設けることが必要だとしております。彼はまた、二
月八日に提出された松本案に対しても、ほぼ同様のコメントを行っております。
 このように、民政局では、地方自治に関する条項を憲法に設けること、そし
てその骨子は、都道府県、市町村の主要職員の公選規定であると考えられてい
たわけです。総司令部の憲法草案にローカルガバメントの章が置かれたのは、
直接的にはこういうような人たちがいたからだと考えられるわけです。
 そして第三に、しかしながら、公選規定以外の分権化の具体的な中身につい
ては、民政局の中でもさまざまな考え方があって、一致したものではなかった
ということも指摘できると思います。
 このことは、民政局で憲法草案を起草するに際して、当初つくられた小委員
会の案が廃棄され、ケーディスとかラウエル、ハッシーといった人たちの運営
委員会で草案をつくり直したことにもあらわれております。
 最終的に民政局の草案に置かれた「Local Government」の章は三つの条文で
構成され、知事、市町村長、議員、それに主要職員を直接に公選する規定、そ
して大都市、市、町の住民に憲章制定権など自治権を認める規定、そして特定
の地方に対する特別法を国会が制定することに対して住民投票を行うという規
定を置いていたのであります。これは、あらかじめお送りした資料をごらんい
ただければと思います。資料の1であります。
 さて、以上が民政局の中でローカルガバメントの章がつくられた背景であり
ますが、この草案が日本側に提示された後、三月四日から五日にかけて日本側
と折衝を重ねていく過程で幾つかの修正が加えられることになりました。ここ
では四つのことを指摘しておきたいと思います。
 まず第一に、日本側は、総司令部案に「Local Government」という新しい章
が置かれていることに対して、とりわけ違和感を持っていなかったということ
であります。
その後の折衝でいろいろと条文の修正の要求を行うのでありますが、第八章を
置くこと自体を問題とはしておりません。日本政府がこのような対応をとった
ということが、「第八章 地方自治」が設けられることになったもう一つの理
由でもあると思います。
 第二に、第八章に関する日本側の対応の背後には、明治憲法下での日本の地
方自治の経験との連続性が意識されていたと思われることであります。
 具体的には、まず第八章の英文の表題を「Local Government」から「LocalS
elf-Government」に改めることを求めて、認められております。総司令部案の
表題は、当初の外務省の訳では「地方政治」となっておりました。これを「地
方自治」
と改めるとともに、英語の表現も改めたのであります。
 さらに、この章の頭に総則的な条文を追加することを提案し、これも認めら
れております。新しい条文というのは、現行の憲法九十二条の「地方公共団体
の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定め
る。」という条文であります。
 ここで、「地方自治の本旨」ということに関連して、この条文を起草した佐
藤達夫氏は、地方自治の基本精神を的確にあらわす方法はないものかというこ
とで、明治二十一年の市制町村制の上諭などを引っ張り出したりして、隣保協
同の精神というような角度からの表現も考えたけれども、結局、「地方自治の
本旨」ということになったとしておられます。そして、そこでの「地方自治の
本旨」とは、一般的に言われている団体自治と住民自治、この二つを根幹とし
ていることはおのずから明らかであると思うと書いておられます。
 このように、明治以降の日本の地方自治の経験をもとにしてこの条文が置か
れたのであって、そういう意味では、期せずして佐々木案が目指していた内容
の条文が置かれることになったのであります。
 第三に、総司令部案では、府県だとか市、町という地方団体の種類が書き分
けてあったのでありますが、それを「地方公共団体」と、一括した表現に改め
ております。
 佐藤氏によれば、府県とか市、町とかいうような団体の種別を憲法で固定し
てしまうことはいささか窮屈ではないかと書いておられますが、この修正によ
って、時々の立法政策によって何が地方公共団体であるかということを法律で
決めることができるようになったわけであります。
 佐藤氏は、具体的に書いておられるわけではありませんが、後に述べるよう
な道州制の導入の可能性ということを想定していたのかもしれません。という
のは、仮に道州制を導入して府県を廃止するような場合、あるいは府県の上に
地方公共団体としての道州制を導入するというようなことを考えると、憲法で
地方公共団体の種類が固定されているとすれば、そのような方策は憲法の改正
が必要になって、非常に困難になるからであります。
 四番目に、総司令部側が重視していた長の直接公選について、日本側は修正
のための折衝を行ったのでありますが、修正要求は認められませんでした。
 総司令部案では、長と議員と主要職員は直接普通選挙で選ぶことになってい
たのに対して、日本側は、選挙の対象を長と議員に限り、直接選挙を避けて、
単に選挙をすることを求めたのでありますが、この要求は認められず、三月六
日の憲法改正草案要綱では、法律の定めるその他の吏員も直接これを選挙する
という表現になったのであります。
 憲法問題を担当しておりました松本国務大臣は、総司令部案をもとにして日
本政府案をつくる際の基本の態度として、先方の案は、いがのついたクリのよ
うなものであるので到底そのままのみ込むことはできない、そこでまず、のみ
込むことができる程度にいがを取り、そしてその後の折衝で渋皮を取っていこ
うとしたと説明しておりますが、この観点から見るならば、第八章では、長の
直接公選というのは、いがの部分とみなされていたのかもしれません。しかし
ながら、このいがは折衝を通じても取れなかったのであります。
 ともあれ、三月六日の憲法改正草案要綱で、ほぼ現在の形での「地方自治」
の章はでき上がりました。その後、四月に直接公選をめぐる再折衝を行ったり、
英文の修正、整理を行ったりしましたけれども、帝国議会でも何ら修正はなく、
現在の憲法第八章ができたのであります。
 憲法の第八章に関する限り、その制定経緯を以下のようにまとめることがで
きるかと思います。
 まず第一に、憲法に「地方自治」の章を置くことは総司令部案に起源がある
が、日本側も新しい章を置くこと自体には抵抗感がなかったこと。第二に、そ
れを前提として、三月初めの折衝で、日本側から提起した修正要求の多くは、
ほぼ日本側の要求どおりに受け入れられていること。これによって、明治憲法
下で進められた自治の経験の延長線上に戦後の地方自治の展開が可能になった
と思われること。そして第三に、総司令部側で重視していた長の直接公選制は、
日本政府側の要求にもかかわらず、そのまま維持されたということであります。
 さて、次に、狭い意味での条文の制定経緯ではなくて、この憲法がつくられ
た時代の背景と、この憲法草案、とりわけ政府が最もちゅうちょしていた長の
直接公選の規定が置かれたことが、当時の地方自治をめぐる動きにいかなるイ
ンパクトを与えたのかということについて見ておきたいと思います。
 まず、この問題に入ります前に、敗戦直後の日本の動きを私がどのように見
ているのかということを、二つの点からお話ししておきたいと思います。
 一つは、長い戦争が終わって、戦時体制に対する反動が強く出てきたという
ことであります。
 政治や行政の側面で見ると、敗戦後直ちに戦時から平時へという動き、言う
なれば正常への復帰というべき動きが始まったことであります。
 政治の面では、八月の末には衆議院の早期解散・総選挙の実施という方向が
打ち出され、これに向けて新しい政党の結成の動きが活発になっていっており
ます。
戦争中の議会の中心勢力であった大日本政治会は、九月の半ばに解散されてお
ります。行政機構について見ても、八月の二十二日には、軍需省とか大東亜省
など戦時中の行政機構を廃止、再編する閣議決定がなされております。
 さらに、国民の間で見るならば、戦争が終わった安堵感が出てくるとともに、
敗戦に導いた指導者に対する批判あるいは責任の追及という動きが次第に強ま
ってまいりました。占領政策でいう非軍事化と軌を一にする動きが国内でも始
まっていたということであります。
 もう一つは、戦後の復興、再建に向けての動きも始まったということであり
ます。
 八月十五日の終戦の詔書、いわゆる玉音放送でありますが、その中に「総力
ヲ将来ノ建設ニ傾ケ」という言葉がありますが、新日本の建設をスローガンと
して、将来に向けての動きも始まったわけであります。どのような新日本をつ
くるのかということに関して、平和国家だとか文化国家あるいは科学立国とい
うさまざまな考え方が出されましたが、政治上の主義として見るならば、ポツ
ダム宣言にうたわれ、そして占領政策でも強調された民主主義化ということが、
次第に多くの人々をとらえていったのであります。
 このように、戦後の日本では、敗戦直後から、戦時体制への反動、新日本の
建設という動きが始まって、占領政策にいう非軍事化と民主化の受け皿ができ
始めていたと言えるかと思います。
 とはいうものの、日本国内で始まっていた戦時体制への反動、新日本の建設
の動きと占領政策でいう非軍事化と民主化との間には大きなギャップがありま
した。
 これを端的に示しましたのが、一九四五年十月四日に出された、政治犯等を
釈放し内務大臣の罷免と秘密警察の廃止を求める、いわゆる人権指令、自由の
指令であります。この指令が出されると、当時の吉田外務大臣は総司令部に駆
け込んで、この指令は赤色革命を奨励するがごときもので、国民にはショック
を与えていると訴えておりました。東久邇内閣はこの指令を受けて退陣し、十
月九日に幣原内閣が発足したのであります。
 幣原内閣発足の日、外務省の中では「自主的即決的施策ノ緊急樹立ニ関スル
件」という文書が作成されております。これは資料2として配付しておると思
います。この文書は、九月二十二日に発表されたアメリカの初期の対日方針と
いう文書を分析し、今後の対応を論じたものであります。
 これによれば、降伏後の事態の進展を見ると、進駐軍は「革命勢力タルノ感
アリ」
としており、さらに、「連合国側ノ日本統治方針大綱ノ意図スル所カ平和主義
ト合理主義ヲ基調トスル民主主義日本ノ建設ニ在ルコトヲ明確且徹底的ニ把握
シ日本ノ変革更正ノ主体性ヲ回復シ自発的ニ統治制度ヲ初メ政治、経済、文化
等各般ノ分野ニ亘リ急速ニ施策要綱ヲ樹立シ之ヲ強力ニ遂行スルニ非ラサレハ
事毎ニ進駐軍側ヨリ命令ヲ与ヘラレ、受動的ニ之カ実施ヲ余儀ナクセラレ」と、
強い危機感を表明していたのであります。そして、我が方の自発的な発意によ
る日本の変革更正ということを強く求めておりました。
 このように、占領政策の大筋の方向が具体的に明らかになりつつある状況の
中で、国内での憲法改正の審議が始まったということであります。
 さて、それでは、当時の地方自治をめぐる状況はどのようなものだったのか
ということでありますが、これを説明する背景として、戦時中に進められまし
た地方制度に関する二つの動きを指摘しておきたいと思います。
 一つは、一九四三年に、昭和十八年でありますが、地方制度の大改正が行わ
れましたけれども、その特徴は、地方制度の中央集権化を強化するものであり
ました。
 市制、町村制が制定されて以降、何度か法改正が行われたのでありますが、
それらは自治権の拡張ということを基本とするものでありまして、そうした流
れの中で、昭和の初めには、政党が知事の公選論を取り上げるほどでありまし
た。しかしながら、満州事変が始まった三〇年代以降はこうした傾向が逆転し
て、この四三年改正では、地方団体の自治権を拡張するどころか、市町村から
部落会、町内会に至るまでを国策浸透の機関として再編する方向での改正が行
われたのであります。
 これを象徴するのが、市町村長の選任の方法であります。昭和の初めから市
長は市会で選挙していたのでありますが、この改正によって、市長は市会の推
薦した候補者を内務大臣が勅裁を経て選任することになり、市会が指定期日ま
でに市長の候補者を推薦しない場合には内務大臣が市長を選任できるというこ
とにまでなったのであります。
 戦時中に進んだもう一つの動きは、府県を超える広域行政の制度、いわゆる
道州制的な方向での制度化が進んだということであります。
 広域行政化の背景はさまざまありますけれども、明治の中期につくられた現
行の府県の規模が地方行政の単位としては狭きに過ぎる、そういうことが一つ
の理由でもありました。一九四三年七月には、全国を九つの地方に分けて、関
係する府県とその地域の国の機関との間で行政の総合調整を図るための地方行
政協議会という制度がつくられたのでありますが、これは、将来に本格的に道
州制を導入する第一歩であるとみなす人が少なくなかったのであります。その
後、四五年の六月には、本土への進攻、分断に備えて各地方で自立して戦争が
継続できるように、地方行政協議会を再編して地方総監府というものがつくら
れております。
 このように、戦時中には、中央集権的な地方制度の再編と道州制的な広域行
政の制度化という二つの方向が同時進行していたのであります。こうした動き
が、敗戦によって始まる戦時体制への反動、新日本の建設という新しい潮流の
中でどのように変化したのかということが、次の問題であります。
 地方制度に関して戦後最初にとられた措置は、戦時機構としての地方総監府
を廃止することでありました。しかしながら、戦争が終わったからといって広
域地方行政の問題がなくなったわけではありません。広域の調整を行うため、
地方行政事務局というものがこれにかわって置かれたのであります。このよう
に、広域行政を行う道州制的な制度が必要であるという考え方は、戦争が終わ
