衆院憲法調査会(4・6) 平成十二年四月六日(木曜日)     午前九時三十分開議  出席委員    会長 中山 太郎君    幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君    幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君    幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君    幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君       石川 要三君    石破  茂君       奥田 幹生君    奥野 誠亮君       久間 章生君    小泉純一郎君       左藤  恵君    白川 勝彦君       田中眞紀子君    中曽根康弘君       平沼 赳夫君    船田  元君       穂積 良行君    三塚  博君       御法川英文君    森山 眞弓君       柳沢 伯夫君    山崎  拓君       横内 正明君    石毛えい子君       枝野 幸男君    島   聡君       中野 寛成君    畑 英次郎君       藤村  修君    横路 孝弘君       石田 勝之君    太田 昭宏君       倉田 栄喜君    福島  豊君       佐々木陸海君    春名 直章君       東中 光雄君    安倍 基雄君       中村 鋭一君    達増 拓也君       伊藤  茂君    深田  肇君     …………………………………    参考人    (東京大学法学部教授)  北岡 伸一君    参考人    (筑波大学社会科学系教授)                 進藤 榮一君    衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君     ――――――――――――― 委員の異動 四月五日  辞任   野田  毅君 同日              補欠選任              達増 拓也君 同月六日  辞任         補欠選任   中川 秀直君     御法川英文君   福岡 宗也君     島   聡君   志位 和夫君     春名 直章君 同日  辞任         補欠選任   御法川英文君     中川 秀直君   島   聡君     福岡 宗也君   春名 直章君     志位 和夫君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)     午前九時三十分開議      ――――◇――――― ○中山会長 これより会議を開催させていただきます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を進めます。  本日、午前の参考人として東京大学法学部教授北岡伸一君に御出席をいただいております。  この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げたいと思います。  本日は、まことに御多用中にもかかわらず当調査会に御出席をいただき、ありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をいただいて、調査の参考にさせていただきたいと思います。  なお、参考人から委員に対しては質疑ができないことになっておりますので、その点もお含みおきを願いたいと思います。また、発言の際は会長の許可を求めていただきたいと存じます。  それでは、北岡参考人、お願いをいたします。 ○北岡参考人 御紹介をいただきました北岡でございます。  このような機会を与えられましたことを心からうれしく思っております。  私、専門は必ずしも憲法というわけではございませんで、法律学ではなくて政治学でございます。特に、日本政治外交史といいますか、近代日本の政治、外交の歴史を専門にしております。戦前には憲政史という言葉がございました。憲法政治、憲政史という言葉がございまして、すなわち政治の最も基本的な枠組みを構築するものが憲法であり、それにのっとった政治がいかに行われるかという観点から、広く日本の政治、外交を研究してまいりました。  私は、特にこの占領期を専門とするわけではございませんが、そうした広く憲法と政治のかかわりを研究してきた立場から、きょうは意見を述べさせていただきたいというふうに考えております。  お手元には、まことに簡単なレジュメ一枚と年表二枚がついております。と申しますのも、これまで既に行われました参考人の方々、またそれをめぐる質疑の記録を拝見いたしまして、既に相当論点も煮詰まり、また皆様方の理解も進んだというふうに考えたものですから、細部を余りいじるのではなくて大きな流れをお話ししたいと考えたからでございます。  最初に序論的な話を申し上げまして、それからきょうの本論でございます日本国憲法制定の政治過程というお話をいたしたいと思います。  後ろに3というふうに書いてございますのは、本来は憲法を考える上でどういうことを念頭に置くべきかということについて私が考えていることなのでありますが、余り序論が長くなって、抽象論が長くなりますと、皆様方を退屈させるといけませんので、後ろに回しまして、時間がある範囲でそちらの話をつけ加えるという形で進めたいと思っております。  さて最初に、いわゆる押しつけ論と改憲論ということの関係について、一言申し上げたいと思うわけであります。  押しつけというのは余り言葉が上品ではございませんが、外からの強要あるいは強制と言った方が正確でしょうか。私は、最初に申し上げたいのは、押しつけであったから直ちに改憲すべきだというふうには考えないわけでございます。押しつけであったかどうかということと改憲すべきであるかどうかというのは、一応別の次元の問題だというふうに思っております。  しかし、これまでの御議論を見ますと、どうもこれはやはり近づいてくるといいますか、必ずしも無関係に論じられているわけではないような印象を受けております。 つまり、押しつけだから改憲すべきだという議論になりやすいし、他方では、護憲だから押しつけではなかったという議論が出てきているような感じがいたします。  ここで申しておきたいのは、例えば、押しつけだけれども中身がいいからいいではないか、よい押しつけだから構わないという種類の議論をなさる方がございます。つまり、非常に高度な、高次の理想、適切な内容を盛り込んだものだからいいではないかと言う方があるのですが、これはまた別問題でありまして、中身がよくても悪くても、押しつけであるかどうかというのはまた別に議論ができる問題でございます。  また、これと似ておりますが、押しつけられた方が頑迷固陋で悪いやつだったから押しつけられてもやむを得なかった、この種の議論をされる方もあるのですけれども、これもまたちょっと次元の違う話でありまして、押しつけられた方が頑迷固陋であろうがなかろうが、押しつけは押しつけである、好ましいことではないというふうに考えます。  また第三に、その後日本に広く定着したからこれでよかったんだ、押しつけとは言えない、国民の心の中にある願望に訴えたものだからいいというふうに言われる方もあるのですが、これもおかしいと思うのですね。定着したから押しつけでなかったというのは、これはまた別の次元でございまして、憲法は国民に定着していたかどうかということをいいますと、例えば大日本帝国憲法は相当程度国民の中に定着していたわけでありまして、これまた定着していたからよかったというものではなかろうと思うわけであります。  さらにつけ加えますと、制定過程を取り上げることに若干の留保をつけられる方もあったように拝見いたしました。制定過程を検証することは余りやるべきでないということをおっしゃる方があるのですが、これもちょっとおかしいと思うのです。  制定過程がすべてだというのは問題かもしれませんが、国家の基本法がいかにしてできてきたのかというのはやはり重要な問題でありまして、それはそれとして、歴史的事実としてきちんと押さえていただきたいというのは、歴史をやっている私としてのお願いでございます。それは直視していただきたい。かつて、戦前吉野作造が明治国家の成り立ちをいろいろ勉強しましたときに、明治憲法の制定過程を志した、それを主たる目的の最初に置きました。これは非常に理由のあることであったと思います。その意味で、憲法制定過程を改めて検証するというのは非常に重要なことだと思っております。  ただし、最初に申しましたとおり、私は、押しつけといいますか、外部からの強要、強制があったから直ちに無効あるいは早急に全面的に改めるべきであるというふうには必ずしも思わないわけでございます。強要ゆえに無効ということになりますと、例えば一九一〇年の日韓併合とか、日本が中国に二十一カ条要求を提出しまして、その結果結ばれた諸条約、南満州及び東部内蒙古に関する条約等々も全部無効ということになりますし、やや誇張を交えたジョークとお聞きいただければいいのですが、アメリカ合衆国の成立とかオーストラリアとか、そうした国もあるいは根本にさかのぼれば無効かもしれぬという感じがするわけでありまして、そういうとらえ方は適切ではなかろうと思います。  他面、しかし制定過程はどうでもいいということはないわけでありまして、相当問題のあるプロセスであったことは確かだというふうに私は感じております。したがって、非常に誇らしいプロセスというわけではない、絶対護憲というのはその制定過程を考えるといかがなものかなというふうに考える次第でございます。  以上が、1の「はじめに」でございます。  さて、本論に入りたいと思います。  日本国憲法制定過程を考えるときに、まず日本が降伏に至った事情、状況をある程度考えておく必要があると存じます。  第二次大戦は、我々にとりましては昭和二十年、一九四五年の八月に終わったものでありますが、アメリカにとっては、これは五月に終わった戦争であります。主たる敵は何といってもドイツでありました。その後、日本も降伏させなくてはいけない、これがアメリカ人の一般的な通念でありました。アメリカはデモクラシーであります。アメリカンボーイズの生命、そしてアメリカ人の財産、これをできるだけ守るということでありますから、なるべく早く戦争をやめたいとアメリカは考えたわけであります。徹底抗戦を続ける日本に対して、早く戦争をやめさせる方法は何か。特別な手段が徐々に浮上してまいりました。  一つは、天皇を利用する。日本国民が強く執着している、また日本の政府指導者が強く執着している天皇の地位を保障する。どの程度強く保障するかは別にしまして、保障することによって日本人の抵抗を和らげよう。第二は、より大きなショックとして、ソ連を参戦させる。さらに、もう少し押し詰まってからでありますが、新しく開発された強力な兵器、すなわち原爆を使うというようなことによって日本を降伏させようというふうになったわけであります。  この過程から出てきたのが、御承知のポツダム宣言でございます。ポツダム宣言の中には、日本を降伏させるために天皇を利用するということは明示的には書かれておりませんが、将来の政体は日本国民の自由な意思によって決定されるということによって、日本側が国体は護持されたと解釈することが不可能ではない含みを示しまして、それによって日本の抵抗を和らげる、日本の降伏をより円滑にするということがねらわれたわけであります。  私が申し上げたいのは、このポツダム宣言にあらわれた対日態度というのは、アメリカ人の一般的な態度よりはソフトなものだったということであります。すなわち、戦争中のアメリカの日本に対する態度はまことに厳しいものでありました。  私は、アメリカ留学中に、戦争中のアメリカの戦意発揚、戦意高揚映画というものを見たことがありましたが、世界地図が出てまいりまして、ヒトラー、ムソリーニ、ヒロヒトというのが三悪人として出てきて、それがいかに世界の広い部分を不当に占領していったかということが地図でわっと示されて、これは打倒しなくてはいけないというふうに訴えるわけです。そうやって国民の意識をかき立てておいて、そして天皇制を維持するというのは、なかなかできないことなのであります。  しかしアメリカ人は、ドイツが降伏した後は、もういいじゃないか、早く戦争が終われるのだったら天皇ぐらい許してやれよという気分も出てきたので、ポツダム宣言はアメリカの戦争中の対日意識よりはかなりソフトなものだったというふうに考えております。  しかし、戦争が終わりますと、またもとのイメージに少し戻りまして、既に何度もこの会に出ていると思いますが、九月六日に制定されましたこのころの「米国ノ初期ノ対日方針」というのは、かなり厳しいものでございます。  具体的にいいますと、日本は、日本が侵略したところの周辺の国々よりも高い生活水準を許されるべきではないというのがその基本であったかというふうに考えます。これは、言うのは簡単ですが実は大変なことでございまして、日本の周辺、日本が侵入した国々というのは生活水準の相当低い国々でありましたから、それ以下というのは相当ひどいことを意味したわけであります。  それは決して口先だけではございませんで、最もこれを典型的にあらわしておりますのは、一九四五年の十二月に来日しまして、その後提案を書きましたポーリー大使の報告であります。ポーリー・ミッションというのは、日本が周辺国にいかなる賠償をすべきかということを調査するミッションでありまして、それは、日本が最低水準の経済を維持するための産業施設はこれを認める、しかし、それを超えるものはこれを撤去して他国への賠償に充てるという施設賠償の考えでございました。  これは、何といいますか、日本に対しては非常に痛い、そして同時に、賠償をもらう国としてはそれほどありがたいものではなかったのですね。つまり、日本に置いておけば動くところの工場や何かを持っていって、例えばフィリピンとかインドネシアに持っていってそのまま動くというものではございませんので、余り効率的なものではないのですが、とにかくこれはかなり厳しいものでありました。  そして、その最低水準とはいかなるものかというのを、そのポーリー大使を中心に検討した結果、何については何トン、何については何万トンというのが決められたわけなのです。例えば鉄鋼について見ますと、人口がだんだんふえておりますから、一人当たりに換算しての話でありますが、大体第一次大戦前の水準あるいは明治末の水準までに押しとどめよう、それ以上のものは撤去して持っていってしまおうという方針でありました。  御承知のとおり、近代日本の経済発展の中では、重化学工業は、第一次大戦及び日中戦争のさなかに大きな飛躍を遂げております。この二つの飛躍をもとに戻そうというわけですから、これは相当厳しい政策でありました。当時、日本の識者の中で最も透徹した、また最も楽観的な予測をしておりました石橋湛山は、それまで楽観的であったのですが、このポーリー大使の賠償案を見て、これは予想より大分厳しいということを言っております。また、当時中国から帰国したばかりでありました、共産党の指導者でございます野坂参三も、このポーリー案が実施されたら日本は大変なことになるということを言っているわけであります。  このポーリー案は間もなく緩和されましたが、御承知のとおり、一九四六年、七年という日本の復興の第一歩は、傾斜生産方式といいまして、エネルギー、石炭に集中し、そこから日本を発展させるということで、これはこの大変な撤去がなかったからできたのですね。この施設撤去が大幅にやられておれば、これも難しかった。 大変厳しい案でありました。それが、昭和二十年、一九四五年の年末から翌年年頭にかけてのものでありました。  さて、こうしたアメリカの政策、ハードピース、峻厳なる平和と言っておりますが、ハードピースのラインは以上のようなものでありましたが、このとき日本の占領政策の中心におりましたのは、言うまでもなくマッカーサーであります。マッカーサーは何を考えていたか、彼の政策はどういう判断から割り出されていたかということを次に考えたいと思います。  マッカーサーがやろうとしたことは、効率的な占領を早く終えて、早くアメリカに帰りたい、そうして、できれば大統領選に出るというのが彼の野心でありました。個人的な野心だけではなくて、事実としてこの日本の統治をそんなに長くやるつもりもありませんでしたし、それを早く済ませたいと思っておりました。  そのためには、幾つか必要な条件がございます。  まず第一に、余り日本人が抵抗しては困るのですね。日本人が抵抗すれば余分な兵力が必要です。厳しい統治、余分な兵力が必要です。これはアメリカ本国で非常に嫌われる政策であるわけです。また、日本経済が余りめちゃくちゃになっても困るわけです。日本経済が余りめちゃくちゃになりますと、アメリカが援助をしなくてはいけない。これはアメリカのタックスペイヤーから非常に嫌われる政策でありまして、アメリカの立場からいえば、なるべくアメリカの負担が少なくて、負担の軽い統治をやりたい。しかし、そこでなるべく日本を変えていきたいと思ったわけであります。  こうした観点から、最も有効な方策は何か。それは、天皇を利用することであるというふうにマッカーサーは思い至った。これは無理もないことであります。  すなわち、マッカーサーは軍人でございますから、これまで日本軍がいかに果敢に抵抗したかを知っている。その軍人が、天皇の一声で武器を置いた。これは大変な威力である。天皇を自分の側につけるか、敵の側にするかというのは、大変なことであるわけです。マッカーサーがなるべく天皇を味方につけたい、天皇を利用することによって円滑な統治を進めたいというふうに考えたのは、まことに十分理解のできることでございます。  こういう思惑がありまして、有名な九月二十七日の天皇・マッカーサー会見が行われたわけでございます。この会見では何が話されたかというのは、実は正確なところはまだわかっておりません。マッカーサーの回想録にはいろいろ書いてございますが、マッカーサーの回想録は、後でも触れますとおり、甚だうその多いものでありまして、必ずしも信用できません。しかし、そこに何と書いてあるかといいますと、皆さん御承知のとおり、天皇が命ごいにでも来たのかと思った、そうしたらそうではなくて、責任は自分にある、国民に罪はないと言われたので大変感銘を受けたという趣旨のことをマッカーサーは書いております。  本当にそうであったかどうか、資料は今のところございません。ただ、会ったときの最初の印象や、それから帰るときの様子などを見ると、穏やかな話し合いが行われたことは間違いないであろうと思われます。  その内容の一つに、天皇がアメリカの占領に積極的に協力する、むやみな抵抗はしない、協力するということがあったことは確かだろうと思うんです。その反対に、恐らくマッカーサーの方も天皇陛下に対して何か親切な、あるいは冷たくないことを言ったのではないかと思います。  ともあれ、こうしてマッカーサーは天皇を支持し利用しつつ、支持と利用はちょっと微妙なんですけれども、マッカーサーはとにかく天皇を利用しつつ統治を進めたいということに確信を持ったのが、この九月二十七日の会談ではないかと思います。 それはできると思ったんだろうと思います。  さて、具体的に日本の改革を進めるという場合に、その担い手はいかにあるべきかという点については、マッカーサーはまだよく知りませんでしたし、日本のことはよくわかりませんでした。無理もないわけであります。  そのまだはっきりしない手探りのプロセスの中で、例えば有名な近衛元総理大臣との会談が行われた。そこでマッカーサーは近衛元総理に対して、あなたはまだ若い、日本の改革のリーダーシップをとるべきだと激励した。近衛は、それですっかり自分はマッカーサーに信任されたと思い、リーダーシップをとって憲法改正を進めようとした。京都帝国大学の佐々木惣一名誉教授の手をかりて進めた。そのために近衛は内大臣府御用掛に任命された。これは非常に当時の仕組みとしては正統なやり方でありまして、つまり、明治憲法は宮中から出てくるわけですから、内大臣府に掛をつくって、そこで起草していくというのは、旧憲法からすると正統なプロセスなわけであります。  ところが、当然、アメリカ本国その他、日本のことをよく知っている人たちから、近衛が戦後のリーダーになるなんというのはとんでもないという反発が出てきました。 これはなかなか深うございます。  近衛さんの御子息はアメリカのプリンストン大学というところに留学しておられたのですが、数年前、このプリンストン大学で近衛文隆さんを記念する奨学金をつくったことがあります。つくったときも、やはり最終的には近衛という名前を外したんです。それほどやはり近衛という名前には少々アレルギーがあったんですね。ということが数年前にもあったぐらいですから、あるいはもう十年たつかもしれませんが、当時近衛がリーダーになるというのは、やはりちょっと考えにくいことでありました。  内閣の方からも反発がありまして、憲法は新しい時代は内閣でつくるべきだというので、内閣の方でつくり出した。それが松本烝治国務相を中心とする動きであったというのは御承知のとおりであります。  その他、民間でもいろいろな動きがありました。これもよく知られておりますが、これは日本では別に初めてのことではありませんで、明治憲法ができる前にも民間でさまざまな憲法草案がつくられた、その伝統からすれば当然のことであります。  さて、そうした日本側の動きを見ながら、しかし、マッカーサー、GHQの方でも考えたわけでありますが、彼らはやはりそうした動きでは不十分だと考えたわけであります。ですから、自分たちで憲法をつくるということを考え始めた。  それがまずいということは、かなりそう思っていたんですね。GHQがつくるのはまずい。まずいというのは、いろいろ理由はありまして、例えばこれまでのお話でも、ハーグ陸戦法規に違反するとかいうようなことも既に述べられたと思います。また、ポツダム宣言に違反するわけですね。日本国民の自由な意思で将来政体は決まることになっているのに、それをGHQがつくるというのもおかしいと。ですから、ぐあいが悪いわけであります。  他方で、これまた既に出ておりますが、極東委員会というものがだんだんできてくる。そうすると、マッカーサーの権限も制約されてくるというので、時間を急ぐわけです。それで、GHQの中で、憲法草案、大体こういうものをつくれということを言って、それを日本政府が自発的にやったことにして、それを日本人が決めたという形でやらせる、そういう形をとったわけであります。  先ほども触れましたとおり、マッカーサーは天皇を利用したいと言いましたが、利用するためには天皇の影響力を残さなくてはいけません。しかし、天皇に対するアメリカ国内の認識、批判は厳しい。世論は厳しい。他の連合国も厳しい。そこで、憲法改正によって、天皇は続くけれども天皇制はすっかり変わったんだ、また、後に九条になる条項によって、日本はもう軍備を撤廃し、戦争をしない国になった、日本はもうすっかり危険でない国になったということを示すのが最も有効な近道だ、こういうふうに考えたわけでございます。これは、政治過程を追っていけば、常識的にそれが見えてくるわけでございます。  さて、日本側が自発的につくったということに彼はこだわったわけでありますが、その中でも大変よく知られておりますのが、九条がどうやってできたかということについてのフィクションであります。これはだれがつくり出したか。実は、幣原が九条の発案者であるというのは、フィクションといいますか、かつてかなりそういう理解があったんですが、今日、それがフィクションであるということは既にかなり知られております。  しかし、あえてもう一度繰り返せば、マッカーサーの回顧録には次のように書いてあります。  風邪でしばらく休んでいた幣原首相が、一月二十四日に、風邪が治った、そのための薬をいろいろもらったことなんかのお礼でやってきた。それで、何かを言いたそうにしている。もじもじしているので、何でも自由に言ってくれと言ったら、幣原は、軍人のあなたにこういうことを言うのは申しわけないけれども、こういう大きな戦争が起こるのも、戦争というものがあるからだ、戦争はもう一切しない、軍備も持たないというふうに決めてしまえば、こういう戦争は起こらない、それしかないということを言って、マッカーサーは、思わず立ち上がって手を握り締めて、すばらしいアイデアだと言ったというんですが、これは真っ赤なうそでございます。  それがうそであるという理由は、後にだんだん出てきたんですが、まず、もし幣原が一月の下旬の段階で戦争放棄、軍備の否定という考えを持っておりましたら、後に出てくる、完成してGHQに提出されたのは二月の八日でありますが、松本草案、政府案にそれが入らないはずがない。全く入っておりません。  それから、GHQの案を見せられたときに、日本側があれほど驚いたはずがない。  第三に、幣原はこれと全く矛盾する議論をマッカーサーとしております。  すなわち、これもよく知られておりますが、二月の二十一日、これはGHQ草案が渡り、その内容を確認するという意味で幣原首相がマッカーサーに会ったときでございますが、そのとき幣原は、こうした高度な理想を掲げて戦争を否定する、軍備を持たない、それについて疑問を呈したわけであります。マッカーサーは、日本はこういう高次の理想によって世界にモラルリーダーシップをとるべきだということを言いました。幣原は、そのとき、そういうリーダーシップをとっても、だれもついてくる者はないだろう、ノーフォロワー、フォロワーはないだろうということを言った。そうすると、マッカーサーは、フォロワーがなくたって、何の失うこともない、なくてもともとであると言って反論した。  つまり、そういう議論があったということは、幣原が発案者であればあり得ないことでありました。  さらに、細かいことは省きますが、後にも日本の政府筋から、軍備とか戦力を持たないというのは、本当はどれぐらい以上がいけないのだろうかという打診が何度か行われていたのですね。それで、打診しても、だめと言われているわけであります。そういうことからして、幣原が発案者であるということはあり得ないわけであります。  ただし、これは全く推測でございますが、後にも触れますが、九条一項、すなわち、これは一九二八年の不戦条約を起源としておりますが、国際紛争解決の手段として武力の行使や武力による威嚇は行わないということを幣原が指示していた可能性は十分あります。それを言ったかもしれません。あるいは、もしかして、憲法の中にこれは入れてもいいということは考えていたかもしれませんし、言ったかもしれません。しかし、前後を見ますと、戦力を持たない、軍備を持たないということを幣原が考えていた、ましてや、それを申し出たということはとても考えにくいことでございます。  さて、発案者をめぐる議論は以上でございますが、GHQの中で憲法起草が始まりましたのは、既に西先生を初めとしていろいろな御紹介があったと思いますが、二月になりまして、二月三日にマッカーサーが、次の論点は必ず入れてくれと言って、マッカーサー・ノートというので三点を挙げて、これを踏まえて憲法をつくるようにというふうに言いまして、二月四日に着手いたしまして、二月十日、GHQの民政局がつくりました民政局草案ができたわけであります。この間、四日から十日ですから、七日間でできた。前後を加えても九日ぐらいであります。  そのマッカーサー・ノートの中には、一つ目になかなか興味あることが書いてあるわけで、天皇は国の最上位にある。天皇はヘッド・オブ・ザ・ステートとは書いてあります。エンペラー・イズ・アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート、天皇は国家のヘッドの地位にあると書いてあるのですね。元首だとは書いていないのですが、微妙な表現で、割合天皇の高い地位を認めていると言っていいと思います。  第二番目が非常に問題でありまして、日本は、国権の発動たる戦争は廃止する、紛争解決の手段として、さらに、みずからの安全維持の手段としても戦争を放棄するというのが出てきたわけであります。つまり、自衛のための戦争までも否定する内容をマッカーサー・ノートは含んでおりました。  これをGHQ民政局が憲法を論議しつくっていく過程で、ケーディスという大佐、これは大変有能な人でありますが、彼はそれを読んで、自衛のための権利まで否定するというのは憲法として行き過ぎである、そういう憲法はあり得ないと。これは私流に比喩的に申し上げれば、あたかも正当防衛を認めないようなものでありまして、そういう法律はないと。したがって、その部分を削除した。意図的に削除し、それについて上の方で何も文句を言わなかった。したがって、少なくともケーディスの頭の中では、自衛のための戦いというのは当然日本に許されるというのが彼のアイデアでありました。起草者の意思をどれほど認定するかどうかというのはまた別問題でありますが、少なくともケーディスはそういうふうに考えていたわけでございます。  なお、ケーディスというのは、いろいろ欠点もございますが、大変有能な法律家であったと私は思います。少人数の素人集団というふうに考えられる方もあるかと思いますが、その分、結構視野の広い、知識のある人が大勢――大勢といいますか、二十人ちょっとでありますが、集まって、議論をしてつくった。非常な秘密のうちに行われました。日本国憲法、新しい憲法をつくるわけですから、当然参考書が要ります。これも、一カ所から集めてきたのでは秘密が漏れるというので、いろいろなところから分けて借りてきました。憲法起草作業が行われていることはGHQの中でも秘密でありました。そうして、これは明治憲法の改正という形をとったものですから、構成等々はかなりの程度それに似た形をとっているわけであります。  こうしたマッカーサー草案があり、これをケーディスが修正していって、特に、最初は八条でありましたが、後に九条になる戦争放棄については、これを修正して進めていったわけでございます。そして、それができると直ちに日本に渡す。日本に渡し、日本側がこれを翻訳したり検討したりして持ってきたのが、年表にも書いてございますが、GHQが渡したのが二月十三日でありまして、日本がこれをいろいろ検討して持ってきたのは三月四日であります。そこで早速、では今から細部を詰めていこうというので徹夜の作業になりまして、五日にはもう確定してしまった。最後は非常に大変な協議であったわけであります。そして、三月六日にはもう政府案の要綱が発表されたということになっております。  このときのスケジュールについて、もう一度年表をごらんいただきたいのでありますが、このとき、帝国議会は四五年の十二月に解散されております。四五年の十二月に解散されて、当初は選挙の予定日は一月の二十日前後、二十一、二十二日あたりが予定されておりました。ところが、これがずっと延期されまして、結局四月の十日まで延期されたわけであります。こんなに選挙が長いとさぞ大変だろうと先生方は思われるのではないかと思いますが、とにかく十二月から四月まで選挙をやる。非常に新しい選挙で、これは婦人参政権もある新しい制度でありました。  そして、その選挙の前に政府案の要綱が示される。しかも、政府の案として発表されたわけですね。そうすると、その選挙で当選してきた政治家、またその選挙で投票した人々は、ある意味でこの政府の憲法改正案の要旨を知って投票した。建前ですよ、建前で、知って投票したと言えないこともないわけです。そうすると、それを知って投票した国民、知って当選してきた人たち、まだ帝国議会ではありますが、その人たちが審議して決めれば、これは日本人が自発的に決めたというフィクションはさらに強化されるわけであります。これが選挙の期間をここまで延ばした大きな要素ではなかろうかと私は思うんですね。政治的な、戦略的な考えをすれば、当然そのことはやるだろうというふうに思うわけであります。  この際、日本は受け入れに際していろいろ抵抗はしておりますが、大変著名なものは、最初アメリカの案が一院制だったのが、松本さんが非常に抵抗して二院制にした。アメリカ側が一院でいいではないかと言うのを、いや、熟慮のために二院制がいいんだということを言って、そういうふうに松本が得意になって演説すると向こうはなるほどと言って、松本先生は大変得意になって帰ってきたのですが、御承知のとおり、これはアメリカはちゃんと読んでおって、日本はいろいろ提案するだろう、あるいは反論するだろう、そのときに少しは日本にも譲ってやらぬといかぬと。 国際交渉でよくあることでありますが、幾つも論点があって、これは譲る球、これは維持する球というのでちゃんとそこを譲って、日本は若干得たような気がして帰ってきたのでありますが、アメリカが絶対譲らなかったのは天皇のところでありまして、最も議論になったのはここですね。それに比べると、九条関係は余り議論にならなかったと言ってよいと思います。  このとき、結局日本側はこれを受け入れたわけであります。幣原総理大臣、そして、松本憲法担当国務相を別にすれば、吉田外務大臣がやはり重要でありました。この二人はこれを受け入れたわけであります。  先ほど来申しておりますように、アメリカ、マッカーサーの方が、なるべく乱暴でない、効率のよい統治をしたいと思ったと同時に、日本側も天皇を守りたいと思ったんですね。あるいは、できるだけこの苦境を早く通り過ぎたい、何とか立ち直りたいと思ったわけであります。  当時の状況はどういうものであったかと申しますと、年表に書いてございますが、ちょっと拾ってきました。  例えば、昭和二十年の十一月一日あたりには、このころは全国で餓死者が続出したというふうな記事がございます。年表なんかに書いてございます。上野駅というのはそういう人が多かったわけでありますが、上野駅で一日六人死んだことがある、そういう大変な苦境でありました。これは、海外からの引揚者、気候条件もよくなかったし、それから肥料が調達できないというわけで、農業生産も非常に悪かったわけであります。この昭和二十年、二十一年というのが日本の最も苦境の時期であったろうと思います。それは、二十二年の二・一ストを克服するころまでは、日本は本当にどうなるかわからないという状況だったと思います。  少し後になりますが、四六年の四月には総選挙があり、そして五月に吉田内閣ができるのでありますが、吉田内閣ができるまで、選挙から実に一月以上かかっているわけであります。そして、このとき、五月の初めに鳩山一郎が総理大臣になりそうになったわけでありますが、これはパージされまして、そして鳩山の代理ということで吉田が首相になりました。このときも、鳩山パージから吉田内閣の成立まで実に十八日かかっているのですね。