衆院憲法調査会(3・23) 平成十二年三月二十三日(木曜日)     午前九時三十分開議  出席委員    会長 中山 太郎君    幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君    幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君    幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君    幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君    幹事 野田  毅君       石川 要三君    石破  茂君       奥田 幹生君    奥野 誠亮君       久間 章生君    小泉純一郎君       左藤  恵君    坂井 隆憲君       白川 勝彦君    田中眞紀子君       中川 秀直君    中曽根康弘君       中野 正志君    平沼 赳夫君       船田  元君    穂積 良行君       村岡 兼造君    森山 眞弓君       柳沢 伯夫君    山崎  拓君       横内 正明君    石毛えい子君       枝野 幸男君    島   聡君       土肥 隆一君    中野 寛成君       畑 英次郎君    藤村  修君       石田 勝之君    太田 昭宏君       倉田 栄喜君    福島  豊君       安倍 基雄君    中村 鋭一君       二見 伸明君    佐々木陸海君       志位 和夫君    春名 直章君       東中 光雄君    伊藤  茂君       深田  肇君    保坂 展人君     …………………………………    参考人    (名古屋大学名誉教授)  長谷川正安君    参考人    (香川大学法学部教授)  高橋 正俊君    衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君     ――――――――――――― 委員の異動 三月二十三日  辞任         補欠選任   三塚  博君     坂井 隆憲君   福岡 宗也君     島   聡君   横路 孝弘君     土肥 隆一君   志位 和夫君     春名 直章君   深田  肇君     保坂 展人君 同日  辞任         補欠選任   坂井 隆憲君     中野 正志君   島   聡君     福岡 宗也君   土肥 隆一君     横路 孝弘君   春名 直章君     志位 和夫君   保坂 展人君     深田  肇君 同日  辞任         補欠選任   中野 正志君     三塚  博君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)     午前九時三十分開議      ――――◇――――― ○中山会長 これより会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を始めます。  本日、午前の参考人として名古屋大学名誉教授長谷川正安君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見を賜り、調査の参考にしたいと存じます。  次に、議事の進行について申し上げます。  最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員の質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おきを願いたいと思います。  それでは、長谷川参考人、お願いをいたします。 ○長谷川参考人 初めに、自己紹介から始めます。  私は、一九四〇年に東京商科大学の予科に入学しました。四二年に学部に進学して、田上穣治という憲法を担当していた教授のゼミナールで憲法学の勉強を始めました。学徒出陣で二年間学業は中断しましたけれども、復学して、一九四六年に卒業して、一橋大学の特別研究生として三年間憲法の勉強をしました。その後は、一九四九年から定年になるまで名古屋大学の法学部で憲法の講義をしていましたし、定年になってからは、大阪の私立大学で同じ憲法を十数年教えておりました。  したがって、憲法の講義を五十年以上やっていたので、あるいはきょうの話も、議員の諸君に対してではなくて、何か学生に対して話をするような調子になるかもわかりませんけれども、その失礼はお許しください。  この五十年の間に、憲法に関するさまざまな著書、論文を発表してきましたけれども、きょうは憲法の歴史をお話しするというつもりで、その歴史に直接関係がありますのは、皆さんにお配りしたレジュメには書いてありますけれども、「昭和憲法史」、これは一九六一年です。それから「憲法現代史」とか「世界史のなかの憲法」、そういう本を書いております。また、今、岩波新書で「日本の憲法」という題の本が出ていますが、これは、憲法施行十周年記念ということで一九五七年に初版を書きましたが、それから二十年たって、三十周年のときに全面的に書き改めて、またそれから二十年近くたって、九〇年代になって全部書き改めるという、版が違うというだけではなくて、そのときそのときの日本の憲法の現状分析を三回やっておりますので、これを自分なりに比較してみると、戦後の日本の憲法史の特徴が出ているのではないかというような気がいたしております。  私は、日本の憲法を大学で教えていただけではなくて、外国の憲法史についても、「フランス革命と憲法」という一冊を書いておりますし、また「イングランド革命と憲法」という、イギリスの憲法史についても勉強したことがあります。  そして、きょうこういうテーマでお話ししたいと思ったのは、現在、十七世紀から十八世紀、十九世紀にかけてのヨーロッパの近代憲法の成立史といいますか、これをイギリス、フランスを中心にして研究中なものですから、どうしても歴史のことを話したいと思って東上いたしました。  日本の憲法学では、戦前から憲法典の条文を解釈するのが中心で、これは戦後も同じですが、憲法の歴史を専攻する人というのは憲法の研究者にはほとんどおりません。憲法学以外の人、歴史学者で憲法をやっているという人はおりますけれども、憲法研究者として憲法史をやっているという人はほとんど見当たりません。  私自身も憲法の歴史を専攻しているわけではありませんけれども、日本の憲法の学界では一番いろいろなものを書いている、そういう一人でありますから、そういう資格で、学問的な立場から、本日問題になっている問題を歴史的に見てみたいというのが私の真意でございます。  ここに来るときに公文書をいただきましたが、それには、日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)の調査というふうに書いてございました。昨年改正された国会法によりますと、衆議院の憲法調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うため設置されたというふうに規定されております。  そこで、私は、御依頼の「日本国憲法の制定経緯」というテーマを、日本の憲法の歴史の一つの過程として、さらに言えば、世界の憲法史の流れに沿った出来事として、これまで私自身が研究してきたことを、限られた時間ですけれども、お話ししたいと思っているわけです。  そこで、第一の問題は、憲法の歴史を見る場合に、どういう基準で憲法の歴史を見なきゃいけないのかという非常に大まかな問題です。  これはすべての論争がそうですけれども、憲法論争をしていても、互いに違うことを憲法という同じ名前で考えて議論していたのでは、その議論はかみ合いません。そこで、一応手がかりですけれども、憲法の定義といいますか、憲法について、その国の権威ある辞典にどう書いてあるかを見たのです。  例えば日本の広辞苑、これが権威があるのかどうか、ちょっと語弊がありますけれども、皆さんよくお使いになっている岩波の広辞苑を見ますと、こう書いてあります。  (1)として、「おきて。基本となるきまり。国法。」というふうに書いてあります。これは憲法という日本語が昔から持っていた意味だと思うのですが、聖徳太子の憲法なんというのはこの憲法の意味です。  しかし、今私たちが使っている憲法の意味はそうではありません。広辞苑では(2)のところに、最初に「constitution」という英語が、あるいはフランス語ですかが書いてあって、それの説明として、「国家存立の基本的条件を定めた根本法。