った後にも依然として継続していたのであります。さきに挙げました外務省文
書にも、「国民経済ノ諸条件ノ変移ニ応ジタル地方行政区制ノ改正ヲ行ヒ且ツ
地方自治制ヲ強化スルコト」という一文があります。
 他方で、戦時中には逼塞していた、自治権の拡張を基本とする地方制度改革
を求める声が上がり始めてまいりました。この動きは、戦時中に行われた制度
改革への批判だとか新しい政党の結成の動きなどとも関連いたしますが、中で
も、昭和の初めに出されていた知事の公選論というのが急速に地方制度改革の
焦点となってまいりました。
 一例を挙げるならば、降伏文書が調印された翌日、一九四五年九月三日の読
売報知新聞には、「燃えあがる知事公選論」と題する記事があります。「かつ
ての政党時代にしばしば取上げられた地方長官公選論―ひらたくいへば都長官
や府県知事を選挙によつて決定しようといふことが戦争終結とともに平和への
建設国民政治の活気を呼び戻さうといま胎動してゐる政界に再びクローズアツ
プされてゐる」というふうに報じております。
 地方行政を担当いたします内務省は、奥野先生おいでになりますが、地方政
治の刷新策として、当初は民間人を知事に登用するという人事の刷新による対
応措置をとっていたのでありますが、十月の末には知事の公選制度を導入する
ことに踏み切りました。
 翌々月、四五年十一月十二日の毎日新聞では、知事公選の方法いかんという
ことをテーマとした世論調査の結果を発表しております。これは、全国二千名
の男女を対象とした調査でありますが、その結果は、五五%が住民による直接
公選を希望しており、間接公選が望ましいとする者二五%を上回っております。
 ところが、内務省が考えていた知事の公選案というのは、戦前の市会等でと
られていた間接選挙の考え方で、県議会で知事を選ぶというものでありました。
 念のためにつけ加えておくならば、内務省がこのような知事公選制度の導入
に踏み切ったのは、占領当局の指示を受けて始まったというよりは、国内の動
きに対応したものであります。むしろ占領軍からの指示に先んじて、自主的に
改革を進めようとしたものでありました。その意味では、さきに見た外務省文
書の精神と同一のようなものであります。明治憲法の制定に先んじて地方制度
の整備が進められた、これと同様に、憲法の改正に先立って地方制度の改革を
進めようとしていたのであります。
 さて、長々と背景を申しましたが、こういうような動きが国内で進んでいる
中で、四六年の三月六日に、長の直接公選を含む憲法改正草案要綱が発表され
たのであります。それは、既に始まっていた地方自治をめぐる動きにいかなる
インパクトを与えたのかということであります。四つの点を挙げておきたいと
思います。
 まず第一に、憲法改正草案要綱というものは、内務省が考えてきた知事の間
接公選構想に影響を与えずにはおかなかったのであります。この改正草案要綱
の作成に内務省は関与していなかったのでありますが、直接選挙を行うとする
ならば、多額の費用が必要で、よほどの資産家でないと立候補できないので立
派な人が選挙に出にくいとか、絶対多数をとるのは困難で、決選投票が必要に
なり手続が煩雑になるとか、そういう理由を挙げて、間接的な公選が可能にな
るように憲法草案を修正することを求めたのでありますが、これは認められな
かったのであります。
したがって、政府は、知事の直接公選を前提とした地方制度改革案を作成し、
五月の末に、憲法を審議する第九十回帝国議会に提出したのであります。
 第二は、地方制度の改革案が議会に提出される前後の時期に、宮城県の各市
に始まり、北海道から九州に至る全国の二十余りの市で市長を公選で選出しよ
うとする運動が展開され、実際に仙台や川崎など十の市では事実上の市長公選
が行われ、新しい市長が選ばれたということであります。当時の市の数は二百
四でありますから、約一割の市でこうした公選を求める運動が起こったという
ことであります。
 これは、この年の一月に公職追放の指令が出されて、翼賛選挙で推薦を受け
て立候補した者は四月十日に行われた総選挙で立候補ができなかったのであり
ますが、しかしながら、市長とか市長を推薦した市会議員に対してはこのよう
な措置はとられておらず、戦時中の市長とか市会議員がそのまま在職していた
わけであります。したがって、これらの指導者に対する批判とか責任追及が何
らかのきっかけで始まり、住民の間から、新しい市長を住民が直接に選ぶとい
う試みが進められたのであります。
 事実上の市長公選が始まる具体的な事情とか公選の方法は各市によってさま
ざまでありますが、長の直接公選ということを規定した憲法草案が発表されて
いたことがこのような運動に正統性を与えたということは指摘し得るかと思い
ます。憲法草案は、民意に基づいて新しい指導者を選びたいという国民の意欲
にこたえ、また、それを後押ししたのであろうかと思われます。
 市長の公選運動が行われていた当時の状況について、若干の補足をしておき
ます。
 四月の十日には総選挙が行われて自由党が第一党になりましたが、絶対多数
ではなくて、次期の政権をめぐって政党間で駆け引きが続いておりました。さ
らに、総理に就任するかと思われていた鳩山自由党総裁が追放され、事態はさ
らに紛糾したわけであります。そして、吉田茂内閣が発足したのは五月二十二
日であります。
実に一カ月余りも政治の空白期間があったわけであります。
 一方、当時の国民はといえば、食糧の遅配が深刻で、各地で米よこせのデモ
が行われるなど、混乱が続いておりました。当時の混乱した状況を示す一つの
資料を紹介しておきます。これは、五月の九日に内務省の警保局が作成した資
料であります。少し読ませていただきます。
 食糧は正に危機寸前である。東京は既に欠配七日、神奈川も略々同様、山梨、
青森は勿論北海道は既に数十日の欠配である。各地に暴動の前兆とも云ふべき
事態が現れて居る。
  一日の猶予は一日の危殆を増すのみである。官僚の当面の仕事には限度が
ある。今にして政局安定せず、真の具体策樹立せられなければ悔を千歳に残す
であらう。
  中央の背景なき地方官吏は窮地に立つて居る。それは生産地も消費地も同
じである。県民と全同胞とを如何に救ふかの真の板挟みである。少くとも政府
において此の責任を採らざる以上各府県が孤立することは明瞭であり此の儘で
行けば恐らく各町村各部落が孤立して遂には食糧を通じて国家形体は破壊せら
れるであらう。
ということまで書いておるわけであります。
 実際、五月の十二日にはデモが皇居に押しかけるような事態にまでなってお
りますし、五月十九日の食糧メーデーには、二十五万人が皇居前広場に集まり、
食糧に関して天皇に対して、適切な措置をお願いするという趣旨の上奏文を決
議しているほどであります。そして、今では記憶している人が少ないのであり
ますが、五月二十四日には、食糧問題に関する天皇の第二の玉音放送が行われ
ておるほどであったわけであります。
 当時の地方の状況を具体的に示す資料として、当時、神奈川県の官選知事で
ありました内山岩太郎氏の日記がありますが、四月から五月にかけてはほとん
ど食糧問題の記事で埋め尽くされております。五月の四日には「食糧問題で陳
情が多くなった。食えない結果で致し方がない。乱暴をしないデモなら多いに
やるがよいと思う。県民には籠城のつもりで頑張れと励ましている」と書いて
おります。五月十九日の食糧メーデーの日には「県庁でも一日六組に及ぶデモ
と陳情で中には一組一時間以上を要するものもありほとんど仕事をする暇もな
く、自然に高い声も出したくなり夕方には声がかれてきた」と書いてあります。
政府が動かないものでありますので、内山知事は独自に米軍に食糧の放出を懇
請していたのであります。
 さて、話を戻しまして、知事の直接公選が与えました第三のインパクトであ
りますが、これは政府が提出していた地方制度の改革案が衆議院で修正された
ことであります。
 政府が地方制度の改革案を憲法改正案を審議する議会に提出したのは、政治
の民主化は地方政治の民主化を基礎とするという理由からでありました。とこ
ろが、政府案では、知事は直接に公選するが、その身分はこれまでの知事と同
様に官吏とするということになっておりました。その理由というのは、府県は
自治団体であると同時に中央政府の地方機関としての二重の性格を持っており、
しかも後者の性格が強い、そして、国家の行政を行うのは官吏でなければなら
ないということでありました。
 食糧問題だとか治安問題などが深刻で、公選知事を官吏とすることによって、
国家的な要請と地方の要求との間の調和を図る必要があるとしていたのであり
ます。当時の言葉では、府県ブロックあるいは府県の割拠でありますが、府県
の割拠の弊害を避けるためには官吏にしておく必要があるということでありま
す。
 しかしながら、衆議院では知事を官吏にしておくことに対する反発が強く、
結局、政府案は、「改正憲法施行の日まで官吏とする。」と修正が加えられた
のであります。このような修正は、総司令部がこれを求めたということもあり
ますけれども、当時の世論や政党が、新憲法のもとでの公選知事が官吏である
のは適当ではないと強く主張したからであります。
 この修正が行われた結果、新しい憲法のもとでの府県は、基本的には市町村
と同様の地方公共団体としての性格を持つこととなり、これを規定する地方自
治法の制定に道を開くことになったのであります。
 なお、つけ加えておくならば、最初の知事公選は、憲法と地方自治法が施行
される直前の四七年四月五日に行われました。知事選挙の平均投票率は七一・
二%で、ほぼ同時期に行われた衆議院の総選挙の投票率六七・九%、初めての
参議院議員の選挙六〇・九%を上回っております。官選の知事から公選の知事
に立候補して当選した知事が多かったのでありますが、岩手県では、官選の知
事に対抗して立候補した地元の篤農家が当選したり、北海道では、道庁の係長
で組合の委員長であった方が当選するなど、任命制の知事時代には考えられな
かったような新しい動きもあらわれてきたのであります。
 最後に四番目に、知事の直接公選と道州制の導入との関連はどうだったのか
という問題であります。
 地方制度の改革を審議した議会の議論でも、当時の学者や実務家の議論でも、
府県が完全自治体になるとすれば、国の地方行政区画としての道州制を導入す
べきであるという考え方が一般的でありました。例えば、知事の官吏制が議会
で問題になっていた四六年の八月十日の毎日新聞の社説には、このような主張
が載っておりました。
 公選知事を一挙に公吏にすると、勢ひ自県第一主義となり、食糧供出その他
に弊害を来すと懸念するものもある。この点、一応は傾聴すべきであるが、し
かしそれは府県そのものが経済単位として狭きにすぎるのである。むしろ、そ
のためには内政全般の地方分権化をねらひ、道州制といった広域行政の実現に
よつて、解決すべきであらう。
という主張であります。
 しかしながら、実際には、地方自治法の制定後にも道州制問題は棚上げされ
たままで終わったのであります。その理由は、現実の課題としていえば、内務
省の解体問題が出てきたのに加えて、さらに四九年にはシャウプ勧告が出され
るなど、むしろ自治体としての府県と市町村を強化する方向が進んだからであ
ります。
 道州制導入の具体的な論議というのは、五七年の第四次地方制度調査会での
「地方」制の導入が答申されるまで行われなかったのであります。しかも、こ
の「地方」制の答申というのは、新たに設けられる「地方」という広域単位の
長が公選制ではなくて総理大臣による任命制であるということで、世論の強い
反発を受け、実現することなく終わったのであります。
 このように見てまいりますと、憲法第八章が与えたインパクトとしては、皮
肉なことに、日本政府の指導者が最後までちゅうちょした長の直接公選制の採
用の影響というものが最も大きかったように思われるのであります。政府の指
導者は、住民の直接選挙によって政治の安定が脅かされるのを危惧したのであ
りますが、国民は、民主化の推進という観点からこの制度を受け入れ、自分た
ちのものにしていったのではないかと思われます。
 さらに、憲法の条文の上では地方公共団体の種類は固定化されなかったので
ありますけれども、長の直接公選制を媒介として、明治以来の府県と市町村と
いう二層制の地方制度が、その性格を変えて固定化することになったというふ
うに考えておる次第です。
 最後に、本日の私の話の全体のまとめをしておきたいと思います。
 まず最初に、憲法の制定経緯を見るに際しては、全体をマクロに見ていくと
いう方法も必要でありましょうけれども、ミクロに個別具体的な条文を見てい
く方法も必要ではないかということを私は考えております。第八章に関しては
比較的簡単な経過で条文が固まったのでありますが、ほかの章では必ずしも同
じような経緯をたどったわけではありません。それらの差異を無視して一括し
て制定経緯を特徴づけ、結論づけるということは、少なくとも学者の議論とし
ては、単純に過ぎると思われるからであります。
 また、第八章の検討を通じて最も鮮明にあらわれるのは、憲法と、憲法を実
現するための法律の関係という問題であります。憲法は変わったけれども、そ
れを実現するための法律は本当に変わったのか、あるいは変わらなかったのか
という問題は、憲法の制定経緯の一部をなすものとして、あわせて検討するに
値するのではないかと私は考えております。
 憲法の審議が始まった四六年の七月に臨時法制調査会というものが発足し、
憲法の改正に伴って必要となる法律の制定あるいは改正についての議論を始め
ております。この調査会は十月二十六日に十九本の法律案の要綱を答申しまし
たが、その多くが憲法の施行に間に合うように制定、改正されているのであり
ます。
憲法の附属立法といいますか、これらの立法作業を非常に短期間に進められて
おる、そうであるがゆえに、この憲法が持っておるさまざまな可能性というも