今回は大変空白のない政権異動でございましたが、このころは大変に時間がかかった。  これは、吉田も時間稼ぎをしたわけです。吉田は何の時間稼ぎをしたかといいますと、GHQ、マッカーサーが自分たちを本当にサポートしてくれるか、そうでなかったら餓死者が続出するというので、いわばその交渉だったわけですね。吉田は、マッカーサーがこれこれの何万トンの援助をしてくれなければ日本に大量の餓死者が発生する、何十万の餓死者が発生するということを言いまして、そして協力を取りつけた。取りつけるまでいわば消極的な抵抗をしたわけですね。  後にマッカーサーが、日本にそんな餓死者は出なかったではないか、おまえ、うそをついたなと吉田に言いましたら、吉田は、いや、それは日本の統計が不備であって、我々の統計がそんなにすぐれていたらアメリカと戦争なんかしないと言ってマッカーサーに一矢報いたと言っておりますが、そういうふうに、弱者の恫喝のような、次々に混乱が起こってもいいのかと言うしたたかさをやはり吉田は持っていたわけであります。  そういう流れの中で見ていきますと、GHQが憲法草案をのめと言ってくる。のめばマッカーサーも助かるわけです。天皇を利用した有効な改革が、効率的な改革ができる。日本の方はどうであるかといいますと、日本の当事者は、天皇は守りたいと思っていたわけですね。  お断りしておきますが、私は、当時の人々が天皇だけは守りたいと思ったことが正しかったかどうかを議論するつもりはございません。そうでないという議論もあるでしょうし、それは正しかったという議論もあるでしょう。それはちょっと別の問題なのでわきに置きます。  少なくとも当時の政府指導者が天皇を守りたいと思っているときに、こういう案を持ち出す。マッカーサー元帥は天皇をぜひ守りたいと思っているけれども、本国にはいろいろな意見もある、連合国にはいろいろな意見もある、だから必ずしも自信はない。したがって、天皇の地位もすっかり変わったし、日本は軍備を持たない国に生まれ変わる、もう悪い国ではない、危険な国ではない、こういう憲法をのめば一番天皇を守りやすいのですよと言われたら、これはまことに有効な、脅迫といいますか強要だったのではないでしょうか。  しかも、当時、間もなく東京裁判が開かれることになっているわけです。東京裁判の裁判所条例というのが、これまた年表にございますが、一月十九日に承認され、発表されております、極東国際軍事裁判をやると。そのときに日本側で最もきゅうきゅうとしたのは、これに天皇が被告として連れていかれるのではないか、あるいは証人として呼ばれるのではないか、これに大変危惧を持っていたわけです。数年前に出て以来話題になりました「天皇独白録」という文書がございますが、これも恐らくこの時期に裁判対策で用意されたものではないかというふうに言われております。  そういうこともありまして、日本側はこれをのんだわけですね。特に九条関係では、どうせ占領下で軍備なんか持てない、したがって、ここで抵抗してもしようがない。吉田茂は元来、戦争に負けて外交で勝った国はある、負けっぷりをよくすることが大事だというふうに持論として言っていた人でありますので、ここはあっさりこれを受け入れて、そしてそのかわりGHQの協力を引き出すという方向に進んだわけであります。  つまり、ここでは、マッカーサーの側と幣原、吉田の側に、ある種の黙示の共演があったかのような気がいたします。マッカーサーは、天皇制は維持して天皇の地位も保障するかわりに憲法をのめと、日本側は、憲法をのむことによって天皇制を維持し、そして何とか最小限の経済援助を引き出して、日本国民を飢えさせないでこの難局を乗り切るということであったかと思うのですね。ですから、私は、その当時の指導者の心境を考えるに、この憲法の内容には私は幾つか不満もあるのですが、これを受け入れたことを一概に批判はできないという気がするのですね。それほど当時の日本は厳しい状況にあった、こう考えるわけでございます。  ある意味で、これは憲法というよりは条約のようなものでございまして、外国と条約を結ぶときにいろいろ利害を交渉しますが、最後はお互いの立場を考えて妥協します。相手が強ければ、かなり押されたところで妥協をいたします。しかし、それを国会に批准にかけるときには、政府はこの条約を擁護するわけです。この条約でいいんだと、これで我々の国益は守られると言って議会を説得するわけですね。  実は、この帝国議会における吉田茂総理大臣の立場は、外国と結んだ条約を擁護する総理大臣という立場でありました。ですから、今日から見ると、後の吉田さんの行動からは考えにくいほど弁護的、擁護的なものであります。  少し先を急ぎたいと思います。  さて、そういう中で、この憲法の中の九条に手を入れたのは芦田さんであります。 既に何度も出ておると思いますが、芦田さんは、「前項の目的を達するため、」という一句を挿入して、そうして芦田修正というものを実現したわけであります。芦田さんが、「前項の目的を達するため、」つまり、国際紛争を解決する手段としての軍事力の行使や威嚇は行わない、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」というふうに変えたのは、前項以外の目的のためなら軍事力を持ってもいいという反対解釈を可能にするためだと後に芦田さんは言っておりますが、この修正をしたときにそれを念頭に置いていたかどうかは確証はありません。  芦田さんの発言自体を見ると、発言にはそういう意図は出てこないのですね。しかし、発言にそういう意図が出てこないからそういう意図がなかったとも言えないわけであります。つまり、当時の審議は全部翻訳されてGHQで見られておりまして、GHQはどこまで許してくれるのかというのはわからない。ですから、極力これは何でもないふりをしてやっているわけであります。  私は、実は、最初から芦田さんはそういう意図でやったのではないかなと思っているのです。というのは、芦田さんの最初の修正は、軍備を持たないというのが先にありまして、そして前項の目的を達するために戦争は放棄するというふうになっているのですね。よく読めば、これは論理的におかしいのです。余りうまくいっていないのです。最初にうまくいっていない案を出して、よく読むと変ですね、では入れかえましょうという格好で今の形にしたんではないか、だから、最初から念頭にあったんじゃないかというふうに思っておりますが、これは推測でございまして、余り確かな根拠はございません。  しかし、この芦田修正が議会で確定したころには、芦田さんは、この修正によって、反対解釈によって、自衛のための軍事力は持てるという確信をかなり既に持っていたのではないかと思います。つまり、この案を芦田さんは直ちにGHQに持っていっているわけです。それで、ケーディスに会って、こういうふうに変えたいんだがというふうに申し入れている。  ケーディスが来日しましたときに私はその話を聞いたことがございますが、ケーディスによれば、芦田さんがやってきて、ちょっと言いにくそうに、かなり深刻な顔をして、実はこういうところを変えたいんだがと言ってきた、自分はすぐその意味はわかったと。これは、つまり反対解釈によって自衛のための軍事力は持てる、そういう余地を残すための工夫だなということはすぐわかったと言っていました。わかったけれども、それは、彼がマッカーサー・ノートを修正したときに既に明らかなように、彼は当然のことだと思っていた。したがって、それでいいと言ったと。  さらにつけ加えてケーディスは言っておりました。「国の交戦権は、これを認めない。」ということも、これを外したいと言ってきたら自分は認めるつもりだったと言っております。ただ、それは言ってこなかったので自分からは言っていないということでありました。  しかしながら、御承知のとおり、直ちに他の連合国はその含意に気がつきまして、こういうことをすれば自衛のためと称して日本は軍隊を持てるではないか、それは危険だという議論が出てきて、その妥協として、いわゆる文民条項、国務大臣はシビリアンでなくてはならないというものが入ってきた。軍隊を持てないはずの日本の憲法に、軍人は大臣になれないという規定ができたという矛盾がそこにあるわけで、将来、軍隊が持てるようになるかもしれないから、それに備えてつくったということであります。  ケーディスさんというのは、私は、大変有能な人だと思いますし、恐らく魅力的な人だったんだと思います。しかし、彼は、晩年まで、長年日本には来ませんでした。 日本の学者のインタビューは何度も受けましたが、日本には来ませんでした。そして、九三年ごろだったと思いますが、やっと来まして、私も会ったんですが、テレビに出ておりまして、自分にいろいろ聞かれるけれども、その後日本人も自由に審議したんだから、日本人の審議の記録をもっと見てくださいよ、我々にそう聞かれても全部責任があるわけじゃないから困るというふうなことを言ったんですね。日本人は自由に審議したじゃないかと言ったら、私、たまたま家でテレビを見ておりましたら、後ろの方に座っておりました、亡くなりました京都大学の高坂先生が、そんなんうそやと叫びました。自由にやっていたんならどうして文民条項が入るんだと後ろから叫びまして、ケーディスさんはそれに反論ができなかった。審議は全部チェックされていたわけであります。  これまた既に出たかもしれませんが、当時の占領軍の検閲はまことに強力でありまして、亡くなった江藤淳先生が書いておられますが、大変強力かつ検閲をしていること自体がわからない検閲をしておりました。中でも、検閲の対象の一つは、憲法が外国製であるということをにおわせたりすることは一切まかりならぬという検閲をやっておりました。  先ほども触れました吉野作造は、当時の課題は、日本における「民主主義的傾向ノ復活強化」でありますから、戦前の民主主義的な部分を復活しよう、そうすると、最も思い出される知的遺産は吉野作造であります。したがって、吉野作造の本は戦後直ちに復刊されているんですが、それも巧妙に検閲がされております。  戦前の検閲は、乱暴なようでばか正直なところがありまして、例えば、××××とあると、例えば帝国主義とか、××を打倒せよというと、これは天皇だとか、その字数だけ×を打ったんですね。それで何か推測ができる。そうではなくて、GHQの検閲は、検閲した跡がわからないような検閲をするのでありまして、この辺のは、まことに厳重にチェックされておりました。  ケーディスさんは恐らく、これは推測でありますが、自分が正しいと思ってやった方向は必ずしも正しくなかったのかなという感じと、それからもう一つ、デモクラシーの国であるアメリカ人の進歩派の自分がよその国の憲法をつくってきたということについての若干の後ろめたさ、そういうこともあって長年日本に来なかったんじゃないかなというのが私の感じた印象でありますけれども、これは印象でありますので、特に絶対固執しようと思っているわけではございません。  かように考えてきますと、私は、押しつけであったかなかったかという話を最初に申しましたが、かなり強烈な押しつけはあった、しかし、それを利用してといいますか、それに応じて、何とか当時の日本を救うというために、これをある程度積極的に受け入れていったということではないかなと思っております。それゆえに、実は幣原さんは、憲法九条は押しつけでないということを書いています。私もそう思っていたということを書いている。この本が出されたのは、実は、日本が講和条約を結び、独立する直前のことなんですね。それまでは、恐らくマッカーサーとのそういう約束で、押しつけというようなことは言わないことになっていたんだろうというふうに考える次第でございます。  さて、最初に、もし時間があれば3のところをお話ししたいということを申し上げたところなんですが、あと五、六分あるかと思いますので、その要点をごく簡単に触れさせていただきたいと思います。  「自然法と憲法と条約と法律」とややこしいことを書いてございますが、私は、確かに憲法というのは、成文法としては最高の規範だと思いますが、我々はそれを超える何らかのモラルなり規範なりをどこかに持っているというふうに考えるわけであります。  例えば、世界の中には、何々教が国教である、国の宗教はこれこれと決めている国もございます。男女は平等でない、ないとは書いていませんが、男女の平等は明らかに否定されている文言の国もあります。ですから、そういうところに行って、私が仮にそこの国民になったとしたら、やはり、男女は平等にしたいと思うし、宗教の自由は得たいと思う。我々は良心まで憲法で縛られるものではないだろうと思うんですね。より高次の、人類の理想なり良心によって判断する、そういうのをあいまいに自然法と申しましたが、そうしたものに照らして憲法は考えていくべきものだ。憲法は国の基本でございますが、これは、そうした自然法、国家の本質、国際関係の本質、そういうのに照らして解釈していくべきものだと思っております。  条約は、日本にはなぜか憲法上位説の方が多いのですが、世界には条約上位説もございます。条約も物によるわけでありまして、例えば国連憲章というような非常に高い権威を与えられたものと憲法とどっちが上かというと、これは一概には言えないわけで、明らかに憲法が上とは言えないはずであります。そうした国際的に確立された規範というのは、やはり非常に重視して考えるべきものでありまして、それを我々は条約の遵守義務として憲法の中にも持っているということでございます。  それから、法律。法律も非常に重要なものであります。憲法は重要でありますが、法律も重要であります。  といいますのは、例えば憲法でよく言われるのは、君主主権か人民主権かというようなことを言いますが、人民主権の中からナチスとかスターリニズムが出てきたわけであります。だから、主権がどこにあるということを言っただけでは、人民主権と言っただけでは安心ではないんですね。その中にどういう統治機構をつくっていくか、法律、慣習、運営、それら一つ一つが重要である。だから、憲法に何々を盛り込めばそれでうまくいくということは決してありませんで、それを具体的細部まで実施することが必要であります。現実を見ますと、今の内閣法というのは、例えば総理大臣の権限は憲法に定められたよりも小さくしてあると思います。ですから、やはり、法律でどう決まっているかも極めて重要であります。  二番目に、「大日本帝国憲法と解釈改憲」というのを触れてあるんですが、先ほど申しましたとおり、帝国憲法を、我々の明治以来の先人は、より高次な理想や、それから、国家の当然の必要な要件というものに照らして解釈し、再解釈していったわけであります。大日本帝国憲法をそのまま読めば、天皇は統治権を総攬し、何でもできるということになっております。しかし、それではいけないと。  その中でも、やはり立法府の議会、特に国民から選ばれる衆議院の声を重視していけというのが美濃部解釈なんですね。美濃部さんは、天皇は独裁ではいかぬ、例えば大臣とかいろいろな輔弼機関、助言機関の言うことを聞いていくのが正しい解釈であると。一方の上杉解釈の方は、どっちかというとそのままの解釈で、天皇は統治権を総攬するのだから何でもできるという解釈なんですが、それではいけない、助言者の意見を聞いていくんだ、中でも国民の声が反映する衆議院の声を最も聞くべきだという格好に美濃部憲法学はなっていった。  これは、明治憲法をそのまま読んだのでは出てこない解釈でありまして、先ほど来言っておりますような、より高度な理想や国家の本質に照らして解釈し、一種の解釈改憲を施した結果だと私は考えております。  最後に、「不戦条約、国連憲章、憲法九条」ということを書きました。  国策の手段としての戦争はこれを否認するというのが、一九二八年に締結されましたケロッグ・ブリアン・パクト、いわゆる不戦条約の中身であります。これが議論されたときに、アメリカでは、これは自衛権を制限するものかどうかという大変な議論になりまして、結局、自衛権には関係がない、自衛の行動はこれによって制限されないという解釈で来たものであります。ケーディスさんは、実はこのことをよく覚えておりまして、ですから、自衛権を制限するのはおかしいというのが彼の立場でありました。  この不戦条約は国策の手段としての戦争を否認したわけでありますが、日本が、日本だけではありませんが、満州事変とか支那事変といって、あれは事変であって戦争ではないのでこの不戦条約違反ではないという抗弁を国際社会に対してしてきた。そういう抜け道があってはいかぬというので、戦争ではなくて、軍事力の行使や軍事力による威嚇それ自体を否定するように変えていったのが、憲法九条前段であります。その前の年には、既に国連憲章によってそういう内容が盛り込まれております。  したがって、憲法九条の前段は、不戦条約以来の長い伝統を持つ。不戦条約というのは、さらに言えば、国際連盟の国際協調による平和という考え方の発展的にできたブランチであります。  こういうふうに考えてきますと、第一次大戦後の大正デモクラシー期を担った例えば幣原喜重郎というような人たちが戦後また復活してきた、そういうときに、不戦条約の拡大バージョンであります憲法九条一項が出てきたというのは不思議ではないというようなことを村田さんはこの間の会議で言っておられますが、しかし、二項はそうではなかろう。二項は、やはり世界に非常に例の乏しいものだろうと思います。  憲法九条を世界に輸出すべきだという議論の方がよくいらっしゃるんですが、一項は、別に輸出しなくても世界は既に持っておる、二項は、相当の輸出補助金をつけてもどこも輸入してくれないであろうというのが私の理解でございます。  ほぼ一時間お話をさせていただきました。どうもありがとうございました。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がございますので、順次これを許します。船田元君。 ○船田委員 北岡先生の憲法の特に制定過程を中心とした大変整理された議論をいただきまして、我々も大変頭の整理ができたなというふうに思っております。  北岡先生は、調べましたら一九四八年のお生まれと伺っております。私は五三年でございますが、今議論しております日本国憲法の施行が一九四七年でございますから、その翌年にお生まれでございます。お生まれになったときにはもう既に現行憲法があったというわけでありますが、戦後生まれの世代として、この日本国憲法を現在どう思っておられるのかということをちょっとお聞きしたいと思うのです。  先ほど、押しつけであるから改正すべきだ、いや、押しつけでなかったから護憲である、そういう同じ次元で議論をすべき問題ではなくて、分けて冷静に議論をする必要がある、こういうお話もございました。また、日本国憲法の存在そのもの、もちろんその内容、あわせまして日米安保条約、これをあわせて考えるならば、戦後の日本の繁栄に非常に貢献をしたんだ、こういうよい憲法である、あるいは定着をしているという評価、いろいろあると思っております。  北岡先生に、戦後生まれのお一人として、現在の憲法をどのように評価しているか、その制定過程はまた別として、その後の日本の繁栄に非常に貢献をしたのではないかという観点で考えてみた場合に率直にどうお考えであるかということを、もわっとしていますけれども、まずお聞きしたいと思います。 ○北岡参考人 ありがとうございます。  私は、先ほども申しましたとおり、敗戦直後の非常に苦しい時期を乗り越え、国際社会に復帰する上で、非常に重要な役割を果たしたというふうに考えております。 内容的に申しますと、例えば象徴天皇制というのは、戦前の天皇制よりもむしろ日本の伝統に合致した、なかなかいい発明ではないかというふうに思っております。  ただ、その後、日本が国際社会に復帰し、どんどん経済発展をし、西側の確固たるメンバーになっていく中で、より広く世界の安全に寄与し、世界の発展を推進していくというような立場から見ると、むしろ制約要因もいろいろ目立つようになった。 私、法理的にもやはり九条二項は不自然だと思いますし、それが日本外交のさまざまなところで制約要因になってきているというような気がいたします。  憲法改正論がかつて非常に高まりましたのは、一度は、憲法を改正しないと軍隊が持てないと言われたときに一時高まりました。昨今は、憲法を改正しないと国際貢献が窮屈だというふうに言われました。しかし、いずれも解釈と細部の調整によって何となくできるようになったのでありますが、そういう修正はかなり難しいところに来ているかなという気がいたします。  もう一つ、憲法はだんだん古くなってきたという意見もございます。環境権とか、もっと新しい時代に適合したものにしなくちゃいけないという意見がございまして、それもそうだろう、しかし、それは法律でもできないことはないかなと。ただ、制定当時と非常に変わった、例えばプライバシーの権利とかマスコミの力が非常に強大になっているとか、そういうものに対してこの規定で本当に人権が守られる状況にあるのか。  私の基本的な立場は、憲法をみずからつくるというのはデモクラシーの第一歩だと考えております。そして、それは国民のために使いこなしていくべきものだと思うんですね。神棚に上げて飾っておくものではなくて、自分たちの道具として使っていくというふうに考えますと、五十年もたつとやはりいろいろなほころびが出てきているという感じは持っております。 ○船田委員 どうもありがとうございました。私の憲法観にもかなり近い考えかなということで、意を強くしたようなところがございます。  そこで、少し具体的な話に入ってまいります。  先ほどの、憲法九条を改正しないとまさに自分の国も守れないのではないか。こういう議論は時折、いろいろな国際情勢の大きな変化であるとか、また、特に私どもが直接経験をしたのは、湾岸戦争前後のあのPKOへの参加をすべきであるかどうか、あるいは多国籍軍の後方支援を行うべきであるかどうか、そういうときに相当議論をさせていただいたわけであります。これは、後ほどまた具体的な話をいたしたいと思います。  歴史的に見ると、こういった憲法の見直し論というのは、実は憲法制定以後かなり早い段階でその動きがあったというふうに物の本には書いてあります。それは極東委員会の動きだというふうに思っております。  先生のレジュメの略年表には、実はその後の話だと思いますので触れられていないようでありますが、一九四六年十月十七日、極東委員会におきまして、こういうことが議論されたというふうに考えられております。すなわち、GHQの日本占領下における一連の憲法制定手続が、先ほども出ましたが、ポツダム宣言に定める日本国民の自由に表明する意思にあるいは反するのではないか、そのことを特に極東委員会が重視して、憲法施行一年後二年以内にその再検討の機会を与えよう、こういう決定をしたというふうに聞いているわけであります。  この結果として、マッカーサーが、立場上これを伝達しなければいけない立場にいたのだろうと思います。本心はあるいは触れない方がいい、こう思っていたのかもしれませんが、マッカーサーが、これは四七年に施行される予定でございましたから、そこから一年後、つまり一九四八年五月から一年間、憲法の再検討の機会を与えるという趣旨の内容の書簡を、当時の吉田総理に一九四七年の一月三日に伝えている、こういうことだったと思います。  吉田総理はこれを受諾する返書を出したというふうにされているのです。  そのときに、この話が、政府の中でも、あるいはGHQ側の受けとめとしても、何かそれ以上に進まなかったように理解しているのですが、なぜ進まなかったのかという点。  それから、もう一つ大きなポイントというのは、やはり憲法制定当時GHQの占領下にあり、日本の主権が存在していたかいないかという議論はなかなか定まらないところでございますけれども、仮に、主権が存在していたけれどもかなり制限をされていた、こういう中で憲法が制定されたという疑念というか疑問を解消するためにも、一九五二年、昭和二十七年、サンフランシスコ講和条約を日本が受け入れるということで名実ともに主権を回復しているわけですから、その主権を完全に回復した時点で、改めて日本国憲法についての制定手続を、全部やり直すかどうかは別としましても、多少でもやり直す、あるいはそれをもう一回何らかの機関で承認するということがあってもよかったのではないか、素人考えでございますが、そんな印象を持っているわけであります。  この憲法見直しについての今申し上げた二つのポイント、そこにおける政治状況や、法解釈上どういう考えが成り立つかということについて、お考えを示していただけるとありがたいのです。 ○北岡参考人 日本側から見ておりますと、極東委員会は遠くにあり、マッカーサーは近くにあるわけであります。マッカーサーの意向というのはまことに強力と見えました。マッカーサーはまた、非常に自我の強烈な人でございましたので、極東委員会を大変嫌っているわけでありまして、自分がつくった、自分がつくらせた憲法にそれなりに愛着を持っておりまして、日本は軍備を持たなくていいということを、結構朝鮮戦争まで言っていたわけであります。  それは、これまたこの間の村田さんのお話にもあったかと思いますが、軍隊なんか持っていなくていい、我々がいるから日本は守れる、こういうことでございまして、いざとなれば核兵器を使ってでも守れる、ソ連がここまで来たらここに原爆を落とせばいいのだというまことに乱暴なプランを持っていたのですね。ですから、当面必要ないということで、マッカーサーは、ある程度伝達はしておりますが、決して積極的ではありませんでした。  日本側も、先ほど来申しておりますように、ほかに重要な課題がいっぱいございまして、とにかく民生を安定させて国民を食わせなければいけないという中で、イデオロギー闘争になるような憲法問題に当面深入りしたくないというのが非常にあったのだろうというふうに思うわけであります。とにかく当時は経済問題であった。  そういうことで、真剣に憲法改正なり再軍備なりの問題が出てくるのは、やはり朝鮮戦争だろうと思うのです。  ここで、マッカーサーの意向も日本再軍備の方に変わってくる。吉田茂から見れば、アメリカは、マッカーサーが軍備は要らない、それから遠くでは改正してもいいよと言っている段階では何もする気はないのですが、マッカーサーまで軍備を持てと言ってきた段階でどうするか。吉田茂がこのころ残したものの中には、再軍備はすべきでないということを盛んに言っているのです。どういう意味かといいますと、恐らく、当時のアメリカには、日本が完全な再軍備をすれば、その日本の軍事力を朝鮮半島に投入するという計画が一部にあったのですね。それはたまらないと。とにかく今は復興に専念したいというのがあって、アメリカに朝鮮戦争に使われてはたまらぬというのが非常に大きかったのではないかというのが私の推測でございます。これは幾つか、直接ではありませんが、客観的な資料はございます。  ですから、本格的に憲法改正というのが取り上げられるようになるのは、やはり独立した後、一九五二年、昭和二十七年からだと思います。  そこからは実際かなり大きな動きになりまして、改憲論が鳩山さんを中心とするグループから出てくる、そうすると吉田さんの陣営は意地になって改憲しないということにもなるということで、結局、改正のコストは非常に高いものでありますから、皆さん政治家ですからおわかりでしょうが、それを優先してやる政治的コストということを考えますと、なかなかそこまで全力投球することはできない。後にそれに近いことをもう一遍やろうとしたのは岸さんでありますが、岸さんは安保改定の結果倒れてしまうということもあって、こうした安保、国防の基本方針をいじるのは政治的なリスクが高過ぎるというので、歴代自民党政府が大分シュリンクされて、就任されるや否や、私の任期中は憲法は変えませんと言うことが多かったのではないかというふうに思っております。 ○船田委員 どうもありがとうございました。  そこで、少し話を進めまして、憲法第九条の関係につきまして、制定過程はもちろんですが、その後の九条を取り巻く状況ということについて、少し御意見をいただきたいと思うのです。  先ほど御説明の中で、第九条の中でも特に個別的自衛権の行使ということ、これについてはかなり九条の中で読み取れる修正を加えて、これはもう解釈上においても定着しているというふうに私も理解をしております。  言うまでもなく、最初マッカーサー・ノートのところでは、「日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも、放棄する。」と、極めて厳しい、きつい戦力放棄、こういうものがありました。それがケーディスの賢明な提案によりまして削除されたり、あるいは衆議院の芦田委員会におけるいわゆる芦田修正ということで、状況としては、個別的自衛権については、戦後しばらくはこれについての与野党の勢力分野での議論はあったと思いますが、相当定着をしているということであります。  ただ、私はもう一つ、さらに話を進めまして、国連を中心とした安全保障、集団的安全保障の最も純粋な形というふうに私は考えておりますけれども、集団的安全保障、さらには集団的自衛権ということについて、果たして憲法制定当時、GHQにおいても、また日本政府側においても、十分な認識があったのかどうか、この辺がいろいろ調べてみてもわからない点が多いと思っておるのです。  国連憲章は、一九四五年六月二十六日にサンフランシスコにおきまして調印がなされて、その年の十月二十四日に発効しているということでございます。ですから、年表的に見れば、これは当然その後に日本国憲法の草案が始まるわけでありますから、国連憲章のさまざまな文章、もちろん理念も含めて、相当これは、少なくともGHQの皆さんの頭の中には存在をしていたのではないか、こう思っております。  マッカーサー・ノートにはたしか、多分このことを言っているんだと思うんですけれども、こういう記述がありましたですね。「日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。」こういうマッカーサー・メモの文章でありますが、多分これは、国連憲章あるいは国連を中心とした安全保障機能というものに相当信頼性を置いて、それにゆだねる、こういう表現をしたんだと思うんですが、その辺はどのようにお考えでしょうか。 ○北岡参考人 集団的自衛権というものはそれほど長い歴史と確立された内容を持っているものではございませんので、それを当時の人たちがどれほど意識していたかというのはわからないということなんです。  ただし、当時の憲法起草者たちも、そんなにいつまでも日本占領が続くわけではないし、日本はいつか独立する。実際は随分長く続いたわけでありまして、講和条約が結ばれるまで六年かかりました。独立まで七年弱かかったわけでありますが、これは歴史上非常に珍しいことでありまして、普通一年ぐらいで終わるものなんですね。ですから、予想を超えて延びたということでありますが、独立し、主権を回復したら、いずれ日本が国際機関に復帰するであろうということは予想していたわけであります。  その中に、当然国連へもいずれ復帰する、ただし敵国条項というのがありますから、国連の中にもややそうした国に対する特別な対応が考えられておりますが、それにしても、いずれ民主的な国になれば国連にも入ってくる。入ってくれば、当然、個別的、集団的自衛権というのがあるということになるわけであります。  明示的に書かれておりますのは、言うまでもなくサンフランシスコ講和条約の中に、そして同時に、同じときに結ばれました旧日米安全保障条約の中に、日本は個別的及び集団的自衛の権利を持つというふうに明記されておりますので、ここでは明らかに理解されていた。書かれた時点でどれほど明確な理解があったかどうかはちょっと資料がありませんが、恐らく余り検討されなかったんじゃないかというふうに思っております。  一般に、ある戦争が終わりまして、国を占領してというときに、軍備を制限するということをやるんですね、軍隊は十万以上持ってはいけないとか、これこれの兵器は持ってはいかぬとか。そういうのであれば比較的わかりやすいんですが、今回は、ゼロということにした結果、権利問題にまで行って、その権利問題というのはほとんど初めての例ですので、十分な検討がなされたとは思えないということでございます。 ○船田委員 ありがとうございました。  私もまだ十分に調査をしているわけじゃないんですけれども、しかし、何か国連憲章と日本国憲法をあわせ読むというんでしょうか、ちょっと言葉が悪いかもしれませんが、両方をよく並べて、そして両方の概念であるとか条文であるとか、そういったものの比較あるいは関係論というのを、やはり憲法制定過程の中でもきちんと議論しておく必要があるのかなという感じがいたしたわけであります。  今お話しになった国連憲章、明示的に、GHQなり、ましてや日本政府がそれを十分に理解して、それで憲法を議論したということでは、確かにあのときの現実はなかったと思いますが、その後の我々としては、日本国憲法もあり、そして国連憲章もある。条約が優先するか憲法が優先するかという議論はまた憲法論としていろいろあるのでございますが、私どもの今の生活においてはその両方が存在しているわけですので、それを両方どう読み合わせるかということが非常に重要な時代になっているのかなというふうに感じておる次第でございます。  それから、先生はよく、集団的自衛権、これは先ほどもお話がありましたように、現行憲法のもとでも、その解釈によってというのか、本来的に独立国であればみんなこれを持っていると。これは日米安保条約にもきちんと書いてあるし、国連憲章の第五十一条にも、国連軍がきちんと動くという状況でないときには、個別自衛権、集団的自衛権はこれは国連としても認めざるを得ない、こういう記述がある。 そんなことを読み合わせて、集団的自衛権のことにつきましてはかなり積極的な発言をあちこちでされているかと思います。  これにつきましては、現段階において第九条を変えなくても、当面か永久かはわかりませんが、第九条を変えなくても、この集団的自衛権の行使ということについては、これは我が国として今持ち続けているのか、そしてそれに基づいて何らかの行動をするということが状況によっては許されるものであるのかどうか、このことについて、制定過程から少し離れますけれども、ちょっとお聞きをしておきたいなと思っております。 ○北岡参考人 船田先生の前段の御発言について一言だけ触れておきますと、私、国連憲章のことが十分議論されなかったと申しましたが、初期の、二月のGHQの中の議論や、それからGHQと政府との交渉の中では十分出ませんでしたが、議会の中では、将来国連に参加するようになったら軍隊が要るんじゃないだろうかとか、どういう関係になるだろうかというのは、はっきりした結論には至っておりませんが、ある程度議論はなされております。