国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる。」こういうふうに書いてあります。 そして、矢印で「→日本国憲法・大日本帝国憲法。」というふうに書いてあります。 余り上手な定義だとは思えませんけれども、きっと法律家でない人がこれをつくったんだろうと思いますが、そういう定義になっている。  矢印で示したように、この憲法と憲法典、日本国憲法とか大日本帝国憲法、この憲法と憲法典をほとんど同じに見ている説明では、イギリス人は、ごく一時の例外を除いて憲法典というものを持っていませんから、この広辞苑の定義ではほとんど納得できないだろうと思います。せっかく説明の頭に「constitution」と書いてあるのですけれども、コンスティチューションという言葉を使っているイギリス人はきっと納得しないだろうと思います。  イギリスには憲法典はありませんけれども憲法があることは、皆さん御承知のとおりです。あるだけじゃなくて、イギリスは近代憲法の成立にとって最先進国であるということを認めない憲法研究者はおりません。  そのイギリスで一番権威のある字引、私どもOEDと言っていますが、オックスフォードの英語辞典を見ますと、コンスティチューションという言葉はいろいろな説明がしてありますけれども、その第七番目にこういう定義がございます。ある国民、国家あるいは政治体が、それに従って組織され、統治される基本原理の体系、あるいは基本原理の集合、この意味は一六八九年から一七八九年の間に次第にでき上がったというふうに書いてあります。  では、イギリスで憲法とされているのは何かといえば、憲法典はございませんけれども、まず国会でできた法律があります。例えば一六八九年の権利章典という人権を定めた法律とか、それから、日本の皇室典範に当たるんでしょうか、王位継承法という法律、あるいは、一八二三年以来何回も改正されていますが、人民代表法という議会の選挙を決める法律とか、衆議院の優越を決めた議会法とか、あるいは大英帝国の統合を決めたウエストミンスター法というのがありますが、こういう国会でつくった法律の中から、国の統治原理あるいは組織原理に当たるものを憲法と呼んでいます。  それから、イギリスは、御承知のように、もともと判例法の国ですから、判例の国ですから、政治的な慣行、慣習が憲法とみなされる場合が大変たくさんあります。 例えば、衆議院議員の総選挙で第一党になった政党の総裁が必ず首相に任命されるとか、あるいは、国王は君臨すれども統治せずというような有名な言葉がありますけれども、こういう立憲君主制の慣行も憲法とみなされています。  イギリスの憲法のことが書いてあって、私たちがそれで勉強した、また、その本を読んだというふうにイギリスへ行ったときに言ったら、では、もうほかの本は読まなくてもいいと言われた本があります。ダイシーという人の書いた「憲法研究序説」、これは幸い日本語の非常にいい翻訳が出ておりますので読んでいただきたいと思います。  この「憲法研究序説」を読みますと、そこでは今の法律、憲法の法律、憲法とみなされている法律と憲法とみなされている慣習、ローとコンベンション、憲法の法律と憲法の慣行がどういう関係にイギリスではなっているかという、少なくともイギリスで行われている現実を、ダイシーは、これは十九世紀の終わりに書いた本なんですけれども、何回も版を改めて出版しているわけです。  ですから、オックスフォードの英語辞典の説明では、憲法というのは憲法典じゃなくて国家の統治・組織の基本原理の体系だというふうになっていますが、その後についている説明が大切で、一六八九年、これは先ほどの、権利章典ができた名誉革命のときですが、そのときから、一七八九年、フランス大革命のとき、この百年の間にこの意味はできたんだというふうに言っています。  そこで、これは疑って引いたわけじゃないんですけれども、念のためにフランスの、フランス文学をやっている人なら必ず引用する大きな字引がありまして、リトレのフランス語辞典というのがあるんです。それでラ・コンスティテュシオンというフランスの憲法のことを引いてみますと、これもいっぱい意味が挙がっているんですが、その五番目に挙げられているたくさんの例の中に、一カ所だけ、一つの例としてこういうことが言われています。  国民の政治的諸権利、統治形態及び公権力の組織を規制する制定法だと書いてあるんです。この制定法というのは、アクトと書いてありますが、英語でもアクトといえば同じ意味ですけれども、法律のことです。国会で、議会でつくった法律のことです。そして、その最後のところに、憲法の時代は一七八九年に始まるというふうにリトレでは説明しているんですね。  だから、同じ言葉でも、憲法あるいはコンスティチューション、フランスならコンスティテュシオンと発音は違いますけれども、憲法という同じ言葉でも、日本とイギリスとフランスでは、その字引ができたときの国情に応じて、字引ができたときの憲法の状態に応じて説明が違うわけですね。ですから、我々は、その言葉の違い、国によって言葉の使い方が違うということを注意すると同時に、もちろん、それに共通した意味がなければ問題をとらえることはできません。  例えばフランス。今読んだリトレで憲法の説明をするのに、アクト、法律だというふうに出てくるんですけれども、リトレの字引というのがいつできたのか私は正確にわからない。というのは、その字引のどこを見ても製作年が書いてないんですね、それでよくわからないんです。少なくとももう百年以上前にできていることは確かなんですが、このリトレを利用していたフランスでは、第三共和制、すなわち一八七〇年から一九四〇年まで七十年間、実は憲法典がなかったんですね。フランスで憲法典がないというのは妙ですけれども、この時代には憲法典がなくて、あるのは、組織に関する法律とか、あるいは憲法律という、憲法という形容詞をつけた法律があるだけだったんです。そこで、学者は余りそういうことを気にしないんですけれども、字引をつくる人は大変それを気にしたんじゃないかと思います。  したがって、近代憲法のとる法形式というものは、法律であったり慣行であったり、あるいは国によって、時代によっていろいろですけれども、十九世紀の後半から二十世紀になりますと、憲法典、例えば日本国憲法とか、あるいはフランス共和国憲法とかアメリカ合衆国憲法とか、憲法典が原則となって、イギリスや第三共和制のフランスは全くの例外になってきます。  しかし、法形式のいかんにかかわりなく、憲法の意味内容には、国家の統治・組織原理として共通のものがあるというふうに私たちは考えています。その原理的な意味の憲法が、ある時代のある国家に現実にあったかどうかということが、世界の、あるいは日本の憲法の歴史を見る決定的な基準になるんじゃないかと思います。  問題は、実質的な意味の憲法ですね。形式じゃなくて憲法の中身が問題になる。  この点でよく引用されますのは、フランスの一七八九年の有名な人権宣言の第十六条です。この条文には、「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものでない。」こういうふうに書いてあります。あるいは、皆さんも大学で憲法の講義を聞いたときに、きっと先生がこういうことを教えたんじゃないかというふうに私は思います。しかし、この規定は、人権の保障と権力の分立が憲法に不可欠の要素だというのは、この当時のフランス人が考えたことで、現在の目から見れば、かなり修正して見ないと正確な憲法の考え方だとは言えません。  国民個人の自由と権利が現実に保障されていない国家は、たとえ憲法典があっても憲法がないということは、今日でも憲法研究者なら多くの人が認めるでしょう。  しかし、権力の分立が不可欠というふうに書いてあるのは、フランス革命の当時に、革命に参加した政治家の中でモンテスキューの「法の精神」を読んだ人がたくさんいて、その影響があったからこういう表現になった話です。ところが、これはもう学者、研究者には有名な話ですけれども、このモンテスキューのモデルになった十八世紀のイングランドには、「法の精神」で描いたような権力の分立なんてものはなかったのです。これはモンテスキューが意図的につくった考え方。そこにはイングランドをモデルにしていると書いてあるのですけれども、事実はそうでないのですね。  名誉革命以降のイングランドで確立した憲法というのは、まず議会主義です。君主の専制的な権力じゃなくて、議会がこれをコントロールする議会主義。あるいは行政も、君主が行うのじゃなくて、議院内閣制、議会がコントロールした内閣が政治を行う。ですから、そこでは立法権と行政権というのは、これは日本の現状もそうですけれども、結びついていますね。