のがどれだけ実現されたのか、あるいはそれが閉ざされてしまったのかという
ことは、憲法の条文とあわせて検証する必要があるのではないかと思う次第で
す。
 しかしながら、私にとっては、個々の条文の制定経緯を見ていく方法の最大
の意義は、総司令部案を基礎としたとはいえ、この憲法を日本の憲法としよう
とした当時の人々の努力を理解することができると考えるからであります。
 話の中で引用いたしました佐藤達夫氏が一九五七年にお書きになった「日本
国憲法誕生記」という本が、昨年、西修教授の解説つきで文庫本として出版さ
れております。佐藤氏はこの本の最後に、憲法大臣として苦労をともにした金
森徳次郎氏が書いた以下のような言葉を引用して、自分の本の結びとしておら
れます。それはメモに引用しておきましたが、
 人々は憲法制定について、当時日本国民がどんなに真剣であったか、苦心努
力したかを忘却しかけた。そして憲法を鬼子として取扱うような傾向が高まっ
たらしい。それも一つの見識であるが、私はたまたま議会の速記録や当時の新
聞紙も読み、苦難の条件の下で国民が如何に心血をそそいで考慮を尽くしたか
を察し珍らしく緊張した。私にとっては大抵の文学書を読むよりも興奮した。
民族発展の前途を考えて、国民は真に血みどろの苦心をした。そして、政治史
上の稀な記録を残したのである。
と書いておられます。
 憲法制定当時のことを直接に知る人が少なくなった現在、当時の人々の苦心
と努力を理解することは困難ではあるわけでありますが、個々の条文に即して
制定経緯を見るということによって、当時の人々がこの憲法に何を求めて苦心
をしたのかということを、ある程度は推察、理解することができるのではない
かと私は考えておる次第です。
 第二に、憲法の制定経緯を見るに際しては、単に条文がどのようにつくられ
たのかという狭い意味での立法過程を見るだけではなくて、それがつくられた
時代の背景との関係を見ていく必要もあるだろうということであります。
 一九四六年の二月一日に毎日新聞が政府試案のスクープをして、それが総司
令部で憲法草案を起草するきっかけになったと指摘されております。その翌日
の同紙のコラム「硯滴」は次のような指摘をしておりました。これは前の小委
員会報告書にも引用してあることでありますが、
 憲法改正調査委員会の試案を見て、今更のことではないが、あまりに保守的、
現状維持的のものにすぎないことを失望しない者は少いと思う。
  つまり憲法改正という文字に拘泥し、法律的技師の性格を帯びた仕事しか
できないので、新国家構成の経世的熱意と理想とに欠けているからである。今
日の憲法改正は単なる法律的の問題でない。それは最高の政治である。
こういうことが書かれておるわけであります。
 このコメントは、松本委員会の関係者の作業と当時の国民意識との乖離を如
実に示しているように私には思われます。
 当時、憲法論議を行った指導者が、国際情勢を考慮することが少なかったと
いうことはしばしば指摘されるわけでありますが、私は、それとともに、この
人たちは、戦争がもたらした国民生活と国民意識に与えた大きな変化というも
のを十分に考慮していなかったのではないかというふうにも考えるわけです。
いわゆる総力戦の時代、あるいは国民が総動員された戦時下で、国民は、苦し
い毎日の生活を送りながらも、将来の日本、あるいはあるべき政治のあり方に
ついて、ひそかに思いをめぐらせていたのではないかと思われるからでありま
す。
 一九四六年八月二十七日の貴族院本会議で、高柳賢三議員は、この憲法改正
案は、
 日華事変カラ太平洋戦争ニ至ル東亜ノミナラズ世界各地域ニ於テ流サレタ内
外人ノ血ト涙、軍ト官僚トノ政治的、経済的圧迫ニ苦シンダ日本国民ノ隠レタ
自由ヘノ要求、ソレ等ガ此ノ改正案ノ背後ニアルノデアルト考ヘルと指摘して
おられます。
 憲法制定当時の日本は、経済的には貧しく疲弊した状況にあり、国民はその
日の食糧にも困るような時代ではありました。しかしながら、惨めな敗戦を乗
り越えて、新日本の建設を願って前途に希望を見出そうとする時代でもあった
と思います。国民は、松本委員会の憲法改正案よりも、総司令部案を基礎とし
てつくられた憲法草案の方が、自分たちの自由への要求を満足させ、将来への
希望を託するに足ると考えたのではないでありましょうか。長の直接公選とい
う限られた角度からの考察ではありますが、私にはそのように思われるのであ
ります。
 以上で私のつたない話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうござい
ました。(拍手)
○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。森山眞弓君。
○森山委員 天川先生、大変よいお話を聞かせていただいて、まことにありが
とうございました。今までの憲法問題の論議では、私は少なくとも余り伺った
ことのなかったアプローチで、地方自治というものを中心にして、憲法の制定
経過というものを大変わかりやすく教えていただきまして、大変印象に残るよ
いお話であったと、感激いたした次第でございます。本当にありがとうござい
ました。
 私は、実は、ちょうど終戦のころ、まだ子供から大人になりかけのころでご
ざいまして、先生がお話の中でおっしゃいました戦争直後の混乱の時代、貧し
い時代、私たちにとってはひもじい時代でございましたが、それを今でもよく
覚えております。
ですから、今先生がお話しくださいました最後のあたりの食糧難のところは、
ああ、そういうことだったのかと改めて納得のいくようなことでございまして、
その中で私どもは、戦争が終わってほっとしたということと同時に、戦争のと
きよりも日常の生活はもっと厳しくなって、空襲こそなくなりましたけれども、
大変ひもじい思いの毎日であったというのを今ありありと思い出したようなわ
けでございます。
 しかし、昭和二十二年、その一年前に初めて女子にも開放された国立大学へ
私は入る機会がございまして、戦災で家は焼かれましたし、生活は厳しかった
し、食べるものもないという状況ではありましたけれども、女性の立場からは、
明るい未来が開けたという感じが非常に強くしたのでございます。いろいろな
意味で世の中が急展開いたしまして、毎日毎日新しいことが起こるという中で、
女性の立場は明らかにいい方へ着々と変わりつつあるというふうな感じが、子
供ながらにもひしひしと感じられまして、そういう意味で大変希望の持てる時
代であったというふうに思います。
 憲法自体はできたばかりで、昭和二十二年に大学に入ったわけですが、ちょ
うどその昭和二十二年の五月から憲法が施行されたわけで、四月に一年生にな
った私たちは、初めて明治憲法を教わらなかった、新しい今の憲法だけを習っ
た最初の世代であったというふうに思います。その新しい憲法を宮沢俊義先生
がとてもうれしそうな顔をして教えてくださったというのを思い出すわけでご
ざいます。
 この憲法によって初めて法的に確立いたしました男女の平等、それから教育
の機会均等の恩恵をこうむった最初の世代というふうな気持ちでずっと参りま
したものですから、やや物心のつき始めた大人になりかけたときに誕生した憲
法でもございましたし、自分のその後の道を開いてくれたものではないかとい
うふうに思いまして、常に憲法については重大な関心を持ってきたつもりでご
ざいます。
 その後、数年たって独立を回復いたしまして、自主的に憲法をつくるべきだ
という話が出てまいりました。いろいろな具体的な動きもあったように思いま
す。九条はもちろんでございますけれども、そのほかにもいろいろなことが取
り上げられまして、たしか昭和三十年のちょっと前ぐらいでしたか、その前後
に、民法もあんな民法にしたので日本の純風美俗が壊れたというような話にな
りまして、前に戻せというような動きがあったように思います。それを私たち
は大変心配しまして、また法律上の家制度が復活して、女性の権利を圧迫する
ようになるのではないかと本気で心配したものでございます。幸いそのような
ことにはならなかったのですけれども。
 そのほか、具体的な問題としては、例えば教育の上で大変重要な役割を担っ
ている私学に対する助成が第八十九条に触れるのではないかという話が出てま
いりまして、それは今でも始終話題になる話でございます。その上、日本の国
際的地位が高まって責任が重くなるに従って、PKOその他いろいろな問題が
出てまいったのは、既に同僚議員がたびたび取り上げられた話でございます。
 実は、先生が地方自治について詳しくお話しくださいましたので、その問題
について御質問をしなければいけないのかもしれないのですけれども、私はそ
の問題について深く勉強しておりませんし、きょう初めて先生のお話を伺って、
ああそうだったのか、初めてわかったというようなことがたくさんございまし
たが、質問する能力がございませんので、この貴重な機会をいただきましたの
で、私が前から疑問に思っておりました一つ二つのことを申し上げて、先生の
コメントをいただきたいというふうに思うのでございます。
 その一つは、国会のあり方ということなのです。二院制の問題とでも申しま
しょうか。世界には、元来一院制の国もございますし、また、このスピード時
代、とても二院をやっている余裕はないということで、二院制をやめて一院制
に変えたという国もあるようでございます。日本の中にもそれがいいという方
もいらっしゃるようでございますけれども、私は、適当な国政のためには二院
制で慎重を期するということは悪くないというふうに思いますので、これは重
要なやり方だと思っておりますが、それには運用の工夫がもっと必要ではない
かというふうに思うのです。
 それにはまず、両院がその選出基盤を工夫しなければいけないのではないか
ということを、この数年ずっと疑問に思っておりました。明治憲法のときは衆
議院と貴族院でございました。それが新しい憲法によって衆議院と参議院とな
りました。これは、いずれも憲法によって、国民の選挙による衆参両院という
ことになったわけでございます。
 当時は、衆議院は中選挙区と言われるやり方でありまして、人口割の代表で
ありました。参議院は、都道府県の代表である都道府県の選挙区の人と、それ
から全国規模の職種とか専門分野別の代表の形、学識経験者その他などが全国
規模で選ばれるという全国区でございました。それなりに両方の輩出基盤が違
いましたから、バランスがとれて、全体として国民の声を偏りなく反映するた
めにそれぞれの役目を果たしていたというふうに思うのでございます。
 参議院は、良識の府と言われまして、初めのころは元貴族院議員であったと
いうような方が全国区から輩出されたり、参議院の議論自体も、大変高邁な大
所高所からの名論卓説が聞かれたというふうに承知いたしております。それに
対して衆議院の方は、当然、数の政治ということになるわけでございますので、
その行き過ぎをチェックするために参議院があって、両々相まって民意を反映
し、正しい国の方向を決めていくというのに役に立ったというふうに思うので
ございます。
 それが、昭和五十七年からだったでしょうか、参議院が、都道府県代表の方
は変わらないのですけれども、全国区が政党の比例代表というふうになったわ
けでございます。いろいろな理由でそうなったということは理解しているので
ございますけれども、その結果、非常に参議院が政党化したわけでございまし
て、私は、これがいろいろな問題をその後つくったもとではないかという気も
するのでございます。
 さらに、その後、平成の初期になりまして、いわゆる政治改革論争というの
が非常に燃え上がりまして、選挙制度審議会というのにも諮った結果なのです
けれども、その答申に基づいて、衆議院も小選挙区と政党の比例代表というも
のの組み合わせになりました。
 私は、当時はまだ参議院議員でございまして、参議院におりましたが、その
衆議院の方の制度の改革を見まして、これでは、規模の大小はあるけれども、
衆議院と参議院が同じようなものになってしまうのではないかというふうに思
って、ちょっと心配した一人でございます。衆議院の方は、比例代表といって
もブロック別、十一のブロックに分けてということで工夫はしてありますし、
小選挙区の方は、参議院の都道府県を十分の一にも二十分の一にもしたような
小さな選挙区ですから、もちろん同じではないという説明はつきますけれども、
ただ大小が違うだけで、仕組みは同じになってしまったのではないかというふ
うに思うのでございます。
 私は、そのとき、国会というものはいかにあるべきかということをまず考え
て、国会は、チェック・アンド・バランスのために二院が必要だというのであ
れば二院を置く。その二院のうちの一院はどういう役目、二院目はどういう役
目、それにふさわしい代表を選ぶにはどうしたらいいかという順序で考えてい
かなければいけないのではないかというふうに思ったのですけれども、現実に
は、参議院の選挙制度改革のときは、あれは参議院の問題だからといって、参
議院の方が一生懸命取り組み、衆議院は参議院で決めたことをそのまま、では
認めようというような感じでありましたし、衆議院の選挙改革のときも同様で
ございまして、独自性と称して、余りお互いに口を出したり邪魔をしたりしな
いというような暗黙の了解があるのでしょうか、多少の遠慮もありまして、別
々に自分たちだけのことを考えるという傾向があるのでございます。
 そのために、自分の家だけはちゃんと一応まともになるのですけれども、そ
れが、大変密接な関係のある、お互いに助け合わなければならない隣の家と全
く同じようになってしまう。ちぐはぐになったり全く同じようになったりして
しまうのでは、トータルな国会としては非常に問題なんじゃないかというふう
に思います。
 ですから、当時、選挙制度審議会が大いに衆議院の選挙制度を議論しており
ますときに、私は、個人的に知っておりました学識経験者の一人である人に、