補足しておきます。  後段の方でありますが、集団的自衛権があるというのは講和条約、新旧日米安全保障条約にもありますので、条約上はあることになって、これは日本の法制局もそういう意見でありますが、あるけれども行使できないというのが政府、法制局の解釈だと承知しております。そのなぜできないかという理屈は、私の知る限り、日本は自衛権まで否定しているわけではない、必要最小限の自衛までは許される、しかしそれを超えるのはだめだと。つまり、その前提に、個別的自衛権の方が小さくて、集団的自衛権の方が大きいという発想がどこかあるような気がするわけであります。これは、現代の安全保障の条件からすると正確でないという気が私はいたします。  例えば、アメリカは、この間、二、三年前ですか、アフガニスタンやスーダンを爆撃したときに、あれは個別的自衛権の行使と言っているんですね。自国の安全を守るためにうんと遠くのテロリストも爆撃するというふうに個別的自衛権もなり得るわけでありまして、他方、集団的自衛権は、お互い信頼できる、共通の価値を持った国がお互い助け合おう、そうすれば、ふだんから膨大な軍備を持たなくても有事に結合できるということで、軍備も一定に抑えられる。ですから、むしろ集団的自衛権の方に備えておく方がより平和的で、軍備拡張を防ぐに資するのではないかというふうに私は思っております。  ですから、法制局の論理の組み立ての中に、そういう安全保障の常識から逸脱した論理の飛躍があるのではないかというのが私の考えでございます。 ○船田委員 この議論は大変大きな議論でございまして、短時間に行いますとまたさまざまな誤解を生むこともあるかと思いますので、この点については、これ以上は私は議論はいたすつもりはありません。  ただ、集団的自衛権の行使、これは本来的な独立国の権利としての問題と、やはりこれまで日本国憲法のもとで歴代の内閣が有権解釈をしてきた、その事実といいましょうか積み重ねというものについては、やはり我々議会にいる者としても無視をすることはもちろんできない。ただ、それがあるからといって、全くその先へ進まないということではなくて、ここはやはり、これから先の国際情勢、また日本の置かれた立場というのを考えつつ、これまでの政府解釈でよかったのかどうかという、その議論をするということも極めて大事であるというふうに思っております。この点はまた機会を譲りたいと思っております。  それでは、もう大分時間も参りましたので、最後に近い質問をいたしたいと思っております。  先ほど、九条ということだけではなくて、いろいろな権利規定、義務規定におきましても、従来からの考え方だけではなくて、もっと新しい義務、権利なども入れていくべきではないか、こういうお話もございました。  ただ、そういう議論の前に、もう一つ大事なこととして、私は、国としての緊急事態、これは自然災害もあれば、いわゆる紛争という事態もあれば、いろいろな事態があるわけでありますが、いずれにしても、国家レベルの緊急事態あるいは非常事態ということについての規定がほとんどないに等しいというふうに思っております。 ほかの国の憲法では、程度の差こそあれ、これに類する規定をきちんと設けている、そういうところも結構あるというふうに私は聞いております。しかし、日本では、その規定がないために、いざというときに、これは過去においても何回かあったんですが、超法規的手段ということで、それに訴えざるを得なくなるケースがあったわけであります。  こういう状態を放置しておくということになると、超法規的手段というのは、あくまでそのときそのときの政府が一番よかれと思ってとる方法でありますから、それを議会の方がその都度承認をしていく、あるいはだめだというふうに否認をしていく、こういうことである程度の担保はできるんだと思います。しかし、スピードの問題からして、議会の承認を得るようなことを考えましても、やはり憲法上で万が一の事態、緊急事態、非常事態における政府あるいは内閣総理大臣のいろいろな権限規定、こういったものをある程度書き込んでおく必要があるのではないか。これは憲法ではなくて、その下位の法律でいいんじゃないかという意見もありますけれども、やはり憲法上には何らかの規定を置いておく必要がある、このように私は思っているわけでございます。  つい最近発生いたしました小渕前総理の緊急入院と内閣の改造、昨日、新内閣が発足をしたということでございます。これも、例えば憲法七十条に、「内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。」この七十条の前段を適用いたしましてこのような措置になったわけなんですが、ただ、「総理大臣が欠けたとき、」というのが一体どういう状態を指すのか、こういう点についても、今回はかなりはっきりした状況でありましたので大きな混乱というのはなかったわけであります。  いずれにしましても、このことも含めて、やはり緊急事態に対する憲法上の備えというのが十分ではない、このように認識をしておるわけでありまして、このことについて先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。 ○北岡参考人 私、先ほど、憲法、法律、そうしたものの関係は柔軟に使いこなしていいのではないかということを申し上げまして、その延長線上に私の答えはあるのでございますが、有事、緊急事態についての何らかのルールが必要だということは、これは船田先生御指摘のとおりだと考えるわけであります。  いわゆる有事立法についてよく言われるように、もし有事になって戦車が出動するときに道路交通法をどれぐらい守るのかとか、例えば何か建物をつくったり、ざんごうを掘ったりするのに地主と事前に交渉するのかという、そんなことはあり得ないわけでありまして、当然ルールは必要でございます。日本人はいざとなれば融通無碍に、緊急避難で、超法規的措置でやっちゃうよと言う人がいるんですが、なかなかそうでもございませんで、練習していないことはできないものでございます。現に、阪神・淡路大震災のときも、オウム・サリン事件のときも、十分な行動ができたとは私は到底思えないわけでございます。やはり緊急の場合には緊急の対応が必要だというふうに思います。そういうルールが必要だ。  憲法の第六十八条には、後段でありますが、「内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。」と、まことに強力な条文が書いてございます。任意に罷免できるんですね。それほど強い内閣総理大臣の権限が定められているのでありますが、今日の実際実施されている内閣法その他の慣例によれば、閣議で決定していくことになっているわけですね。ですから、総理大臣の権限は、実は法律によって憲法より縮小されているというのが私の考えでございます。  では、そうした有事に対する備えはどこでやるべきかというと、それは私は憲法であればいいと思いますが、別に法律でもいいのではないかという気がしております。憲法は何よりも非常に硬性であります。もう一つは、法律も両院の賛成を得てつくるという大変重要なプロセスを踏むわけであります。  私、こういうふうによく比喩的に申し上げるのです。戦前、日本には枢密院という組織がございました。これは、しばしばデモクラシーの発展にとって障害になり、政府にとって鬼門でございまして、非常な嫌がらせをする。どうすればいいか。それは、理想論からいいますと、枢密院なるものを憲法から削除してしまえばよろしいわけであります。それは理想でありますが、ほかに方法もあるわけで、例えば一番軽い方法は、枢密顧問官に比較的非政治的な、中立的な人を任命する、これは政府ができるわけですね、徐々にやっていく。それから、枢密院御諮詢事項というのがありまして、枢密院に諮詢する、かける、付議する事項というのは、かなり法律とかあるいは勅令で変えることができたんですね。そうやって変えていくことができる。そういうふうに、人事でもできるし、それから法律、戦前でいうと勅令でもできるし、それから憲法でもできる。  ですから、どこでなくてはいけないということはなくて、政治というのは、私が皆様方に申し上げるのはまことに僣越でありますが、限られた時間の中で国民の幸福をいかに図っていくかということでありますので、私が学者で言うのは変ですが、学者のように幾らも時間をかけて真理を追求するというのとはわけが違うというふうに思うわけでありまして、それが私の当面のお答えでございます。 ○船田委員 終わります。 ○中山会長 島聡君。 ○島委員 民主党の島聡でございます。  一九五八年生まれでございますので、よろしくお願い申し上げます。  今、船田議員と北岡先生の議論を聞いておりまして、今の質問に関してちょっとお尋ねしたいことがあるので、お聞きします。  今船田議員は、今回小渕前総理がこのような事態になられたことに関しまして、第七十条の「内閣総理大臣が欠けたとき、」という議論をされました。緊急事態の場合、いわゆる内閣総理大臣が欠けたとき、臨時代理を任命するわけでありますが、そういう方が総辞職することを許すことができるかどうか、やることができるかどうか、それはかなりあいまいな判断解釈が必要であるというふうに思います。  そのような状況の中で、このように余りに速やかに行われたことに対しまして、今真理を追求されるとおっしゃいました、真理を追求される先生のお立場からして、どのようにお考えになりますか。 ○北岡参考人 私は政治学でありまして、憲法学ではないのでありますが、速やかな決定はいいことだと思っております。時間をかけてそんなに違った結論が出るとも思えないのであります。というのが当面のお答えでございます。 ○島委員 極めて緊急事態のときの法整備が日本はいろいろな意味でなされていないという一つの事例であったというように私は思っております。きょうはそれが主眼でございませんので、また別の機会にこれはやりたいと思います。  私は、先生の「政党政治の再生」という本を随分読ませていただきまして、自分の参考にさせていただきながら政治活動もしておりました。その中に、福沢諭吉の文章をとられまして、「文明論之概略」だと思いますが、「議論の本位を定めること」というのがありまして、常に議論の本位を定めて議論をしないといろいろな問題ができないという話があります。  ここで、憲法調査会が設置されたわけであります。先生は、憲法九条の呪縛から脱するべきという論文も出されました。憲法改正に当たり、憲法を審議するに当たりまして、憲法九条を取り上げるべきというふうに主張されましたのは、その議論の本位からすれば、軽重という言葉がございますが、どういう理由でそれを主張なさったのかということをお尋ねしたいと思います。 ○北岡参考人 これはまた、私は福沢諭吉に大変共鳴するところでありますが、日本が国際社会の中でいかなる地位を占めるべきかというのは非常に大きな問題だと思います。  そういう観点から考えると、私は、日本が国際社会の一員としての役割を、国際的な安全保障の観点でいいますと十分果たしていないのではないか、その大きなネックがここにあるのではないか。少なくとも九条についての議論が、私は、九条問題と言われること自体がちょっと残念に思っております。  つまり、問題は九条二項問題だと思うのです。九条一項を変えろという議論は私は余りないと思うのですが、九条二項というのは、そのとおり読めば既に破られているわけでありまして、どこが限度かというようなことになるわけなんですけれども、お話をしていますと、九条に一項と二項がある、それは相当内容の違うものだ、一項は世界じゅうどこでもやっているけれども二項は余りないというようなことをご存じない方が、相当な有識者の中におられるのですね、私は幾つかの新聞とか雑誌で対談して驚いたことがあるのですけれども。  そういう点で、大きな矛盾をはらんでいる可能性のあるところを直視することから始めるのが大事ではないか、世界の中の日本というのを考える場合に、それは避けて通れない問題ではなかろうかということでございます。  私の「議論の本位」というのは、その辺でございます。 ○島委員 先ほど申し上げましたように五八年の生まれでございますので、その方向性には割と共感を持つものでございますが、大日本帝国憲法をつくっているときに、陸奥宗光が外国に留学しました。そのときに、本当に憲政、憲法の制定をしてやるのがいいのかどうかということに、どうしてもちょっと疑問があるということがありました。私も、同じように、その方向性を認めるにしても、一つ疑問があるのです。  つまり、先生がおっしゃったように、憲法は物事を禁じることにはすぐれていて命ずることは苦手だという性質を持つ。それで、憲法九条というのは、ある意味で禁じてあるわけですね。憲法というのは、かなり政治的な意義を持つ法体系、規範であります。それが政治的な意味を持ったことによって日本の、当然外交上は、現実主義の外交と、そしてまた理想を追求する外交というのがある。その理想を追求する外交の中で、精神的な価値というものを日本としてはかなりアピールでき得た分野ではなかったかというふうに思うわけであります。それを今九条というもので取り上げたときに、そのいわゆる日本の政治的価値というか、そういう追求してきた価値を広めるということが減殺するのではないかという疑問を実はまだ腹の中に持っておりまして、その点についてお尋ねしたいと思います。 ○北岡参考人 周辺諸国の反応はどうかというようなことをよく言われるのですが、私は、例えば日中二十一世紀友好委員会の委員などをしておりますが、憲法改正論がこのごろ日本に出ている、何か日本はナショナリズムの方向に動いているというような議論が出て、いや、そうではないよ、あなたの国も憲法を変えているでしょう、それからまた、あなたの国では国防は国民の神聖な義務であるということを書いているじゃないですかというようなことを言って、私は余り強い反対に遭ったことがないのです。  これは、他方で、日本は軍隊を持たないと言いながら巨大なものを持っているじゃないかという疑惑の方がかえって根深いのかもしれない。日本は一定の軍隊を持っているけれども、これを使う方針はこれこれとはっきりしている方が、現に無視されているルールで縛られているというよりは説得力を持つかもしれないという気がするのですね。  これは、現実の日本の戦後五十年、中国との間でも、よく歴史を踏まえるということを言います。その中で我々はいつも言うのですが、戦後五十年の平和の歴史も見てほしい、これもちゃんと半世紀ですよということを言うのですね。日本がやってきたことを見ますと、それほど直ちに強い反発が出るとは思えない。  他方で、アジア諸国と比べますと、これだけの経済力の違いがありますと、どうしても多少の反発や不満は出てくるというので、そうした日本のアジアにおける経済的な力からくるギャップから発する不満や批判、嫉妬というようなものとこれとはちょっと筋の違うもので、よく見た方がいいのではないか。  例えば、リー・クアンユーさんのような非常に物のわかった方でも、九〇年、九一年ぐらいの段階では、日本でPKO論議が盛んになったときに、彼はそれを批判しておりました。日本がそういうことをやるのはアル中患者に酒を飲ませるようなものだと、非常に失礼なことを彼は言ったことがある。しばらくしましたら、いや、PKOぐらいはやるのは当然だと言い出したのですね。しかし、それは動物でいえばしっぽや何かぐらいにしてほしい、歯やつめにならないでほしいということを言い出しまして、割合、認識は変えているのですね。  現実に、日本はカンボジアPKOでそれ相応の成果を上げました。そういう行動は、それなりにアジア諸国の世論も変えてきておりまして、最近でいいますと、不審船のときの日本の対応が過激だといって批判する国はないと思うのですね。ですから、そういう日本の精神的価値、そのアピール力というのは、日本が戦後社会に復帰する時点では一定の意味を持ったわけでありますが、今ここに固執して、さらにそれを強調していくよりは、私は、もう少し実態に沿った現実的な平和主義の路線を憲法に盛り込む方がいいのではないかというふうに考えております。 ○島委員 今、現実主義的なということで、よく先生は、例えば、いい解釈ならどんどん解釈を変えていってもいいという話をされます。これは、私、ちょっと疑問が今時点であるのです。  先生の御議論でいきますと、憲法は解釈も時代の変化に応じて自由にやり直すべきであると。例えばアメリカ合衆国憲法は修正一から十条で人民の基本的権利を認めて、当時、黒人に白人と同じ権利はなかったが、特に憲法改正を行わないで、権利は白人以外にも及ぶようになったというようなことを事例として持たれております。  確かに、いい解釈ならやってもいいという議論もあると思うのですが、その解釈をどんどん拡大していくときに、解釈を拡大していくその解釈の主体はだれか。日本でいうと、例えば衆議院法制局になるのでしょうか。まず、それはどこかということをお尋ねしたい。  それが、例えば今民主主義の中において、憲法は民主主義で決めるものである。今、イギリスなんかで新しい政治思想として第三の道というのがありますが、そこには、民主主義なくして権威なしというのが一つの流れであります。つまり、だれが解釈を変更するのかがあいまいなままで解釈を変更していったら、その法規範自身が権威がなくなって守られなくなるだろうと私は思うわけです。  それで、二点でありまして、解釈というのは、一体だれが解釈を変えるのか。それから、第二点として、そのような解釈をどんどん変えていくということは、かえって憲法自体というものに対しての、いわゆる法の権威というのをなくすのではないかというふうに思うのですが、いかがでしょうか。 ○北岡参考人 解釈を変える、あるいはどの解釈が正しいかというのを最終的に決めるのは最高裁だと思います。もう少し機動的に言えば、やや日本の現実を離れて申し上げれば、憲法裁判所というものがあって、どの解釈が正しいか、これは合憲か違憲かということをきちっと決める。速やかに決めるということがあればもっといいかと思うのですが、現実の日本の最高裁は、行政府、立法府の構造がだめだということをほとんど言ったことがないものですから、我々は最高裁の役割というのは余り念頭に来ないのですが、しかし、理論的に最高裁はその役割を担っております。  それからまた、政府がある解釈をして、そしてそれが非常にいけない、あるいは国民の反発を得るということであれば、理論的には、それは次の選挙で痛い目に遭う、あるいは、それを批判していた野党が次に政権をとって、ルールなり解釈をまたもとに変えるということをやるわけであります。ですから、何もかも法律あるいは憲法にしょわせるのではなくて、政治の重大な部分は、当然でありますが、政治が背負うべきものであるというのが私の解釈でございます。 ○島委員 多分、この九条の問題について解釈を拡大しろというのは、先生の方からすると、例えば政治史の御専門ですから、三分の二条項のこの日本の憲法において、なかなか解釈のしづらい、いわゆる硬性憲法ですから、極めて難しいというような御判断もあるのではないかと思っておるわけでございますけれども、制定過程において、もし御存じだったらお尋ねしたいんですが、九十六条、いわゆる改正が極めて、これは硬性憲法になっておりますので、これはどういうような形でこうなったのでしょうか。 ○北岡参考人 まことにうかつながら、それは研究したことがございませんでした。確かにこれは、随分硬性だなと言って交渉すればもう少し緩めてくれたかもしれないですね。  ただ、恐らく当時の日本人の念頭にあった憲法というのは、大日本帝国憲法なんですね。これに比べれば改正の余地はまだあるわけでございまして、ですからそういうふうに理解をしたのかなと。あるいは、それから、非常に限られた時間で大量の審議をしていくわけなので、集中した場所が幾つかありましてここには余り及ばなかったのかなというふうに思っておりますが、申しわけありません、そこの点はよく存じません。 ○島委員 この三分の二条項がいわゆる政治に与えた影響というのは結構大きいんじゃないかと私は思っています。つまり、三分の一の勢力があればある意味で憲法が守れるというような状況になっていたわけでありますから、そういう意味で、かなりいろいろな影響を日本の政治史に与えたのではないかというふうに私は思っています。  だから、ぜひともこの憲法調査会でも、いろいろな意味で改正、私は、解釈でどんどん拡大して解釈していくということは余りよくないというふうに思っています、自分自身。できるなら民主主義の中できちんと議論し、そしてその上できちんとこのような判断だという形でやるべきだというふうに私は思っておる次第であります。したがって、どうしてこのような硬性憲法になり、かつ、国際的に見て、どれぐらい改正についての条項が、日本はどれぐらいの位置の硬性憲法なのかということもぜひ議論していっていただくといいなというふうに思っておる次第でございます。  時間がもうありませんので、先ほど、どういう統治機構をつくっていくかが重要であるという話をされました。「内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。」六十六条、これは「首長たる内閣総理大臣」となっていますが、内閣法では多分これは議長の役割になっていると思います、どんどん下がってきているわけでありますけれども。どういう統治機構をつくっていくかということに関しまして、北岡先生の御意見は、いわゆる首相公選制という形じゃなくて議院内閣制を重視した形がいいと思っていらっしゃるんじゃないかというふうに「政党政治の再生」を読みながら思うんですが、その点についての御意見をいただきたいと思います。 ○北岡参考人 議院内閣制というのは本来非常に強い制度でございまして、よく日本の憲法のことを三権ブンリツあるいは三権ブンリュウというふうにいいますが、日本の憲法は三権分立ではないわけでございまして、三権分立はアメリカのようなものを指しておるわけであります。日本は三権のうちの立法権と行政権をくっつけた、議院内閣制というのはそういうものでありますので、国会で多数をとればそれがそのまま行政に反映していくという非常に強いシステムなんであります。  しかし、いかなるシステムも、ある国に持ってきますとその国特有のカルチャーの中で解釈され、再解釈されることがよくあるわけでございまして、さっきも出ました、亡くなりました高坂先生はあるところで、半ば冗談で、日本の本当の憲法の第一条は、和をもってたっとしとなすであると言われたことがあるんですね。つまり、お互いコンフロントしないで、まあまあでやっていって、一人の人が突出しない、なあなあでやっていく、これが日本人の常識の第一歩だというふうに解釈しちゃうわけですね。ですから、大日本帝国憲法がつくられたときも、首相、総理大臣の権限はやはり弱める方向にみんな動くわけです。トップの権限を強めて喜ぶ人は一人ですが、嫌な人は大勢いるわけであります。  ですから、独裁を好まない体質というのが、独裁と言うと言い過ぎですが、強いリーダーシップを好まない体質がある、先人の言ったことを引き継ぐ、皆さんの意見をよく聞いてやると言った方が通りがいいものですから、どうしてもそういうふうに解釈されてくるということでございます。ですから、私は、議院内閣制の本来の形が、イギリスなんかでやっておるようなものがいいと思うんです。  それから、先ほど先生言われましたとおり、本当はそうやって、三分の二という大仰な多数ではなくて、一般の多数で、おかしいところは議論を尽くした上でどんどん変えていく、私もその方がいいと思うんですけれども、現実にそういうふうになっていないということを考えますと、私は、議院内閣制の本来の姿に戻すというのが第一歩ではなかろうかというふうに考えております。 ○島委員 最初に、北岡先生の本を読みながらと申しました。前回の総選挙以来、政党政治というもの、いわゆるマックス・ウェーバーの言う指導者民主政治というんですかね、そういうような政党をつくりながらやっていくのがいいのではなかろうかという先生の御議論に共鳴し、いろいろな意味でそういうような政治行動をしてきたわけでありますが、これはわずか三年ちょっとの政治行動ですのでまだまだかもしれませんけれども、率直に申し上げまして、なかなか日本では、政党政治の指導者型民主主義というのはいろいろな意味で難しいかなというふうに思っております。それよりも、どちらかというと、首相公選制で直接国民が選んだ形にした方が、それは決して独裁になることはないと思うんですね、実は日本のリーダーシップというのを生かす形になっていくのではないかということを、このところ、社会科学的な、ですから実験はできませんが、この数年間、いろいろな経験の中で思っております。  今先生がおっしゃった御議論では、いわゆる一人の独裁というんですかね、一人の強いリーダーシップとおっしゃいましたかね、それ以外に何か首相公選制を導入するということに対しての問題点というのはあるんでしょうか。 ○北岡参考人 私は、首相公選制といいますか、端的に大統領制と言ってもいいと思うんですね、象徴天皇はそのまま維持して、その下に大統領がいるというのは不可能ではないと思います。  ただ、それは当然大幅な憲法改正を必要とするわけでありますので、私は、今の時代というのはスピードが非常に重要な時代だと思うものですから、憲法を改正してその次にというよりは、もう今の仕組みの中で法律制度、これはこの方が簡単ですから、それをやっていって、それでだめだったらまた次に考えるということで、手続の易しい法律の方で議院内閣制の本来の姿に戻す、それでもどうしてもだめだったら次の首相公選制といいますか大統領制というのは考えるに値するというふうに思っております。 ○島委員 イギリスのサッチャーとかブレアは、議院内閣制のもとでいわゆる大統領型首相というのを目指してやっておりますので、それは十分可能かとも思いますけれども、ここは憲法調査会でございますので、そういう視点で御質問をさせていただきました。  きょうは、どうもありがとうございました。 ○中山会長 倉田栄喜君。 ○倉田委員 公明党の倉田でございます。  北岡先生、きょうは大変ありがとうございます。  私の問題意識は、この憲法制定過程の論議を通じながら、何を、どのように共通認識を持って、そこから何を学び、これからどう生かしていくか、こういうことであります。同時に、その憲法制定過程とともに、現行憲法が今日までどのような役割を果たしてきたのか、それも十分検証しなければならないことであろう、こう思っておるんですが、先生の資料をいただきまして、資料のタイトルが「歴史の中の日本国憲法」ということで、歴史の中のというタイトルをあえて資料の中におつけになった意味が何かここにあるのかどうかと私ちょっと思いましたので、簡単で結構でございますので、この点、何か御所見ございましたらお示しいただければと思います。 ○北岡参考人 これは英語でいいますと、多分、ジャパニーズ・コンスティチューション・イン・ヒストリカル・パースペクティブというような意味でございまして、第一に、憲法というのは、バイブルではございませんで、一つの歴史の中である段階でできてきた重要な政治的文書である、そうすると、それができてきた経緯、それが果たしてきた役割、そういうものの中で見ていくべきだ、そういうふうにありたいという願望を込めたタイトルでございます。 ○倉田委員 憲法を論ずるに当たって、我が日本自体がどのような国なのか、どうあるべきなのか、これが一つ大きな問題だろうと思いますし、二つ目には、先ほど先生の最後の方のお話にありましたけれども、国際社会の中で我が日本がどうあるべきなのか、こういうことなんだろうと思います。  そこで、まず私が一番考えながら突き当たっておりますことは、我が日本というのはどういう国なのか、そしてどうあるべきなのかということで、先生の御専門は政治過程、政治という過程の中でということでございますので、憲法制定過程における政治という部分の中で、いわゆる欽定憲法と言われる明治憲法、天皇主権の憲法ということであります。また後ほどお尋ねさせていただきますけれども、現行憲法が国民主権の憲法である、こういうふうに言われる。そうしますと、国体という問題もあるのだと思うのですが、天皇主権と言われる憲法が国民憲法ということにすっと変わってしまう。  先ほど先生のお話の中で、この日本の現憲法は条約を成立する過程に似ている、こういう話もありました。なるほどなと思ってお聞きしたわけであります。天皇主権ということから国民主権というふうに移り変わっていく中で、それをどう説明するかということは、八月革命説等々いろいろあったのだと思うのですけれども、いわゆる政治過程の中であるいは我が国の議論の中で、それは天皇制をどう位置づけるか、どう見るかという過程の中なのだろうと思うのですけれども、国民主権にするということの中では実はどういう議論があって、どういう議論の過程があったのだろうと思うわけですね。その点について、先生はどんなふうな御認識をされておられますか。 ○北岡参考人 先ほどちょっと申し上げましたとおり、私は、主権がどこにあるかということは最も決定的に重要なことではないと思っているのです。さっき申しましたとおり、ナチズムとかスターリニズムというのは人民主権の中から出てきたものでありまして、君主主権というのは古い制度でありますが、それだけ君主が国民の隅々まで把握して独裁的に生殺与奪の権を握るというようなことは古い時代にはできなかったわけですね、現実に。それが一点でございます。  それから、君主主権から国民主権に移るというのは、どういう法論理で可能かというのは、これは法学者の仕事でありますが、実際は憲法の改正に限界はあるかどうかという議論だと思うのです。今日の憲法の改正には、例えば限界があるという説がございます。平和主義とか基本的人権は変えてはいけないというのがあって、それと、限界はないという純形式論に固執する議論もございます。形式論でいけば可能ですが、天皇主権から国民主権になったというのはやはり革命としか言いようがないというわけで、政治学的に見れば明らかに国体は変わったと私は思っております。変わらなければ日本はその後の生存、発展も難しかったと思うものですから、そのために変えたというふうに思っております。  それから、最初にお尋ねがありました、日本がどういう国であるべきかということなんですけれども、これは倉田先生お尋ねの話とは違うのかもしれませんが、その中に、一部に、例えば日本の伝統を大切にしろとかそういうような条項を入れた方がいいという議論もあるように思います。しかし、それはいわゆるプログラム規定として、課題として入れればそのまま浸透するというものでもありませんので、私は、それを具体的に法律やいろいろな政策にどう実施していくかという、政治の方の課題ではなかろうかというふうに思っております。  ただ一般的に、我々がここに生きているのは、ただ無媒介に生きているのではなくて、ずっと長い歴史の中に生きているというふうに考えれば、そうした歴史への尊敬なり伝統への敬意なりというのを入れるのは悪いアイデアではなかろうという感じを持っております。あるいはお尋ねの趣旨と違うかもしれませんが、とりあえず。 ○倉田委員 今先生がお答えいただいた部分も重要なのだと思うのですけれども、私自身の問題意識は、この議論をこれからどう学び生かしていくかということの中で、やはり主権がどこにありどうあるべきかということは非常に重要であるというふうに思うわけであります。  そこで、この制定過程の中で、明治憲法がいわゆる天皇主権の憲法である、そして現行憲法が国民主権の憲法であるといいながら、では、我が国の形として、我が国は果たして立憲君主制の国なのか、あるいは共和制の形をとっているのか。 これは制定のときにも、共和制論争あるいは立憲君主制論争というのはあったはずだと思うのです。  先生の言葉をかりて言えば、象徴天皇制というのはいい発明だ、こういうふうなお話でもありますけれども、象徴ということがどういうふうにして、いろいろな議論を経て知恵として生まれてきたものであるのかどうかということはあるにしても、私自身は、国民主権そして天皇の象徴制、そのためにも、立憲君主制なのか共和制なのかということの議論ついてはある程度議論を整理しなければいけないのではないのか、こういうふうに思っております。主権の問題は、和をもってとうとしとすればそんなに詰めなくてもいいよという考え方もあるのかもしれませんけれども、先生はこの点についてはどうお考えでしょうか。     〔会長退席、葉梨会長代理着席〕 ○北岡参考人 例えばイギリスという国を見ますと、これは立憲君主制ですがデモクラシーであるということは、時代によって違いますけれども、言えるわけでありまして、もちろん、私は国民主権の方がいいと思っておりますし、主権は国民にあると思っております。明治憲法より今の憲法の方がいいと思っているのです。  ただ、主権論議というのは、憲法学者は好きなのですけれども、例えばオーストラリアで女王、国王をどうするかという議論がありましたときに、あれが変わると変わらないでオーストラリアの政治がそんなに変わるかというと、私は大して変わらないと思うのです。  そんなことよりも、私は、先ほどお尋ねがあった議院内閣制か大統領制か、あるいはもっと端的に言えば、中選挙区か小選挙区かという方がはるかに大きな影響を政治にもたらすと思いますので、その議論というのは政治学的には余り生産的ではないという印象を持っているわけです。主権は、基本的には国民にある。世界とちょっと違うけれども、象徴天皇制というやや変わった、しかし日本の伝統にかなり合致した制度を我々はとっているというので、当面大過はないんではないかというのが私の解釈でございます。 ○倉田委員 先ほどの話の中で、象徴天皇制と大統領制というのは両立し得るというふうなお話もありましたけれども、それは今先生がお考えになっているような趣旨からそうお答えになったのでしょうか、もしその点について御所見がございましたら。 ○北岡参考人 そのとおりでございます。つまり、例えば他国の大統領には、実権を持った大統領と、実権と権威の両方を兼ね備えた、儀礼的な部分も兼ね備えた大統領もございます。ドイツなんかでは、御承知のとおり、やや儀礼的な大統領と実権を持った首相というのがございます。アメリカなんかのように両方兼ね備えたところもございまして、両方兼ね備えておりますと、大統領個人がいささか不道徳なことをしたりすると大変困ったことになるわけでありまして、日本はこれが分離しているというのは、なかなか日本人の知恵ではないかというふうに考えております。 ○倉田委員 以上で終わります。ありがとうございました。 ○葉梨会長代理 安倍基雄君。 ○安倍(基)委員 北岡先生、なかなかおもしろい意見を聞かせていただいてありがとうございました。