特に、イギリスでは貴族院が最高裁判所なんですから、制度上、権力の分立なんてものはイギリスにはあるとは思えません。モンテスキューは自分が裁判官ですから司法権を分立させたのかもわかりませんけれども、それはともかくとして、イングランドにはそういうものはない。しかし、イギリスの議会主義とフランス革命のときに言った権力の分立には、憲法の原理としては共通のものがあります。それは何かといえば、両方とも国家権力の発動をチェックする組織原理だ、こういうことです。  議会主義とか権力分立に、もう一つ、法の支配という言葉をつけ加えてもいいと思うのですけれども、ここで問題なのは、それが、最高の国家権力の発動を現実にコントロールしている、そういう原理であるかどうかということが問題です。  ですから、私は、近代憲法に不可欠の要素として、まず人権の保障、それから次には国家権力をチェックする原理を持っているかどうか、もちろん現実に機能している原理を持っているかどうか、これが二つで、第三番目に主権の問題、国家主権の問題あるいは国民主権の問題、主権の問題というのがあると思います。この三つの問題が私は憲法の実質的な意味を決定している問題じゃないかというふうに考えております。  これはちょっとだんだん学生相手の講義みたいになってきますけれども、主権の概念が確立したのは、不思議なことなんですけれども、ジャン・ボーダンという人で、その著書「国家論」があるのですが、その「国家論」の冒頭にこういうふうに書いてあるのですね。国家とは、多くの家及びそこに共通している事柄を主権的な権力でもって正しく統治することである、こういうふうに、こんな厚い本ですけれども、その厚い本の一番上のところに、ボーダンというのはフランス人ですから、フランス語でもちろん書いてあります。ただ、その本はほとんど日本にはないので、余りその本を見たことのある人はないかもわかりません。むしろ日本の法律家は、それをラテン語に訳した本がありまして、その訳で読んでいる人が多いのです。  それはともかくとしまして、ボーダンによれば、この主権の所在、どこにあるかによって国家は君主制とか貴族制とか民主制に分類される、こう書いてあるのですね。 そうして、どの制度がいいか悪いかということも詳しく述べてあるのですが、ボーダン自身はもちろん君主制の立場に立って書いています。  この当時は、十六世紀から十七世紀に来るもう四百年も前の話ですけれども、ボーダンは君主主権の絶対性というものを強調するわけですが、それに対して、その当時はフランスでは宗教戦争が行われていた最中ですから、フランスの新教徒である、ユグノーと言いますが、ユグノーの理論家は、人民主権の主張をして、悪いことをした君主は殺してもいいんだ、こういういわゆる君主放伐論というのも展開します。そして、その当時は、実際の歴史の上では、フランスでは、新教のユグノーの出身でありながらカトリックに変わって宗教戦争を勝ち抜いたアンリIV、ヘンリ四世というのがいるのですが、その王様からあの有名な朕は国家だと言ったルイ十四世まで、要するに絶対王政の時代ですね。それから、ちょうど同じ時期は、イングランドではエリザベスの時代ですし、その次にジェームズ一世というやはり絶対君主がいた時代なんですね。  ですから、西ヨーロッパでは、近代憲法が成立する以前に、君主主権と人民主権の理論的対立というものが、宗教戦争とかその他内乱とか革命とか、そういう要素を含んで闘われながら近代国家というものが成立した。憲法ができる以前にそういう闘争があったわけです。  そこで、一体主権というのは何なんだということが問題になります。  主権というのは、近代国家が成立したことを証明する概念なんですね。近代の国民国家が成立するということは、対外的には、例えばフランスにしろイギリスにしても、ローマ法王の支配、今、ローマ法王は世界を漫遊していますけれども、四百年前の法王から、いろいろな理由でもって金を取られないように、いろいろなことで影響を受けないようにローマ法王から独立する。要するに、その当時の国家としての独立というのは、ローマ法王と離れる。  と同時に、国の中では、これはちょうど明治維新のときの各藩の殿様みたいなものがたくさんヨーロッパにいるわけです。ヨーロッパには四百年前にはドイツだけで三百人ぐらい王様がいたのですから、日本と同じようなものですが、そういう藩の領主から独立する。  要するに、近代国家というものは、対外的にはローマ法王から、対内的にはそういう封建的な領主から独立して確立するんだ、それが国家主権あるいは主権と言われているものだ。  ですから、憲法の歴史を見る基準というのは、憲法の形式として憲法典の重要性を認めるのはいいのですけれども、それだけにはとどまらない。憲法の内容としては、今言った主権があるかどうか、あるいはまた別に言えば、最高の国家権力というものを規制する組織原理があるかどうか、そしてさらには国民個人の自由と権利が保障されているかどうか、この三つが私は憲法の歴史を見る基準になると思うのですね。  そこで、次に「世界の憲法史にまなぶ」ということになります。  簡単にお話ししますが、まず十七世紀です。今から三百年以上前の話ですが、オックスフォードの辞典では、近代憲法の考え方は一六八九年の名誉革命と権利章典の年から始まるというふうに言っていますが、イギリスの憲法史研究者はこの字引のような簡単な考え方はしていません。  憲法史の研究者として有名なタンナーという人がいるのですが、その人の「十七世紀イングランドの憲法闘争 一六〇三―一六八九年」という表題の本がありますが、ここでは名誉革命というものを出発点とはとらえない。そうではなくて、先ほど言ったジェームズ一世とか、そういう絶対君主とそれに対抗する議会が、百年にわたって、一世紀にわたって、コンスティチューショナルコンフリクトと書いてありますが、まさに憲法闘争を繰り返して、その到達点が名誉革命なのだ、こういうふうに言っています。  その一世紀の途中で、議会の軍隊と国王の軍隊が戦って、国王の軍隊が負けて、君主チャールズ一世は捕虜になって、裁判にかけられて、ロンドン塔で首を切られた。ロンドンでロンドン塔を見学に行かれれば、あそこにチャールズ一世の首を切ったおのと台が置いてあります。これは一六四九年ですが、そういう事件があった。  そのことはともかくとして、議会軍の指導者であったクロムウェル、これを護民官、プロテクターだというふうに決めた、これはイギリスの歴史上空前絶後なのですが、一度だけ憲法典ができているのですね。インストルメント・オブ・ガバメント、直訳すれば統治の手段というふうに訳せる、インストルメント・オブ・ガバメントという憲法典が一六五三年にできています。これはもう数年しかもたなかったわけですが。  その革命は、ピューリタン・レボリューションとか、あるいは、今歴史家の中ではイングランド・レボリューションとか、そういうふうに呼ばれている動乱があるわけですけれども、それが終わって、名誉革命というのはその紛争の到着点としてついてくる。  名誉革命というのは、変なと言っては失礼ですけれども、非常に異常な出来事で、名誉革命によって成立したイングランドの君主制というのは、メアリーという女王、それと夫婦になったオランダの領主、その二人の共同統治ということになったのが名誉革命です。要するに、その当時、トーリーとかホイッグとか、日本語で言えば保守と自由、そういう議会の二つの勢力があったわけですが、その二つの勢力が完全に一緒になって、もうイングランドのジェームズ二世というのはだめだから、オランダから王様を連れてこようということで、オランダから領主の一人のウィリアム三世というのを連れてきて、それを王様にしてイギリスの君主制というのは始まった。議会がつくった君主制なのですね。それが何で名誉革命、名誉なのか、日本人にはちょっとわかりかねますけれども、ともかくそういう異常な出来事があったのですね。これが十七世紀の終わりです。  十八世紀になりますと、イングランドでは議会主義が進行して議院内閣制が成立します。  しかし、皮肉なことに、イギリスの君主制のもとで、植民地だったアメリカが、全くイギリス人の憲法論を利用して、要するに、自分たちは代表を送っていないのだからイギリスの議会の法律なんかに従う必要はないという理屈を考え出すと同時に、独立戦争をして独立して、アメリカ合衆国憲法というのが一七八七年にできたわけですね。  そして、それにほとんどきびすを接するように、フランスで大革命が起こって、フランスでは、一七八九年の人権宣言以来、九一年、九三年、九五年、九九年というふうに憲法がいろいろと変わって、最後にナポレオンが登場して帝政時代になるわけですね。  