今私が申したような順序で考えるべきではないかということを強く話したこと
があるのですけれども、その学識経験者なる方も、まずは衆議院を考えてとい
うふうにおっしゃいまして、全体的にどうするべきかということを考えてくれ
る人がいなかったというのは甚だ残念なことでございます。
 その結果を受けて、今行われている衆議院の選挙制度ができ上がりまして、
参議院ではこの答申を見まして、衆議院の選挙がこうなるのならば参議院もま
た工夫しなければいけないのじゃないかという意識がございまして、参議院自
身のさらなる改革について検討いたしました。議席数をただ変更するというよ
うな割に簡単なものから、全部比例代表にしたらどうかとか、全部個人名を書
く昔の全国区だけにしたらいいのじゃないかとか、都道府県の代表にするとか、
いろいろな折衷案や併合案などが出まして、私の記憶では、たしか十三ばかり
案が出たのでございます。私も、実は森山私案と言われるものを提案したりい
たしましたのを覚えております。
 しかし、思い切って直さなきゃいけないと思いまして検討していきますと、
必ず憲法にぶつかってしまうのですね。十三も出しましたいろいろな案を検討
して、これはちょっとというのをはじいていって、最後に大変有力なのが一つ
二つ残ったのでございますが、その有力な、多くの人がこれならいいのじゃな
いかと言った案の抜本改革案として注目された一つは、職能代表、学識者代表
などを公平に推薦する機関を設けて、そしてその推薦に基づいて決めようじゃ
ないか、そういう方式であったのです。
 これをかなり真剣に議論いたしまして、何とかして国民によって選ばれた代
表であるという形をとることはできないかというのを、法制局まで入ってもら
って勉強したわけでございますが、どういうふうに工夫しても、憲法第四十三
条の「全国民を代表する選挙された議員」という言葉にぶつかっちゃうのでご
ざいます。それでそれはあきらめられ、結局今も前と同じようなことをやって
いるわけでございます。
 世界で二院制を持っている国というのは六十七とかあるそうでございますが、
その中で両院とも有権者の選挙によるというのは少なくて、主な国では日本の
ほかアメリカぐらいではないかというふうに思うのですけれども、アメリカは、
下院が小選挙区でございまして、それから上院は大小を問わない州の代表とい
うことになっておりますから、下院と上院の役割、同じように選挙されるにし
ても役割や立場、選挙母体というのが大いに違う、性格がはっきり違っている
ということはよくわかるわけです。ほかの国も、イギリスは貴族院だし、カナ
ダは任命制ですし、ドイツは知事さんなんかが兼務する州政府の代表が上院だ
というようなことを聞いておりますので、両院の違いというのは明らかなんで
すね。
 残念ながら、ただ日本の場合は、今私が申し上げたようなわけで、例えば、
衆議院は首班指名とか予算とか条約の審議などの面で多少参議院よりは権限が
違うということはございますけれども、ほかの場合は、特に法律の問題につい
てはほとんど権限も同じでございますし、両院がいずれも大所高所から長期的
な立場、視野に立って政策論争をするということがなかなかできなくなってし
まっているのは、どうも目先のことにばかりこだわる、そうならざるを得ない
ような選挙の仕組みであるからなのではないだろうかというふうに、両院とも
にそうなってしまっているからではないかなという疑問を私はずっと持ってお
りました。これでは二院制の意味がほとんどなくなったと言ってもいいのでは
ないか。
 そのために、政治が何となく閉塞感があると言われたり、政治不信が起こっ
たりということの一つの原因をつくっているのではないのかな。本当に政治改
革をしていこうと思ったら、そこまでやらなければいけないのじゃないかなと
いうのが、私のこのところ何年か考えていた疑問なのでございます。
 両院がそれぞれに特徴を持って補完し合うという形が、望ましい二院のあり
方だと思うわけでございまして、そのようなことを考えますと、この国会のあ
り方についての憲法の条文、少し、まあ相当思い切って考え直さなければいけ
ないんじゃないかというのが私の私見でございます。
 現在の憲法の制約を外して、国民の世論を正当に反映しながら、激動する世
界情勢の中で力強くスピーディーに対応していくのには国政はいかにあるべき
か、国会はいかにあるべきかということを根本的に考えなければならないと思
うのですが、先生は、この点については何か御指導いただけることがございま
すでしょうか。
○天川参考人 なかなか難しい問題でありますが、私も主に制定経緯のところ
を勉強しておるわけでありまして、特に制定経緯の中でも、先ほど申しました
が、国会のところについては要するに細かく見ていないのでありますが、まず
その点から申しますと、御承知のとおり、総司令部案は当初一院制でございま
したですね。これを松本委員長が押し返してといいますか、二院制を復活させ
たということになっているわけです。
 それで、一九七〇年代ぐらいでありましたか、国会についての論文を書いた
ベアワルドという国会の研究者の人がいましたけれども、当時、参議院で野党
が多くなり、法律がなかなか通らないということになって、自民党の幹部の方
が困っている、何で二院制にしたんだというようなことをベアワルド氏に話し
たというようなエピソードがちょっと残っておったことがあるわけですが、と
もかく、二院制に押し返したのは日本の側であって、その場合にどういうこと
が考えられていたのか。多分、違うチェック・アンド・バランスということが
考えられていたのだと思います。
 それで、今の両方とも選挙で選ぶということは、多分それは、やはり一つの
歴史的な経緯といいますか、貴族院があったのが、先ほど申しましたことでい
えば、民意を反映しないといいますか、特権的な立場にあるということだった
のでそういうことが強調されていったのだろうと思います。
 その制約の中で、どういうふうな参議院の選挙を行うのかということで、実
はこれが、先ほど申しました、例えば臨時法制調査会の中の十九本の法律の一
本は参議院議員選挙法なんです。それで、これについては、当時から、戦時中
からたくさんあったのは職能代表の考え方でありますので、そういう案もあっ
たわけですが、そうすると、かなりテクニカルに難しいというような問題もあ
ったのだろうと思います。それで当初の地方区と全国区という形になったので
はないかというふうに思います。
 この制定経緯について考えるとすれば、そのあたりのところがやはり問題だ
ろうと思いますが、結果において地方区と全国区ということになったわけであ
りますが、その間に、いろいろなバラエティーで、どういう参議院を構成する
のかということはたしか検討されているはずで、そういうことが後の選挙制度
等でも参考にされたのだろうと思います。
 この時期の問題を中心にお話しするとすればその程度のことでありますけれ
ども、確かに、大きく変える必要があるのかどうかというと、私の記憶してい
るところによると臨時法制調査会で国会法の案もつくったのでありますが、こ
れは、議院法を改正して国会法をつくるというのは、国会の主導性といいます
か、それでやるのだという、いわば国会の自律性。それが先ほどおっしゃった、
衆議院と参議院もまたそれぞれ自律しているという、これがいい慣行なのか、
私よく存じませんが、特に国会の場合は慣行のようなものを非常に重視すると
ころでもありますので、そういうことが障害になっているという側面もあるの
かな、その程度のことでございます。
○森山委員 大抵、大きな法律を改正するというようなことが起こりますと、
審議会というものを設けまして、そこの御意見を尊重してということになるの
ですけれども、今、私が提起いたしましたようなことを本気になって審議して
いただくような審議会というのはないわけでございまして、まさにこの調査会
こそそれではないかというふうに思ったものですから、私の問題意識をちょっ
と提起させていただいたわけでございます。
 それから、もう残り時間が少なくなりましたので一言だけ、もう一つの問題
をちょっと触れさせていただきますと、実は私、昨年の五月でしたか、児童買
春ポルノ禁止法という法律を議員立法で提案いたしまして、成立させました。
 これは、東南アジアその他で、世界じゅうで百万とも百五十万とも言われて
いる被害児童の人権を守るということと、日本の国内でも大変無軌道な少女売
春がふえているということをなくすというのが目標でございまして、すべての
党の賛成をいただいて成立いたしたのでございますが、その立法過程の中で反
対が一部ありましたのは、言論界からでございまして、十八歳未満の児童を使
ったポルノをつくったり売ったりしてはいけないという条項があるわけなんで
すが、これが表現の自由という基本的人権に反するのではないかというふうに
言われたことでございます。
 もちろん、表現の自由というのは大変重要な基本的人権ではございますけれ
ども、だからといって子供の人権をじゅうりんしてもいいということにはなら
ないではないかというようなことで、結局、私はそういうような説明をして、
納得していただいたわけですが、憲法の上では十二条あるいは十三条、公共の
福祉の内容の問題なのではないかと思います。
 人権の過度の主張というのは、他の人の人権を侵すことになるわけでござい
ますし、表現の自由というのは、勝手、わがままの自由ではないわけでござい
ますので、この公共の福祉ということについて、例えば最近は環境の権利とか
プライバシーの権利とかということも具体的に言われ始めていることでござい
ますし、もう少し具体的な指針を示した方がいいのではないかなということを
ちょっと考えているのでございますが、その点について、先生はどのようにお
考えでいらっしゃいましょうか。
○天川参考人 確かに重要な問題だと思うのでありますが、まことに恐縮なの
ですが、私は今回、主として制定経緯の専門家といいますか、そういうような
ことで参っておるつもりなのでありまして、多分それは、一種の政策論なりあ
るいは哲学の問題なりというふうにも関連すると思いますので、そういうこと
であれば、もっと私よりも適当な方がおいでになるのではないかというふうに
考えますので、ちょっと恐縮ですが……。
○森山委員 大変勝手な質問を申し上げて、恐縮でございました。ありがとう
ございました。
○中山会長 鹿野道彦君。
○鹿野委員 天川先生、きょうは本当にありがとうございました。大変無理し
て私ども衆議院の憲法調査会にお越しをいただきまして、恐縮に存じておりま
す。
 そしてまた、制定過程につきましては、第八章というところに具体的な形で、
我々、将来どのような社会を目指すのかということにおきまして、大変参考に
なり、意義あるお話を賜りまして、本当にありがとうございました。
 そこで、本日のテーマに入る前に一つ先生のお考えをお聞きしたいのでござ
いますが、私ども民主党は、論憲という立場を主張しておるわけであります。
これは、単なる憲法を議論したらいい、議論しようよということだけではない
のであります。基本的に二十一世紀の社会、どういう構想を持って国をつくっ
ていくか、同時にどのような社会を目指すのか、そういう中で憲法とのかかわ
り、どういう憲法がふさわしいのか、こういうふうなことを議論していかなけ
ればならない。時代が今、議論を求めているのだ、こういうふうな認識に立っ
ておるわけであります。
 そういう意味で、先ほど先生からも、当時の国民の思いというものも、苦し
い中においても将来にそれぞれが思いをしながらの討議ではなかったか、こう
いうふうなお話もございましたけれども、そういう意味で先生から、私どもの
論憲、論憲というのは立場ではないなんというふうなことを言う人もおるので
ございますが、先生のお考えをお聞かせいただければ、こんなふうに思ってお
ります。
○天川参考人 論憲という立場についてどうこう言うつもりは、必ずしもよく
わかっていないところもありますが、きょう私が最後のところで引用いたしま
したのは、そういうことでありまして、憲法を論ずるといえば、憲法の条文を
どういじるかとかそういう問題よりも、やはり経世あるいは理想、国家の経営
あるいは二十一世紀のあり方、まずそういうことを考えることが最初なのでは
ないか。
 それを実現するためにどういう形ですればいいのかということは、これは法
律家に任せればいいわけだけれども、やはりそういう意味では、私は政治家に
語っていただきたいのは、これでどういう未来ができるのだ、あるいは我々は
どういう未来を目指そうとしているのだ、それが国民に希望を与えるかどうか、
そういうことがポイントなのかなと私は考えておるということです。
 それが論憲に当たるのかどうか、私はよくわかりませんけれども、まずそう
いうものがあって、言うなればビジョンがあって、それをどう法律的な言葉に
移していくのか、そういう順序なのではないかというふうに私は考えておりま
す。
○鹿野委員 ありがとうございます。
 まさに、今先生がおっしゃられたとおりに、どういう国を目指すのかという
ふうなことを、まず政治家として取り組んでいかなきゃならない。そのことを
思いますと、この憲法調査会も、私どもが主張してまいりましたとおりに、大
きな視点に立って、スケールの大きな議論をこれからも展開していかなきゃな
らない、こんなふうに改めて認識をいたしたところでございます。
 そこで、先生にいろいろとお聞かせいただきたいと思いますが、私ども民主
党は、実は、二十一世紀の社会を考えたときに、今日の政治、経済、社会、あ
らゆる分野において行き詰まっている状況というのは、中央集権的なシステム
に問題がある。
いわゆる中央が画一的に、統制的に物事を判断し、そして配分をしていく、そ
ういうふうな行き方というものは、もう完全に限界が来ておる。そのようなこ
とから、我々とすれば、自分自身が、それぞれが自立をして生活できる、また