私は、本来自由党であったのでございますけれども、二つに分かれまして、今保守党を代表して質問いたします。ただ、憲法論においては、自由党も保守党も余り変わらないのでございまして、そういった意味で、たまたまそういったことになりましたので、よろしくお願いします。  先生の言われた、この新憲法は一種の条約みたいなものだ、なかなかおもしろい観点だと思うのですよ。確かに、押しつけであったからということと内容とはまた別だと。ただ、この場合に、押しつけとはいっても、日本側には天皇制を維持したいという強い要望があった。そのいわばバランスのうちに、押しつけであるけれども、逆に日本政府も積極的に受け入れたんじゃないかということは、私としても事実であろうと思います。  そこで、私、ほかの参考人のときに、戦争放棄の問題などに関連して、ドイツの場合にどうなっているのかという話が出ましたときに、ドイツの場合には、制定が非常におくれたというか、そんなに急がなかった。日本の場合には非常に急いだ。それは、マッカーサーが極東委員会が発足する前にやってしまおうという気持ちが強かった。また、マッカーサーも、ある参考人の意見には、一つの戦略を持っておって、いよいよとなったら核を使うのだ、そのためには日本は全く持たないでも大丈夫だというようなことが頭の中にあったというようなことも言っておりましたけれども。  ただ、基本的には、押しつけであろうとなかろうと、特に条約であると考えるなら、独立してから、本来、情勢の変化に応じて直すべきだった。それを直さなかったということは、一種の追認と言わざるを得ないのかと思うのです。いわば法制定の過程との関連で、法改正をしなかったということは、一種の追認になったと言えるのではないかと思いますけれども、その点についてどうお考えですか。 ○北岡参考人 形式的にはそのとおりだと思います。  ただ、私のような学者が政治家の先生方に申し上げるのはなんですが、政治は限られた時間の中でたくさんのアジェンダをこなしていくわけですから、どれを優先的にやるか、なるべく効率的に、効果の大きいものから着手するということが多分本旨だと思いますので、ここには必ずしも全力が投入されなかった。例えば、三分の二は難しい、では小選挙区にしようというのが鳩山内閣のころにあったわけでありまして、ですから、途中で挫折したと言えないこともありません。岸さんの安保改定も、憲法改正は視野に入っておったと思います。  実は、憲法は安全保障条約と非常に深い関係が先生御案内のとおりあるわけでありまして、日本はアメリカを守らない、アメリカは日本を守る。一方的にアメリカは日本を守る、しかし日本はアメリカに基地を提供するという、対等でない関係を二つ組み合わせてあたかも対等なようにつくってあるわけでありまして、これが特に旧安保条約の場合は非常に厳しい。ほとんど従属的な関係のような条約でございまして、この条約には、明文では米国は日本を守る義務はない、日本は基地を提供してアメリカはこれを受諾する、それから治安出動の可能性まで入っている等々、文言が非常にそうなんですけれども、従属国のような関係の文章なわけであります。  ですから、まず当面こっちを直そうと岸さんが思ったのも無理はないだろうということでありまして、確かに見直しができればよかったのでありますが、当時の指導者は他を優先してそれなりに日本を発展させたわけでありますから、それを深くとがめることも難しいかな。  しかし、どこかで――歴代の総理大臣はある程度のことはやっているのですね。 つまり、池田さんは岸さんの後の混乱を経済発展で収拾させていこう、佐藤さんは日本の主権における大きな傷であります沖縄を何とかしようというふうに徐々にやってきた、その中で憲法は後回しにされたということだろうと思います。 ○安倍(基)委員 私も、改正手続が厳し過ぎるということは以前から議論して、たしかアメリカから何人か憲法制定当時の人が来てディスカッションをやったことがございましたけれども、そのときにも改正規定が少し厳しいのではないかという議論をいたしたのでございます。  ただ、客観情勢が本当に、例えば国防問題が非常にシリアスになってくれば、こういったことがあっても、例えばアメリカなんかも、結構アメリカの憲法改正の要件も厳しいのですね。ドイツなんかも、例えば下院なんかは三分の二を要すると思いました。  そういったことで、これは選挙制度との関連もあるのでございますけれども、ある意味からいうと、さっきの安保条約の改正がうまくいった、それが憲法改正をおくらせたというか、国防問題はそんなに携わらないでも済むんだという一つの状況をつくり出したという客観情勢があるのではないか。  逆説的に言えば、そういった条約的なものの憲法が、安保条約という形でもって、いわば本当の意味の国防がなくても済んだという形で、実質上の憲法改正はないのですけれども、そういう環境をつくり出してきたというのが改正論議をおくらせた原因じゃないか。  いわば冷戦の終結によって、この問題は、客観情勢が動き出したということがこの憲法論議を活発にしてきたゆえんではないかと思いますが、いかがでございますか。 ○北岡参考人 御指摘のとおりだと思います。 ○安倍(基)委員 それから、ちょっと話題を変えまして、解釈改憲の関連ですけれども、イギリスは憲法が成文じゃないのですね。これが何でうまく機能しているか。この辺について、イギリスは判例法の世界だという問題はございますけれども、憲法がろくになくてうまく機能しているというのは非常におもしろい形態でございますけれども、憲法論議の問題と関連しまして、成文憲法のない国でどうやってうまくいっているのだろうかということについての御見解を聞きたいと思います。 ○北岡参考人 これは伝統といいますか、我々も本当に憲法、法律のルールどおりにやっているかというと、実は、それ以外にできたいろいろな慣習、申し合わせで結構動いているものでありまして、ある意味では、それは別にイギリスに限らないというふうに考えております。  政治家の皆さん方にこういうことを申し上げるのはまことにあれなんですけれども、政治家は非常に土着の風土を特有に反映したものでございまして、どういう行動が望ましいとされるかというのは、各国によって随分違うという印象を私は持っております。  日本で非常に大事なのは、いろいろな人に話をして了解をつけておくことが大事でありまして、根回しが大事でありまして、おれは聞いていないということを言われないように手を打っておくということが非常に大事で、そんなことは法律にも憲法にも書いていないのでありますが、あるいは自民党の規則にもなくても、話さなくてはいけないということは多々あるわけでございますから、イギリスで憲法以上の伝統、慣習があるとしても私はちっとも驚かないわけでございます。 ○安倍(基)委員 なお参考人にお伺いしたいのですけれども、では、一体どういう点をどう変える、また、今参考人は例えば環境権というかプライバシー権に言及されましたけれども、公共の福祉といわゆる基本的人権というのは非常に調整が難しいのでございます。  参考人は自然権的なものがあるとおっしゃいましたけれども、私は、自然権というのは、基本的にはその社会がどれを自然権的なものと扱うかどうかということにかかっておって、本来、自然権そのものがあるのではない。その社会が本当にこれを基本権と見るか自然権と見るかというものが一番大切であって、本来、いわばその社会を超えた自然権があり得るわけがない。  でございますから、これからの、プライバシー権とか環境権という話がまた基本的人権という話になってきて、公共の福祉はどうなるかという話になってくると非常に微妙な問題が起こると思いますが、この点、公共の福祉との関連において、こういったいわゆる基本権的なものをどう考えていくのか。  第一点の、何を変えるべきかということと、第二の、どういういわば理念的な権利を持ち込んだ方がいいのか、それとともに公共の福祉との接点をどこに置くのかという点についての御見解を承りたいと思います。 ○北岡参考人 順不同でございますが、時代とともに、自然権、何が人間の権利であるかというのは、確かにおっしゃるとおり変わるものでございます。  十八世紀には、所有権というか財産権というのは自然権であって神聖不可侵というふうに思われておりましたが、後にそうでなくなりました。ですから、十八世紀的な思想で言いますと、所得税とか、ましてや累進課税なんというのはけしからぬ、あるいは相続税なんというものはけしからぬということになるのでありますが、今日ではそうではないわけでありまして、いろいろ変わってきたことは確かでございます。  女性の参政権なんかが当然のことだと言われるようになったのも、やはり二十世紀になってからのことであります。  そういうわけで、時代とともに変わってきますが、しかし、全体の方向はやはりあるのではないだろうか。国民がなるべく自由に本来の能力を発揮できるようにしていくという方向は、あるのではないだろうかというふうに思っております。  そういうわけで、私が先ほど、前の御質問にあったのですが、歴史の中の憲法というのは、そうした歴史的な人類史の発展の中で何が望ましいかを考えるべきだということも含意の一つでございます。  公共の福祉と権利との関係でございますが、これは現実に大変難しいことなんですが、抽象的な法原則で決めることがそもそも難しいということもございます。  例えば、現在でいいますと、成田空港と残っている地主の問題。飛行場という非常に公共の利益の大きなものと私権というものを調和させるといって、調和しない。どうも私権に譲歩し過ぎているのではないかと一般国民は思っておると思います。  また、石原さんが今やっていますが、東京の環状道路の幾つかも、幾つかのネックで通らない。あの道路計画はおおむね関東大震災以後に後藤新平のもとでつくられたものでありまして、それがいまだに関係者のせいで通らないというのは、だれが悪いというわけではなくて、公共の福祉が実現されていないということではなかろうかというふうに思います。  それは憲法の問題なのか、法律の問題なのか、あるいは、法律の問題の土地収用の手続をやっていないわけですから、個々の政策の問題なのかというのは別問題でありまして、私は、それは憲法のせいというよりは法律あるいは個々の政策のせいではないかというふうに思っております。  また、その中で何を特に変えていくべきかというようなことになりますと、私は、人類の歴史の中で後戻りしない変化というのは幾つかあると思うのです。  例えば、科学技術の発展というのはそうだろうと思うのですね。今日は、盗聴とか、人の挙動をうかがい知る能力とか、それをまたパブリサイズして世間に知らせる能力というのは非常に強まっているわけでありまして、ですから、かつてのような信書の秘密だけで済んだようなもので済まない、保護がないとプライバシーは難しいだろうというような、今日の技術の発展というものに照らしてこういう権利は考え直すのがいいのではないか。やや抽象的ですが、そういうふうに考えております。 ○安倍(基)委員 時間が来ましたから終わりますけれども、基本的に、今度の憲法論議の中で、いわゆる人権と公共の福祉との接点という点がやはり一番大きな論議になると思います。  どうもありがとうございました。 ○葉梨会長代理 佐々木陸海君。 ○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海でございます。  参考人は、きょう憲法の制定過程について詳しくお話をいただきました。その中で、象徴天皇制、それから戦力を持たないという規定を含む憲法九条、こういったものを含む今の憲法ができてくる過程について、主としてマッカーサーの意図と日本側のそれに対する対応というところから御説明をいただいたように思います。  もちろん、この制定の過程で国内でのさまざまの民間からの案なども出されたということもお触れになりました。国内のそういういろいろな世論というようなものも、その背後に動いていただろうと思います。  それから、マッカーサーがかなり個性の強い人であったということを考えるにいたしましても、それの背後にあるアメリカの世論、連合国の世論、そしてまた日本の侵略を受けたアジア諸国の世論といったようなものも背景にあって、最後はああいう形にまとまったという見方をするのがいいのではないかと思うのですけれども、その点はいかがでしょうか。 ○北岡参考人 御指摘のとおりだと思います。 ○佐々木(陸)委員 それで、そういうアジア諸国の国民の意思なども受けながら、憲法九条はああいう形でまとまった、ああいう形でつくられたということになりましたが、憲法制定後、まだアメリカの占領にあった時代から、参考人のお話でも、むしろマッカーサーの方が強く主張して入れたあの九条二項の規定に真っ向から反してと言ってもいいと思うのですが、日本にアメリカ側から再軍備の要求を突きつけてきて、それが警察予備隊、保安隊、自衛隊という形でずっとつくられていくという過程があると思うのです。  そしてそこには、参考人のお書きになったものの中では、アメリカ政府の方針の転換があったということも触れておられるのですけれども、その辺の政治過程といいますか、そういうものをどんなふうにごらんになっていらっしゃるのか、御説明ください。 ○北岡参考人 アメリカの政策の変化ということでございますか。  私は、アメリカの政策の中で首尾一貫しているものは、日本をアメリカにとって、ちょっと言葉はきついかもしれませんが、都合のよい国にするというのが首尾一貫した方針だと思うのです。  それは、最初は、日本をまず無害な国にする、アメリカを脅かすような国であってはならないというふうにしたわけであります。ところが、アメリカは別に日本だけを相手にしているわけではありませんで、世界を相手にしております。そうすると、アメリカにとって他の脅威が出てきますと、この日本というのはもっと同盟国として役に立つ国にしようというふうになってくる。ですから、よく逆コースというふうに言われるのですが、アメリカ側の政策が大きく変わったというよりは、アメリカの世界認識が非常に変わってきた、それによる政策の変化が大きかったというふうに考えております。  実際、先ほども触れましたとおり、特に朝鮮戦争が勃発するという時点で、アメリカの政策は、まさに警察予備隊をつくるというところになったわけですから、これは九条二項の、最初マッカーサーが考えていたものとは非常に違うものであるというのは先生御指摘のとおりだと思います。 ○佐々木(陸)委員 アメリカにとって都合のよい日本にするという政策は一貫している、今も一貫しているというふうに私は思っていますけれども。  ですから、参考人自身も九条二項というものについて、これまで書かれたものの中で、変えた方がよいということも言っておられるわけですが、その一番の出発点は、そういう意味からいうとアメリカの主張に、まず占領時代から九条二項はよろしくなかったというようなことがアメリカから始まって、それがずっといろいろな矛盾の形で今も続いているというふうに見てよろしいのでしょうか。 ○北岡参考人 アメリカにとって都合のいい日米関係というのは、即日本にとって都合の悪いということでは必ずしもなくて、アメリカにとって都合がいいけれども日本にとっても都合がいいということもあり得るわけであります。そのことはちょっとフットノートでつけさせていただきます。  九条二項については、私は最初から、国家が自衛の権利がない、これは解釈によって権利はあることになったのですが、そして自衛のための軍事組織を持たないというのは、やはりこれは国家の本質に外れる、おかしいというふうに第一に思っております。  ただ、日本の当時の政府、指導者は、それをいわば利用した。日本には軍事に投ずるお金はないという言い方でアメリカの再軍備要求を最小限に押しとどめて、その分経済成長に専念した、そういう選択だったというふうに考えております。 ○佐々木(陸)委員 端的にお聞きしますけれども、参考人は、今の自衛隊なんかの存在は九条二項に反するものというふうに思っていらっしゃいますか。 ○北岡参考人 私は、先ほどの最初の陳述で述べましたとおり、憲法というのは条文を額面どおりに受け取るものではなくて、自然法及び国家社会の基本的な常識に照らして考えるべきものであるというふうに考えておりますので、自衛権というのは、明白に禁じられていない限り存在するというふうに考えております。自衛の主たる手段というのは軍事力であるというふうに考えておりますので、そういうわけで、自衛隊は合憲であるというふうに考えております。 ○佐々木(陸)委員 九条二項の問題についてですが、私は、先ほど参考人は、九条二項も含めた九条の規定というものも、全体として、アジアの諸国の国民の世論なども反映してああいうふうにつくられたということはお認めいただいたと思いますし、それは参考人のこれまで書かれたものの中でも、例えば「国際規範の中で最も平和主義的なものを憲法の中に取り入れ」たというような表現の中にもあらわれているんではないかというふうに考えています。  この九条にかかわって二十世紀の世界の歴史を見るならば、いろいろ逆流はあるにしても、この二十世紀を通じて大きな流れになっているのが戦争の違法化だ、これは先ほど参考人もおっしゃったとおりです。戦争は違法だ、戦争に訴えることを禁止するという流れだというふうに思います。  二十世紀の初頭までは戦争が野放しの状況だった。あちこちの国々が軍事同盟を結んで、科学のいわば最新の成果を使って、毒ガス兵器などまでも使用しながら戦争をやり、第一次世界大戦では犠牲者が二千万人にも達して、戦争違法化の流れが進んできたというふうに考えているわけで、日本国憲法九条というのは、その方向に沿い、それを発展させたものだというふうに位置づけることができると思うのです。  参考人も先ほどおっしゃったように、憲法九条が、一九二八年の不戦条約の流れを引きつつ、紛争解決のための戦争を禁止するだけでなくて、武力の行使や武力による威嚇も禁止している点で発展してきているというふうにお認めになっていられるんじゃないかと思うのですが、ここまでは国連憲章にも盛られている中身であります。  そういう意味では、武力行使の禁止や戦争の平和解決は二十世紀を通じて今や国際的なルールになってきていると言っていいと思うのですが、日本国憲法第九条というのは、そのルールにしっかりと立つことを確認するとともに、さらにそれを戦力不保持にまで高めたところに大きな先駆的な意義があるというふうに私は考えています。  そういう進んだものだから、アメリカを初めとする幾つもの国々で日本国憲法のファンクラブができたり、昨年のハーグの世界市民平和会議の行動指針の第一項で、各国議会は日本の憲法第九条のように戦争放棄をすることということを呼びかけている。つまり、輸出補助金をつけなくても、世界からも先駆的な意味を持つものとして注目をされているというふうに、これは私の見解ですが、申し上げておきたいと思うのです。  そこで、ちょっと別の話になるのですが、参考人は、憲法九条と日米安保条約の関係について、安保条約が憲法の制約を受けて双務的なものになっていないということを論じつつ、沖縄に過重な負担を負わせているのも実は憲法だ、集団的自衛権の否定なんだということも述べておられます。安保条約がもっと双務的なものであれば、海兵隊の沖縄常駐などは不要になる、少女暴行事件なども起こらなくなる、だから九条後段を変えるべきだ、集団的自衛権を認めるべきだという主張をなさっておられるというふうに読みました。  確かに、日米安保条約と憲法九条は真っ向から矛盾していると私は思います。そのとおりだと思うのですが、その矛盾の根源はどちらにあるのか。憲法が悪いのか、それとも安保条約、日米軍事同盟が根源なのかということになると思うのです。参考人は、憲法を変えて集団的自衛権を認める方向でこの矛盾を解決すべきだというふうに主張されているわけだと思うのですが、日米軍事同盟をなくして憲法との矛盾を解決するという方向を、参考人は、理論的な可能性としてもお認めにならないのでしょうか。その点をお伺いしたいと思います。 ○北岡参考人 まず、最初にお述べになりました、アジア諸国を含めた諸外国のいろいろな対日認識の中で憲法ができてきて、九条もできてきた、それはおっしゃるとおりでございます。  ただ、もう少し具体的に言いますと、そういう世論の中で、しかしそれはいろいろな形があり得たわけです。さっき申しましたとおり、日本の軍備を五年間禁止するとか、これは占領下の占領条約ではよくあることですね。勝者の敗者に対する条約で、何年間は禁止するとか、あるいは軍隊は二万人以下にするとか、航空母艦は持っちゃいかぬとか、空軍は禁止するとか、そのたぐいの規定もあるわけで、それにはいろいろな可能性があったわけであります。  それが現在のような形になったのは、これは何といってもGHQのイニシアチブであるという意味で、私は、アメリカの影響力といいますか、強要といいますか、強制といいますか、そのファクターは大きいということを申し上げたわけで、この具体的な形が非常に重要だと思っております。  第二に、歴史の中で平和が維持されてきたのはなぜであるか。私は憲法九条ゆえに維持されたとは思いません。私は、日米安全保障条約ゆえに日本の安全は維持されてきた。第二次大戦後の五十年を超える平和、ヨーロッパ及びこの日本周辺の平和というのは、歴史上にもまれなものでありまして、それを支えていたのは、ヨーロッパではNATOであり、日本では日米安全保障条約だと思います。  なぜ日米安全保障条約ができたかというと、それは憲法の条文の中で、さっきマッカーサーについて申しましたとおり、日本が軍隊を持たなくても日本をいかに守るか、それには米軍がいることだという論理がこの関係になったわけで、九条と日米安保が矛盾するというのは、それはある見方から見ればそうでありましょうが、逆に言いますと、非常に補完的な関係になっているというふうに考えているわけであります。  それから、戦後の平和における国連の役割についてお触れになりましたが、戦後、先生御承知のとおり、実は長年国連は機能しなかったわけであります。先ほど、戦争の違法化という発展を非常に評価されましたが、戦争は違法化されても、どうしても世界にはルール違反をする者が出てくるわけであります。それが出てきたとき一体どうするかというときに、ルール違反に対する制裁者として当初国連は国連のいわば常備軍を考えたわけでありますが、それはできない。米ソの対立の顕在化もあって、それはできない。  私は、遠い、かなり予見し得る将来を見ても、国連のような組織が自分の相当な実力を備えて、それが国際社会における違反者を制裁するというのは非常に難しいんではないかというふうに思うのです。それは、いわば他国のためにみずから犠牲になる、あるいはみずからをなげうつ人たち、あるいは国、お金。人とお金の両方でそういうことが必要なんで、なかなか難しい。  結局のところ、いろいろな国が協力してそういう平和解決をし、違反者に対してはこれにある種の制裁を加えるということになると思いますので、私は、国連を中心とし、戦争違法化という方向だけで平和が維持されるとは思わないわけであります。 やはり、抑止力、勢力均衡というのが長年の平和の条件、人類の知恵であったと私は考えております。 ○佐々木(陸)委員 私は、安保条約が日本の戦後の平和を支えてきたという見方にはくみしないわけであります。  国際連合、国連の問題なんかについても今お触れになりましたが、確かに湾岸戦争は一定程度、国連の安保理決議に沿って多国籍軍というような活動をしたという経緯はありましたが、しかしその後のアメリカは、言ってみれば国連を無視し、可能な場合には同盟国を動員して、それを隠れみのにして干渉、介入政策を実行するという覇権主義を進めているというふうに私たちは考えています。九六年のイラクの攻撃だとか、それから先ほど参考人もちょっとお触れになりました九八年のアフガニスタン、スーダンの攻撃だとか、九八年暮れのイラクの攻撃だとか、九九年のユーゴの空爆だとか、まさにそういう覇権主義が実行されているというふうに私たちは考えています。  ですから、この九条二項を変えていこうというような議論、それが国連の方向にも合致するというような議論は、現実の世界では、私は今の段階で、アメリカの一国覇権主義、世界戦争への介入政策に積極的に軍隊も出して協力せよということにならざるを得ないんじゃないかというふうに考えております。  参考人自身、憲法解釈はかつて何度も変わった、冷戦以前につくられた憲法を冷戦に合わせるために変えてきた、冷戦が終わってアジアの安全保障地図も随分変わってきた、これで何も変えないのはおかしいと言っておられるのですが、まさに、冷戦以前につくられた憲法を冷戦に合わせるために変えてきた、今やその冷戦が終わったという認識であるならば、もとに戻すのが一番真っ当ではないかということを申し上げておきたいと思います。  時間が来ましたので、終わります。 ○葉梨会長代理 伊藤茂君。 ○伊藤(茂)委員 参考人には御苦労さまでございます。幾つか質問をさせていただきます。  まず冒頭に、御案内のように、憲法制定過程の、参考人に御出席いただいた議論などをずっと続けております。その中で考えるのは、憲法論議の今日のあるべき座標軸というのはどういう考えを持つべきなんだろうかというのが、これは私だけではないと思いますが、共通の問題意識になっているわけであります。  この間の参考人の御質問のときに言ったんですが、世間には護憲、改憲、論憲と三つあるというマスコミのやり方がございますけれども、いろいろ足しますと、そのほかに、廃止せよという廃憲、修正せよという修憲とか、追加せよという追憲とか、あるいは創憲という意見もございました。さまざまあって、七つぐらいあるんだと伺ったんですが、そういうレッテル張りは別にして、どういうかき方の座標軸にするべきなんだろうかというのが問題意識で考えさせられております。  それを考えますと、一つの視点として、私は、戦後の現憲法が制定されて以来のさまざまな憲法論議の一つの大きな流れは、自主憲法制定論というものが一つの流れだったと思います。そういう時代、私も反対運動をしたんですが、やはり憲法押しつけ、自主憲法制定論という看板での賛否をめぐるということから、今あるべきなのは、次の時代、新世紀と申しますか、これからの世界、日本を考えながら、いかなる国の形としての評議があるべきなのだろうかというところに座標軸を置くのが筋じゃないかなという思いを、議論しながら深くいたしておりますが、どうお考えでございましょうか。     〔葉梨会長代理退席、会長着席〕 ○北岡参考人 私、先生の御指摘に同感でございます。座標軸といいますか、どういうふうに考えるべきかというのは、つまり今後の日本を運営していく上で最も適切なルールはどうなんだろうか、逆に言いますと、今のルールのどこか問題点はないかということなんだろうと思います。その一番最初に制定過程を見てみようということになったのだろうと了解しておりますが、制定過程というのはファクツの積み重ねだけだ。そんなに何カ月もかかるものじゃなくて、そのうち終わって次の段階に進まれることを期待しております。  先ほど来の憲法についての態度について一言コメントさせていただきますと、追憲も修憲も何とかも、私は全部改憲だと思うんです、手続が要るのは同じですから。ですから、そんなのは言葉のあやで、改憲するかしないかということであります。論憲なんというのは、これも論憲してどっちかに決めるわけですから、あるのは改憲か護憲か。  ただし、それはどういう改憲であるかということが問題なわけで、どういう改憲をするかというために、今の置かれた日本の状況、世界の状況を考えて、どういうルールが望ましいのかを考えるというのが私の考える座標軸でございます。 ○伊藤(茂)委員 北岡教授にお越しいただくので、実は、余り時間がありませんでしたが、五、六分ほど先生のお書きになったものを読ませていただきまして、大変勉強になりました。その中の一つの問題として、先ほどございましたが、いわゆる九条後段の問題をお伺いしたいと思います。  参考人が最後のところで大分短い時間でおっしゃいましたが、これは「This is 読売」の昨年の春お書きになった、大分詳細に論を述べられまして、最後には、「出来れば集団的自衛権に関する解釈変更に進み、さらに憲法調査会における九条二項の根本的検討へと進んでほしいものである。」というふうに結んでおられます。  私は基本的に先生の立場とは意見が違うわけでありますが、根本的な論議は別にいたしまして、考え方の問題ですね。私はこう思うんですね。憲法条文についてのさまざまな論議がございます。と同時に、我々の国、今、外交だけではございませんで、福祉の問題も、財政の問題も、経済の問題も、これからの人間の生き方の問題も、教育の問題も重大な問題を抱えております。それに対するはっきりした見取り図はまだございません。まさに政治家の、あと政党の大きな使命か努力目標でございましょう。  私は、そういうビジョンの論争、ビジョンと申しましょうか、次のそういう大きな問題の枠組みをどう打開するのかという騒然たる論争が国民的にもあって、そういうものの上に立って、それでは憲法はどうあるべきなんだろうかというのが、国民の皆さんが非常に御納得をいただける、また国民の関心も高まる道ではないだろうかという気持ちがいたします。  ですから、そういう意味からいたしますと、例えば先生の論文を拝見いたしましたが、では、これからのアジア・ビジョン、世界と日本、あるいは北東アジアをめぐる情勢などについてどう分析し、そして、したたかな外交戦略はどう持つべきなのか、それに対してどうすべきなのか、そういう論議が先にあって、そして憲法の条文がどうあるべきなのかという形の論争のあり方、論争の仕方の問題が大事ではないかなということを私は非常に痛感をいたしております。  そうなると、この論文を読んで私とは全然違うなと思いましたが、共通の土俵の時代ができてくる可能性もあるんだろうか。やはり、そのビジョン、あるいは現実の枠組み、国の将来の形、あるべき外交戦略などの上に立って議論するということと離れた憲法論争は非常にまずいんじゃないかという思いを深くいたしますが、どうお考えでしょうか。 ○北岡参考人 私は、先生が最後にお述べになったことに全く賛成であるがゆえに、前段に全く反対でございます。  私は、アジアの中の日本、世界の中の日本をどう考えるかということはもちろん重要な問題だと思っております。それについてはそれなりに論考も書いておりまして、例えば中央公論の二〇〇〇年一月号に書いてございますので、お読みいただければよいと思います。また、それは、例えば小渕内閣のときの、二十一世紀の日本のあり方というところで、いろいろ政府では議論されているわけでありまして、やはり政治は待ったなしだと思うんですね。きょう、いかに国民の安全を保障するのか、それから国民の生活、幸福をいかに増進するのかというのは待ったなしの議論でございまして、それと並行させなくちゃいけないんです。  そういうことで、いろいろビジョンを闘わせる、もちろん結構でありますが、それでコンセンサスが得られるまで当面何もしないというのは私はおかしいのではないか。やはり、できることは着々と手を打つべきではなかろうかというふうに思っております。 ○伊藤(茂)委員 反対であるがゆえに賛成だみたいな、両面あるという認識は私全く同じでございまして、先ほどのお話の中で、安保条約というパワーの論理があるがゆえに戦後日本は戦争に巻き込まれなかったとおっしゃいましたが、これは私の立場からいうと、戦後、日本の平和、あるいは戦争に巻き込まれないとかということを守り抜いたのは、やはり平和憲法と、また当時の五五年体制時代の社会党の努力だろう。それは、保守党の立派な領袖の方がアメリカに行って言われる場合にもそういう理由を挙げておられたということからしても、そう思っておりますが、その論争はいたしません。  関連をして伺いたいんですが、先ほど、憲法制定過程、それから、さまざまのGHQとの関係、マッカーサー・ノートなどなどがございまして、私どももこの過程の中でいろいろとさらに勉強して理解を深めている過程でございます。  先生のお話を伺いますと、もう一つ重要な視点があるのではないだろうか。それはやはり当時の、第二次世界大戦、二つ目の大戦が終わった後の世界の人々のみんなの気持ち、三百万人の犠牲を払った後の日本国民のみんなの気持ち、そして我々の国と世界の将来をどう考えるか。それが日本国憲法の思想にも表現をされ、あるいは国連憲章にも表現をされた。その直後に冷戦時代に入りましたから、非常に複雑な国際情勢のもとにその歴史が形成というか、経過をたどっているというのが確かに現実だと思います。  それらを考えますと、一つの要素として、私は、侵略戦争の反省という視点と憲法と申しましょうか、不可分の問題でありまして、非常に大事なことだと思います。 戦後五十年の八月十五日に当たって、当時の村山首相の談話がございまして、これもアジア諸国から今でも高く評価されている。政府もその対応を、変わりませんということを諸外国には申し述べているというふうなことでございます。  やはりこの制定時、それからそのときの考え方を大事にするということは、今後の、国家的な大戦争がない時代であるこれから先、さらに重要なことではないのだろうか。侵略戦争はどこまでかという議論がございますが、そこまでは申しませんが、そういう戦争の時代の反省、気持ちというものは改めて大事にしてスタートをするということが一つの原点ではないだろうかと思いますが、どうお考えでしょうか。 ○北岡参考人 一言先ほどのに補足もさせていただきたいのですが、日本の周辺を見回しますときに、東にアメリカという強大な、軍事力も経済力も世界に断トツの国がございます。ロシアという国が西側にございます。中国があり、朝鮮半島は二つに分かれている。それぞれ強大な軍事力を持っているわけでありまして、そこで日本が非武装に徹して、日本だけ平和のパラダイスでいるというのはなかなか考えにくい話だというふうに思っておりますので、日米安全保障条約は日本の安全の条件であったというふうに考えております。  ですから、それが非常に改善に向かって、日本の周辺に、お互い不安に思う必要がない、例えば中国が核兵器をやめ、軍事力をうんと減らす、北朝鮮、今百万ある軍隊を五万ぐらい、十万ぐらいにするとか、そういうことがもしあれば、日本ももっと軍縮に進むということは可能かと思いますが、軍備というのはあくまで周辺諸国との対比において存在するものでございまして、私は、日米安保体制がそういう意味でバランスをとってきたというふうに考えるものでございます。  さて、第二次大戦後の気持ちは、もちろん当時の人々の気持ちは大変重要でございます。ただ、気持ちの中には間違ったものもございました。  