ですから、戦争とか内乱とか革命と関連のない新しい憲法の制定なんというのは、全くこのときまではありません。  十九世紀になると、憲法典の制定はヨーロッパ全体に広がっていくわけです。そして、世紀の後半には、開国した日本が、アジアの唯一の国として憲法にかかわるようになってくるわけです。  私の持っている、明治十年に元老院で編さんした「欧州各国憲法」という、いわゆる憲法集があるのですね。この元老院の明治十年の憲法集を見ますと、そこに載っているのはスペイン、スイス、ポルトガル、オランダ、デンマーク、サルディニア、後のイタリアですが、ドイツ、オーストリアと、十九世紀に憲法典をつくった国々の憲法が、ちょっと生硬な翻訳ですけれども、元老院で編集したものとして明治十年に出ております。  ちなみに、これらの国家というのは、スイスの連邦共和制を除いて全部君主制の国家ですし、また、イギリスとフランスが載っていないというのは、先ほど言いましたように、イギリスには憲法典がありませんし、フランスはその当時は憲法典がなかった、第三共和制であったということも反映しているでしょう。ですから、それが大体、明治憲法制定前、明治十年代の日本の政治家の考え方だったのですね。  十九世紀にヨーロッパの憲法状況で日本の憲法制定に直接影響を与えているというのを見ますと、当時ヨーロッパ随一と思われていたフランス第二帝政の陸軍が、普仏戦争でビスマルクのプロシア軍に大敗して、ナポレオン三世は捕虜になってしまったのですね。そして帝政が崩壊して、フランスは第三共和制になりました。  ですから、ちょうど普仏戦争でフランスが負けて、フランスには憲法典というものがなくなってしまって、なくなったどころか、ベルサイユの宮殿に乗り込んできたプロシアの軍隊がドイツ帝国憲法というものを制定してそれを世界に宣言する、そういう状況でしたから、その後、日本から憲法取り調べに伊藤博文ほか数名の者がヨーロッパへ行くわけですけれども、憲法典のないイギリスとか負けたフランスというのはもう素通りで、ドイツに直行したわけですね。  だから、明治憲法が、戦勝国ドイツと、プロシア以外のいろいろなラントといいますか、諸邦の憲法をモデルにしたということは、その当時の一つの事情になる。これはいい悪いの問題ではないと思うのですね。  問題なのは、二十世紀になって、その前半に起きた二度の世界戦争が憲法に与えた影響というものは、それまで人類が経験した戦争とか内乱とか革命以上に大きなものがあったわけです。  第一次大戦がきっかけになってロシア革命が起こりました。そして、これは歴史的な事実ですが、世界で最初の社会主義憲法と言えるロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法というのが一九一八年にできております。その憲法が、第一次大戦の敗戦国であったドイツが新しい憲法をつくるときに、いわゆるワイマール憲法をつくるときに、このロシアの社会主義型の憲法が大変強い影響を与えているのですね。例えば労働者の権利を保障するとか生存権の保障、そういう考え方をワイマール憲法が持っていて、日本国憲法に戦後影響を与えたと言われているこの中身というのは、実は、第一次大戦が終わったときのロシア革命の影響を受けたドイツの社会民主党の政権がつくった憲法だったということです。  そして、第二次大戦の結果、例えば、戦勝国であるフランスでも、あるいは敗戦国であるイタリアでも、それぞれ新しい憲法ができています。ソ連の影響下にある東ヨーロッパの諸国もいわゆる社会主義型の新憲法をつくりましたし、それから、植民地であったアジア、アフリカの諸地域も一斉に独立して新しい憲法をつくるようになった。ですから、第二次大戦の後に、世界の憲法の状況は一変してしまったわけです。  十七世紀、十八世紀、十九世紀の中ごろまでは、進んだ資本主義国、あるいは進んだ文明国が持っているものというふうに考えられていた憲法の原理というものが、憲法典という形をとって、もう第二次大戦後は全世界のもの。今、国連に加盟している百八十八カ国ですか、お調べになれば、どの国もきっと憲法典というものを持っているだろうと思うんです。  そこで、問題なのは、それから半世紀たったわけですけれども、今、このような変化が、果たして憲法にとっていい変化と言えるのかどうか、そういう問題も考えてみる必要があると思うんです。  ということは、要するに、憲法典を持っている国では、今、日本でやっているように、憲法典自体の内容がいいか悪いかということを問題にしていますが、それだけじゃなくて、さらに大きな問題は、憲法典に規定されている条文が、一体現実に行われているのかどうかということを検討せざるを得なかった。  イギリスは憲法典というのがありませんから、イギリスでは行われていることが憲法なんです。だから、憲法が行われているかどうかという問題は、イギリス人には、よほど日本の事情を知っていなければ理解できないでしょう。第三共和制のフランスでも、法律しかありませんから、憲法といえば中身のことを考えなきゃならなかった。ところが、現状は、すべての国が憲法典を持つようになって、規定されていることが実際に行われているかどうかということが問題になった。もちろん、その規定の仕方がいいか悪いかということも問題です。  そこで、憲法の歴史を見る三つの基準が達成されているかどうかということを、五十年前の第二次大戦後の変化が一体どれだけよかったのか悪かったのか、結果があったのかということを、今改めて考えなきゃならない時点に来ていると思います。  この私の述べた三つの基準による憲法の見直し、あるいは憲法の検討ということは、社会主義型であろうと資本主義国の憲法であろうと、変わることがありません。  そして、この三つの基準に対してもう少しつけ加えるとすれば、例えば平和主義とか民主主義という二つの原理が、第二次大戦後の新しい憲法には共通の原則として取り入れられているものが多くなりました。これは、東ヨーロッパのソ連の影響下にあった国でも、あるいは、勝ったフランスの第四共和制の憲法でも、負けたイタリアの憲法でも、同じように平和主義と民主主義の原則が入っていますから、あるいは三つの基準に対してもう二つ加えて、五つの基準ということになるかもわかりません。  そこで、最後に、日本の憲法史になるわけですが、一時間というと、あと十五分ぐらいになりましたね。少しはしょって言います。  私は、日本の憲法史を第一期から第四期に分けているんですが、第一期は、徳川の幕藩体制が崩壊してから大日本帝国憲法の発布される、大体二十年間ですね。この二十年間というのは、憲法というものはありませんでした。今まで問題にしてきた憲法というものは全くなかった。  その当時の政治家や知識人が、ヨーロッパやアメリカの憲法のことを知らなかったわけではありません。知ってはいたんだけれども、そのときの明治新政権は、憲法をつくらずに二十年間過ごしたんですね。  なぜ私はそれを強調するかというと、例えば、第二次大戦後独立したアジア、アフリカ諸国というのは数十ありまして、私は、独立した年と憲法をつくった年を比べてみたんですけれども、ほとんど一、二年、あるいは同じ年の間に憲法をつくっているのが普通です。例外は、独立してから憲法をつくるまで九年かかった国があります。これは何かクイズみたいですけれども、パキスタン共和国がそうです。同じときに独立した隣のインドでは三年目に、これはもう世界一長い憲法典をつくっています。  ですから、九年もかかったというのは全く例外的で、大体アジアでもアフリカでも、国が独立すれば憲法というものをつくって、その独立、国の形を明確にするというのが普通ですけれども、私はこれがいいとか悪いとか言っているわけじゃないんですが、日本では、明治政府は明治憲法をつくるまでに二十年かかっているということ。これは、無知のせいではない、一定の政治的な理由があってやっていることですけれども、それが問題です。  明治新政権は、憲法のない二十年の間に、何の法的拘束も受けずに天皇制というものをつくり上げたわけですね。明治の初めに、津田真一郎というオランダのライデン大学へ留学した人がいまして、「泰西国法論」というものをもう明治元年に出していますけれども、この人の本なんか非常によく読まれています。今でもこの本を読めば、ほとんどヨーロッパの十九世紀の憲法事情というものはわかるようになっていますし、自由民権運動を通じて、ヨーロッパのいろいろな古典的な自由主義思想、憲法の考え方が翻訳されて入ってきたということも、皆さん御承知のとおりです。要するに、二十年の無憲法状態から日本の憲法史は始まっているということですね。  それから、第二期になります。二期は、当然ですけれども、大日本帝国憲法が発布されてから、太平洋戦争に負けてポツダム宣言を受諾した、それによって明治憲法の効力が停止された、その時期ですが、私は、明治憲法そのものに大変大きな問題があると。  