地域をつくっていくことができる、そういうふうな社会を目指していかなきゃ
ならない。このようなことで、いわゆる分権連邦型国家というふうなものを提
起いたしておるわけでございます。
 ただ、そのときに考えていかなきゃならないのは、都道府県を超えたところ
のいわゆる広域行政のあり方というふうなものをどう描くかということじゃな
いかと思っておるのであります。
 そこで、先ほども、占領下におけるところの地方自治改革の議論の中で、道
州制の導入等々のお話も先生からあったわけでございますけれども、我々が今
のような基本的な考え方の中で改革というものを目指す上において、やはり当
時のポイントは、都道府県の完全自治体化と、いわゆる知事の公選制、知事を
直接選ぶ、そこが大きなポイントである、こういうふうなお話でもあるわけで
す。
 そこで、私どももやはり知事公選制度というのは大事にしなきゃならないと
思いますけれども、広域行政といわゆる知事公選制との関係を、我々が分権連
邦型国家というふうなものを目指す上においてどう整理していったらいいのか
というところについて、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○天川参考人 なかなか難しい問題だと思います。
 実は私は、ちょっと個人的なことで恐縮なんですけれども、学生をやりまし
たのは一九六〇年代の初めだったのですね。それは、先ほど申しました五七年
の地方制度調査会の答申が出ました後ですから、道州制の問題というと、それ
がつぶれた後でもあったので、何か非常に悪いものというのか、当時の言葉で
言うと、一種の逆コースの中の一つの動きのものなのかなというふうに思って
おったわけなんです。
 その後、こういうふうに勉強してみますと、もちろん戦時中にもあったわけ
でありますけれども、戦後すぐ、道州制の問題が、新憲法のもとでも必要だと
いうような議論がまじめになされておるのを見て、ある意味で非常に新鮮な驚
きを感じたわけであります。それは、先ほど申しましたが、外務省の文書の中
にもあったわけですし、大蔵省の中には、愛知揆一文書課長等がそういう案を
書いておられるのがあるわけです、これは戦後十月ごろでありますけれども。
 ですから、そういう意味でいうと、制度の枠組みとして見ると、道州制とい
うことは、余りかかわりなく必要だということがあったのだろう。しかしなが
ら、そこをどういうふうに考えるのかということで、公選制が非常に強く印象
づいたものだから、葬り去られたような形になったのかなというふうに考えて
おるのです。
 それで、道州制が必要とされる一つの理由は、国の地方行政ということで、
広域行政ですね。ですから、そこで二つの問題があって、一つは国が全部やる
のかどうか、もうちょっとこれを地方に任せるのか。地方というものをどうい
う形で構成するのかという問題が常に関連しておるわけで、国がやるんですよ
というふうになるとすれば、これはやはり国家公務員ですよ。ですから、五七
年の「地方」制が任命制をとったのは、国の仕事を広域でやるんだから、それ
は国家公務員でなきゃならない、任命制でなきゃならない、こういう理由だっ
たのだろうと思うんです。
 ですから、そこのところをどういう形で考えるか。ある程度国の仕事を地方
に移譲して、そしてそれを持ち寄って、地方の人が相合わせて広域的な行政の
システムをつくるという考え方があり得るだろうと思うのです、先ほどおっし
ゃった分権連邦型というのはあるいはそういうものなのかもわかりませんけれ
ども。ですから、国の行政のあり方と地方の行政の配分の仕方といいますか、
その問題と大きく関連しているのではないかというふうに、ポイントだけ理解
しております。
○鹿野委員 もう一点、この件につきまして先生のお考えをお聞かせいただき
たいのでございますが、「地方自治の本旨」というふうなことにつきましても、
先ほど先生からお話がございました。九十二条の「地方自治の本旨」、あるい
は今日の実態の中で、国の役割と地方の役割というのは本当にはっきりしてい
るのかといえば、非常にあいまいだと。現実に、憲法には政府というふうな文
言は入っていないわけでありますけれども、実態としては中央政府がある。し
かし、地方政府というふうなものは現実にない。いわゆる地方公共団体。
 いわば、その考え方として、国と地方の役割の明確化ということならば、中
央政府と地方政府というふうなことをきちっとそこにうたって、そして、その
ことによってその役割も明確になるし、「地方自治の本旨」というものもはっ
きりしてくるのではないか、こういうふうな考え方にもなるのではないかと思
いますが、先生のお考えをお聞かせいただければと思います。
○天川参考人 私は占領期のことをやっておりますので、ちょっとつけ加えま
すと、地方制度の改革が行われたのでありますが、アメリカ人の考えている地
方制度のモデルというものと日本でこれまで考えられていた地方自治というも
のとは、随分違うのではないかというのが私の感じておったところなんですね。
 それで、日本では地方自治体が言うなれば国の仕事をするというのも当たり
前のことといいますか、地方行政と国の行政を一つにまとめてやる、これは県
の場合も二重の性格というのがあったわけですけれども。そういう型であるけ
れども、アメリカの方は、どうもそこを二つないし三つに政府ごとに分けてい
るというような印象を持つわけです。それを融合型と、これは日本の型ですが、
分離型というふうに私は呼んでおるわけです。
 シャウプ勧告というのは、実は中央政府と府県と市町村というものの仕事を
はっきり分けているわけですね。ですから、あるレベルのガバメントが何かの
仕事を二重にするということはあり得ない。ところが、日本ではそこを重ねて
やるわけで、これを融合型と言うわけですが、ですから、これが補助金の話に
なったりとか、いろいろな錯綜した関係になるということでもあるわけです。
 ですから、一つの考え方としては、なるべくそういうふうに機能を分けてい
く。国のするべき仕事はこうである。地方がやるべきはこうである。地方の中
でも、市町村と府県とはこうである。これがシャウプが与えた考え方であり、
多分、その後日本で引き継がれているのは、あの五〇年の神戸勧告といいます
か、そういう考え方だろうと思いますね。
 ですから、一つの考え方としてあり得るのは、分離して、明確化して、責任
をはっきりさせていくという考え方はあり得ると思います。しかしながら、団
体自治、住民自治というような概念は、これは以前からある融合型の制度に成
り立っておるところの地方自治をもとにした概念ではないかと私は考えており
ますので、もし言うのだとすれば、違った形を言葉で考えて表現した方がいい
のではないかというふうに考えておる次第です。
    〔会長退席、葉梨会長代理着席〕
○鹿野委員 もう一点お聞かせいただきたいのでございますが、先ほど先生か
ら、憲法を実現するための法はどうなっているのかというところをやはりきち
っと検証すべきだ、こういうふうなお話もございました。
 実は、私ども民主党として、一昨年、今日の我が国の内閣制度のあり方とい
うものもどうも構造的な問題があるんではないかということで、いろいろ勉強
をいたして、具体的な提起をいたしておるところでございます。その中で一つ、
例えば内閣法のことにつきましても、憲法六十五条以下に書かれておる内閣法
と、いわゆる内閣法におけるところの運用というものが、どうも違った形で運
用されているんじゃないか、違う解釈がされているんじゃないかというような
ところがございます。
 時間がございませんので、その点は具体的には省略させていただきますが。
そのことを思いますと、これから地方自治法等々、憲法のもとで、いわゆる附
属法規というんでしょうか、そういうところをきちっとやはり定めていく必要
があるんではないか、こんなふうに考えるわけでございますけれども、その点
についての先生のお考えをお聞かせいただければと思います。
○天川参考人 私も詳しいことはわかりませんが、明治憲法のころは憲法附属
法規というものが何かきちっと定まっていたようなのでありますけれども、現
憲法における附属法規とは何かという定義があるのかどうか、これは私はちょ
っとわかりません。どうもそういう概念はないのじゃないのかなと思うのであ
りますが。
 先ほどその問題を申しました一つの理由は、最初の改正というのは地方自治
法以前で、府県制、市制、町村制の改正、知事官吏制。これは、新しい憲法の
もとでも続く制度であるというような形で政府が出しているわけですね。とこ
ろが、議会で修正されて地方自治法になったら、これは知事公吏制。要するに、
同じ憲法をもとにした制度として、法律をどう変えるかで非常に大きく変わる
ということがあるということであります。
 内閣法のことについては、私も以前調べたことがあるのでありますが、非常
に大きな幅があって、ちょっと今日は用意をしておりませんけれども、憲法そ
のものが言っていることと、現実に法律として選択されたこととの間にはやは
りギャップがある。ですからそこの、憲法がはらんでいる、先ほど可能性とい
う言い方をしましたけれども、それはやはり検討するに値するんじゃないか。
法律がおかしいからといって、憲法がおかしいというわけでもないでしょうし、
先ほどの森山委員のお話のように、憲法でどうしようもないような限界がある
場合もあるでしょうし、そこは腑分けしながら考えていく必要があるだろう。
 だけれども、行政法は即憲法の要求していることを実現しているかどうかと
いうことは、やはりワンクッション置いて考えるに値するでしょうし、特に、
さっき申しましたように、選挙法はよく変わっておりますけれども、そうでな
いのはほとんど変わらないで、ごく短期間でつくられております。それは注意
しておく必要があるんじゃないかということがポイントであります。
○鹿野委員 ありがとうございました。
○葉梨会長代理 平田米男君。
○平田委員 きょうは先生、大変ありがとうございました。
 私の方からは、マッカーサー・ノート、それからGHQ案、また、その後芦
田修正あるいは文民条項を入れてきた、こういう経過がございますが、このよ
うな歴史的な制定過程の流れを先生はどのように理解をしておられまして、憲
法九条の解釈のあり方といいますか、それをどのように制定過程の中から読み
取るべきなのかということをひとつお聞かせいただきたいというのが一点でご
ざいます。
 先ほども先生、いろいろ苦心をしたというお話もされましたし、また、国民
の隠れた自由への要求あるいは平和への要求もあったと思いますが、そういう
ものが反映した憲法だという評価をされたわけでございます。このような、特
に自衛のための戦争というものをマッカーサー・ノートでは明確に放棄をして
おったわけでありますが、それはどんどん、条文になっていく中で変わってい
くわけでございますし、極東委員会は再軍備の可能性も考えて文民条項を入れ
てきた。この経過を我々としてどう見るのがいいのかという先生の御判断をひ
とつお教えいただきたいと思います。
 それから、今度は講和条約でございますが、その第三章、安全、第五条の
(c)項に、「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一
条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団
的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」こういう
ふうに明確に書かれているわけでございますが、憲法九条の制定過程と、日本
が独立するに当たってのこの講和条約の条項との関係をまたどう読んでいった
らいいのか、どう関連づけていったらいいのかということもお教えをいただけ
ればと思います。よろしくお願いいたします。
○天川参考人 私は、きょうは、同じく戦後になってできた第二章が新しい章
であることは私も十分存じておりますが、第八章の話を主にしたわけでありま
す。
 最後に申し上げましたが、やはり個別の章を見ていく必要があるだろうとい
うことで、第二章については、もうこれは委員の先生御承知と思いますが、佐
々木高雄先生の「戦争放棄条項の成立経緯」という物すごい研究がありますね。
九条を論じたものだけで一冊の本になっておるというものがありますが、私は
そちらは、とてもじゃないがこういう研究には及ばないのでできないよという
ことで、余りやっていないわけであります。
 ですから、あとは一般的な話で、これはどなたからお聞きになってもほぼ同
じようなことだろうと思いますけれども、戦争放棄という章を設けたマッカー
サー・ノートが意図したことは、要するに、戦争放棄そのものもさることなが
ら、やはり天皇制の問題といいますか、その問題とのかかわりがあったのでは
ないかと思っているわけです。要するに、先ほど申しましたこととのかかわり
で言えば、日本を非軍事化するための一つの大きな目的というのがあったわけ
で、それをなぜやるかというと、やはり天皇制と結びついて軍国主義化という
ことが考えられていたわけでありますから、それとのかかわりで、マッカーサ
ー・ノート以降、今の九条の問題が出てきておるのではないかと私は理解して
おるということであります。
○平田委員 何か御専門でないというお話でございましたので、では、話を変
えたいと思います。
 では、きょうは地方自治に限っての話がよろしゅうございますか。(天川参
考人「憲法の制定経緯ということを伺っておるので」と呼ぶ)ああ、そうです
か。憲法制定経緯という過程で今九条のことは、九条のもろの解釈というより
も、どういう流れの中でそれを見ていったらいいのかということを御説明いた
だければと思ったのでございますが、また、そのでき上がった憲法と講和条約
を、明確に書かれているものとどう関連づけて考えるべきなのかという問題意