例えば、当時、世界では、戦争はデモクラシー対全体主義の戦争だというふうに言ったのですね。しかし、アメリカ、イギリスはいいですが、スターリンのソ連はデモクラシーだったのでしょうか。当時余り知られておりませんが、調べていくと、その中で何千万という人が虐殺されていたとんでもない政治だったわけであります。蒋介石の中国はデモクラシーだったのでしょうか。いや、違います。ですから、その辺と比べれば、実は日本の戦前の方がもっとデモクラティックだったのです。  だから、あれはやはりウオープロパガンダという面がかなりあって、米ソの冷戦というのは、その意味ではかなり必然的であった。  アメリカは、もう少し長期に見ますと、アメリカから見るとナチズムという脅威がある。一方でソ連という脅威がある。両方一遍には相手にできないから、まずドイツを倒して、そして次にソ連へというふうに行ったわけでありまして、冷戦という方向に行ったのはかなり無理からぬところがあった。  ところが日本では、デモクラシー対全体主義、日本が間違っていたと。そういうわけで、戦後の初期の日本の政治学者は民主主義を定義しまして、いろいろ分けて、北朝鮮もソ連も全部デモクラシーの中に入れようとして、結局苦労をして、それは無理なんです、同じに扱うのは。そういうことをしていたわけで、私は、当時の気持ちには間違いもあったということを申し上げたい。  それから、侵略戦争への反省、まことにもっともでありまして、私も、少なくとも満州事変以後の日本の行動は侵略だと思っております。それに対する反省が重要なのは言うまでもないことでありますが、なぜそういうことが起こったのかということは、さらに一歩踏み込んで考えたいと思います。  なぜそういうことが起こったのか。私がよく言うのは、例えば言論の自由、それが十分でなかった。それから、総理大臣のリーダーシップが欠けていた。軍や何かいろいろな妨害勢力があったわけで、日本が平和の道に進むためにも強力な総理のリーダーシップは必要だし、また言論は必要だというわけで、私は、いろいろな政治改革でも総理の周辺に力を集中するのには賛成でありましたし、また、中国の友人から、侵略戦争に疑問を呈するような言論を取り締まれというようなことをよく言われるんですが、私は、言論の自由は何よりも大事だというので反対する、そういうつもりでやってきております。  もう一つ申し上げますと、確かに戦後見ていきますと、そういう平和、戦争はもう懲り懲りという気持ちがございました。しかし、さらに進んで、日本が発展を遂げていくと、自分から悪いことをしないだけじゃなくて、より世界の平和を助ける、内乱や紛争の原因である貧困を退治する、そういうことに協力する、あるいは局地的な紛争があったらその解決に手をかすというふうな積極的な役割を果たすのがもっと望ましいのではないか。したがって、侵略戦争への反省というのは、日本が悪いことをしないということだけにとどまるべきものではないというふうに考えております。 ○伊藤(茂)委員 時間ですから、これで終わります。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  調査会を代表いたしまして、一言お礼を申し上げたいと思います。  本日は、大変御多忙の中を当調査会に御出席を賜り、貴重な御意見をいただいたことを、委員全員にかわりまして心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)  午後一時三十分から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時二十六分休憩      ――――◇―――――     午後一時三十五分開議 ○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。  この際、五月三日の憲法記念日に向けての論文募集について御報告を申し上げます。  お手元に配付いたしましたとおり、衆議院憲法調査会は、幹事会の協議に基づき、調査会設置後初めて迎える憲法記念日に向けて、広く国民の皆様から「憲法調査会に望むもの」をテーマとして論文を募集することにいたしました。多くの方が応募されることを期待しております。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行します。  午後の参考人として筑波大学社会科学系教授進藤榮一君に御出席をいただいております。  この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、大変御多忙の中を当調査会のために御出席をいただき、まことにありがとうございました。参考人におかれましては、忌憚のない御意見をお述べいただき、その後に、委員の方々からの質疑に入らせていただきたいと思います。  なお、発言に当たりましては会長の許可をとっていただくということに相なっております。また、委員に対する質疑は行えないということが規定されておりますので、どうぞそのように御理解をいただきたいと思います。  それでは、これから進藤参考人に御意見をちょうだいいたします。よろしくお願いします。 ○進藤参考人 御紹介いただきました進藤でございます。  歴史の節目に当たります、戦後五十五年目になるんでしょうか、二〇〇〇年、新世紀の出発点に当たって、国のあり方を規定した日本国憲法自体のあり方を議論する会に招請されましたことを大変光栄に存じます。  私、一九四六年に小学校一年生、ちょうど憲法が生まれたときに私もまた新制小学校に入ったという経緯がございまして、私どもの世代にとっては、憲法というのは、いわば人生の歩みとともに展開してきた、そんな思いがございます。だからといって、日本国憲法を絶対に厳守すべきだとか日本国憲法は絶対に廃止すべきだという考えは決して持っておりません。改めて日本国憲法のあり方自体、特に制定過程に焦点を当てて議論する機会を皆さん方がお持ちになったことに対して、大変敬意を表したいと存じます。  私は、国際関係を専門にしている者です。国際関係を専門にしている者から日本国憲法の条文あるいは制定過程を見てまいりますと、日本国憲法パセをおやりになっていらっしゃる方々とは少し違った見方があるいはできるのかもしれません。それは何であるのかということを考えてまいりますと、つまるところ、憲法の持っている国際的な意味といいましょうか、あるいは国際的な位置づけというものに対して、やはりセンシティブといいましょうか、目をより注ぐという感じでございます。  一体国際的な意味は何なのかということを考えてまいりますと、結局、日本国憲法というのは、人類の長い歴史の中でたどるべくしてたどった一つの帰結点ではなかったのか、それはまた、たどるべくしてたどる今後の二十一世紀世界に向けての出発点ではないのかという思いがするんですね。  よく、日本国憲法はアメリカ憲法のまねであるとか、アメリカ人が日本国憲法をつくったとか、あるいは密室の七日間で日本国憲法が制定されたという議論をするわけです。これはもう、押しつけなのか押しつけでないのかという議論の中で、皆さん方が既に御承知のたくさんの事実があるわけでございますが、私ども国際関係をやっている人間から見ると、押しつけとか押しつけでないという以前に、日本国憲法が現在持っている国際的な位置づけに目が向いていきます。  日本国憲法、例えば前文、これはアメリカ合衆国憲法と似ている。もう明らかにアメリカ合衆国憲法から来ているし、それから同時に、国連憲章からも来ている。同じようなフレーズがたくさんあるわけですね。  それは、再び国際関係の流れの中で見ていきますと、アメリカ革命によってでき上がったアメリカ合衆国憲法、フランス革命によってでき上がった憲法、あるいは一九一八年のドイツ革命の後でき上がったワイマール憲法、そして、かつて東大の宮沢俊義さんがおっしゃった、八月革命によってでき上がった私どもの憲法、この一つの非常に長い時代の流れの中で位置づけることができるのではないのかというふうに思うのです。  では一体、その時代の流れとは何だったのかということを見てまいりますと、これはもう三点に集約できると思うのです。  一つは、デモクラティゼーション、民主主義化です。それから二つは、脱軍事化、ディミリタリゼーションです。そして三つ目は、脱植民地主義化、ディコロニゼーションです。これは、詰めていけば、十五世紀から十九世紀に至る近代諸国家がつくり上げてきた生き方の終結点でもあり、再び出発点でもあるわけです。  民主主義化というのは、君主主義体制から立憲君主主義体制への転換、それから立憲君主主義体制から国民主権への転換、市民主義体制への転換、そういうふうに位置づけることができるわけです。  ですから、言葉をかえて言うと、これは、二十世紀の末、二十一世紀の冒頭に当たって、私ども考えてまいりますと、アジア的な開発独裁体制、あるいは、かつての旧ソ連に見られたような共産党一党支配体制の終えんをいや応なしに促していかざるを得ない時代の流れだとも言えます。そのことが私どもの憲法の中核に据えられている。市民的諸活力という言葉を私はよく使うのですが、シビックキャパシティーズ、そして、それによってつくり上げられる先端技術、これが国の富を生み出していく、こういった新しい時代の流れを先取りしていると、まずは申し上げていいと思うのです。  二つ目は、脱軍事化です。  これは、十九世紀までの近代国家が、巨大な軍事力によって軍事対決しながら、領土をとり、資源をとって、そして、先進国は巨大なテクノロジーを持っていますから巨大な軍事力を持つことができるわけですが、その巨大な軍事力を持った先進国が、途上国世界に出かけていって、侵略し、征服し、植民地をつくって、そこで富を生み出していく、この構図が十九世紀までの基本的な国際関係の構図だったわけですが、もうこれは立ち行かなくなったということを十九世紀末から二十世紀の中葉にかけて人々は知り始めるのです。これが脱植民地主義化ということで、植民地体制はもう終わりなのだと。  軍事力によって国際関係をつくるのではなくて、むしろ軍備のレベルを低くし、お互いに協調主義体制をとっていく。国境の壁を高くするのではなくて、国境の壁を低くすることによって相互依存を強めていく。人と物と金と通商と投資、テクノロジー、情報、その相互交流によって富を強化し、増大させ、平和をつくり上げていく。 この構図が脱軍事化という形で二十世紀中葉に向けて強まっていくわけですね。これはもう、二つの大戦を契機に人々がいや応なしに知らされた国際的な原則だったというふうに申し上げていいかもしれません。  二つの国際組織、国際連盟が生まれ、国際連盟が失敗し、国際連合が生み出されていく。普遍的な集団安全保障体制のもとで、かつてのように一国平和主義ではなく、あるいは一国軍事主義ではなくて、あるいは同盟主義ではなくて、集団安全保障体制なんだという流れですね。しかも、それは、軍備の壁を高くするのではなくて軍備の壁を低くするのだ、国境の壁を高くするのではなくて低くするのだと。  軍備に金をかければかけるほど国力は衰えていきます。これが、ソ連体制の崩壊の意味であり、アメリカ・レーガノミックスの意味であり、今日のクリントノミックスのルネサンスであるわけですね。  アメリカが、なぜ今日これだけ巨大な帝国の復権のごとき興隆を見せているのかということを考えると、これは、一九八五年から比べてペンタゴン受注高を三分の二減らすわけです、軍事予算に関しては三分の一、兵力に関しても三分の一。十兆円単位の産業を一つ、これを全部捨ててしまうわけですね。この冷戦終結の果実が今日のアメリカの豊かさを引き出しているのだというふうに考えていただければ、脱軍事化というのは、二十世紀の中葉から二十一世紀にかけての一つの非常に大きな時代の流れだったというふうにお考えいただけるのではないかと思うのです。  ちなみに、冷戦が終わって、ドイツは東西両独を合わせた軍事力を半分に減らしました。フランスは一〇%弱、イギリスは二十数%、イタリアも同じぐらいで、NATO全体で三割近く減らしております。それぞれ軍縮の果実、冷戦終結の果実を手にすることによって、EUの興隆を生み出し、アメリカのルネサンスを引き出している。  私どもが脱軍事化の原則というものを改めて国際関係の原理に据えなければ、近隣諸国家とも、あるいは世界の他の諸国家とも、互いに伍し、そして国力を増大させていくことはなかなか容易ではないだろうという感じを持ちます。  三つ目は、脱植民地主義化です。  これは先ほど少し申し上げましたけれども、途上国を支配、征服して、そして領土と資源を獲得して、領土を広げることによって、例えば大日本帝国をつくり上げた、日本の国土の今日の二倍から三倍の国土を自国の領土にした。例えば、満州国は日本の国土の三倍はあります。こういったところを自国の領土にし、朝鮮半島を領土にし、台湾を領土にし、樺太、千島を領土にして、それを東南アジアまで広げて富を生み出すことができると考えたのだけれども、これはできないのです。  途上国ナショナリズムというのは、先進国のナショナリズムによって、軍事力によって屈服させることは不可能なのですね。このことを、十八世紀以来一世紀、二世紀にわたる途上国と先進国とのこのせめぎ合いの中で、私どもは知るわけです。これが、一九四五年を軸にして、第二次世界大戦終了後、先進国の政治家たち、言論人、あるいは経済人の間の共通の認識へと変わっていく、これが私どもの憲法の中に反映されているというふうに申し上げていいと思います。  領土を逆に囲い込むわけです。自国の領土を囲い込んで、そして途上国ナショナリズムと共生し、共生することなくして物を売ることもできません、資本を投資することもできません、投資し、通商を拡大し、それによって商業国家、通商国家、投資国家としての富を増大させていく、そのことが逆に国富の増大につながっていく。  先ほど私は、シビックキャパシティーズ、市民的諸活力とテクノロジーという言葉、これが今日の二十一世紀に向けた国の富を増大させるキーワードだったというふうに申し上げましたけれども、まさに、脱植民地主義化によって、国を囲い込んで、教育を強め、教育に力を注ぎ、ハイテク第三次情報革命に対応できる高度な職業人を育成していく、市民の諸活力を逆に強めることによって国の力を強めていく、これが二十一世紀初頭の私どもの置かれた位置ではないかというふうに思うのです。  ちなみに、改めてそのときに、日本はGDPのわずか〇・七%しか教育予算に使われていない、アメリカは一・二%ですか、ドイツは一・五%も教育費がGDPの中から捻出されている、この彼我の違いというもの、私どもがかつてのこの三つのDから一体どこまで学び取っているのかということに対する私どもの素朴な問い返しというのか、それを懸念せざるを得ないというふうに思います。  そこで、一体そういった三つのDがどんなふうに今の憲法体制に生かされているのかということを考えてまいりますと、これはやはり底流としての、日本国憲法制定の事実上の生みの親と申し上げてもいいと思うのですけれども、これも括弧つきですけれども、事実上の生みの親であるアメリカ側の動きというものに目を向けてみます。  このときに、アメリカはもう既に一九四二年、三年、四年段階で日本国憲法の骨格をつくっているのです。憲法というのはコンスティチューションですね。コンスティチューションというのは英語で骨格という意味です。つまり、国の形を、既に四二年、四三年、四四年と三カ年にわたる国務省内の討議、それから軍部とのやりとりの中でつくり上げるわけです。  その細かなプロセスは省きます。これは昨年私が出した「敗戦の逆説」という筑摩新書の中に詳しく書いておりますけれども、基本的な軸として言いますと、要するにアメリカ側の動きとしては、古い自由主義派、オールドリベラリストから、ニューリベラリストへの転換だと。それは何なのかというと、政治的自由を重視する立場から、社会経済的条件の強化を重視する立場を国の形の主軸に据えようとする動き、力が主軸になっていくんだと。その彼らの見方が日本国憲法の国の形の骨格をつくり上げていく、アメリカ側の動きの中で骨格を変えていくというふうに申し上げていいと思うのです。  これは、四四年、戦争が終わる一年以上前に、戦後計画委員会、PWCというところでつくられたPWC―一〇八文書、正確に言うとPWC―一〇八b「アメリカの対日戦後目標」文書というのがあるのですけれども、この中に集約されている。それともう一つ、それを少しブレークダウン、解題したものとして、PWC―一五二「軍国主義の排除とデモクラシーの強化」という、これもbの文書の中で結節、焦点を結び合うわけです。この中を読んでいきますと、私どもは、今日、日本国憲法を議論するときに、憲法のほぼ大枠がこの中でできていたなということが見えてくるのですね。  これは、再び私の専門の特権を生かしまして、国際関係論をやっている立場から見ますと、国際関係の流れとしては、自由放任主義的な資本主義はもうだめなんだ、だからといって共産主義的な社会主義路線もだめなんだ、そうじゃなくて、資本主義を修正させて計画性を入れて、自由放任型の資本主義ではなくて修正資本主義によって国の形をつくり上げ、国家間の関係をつくり上げていくというこの流れが、実は、一九三二年、その三年前の一九二九年に始まる世界恐慌の後、三二年にアメリカの大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトのもとにアメリカの力が結集していくわけです。このフランクリン・ルーズベルトのもとで、いわゆるニューディール政策が展開されるわけです。  このニューディール政策は、イギリスの労働党の政策にも共鳴するし、それから北欧のミュルダールとか、あるいは北欧の社民主義の流れとも結び合うし、ドイツのかつてのワイマールの流れとも接点を持つというようなことで説明できるかと思いますけれども、ともあれ、このニューディール思想を体現した流れがアメリカの政治の主軸になり、彼らが対日政策の策定に当たっていくというプロセスが、四三年、四四年にかけて展開していくわけですね。  年齢的にいえば、四十代を軸にした若い世代が対日政策に関与していくということになるわけですけれども、かつてのライシャワーさんとか、あるいはヒュー・ボートンとかケーディスとか、たくさんのアメリカの知日派と呼ばれる人たちがこの過程で日本を分析し、そして日本をどうすべきか、どうすれば日本を平和的でかつ豊かな国にするか、我々とつき合うことのできるような国にするかということを彼らは議論し始めるわけです。  そのときに出るシナリオがほぼ二つありまして、一つは脱軍事化のシナリオですね。  これは、長い間私どもは、憲法第九条の神話というのか、憲法第九条は日本が軍事力を持つことを一切許さずというふうに解釈してまいりましたけれども、そうではなくて、この時点で既に、日本は軍事力、自衛力を保持せざるを得なくなるだろうことを想定して、大臣には文民が就任しなければいけない、軍人は大臣に就任してはいけないという原則を四四年の五月のこのPWCの中に書き込む、そういった歴史的な過程を展開するわけです。ですから、私のレジュメに書きましたように、ミニマムな自衛力の保持を想定した上でシビリアンコントロールをするという、この原則が既に出ているというふうに申し上げていいかと思います。  もちろん、その前提として、四五年まであった日本の軍部主導型の体制を解体させなきゃいけない、植民地も放棄させなきゃいけない。ミリタリズムを除去し、そして、二つ目のシナリオとしての民主化のシナリオというものを打ち上げていくわけですね。  この民主化のシナリオも、歴史の原点をたどって見てまいりますと、意外と、私どもが目をみはるような事実が今日の時点から見ると出てくるわけです。  例えば、ここに書きましたけれども、労働組合とか信用組合とか消費者協同組合のような民衆の諸組織を奨励していくんだという項目が書き込まれるわけですよ。 これはシビックキャパシティーズですね。今流に言うとNPOです。これを強めることによって日本のデモクラティゼーションが強められていくんだと。日本のデモクラティゼーションを強めることによって、デモクラシーとデモクラシーが互いに協働して国際関係をつくり上げることができるんだという、この原則です。  それから、二つ目として彼らが強調したのは、単に中央政府を主軸にしたかつての政財官の一体化構造じゃないんだ、そうじゃなくて地方自治体を強くすることなんだ、市町村レベルに至るまで自治体を強化し、そうすることによって初めて日本のデモクラティゼーションは強められていくんだ、これを抜きにしては日本のデモクラシーというものは健康な形で展開しないというふうに彼らは強調するわけです。  私はもともとアメリカ専門にずっとやってきたアメリカ屋なものですから、アメリカ専門家の立場からいきますと、これは至極当然なんですね。と申しますのも、アメリカのグラスルーツデモクラシーの伝統、原則というのは、地方自治がデモクラシーの学校であるというのがキーワードなんです。地方自治がデモクラシーのキーワードである、これが、既に四四年五月のPWC―一五三の対日政策の条項の中に、日本の国の形を彼らが構想した基本原則の中に書き込まれるということになるわけです。  そして最後に、戦時下にあってアメリカ側がどんな対日政策を考えていたのか、つまり、どんな日本の国の形をつくろうとしていたのかということを考えてみますと、これはもう象徴天皇制に尽きるわけですね。  しかし、この点に関しても注意しなくてはいけないのは、単に旧体制における象徴天皇制ではなくて、新しい体制における象徴天皇制なんだと。  それは何なのかというと、実際アメリカは、既に一九四〇年代の初めから象徴天皇制という言葉を使っているんですよ。アメリカにとってエンペラーというのはシンボルであり、そして、アメリカのいわば保守派にとって、守旧派という言葉を使った方がいいかもしれませんが、共和党系の守旧派にとって象徴天皇制というのは、明治憲法体制の天皇制もまた象徴天皇制としてとらえるのです。これは私の本の中で展開している議論であり、それから、資料がその中にたくさん入っておりますので、ごらんになっていただけばわかります。  私どもは、象徴天皇制があたかも戦後生み出された新しいものというふうに考えがちなんですけれども、実は既にアメリカ側にあっては、グルー、スティムソンたちは、戦前日本の明治天皇体制下における天皇制も、形を変えて若干の手直しをすることによって、これを象徴天皇制として位置づけることができるのだという考えを打ち出すのですけれども、四三年から四四年にかけて、それでは不十分なんだ、日本の象徴天皇制というのはやはり根底から変えなきゃいけないのだと。  どんなふうに根底から変えるのか。  それは、デモクラシーの原則を突き詰めてまいりますと、君主制というのはデモクラシーの原則とぶつかり合うわけですよ。なぜかというと、デモクラシーというのは、御承知のようにデモスのクラチア、民衆の権力ですから。では君主制と民主主義をどう折り合いをつけるのかということですね。これはもう君主から政治的な実権を剥奪することなのだ、取り上げることなのだ、実に純粋に国事行為のみを行う象徴的な存在にすべきなのだ。国のいわばアイデンティティーといいましょうか、国の文字どおりのシンボルとしてのみ、儀礼的行為のみに収れんさせていくのだという考え方が、一九四四年から四五年にかけて、アメリカの対日政策の政策決定者の間の主流的な考えになっていく、そしてそれが、日本のコンスティチューションの形としてアメリカ側で構想されていくわけですね。  私がなぜこんなに長々と戦時下の動きを申し上げたのかと申しますと、決して、日本国憲法というのは密室の七日間によってつくられたんじゃないんです。密室のコップの中の七日間によってつくられたのではありません。これは非常に長い歴史的な背景を持ち、もっとフォーカスを当てるにしても、少なくとも四二年、四三年、四四年ぐらいから用意され、そして、これから申し上げます土着化と国際化という二つの外側からの入力によって日本国憲法の普遍性が生み出されたのだというふうに御理解いただきたいと思うのですね。そう理解することなくして、日本国憲法の制憲過程における本領といいましょうか、本質を理解できないというふうに思います。  どんなことなのかと申しますと、やはり国際関係、政治史をやっておりますと、大体外国人が憲法をつくっちゃいけないということを皆さんおっしゃるわけですね。たくさんの方がおっしゃるわけです。これは、外国人でなきゃ憲法をつくれない場合というのはあるわけですよ。  例えばジャン・ジャック・ルソーの本を読んでまいりますと、彼の本の中には、立法者という観念が出てくるわけです。ある政治体制が、いわゆる革命を経ずして体制、国の形を変えようとするなら、だれが変えることができるのか。それは、かつての政治体制に依拠していた人たちによって変えることはできないのだというのですね。では、だれが変えるのか。それは外国からやってきた賢者なのだというわけですよ。これを立法者という概念で彼は位置づけるわけです。これはギリシャの時代から行われていた憲法制定の慣例であり、同時に彼自身もその慣例に従ってジュネーブ憲法をつくり、ポーランドの統治論を展開しているわけですね。  そう見てまいりますと、外国人の賢者が憲法制定に関与したとしても、これは全然おかしいことじゃないというふうに改めて強調したいと思います。  だから、私が申し上げたいのは、密室の七日間、これはいわばマジックワードとしてよく使われますけれども、物事を見るときに、皆さん方のような大変見識のある方々にこんなことを申し上げるのは大変失礼かと思いますけれども、一部の日本の憲法学者が主張するように、密室の七日間の狭いコップの中に制憲過程を閉じ込めてしまうと、憲法の全体像が見えなくなります。  さてそこで、私たちは何をしなけりゃいけないのか。二つのことをしなけりゃいけませんね。一つは、時間の軸を外すわけですよ。二つ目は、場の軸を外すわけですね。コップから外に出すわけです。  時間の軸を外しますと、まず、先ほど来申し上げました一九四二年、四三年からの動きが一つ出てまいりますね。さらに焦点をつぼめてまいりますと、四五年十月からGHQは、御承知のように日本は占領下にありますが、占領行政はハーグ規定に拘束されながら、同時に、ハーグ規定が許容した改憲への動きを始動させるわけですね。ポツダム宣言という国際条約に従って、GHQ、つまり占領軍は改憲へと動き始めるわけです。そこで、四五年十月からこの動きを始動させる。  そのとき、いち早くアメリカ側の動きを察知して、日本から、これは皆さん方何度もお聞きになっていらっしゃることかもしれないけれども、まず近衛文麿さんが動き始める。近衛文麿さんが動き始めて、そして佐々木惣一さん、大石義雄さん、私も大石義雄先生にお習いしたのですけれども、京都帝大の先生を起草者にして、箱根の山の中で新しい憲法をつくるわけです。しかし、これは明治憲法と全く一緒ですね。ほとんど変わりない。文言も変わりない。  その後、アメリカ側は今度は幣原内閣に期待し、幣原内閣はそれを受けて、松本烝治さんという東京大学の商法学の先生、商法学の先生が同時に国務大臣になっているわけですが、この松本烝治氏に幣原氏は委託して、憲法制定に踏み切らせるわけですね。しかし、この松本案は、これはもう既に何度もお聞きになっていらっしゃると思いますけれども、甲案、乙案があって、甲案は全く古くて、乙案は若干新しいけれども、いずれにしても明治憲法と基本的に同じ憲法案であることをGHQは知るわけですね。  同時に、GHQ、占領軍が行ったことは何かというと、二つのことをするわけです。  一つは、GHQは、では在野の動きはどうなんだというわけですよ。日本の民衆の動きはどうなんだ、日本の野党の動きはどうなんだ、あるいは知識人の動きはどうなのかということに目を向けるわけです。そうしますと、十月、十一月、十二月に向けて、日本の知識人あるいは政治家たちを中心にして、戦争に負けて、新しい憲法をつくるんだという動きが始まったことを彼らは知るわけですね。  知りながら、同時に、彼らの意見を聞き、彼らの意見を取り入れて、そして、日本の国の形を再び、かつてのPWCの原理に依拠しながら構想し始めるわけですよ。  これは日付順に申しますと、早くも十一月五日に憲法研究会が設立され、高野岩三郎、森戸辰男、岩淵辰雄、今中次麿、木村禧八郎、鈴木安蔵、こういった中道レフトの人々を中心にして憲法制定の動きが始まる。同時に、日本文化人連盟というものが十月末にできるわけです。ここには芦田均を初めとする何人かの保守政治家もこれに関与していく。この日本文化人連盟と憲法研究会が相互に連動し合いながら、新しい憲法、在野、民間憲法の動きをつくり上げていく。この結節点が、十二月二十七日、GHQは森戸草案と呼ぶんですけれども、そういった形で出てくるわけですね。憲法研究会案として、クリスマスが終わった翌々日、これをGHQに提出するわけです。  それと前後して、高野岩三郎氏は、憲法研究会案は依然として第一条に、天皇主権というのかな、国民主権なんですけれども、しかし天皇制を置いていると。高野岩三郎氏は、フランスに留学し、アメリカへ行って勉強しておりますから、彼は、もう君主主義は時代おくれなんだよ、だから我々は本当のデモクラシーを手にしなけりゃいけない、デモクラシーというのは、フランス革命もアメリカ革命もそうだったし、ドイツもそうなんだ、かつての中国の辛亥革命だってそうだということで、共和体制の憲法原則をつくり上げるわけですね。これは高野岩三郎案としてでき上がるわけです。  それから、それと前後して、政党の動きもありまして、十一月十一日には共産党案というのが出てまいりますね。これは主権在民、民主主義議会、人権を軸にしたものです。それから一月二十一日は日本自由党案が出てくる、二月十四日には進歩党案が出てくる、二月二十四日には社会党案がでてくるという形で、政党もそれぞれ相互に競合しながら憲法の制定に向かっていく。このあたりは、もう皆さん方は十分お聞きになっていらっしゃるので、私はきょう詳述いたしません。  ただ、私がここで強調したいことは、GHQの文書を見ていくわけです。私も十年近く、占領政策の研究をずっとやってまいりましたものですから。なべて言うと二十数年たっているんですけれども、やってまいりまして、アメリカの各地、イギリスの文書その他をほぼくまなく見ているんですが、例えば、スタンフォード大学にラウエル文書というのがあるんですけれども、ラウエル文書の中に入っておりますのが、例の植木枝盛憲法案ですよ。植木枝盛の憲法案、日本語の片仮名まじりの文書を英語に翻訳させて、ラウエルはその植木枝盛案をいち早くキャッチし、日本の明治時代からの制憲過程の動きの中にこういったデモクラシーの動きがあるんだ、共和体制化への動きがあるんだということを察知するわけですね。それがちょうど、十二月二十七日に出てきたいわゆる森戸草案、憲法研究会案とほぼ近いということを彼らは知るわけですね。それを基軸にして、新しい憲法構想へと踏み出していく。 このあたりは政治過程ですので、いろいろな動きが錯綜してまいりまして、日本の保守党の動きに関して言うと、私が資料につけさせていただきました「芦田均日記」なんかを見ますと、非常にビビッドに、鮮やかに出てまいります。  ともあれ、時間の軸をまずずらす、広げる。  それから、さらに場の軸を広げてまいりますと、この二つの作業をしてまいりますと、憲法研究会案が出て、それからGHQ案が出て、憲法制定が進められ、それが幣原内閣に提出されて、幣原内閣でどんな議論がされたのか、それを見てまいりますと、幣原内閣の中に、保守政治家の中にやはり二つの流れがあったことを私どもは知るわけですよ。一つは保守派の、守旧派の流れ、一つは改革派の流れ。 保守派の流れの巨頭が松本烝治であり、あるいは三土忠造であり、改革派の流れの中心が学習院の院長をやっていた安倍能成であり、芦田均あるいは幣原なんですね。この二つの派が、同じ幣原内閣の中で、GHQ案に対してどう対応するのか。これは同時に、松本案に対してどう対応するのかという動きと連動するわけですよ。  安倍能成あるいは幣原、芦田たちにとって、松本案なんというのは、あれは内閣案では決してないんだ、あれは松本個人の案であって、「松本案は松本案であつて決して内閣案ではない、」と私引用させていただきましたけれども、この言葉が出てくるわけですね。我々はもっと新しい時代の流れをくみ取っていかなきゃいけないということを彼らは強調するわけですね。  そこで、第二回目か第三回目の閣議のときに、芦田均氏がワイマール憲法のことに言及して、松本さんは一月ぐらいでは書けないと言うけれども、ワイマール憲法だって、ドクター・プルースは三週間で書き上げたじゃないかと。ワイマール憲法だって戦勝国の圧力下でつくらされたんじゃないか、しかし、それが戦後のドイツの出発点になったではないか、なぜ我々がそれをしちゃいけないんだという反論を加えるわけですね。  この点に関してさらに一つ二つ申し上げますと、これも何度か議論になっていらっしゃると思いますけれども、憲法改正案が出た後、議会に上程される。これは、選挙が四六年の四月に行われて、そこで、今流の改憲じゃなくてかつての改憲勢力、明治憲法体制を変えるべきだという勢力が国民のかなりな支持を得て、第二十二回選挙を経て、第九十帝国議会へ上程されて、その後、枢密院を経て、議会でのいわゆる百日間審議が開始されるわけですね。  特に、六月二十八日に憲法改正案特別委員会が構成され、さらに、その中で十四名の法律専門家たちを中心にして憲法改正小委員会が衆議院で持たれ、その委員長に芦田均氏が就任して、ほぼ一月近く、七月二十五日から八月二十日、この暑いさなかに彼らは議論をするわけですよ。それも、既に何度か皆さん方、御議論になっていらっしゃると思います。  実は、これは時間がございませんので、はしょりますけれども、既に一九八〇年代に森清さんという自民党の代議士さんが、アメリカの文書をもとにして秘密会の議事録を起こしまして、邦訳しまして、出版されているんです。しかし、九五年九月に、初めて日本側の秘密会の議事録が公開されたんですね。この議事録の公開されたものと両方突き合わせていきますと、アメリカ側の文書に欠落した文章も出てくる。そこから、新しく私どもは何を読み取ることができるかというのが一つのポイントなんです。  そういったことを軸にしながら、お手元に一枚の紙がございますけれども、「憲法改正小委員会速記録公開」、これは共同通信配信で、全国の地方紙に配信された私の文章なんです。この秘密議事録が出たときに、これは何を意味するのかということをここに書いておりますので、どうぞ、この後時間がございましたら、お読みいただければと思います。  ポイントは何かというと、十三日間の議論というのは、私の手元に、かばんの中に今入っておりますけれども、これはもう大変質の高い議論ですよ。