もちろん、その歴史過程を一つ一つ述べることはできませんけれども、かいつまんで言いますと、例えば私自身は、戦前の大学で、田上さんから明治憲法の解釈論というものを習ったわけです。国家総動員法が違憲かどうか、そういう解釈論を詳しく聞きました。非常によく読んだものに、例えば、美濃部達吉「逐条憲法精義」という、こんな厚い本があります。当時は実はこれは発禁になっていたんですが、発禁になっているのに古本屋では売っていたんです。これもちょっと不思議な話ですが、この美濃部さんの「逐条憲法精義」というものを私は読んだ記憶があります。  ここで私が問題にするのは、そういう憲法の解釈論ではなくて、明治憲法というものが果たして日本の国政全体を規制していたか、コントロールしていたかどうかという問題です。明治憲法というのはどういう法であったか。  そうすると、まず、明治憲法をつくったと言われている伊藤博文の名前で「憲法義解」という本があります。今、岩波文庫にもなっていますが、これを見ると、その中身は、「大日本帝国憲法義解」というのと並んで、「皇室典範義解」という二つの内容から成っているんですね。二部構成になっている。そして、つくった人は、憲法は国政をコントロールする、皇室典範は皇室のことを扱う根本法だと。あるいは、憲法は府中、府中と言うと競馬場みたいですけれども、府中を扱う、皇室典範は宮中のことを扱うというふうに書いてある本もありますが、ともかく、明治憲法は皇室のことは扱わない。要するに、明治憲法は、日本の国の政治の中で、全部をコントロールするんじゃなくて、皇室のことはすべて自律的に皇室典範にゆだねますというふうに書いてあるんですね。  ところが、この報告をするので、先日もう一度美濃部さんの「逐条憲法精義」を読み直してみましたら、そこでは美濃部さんは、伊藤は間違いだ、皇室典範は憲法に従属するのだと、その結論を出すのに三ページぐらい、物すごく難解な解釈論を、いわば無理な解釈論を展開しています。  しかし、つくった伊藤も、あるいは多数説であった穂積八束という人の本にも、皇室典範と憲法は対等のものだ、対等の根本法だというふうに書いてあるのですね。ですから、明治憲法というのはそもそも国政の全体をコントロールするものではなかった。ヨーロッパの人には理解できない。外国の殿様を呼んできて自分の国の君主にするようなイギリス人にはとても想像がつきません、憲法が皇室を除外しているというようなことは。  それから、もう一つの点は、これはもう皆さんも御承知と思いますけれども、統帥権の独立という問題がありますね。これは憲法の十一条です。  これはもう、私自身兵隊のときに、兵舎の中であの軍人勅諭というのを暗記させられて、覚えられないでどのぐらい殴られたか。そういう経験のある方はほかにもあると思うのですけれども、その軍人勅諭にちゃんと書いてあるのです、統帥権の独立。要するに、日本の軍隊というものは天皇に直属する、政治にはかかわらない。  そういう大原則が実は明治憲法でも前提になっていて、それどころか、明治憲法では、内閣を構成しているはずの陸軍大臣、海軍大臣だけは、首相に関係なしに、自分の所管事項、軍機軍令に関することは天皇に直接上奏できるというふうになっていた。だから、どの内閣でも、陸軍大臣、海軍大臣が何を言うかということでそれが決まってしまうというような状況ですし、しかも、統帥権の独立で軍隊の組織のことは憲法には何も書いてありませんから、統帥権の独立というのは大変重大な意味を持っていました。  と同時に、もっと不思議なことには、明治憲法を大学で習った戦前の方は、きっと試験を受けていますから皆さん覚えていると思うのですけれども、戦後の学生に聞いてみると、そういうことはよくわからない人が多いのですが、明治憲法の条文のどこを見ても「内閣」という言葉は一言も出てこないのですね。これは非常に不思議なことなのですね。  明治憲法に出てくるのは、天皇を輔弼する、補佐する一人一人の大臣、「国務各大臣」というのは出てきますけれども、「内閣」という言葉が一言も出てこない。内閣はなかったのかというと、そうじゃありません。明治十八年に、明治憲法ができる四年も前に、伊藤博文が最初の首相になって内閣はできているのに、憲法をつくったときに、どうしてか憲法には出てこないのですね。  だから、私がきょうここで述べますのは、別に明治憲法を批判するということに意味があるのではなくて、大日本帝国憲法という憲法典は、せっかくつくった憲法典なのだけれども、明治の国政全体を規制する、そういうものではなかったということなのですね。  ですから、みんな憲法を敬って、憲法は不磨の大典である、憲法を尊重しようと言っていたけれども、非常にその尊重の仕方は限られていて、一九三五年、昭和十年ですが、いわゆる天皇機関説事件というのが起こってから後の十年間なんというものは、ほとんど憲法に書かれていること自体が問題にならない。  例えば、一九三八年に国家総動員法というのができました。これはもう臣民の権利義務というものを行政に白紙委任する、そういう法律です。それから、一九四〇年には政党が全部解散されて大政翼賛会というのができた。四二年には翼賛選挙という、大政翼賛会が推薦している候補者だけが優遇されるような選挙が行われた。もちろん、推薦されていないで当選した方もおりますけれども、そういう選挙が行われて、いわゆる天皇制のファッショ化が行われた。  したがって、この第二期が終わる、すなわち戦争に負ける直前の日本の状況というものは、私は二年間軍隊に行っていてうちには帰れませんでしたけれども、その十年というのはほとんど無憲法状態、明治憲法さえ棚上げされているような状況だった。  だから、そういう意味で、第三期の占領期を考える場合には、憲法制定の経緯が始まる直前は日本は全く無憲法状態であった。よく明治憲法から昭和憲法へとか、明治憲法から新憲法へということを書いてある本はありますけれども、よく見てみると、明治憲法そのものがもう棚上げされて、軍部の中ではまさに改憲論が出ていたのですね。明治憲法を変えろという意見が出ていたぐらい、一般ではほとんど憲法なんというものはだれも考えない状況で、実は第三期、一九四五年から五二年までの占領期が始まったわけです。  ですから、日本国憲法制定の経緯というのはここから始まるわけですけれども、この経緯については、既に前の憲法調査会でも随分詳しく調査していますし、私自身も何冊も本を書いていますし、また、これまでの報告者が随分詳しく報告していると思いますので、私のきょうの話では、これから全く私たちの知らなかった新しい事実が出てくるとか、非常にすぐれた分析の歴史理論が出てくるのじゃない限り、余りこの経緯については私は現在関心がないわけです。  ただ、こういうことだけははっきりさせておきたいと思います。  一九四五年に占領が始まるわけですけれども、その占領期間、占領軍も含めて日本の統治機構はどういうふうになっていたか、それから日本の法律、法というものはどういうふうになっていたか。このことだけは、占領期間の評価をするために、我々法律家としてははっきりさせておかなければならないと思っています。  それで、統治機構の方は、日本を占領したのは連合国軍でありますし、その最高司令官というのはアメリカ合衆国政府が任命したマッカーサーでしたね。そして、アメリカからの指令で、他の諸国の軍隊の占領への参加は歓迎され期待されるが、その占領軍は合衆国の任命する最高司令官の指揮下にあるだけでなく、万一主要連合諸国に意見の不一致が起きた場合は合衆国の政策に従う、そういう対日方針が出されておりましたから、日本にはイギリス軍もちょっと来ていたし、中国の軍隊もいましたし、私も何回か見たことがありますけれども、事実上のアメリカの単独占領だと言っていいでしょう。そして、そのマッカーサーに、天皇及び日本国政府は、いわゆる間接統治という形をとりながら従属した、こういう形になるわけですね。  それに、憲法制定の経緯でしばしば問題になってくる極東委員会、一九四五年の十二月にソ連の提唱でモスクワで会議が開かれて、そこで、ワシントンに十一カ国から成る極東委員会というものが最高の政策決定機関としてつくられ、諮問機関として東京に対日理事会がつくられたわけですね。  ただ、問題は、この極東委員会が四六年の二月二十六日にしか発足しないということで、それ以前のマッカーサーあるいは司令部がどうであったかということが問題になっているわけですけれども、そういう付随的な機関があった。だから、権力構造というものは、形式的に言えば、極東委員会、対日理事会があり、連合国軍隊最高司令官というのがおり、その下に天皇及び日本政府というのがあって、占領中はそういう統治構造になっていたわけです。  