識を持ったものですから、御質問をさせていただいたわけでございますが、憲
法制定過程と余り関係ないという御判断のようでございますので、質問を変え
た方がよろしければ変えさせていただきますが、先生、何か御発言ございます
か。いいですか。
 では、地方自治だけという話でございますと、そのように限定して私の方も
ちょっと準備をしてこなかったのでございますけれども、今の二重の、市町村
制と都道府県という制度があるわけでございます。先ほどの「地方自治の本旨」
という観点からしますと、これは、基本的には法律に任されているわけですか
ら、どちらでもいいんだという話になりますが、今我々の議論の中では、自治
体をもう少し大きくして、三百ぐらいの自治体にして、それぞれ独立した、き
ちっとした地方権限を持った方がいいんじゃないか、こういう議論もあるわけ
でございますけれども、憲法が期待するものとして、どちらが憲法の期待に近
いものなのか。二重構造の方がいいのか、あるいは二重構造でも道州制があっ
た方がいいのか、あるいは、今申し上げたように、国と、直接それぞれのもう
少し大きな自治体が独立をして地方分権の責任を担っていった方がいいのか。
これは先生、何か御意見がありましたらお聞かせいただけますか。
○天川参考人 最初におっしゃったことでありますけれども、何も地方自治に
限定するという意味ではなくて、私は、ここは憲法の制定経緯を研究するとい
いますか調査するというふうに伺っております。それで、九条のことについて
も先ほどは申し上げたつもりなんですけれども、マッカーサー・ノート以来の
問題というのは第一条の問題と関連があったのではないか、そういうことでつ
くられておる戦争放棄の考え方の問題だったのではないかということをお答え
したつもりなんですね。ですから、地方自治に限定しろといって頼まれたわけ
でもないわけですので、制定経緯のことについてお話をするということであり
ますが、私は、比較的注目されることの少ない第八章についてお話を申し上げ
たということでございます。
 それで、今のことでございますけれども、ここで、憲法がどのような自治体
のあり方を想定しているのかということですね。二層制であるのか、あるいは
道州制と市町村だけにするのかについては、果たして憲法がどういうようなこ
とを考えているのかということについては、特に私は意見がどうだということ
は言えないと思うんですが、やはり一番大事と思われることは、住民に近い、
いわゆる基礎自治体というんでしょうか、それを廃止することはまずできない
でありましょうし、そういうところが自治の担い手といいますか、そういうも
のとして考えられているということはまず大きくあるでしょう。
 あとは、もう一つの問題としていえば、それこそ社会経済の発展状況に応じ
て、時々の立法政策によって変わっていき得るということはあるんでしょうけ
れども、今の府県があるということは、やはり一種の歴史的な経緯と申します
か、そういうものが非常に大きな意味合いを持っているのではないかなという
のが私の印象であります。
○平田委員 以上で結構です。ありがとうございました。
○葉梨会長代理 春名直章君。
○春名委員 日本共産党の春名直章です。
 大変貴重なお話をありがとうございました。私は、第八章の制定過程に絞っ
て御質問をさせてもらいます。
 知事は官選、市長も市会の推薦する候補者の中から内務大臣が天皇の裁可を
得て決められる。町村長も町村会の選挙で知事が認可をするという仕組みです、
戦前の話ですけれども。内務大臣が議会解散権を持つ。そして、お話が出たよ
うに、四三年の世界大戦末期には、天皇、内務大臣、地方行政協議会、都道府
県知事、地方事務所長、市町村長、部落会・町内会長という、上から下まで侵
略戦争に動員される仕掛けが完結をする、こういうことになりました。
 大きな目で見れば、戦前のこの反省から、地方自治の確立が戦後の日本の民
主化にとって不可欠の要素なんだ、こういう角度でこの第八章が加わったと私
は理解をしておりますし、だからこそ国民が支持をしたというふうに考えるん
ですが、この点、まずどうでしょう。
○天川参考人 なかなか答えにくい問題ではありますけれども、今おっしゃっ
たような、私、先ほども、戦時体制への反動といいますか、そういうようなこ
とで申しましたが、戦時下の四三年改正が行われる際に、帝国議会では、衆議
院でありますけれども、相当議論があったわけですね。それは、この改正はこ
れまで積み重ねてきた自治を抹殺するものだ、こういうことは戦時下であって
も望ましくないというような議論があったわけです、これは議事録に出ており
ます。にもかかわらず、それがつくられていったということであります。
 そういう意味では、今の言い方をするとすれば、この経験といいますか、そ
れに対する批判といいますか、それは、先ほど申しましたように、それまで積
み重ねられてきていた日本における明治以降の自治の発展をやはり逆転させる
ものだったので、ある意味では、それをもとへ戻して、そしてそれをより拡大
させる、そういう方向の流れで知事の公選論等も出てきて、実現していったん
だというふうに私は考えております。
○春名委員 それで、先ほどの話の中で、憲法制定過程の中で民間の案も出ま
す、政党案も出ます、政府の案も出ます。ところが、地方自治のチの字もない、
まあ佐々木さんの案にはあったわけですけれども。そういう姿を見てGHQが、
例えば本国に報告書を出していますね。「日本の政治的再編成」の一部である
「日本の新憲法」という報告書の中で、例えばラウレルが、地方自治の規定が
ないことは、「それが現実の日本国家を全く従前通りにしておき、日本の政治
構造上あのように強い特徴であったいろいろな憲法外の機関を、法律の適用の
外に置くのであるから、もちろん、致命的なことである。」こういうことを述
べていますし、それから、全体を見て目立って欠けているものとして、地方自
治の提案がないこと、こういう指摘をして、報告書も送っているわけですね。
 どうしてこんな事態になっちゃったんだろうかというのが私の率直な疑問で
して、これほど重要な民主主義の中心をなすべき地方自治という問題が、当初、
制定過程の中でほとんど見られないというのはなぜかということなんです。
 それは、私の認識が間違っていたらあれなんですけれども、戦前は、地方制
度というのはあったけれども、地方自治というのはなかったと思うんですよ。
自治、つまり住民が自分の意思で物事を動かす、また意見を発意する。地方制
度としては充実してきたのかもしれないけれども、自治というものがなかった
ので、やはり地方自治というものを憲法に入れるということ自身が余り問題に
ならなかったのかな、こういうイメージを私は持っているんですけれども、参
考人の御意見を聞かせてください。
○天川参考人 私は若干異なった感じであります。
 なぜ地方自治について余り考えなかったのかというと、憲法改正案を考えた
人たちが法律技師的に考えて、前の明治憲法にその章がなかったからだろうと
いうふうに、非常に単純に言えば、そういうふうにも考え得るというのが一つ
であります。
 それともう一つ、自治制という形でいうと、市制、町村制の導入以来、自治
というふうに言われてはおるわけです。ですから、地方制度というふうに言わ
れるわけでありますが、それは自治制という言葉で言われて、私はその限りに
おいてはあったと思うんですね。
 先ほど申しましたが、住民自治、団体自治という言葉は、これは何も戦後に
なってできた言葉ではなくて、戦前の行政法、その自治制等においてもすべて
出ている言葉なんですね。
 ですから、その限りにおいて地方自治というのはあった。その中身をどうい
うふうに理解するかということは一応別でございますけれども、私の理解では
そういうものはあったということで、若干異なる意見を持っております。
○春名委員 そこら辺が僕もまだ勉強不足なものですからあれなんですけれど
も、それの流れの中でもう一つ質問します。
 先ほどの御説明の中で、基本精神をあらわして、明治以来の地方自治の継続
ということから、GHQ案にはなかったが、「地方自治の本旨」、いわゆる九
十二条が日本側から修正提案をされて挿入される、こういう経緯をたどってい
るということをおっしゃいました。
 率直な疑問を言います。そういう政府が、そのかなめであると私が思う首長
公選制についてはいがとして抵抗するというのは、非常に矛盾のように感じて
しようがないわけです。
 つまり、「地方自治の本旨」というのは、住民の自治であり、団体の自治で
あります。そのかなめは、住民の意思の表明であります。そういう点で言えば、
公選制、これはもう当然の地方自治のかなめの大きな柱だと思うし、だからこ
そインパクトがあったのだと思うんですけれども、そういう「地方自治の本旨」
ということを挿入される、修正提案をする日本側が、旧権力が、しかし、公選
制については抵抗される。これは非常に私自身は矛盾を感じてしまうわけであ
ります。
 この「地方自治の本旨」というのは、当時、一体どういう意味合いのものを
言っていたのか、そこもよくわからないわけです。その点についてぜひ御説明
をいただきたいと思います。
○天川参考人 ちょっと聞き取りにくかったところがあったので誤解があるか
もわかりませんが、「地方自治の本旨」という言葉は、これは戦後の憲法で出
てきたんだと思うんですね。それが一つ。
 それと、公選制ということでも、先ほど区別をして申しましたが、直接公選
と、そうでない間接公選という言葉があります。
 それで、先ほど、自治ということは市制、町村制にあったということを申し
ましたけれども、それは、地方議会が市町村長等を推薦して選ぶといいますか、
今の国会と同じようにですね。ですから、最初選挙をして、その人たちが二重
に選ぶというのは、これは公選制であるというふうに考えておるわけです。そ
れは市議会のモデルで、それをモデルとした知事の選び方をしたいということ
が、これは先ほど申しましたが、昭和の初めからあったわけですし、それを戦
後の憲法でやろうとしていた。
 いわゆるダイレクト・ポピュラー・ボートといいますか、それのイメージは
余りなかったんじゃないか。ですから、当初考えていた、議会を選んで、議会
から市長なり県知事を選ぶということは、これは公選と矛盾するわけではない、
こういうことだったと思います。
○春名委員 ありがとうございました。
 それでは、現代的な問題に引き寄せて少し聞きます。
 こういう意見があるんです。現行憲法の中に自治体の課税自主権の規定がな
いわけです。ですから、そのことも改正の一つに挙げたらどうかという意見が
一部にあります。
 しかし、私の認識では、「地方自治の本旨」というのは九十二条で、漠然と
している表現ですけれども大事な表現が入っていまして、今お話が出たように、
団体自治であり住民自治であるということはもう通説になっているわけですか
ら、その精神からいえば、課税の自主権なんというのは当たり前のことでして、
しかも、権限や財源を移譲していくということが、この精神からいえば当然の
姿なんですね。そう思います。
 ところが、それがなかなか実施されていない。特に、自主的財源という点で
は非常に地方が苦しめられているという姿が率直に言ってありますので、憲法
の条文をいじるという前に、そういう実態をつくっていく、地方に本当の意味
で住民自治、団体自治をつくっていくということが改めて大事なように、私は
この条文から学ばせていただいているわけなんですけれども、条文の中にこう
いうものがないということとの関係、今、改正したらどうかという意見もある
ということとの関係、この点についての御意見を聞かせていただけたらと思い
ます。
○天川参考人 将来の話は難しいわけでありますが、資料としてお配りしてお
ります当初のGHQ案等の中には、地方の「徴税権ヲ有スル」というような言
葉があったわけですね。それをなくしていくというようなことが進んでいたわ
けで、このあたりの経緯については、私も挙げておりましたけれども、参考文
献の、佐藤達夫さんのお書きになった「第八章覚書」とか、あるいは前の憲法
調査会の二十九回の小委員会のところに出ておりますので。これは経緯の話で
す。
 それをどう判断するか、今あった方がよかったのかどうか、これは政治家の
先生方の御判断でということだと思います。
 でも、アイデアの中にそういうようなことがあったということは、これは歴
史的な過程の問題としてありますので、その意味を考えることは可能だろうと
思います。
○春名委員 ありがとうございました。
 最後に、憲法制定過程にもう一回だけ戻らせていただいて、「地方自治」の
この第八章ができる背景の問題でもう一つ聞きますけれども、当時の地方自治
の、世界の流れですね、ヨーロッパあるいはアメリカなどの。そういう世界の
地方自治の流れ、動きとの関係で、この憲法に「地方自治」の章を入れるとい
うことがその流れを促進するもの、あるいはそれを受け入れるものとして認識
してよいかどうか、世界との関係を一言お願いします。
○天川参考人 当時の比較地方自治とでも申しますか、その辺については、私
も必ずしもよくわかっているものではありません。
 でも、一言言い得ることは、住民自治――団体自治というような概念は、多
分それは、ドイツ系ではあるかもわかりませんが、アメリカの概念なんかでは
余りないんじゃないかという気もするんですね。
 ですから、戦後の改革において大きかったのは、住民自治といいますか、そ
の面がやはり強いですね。それは広義の民主化といいますか、そういうような
流れの一環のものとして理解することはできるのではないかというふうに思う
わけで、団体自治というのは、これは多分、アメリカの中ではあるのかどうか、
ドイツだとか大陸系の方ではあるのかもわかりませんけれども、ちょっと私、
そこは必ずしもわかりません。