今の憲法学者たちはこんな議論ができるのかと思うぐらい、当時の政治家の質の高さ。  当時の、政治家といっても、政治家の十四人の半分が外国留学者なんですね。 ハーバード大学とかソルボンヌとかベルリン大学とかに留学している連中が集まって、それから、西尾末広さんのような労働経験者も集まるし、保守政治家も入っている。  その議論の中で、十三日間、議論が闘わされるわけです。朝から晩までやるわけですよ。この議論の質の高さというのは、私は、改めて九五年に解禁になった文書を見て圧倒されました。ぜひ、先生方にもお願いしたいんですが、議論の質を高めていただきたいなというふうに改めて思う次第です。  ともあれ、この後、貴族院に移され、十月七日、衆議院本会議で可決されて、十一月三日公布、そして翌年五月三日に施行される。その間、第二十三回総選挙があって、憲法が事実上、国民の支持によって、国民によってオーソライズ、是認、承認されたという、法的手続をとって施行されるわけですね。  さて、私はこのプロセスを二つの言葉で要約しているんです。一つは、だから日本国憲法というのは土着化の動きがあるんだと。これを古関彰一さんは日本化という表現を使っております。でも私は、日本化と言ってもいいんですよ、日本化と言ってもいいんですけれども、同時に、要するにジャパナイズしたということ。しかし、その前提には、日本化という言葉を使いますと、アメリカ製だということになるわけですよ。いや、僕は、アメリカ製だっていいんだということを申し上げている。同時に、日本化ではなくて、むしろ土着の中でいかに生かしていくかということが憲法制定論者たち、制憲過程に携わった人々の中心的な考え方なんですね。  それを、私のレジュメの冒頭の引用に出ておりますけれども、四六年八月一日の秘密速記録を見てまいりますと、芦田委員長が、ワイマールのことに言及するわけですよ、ワイマールという言葉をもう言わないでくれということを、これはやりとりがあるんですけれども。ワイマール憲法がなぜ流産したのかというと、これはドイツの国情に沿っていなかったから実効力がなかったという形で、だから、自分は日本の憲法をワイマール憲法のようにさせたくないんだと。  それに対して、鈴木義男氏、これは法学博士ですけれども、彼はまた、ワイマール憲法は、いや、実は民主戦線ができなかったからだとか、だからナチスにやられてしまって骨抜きになってしまったという反論を加えたのに答えて、芦田委員長は、だからこそ、我々は日本国民が実行し得る憲法をつくっておかなければならない、こういう問答のやりとりがあるわけです。これはほんの歴史の一こまでありますけれども、当時の日本の憲法の土着化に向けての作業過程を集約させた非常に象徴的な会話だというふうに思いまして、ここに載せさせていただきました。  さて、そこで、時間が少しずつ迫ってまいりましたので、私は、時間の軸と場の軸を広げたときに何が見えてくるかという二つ目のポイントというのは、これは国際化された憲法だということですね。  私が国際関係をやっているから国際化ということにこだわるわけじゃありませんけれども、実際、十二月の段階で極東委員会がワシントンDCにできる。極東委員会ができて、この極東委員会と東京とが競合し合う形で日本の国の形をつくり始めるわけですよ。したがって、マッカーサーの動きは、日本国憲法をニューディールの原理に従って自分たちの政治的イニシアチブのもとにつくり上げるという動きを軸にしていくわけですけれども、同時に、極東委員会によってその動きは制約されざるを得ないわけですね。それが一九四六年の五月、六月、七月、八月と続くわけです。どんな形で。つまり、日本国憲法ができ上がったものをワシントンは一々それをチェックするわけです、極東委員会は。  極東委員会にはソ連も入っておりますし中国も入っておりますし、オーストラリアも入っておりますしニュージーランドも入っている。そういった国々が入っている中で、一体日本国憲法は本当にこれからの世界をつくる、かつてのあの巨大な、しかし若干凶暴、いや大いに凶暴であった、しかし正直言って、本当の意味で決して豊かではない、その国の形をどうやって変えることができるのかということを彼らは議論して、そのときに、議論の中心になるのが二つあります。一つは主権ですね。国の主権はどこにあるのかという議論、これが明確ではないのではないかということ。 それから、もう一つは軍事力の問題です。軍事力をどうコントロールできるのか、日本の軍事大国化をどうコントロールできるのかという問題です。  主権の問題に関しては、たまたま議会で議論になったときに、これは歴史を見ていきますと出てくるのが、共産党の野坂参三氏が六月二十九日に議論するわけですね、実は今出された憲法案の中にある文言は主権を明記していないではないのかと。この言葉遣いは少し違うのではないかと彼は指摘するわけですよ、ここで議場騒然となるというやりとりがあるわけですけれども。  要するに、天皇の文言に関して、「日本国民至高ノ総意」という言葉が、入江私案の中で、法制局長官入江氏の文言の中で変えられていくわけですね。本来あった国民の「主権意思」という、この「主権」という言葉が消えてしまうわけです。それを野坂氏が指摘し、そしてアメリカのジャスティン・ウィリアムズという憲法を担当していた法律の専門家が、政治学の専門家がこれをただし、そしてケーディスがこれに気づき、一体、本来あった外務省案、あるいは本来あった主権の言葉がどこに行ったのかということを問いただすんですね。このことがやはり同じ形でワシントンの極東委員会でも議論される。行き着くところ、主権の存する国民の総意にある、主権は国民にあるというこの国民主権論の原理が憲法の中に規定され、天皇の法的根拠が、主権の存する国民の総意にあるというふうに明記されるというプロセスをとるわけです。これが一つです。  もう一つは、例の芦田修正にかかわることです。  御承知のように、もう何度も、けさも東大の北岡さんが御議論なさったと思いますけれども、例の第二項のただし書き、これをどう解釈するかという問題なんです。  これは、お手元にございます「芦田均日記」の私の解説文を、終わってからでもお読みになっていただければありがたいと思います。同時に、日記自体もお読みになっていただければありがたいと思いますけれども、長い話を短くしまして、二つポイントを申します。  芦田氏は既に二月十九日、幣原内閣にアメリカの憲法案が出されたときに、これは別に衝撃を受けるに足らないということを記す。二月二十二日、お手元の憲法論議第二日目というところです。最初の五ページぐらい、これは間違ってコピーしましたので、ずっと戦争の後のことは省いてください。八十ページですね。そこで芦田均氏は、上段中ごろから少し後ろの方です、私は次のように言った、戦争廃棄といい、国際紛争は武力によらずして仲裁と調停とにより解決せらるべしという思想は、既にケロッグ・ブリアン協定において我が政府が受諾した政策であって、別に目新しいものじゃないんだと。つまり、憲法第九条の規定は別に目新しいものじゃないんだということを彼は言うわけですよ。これは既にあるんではないか、なぜこれを受けるのがおかしいのかということを、彼はここで既にこういう形で反論するわけですね。  その後、芦田均氏はナショナリストでもありますし同時に外交官出身でもありますし、外交史の専門家でもありますし国際法の専門家でもあります。その彼が、先ほど申しました七月二十五日から八月二十日までの憲法小委員会の中で、七月三十日だったと思いましたけれども、そこで彼は、例の有名な「前項の目的を達するため、」という一項を書き入れるわけです。これをめぐって、これがどういう意味なのかということもさまざまな議論があるわけです。  私もずっとこの「芦田均日記」を編さんし、同時に、九五年に解禁になったこの小委員会の秘密議事録を読み解いてまいりますと、やはり結論として言わざるを得ないのが、芦田均氏は歴史に対する非常に深い読みを持って、戦後、日本が独立国家となったときに自衛力を持つ事態を想定し、これはもう世界の常識なんだ、軍事力なくして国際関係は成り立たないし主権国家は成り立たないんだ、そのときを想定して、我々はどういった条文を、憲法第九条をつくらなければいけないのかということをこの時点で彼は考えたんだと申し上げてまず間違いないんじゃないかというふうに現在私は思っております。  その後、さらに九月に入ってからは、貴族院の議場で彼は審議を聞くわけです。 この日記に出てまいります。審議を聞いて特に彼が関心を引かれたのが、先ほど申しました佐々木惣一氏とかあるいは、私の解説のところに書いてありますけれども、第一巻の解説四十七ページ、後からつけ加えたものですけれども、沢田牛麿、九月十三日佐々木惣一、牧野英一、高柳賢三、こういった人たちが、日本の軍備の可能性を第九条の解釈の範囲の中でなお残すべきことを示唆し、主張するわけです。彼は、そのことを聞いたということを日記で書くんですね。それ以上踏み込みませんけれども。そこで彼は、第九条二項の修正の意味をとらえ直して、ケロッグ・ブリアン協定の系譜の中で位置づけ直していたと考えても決しておかしくない。  だからこそ、憲法公布と同時に出版された「新憲法解釈」、ちょうど九月の段階で彼は執筆しているに違いないんですが、この段階で執筆したこの「新憲法解釈」の中で、ただし書きの真意というのは、実は、日本が自衛力を持つことを許容し、しかし、その自衛力を持ったときを想定して、日本の軍隊がどういった目的に使われるのか。これは決して二十世紀の大きな流れである脱軍事化の流れに反するものであってはならないんだ、脱軍事化の流れの中で、主権国家として日本がミニマムな条件を手にするために我々は考えていくべきであって、交戦権は否定されるんだ、海外に自国の富を拡大するために出かけていくことは否定するんだ。しかし、ミニマムな自衛力は手にするんだ。それが同時に、例の文民条項の中に、彼はいわばその再保障といいましょうか、それを見出していくというふうに申し上げてよろしいかと思います。  時間がそろそろ参りましたので、最後に、私は、だから、極東委員会を中心にした国際化の流れと土着化の流れという二つの入力の中で、日本国憲法の制憲過程が規定されていった、あるいは場の軸が広がり、時間の軸が広げられていったんだというふうにとらえていただきたいと思うのです。  それでは、私たちは二十一世紀に向けてどういうことを考えていくのかということを、時間を五分ほどいただいて申し上げさせていただければと思います。  憲法の解釈に関して、私は、レジュメの最後のIIIの「制憲のかたち」の中で、脱軍事化条項、社会経済条項、それから主権条項という三つの日本の憲法のキー、かぎとなるものを中心にして解釈論を展開できるというふうに考えておりますけれども、主軸は、この解釈の前提になるものは、やはり九五年に解禁になった秘密議事録じゃないかなというふうに思いますね、集約していけばですよ。  これを見ていきますと、GHQ案になかった社会経済条項の強化、あるいは国民の義務教育の無償化とか社会保障の強化とか、あるいは憲法二十五条に規定されている健康で文化的な市民生活の享受とか、こういった条項の多くはGHQ案になかったのですね。それをこの秘密小委員会でつけ加える。だれがつけ加えたのか、主張したのかというと、これはやはり森戸ですよ、それから鈴木義男たちですよ。この議論を見てみますと、本当に当時の憲法制定権者たちの、いわば憲法制定に携わった人たちの持つ時代の流れに対する鋭敏さといいましょうか、国際性といいましょうか、時代の流れを先取りしていくその姿勢に非常に私は感銘できるんじゃないかなというふうに思いますね。  そして、最後に申し上げたいことが二つあります。一つは、こういった憲法の動きというのは、同時に、四五年の八月以降に進められた日本の国の形のつくりかえと連動し合っているのですね。  例えば宗教改革。今まで宗教が否定されていて、国教制度、国の宗教が制定されていたわけですよ。これはいけないんだという宗教改革。それから農地改革。これは、国民の半分、六割が小作、四割が自作農だけれども、その四割から三割の自作農がお米の半分以上を手にする、七割か八割を手にするという、具体的な数字は私の「敗戦の逆説」の中で御確認いただきたいと思うのですけれども、とにかく、今流で言うと、途上国世界によくある大土地所有制度ですよ。メキシコもそうだ、フィリピンもそうだ。あるいは形を変えて、途上国世界は多かれ少なかれ大土地所有制度ですね。こういったところで国の富は増大しないわけです。  シビックキャパシティーズを拡大させるためには、強めるためには、農地改革を進めなきゃいけない。宗教改革が必要だ、教育改革が必要だ、労働改革が必要だ、財閥解体も必要だ。ついこの間も、韓国のIMF危機の中で勧告された財閥の解体ですね。それから皇室改革が必要である、警察改革が必要だということで、次々に旧体制下における国の形の主軸をつくりかえていくわけです。  これもやはり単にアメリカ側からの動きだけじゃないのですね。農地改革に関して言えば、松村謙三さんという富山県選出の代議士が中心になって、和田博雄さんたちと一緒になって農地改革を進めていく。教育改革も同じですね。土着化と国際化という二つの流れが競合し合って新しい国の形をつくり上げていく。これが今日の戦後日本の繁栄を生み出したというふうに申し上げていいと思います。  逆に言うと、戦後日本の衰退、私はこの間も韓国に行ってまいりましたけれども、韓国の若者たちの熱気といいましょうか、市民の活力というのか、これは圧倒されました。僕は大学で教えておりますけれども、今の日本の大学生というのはやる気がない。ほとんどの大学がそうですよ。小学校は教室が崩壊している。これは日本の二十一世紀というのは見えないですよ、率直に言いまして。先生方だって、今学力低下が問題になっているのです。学生の学力も低下している、先生の学力も低下している。これが二十一世紀日本に対する非常に暗い見取り図しか描きにくいということなのですけれども、一体どうしたらいいものか。  僕は第二の敗戦という江藤淳さんの言葉が大変好きなのです。日本はやはり第二の敗戦ですね、一九八五年、プラザ合意の後。やはりアメリカにいいようにされているんじゃないかというふうに一面で言えるし、同時に、自分で自分の国の形をつくる、この形、指針を失っているのではないのか。戦後日本の原像にもう一回立ち返っていいのではないか。それは何なのか。それは市民的諸活力をいかに強めるかですよ。  残念ながら、間接単独占領という占領形態を日本は受けたわけです。これは一見非常に豊かな日本を急速につくり上げるのに役立ったのです。単独占領です。 分割占領じゃありませんでした。間接占領です。したがって、天皇から市町村に至るまで、すべての国家機構が残された形で間接占領が進められました。非常に効率的でした。しかし、残念ながら、そのために旧体制、戦前の旧体制の核にある官僚制改革に手をつけることができなかったのですね。今日本のトップから下まで、新聞のスキャンダルの種になっている警察にしろ何にしろ、ほとんどすべてがこの官僚改革の挫折の帰結ですよ。私どもは、ここでデモクラティゼーションの動きをとめてしまったのですね、残念ながら。  ですから、私どもがやらなければいけないことは何なのかというと、もう一回戦後の原点に返って、二十一世紀を見据えて新しい制度をつくりかえていくこと、つくり上げていくことだ。それから、地方自治の強化ですよ、官僚改革ですよ、あるいは地方分権化です。あるいは本当の意味での労働改革であり、皇室改革であり、警察改革であり、形を変えたとにかく第二の戦後改革の時期に差しかかっているのではないのか。  残念ながら、私は、憲法改革、憲法を変えることがいいのか悪いのかということに対する判断は、とりあえず留保させていただきたいと思います。  ただ、一つだけ言えることは、制度を幾ら変えてもしようがないと私は思います。 これはたくさんの歴史的な先例があります。どんなに民主的な制度をつくっても、どんなにすばらしい制度をつくっても、仏をつくっても魂が入らなければ、つまり政策がなされなければ、一つ一つのレベルにおいて、一つ一つの段階にあって、領域において、デモクラティゼーションが、デコロニゼーションが、あるいは二十一世紀型社会への取り組みがなされなければ、その国は栄えることはないでしょうというふうに、改めてこの失われた十年の今日、思います。  これをもって終わります。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。横内正明君。 ○横内委員 自由民主党の横内正明でございます。進藤参考人には、ただいま貴重な御意見を聞かせていただきまして、ありがとうございました。  参考人のお話、現在の日本国憲法というものは、近代国家が長年つくり上げてきた三つのD、その帰結なんであると。したがって、これは二十一世紀を先取りしているのであって、その理念を今後実現していくということが大変に大事なポイントであるというようなお話でございました。  そこで、参考人に最初に、私は、憲法改正そのものについて、参考人御自身がどういう御意見を持っているか伺いたかったのですが、先ほど、これは私は留保しますというふうに言われてしまいまして、質問ができなくなったわけであります。  ただ、そこのところをあえてお聞きしたいのは、やはり戦後五十五年たちまして、時代が非常に大きく今変化をしている。そういう中で、九条だけではなくて、いろいろな面でいろいろな条文が現在の事態に合わなくなってきているということは事実だろうと思うのですね。  例えば、緊急事態に対応した危機管理の問題だとか、あるいは二院制の今の状態が、両院制がいいのかどうかとか、あるいは基本的な人権の問題にしても、例えば環境権というようなものを立法化するかどうかはともかくとして、今の条文でいいかどうか、幾つかポイントがありますね。  アメリカにしてもドイツにしても、外国ではかなり頻繁に憲法を時代に合うように直してきているわけであります。したがって、五十五年間直していない国というのは日本ぐらいのものだというふうに言われております。  そういうことを考えると、九条の問題はともかくとして、やはり憲法を改正するというのが私どもは正しいと思っているわけでありますが、その点について、参考人の御意見を伺いたいと思います。 ○進藤参考人 例えば、今おっしゃられた九条、危機管理あるいは環境問題、こういった新しい二十一世紀の動きに対する言葉が憲法の中に入っていないではないのかと。例えば情報化の問題も入っていませんね、国際化の問題も入っていませんね、いや、ある意味ではですよ、入っているとも言えますけれども。  しかし、形を変えて言えば、一体、例えば環境権に関して、なぜ二十五条から読み取って環境基本法をつくる動きを先取りしていかないのかというふうに私は思います。十分対応できると思うのです。  危機管理、これは、十三時間首相がどこにいたのかわからない、どうなっているのかわからない。アメリカのニュースが、日本というのは危機管理は一体どうなっているんだ、これはクレムリン以上にひどい国じゃないかというのが欧米のメディアの一致した見解ですね。  危機管理のことを憲法に挿入すると一体どうなるんですか。それよりも我々がなさなければいけないのは、危機のときにどう対応できるのか、したたかでしなやかな体制をつくることですよ、制度をつくることですよ。そう私は思います。  あるいは環境問題もそうです。あるいは男女共同参画法、あれは辛うじてできましたけれども、これにやはり魂を入れていくことだと思いますね。日本は、女性解放に関して先進国の中で最もおくれている国です。  これは十分、今の憲法のもとで基本法をつくり、基本法のもとで幾つもの政策をつくることができるわけですよ。それをないがしろにして、憲法論議に、こんな言葉を使いますと語弊がありますけれども、何とか抜かすというのは、私は余り、これは制度フェティシズムという言葉を使っていますけれども、制度フェティシズムだというふうに思いますね。その前にはっきりと環境基本法に対して積極的な動きを示していただきたいと思うのです。  あるいは司法改革ですね。これはもう四四年のアメリカ側の憲法構想、すなわち日本の国の形の骨格の中に日本の司法改革が書き上げられているわけですよ。 残念ながら、日本の司法改革はその後進まず、ますます中央集権的というのか、閉ざされた司法へと向かっているわけですね。こういった実情をまず解体すること、これを脱構築することじゃないかというふうに、今はやりの言葉を使うと、思いますね。  これは、憲法に規定して、これでまた十年間、皆さん方は時間を使いますか。それよりも我々がやらなければいけないのは、たくさんのなすべき法政策があるじゃありませんか。そのことに意を向けていただきたいと思うのです。それが二十一世紀を先取りすることだと思いますよ。  私は憲法を変えることに全然反対しないですよ、その意味では。もしその前提が満たされればです。私はその確信が全くありません。  それは日本だって首相公選制にした方がいいかもしれません。こんな形で、首相がどこにいるかわからないような状況で国民と離れたところでやっているよりも、台湾、韓国の方がもっと生き生きしたデモクラシーがあるじゃないかという議論だって十分できますよ。  しかし、だからといってその保証がどこにあるのですか。私たちは、失われた十年、これで第二の敗戦を経験したんだから、もうこの十年を失いたくないというふうに思いますね。そうしなければ、日本は未来永劫もう一回立ち直ることはできにくいんじゃないかというふうに存じます。 ○横内委員 先ほどのお話の中の芦田修正の問題について、少し伺いたいと思うのです。  九条の二項に「前項の目的を達するため、」というのを入れた、それによって、自衛のため必要最小限の武力は持つことができるという解釈があるわけでありますが、そのことを参考人は大変先見性があったというふうに評価をされるわけですが、そうすると、ああいう芦田修正があったことをもって、これは参考人の御意見としてですけれども、日本国憲法を、九条をそういうふうに解釈するということについて、参考人はそういう御意見なんですか。 ○進藤参考人 おっしゃるとおりです。そのとおりです。 ○横内委員 そうしますと、自衛のため最小限必要な軍事力を持つことはできる、したがって自衛隊は違憲ではない、そういうふうな解釈を参考人としてはお持ちだということなわけですね。そう考えてよろしいですか。 ○進藤参考人 おっしゃるとおりです。 ○横内委員 そうしますと、私どもも同じ考え方になるわけでありますけれども、しかし、そうはいっても、憲法学者の間では必ずしもそれは多数説でもないわけですね。  例えば、前回の参考人は、長谷川さんという参考人が出てこられて、だれかがそういう質問をしました。しかし、それは、立法者の意思などというものは憲法解釈には影響しないんだ、やはり自衛隊は違憲だというようなことをその長谷川参考人はおっしゃっておりました。  要するに、そういう解釈をおとりになっていても、憲法学者の間、それから国民の間にはそこのところで国論が二分している状態になっているわけですね。  自衛隊というのは現実には立派な軍隊で、事実上、実態としては立派な軍隊で、そして世界でも有数な軍隊だと思うのですけれども、しかし憲法上の位置は、いや、それは軍隊ではない、あるいは軍隊である、そういうふうに国論が二分している状態になっているということだろうと思うのです。  そうだとすると、やはりそこはひとつ国論を統一すべきじゃないのか。参考人がもしそういう御意見であるとすれば、その部分はやはり芦田さんの考え方に沿ってそのように憲法を改正すべきだ、そのようにお考えになるべきとは言いませんけれども、そういうふうにお考えになりませんか。 ○進藤参考人 残念ながら、私はそうじゃないと思うのですよ。  なぜなのか。それはやはり二十一世紀に向けて国家の力をつけるのは何なのかというこの原点に立ち返りますね。憲法第九条二項で、自衛力を持つことは許容されている。これは、猪木正道さんという防衛大学の校長先生をやっていた方が私の恩師なんですけれども、猪木先生が昔から言っておりましたね、そのことは。  私は、「芦田均日記」を編さんする過程で、そしてその後の秘密議事録を改めて確認して、十分確認できます。にもかかわらず、今日本が持っている軍隊というのは、これは異常ですよ。そう私は思います。  つまり、憲法第九条が示している――だから私は三つのDということを申し上げたのであって、これは二十一世紀へ向かう脱近代の新しい動きなんだ、脱軍事化なんだと。軍事に金をかけたら、国力が衰えるのは当たり前なんですね。もっと減らしていいという意見がなぜ出ないのか。ドイツで冷戦後、軍隊を半分にしたのですよ、今の軍隊。日本は軍事力をほとんど減らしていないですよ、数%しか。むだな軍隊、たくさんありますよ。  一機百億するF15をなぜ二百機買う必要があるのですか。百億あれば、国立大学一校できますよ。二百機持っているのですよ。一体どこに使うのですか。イージス艦、これは航空母艦を防衛するためのものですよ。日本は航空母艦を持っているのですか。日本はアメリカに対して思いやり予算を幾ら払っているのですか。五十億ドルですよ。ドイツは幾ら払っているのですか。これは二億三千万ドルですよ。 日本の二十五分の一だ。韓国、八千万ドルですよ。  ですから、私は、石原慎太郎さんじゃないけれども、東京都に、何であんなところに、これは憲法論とは違いますけれども、もっと自主的に、芦田さんが主張されたようなナショナリズム、本当に国の立場に立って、国民の立場に立って、新しい世紀をにらんで日本の軍事力のあり方というものをお考えになっていただきたいなというふうに思います。それが日本の国を豊かにすることだというふうに思います。 ○横内委員 F15だとかイージス艦が云々という話は、それは運用の問題でして、私が聞いているのは、要するに法律論というか憲法論、憲法を、そこの部分を改正すべきかどうかという議論。  参考人がそういう御意見であるとすれば、そこのところに国論の不統一がある、それが非常に大きな、いろいろな意味で支障を来している状況から見れば、それはやはり芦田さんの考え方に沿ってきちっと、当初の憲法の制定権者の考え方に沿って改正するというのが参考人の御意見として首尾一貫しているのじゃないですかということを申し上げているわけです。 ○進藤参考人 そういうお考えもあると思いますけれども、私が申し上げたいのは、一体、国論が九条をめぐって二分されているのかということだと思うのですよ。  長谷川先生のような、どっちかというと少しお古い、旧世代の方もいらっしゃる。しかし、普通の国民は大体、僕の学校にだって自衛隊の方はたくさん入ってきていますし、私の弟子も防衛大学校に就職しておりますし、今や防衛大学は花盛りですから、もう認知されているというふうにお考え、もちろん、村山富市首相が自衛隊合憲論をはっきり議会でも証言しておられるような状況ですから、与野党一致しておられるんだから、あえて何も寝た子を起こすというのかな、必要ないと思います。  むしろ、我々がやらなければいけないのは制度いじりじゃなくて、仏にどうやって魂を入れるかという、二十一世紀をどうやってつくり上げるかという方に先生方の時間とエネルギーとお知恵を注いでいただきたいなというふうに思います。 ○横内委員 次の質問でございますけれども、参考人の日本国憲法の制定過程の議論として、基本的なお考え方は、当時のアメリカの占領軍あるいはアメリカの国内に、守旧派と革新派があったというふうにおっしゃいましたね。守旧派というのは、古い、戦前の日本を知っている知日派、グルーとかスティムソンとかですね。そういう人たちがいて、そういう人たちの考え方と、それから、変革派というのでしょうか、言ってみればニューディール政策につながるような若い修正資本主義者たちがいた。その確執がある中で、そういう変革派、新しい社会経済派の方の意見が勝って、それがメーンになってこの日本国憲法ができてきたというような御意見をおっしゃっていたというふうに思うわけでございます。  その中で、これは言葉の言い回しの問題かもしれませんけれども、そういう新しい社会経済派というものに、ケーディスとかライシャワーとおっしゃっていましたが、非常に理想主義的な、日本のために民主化をしてやろう、そういう意図のもとにこの日本国憲法をつくったというようなおっしゃり方をしているわけです。  ここで何人かの参考人が来られた中で、人によっては、そういう人たちはそうじゃなくて、一つの理想主義に燃えて日本を民主化するというのではなくて、むしろ、アメリカにとって日本が脅威にならないように、そのように日本を枠づけるというか押さえつける、押さえつけるというと少し言葉がうまくないんですけれども、そういう意図のもとにやったんじゃないかという考え方があると思うんですけれども、その点についてはいかがお考えになりますか。 ○進藤参考人 その見方は、必ずしも私は否定しません。アメリカの政策決定者というのは、当時、まあ今日もそうですけれども、日本の無害化であり、アメリカの国益を代表しておりますから。  ただ、考えなきゃいけないことは、では、彼らがそんなに理想主義的だったのかと。私は、自由主義派から社会経済派という言葉をあえて使いましたけれども、実は、社会経済改革をすることが日本のデモクラティゼーションを強め、デモクラティゼーションを強めることが逆に日本の暴走をとめるんだ、日本の軍事的な膨張主義をとめるんだ、いや、日本の軍事的な膨張主義をとめるばかりか経済的な膨張主義もとめるんだ、こういう考えなんですよ。基本の考え方は、相互依存を強めることによって、国境の壁を低くすることによって、アメリカと日本が逆にプラスサムゲームを展開できるんだ、こういうふうにお考えになっていただいたらよろしいかと思います。理想主義じゃないですよ。リアリズムですよ。もっとリアリズムですよ。  いわゆるグルーとかスティムソンたちの考えというのは、やはり十九世紀、これは大体旧世代の考えなんです。政策決定者を見ていっても、当時の六十歳代です、六十歳前後です。この方たちはとてもいい日本を愛するわけです。しかし、彼らの愛した日本というのは明治憲法体制下の日本で、徳川家とか何とか家とかとのつき合いの中で生まれた日本像なんですね。  そうじゃなくて、ニューリーダーを含めて、新しい世代の考え方というのは、いや、日本を無害化するために日本を民主化しなきゃいけないんだ、日本を民主化することによって無害化し、日本が無害化することによって、つまり平和国家に転換することによって、経済通商国家に転換することによって、日本はより民主主義的になって、デモクラシーとデモクラシーは戦争しないんだというリアリズム、言ってみれば理想主義という言葉を使ってもいいのかもしれませんが、私はこれは透徹したリアリズムだというふうに思います。 ○横内委員 そういう中で、ちょっと一つ気になりますのは、守旧派とか変革派というような言葉をお使いになるわけですけれども、どうもこの言葉が気になりましてね。守旧派とか変革派というのは一つの価値判断がそこに入っているんですね。  かつて、平成五、六年のころ、政治改革の論議がありまして、あのときに、小選挙区に反対する人間はみんな守旧派であると、まじめな小選挙区の議論なしに一括守旧派ということで束ねられて、したがってみんな古くあしきものである、そういうことになってしまったということがあります。  グルーだとかスティムソンとか、そういう古い日本を知っている人たちを守旧派という言葉で、非常に価値判断を含んだ言葉で一括するということは、どうも適当じゃないんじゃないかという感じが私は非常に強くいたします。私もそんなに知っているわけじゃありませんけれども。  しかし、やはり彼らが考えているのは、恐らく、古い日本を知っているだけに、また、日本人の特性だとか日本の文化とかアイデンティティーとかそういうものを大事にしなければいかぬ、天皇制を中心とするそういうものを大事にしなければいかぬというまじめな主張をしたんだろうと思う。それはそれで一つの正しい考え方であって、少なくともそれがあしき間違った守旧派ということじゃないんだろうと私は思うのですけれども、その辺ちょっと、そういう価値判断を含んだ言葉を使うのは適当じゃないと思いますが、いかがですか。 ○進藤参考人 実は、守旧派という言葉を政治学界で使い始めたのは多分私が最初だと思うのです、この芦田日記で。その後、例の小選挙区制論議のときに守旧派という言葉が出回りましたものですから、私は非常に心外なんです。だから、守旧派対改革派という言葉を使っているのを、私はあえて改革派という言葉をこのごろ使わないことにしているのです。あえてここでは、変革派という言葉をきょうは申し上げているんです。  これは、イデオロギーは全く入っておりません。守旧派はどういう意味なのかというと、これは旧秩序を維持するという考え方です。それから、変革派というのは旧秩序を変えていくという考え方、これだけに尽きます。小選挙区制に関しては、僕は議員の考え方と全く同じでして、全くああいったレッテル張りはむだな議論であり、これは現実を歪曲するものだと思います。しかし、少なくとも、事憲法制定過程、アメリカの政策決定者の動向を見る限り、この二つのカテゴリゼーションというんでしょうか、類型化というのは十分意味を持つというふうに思います。  旧秩序、つまりかつての明治憲法秩序、軍部がそれなりに強くて、貴族がいて、それで女性が議席を持たないで選挙権を持たない、家督相続がある。この旧秩序がいいと考えたのが守旧派です。それはだめであって、アメリカという近代の考え方、もっと近代的な国に変えていかなければいけないんだ、そうでなければ日本は外に出ていかざるを得ない、国内の市場が狭くなるんだ、国内の市場が狭くなればいや応なしに日本株式会社で外へ出ていくんだと。  私が書きました「戦後の原像」の二百十二ページにその言葉を、これは歴史上一番最初に日本株式会社という言葉が使われたんです。当時のフォーチュンの日本特派員のマクリーシュというのが、彼が二カ月日本に滞在しまして、吉原から神戸、宮廷、日本をくまなく見て、日本が何なのかということを議論したときに日本株式会社という言葉を使うんです。これはNHKでも放映されました。  この体制をとっている限り、日本は平和的であり得ないんだ、共存できないんだ、先進国が共生し合うにはこの形を変えなければいけないんだということをマクリーシュは確信するわけですね。彼はその後、ルーズベルトのスピーチライターになるんです。国務次官補になります。 ○横内委員 参考人の、このいただいているメモの中で一番最後の部分がもう一つよくわからぬものですから、その説明がなかったものですから伺いたいんですが、一番最後の結論のところで、何か、九〇年代の失われた十年というのを制度をいじくる制度フェティシズムが引き出したものである、こう言っておられますね。