それでは、法律はどうなっていたかといいますと、この当時の法律は私の「日本の憲法」の初版に書いてあって、今の版にはもう書いてありませんけれども、これは二本立てになっているのですね。  どういうことかというと、まず、ポツダム宣言が最高法規であることは、これは言うまでもない。憲法に当たるのはポツダム宣言ですね。ただ、その下に、最高司令官をスキャップとその当時言いましたが、そのスキャップの指令があると、その指令を受けて、日本の勅令五百四十二号というのがありまして、占領軍の司令官の指令があったらそれをすぐ日本で引き受けて日本の政令に直す、そういういわゆるポツダム勅令と言われたのがあって、その下にポツダム政令。だから、スキャップの指令、ポツダム勅令、ポツダム政令というのが、これがいわゆる管理法規、占領法規であったのです。  ところが、それだけじゃなくて、間接統治ですから日本の自主性をある程度認められたものがあった。憲法ができてからは、それと並んで日本国憲法、その下に例えば教育基本法、法律、その下にまた命令。ですから、占領中の法律を見る難しさ、占領中の判例なんかを見るときの難しさというものは、占領軍が直接自分で何かをやるときには別ですけれども、そうでないときには、占領法規と憲法法規が二本立てになって存在していたということですね。  こういう状況が七年間続いているわけですが――約一時間になりましたが、あと十分ぐらい続けてよろしいですか。――それでは、皆さんあれですが、しゃべっている私の方が大変だと思うのですけれども、あと十分ぐらい延長させてください。  この占領中のことについてですけれども、実は、きょうここに持ってきた汚い本なんですけれども、一九五四年、ですから朝鮮戦争の直後ですが、占領が終わって二年目ぐらいのときですが、一九五四年六月五日の日付で、皆さんも御承知の金森徳次郎さんが「和して争う」、和して争うというのは何かよくわからないのですが、一緒になって争うというのですか、「和して争う」座談会記録として推薦されている「日本憲法の分析」という本があるのですね。  この座談会は、私が司会をして中日新聞でやった座談会なんですけれども、そのとき来られたのは、金森徳次郎さん、それから改憲論者の大石義雄さん、それから、これは何と説明していいかわからない戒能通孝さん、それから国際基督教大学の学長を後にやった鵜飼信成さん、そしてあと東北大学の教授になった、これは私と同じように、その当時は本当に若い助教授か助手クラスだった小島和司というこの五人、私を入れて六人でやった座談会がありまして、その座談会の記録がこれなんですね。中日新聞に五十日ぐらい連載された、田舎の、田舎のというと名古屋へ帰ると怒られますけれども、新聞ですし、また名古屋で出した本ですからほとんど売れなかったと思うのですが、しかし、この中身は今でも大変有意義だと思っているのです。  ちょっと紹介しますと、この本の第一章、座談会の第一章は「日本国憲法制定過程論」となっているのですね。それで、どんなことが書いてあるかというと、私が最初に憲法制定をめぐる五つの説というものを挙げて、どういう説があるかというと、こういうことを言っているのですね。  まず最初に、憲法制定をめぐる説は三つあると。一つは、要するに、日本国憲法はスキャップ、マッカーサーが代表するアメリカの占領政策の産物だ、そういう指摘、これが第一の考え方。それからもう一つの考え方は、それは非常に現象的な見方で、実はその背後にある国際的な民主主義勢力、反ファシズム統一戦線をつくったソ連とか中国とかイギリスとかフランスとかオーストラリア等の影響力を重視すべきだというのが、第二の説です。それから第三の説としては、いや、そんな対外的な要因ばかり考えるべきではなくて、この憲法をつくったのは国内の政治勢力だと。  そういう三つの説があるということを紹介した上に、その第一の見方も二通りあって、アメリカの占領政策というものは、占領の初期は対日政策が大変民主的で、封建的な日本社会を改良する大変進歩的な役割を果たした、こういうふうに評価するものと、いや、どうもアメリカは朝鮮戦争を境にしておかしくなっているのじゃなくて、初めから自分の国益優先で日本の民主化を考えていたのじゃないか、そういう批判的な見方。第一の、アメリカ産であっても民主的だという考え方と、帝国主義的だという考え方、二つに分かれます。  それから、第三の国内の政治勢力の評価にしても、一方では、一九四五年の十月にいわゆる自由の指令が司令部からあって、治安維持法が廃止されたことによって共産主義者や社会主義者や自由主義者が一斉に大衆運動に参加できるようになって、労働組合がどんどんできる。デモが行われて、五月にメーデー、続いて食糧メーデーなんというのが行われたような、そういう革新勢力を重視する考え方と、もう一つは、これは幣原首相が亡くなる前にしょっちゅう言っていたことなんですけれども、日本国憲法の主要な内容は日本の為政者、当時の保守政治家がつくったものだ、特に憲法の第九条を考えていたと思うのですけれども、そういう主張がございました。ですから、第三の考え方は二つに分かれて、結局、合計五つの考え方があると。  そういう問題提起を受けて、私は一人一人に、金森さんどうだとか、戒能さん、大石さん、鵜飼さん、小島さんにそれぞれ意見を聞いたら、五人ともみんな違う答えなんですね。ただ、この五つの考え方を挙げますと、これは矛盾している点もあれば相互に補い合う点もございまして、この五人の意見を全体として読めば、読んだ人なりに憲法制定の経緯、特に日本国憲法というのはだれがつくったのかということがほぼわかるようになっているような気がします。  これを私、もう一度読んでみて、やはり憲法調査会で行われる憲法調査というのはこういうものであってほしい。参加した人みんなが率直に自分の意見を述べる。 その意見は、非常に対立している点もあるかもわからないけれども、共通している点もあるかもわからない。ただ、私がこの五人を呼んだときには、改憲論者も改憲論者でない人も、年寄りも若い者も、それから憲法のことを直接知っている人も頭でしか知らない人も、と思って公平に集めました。憲法調査会の委員の方がそういうふうに選ばれているのかどうかということは私にはわかりませんが、しかし、趣旨としてはそういう公正な調査であってほしいということが私の考え方です。  そして、もうこれで終わりますけれども、最後に第四期の、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が発効した一九五二年の四月二十八日から今日まで、約五十年が日本の憲法の現代史になるわけですね。  問題なのは、五十年たって今、我々が当面している日本の憲法の実情というのはどうかということです。  ですから、私は、ずっと一貫して言っているように、憲法典にどう書かれているかという問題よりも先に、憲法典に書かれていることが守られているのかどうか、実現しているのかどうかということをまず調査すべきであって、その上で、現実を直すべきなのか、あるいは条文の方を直すべきなのかを考える。  そうでなくて、初めから憲法典がいいか悪いかなどという、だれがつくったにせよ、文章を文章としていいか悪いかという議論をしていても、これは論者によってみんな意見が違うのは当たり前で、さっき私が言ったように、憲法というたった一つの言葉が、広辞苑とOEDとリトレではあれだけ違う。イギリス人は百年かかってつくったと思うし、フランス人はフランス革命からだと思うし、日本人は聖徳太子の憲法まで頭に浮かぶ。それだけ違うのですから、まして、現代の憲法の分析というものは慎重にやる必要がある。  そういう点でいいますと、私は、現代の憲法状況というのは、先ほど言った、世界の憲法史から学ぶ三つの基準に照らし合わせてみると、まず第一に、一体、日本の現状というのは主権が存在しているのかどうか、これが第一の問題です。  明治憲法のときに、日本に主権があるかどうかなどということを疑う人は一人もいませんでした。明治憲法の時代、第一期には、憲法はなかったけれども主権はありました。第二期、明治憲法ができたときにも主権はあった。戦争中もあった。しかし、占領中は主権はありません。日本の主権はない。もちろん、占領軍が権力を握っていたわけですから、その上に極東委員会があっても、天皇及び日本政府はそれに従属していたわけですから、日本には主権はありません。  しかし問題なのは、占領が終わった今日、例えば講和条約を結んで日本は独立した、占領は終わったというけれども、一例を挙げればあの講和条約、当時のソ連は排除されていたわけですね。だから、いまだに北方領土の問題などというのは解決のしようがない。