 ですから、住民自治はそういう流れの中にあったのかもしれないというふう
に思います。
○春名委員 大変勉強になりました。ありがとうございました。
○葉梨会長代理 中村鋭一君。
○中村(鋭)委員 きょうは御苦労さまでございます。
 先生、この八章の九十三条、「法律の定めるところにより、その議事機関と
して議会を設置する。 地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定める
その他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」こうご
ざいます。この規定には、議員の優位、劣位ということは全く規定されており
ませんね。
 現実に、町会議員よりは市会議員、市会議員よりは県会議員、またそういっ
たレベルでも県会よりは府会、府会の先生にすれば、都会議員はすごいなとい
うようなことがある。明らかに給料もこれは違うわけですね。
 憲法の規定は今かくのごときであります。しかし、現実には待遇が違う。い
ろいろな行事に出ても席次が全く違う。そういった点で、はっきり申し上げて、
町会議員さんは県会議員さんと同席をいたしますと、ある種のインフェリオリ
ティーコンプレックスに悩まされないとは言えない。
 そういったシューペリオリティーとインフェリオリティーはなぜ由来するの
か、先生は御研究になったことがありますかどうか。現実にそういう、同じ議
会議員であって、実際にはそのような優位、劣位、上位、下位の関係が生まれ
ておるという事実、これはお認めになりますか。また、それはなぜそういうふ
うになってきたかと思われますか。人口の差ですか、選挙の難易度ですか、そ
れとも町の生産性の高さですか、どういうものからそれが生まれるとお思いに
なりますか。
○天川参考人 どうも、現実について非常に勉強させていただきました。そう
いうものがあるということについて十分存じ上げていなかったものであります
が。
 では一体なぜなのかということでありますが、一つは歴史的な説明というこ
とが可能なのかなというふうにも思います。
 先ほど申しましたように、府県、少なくとも府県は、府県制ができて以来、
自治体でもあるけれども、府県の知事は、戦前は地方の長官であり、県知事閣
下であり、要するに国の官吏であるわけですから、基本的な官尊民卑の体系の
中でいえば府県の方が市町村よりも高いであろうということは当然考え得るわ
けですね。それで、多分、昔は官吏というのは、天皇の官制大権ですか、そう
いうようなものに基づいていたわけですから、勲章がもらえるとかそういうよ
うなことで、一般の普通のあれとは違うところがあったと思います。
 私は昔、全国の市長会のいろいろな要望事項のようなことも勉強したことが
あるんですけれども、市長会では、やはり長老の市長だとかそういう人に、も
っと勲章といいますか、名誉を与えようというような要望を戦前やっておるよ
うなところがあるんですね。しかしながら、市は国のあれじゃないんだから、
自治なんだから、そういう要望はおかしいじゃないか、これは建前論ではある
んだけれども、実際上はやはりそういうことを、官吏並みといいますか、そう
いうふうに待遇をしてほしいというような要望があったことを思い出すわけで
す。
 ですから、今申しました一種の官の秩序といいますか、その序列の問題が、
やはり今おっしゃったようなことに意識の面において影響しているのかなとい
う感じがいたします。
 しかしながら、若干申しますと、戦前においても五大市はどうだったのか、
そういう印象を直観的に持ちます。
 昔は官選知事というのはいわば内務官僚の若い人がなっていくわけでありま
すけれども、大きな市の市長というのは、知事を終わった人がそれこそ市長に
迎えられるというようなケースもあったわけです。ですから、例えば神奈川と
横浜についていえば、横浜の市会議員さんは、ひょっとすると県会議員よりも
私たちは劣っていると思っていなかったかもしれない。ですから、おっしゃっ
たことは一般論としてあるかもしれないけれども、いわゆる五大市とかそうい
うところは別だったのかもしれない。そういう市は、いわゆる市制から脱した
特別市制といいますか、そういうものを求める運動もやっておりましたし、若
干違うところもあるかもしれない。
 でも、その背景としては、そういう制度的な問題にあるのではないかと思っ
ております。
○中村(鋭)委員 ですから、先生、現実に町会議員さん、県会議員さん、い
ろいろその差がある。また考え方にも大きな優位、劣位が生じておる。現実は
見なければいけない、こう思うんですね。
 そこで、私は今保守党という政党に所属していて、つい先日までは自由党で
ございました。自由党が、「日本再興へのシナリオ」という政策集、これを発
行いたしまして、その中で、将来的には日本列島をことごとく、現在数千あり
ます市町村を全部整理をいたしまして、道、府、県、都、これをすべて廃止を
いたしまして、全国を三百の市にする。だから、行政的には、まさに地方自治
の本旨にのっとりまして同格の市を全国に三百つくる。これぐらい明快で平等
で「地方自治の本旨」を生かした政策はない、こう思うんですが、先生、将来
的には全国を三百の市にする、この政策についてはお考えはございますか。
○天川参考人 なかなか難しいことでありますけれども、今のことでいいます
と、すべての市を平等にするというのが「地方自治の本旨」なのかという、む
しろ多様性といいますか、そこと両立し得るのかもわかりませんけれども、同
じような形にするというようなことであるとすれば、それがそうなのかという
問題が一つ直観的に思うことと、もう一つは、それをどういう手続で進めるか
という問題ですね。
 昭和二十九年ないし三十年ごろの大合併があった。今もやっているという、
動きが出ておりますけれども、そういう問題も、地方自治の本旨というような
こととのかかわりでいえばあるのかなということで、大きな政策、方向があっ
て、そこにそれぞれの自治体が多分自発的に動いていくという形が想定されて
おるのかもわかりませんけれども、そういうことかなというふうに思います。
 それで、今の御政策についてどうこうということは一概に言えませんけれど
も、先ほど少しシャウプ勧告の話をいたしました。シャウプ勧告は、市町村を
中心に自治を進めていくということで、当時は五〇年代でありますから、もっ
と貧弱な弱い市町村だったわけで、市町村の自治を充実させるために町村合併
的なそういう政策を進めたこともあります。ですから、ある意味で、自治の実
体を持つためにはある程度の規模なり力というものが必要だろう。
 しかし、それが三百という数であるのかどうであるのかということは、私少
し判断がつきませんけれども、それだけは申します。
○中村(鋭)委員 最後に、先生の御意見をお聞かせ願いたいと思うんですが、
それは、例えばこの八章を見ますと、九十二条「地方自治の本旨に基いて、法
律でこれを定める。」それから九十五条「特別法は、法律の定めるところによ
り、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、
国会は、これを制定することができない。」この第八章は、九十二条から九十
五条までのわずか四条ですね。四条の中で、「法律の定めるところにより」と
いう文言が何回も何回も出てきますね。
 それは、こういう表現はどうかと思いますが、憲法がちょっとひきょうじゃ
ないか。
法律の授権するところに多くをゆだね過ぎていて、それは、シンプル・イズ・
ビューティフルという言葉はありますけれども、憲法というのはまさに根幹を
なす法の体系でありますから、一点の疑義があってはならぬ。
 第九条でも、あの芦田修正の、二項のたった一行で、戦後五十年余りの間に
何百人という法律学者がこれで飯を食ってきているわけですね。一行の解釈を
めぐってかようないろいろな解釈があるということ、そのことが、私は憲法の
ある種欠陥ではないか、このように思う。
 今度憲法をつくるときには、中学校二年生の子供が見てももう全く疑義のな
いものをつくらなければいけない、そうですね。それは、ウインター・イズ・
オーバー、スプリング・ハズ・カム、冬が終わって春が来た、これはだれが見
たって余分な解釈が入り込む余地がない。憲法はかくあるべきだと思うのです
が、そういう点で、この八章は法律で授権する部分が非常に多い。一口で言え
ば、書き込みが全く足りないではないか、こう思うのですが、その点について
先生の御意見、御感想を伺って、質問を終わりたいと思います。
○天川参考人 ここに資料でお配りしておりますけれども、「法律の定めると
ころにより、」というような文言を入れたのは、これは日本側なのですね。佐
藤さんがほとんど変えてしまった。丁寧に英語もついておりますのでごらんい
ただいて、そういうふうに書いてあるところもありますけれども、各条章に法
律、法律という文字を入れたのは、これは日本側の要求によるところでありま
す。ですから、それが何だったのかという問題ですね。今おっしゃったような
問題を生じせしめておるということがあるとすれば、どこに持っていくかとい
うと、やはり日本の人たちが何を考えていたのかを考えなきゃならない、これ
が一つです。
 もう一つは、地方制度。自治制なり市制、町村制、府県制、こういうものは、
戦前において法律だったのですね、自治は法律による。ところが、さっきの行
政官、府県についての地方官とか、あるいは行政組織、これは勅令ですよね。
ですから、行政組織は、これは天皇の官制大権に基づくものですから、法律ご
ときでやるものではない。官制ですね、勅令です。
 ところが、自治制というのは法律なのですね、明治以来の制度ですね。です
から、自治制は法律で定めるというのが、言うなれば明治憲法下で常識みたい
なことであったということで、その官制ないし勅令という問題がなくなったの
が戦後の憲法ですけれども、明治の人の感覚で言えば、自治については法律で
定める。ですから佐々木案の中にも、ちょっと佐々木案は引用しませんでした
かね、その九十二条で考えられておることは、やはり自治体、地方団体の構成
等は法律で定める、これを佐々木案の九十二条で入れているのです。ですから、
それは多分明治憲法期の、いわば慣行といいますか、それを残してやっている、
そういうふうに考え得るのではないかと思いますけれども。
○中村(鋭)委員 ありがとうございました。
○葉梨会長代理 二見伸明君。
○二見委員 自由党の二見伸明でございます。
 実は、知事の公選ということは、確かに官選から公選に変わるときの変化と
いうか、これは革命的な変化だと私は思います。だけれども、私なんかは公選
知事のもとで生まれ育っているものですから、そこら辺のことはよくわかりま
せん。むしろ今公選知事のもとで是非が議論されているのは、いわゆる知事の
多選の問題です。
 きょうは、多選の問題がどうのこうのというのではなくて、ただ日本の知事
というのは、大変誤解を招くような言い方だけれども、一種の大統領制ですね、
一種の。
アメリカでは、大統領の任期というのは二期八年ですか、こう決められていま
す。
権力が集中するからだと思います。だから、まさにアメリカで大統領の多選は
禁じられています。
 日本では、当時は直接選挙にするというので大変なエネルギーを使いました
けれども、知事の多選についての議論というのは当時は全くなかったのか。大
統領制をしいているアメリカがこれに関与しているわけですから、全くなかっ
たとは考えられないのだけれども、その点はどうでしょうか。
    〔葉梨会長代理退席、会長着席〕
○天川参考人 御承知のとおり、これは、憲法ではありませんけれども、法律
レベルで知事の任期は四年となっておりますね。実は、最初の法改正での問題
は、知事の任期を定めるということが大きなポイントだったわけです。
 当時、官選知事の場合は、むしろ短過ぎることの方が問題だったわけですね。
任命知事ですから、もう都合に応じて三カ月でかえてしまうとか、一年、二年
でかわるのが幾らでもいる。ですから、その県について事情もよく知らないう
ちに、はい次は栄転しましたといって別の県に行ってしまうとか、そういうこ
とこそが問題だったわけです。ですから、四年の任期を保障するからじっくり
とやってくれというようなことが、この制度をつくったときの大きな議論だっ
ただろうと思います。
 それで、今おっしゃったような、それが何期もやって、十年、二十年とやる
というようなことについての問題というよりは、やはり何カ月でやめてしまう
とかそういうことの方が問題だったので、四年を置けばもっと安定して地方の
ことに専念できるだろうというのが主な議論だったと思います。
○二見委員 実は、今地方分権とか、人によっては地方主権とかという議論が
されております。例えば、外交、安全保障、財政、金融とかそういう仕事は国
がやって、そうでないものは地方に任せてしまおうというのが、大ざっぱな言
い方ですけれども、地方分権ですね。
 そうすると、そういう地方分権、地方主権という立場から考えると、現行憲
法の九十二条以下の地方自治の書き方というのは、どうもちょっと手ぬるいと
いうか、公選知事官吏論がありましたね、官吏論ではないのだけれども、何か
今の現行憲法は官吏制度の影を若干引いているのじゃないかなという気もする
わけですけれども、そういう点はどういうふうにお考えになりましょうか。ち
ょっと面倒くさいかな。
○天川参考人 佐藤さんが書いておられる、そこに引いておきましたが、「第
八章覚書」の中にこういうことを書いておられるのですね、注の中で。
「LocalGovernment」という表題、それを「地方自治」に変えて英語も変えた
という話は先ほど申しましたけれども、それは、地方行政という広い言葉であ
ることにヒントをつかむと、第八章もそのまま地方行政としておいて、そして
その総則的な条文として、地方公共団体を超えたもっと幅の広い規定、例えば