これはどういう意味なんですか。何か、失われた九〇年代の、バブルとそれからバブルの崩壊過程というものが、やたら制度をいじくった、不必要にいじくった結果として生じたものだというふうにこれは言っておられるのですか。そこが意味がわからぬものですから。 ○進藤参考人 字数が限られておりましたし、時間が限られておりましたので、十分文章に論述できなかったんですが、これは、議員と同じで、いわゆる私の念頭にあったのは選挙制度いじりです。選挙制度いじりして、日本の政治改革はできるとあれだけ朝野を挙げて騒ぎ立てたのに、何もできていないじゃないですかということを書きたかったんです。  八五年プラザ合意の後十五年、第二の敗戦を迎えたというのは、これは金融関係をやっておられる方々なんかによく言われることですけれども、それを含めて、今、ロストディケード、失われた十年ということを言われますけれども、私は、九二年、九三年、九四年、国会が選挙制度改革するんだということで、新しい国会改革だとかなんとか、与野党全部一緒になってやって、何ができたのかということをあえて、先生方の前で失礼を省みませず問題提起させていただいた次第です。その意味です。 ○横内委員 意味はよくわかりました。  最後に伺いたいのは、参考人がここでおっしゃっている、憲法の失われた諸命題を政策化、法制化する努力をしていくことが緊要であるというふうにおっしゃっているわけです。そういう、憲法の理念を具体化していくために政策化、法制化をしていく、それは具体的にどういうことをお考えになっているのか、何が緊要だとお考えになっているか、もう少し具体的に説明をしていただきたい。 ○進藤参考人 既に申し上げていますように、例えば環境基本法をさらに充実させるとか、あるいは条例の持つ重みを強めていくとか、あるいは、アメリカでは既に二十世紀初頭に住民投票制が制度化されております、これをもっと制度として定着させるとか、これはデモクラシーですね。それから、日本の政治は世界に類ない金のかかる政治です。この金権政治をやめさせるような政策をつくり上げていくとか制度をつくり上げて、それこそ政策化していく。要するにデモクラシーの政策化です。  あるいは、男女参画基本法ができたけれども、実際には男女参画基本法はまだまだ不十分であって、先進国では最後進的な位置にあるんじゃないかというふうに思います。その他幾つも出てくると思います。あるいは、先ほど申しましたような司法改革。司法改革なくして日本の民主主義というのは花開かないんじゃないかと思います。 ○横内委員 大体質問事項が終わりましたので、多少まだ時間を残しておりますが、これで私の質問を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。 ○中山会長 横路孝弘君。 ○横路委員 民主党の横路です。きょうは貴重な御意見、どうもありがとうございました。  きょうは午前中、東大の北岡先生から、憲法の制定をめぐる、GHQと日本側のいわばせめぎ合いとその過程ということについてのお話をいただきました。先生からもその点についてのお話があったんですが、そのせめぎ合いというところで少し御意見をお伺いしたいと思うんです。  もともと我が国、戦争を行って、ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したわけですね。ポツダム宣言の中には、軍国主義勢力の追放というようなことでありますとか、民主主義社会の実現あるいは基本的人権を尊重するというような幾つかの項目が、たしか十項目めだったと思いますが、入っているわけですね。そんな意味では、新しい憲法をつくるということは、日本としてはいわば国際社会に対する約束とも言えるわけで、義務と言ってもいいのかもしれません。  GHQ側からいいますと、戦争を起こし、周辺諸国を植民地化し、侵略戦争を行った、そういうことが二度と起こらないようにどうするかということをアメリカを含めて考えたと思うんですね。そのとき、やはり問題になるのは、日本の軍事力をどうするかということと、あの戦争を遂行していく過程の中では、人々が自由に物を言う、戦争に反対するということができない状態でありました。治安維持法なんという法律があって基本的人権は抑圧されていたわけですし、あるいは報道の自由といったって検閲が行われていたわけですね。  ですから、そういうような基本的な人権をどうしていくのか、どういう民主主義社会にするのかということは、それは当然、アメリカを含めてGHQは考えたと思いますし、日本の方は日本の方で、再び国際社会に復帰していくための国としての条件というのは一体どういうことにあるんだろうかということを指導者はやはり十分考えたと思うのです。  もちろん、戦争を遂行していく中では、行政などが中心になって資源の配分などを行いました。いわば行政主導型の経済というようなものも戦争を遂行する過程の中で強化されていったわけですね。  ですから、本当に、二度とそういう事態を起こさないための枠組みをどうつくるかという場合には、たくさんの課題があったんだろうというように思いますが、いずれにしても、GHQ側の考えと、日本側の、国際社会にどう復帰していくのか、そのための条件は何かという点では、かなり共通のベースというのがそこに一つあったんだろうと思います。  それからもう一つ、この憲法論議の中で、特に日本側の議論の中では、次の日本の社会をどうするのかという意味では、人権をめぐっての世界的な流れ、先ほど先生おっしゃったいろいろな流れと同時に、ワイマール憲法という二十世紀初頭の憲法の中での、いわば生存権とか社会権というような新しいものも、次の日本の社会の一つの基本的な枠組みとしてこれを取り入れたということになっているわけですね。  確かに、GHQ側にもいろいろな意見があり日本側にもいろいろな意見があって、せめぎ合いはありましたけれども、ポツダム宣言を受けてどうしていくのかという大きな流れの中でいいますと、かなり共通した認識、意識というものがあってこの憲法というのは誕生しているのではないかと私は思いますけれども、先生はいかがお考えでしょう。 ○進藤参考人 基本としては、おっしゃるとおりだと思います。  ただ、あえてつけ加えさせていただきますと、既に申し上げましたように、日本側にも二つの流れがあって、先ほど御質疑がありましたように、変革派という言葉を使えば語弊があるかもしれませんが、改革派、それから守旧派、明治憲法体制下で古い国を新しくしていくというだけの立場の人たちと、それから本当に国をつくりかえていくという、それこそ芦田さんから鈴木義男に至るまで、ワイマール憲法の自由権から生存権への動きを強めていくというその動き、これは、おっしゃるとおり、アメリカ側のGHQとの間でまさに車の両輪になって新しい日本をつくり上げていった。それがまだ未完なんだというふうに言えるかもしれません。  基本的にはおっしゃるとおりだと思います。 ○横路委員 先ほど、先生最後のところで、例えば余りにも中央集権的な官僚システムというものが今改革しなければならない課題だということをおっしゃいましたが、確かに、憲法の中で、ちょっと残されたところが中央集権的な官僚システム。 結局、戦争を遂行していく中で、むしろ権限を持っていったわけですね、経済的なコントロールから何から全部持っていったわけですから。それが残って、ある意味でいうと、地方自治という項目も入っていますが、もっと改革すべき点が若干残ってしまったということも言えるのではないかと思いますが、その点はどうでしょうか。先ほどの、今改革すべき課題ということと重ねてお答えいただければと思うんです。 ○進藤参考人 官僚改革の核は何なのかということを考えてまいりますと、政治学、国際関係をやっている立場から申し上げますと、やはりこれは地方分権化と車の両輪なんだというふうに思います。中央集権化が進めば進むほど官僚機構は強化せざるを得ない。だから、まず地方分権化という地方自治の動きを強めていくことなんだろうというふうに思います。これはまさに未完の課題であり、二十一世紀に向けた、日本が二十一世紀の新しい国際社会に入っていく一つの課題なんだ、もう一度国際社会にいわば復帰するというのか、日本が第二の敗戦から立ち直るための課題なんだというふうに申し上げていいと思います。  もちろん、内務省解体は、形は行われたわけですけれども、結局、この三十年、四十年たって、内務省の復帰というのは、政治学の立場から見ると少なくとも現実であります。地方自治体の首長の何割かが自治省の出身者であるとか、副知事が自治省から来ているとか、これはやはり憲法の精神と乖離しているんじゃないかなというふうに私は思います。もっと地方自治の首長が本当の意味で公選ができる仕組みというものをつくっていかなきゃいけないと思うんですよ。  憲法制定過程を見ますと、アメリカ側は地方自治の首長、地方自治の公職の選挙ということを書き込むんですけれども、日本側はそれを消すんですね。消したのに気づいて、またアメリカ側はそれを書き込ませるという、このやりとりがあります。  それをちょっと考えると、まさに官僚改革というのは、我々に課せられた、次世代を含めて課せられた、古くて新しい課題だというふうに申し上げていいかと思います。 ○横路委員 ちょっと地方分権の話になりましたが、新しい中央省庁の仕組みが来年からスタートするわけですが、中身を見ていますと、どうも権限がほとんど移っていませんで、権限は持ったままですから非常に巨大な官庁が誕生するということで、これは本当に地方分権の流れに沿うものかどうかというと、むしろ中央集権化が強まるんじゃないかと思っています。  憲法の議論の中で、例えば、地方分権を進めるために憲法を改正しなきゃいけないという議論もあるんですよ、出てくるんですね。私は、もちろん、これは法律で十分改革できるというように考えていますけれども、先生はその点いかがお考えですか。 ○進藤参考人 村山内閣時代に地方分権法ができました。これは、私は、ある意味でやはり画期的なことだと思うんですよ。これは例の五十嵐広三氏が、彼が大臣に就任する一年前から自治省の役人と議論し、基本的な線をつくり上げていった。しかし、その詰めの段階で次々に骨抜きにされていったのが実情じゃなかったかというふうに私は考えております。  ですから、じゃ、地方分権を憲法の中に書き込んで一体地方分権が実現できるのかというと、これは話が違うと思うんです。これは環境権と一緒であって、なぜ基本法段階でまずつくり上げていかないのか。それこそ地方分権の仏をもう一度つくり直す、もっといい仏にしていくべきじゃないのか、あるいは地方分権という仏に魂を入れることじゃないかというふうに私は思います。  おっしゃるとおり、巨大官庁ができ上がって一体どこまで地方分権が実現されたのかということに対しては、私は大変疑問を感じております。これは、日本の国力の、やはり、決して活性化じゃなくて、衰退を促していかざるを得ないんじゃないのかなというふうに思いますが。 ○横路委員 制定過程にちょっと戻しますと、私は、ワイマール憲法についても議論がこの時期に行われているというのは本当に驚きなんです。ワイマール憲法、どうしてその憲法体制が崩壊してナチスがその後登場していったのかということは、ずっとその後大きな課題といいますか、議論になっていたわけですが、もう早くも四〇年代にそういう議論が行われ、そしてそういう中で、日本的な文化といいますか、考え方を踏まえた上での新しい体制をどうつくるかという議論が行われて、ワイマール憲法の中の生存権、社会権という考え方が憲法の中に生かされていくというこの過程は、本当にすばらしいことだと思うんです。  先ほど、十四人の方の小委員会における議論ですか、私ちょっとそれを拝見していませんので、きょう先生からお話を伺って、ぜひ目を通してみたいと思っていますが、そのときの議論、いわば将来に向かって前向きに考えて議論をしたということがやはり大変すばらしいと思うのです。その議論の過程を少し御紹介いただければと思います。 ○進藤参考人 これが、二冊が小委員会の報告された、これは皆様お手元にもう官報であるんではないかと思うんですが、この中で議論しております大きなことは、あえて三つというふうに申し上げます。  一つは、今おっしゃっておられたように、ワイマール憲法に引きつけて、社会経済的諸条項をつけ加えることが、完備することが、強化することが基本的人権を強化することにつながるんだ、それなくして基本的人権は強化されないんだというこの考え方が、これは特に鈴木義男氏、それから森戸辰男氏、この二人と、自由権でいいんだということを主張する当時の日本進歩党それから日本自由党の先生方の間で議論のやりとりがあります。いわば芦田さんはその仲介をとるわけですが、結局、その結果でき上がった諸条項が、例えば、憲法二十五条の健康で文化的な生活を保持させるという条項が新しくつけ加えられるし、あるいは義務教育の無償化という条項、これも今までなかった条項であって、義務教育を無償化しなければ、善良で、のみならず賢明な市民が、強い市民社会が生み出されてこないんだという形での議論がそこで展開されるわけです。  私の言葉を使えば、いわば日本近代社会の修正資本主義化といいましょうか、社会経済条項を強化することによって市民社会を強化する議論がここで展開された。  二つ目は、やはり主権の問題です。主権の問題も、その時点で十分議論されていなかった、まだ揺れ動いていた、天皇主権なのか国民主権なのか、この議論がそこで詰められております。  それと、三つ目、あえて申しますと、これもやはり自衛力の問題に絡んでいるというふうに申し上げていいかと思います。  ちょっと私もこの議事録をもう一度皆さん方と一緒に精読し直して、このあたりのことを、二十一世紀に向けてそこから何を読み取れるかということを読み直してみたいと思っておりますが、ただ、私はお願いしたいのは、制定過程の中からすべてを手に入れるということをもちろんお考えになっていらっしゃらないと思いますけれども、むしろ、制定過程を超えて新しくどんな政策が我々にとって求められているのかという、二十一世紀への国の形づくりに向けて、皆さん方の御議論を、力を、エネルギーを、時間を注いでいただきたいなというふうに思います。 ○横路委員 ワイマールのことに触れたのは、最近の日本の社会の中でも、例えば機会の平等さえあれば結果の平等はどうでもいいといいますか、そういう議論というのはあるわけですね。本来、やはり政府の果たす役割というのは、ワイマール憲法ではありませんけれども、しっかりあるんだというように思います。  時間がもうなくなりましたので、もちろん、私ども、憲法をこれから考えていく上で、ちょうど二十一世紀が来るわけですね。ですから、二十一世紀の日本の姿、あるべき姿というのを見ながら、じゃ、どういう原理原則を持った国であったらいいのかということにこれから議論が進んでいくんだろうと思うんですね。  例えば、百年後の日本ではっきりしているというか、今言われているのは、人口が六千七百万人に減ってしまいますよということになるわけですね。そうしますと、アメリカやオーストラリア、ヨーロッパ諸国なども、外国の人々といいますか、ほかからの移住を受け入れるとか、いろいろな文化、民族の人々と一緒に共存している社会になっていっているわけですね。では、日本はそういう社会になっていくんだろうか。その場合の、例えば憲法的な原理原則というのは今の憲法でいいのかどうかとか、いろいろ将来の社会を見ながら議論をしていかなければいけないというように思っています。  いずれにしても、制定過程を含めてこれから時間をかけて議論をしていきたいと思います。  先生、先ほど幾つか制度的な改革について触れましたけれども、そして、三つの原則ということもお話しされて、その三つの原則が二十一世紀の日本の社会にやはり原則だというようなお話をされたと思うんですけれども、それだけで十分なのかどうなのか。新しい原則も必要になってくるかもしれませんし、その辺のところはどのようにお考えでしょうか。これで質問を終わりますが。     〔会長退席、葉梨会長代理着席〕 ○進藤参考人 小委員会に即して言うと、例えば労働権、女性解放それから教育の充実、このあたりが私は恐らくこれからの日本の課題かなというふうに思います。少子化問題。ヨーロッパを歩いていますと、やはり教育にお金がかからないし、女性が職を持つし、そのこと自体が女性の働く場所を確保し、同時に賃金格差を少なくし、労働のフレキシビリティーを高めていく、こういった議論がここから幾らでも出てくるというふうに思います。  私は、やはり国際化と情報化と市民化というこの三つの流れが、二十一世紀の新しい流れだと見ています。残念ながら、日本は国際化に対応せず、情報化に対応せず、つまり情報産業革命化に対応せず、それから市民社会化に十分対応していない。  市民社会化に関して言えば、NPO法案ができたけれども、NPOを一つつくるのにどれだけの時間がかかるのか。これに対するタックスエグゼンプション条項すらない。寄附を得ることはできないわけですね。これは、アメリカではもう既に何十年前からでき上がっているわけですよ、ヨーロッパでも。  それから、例えば教育に関して言うと、日本の教育というのは、今先進国の中で最も金がかかる教育の一つになっているわけですよ。その上、なおかつ、日本の教育の、大学を私学化していくという動き、エージェンシー化の動きがありますよね。 もっとも、大学の教師が勉強しないということも非常にありまして、これは我々としてももっともだというところもたくさんあるんです。しかし、やはりアメリカにしても、各州に幾つもの州立大学があって、教育の公的補助というものを軸にしている現状も我々は見据えていかなきゃいけないし、同時に、ヨーロッパで、情報産業、情報革命に対応するために高度な教育を持った職業人をつくり上げていくという、これはヨーロッパの諸国は幼稚園から大学まですべて授業料はただで、外国人も無料である。  こういった、やはり、この小委員会でも議論があるんですけれども、才能あっても資本なくして教育を受けることのできないこの戦前日本を変えなきゃいけないというのは、議論の中心になっているんですよ。僕は、形を変えて、二十一世紀に向かって、才能あって資本がなくて教育を受けることのできない人たちというのはそれなりに出てきているんじゃないか、それなりというよりも、それがやはり一つの軸じゃないかなと思いますね。形を変えてですよ、貧乏人がふえているという意味ではなくて。  例えば、日本の大学では外国人は来ないんです。なぜかというと、高くてこんなところへ来られないんですね。英語教育も十分なされていないから、英語も通用しない。韓国にしろ中国にしろ、小学校一年からパソコンが義務化され、パソコンを無料で貸与する、あるいはパソコンを安く買うことのできる仕組みができている、それから英語教育が、小学校一年から第二外国語、第一外国語として義務化されている、こういった新しい流れに対して、もっと日本の政治は前向きに対応していただきたいなというふうに思います。これは、憲法の問題じゃなくて我々の政策の問題というふうに思いますが。 ○横路委員 どうもありがとうございました。 ○葉梨会長代理 太田昭宏君。 ○太田(昭)委員 公明党・改革クラブの太田昭宏です。  きょうは、進藤先生、ありがとうございます。かねてからいろいろ御教示をいただき、また、私は、十年ぐらい前かと思いますが、「地殻変動の世界像」を読みまして、大変感動したりしたことがあります。  早速ですが、先生が書かれた、また、きょうの一番大事なテーマの一つだと思います、私にとりましては、文化の受容、あるいは、日本のアイデンティティーというものと、世界的な潮流である普遍的原理というものの受容ということの思想的、哲学的な位置づけというのは、憲法論議の中では非常に今大事だというふうに私は思っているんです。  先生のきょう配っていただいた中に、「森戸辰男と鈴木義男はGHQ改憲案の欠落部分を執拗につき、それを日本の土壌に植え直し、」これは土着化ということの表現と同じかと思いますが、「より普遍的なものに変えようと議論を挑み続けている。」それをレジュメの中の一ページ目に提起されております。  大変参考になったんですが、おっしゃる三Dということ、また、今横路先生の話の中にもありまして、これらの十四人を中心にした人たちが小委員会等で加えたりあるいは修正をしたりという諸事項が、「日本の土壌に植え直し、」とか土着化というよりも、まさに普遍的原理そのものではないか、私はそういう感じがするんです。  この「日本の土壌に植え直し、」という意味、古関彰一先生が「新憲法の誕生」という本を書いておられ、先ほど御紹介されましたが、この二百九十二ページのところでも、「「国民主権」は米国の法思想の導入という意味での日本化であり、社会権にいたってはワイマール憲法などを受け継ぐものではあれ、GHQ案にないものの導入という意味での日本化であった。」という、日本化という言葉で古関先生はおっしゃっています。  例えば、鈴木義男さんなんかと同じ東北大学で教鞭をとったカール・レービット、前回、私この席でも言ったんですが、これは戦前であったわけですが、その人でさえも、日本という国は、一階は和風で二階は洋風の家に住んで、その間の階段を忙しく行ったり来たりしている、そういうことを言っている。  文化と文明の受容ということと、日本とは何かというアイデンティティー論、ここは非常に私は大事な気がしてならないんです。  そういう意味では、「日本の土壌に植え直し、」と先生が表現をされたり、あるいは土着化という表現をされたりするキーワード、そして古関先生が日本化と言うのは、私にとってみると、これは日本の文化とか歴史とか伝統という、ある意味では、「文明の衝突」のハンチントンが言うような、文明対文明というよりは、西洋文明を日本の文化という、歴世の中でそれをどう受容するかというところがもっと葛藤があって、議論がそこで徹底的に行われて、文明対文明というよりは、ヨーロッパ文明対日本の文化というものの葛藤という中で行われてこそ初めて、「日本の土壌に植え直し、」あるいは土着化という表現がされてしかるべきであろう。そのせめぎ合いの昇華の過程が不十分であるままにできたのではないのかな、私はこういう気がしてならないわけであります。  「日本の土壌に植え直し、」ということ、あるいは日本化というようなこと、土着化という、文化とか伝統とかいうものとの、私の言った、普遍的原理というものにすぎないのではないかということについて、先生はどうお考えでしょうか。 ○進藤参考人 半分は同意いたしますけれども、半分はちょっと違うんじゃないかなというふうに思います。  私も、日本の文化のアイデンティティーというのは大切だと思うし、特に、今国際社会に行きますと、アメリカン・グローバリズムのグローバルスタンダードのひとり歩きなものですから、いつも反発を感じているんですけれども、日本はもっと独自の文化があるし、日本の持っている文化の奥深さというものをもっと世界に発信すべきだというふうに思っております。同時に、それは、日本人がアイデンティティーを失ったがゆえに引き出された現実じゃないかなというふうにも思っているわけです。  しかし、にもかかわらず、憲法制定過程に目を向けたとき、十三日間の議論にしろ、百日間の審議にしろ、その過程で、ではどうやって普遍的な原理を日本の政治経済土壌の中に取り入れていくのか。そのためには、これまでの伝統は、衣は、古い洋服になったので一回捨てなければいけない、この意識は改革派の側にははっきりありましたね。松本烝治にしろ近衛さんにしろ、やはり古い上着を着たまま新しい日本をつくろうとしていた。  そうじゃなくて、では古い上着を取ったときに、どんな動きと普遍化の動きがかみ合うのかということとか、あるいは、かつての動きのどこが悪くてどこがいいのかということを、この委員会の中で議論しているというふうに申し上げていいと思います。あるいは、貴族院の議論でも基本的には同じ流れにあるというふうに申し上げていいと思うのです。  例えば、家督相続制というのは御承知のとおり、かつてあったわけですね。家督相続制を変えなければいけないのだ、これなくして個人の解放はなくて、本当の意味での市民社会ができないのだということを、これが日本株式会社の伝統の軸になっているのだ、これは変えなければいけないのだ、ではどうやって変えるのかということを議論するわけですね。そういった意味で、私は、普遍的な原理を、改革の理念を「日本の土壌に植え直し、」という表現を使ったのです。  私どもは新しい動きを見るときに、何か日本というのは、おっしゃるとおり、いつも外から洋服を借りるわけです。近代の理念を取り入れるわけですけれども、同時に日本人の中に、今日でもそうですし、あしたでもそうだと思うのですが、やはりナショナリズムといいましょうか、日本の土着の、地方自治の中でもいろいろな動きがあるわけですよ。その動きというものをやはり大切にしていただきたいなと。  それで、このときに、改革派の人たちあるいはアメリカのニューディーラーたちが目を向けたのは、土着でどんな動きがあるのかということに目を向けるわけですよ。土着というのは、お百姓さんとか工員さんとかそういった人たちばかりではなくて、そういった人たちを含めて、いわば一般庶民とエリート、リーダーとの中間のつなぎ役になっている知識人たち、運動家たち、ジャーナリストたち、彼らがどんな動きを示しているのか、そこにまず目を向けたというふうに申し上げていいかと思います。 ○太田(昭)委員 ちょうど百年前に、一八九九年に、新渡戸稲造が「武士道」というのを書いた。その仲間で、郷土会等で勉強している内村鑑三さんが「代表的日本人」というのを書かれる。明治三十二、三年ごろですから、ヨーロッパ文明というものとのまさにせめぎ合いというものの中で、そして日本がそれを受容しながら、そこで日本のアイデンティティーとの葛藤があったと思うのですね。私は、そういうことも含めて、実は今、同じような哲学的、思想的な位相というものが憲法論議の位相でなくてはならぬ、そういう考え方を持って質問したわけです。  そうすると、いろいろなことを聞きたくて、きょうは十五分だけですから十分ではないのですが、例えば憲法第一章第一条というところ。先生の著作の中に、「象徴としての天皇」、「二つの象徴天皇制」という分析をされているところがあって、きょうはお話がなかったと思いますが。この進藤先生の言う、限りなく儀式的なものへと縮小されるべき戦後憲法体制下での象徴天皇制、こういう表現をもされております。  そうすると、第一章第一条の、今この論議の文脈でいうならば、国民主権たる民主的原理と天皇制というものを中和させて象徴天皇制になったというふうにとるのか、それが一条というところに並んで出てくるということの中で、単なる中和ということなのか、それとも、日本の土壌に植え直しという思想的営為の上にこの第一章第一条ができ上がっているのか、その観点はどうお考えでしょうか。 ○進藤参考人 大変難しい質問でございまして、可能な限りお答えしたいと思います。  基本として、私の考え方、現実認識というのは、憲法制定権者たちといいましょうか立法者たちがつくった憲法第一章のねらいというのから、今日の日本の天皇制というのは少し外れ過ぎているのではないかと思うのですね。  例えば、私は昨年二カ月コペンハーゲンに過ごしておりました。あそこは君主がいるのですけれども、君主というのは、イギリスでもそうですし、ヨーロッパでも、あるところはそうですけれども、もっとふだん着でデパートに行くような感じなんですね。それが当たり前であって、日本はなぜあんなに君主君主という形で、天皇天皇という形で、大きな儀式をやったり、何といいましょうか、まさに一九四六年の戦後の精神といいましょうか、憲法の精神から乖離している。なぜもう一回原点に立ち返らないのか。原点に立ち返って、もう一度新しい天皇像というのを、あるいは日本像というものを確認すべきじゃないか。  同じことは、例えば平和国家ということでいってもいいと思いますよ。アメリカの国際政治学者は最近、日本のアイデンティティーというものを広島、長崎に求めているのですよ。だから日本はなかなか軍備を強化しないんだというのが、いわば通説になっておるのです。ところが、そういった状況の中で、広島、長崎のアイデンティティーもどこかへなくなってしまった。こういう、平和国家、民主国家、何とかという、これまで長い間日本の骨組みとして教育されてきたことがいつの間にかなくなってしまって、それこそ現実とプログラムとの間の乖離が激しくなっているのではないのか。  では、単にプログラムに戻すべきなのかという、この後ろ向きの態度を私はとるべきではないと思いますよ。逆に、二十一世紀に向けて、どんな形で現実を変えていくのかということをもっと議論していただきたいなと思うのですよ。  先進国の中で、こんなふうに君主にたくさんのお金がかかっている国というのはないのではないかしら。もっと予算というのは有効に使っていただきたいなというふうに、まあ、こんなことを批判すると、何か天皇制に対する批判だというふうに言われるかもしれないけれども、これは民主主義の社会なんだから、もっとざっくばらんに、こんなむだな、例えば一人に宮廷費を使うのはおかしいとか、例えば一九四六年、天皇に侍医、ファミリードクターが六十人いたという。これを変えようとしたわけですよ、四六年から四七年にかけて。天皇一人に六十人のお医者さんがついている宮廷というのはおかしいじゃないか。これを宮廷改革という形で、芦田均さんや、当時の日本社会党の片山哲さんなんかが改革しようとしたわけです。  ともあれ、そういったことを考えますと、私どもは、とにかく現実の中で変えるべきことがもっともっとあるのではないかというふうに思います。 ○太田(昭)委員 ありがとうございました。     〔葉梨会長代理退席、会長着席〕 ○中山会長 安倍基雄君。 ○安倍(基)委員 保守党の安倍でございます。  自由党と割れたばかりでございますけれども、憲法観は同じでございますので。 いささか先生の憲法観とは違うもしれませんけれども。  先生は、密室の七日間だけではない、昔からやっておったんだというお話がございました。ただ、既に質問もあったようでございますけれども、このアメリカで準備していた草案というのは、やはり日本をアメリカの害にならないようにということが基本思想にあったのではないかということは事実だと思います。  それから、人権とかいろいろな問題は、明治憲法は五十七年間変わっていないわけですから、社会のいわば変動に対して、昔の考えでいっていることは事実です。要するに、欽定憲法で、変わらなかったのは事実ですけれども、明治憲法は明治憲法なりに、当時の社会状況、発展段階から見ますれば、やはり秩序の安定が必要だし、いろいろな要素で、それなりの役割があったわけですね。  だから、新しい戦後のいろいろなものが、一つの流れとはいっても、それはあくまで当然であって、それを殊さら特にすばらしいとは言い切れない。  そこで、今、十四日間非常に質のいい議論がされたと言いますけれども、先生は、十四日間質の高い議論がされればそれで十分な議論とお思いなんですか。と申しますのは、憲法というのは一年ぐらいかかって議論してもいいはずなんですよね。確かに十四日間の議論はそこそこ質が高かったかもしれません。さっき話がございましたけれども、一般的ないわば考え方がその国に果たして適合するかどうかということも含めて、これはやはり一年近い議論が必要なんじゃないかと思いますけれども、質が高い議論がなされたという先生のお話と関係しまして、果たしてこれで論議が十分であったのかどうか、お考えをお聞きしたいと思います。 ○進藤参考人 十四日間というのは、秘密小委員会、憲法制定小委員会の議論でありまして、実質的には、それ以前、枢密院から衆議院に移り、そして衆議院の憲法委員会に移り、これは七十数人、それから小委員会を経て、今度は貴族院に移ります。なべて百日審議というふうに申します。ですから、百日審議の中で、これは議事録を安倍議員にはぜひお読みいただきたいんですけれども、読んでいきますと、そう短い議論であったというふうには思いません。 ○安倍(基)委員 延べではある程度の議論があったかと思いますけれども、いろいろ今までの参考人の意見でも出てきたんですけれども、当時は、これを受け入れないと要するに天皇制がどうなるかわからぬぞというような一つの政治情勢のもとに、私は昭和六年生まれでございますから、非常にその当時のことはありありとよく知っておりますが、そういう政治情勢のもとにやはり行われたことは事実でございまして、それが、全く自由な、本当の意味の詰めた議論であるかどうかというのは非常に疑問であると私は思います。  この点、十四日というのが、先生が引用されたからそれを言ったわけでございますけれども、本当に国の骨格をつくるというスタンスのもとに長時間議論されたかどうかという点については、やはりいささか疑問があると思いますが、先生は、その間に自由な議論が、非常に本質的な問題から始まってすべてに議論がなされたとお考えでいらっしゃいますか。 ○進藤参考人 基本的にはそう思います。 ○安倍(基)委員 それから、三つのDの中で非軍事化ということを言われました。まさに、一つの方向としてはそうでございましょう。しかし、憲法の中に日本ほどのいわば九条に相当するような規定を持った国はございますか。 ○進藤参考人 ございます。 ○安倍(基)委員 どの例でございましょう、すべての戦力を保持しないという。 ○進藤参考人 よく例に出されるのが、これは日本とは比較にならない小さな国で、コスタリカです。  しかし、私が申し上げているのは、完全非武装化の国はコスタリカかもしれないけれども、しかし、自衛力を許容した、脱軍事化に向けた規定をしている国というのは幾らもありますですね。これは、ブラジルもそうですし、それからフランスの第三憲法かな。  憲法の国際化という概念があるんですよ。一つの国の憲法というのはその国特有のものじゃなくて、二十世紀中葉を軸にして、どの国の憲法もほとんど似たような規定を持つに至る、それが時代の流れであり二十世紀の太い潮流なんだという、そういった憲法論というのがもう既にこの三十年ほど前から、東京大学の教授をやっておられた樋口陽一先生なんかを中心にして出されておりますね。彼は、いろいろな憲法を取り上げることによって、その中に共通している例えば人権とか、あるいはケロッグ、ブリアンによる不戦条項とか、あるいは社会権の充実とか、あるいは議会制民主主義とか、あるいは君主制から離脱することだとか、こういった非常に太い流れがどの国の憲法にも共通してあるんだという、これを憲法の国際化という言葉で呼びますけれども、私ども国際関係をやっておる人間から見ると、別に憲法が国際化されてもおかしくないんじゃないかというふうに思いますね。  