要するに、もし日本が完全に独立するのであったら、これは理想論に過ぎるかもわからないけれども、少し占領が長く続いても、やはり独立する以上は主権を回復しなければならない。  また、もっと重大なのは、占領中に全く国民には秘密に結ばれた日米安保条約というものがあって、日米安保条約に基づけば一体日本に主権があるかどうか、これが第一の問題です。  私の本に、例えば今の日本の法体系が占領中とよく似ている、あるいは明治時代とよく似ているというのは、今の日本には憲法、法律、命令といういわゆる憲法の体系があることは皆さん御承知のとおりですが、それと全く矛盾する安保条約、地位協定、特別法、特別法というのは民事特別法とか刑事特別法とかたくさんありますが、そういう体系が全く矛盾するものの二本立てなんですね。  だから、日本では明治以来、日本の憲法というのは二本立てだから、そのうちに学校の生徒は日本のことを書かせると二本と、一本、二本の二本を書くのじゃないかと私は冗談を言ったことがあるんです、漢字を知らない人間はですね。  それこそ法律が二本立てになっているんですね。だから…… ○中山会長 発言者にちょっと申し上げます。  幹事会の申し合わせの時間が相当超過をしておりますので、結論をお願いいたします。 ○長谷川参考人 はい、わかりました。  そういうことですから、今の主権の問題。  それから第二の問題としては、国家権力の発動を規制する規制原理というものがあるかどうかという問題、これは私は、例えば今の議院内閣制とか、そういう点を考えれば、かなり整備していると思います。  それから第三の問題は、一体、基本的人権が保障されているかどうか。この点については、私の経験では、私は名古屋に住んで、中部電力という電気会社の電気で生活していますけれども、中部電力の労働者が職場で差別されて、その差別を会社に謝罪させる、補償させる、二度とそういうことをしないというふうに言わせるために、何と二十五年かかって、昨年和解して勝利しましたけれども、それの後援会の会長を私は二十五年やらされていたものですから、それが中部電力だけではなくて、東京電力、関西電力、日本じゅう同じような職場があるのを見て、この点に関する限り、日本の大企業の職場には人権はないんじゃないかというふうに思います。  それはともかくとして、そういう三つの基準で調べていただきたい。ですから…… ○中山会長 参考人にひとつ改めてお願いいたします。時間が相当超過しましたので。 ○長谷川参考人 はい。日本国憲法の現状をそういう基準で調べていただいて、その上で。調べるということ自身がこの憲法調査会のお仕事だと思いますので。  大変時間を余計とって申しわけありませんでしたけれども、私の話はこれで終わらせていただきたいと思います。どうも失礼しました。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。石破茂君。 ○石破委員 長谷川先生、きょうはまことにありがとうございました。  私は、昭和三十二年生まれであります。完全な戦後世代であります。大学に入りましたのが昭和五十年。ですから、完全な戦無世代、前の憲法調査会のことも本の上でしか存じません。そのような主権者、有権者が相当数を占めてきましたので、私は、制定過程についてもう一度議論することは極めて意義深いことだというふうに考えております。  私、学生時代に先生の論文を幾つか読ませていただきましたが、正直申し上げて、かなり違和感を持って読ませていただきました。どうも違うなというふうに思いました。  今回、初めて先生の論文集をずっと読ませていただきましたが、先生は、昭和二十七年に「マルクシズム法学入門」という本をお書きでいらっしゃいます。そこにこういうふうにお書きなんですね。資本主義社会に至る階級社会において、法学は、自己の体系をつくり上げることが目的ではない、階級的法体系の虚偽性を批判し、暴露し、宣伝することが主な任務であるというふうにお書きになっておられます。そしてまた、プロレタリアートの立場に立ち得ない者にはこんな任務はわかるはずがないだろうというふうにお書きになっている。あるいはそういうことなのかもしれません。  見解が違いますので、あるいは失礼な質問をするかもしれませんが、どうか御容赦をいただきたいと思っております。  まず第一に、先生は御著書の中でこういうふうに書いていらっしゃる。無効とははっきりお書きではありませんが、占領下につくられた憲法は、占領後は再検討され、修正されたり、廃止されたりするのが当然である、それゆえ、占領中の憲法が当然占領後に残り得るためには、占領後の検討を無意味ならしめるほどの強い国民の支持が占領中に示され、憲法の規範的意味内容が完全に国民のものとなっていなくてはいけない、こういうふうにお書きであります。  つまり、占領後は、占領下につくられた憲法は再検討され、修正されたり廃止されるのが当然であるというふうにお書きですが、その御見解は今も変わりませんか。 ○長谷川参考人 その意見は今も変わりません。  今までの古関さんかどなたかの報告にもあったように、占領中につくった憲法を再検討しろというのは、極東委員会の意見でもありましたし、それがマッカーサーを通じて吉田内閣までも来ていた、そういう意見なんですね。それをしなかったのは、一般の国民ではなくて、また日本の知識人ではなくて、その当時の日本を担当していた政治家がそういうことをしないと決めたわけですね。  それからまた、つけ加えて言えば、検討をするためには、国民は日本国憲法というものを、きょう私がしゃべったみたいに自由に批判もできる、そういう条件でなければ困るので、単独講和が結ばれて、安保条約が発効して、自衛隊ができて、その上でおまえ憲法を検討しろと言われたのでは――憲法に書かれていることを守っている人こそが、困るから憲法を変えろと言う資格があるので、憲法を守らない人間、守っていない人間が変えろなんと言うのは、これは私は、税金を払わない者が税法を変えろと言うのと同じことだと思っています。 ○石破委員 先生は、六一年に書かれた「昭和憲法史」の中で、現在の憲法は占領中につくられた押しつけの憲法の性質を脱しつつある、こういうふうに書かれまして、押しつけだというふうにお書きであります。さらに、六八年の「新版憲法学の方法」の中では、アメリカ帝国主義者が日本の人民、大衆に幻想を与えつつつくられた憲法である、このようにお書きであります。ところが、「前衛」の八一年を見ますと、日本国憲法の普遍的原理は、世界の憲法史の中で位置づけられるものばかりであり、占領という偶然によって日本に押しつけられたものでないことは明白である、こう書いてあるわけですね。  私は別に瑣末なことで議論するつもりはないのですが、先生は、これを押しつけであり、そしてまた無効であるというふうに、つまり法律的に無効であるというふうにお考えですか。無効であるとすれば、その法律的な根拠は何ですか。 ○長谷川参考人 私は、日本国憲法の制定経緯を見ていて、結果的に、占領中も一定の、先ほど私の言った限度でですけれども、また戦後もそうですが、憲法が無効であるというふうには考えておりません。  それから、いわゆる押しつけというのは、だれがだれに押しつけたのかということが日本語の意味であって、ただ単に押しつけがあったかどうかと聞かれても、返事のしようがないわけですね。ですから、例えばマッカーサーがその当時の幣原内閣の閣僚に、また特に松本烝治なら松本烝治に押しつけたというのだったら、きっとあの人たちは押しつけられたと思うと思います。また、それを押しつけというのなら、押しつけでいいんじゃないですか。だから、憲法を押しつける押しつけないは、だれがだれに対してかということを決めた上でならば、そういう押しつけはあったとかなかったとかというふうに評価できます。  それから、先ほどの私の表現ですが、私も随分、論文だけで七、八百書いていますから、どこで何を書いたかということはよく覚えていません。しかし、先ほどの「日本憲法の分析」で、五つの説がある、こう言ったわけですけれども、いろいろな見方が憲法にはまつわっているということは歴史的な事実だろうと思います。  ですから、それのどこを強調するか。「前衛」で押しつけ論を強調するか、あるいは普通の法律雑誌に書くときに、帝国主義がどうしたとかプロレタリアがどうしたということを書くか書かないか、これは、だれを相手にして物を言っているのかによって違うので、私のきょうの報告も、議員さん相手ですから、決してそんな今言ったような、若いときに書いたような階級闘争がどうとか、法というものは階級闘争のないところには必要がないんだというような話は、そう思っていますけれども、きょうはしていないわけですね。  