として、「地方行政は、地方自治の精神を尊重して行なわなければならない。」
というような書き方もあったのではないかというようなことを書いていらっし
ゃるのですね。それはさっき言った言い方ですると、地方自治というと、それ
こそ地方自治に関する法律のことというふうになってしまいますので。
 ところが、国が行ういろいろな各省の行政を分権化するというようなことを
射程に置きますと、ここで言う地方自治というよりは、地方行政はというふう
にした方がその精神として合っていたのかもしれないなというようなことなの
ではないかと思うのですね。
 それで、実は一九四九年の六月だと思いますけれども、東京大学の憲法研究
会が「憲法改正の諸問題」というのを発表しております。これは以前の憲法調
査会の資料の何番かに入っておりますけれども、これは、各章についていろい
ろ言っているわけです。例えば、第八章については、田中二郎教授が書いてお
られることですが、九十二条については、例えばこういうふうにするのもある
のじゃないかということで、ここでも「地方行政は」と使っているのですね。
「地方行政は、特に法律に例外の定めのある場合を除く外、地方自治の本旨に
従って行わなければならない。」
 ということは、より広い、いわゆる自治法とかそういうものにかかわるのじ
ゃなくて、国のさまざまな施策を行う際の行政は地方自治の本旨に従って行わ
なければならないとやればもっと広いコントロールができるということが、こ
の両者の御意見の中に含まれているのかなというふうに私は解釈しておるんで
すけれども、もしそうだとすれば、そういう方向で考えればより地方分権化し
ていき得る方向なのかもしれないと思います。
○二見委員 これは「地方自治」の八章を盛り込まれたときとは若干時代がず
れるんだと思いますけれども、先生の「新憲法の成立」という古川さんとの対
談がありますね。あれを拝見しておりまして、いわゆる警察の制度の問題が出
てまいりました。日本の警察制度、当時は憲法九条の立場から考える場合と、
地方自治の立場から考える場合と、二つの考え方があったようですけれども、
そこら辺をちょっと御説明していただけるとありがたいと思うのですが。
○天川参考人 地方分権化するという際に、どういう事務を移すのかというこ
とはこれは国内でも議論になっております。それから、先ほど申しました地方
制度の改革の際にも、警察の分権化あるいは教育の分権化ということを考えな
きゃならないだろうということは、国内の中でも大きな議論としてなっておる
と思います。したがって、警察の分権化というような形で出てまいりました、
それと私は大きく関連すると思いますが、内務省の解体の問題などは、現実の
プロセスの中で言うと、やはり地方分権といいますか、そういうコンテクスト
の中で考えられていたのではないかと思います。
 しかしながら、当時は戦後でありまして、軍隊がなかったわけですから、国
内の治安を何が維持するかという場合にも、警察に期待されるところが非常に
大きかったというところもあるわけで、ですから、そこの問題が今おっしゃっ
たような文脈の中で理解されていくというようなこともあったわけです。
 戦後すぐに、警察力を増強しようというプランを国内的に出しておりますけ
れども、これは何かというと、戦争に負けて軍が解体されれば国内の治安の維
持が非常に難しくなるだろう、ですから警察の力を増強しなきゃならないだろ
うというようなことでそういうものを考えておったわけです。
 そちらのコンテクストで見ていくこともできますけれども、制度の問題とし
て言うならば、やはり全体の分権化の中で警察をどうするかという問題が大き
な問題だったわけですし、警察をどう動かすかというような問題も、やはり官
吏とするかどうかというような問題とも関連していたと思うのですね。
○二見委員 ありがとうございました。
○中山会長 辻元清美君。
○辻元委員 社会民主党、社民党の辻元清美です。
 本日は、民主主義を具体化する方法としての地方自治の概念の確立へのプロ
セスとか、それから長の直接公選制ということが与えた民主化への影響など、
日本国憲法の意義について非常に示唆に富むお話が伺えたと思っております。
本当にありがとうございます。
 さて、そういう中で、もう一つやはり憲法制定に当たっての先人たちの努力
ということについても、私は一九六〇年に生まれておりますが、先生の話の中
から改めて実感をすることができました。その中で、特に憲法の前文の最後の
部分に「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成するこ
とを誓ふ。」とありまして、そして私は、国会議員に当選させていただいた折
に、この憲法九十九条の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その
他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」という、この義務を
負っているなと思いながら各政策を立案していきたいと思いながら仕事をして
おります。
 さてそこで、お話の前提にありました非軍事化、そして民主化ということを
実現するに当たって、この第八章の「地方自治」が憲法の中に入ったというお
話でした。私は、それを伺いまして、入ってよかったなと正直思ったのですよ。
これが入っていなかったら、これはえらい憲法の意味が変わってくるのじゃな
いかと思うぐらい、入ってよかったなという実感を受けました。そこで、日本
の非軍事化、民主化に向けての戦後の八章が果たした役割といいますか、それ
をいかがお考えかお伺いしたいのですが、まず最初にお願いします。
○天川参考人 八章が果たした役割というものをどの程度の時間のパースペク
ティブで考えるのかという問題があると思いますけれども、私は、先ほどの後
半でお話ししたことは、まさに八章が置かれたがゆえに出てきた問題だったの
だろうということでお話をしたつもりなわけです。それで、最初のところでも
お話ししたわけですけれども、憲法の第八章が置かれたということは、やはり
非常に戦後の自治を進める上において大きな意義があったというふうに多くの
人が評価しているのではないかと思います。
 そういう意味では、八章に入っていなかったらどうであったのかというのは、
これは非常に難しい質問ではありますけれども、やはり地方自治を守っていこ
うというか、あるいは守るというよりは伸ばしていこうと考える人にとっては、
ただ憲法に書いてあるぞ、こういうのがあるぞということは、私は大きな支え
になってきたのではないかというふうに一般的に言い得るだろうと思います。
先ほども申しましたけれども、戦前は憲法になくて、言うなれば自治関係の法
律というのがあっただけですから、やはり随分意味が変わってきたのだろうと
いうふうに思っています。
○辻元委員 実は昨年、ちょうど今ごろでしたが、日米新ガイドライン関連法
の審議を国会で行っておりました。私はその委員の一人として連日質疑を繰り
返していたわけですが、その際に八章が改めてクローズアップされまして、そ
れは日米新ガイドライン関連法に規定されています、これは周辺事態法の九条
だったわけなんですが、周辺事態法に基づいて後方地域支援の協力を地方自治
体に要請することができるということがこの八章の違反ではないかというよう
な議論がありました。
 ここでは改めてその議論を先生にいかがですかとお聞きすることは控えよう
かと思っているのですけれども、私は、地方自治ということを発展させていっ
た場合、先ほどの非軍事化という点も非常に重要な位置を占めると思うのです
ね。過去の反省のもとに立って、ある一つの流れで戦争に向かって進んでいっ
た反省は、一つは天皇の問題がありましたけれども、もう一つはやはり地域の
戦争協力を非常に意図的に誘導していったというところ、この反省にのっとっ
ていると思うのです。そういう意味で、昨年のその議論、この八章と関連して
随分たくさんの方が憲法違反ではないかという議論を展開されました。
 それについても、そうしましたらやはりちょっとお聞きしたいと思いますの
で、ガイドラインの議論についてどういうふうに八章との絡みでごらんになっ
ていたか。特に、非軍事化と民主化を実現するためにこの八章を憲法に入れた
という制定過程にかんがみて、いかがお考えでしょうか。
○天川参考人 非軍事化というのは、私のは当時のことを念頭に置いておった
わけなんです。それは、要するに戦争直後で、敵国を、言うなれば軍事的に無
力にするというような意味合いですね。要するに侵略国だったわけですから、
再び侵略されては困るからそれをどうするか、侵略しない国にしたい、そうい
うコンテクストだというふうに御理解いただきたいと思うんです。
 ところが、相手の国が再び侵略しないようにするというのに民主化と絡めて
いるというのが、ここがアメリカの、民主主義化すれば軍国主義化しないんだ
というのは非常に大きな特徴ではないのかなというふうに私は考えておるわけ
です。ですから、非軍事化と民主化というふうに並べて申しましたけれども、
当時の考えは、力点は非軍事化にあったと理解しておいた方が正確なのではな
いかと思うんです。
それをするためには民主主義的といいますか民主化しなきゃならないという、
ここがいわば大きなポイントになるわけです。
 それで、今の話が別になっての、ガイドラインとのかかわりでおっしゃって
いる非軍事化ということとここがどういうふうにつながるのかというのは、私
は率直に言ってすぐわからないわけでありますけれども、先ほどおっしゃった
ように、やはり今憲法の中に、第八章に「地方自治の本旨に基づいて、」とい
いますか、「地方自治」を八章に置いているということで、それ自体が国の中
で非常に大きな重みを持っているんだという保障にはなっているだろうと思い
ますので、そういう観点でいろいろな対外政策等についても議論をしていくの
は、重みを持つというか、強くなるところはあるんだろうというふうに思いま
す。
○辻元委員 この八章が、憲法にしっかりと一つの章を設けているということ
は、やはり本当に民主化と非軍事化、これはひっついていると私も思うんです
けれども、これにとっては非常に大きいことだと思っています。
 さてそこで、この地方自治のこともですが、先ほど森山委員からの御質問に
もありましたが、例えば男女の平等の話とかさまざまな先見性を持った観点で
憲法は構成されていると思います。私は、最初に申し上げました、議員になっ
たときに、この憲法を尊重して政策を立てていくということが義務であるとい
う仕事に今携わっているわけですが、そうしますと、この先見性を持った憲法
の理念を果たして政策に生かせ切れているのかという点も、この調査会でもぜ
ひ皆さんに検討していただかなければいけない点だと思うんです。
 といいますのは、内心の自由の話から始まりまして、先ほどの男女平等の話、
そしてさらに、つい最近は、通信の秘密という憲法の二十一条が通信傍受法案
の審議のときには随分議論になりました。そういうふうに一つ一つの法律を制
定する際に、憲法に合致しているかどうかということを議論すると同時に、そ
れぞれの概念が私たちの暮らしやそれから政治の中に生かされた戦後であった
のかどうかという点だと思うんです。
 まずお伺いしたいんですけれども、特にそういう視点から、この地方自治に
限っては私はまだ不十分ではないかと。先人たちがやはり日本の将来を見越し
て私たちにプレゼントしてくれた憲法だと思うんですが、不十分な点があるの
ではないかというように感じる点があるんですが、いかがでしょうか。
○天川参考人 先ほどから憲法と憲法附属法の問題を提起しているのは実はそ
ういうこともあるからで、繰り返しになりますが、同じ憲法草案といいますか、
第八章を前提にして、最初の法律では知事は官吏で、これでも憲法の精神に合
致しているというのであり、それを修正した地方自治法になって、知事は公吏
である、これも新しい憲法に合致しているというようなことが言われておるわ
けでありますから、非常に幅があることは間違いない。
 それと、地方自治法にしたところで、ほんの数カ月とも言わないほどの間に
つくられておりますので、憲法よりももっと膨大な法律ですから、以前あった
法律を、言うなればコピーしながらつくっているというようなものであります
ので、そういう意味では、ですからここをどう評価するかの問題ですが、戦前
とのある意味で連続性があったからうまくスムーズにいったという側面が一つ
あるんですね。しかしながら、他方で、それは新しい憲法とのかかわりでいえ
ば不十分なものである、そういう評価も成り立ち得るだろうと思うんですね。
 ですから、ある意味で昔のものを継いでいるからうまくいったという側面も
ある。だけれども、新たな観点から見ると不十分な側面もある。やはり一概に
何か言うのではなくて、両面見なきゃならないのではないか。一挙に変わって
いくというのは無理なわけですから、だんだん変わっていく、ないしは変えて
いくような努力がなされてきたのではないか、その際の、すべてではないにせ
よ、一つの方向を指示するものとして憲法の規定があったというふうに考え得
るのではないかと思っておるところです。
○辻元委員 それでは、時間が参りましたのでこれで終了したいと思いますが、
遅くのお時間まで、本当にありがとうございました。
○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 天川参考人には、大変貴重な御意見をちょうだいいたしまして、まことにあ
りがとうございました。調査会を代表して厚くお礼を申し上げます。(拍手)
 次回は、来る四月二十七日木曜日、幹事会午前八時五十分、調査会午前九時
から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後六時七分散会