それで、あえて申しますと、天皇を受け入れないぞというおどしのもとで日本国憲法ができたと考えるのも、これまた歴史の読み方のゆがみでありまして、だから私はこの「芦田均日記」をあえて参考資料につけさせていただいたんだけれども、「芦田均日記」は、これは何もおどしじゃないんだ、我々はむしろこういった考えを持って新しい日本の国づくりを進めるべきだということを閣議の中で堂々と述べるわけですね。  それで、このことの持っている重みというのは、保守政治家の中でこういったリベラルな人たちがいたということ、時代を先取りしていた国際感覚の豊かな政治家がいて、外交官がいて、それが戦中から戦後に向けての時代を生き抜いて戦後改革にさお差していったんだ、戦後改革をつくり上げていったんだという、その動きをぜひ安倍議員にもおとらえになっていただければなというふうに思います。 ○安倍(基)委員 私は、憲法というのは、さっき社会の骨格と言われましたけれども、それなんでして、与えられた環境のもとに、与えられたいわば社会発展段階のもとにどのような理念が掲げられるか、その理念をどの程度までどういう機構を持ったら実現できるかという、その骨格だと思うんですよね。その意味で、環境によっていろいろ変わってきますし、その国の発展段階によっても違うわけです。  さっき言いましたように、明治憲法がそれなりの大きな意義があったと、今では違うかもしれませんけれども。そういうことから考えますと、単に国際的に似てくるんだとか、コスタリカと同じように日本を見るとか、それはおかしい話であって、本当に、日本の置かれた国際情勢のもとで日本の国はどういった理念を実現できるのか、その実現のためにはどういった機構がいいのかというのが憲法の一番の中心だと思います。  その上に、環境が変わり、あるいは内部情勢、社会の発展段階が変わればそれなりに少しずつ変えていくというのが憲法であって、どうも先生は、憲法を変えなくても、仏つくって魂入れずとおっしゃいましたけれども、その魂はどこから来るのか。むしろ、憲法の中にある程度理念を設けてそれを実行していくのがあれであって、理念を憲法に入れないで、ただ魂を入れる、魂を入れるというのも何の魂だかわからないわけでございます。  最初の私の憲法の基本的な考え方について、間違っているのかどうかをひとつお聞きしたいと思います。 ○進藤参考人 安倍議員の憲法観が間違っているという、そういう失礼なことを私は申し上げることはできません。  ただ、安倍議員とは大分考えが違うなという感じを、昭和六年生まれでございましたか、昭和六年生まれの先生と、私は昭和十四年なんですけれども、やはりその差かなというふうにも思いますし、それから、安倍議員のようなかつてのエリートのお子さんと、私のようにどん百姓の息子との違いかもしれませんですね。  しかし私は、二十一世紀社会を強くするのは、やはりどん百姓が、つまり庶民が、市民が強くなることであって、これが国家を強くするんだと。これなくして、いわゆるエリート――ここまで言うと議事録に弊害がございますけれども、いわゆる超エリートというのか、高学歴の、本当に受験勉強をしてきたエリートによってつくられた社会が、しかもそれは世襲制を軸にした社会が、かつての日本がそうでありましたが、一体日本の国を強くするのかということになりますと、私はそう思いませんですね。  例えば、クリントンがなぜあれだけすぐれた政策を、いろいろなスキャンダルはありますけれども、アメリカを強くできるのかというと、それはもう全米の一番ボトムの生まれで、そこで大統領まで上り詰めるあの才覚というのか、それを受け入れる社会の厚みというのか、そのことをぜひ安倍議員にも御理解いただきたいなというふうに思います。 ○安倍(基)委員 何か、えらい個人的な話になりましたけれども。  ただ、アメリカ社会でそういう人がちゃんと大統領になれるという一つのシステム、やはりそういう一つのシステムが社会のいわば構成なり活動力に影響するんだと。その意味で、クリントンのような者が出てきて大統領まで上がれるんだというアメリカの一つの社会システムといいますか政治体制といいますか、それがやはりプラスになっているわけでございます。  私は、ここでお話ししたいのは、私の憲法観というのは、さっきお話ししましたように、与えられた国際情勢のもとで、一定の発展段階の国が、どうやって、どの程度の理念を実現しながら、みずからの安全と国民の繁栄を保持していくのか。ある意味からいうと、そういったものが変わっていけば、変数と関数なんというふうな言葉はちょっと言い方が悪いのですけれども、そういうものがむしろ社会の骨格の考えではないか。  でございますから、単に市民が大事だとかいうような抽象論じゃなくて、どの形の憲法であれば、一番この国の活力が出るのか。さっき少子高齢化の話が出ました。確かに、将来、移民をどうするかという問題も起こりましょう。そういう先々を見据えた、本当の意味の社会の体制を考えていくのが憲法論じゃないかと思います。  その点で、基本的人権、市民の権利というような話ばかりが先行すると、いささか――午前中私は、憲法の一番中心課題として、いわば基本的人権的なものと公共の福祉というものの接点をどこに求めていくか。それはそれぞれの社会において少しずつ変わってくるべきところでありまして、単に抽象的に、これは絶対守るんだと言ってみても、それを実現できない発展段階ではだめなんでございます。  その点、先生の議論は、そういう社会の発展段階に応じた、社会の環境に応じたもとでコンスティチューションができるんだということについての、ちょっと見解の差があると私は思いますが、いかがでございますか。 ○進藤参考人 私は、現在を絶対に守るべきだという立場をとっておりません。現在を変えていくべきだ、そのときにどこに根拠地があるかということを強調したいと思うのです。  今の世の中というのは、私が言うまでもなく、国民の間で不満だらけですよ。政治は動いていない。経済も動いていない。官僚も動いていない。警察も動いていない。これはどこに原因があるかということを考えたら、やはりそれは戦後五十年の制度疲労といいましょうか、うみがたまっているんだというふうに思いますね。  それはどこにあるかというと、憲法をいじくっても余り意味がないと思うのです。いや、意味はあるかもしれませんよ、どうぞ、それは御議論なさっていただきたいと思うのです。  例えば、環境基本法がなぜ十分な形で実現されないのか。なぜアメリカ型のNPO法案がつくられないのか。そういった環境基本法を主張している人たちが憲法改正論をぶつんだったらわかるのですけれども、どうも話は逆ですね。少子化社会を憂うんだったら、男女共生基本法をもっと充実化させなきゃいけないのに、それを主張する人たちと憲法改正を主張する人たちの間の差があり過ぎるんじゃないのかなというふうに思います。 ○安倍(基)委員 いずれにいたしましても、質問時間が来ましたので終わりますけれども、ひとつゆっくりと、またプライベートな議論をしてみたいと思っております。 どうもありがとうございました。 ○中山会長 春名直章君。 ○春名委員 日本共産党の春名直章です。  きょうは、貴重な御意見、本当にありがとうございました。  押しつけ憲法論というのが俗によく言われます。その点について、二点、最初に御見解をお聞きしたいと思います。  この議論の特徴は、お話にも出ましたけれども、やはり今の憲法の制定過程が狭い範囲でとらえられている。占領下で行われてきたという面のみを強調して、制定過程の全体像、あるいは歴史的、国際的な背景に目を向けないというところから、この押しつけ論というのも出てきているように思うのですね。その点にかかわって、二つほどお聞きしておきたいのです。  一つは、お話の中にもありましたけれども、戦争を遂行してきた旧権力には、大日本帝国憲法を変える意思も、絶対主義的な天皇制の国体を変更する意思もなかったというふうに言わざるを得ないと思うのですよ。そういう意味では、こうした勢力にとっては、憲法の平和的、民主的な条項というのは、まさに押しつけととらえられるのかな、だれがどう押しつけられているのかというのが問題ですが。しかし、新権力の担い手である国民にとっては、押しつけられたというものでは毛頭ない。その中身の土着性ということの話も出ました。私は、そういうふうに押しつけという問題をとらえているわけですが、この点についての御見解。  もう一点は、憲法無効論ですね。これはもうこの間何回も議論がされてきているのですけれども、こういう見地をとられる方々は、いつもハーグ陸戦法規を持ち出します。既に決着済みの問題ですけれども、このハーグ条約というのは、交戦中の占領に関する規定です。休戦、停戦の合意後に適用されるものではない。そして、ポツダム宣言、降伏文書に署名をしている日本政府にとっては、その内容を誠実に実行することこそ国際的な義務であるというふうに私たちも思います。参考人のこの無効論に対する見解もあわせてお聞きしたいと思いますし、こうした無効論を今さら蒸し返す意図はどこにあるとお考えなのか、その辺をお聞かせいただけませんか。 ○進藤参考人 正直なところ、私は、既に三回行われた憲法調査会の公述記録を拝見しまして、やはり文部省が国立大の独立行政法人化を進めるのはやむを得ない、そういう議論が出るのも当たり前かなと思いました。つまり、誤解を恐れずに申し上げますと、議論の質が低過ぎるのですよ。これは驚くべきものですね。憲法学者が、日本自由党、日本進歩党の憲法草案を見ていないというのですから。私は大変ショックを受けましたよ。この人が、学生数が十万人ぐらいいる大学の憲法学の主任教授だという。僕は名誉毀損でも何でも訴えられても構わないと思うのですけれども、これはやはり日本の知的水準がいささか疑問だなというふうに思いました。  憲法無効論、これは学界では決着済みの問題ですよ。ハーグ陸戦法規、ポツダム宣言、これはもう決着済みの問題です。  けさも、私は、占領研究をおよそ四十年やってきた、盲目なんですが、竹前栄治先生という東京経済大学の教授と電話で話したのですけれども、彼はこの点に関して力説しておりました。まさにハーグ陸戦法規を持ち出すのはおかしいし、ハーグ陸戦法規自体が認めているものであって、ポツダム宣言の要請するものだ、そういうふうに理解されなきゃいけないということをおっしゃっておられました。  押しつけ憲法論というのはありますけれども、私は、密室の七日間に焦点を絞ったら押しつけになるかもしれないけれども、時間の軸と場の軸を外して立法者論を入れていけば、押しつけでも何でもないだろうというふうに思います。これはワイマール憲法だってその意味では押しつけだろうし、ジュネーブ憲法だって押しつけですよ。憲法というのは、現憲法体制を革命によって変えることができなければ、外国人の賢者がやってきて骨格を議論する、骨格をつくる。それは一つのあるべき姿なんですね。それでなければ、国の形というのは変えられませんよ。  一体、女性が選挙権を持たず、土地改革がなされず、農民が小作で、それから労働者の人権も認められない、教育の自由も宗教の自由もない社会を我々は望むのですか。これは望みませんよ。かつての権力機構の中といいますか、政治経済体制に基盤を置いた政治家たちからは絶対出てこない発想ですよ。もちろん、にもかかわらず、芦田均さんのように、保守リベラル派の中から、積極的に新しい国際化の流れをつかみ取っていこう、先取りしていこうという国際的な視野を持った政治家、彼らは例外というのか、あるいは幣原だって同じだと思います、安倍能成だってそうだし、閣僚の中にもそういう人たちがいたということを我々は繰り返し確認しておかなきゃいけないと思う。  それから、明治憲法と同じように、民間憲法私案の動きというのは蠢動していたんだという現実はやはり見据えていった方がいいんじゃないかなというふうに思います。 ○春名委員 どうもありがとうございました。  土着性ということについて一つ聞いておきます。  先ほどのお話の中でも、植木枝盛の憲法草案から始まって、さまざまな憲法が民衆の中で、国民の中で先にずっと出てきているという過程があります。そういうことを、先生の表現では、GHQもこういう流れを目ざとくというか、察知したんだ、在野の動きをよく見ていたんだということをおっしゃったと思います。この土着性というのを、きょう初めて、日本国民が実行する憲法もつくらなければいかぬ、芦田委員長のこの小委員会の速記録も見て、なるほどというふうに思って、私もまだ読んでおりませんのでしっかり読みたいと思いますけれども、こういう流れを察知してきたと。  もう少しそこを詳しく語っていただければと思っているのです。つまり、どのように当時の憲法制定過程にこの民衆の声、民主的な憲法草案の中身、それから国民の民主化を求める運動が影響を与えてきたのか、反映してきたのかというあたりをお話しいただければと思います。 ○進藤参考人 今、年表を手にしていないのですけれども、例えば、十月の九日かな、ハーバート・ノーマン、それからジョン・K・エマーソンが、例えば信夫清三郎に会ったとか、鈴木安蔵に会ったとか、大内兵衛に会ったとか、あるいは岩淵辰雄に会ったとか、そういった記録が出てくるのですね。  彼らは、私の文章の中に引用もされておりますけれども、日本を変えることは難しいと言うのです、とても難しいと。こんなことを「戦後の原像」の中で引用しておりますけれども、当時、彼らの日本の率直な印象は、「いわゆる民衆の大部分は、政治的素養をほとんど何も持っていない」これはジョージ・アチソンという、当時の駐日大使に相当する人ですね。「にもかかわらず、改革と変化を志向している……。」これはマッカーサーに送る文書で極秘電です。「彼ら日本の」ピープル、市民と訳してもいいかもしれません、「“民衆”たちと、高官たちや生え抜きの官僚や知識階級、財閥の経営者らとの間には、米国の占領に対する態度に違いがある……。文官官僚たちはこの上なく不誠実、無能である。」とまで言い切るのですね。インコンペテントという言葉を使いますよ、文官官僚たちは無能なんだ、「知識人たちの中には、自由主義者」、リベラリスト「の名に価する人もいるけれども……彼ら知識人たちのほとんどは臆病者」だというのです。  これは、私は今見ても全くそうかなというふうにも、私を含めて思います。だから、その意味で、国を変える、本当に国の形を変えるというのは容易じゃないですよ。 そこのところは、その困難さというのか、それは感じますね、当時の記録を読んでいきますと。 ○春名委員 どうもありがとうございました。もう一点聞いておきます。  土着化、国際化と、もう一つのキーワードとして先生は戦略化というお話をされております。私はこれにも着目をいたしました。  先生の本の中で、「敗戦の逆説 戦後日本はどうつくられたか」というのがございます。その百九十八ページに、一九四七年に始まる冷戦の本格化の渦の中で、戦略化の動きに制憲過程がさらされることになるということが出てまいります。このように土着化してできた憲法だからこそ、今私は輝いていると思うのですけれども、ところが、この四七年当時から、既に戦略化という名前で、私から言わせれば改憲という源流があるように思います。そういう問題としてこの制憲過程の流れを見ていいかどうか、その点の御見解。  それとあわせて、同じ「敗戦の逆説 戦後日本はどうつくられたか」の本の中で、日米安保体制と憲法体制との矛盾を非常に鋭く指摘をされておられます。「戦後憲法体制と対峙し合う日米安保体制との―憲法の定着化と空洞化との―せめぎ合いが、戦後政治の歴史過程を規定し始める。」このようにお述べになって、その矛盾を指摘されています。私も同感でありまして、日米安保こそ憲法を空洞化してきた大きな要因と考えています。  参考人は、日米安保のどこがどのように憲法と矛盾されているとお考えなのか、あわせてお聞かせいただけたらと思います。 ○進藤参考人 余りここで私の外交論議をしますと、主題から外れますので触れたくないのですけれども、ただ、私はこんな記憶がありますよ。アメリカの当時の制定に携わった人にインタビューしたときに、憲法九条と安保の関係をどう考えているんですかと言ったら、いや、憲法九条よりも安保が優先するんだから、憲法九条を変えればいいじゃないかと、これは一九七九年かな、ワシントンで、ある外交官と話したときに言っていました。そのとき、僕は割り切れなかったですね、勝手にそんな変えられては困るよと。  国際政治の現実というのは厳しいですから、アメリカとの安保条約は、それは我々を守ってくれているでしょう。しかし、同時に、アメリカの戦略的な利益を軸にしていますから、では我々を守るに値する脅威が本当にあったのかということを外交史家として分析してまいりますと、例えば、中国の脅威論なんというのはあったけれども、一九七一年、キッシンジャーが中国に行き、そして中国と米国が国交を回復したら、それで中国の脅威はなくなったじゃないですか。これが外交の現実だと思いますよ。だから、日本はそういった動きに対して外交のリアリズムをもっと持ってもいいんじゃないかなと思います。  憲法と安保がせめぎ合っていたというのは私の言説です。私は、安保それ自体を決して否定しておりませんので、その点は誤解なきようにしていただきたいと思うのです。やはり国際関係のリアリズムというのはございますから。しかも、国民の土壌の上に一つの政策が出てくるし、外交の継続性という問題もありますから、そこまでは私は申しません。  ただ、歴史解釈として見たときに、やはりこの時期、例えば農地改革の動きを途中でストップするとか、官僚改革の動きを途中でストップするとか、それから戦犯、戦争犯罪人のパージをストップするとか、逆にレッドパージの動きを進めるとか、それから教育改革の動きをストップするとか、一連の動きはありますよ。これは、もう戦後改革の歴史を議論するときに出てくる問題だと思います。もちろん沖縄の問題もあります。さまざまな問題があります。それは幾らでも議論できると思いますが、とりあえず、きょうはそんな形でよろしいでしょうか。 ○春名委員 最後に、では一点だけ。  憲法九条論ですけれども、レジュメのIIIの項で、「制憲のかたち―二十一世紀世界につなげる」ということで、「三つのD」の具現化、このことの重要性ということで、今までも大事だし、これからもこれがキーワードだということでお話をいただきまして、そうだと思いました。私は、この憲法九条というのはそのことを最も先駆的に進めてきている中身のものではないかなと思います。こういう点では二十一世紀像の光になる中身のものではないでしょうか。  この憲法九条論というのはどういうふうにお考えでしょうか。 ○進藤参考人 私は、もう余り原理主義になりたくないのですよ。護教主義というのか、あるお札を、マルクス・レーニン主義とか憲法第九条とかをそういう形で議論してもしようがないんじゃないかと思うのです。政治というのは、今何が欠けているのか、どうすれば国力を増大することができるのか、市民の生活を豊かにするのかという実践論、政策の時代だと思うのです。それをもっと御議論していただきたい、そこに時間を使っていただきたいというふうに思います。  だから、憲法第九条をめぐって、それを変えるとか変えないとか――もう憲法第九条はいいじゃないですか、ちゃんと軍事力を認めているのだから、芦田さんがそれを用意しているのだから。逆に、我々がしなきゃいけないのは、むだなことはやめた方がいいし、税金のむだ遣いをやめて、もっと有効な税金の使い方をすれば日本の国だってもっと強くなりますよ。若者だってもっと元気が出ますよというふうに私は思います。 ○春名委員 どうもありがとうございました。 ○中山会長 伊藤茂君。 ○伊藤(茂)委員 進藤先生には有意義な問題提起のお話をありがとうございました。最後の質問者でございますので、二、三、御見解を承りたいと思います。  一つは、お話の中にもございましたが、端的に、御見解といいますか、気持ちを伺いたいのですが、今日の憲法状況下あるいは憲法論争状況下というか、私どもも論議をしている当事者でございますし、いろいろと考えるわけであります。  今の日本、前総理の突然の不幸な事態もございましたし、いろいろな意味で多くの国民の皆さんが非常に大きな不安に包まれているというのがまさに今日の状況だと思います。年金の議論がございましたが、では本当に先々どうなるんだろうか。介護保険がスタートしましたが、老後の安心は国民すべての等しい願いなのに、一体どうなるんだろうか。財政危機は深刻だが、ハイパーインフレは来るのか、あるいは大増税が来るのか、どうなるんだろうか、回答はございません。  憲法につきまして、物々しく衆参で論議がスタートし、私どもやっておりますけれども、例えば、どこの新聞の世論調査や国民意識調査をされても、憲法についてどう思うかという項目はございませんというような状態でございます。  これでいいとは私は思いません。やはり憲法は国の形の表現ですから、これでいいとは私は思いません。やはり何かギャップがあるのか、どうしたらいいのかということを思うわけであります。  そうなりますと、先ほど来先生がおっしゃいましたように、今さまざま新しいスタイルでの改憲論、環境問題とか国際人権とか分権とか、もっとはっきりやる必要があるじゃないかとか、いろいろな見解が出されておりました。また、そういうものを現実にどうできるのかというプランが必要ではないかということも、私は本当に賛成でございます。  特に、これは先生に申し上げるとか伺うよりも、私ども政治家あるいは政党自身の本来の使命であろうというふうに思いますけれども、具体的な、次の時代の不安を超える、あるいは、あすを語ることのできる具体的なビジョンとか、全体の形とか、具体的な骨太の政策論とか、それは、先生御指摘の個々の問題もございます。環境基本法という話がございましたが、トータルとしてそういうものをやる。そういうものを、例えばA案、B案、C案でもいいからみんなで出し合って、みんなで真剣な議論をやる、騒然たる国民的な議論を起こす、そういうものと、では憲法はどうなんだろうかということで将来を考えるという方法論をとらないと、今の憲法論争状況に、私も参加をしながらしばし不安を感ずるわけでありますが、その辺、どういうふうなお気持ちでいらっしゃるでしょうか。 ○進藤参考人 僕は、やはり典型的なのは第九条論じゃないかと思うのですよ。 賛成するにしろ反対するにしろ、一国安全保障論というのか、一国平和主義論だと思うのですね、第九条論というのは。それから、軍事安全保障論だと思うのですよ。  例えば、冷戦は一九八九年に終わりました。九八年までおよそ十年間で、世界じゅうで起きた紛争、戦争の数は百八あるのです。百八の紛争のうち、内戦が九十二なんですよ。それから、外国介入下での内戦、例えばボスニア・ヘルツェゴビナのようなケース、これは九つですよ。国家間戦争七つ。国家間戦争というのは、ではどこで起きたのかというと、すべて第三世界ですよ。何が原因なのか。これは貧困ですよ。それから、環境破壊ですよ。  となると、我々は、十九世紀の頭で憲法九条論をやっているわけです。自衛力とか、攻められてくるとか、量が多いとか足りないとか。量が多過ぎるのは当たり前じゃないですか。むだなことに金を使う必要ないですよ。もっと吉田茂さんのように商人国家論に徹すべきだと私は思いますよ。九条論をこんな形でやっていると、いつまでも日本は、後からおくれて来る世界のレートカマーズになると思いますね。これは典型的な安全保障論のおかしさですよ。それが一つ。  それからもう一つ、私は、今の世界というのは、もう我々がかつて知っている世界じゃないのですよ。例えば、グローバルコミュニケーション、テレコミュニケーションの増大というのに目を向けると、一九八六年から九六年まで十年の間に、大西洋回線に関して言えば、実に六十五倍も回線数がふえているんです、ケーブルに関して。衛星を使ったものは九倍。太平洋回線に関して言えば、八六年から九六年までの間に、ケーブル回線を使ったものが四百三十二倍ですよ。衛星回線を使ったものが六倍。いずれにしても、我々が知っているかつての世界じゃないのです。もうグローバル化された世界なんです。その中で、新しい国づくりをしていかなければ、我々はおくれをとりますよ。  そして同時に、産業革命が進行しているわけです、今。これは第三次産業革命です。コンピューターを基軸にした軽薄短小型の産業革命です。情報化社会です。日本は全然されていませんよ。全然というのも語弊がありますけれども、非常におくれている。  大学に行ったって、官庁に行ったって、コンピューターを使っている人というのは全部じゃないでしょう。アメリカへ行ったら、全部使っていますよ。中国に行ったら、普通の庶民の家に必ず一台コンピューターがありますよ。情報革命、いかにしてIT革命をマニュファクチャリングに結びつけるかということに議論を使っていただきたいと思うのです。仕組みを議論したって意味はないですよ。これは逃げ場ですよ。 それで何かいいものが出てくるというふうに夢見ているんだから。  それから、市民社会化ですよ、もっとNGOを強くするような。今、毎週一回、ニューヨークの国連本部で、安保理はNGOの団体二十を招いて、例会を開いているのです。なぜなのか。安保理、セキュリティーカウンシルの常任理事国、非常任理事国を含めたら十五カ国でしたか、その理事国プラス二十のNGO、例えば国境なき医師団とか、サヘルに木を植える会とか、その代表たちが情報を集めて、どうやったら紛争を解決できるかという議論をしているのですよ。毎週一回です。二時間から三時間にわたるといいますね。  もう国家の壁を軸にして考えていただきたくないと思うのです。だからといって、僕はインターナショナリストだ、コスモポリタンだと申し上げるわけじゃないのですよ。私は限りなくナショナリストだから、もっと国力を強化するために、皆さん方は変化する新しい世界を先取りしていただきたいな。憲法論議なんか議論をしていたら、アメリカ人は笑っていますよ、というふうに私は思います。 ○伊藤(茂)委員 お答えの冒頭に、九条論に関しておっしゃいましたが、一項はいいが、前段はいいが後段を変えろという意見がございましたが、私も、そういう議論をする前に、それでは、朝鮮半島問題とか台湾海峡問題を含めまして、一体どのように我が日本がこういう矛盾を解決することができるのか、どのような次のビジョンを描くのか。外交ですから、また地域の安全の問題ですから、ある意味では理想がございますが、また極めてすぐれたリアリズムでなければならない。また、新しいリアリズムをつくらなくちゃならぬというのも当然のことでございまして、その点は同じでございます。  そういう上に立って、ではどういうしたたかな、しかも具体性のあるプログラムをつくることができるのかということが私どもの任務でもあろうというふうに思っております。  先生のお答えに関連をして、もう一つ伺いたいのですが、国家論の問題、国家観と申しましょうか、今日、声高に、古い形か新しい形か、いろいろな形で改憲論をおっしゃる方というのは、やはり国家主権論という考え方が非常に強いという印象を私は持っております。  こういうものをどうとらえていくのかということは、今もお話がございましたように、世界の大きな流れ、歴史の大きな流れの方向、先を読む見識が必要であろう。  ドラッカーさんが「ポスト資本主義社会」で、国家中心、国家が最大の物差しという時代は終わった、例えばEUなんかでも、通貨を初め国家主権の重要な一部を共有するという歴史の実験が現実にスタートをしているという時代になっている。それから、地域があり、もちろんすぐ消滅するわけではありませんから国もあり、そしてまた地域があり、コミュニティーがあり、一番原点にやはり人間というものがある、そういう複合的な時代なんだということを書かれたのはもう十年近く前でございます。  それから、「第三の波」を書いたトフラーさんなんかでも、数年前に「第三の波の政治」という小さい本を書かれまして、そういう中でも、現在の間接制民主主義はあらゆるところで生命力を失った、半直接制民主主義か、全部直接民主主義はできませんから、ハーフ直接民主主義という表現をいたしておりましたが、いろいろなところでそれを組み入れる必要がある。ですから、さまざまの、そういう地域の住民投票などをトータルとして、また国として調和あるものにどう設計できるのかということを研究をしなければならない時代であろうというふうに思います。  そう考えますと、先ほど十九世紀の国家観では困るという話がございましたが、やはり二十世紀の時代、ヒトラーもありましたし、スターリンもありましたし、マハトマ・ガンジーのような思想を説かれた流れもございました。やはり二十一世紀の国家観というのか、世界観というふうなものをベースに置くことが非常に大事だ、先生のお話ともつながって、そう思いますが、何かつけ加える御意見がございましたら。 ○進藤参考人 二つ申し上げます。  一つは、外交に関して言うと、やはり一国安全保障論ではなくて、同盟体制論から第二段階の集団安全保障論を経て、第三段階として、専門家の間でコーポラティブセキュリティーという考え方が出てきている。これは総合安全保障論につながるわけですよ。つまり、軍事だけじゃなくて、エネルギー、食糧を入れた安全保障構想をやっていく、一国あるいは二国単位が安全保障ではなくて、対敵対的同盟ではなく、地域的な安全保障機構をつくっていくんだ、ヨーロッパのCSCE、OSCE、この動き、これを日本がやはり先取りしていくべきだなというふうに思いますね。  なぜ日本で東アジア総合安全保障構想というのができないのかなというふうに思います。これがやはり非常に重要な日本の外交の活路だと思いますね。  もう安保がいいとか悪いとかという時代は終わったというふうに私は思いますよ。 そうじゃなくて、例えば、日本で米がたくさん余っているじゃないですか。農業人口が低下して地方が困っているんですよ。なぜこの余った米を、例えばODAを利用して貸し付けるとか共同利用するとか、そういうことをしないのか。なぜシベリアに眠っている、サハリンに眠っている天然ガスをパイプラインを引いて日本に持ってきて、エネルギーの多様化を図らないのか。  これはもう、韓国は、私の友人の金泳鎬さんというのが通商大臣になったんですけれども、彼とこの間会ってきて、彼がもうそのことをはっきり言っていましたよ。もう我々も脱原発、韓国は日本よりも原発依存度が高いですよね、今週、エネルギー週間をやっているはずですよ、新エネルギー週間、例えば風力とか太陽とか。  僕は、全部原発をなくすべきなんて、そんなファンダメンタリストの立場をとりませんよ、あくまでもリアリズムなんだから。それは少しずつやはり二十一世紀に向けてエネルギー供給機構を変えていかなければというふうに思いますね。そうなると、日本の農村、農民の、地方の疲弊だって防げるじゃないですか。これだけの高い農業技術力を持っているわけですから、それを輸出する、そういう形で、もっと前向きに二十一世紀に向けた安全保障構想を描いていただきたいなというふうに思いますね。  それから、住民投票制の話も出ましたけれども、これももう十九世紀や二十世紀初頭にアメリカで制度化されているんですよ。日本は一世紀おくれです。これは、地方自治すらまともに手にしていない。住民投票をやっても、議会が認めるとか認めないとか議論している。日本はこういうところからきちっと、どうぞ保守党の政治家の方々こそが改革派の先鋒に立って、日本を変えるようにお願いしたいと思います。 ○伊藤(茂)委員 もう時間のようですから、一言だけ。  先生はアメリカ外交の研究の権威でもございます。私は、日米関係というのは、基軸的には非常に重要な二国関係だと思います。もちろん、アジア、ASEANその他いろいろな関係、中国とかああいうところは言うまでもございませんし、アメリカ抜きにしてアジアがあるわけではもちろんありませんし、やはり日米関係は非常に重要なことだと思います。  しかし、お互いに賢人会議、いろいろな時代もございましたが、活発なそういう次の時代の日米関係、グローバルパートナーとしての役割というものを論ずる組織的なことはなかなか具体化していないという状況がございます。スーパーパワー・ナンバーワンといって時々乱暴なことをやって困るというのはありますけれども、しかし、国民的には非常にフランクリースピーキングの国ですから、いろいろなことをやることは非常に大事だというふうに思います。  先ほど来、安保の話とかアジアの話がいろいろございましたけれども、あるべき日米関係という面がございませんでしたので、時間なんですが、御意見がございましたら、一言。 ○進藤参考人 私は今プロジェクトをやっておりまして、アメリカと日米共同で立ち上げつつあるのですが、先ほども申しました東アジア総合安全保障構想、どうやってできるのか。  例えば、さっきのパイプラインの問題にしても、日本の通産の規制のためにこれは引けないんですよ。アメリカはどんどんやっているんですよ。しかし、これはやはり地域安保ということで日本はもっと考えていくべきだし、日本の国家論というのはそこから出てくると思うんです。これを強めることによって日米関係が強化されるんですよ。そうでなければ、もう安保のために日本が犠牲になっているとかなんとか、対米ルサンチマンが国民の間にたまっていくと思いますよ。これは健康じゃないですよ。そして、例えばハンチントンに言わせると、日本は従属国だ。正確に言うと進貢国と言っているんですよ、貢ぎ物をする国。世界に五つのカテゴリーの国があって、日本は貢ぎ物をする国だというカテゴリゼーションですよ。パワーゲームという、二、三年前に出た本ですけれども。  これは、やはりおかしい。僕も国際会議に出てつくづく思うけれども、もっと日本の国家というものをしっかり背中に背負った人材が育っていただきたいなと思いますね。そのためには、やはりもっと自分の国の利益、自分の社会の利益というものに目覚めた国の形というものを一つ一つめり張りをつけていただきたいな。そのめり張りをつける仕事が二十一世紀の最初の課題じゃないかなというふうに思います。 ○伊藤(茂)委員 どうもありがとうございました。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終わりました。  この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  進藤参考人におかれましては、本日は、大変御多忙の中御出席をいただき、貴重な御意見をちょうだいいたしまして、大変ありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)  次回は、来る四月二十日木曜日調査会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時二十七分散会