ですから、それはその書いた論文の、だれがどう読んでいるときに合わせて私が書いているのかということを知って、もし矛盾していればそれは私が至らなかったのだろうと思いますが、私は、割合高度に政治的な判断を加えて書いているつもりです。 ○石破委員 私も、制定過程でだれがつくったとか押しつけであるとか、そういうことにそう生産的な意味があるとは思っていないのです。ただ、歴史の検証として、それは一つのコンセンサスを、ある程度のコンセンサスを国民の間で持たねばならぬのではないだろうかというふうに思っておるわけですね。  これは、無効というのでしょうか、無効的にお話をされる方というのはいろいろなことをおっしゃるわけです。  一つは、まず松本案を出したのだが、これは拒否をされました。そして、いわゆる司令部案というのが出てきました。それは意に反するものであったけれども、戦犯で追放されるという恐怖心や、天皇陛下が戦犯にかかるのではないかという恐怖心、そういうようなもとで、一種の強迫による意思表示みたいなものでしょうか、そういう形でなされた。そしてまた、そのときに選挙は行われたが、先生がどこかでお書きになっているように、当時の雰囲気は、憲法より飯だ、こういう感じだった。  そして、残った案は、政府案か共産党案しかなかった。二者択一でありましたね。 少なくとも、政府案よりも保守的なものは全部撤回をさせられました。そういうもとでできたものは、これは一種の無効的に考えるべきではないか、こういう主張があろうかと思っています。  ただ、確かに民法的に言えば、強迫による意思表示かもしれない。しかし、まさしくその強迫状態が終わったときに、つまり占領が終わった後に、では我々日本人はどうしましたかということが、まさしく問われてしかるべきではないだろうかというふうに私は考えております。また、無効論を唱えましても、それでは全部日本国憲法は無効なのか、そう言っているわけではありません。一部改正ということを唱えているわけですから、それは無効論ではないと思っているのですね。問題は、占領後に我々がどのような態度をとったかという点にあろうかと思っております。  そこで、私は思うのですけれども、何回もその後総選挙がありました。では、憲法改正というのを正面から掲げて選挙を戦ったことがあるか、それはないと思っているのです。これは一種の瑕疵の治癒みたいなものが行われたのではないだろうか。法定追認のような、そういう形で一種定着をしたのではないか。少なくとも現時点においてはそうではないかというふうに思いますが、御見解を承ります。 ○長谷川参考人 私は、ちょうど戦争から帰ってきて大学の特別研究生というのになって憲法をやっているときに、ある朝、新聞を読んだら、三月七日の朝刊に新憲法のあれが出てきて、それでびっくりして大学に行っていろいろと人に聞いたりなんかして、なかなかその当時の事情というのは一般の国民にはわからなかったわけですけれども、それ以来ずっと憲法のことを見ているわけです。  あの手続に対しては、私は宮沢さんが述べているような、明治憲法の改正手続をとって新憲法をつくったとか、それをマッカーサーが認めたとか、そういう手続について、私はもう初めから、だから占領中からそういう手続については批判的な見解しか述べたことはありません。  しかし、でき上がったものが有効か無効かということになりましたら、私は法律家として、無効にできる理由というものはない。  なぜかというと、さっき私はクロムウェル革命のときから何百年の憲法の歴史の話をしましたけれども、いまだかつて、外国の憲法で、つくるときに人殺しがあったとか外国の殿様を連れてきたとか、そういうことを理由にして、でき上がった憲法が無効か有効かなんということを議論しているのは聞いたことがありません。そこででき上がった憲法がその国の国民にとって利益か不利益かによって問題はあるのであって、先ほど言ったように、憲法の制定過程というのは、戦争とか革命とか内乱とか、そういうことがなければ憲法というのは今までは新しくならなかったわけですね。  だから、今幸い皆さんは非常に平和な手続で平和的に憲法を議論しているからそういうことも問題になるのかもわからないけれども、今までの例でいえば、憲法というものは、でき上がったものが有効か無効かということを、例えば日本の最高裁なら最高裁、裁判所なら裁判所が決めることで、法律家として考えれば、私は憲法無効論というのは、日本の法律学の常識からいえば認められないと思います。 ○石破委員 先生は護憲論者として著名な方だと私は認識をいたしております。  先生はこういうふうにおっしゃるのですね。憲法が占領中にできた、よって不完全なものであるということはある程度認める、しかしながら、今日これを改正してはいけない、なぜならば、それがまさしく改正論者のロジックだからであるというふうにおっしゃるのです。つまり、方法としては一緒なのですよね。しかしながら、片一方はよくて片一方はいけないと言うのは、極めて非論理的だと私は思っているのです。  また、先生はなぜこの資本主義憲法というものを非常に支持をされるのか。この憲法のもとにあります我が国民法というのは所有権絶対を定めたものであります。 なぜ先生はこの憲法を極めて支持をされるのかということと、そしてまた繰り返してのお尋ねになりますが、理屈として、片一方はいい、片一方はいけない、それは非常に矛盾した態度ではないかというふうに私は思いますが、いかがですか。 ○長谷川参考人 私は、自分から、自分が護憲論者だと言ったことはたしか一度もないはずです。私の属している憲法会議というのがありまして、その憲法会議の機関誌の名前は、私も提案したのですけれども、「憲法運動」という雑誌があるのですね。護憲運動でもなければ改憲運動でもない、私のしようとしていることは憲法運動だと言ったことがあるのです。  護憲という言葉、余り私は使ったことがないのですが、きょう実は、名古屋からここへ来るのに、新幹線で文庫本、中曽根さんと宮澤さんの対談を読んできたのですね。そうしたら、今や日本語で護憲論というのは、自民党の中の宮澤さんが護憲論者だと書いてあるのですね。あんな護憲というのは、僕は見たことも聞いたことも考えたこともない。  自民党の中に護憲論者と改憲論者、中曽根さんが改憲論者で片一方が護憲論者だという、中曽根さんは不思議そうな、何か文句がありそうなことで言っているんだけれども、宮澤さんはそれが当たり前みたいで、例の調子と言っては悪いんだけれども、言っているのですが、ああいう日本語の使い方で、今自民党の中でしか護憲と改憲が争われていない、使われていないような雰囲気だったら、絶対に僕は護憲論者だと言う気はありません。  それから、あと何でしたか……(石破委員「資本主義憲法を擁護されるいわれ」と呼ぶ)それは資本主義憲法といっても、結局、四百年の歴史があるので、だんだん変わってきています。今はもうヨーロッパなんかは、社会民主党の人たちが政権をとっている国が多いわけですから、そこで資本主義といっても、それはかなり修正された資本主義で、特に憲法の上では、先ほど私が言ったように、第二次大戦後は労働者の基本権とか国民の生存権、それからまた平和の問題、そういう問題を採用するようになってきているからこそ――私は資本主義憲法であるから賛成しているわけでも何でもなくて、日本の憲法でも、憲法二十九条の所有権を私は絶対とは思っていない。  これは、やはり制限を受けているからこそ、日本の最高裁でも農地改革を合憲という判例があるわけですね。もし憲法二十九条の所有権が絶対であったならば、農地改革が合憲になるなんというはずはないのです。  ですから、考え方というのはどんどん変わってきていますから、私は、日本の現状で日本国憲法を支持はするけれども、しかし、日本国憲法の中に賛成できないところもあります。  それは最初に言ったように、もっとよく改正される、そういう政治状況があるなら、私は憲法改正に賛成するかもわかりません。しかし、私の現状分析では、今、改悪する条件はあっても、改正される条件なんというのはほとんどないという判断ですから、そういう意味で、私は今の憲法に賛成しているわけです。全面的に賛成しているわけではありません。 ○石破委員 それでは、話が戻って恐縮ですが、今の日本国は完全なる主権国家ではないというふうにお考えなのだと思います。そうしますと、完全に主権を回復した状態になって初めて憲法というのを議論すべきだ、憲法改正というものを試みるべきだというふうにお考えなのでしょうか。  そして、完全に主権を回復するということは、先生の御主張からすると、日米安全保障条約を破棄し、米軍が撤退をするということが完全な主権の回復であるというふうにお考えですか。 ○長谷川参考人 これは、先ほどから私は外国の例を随分挙げているわけですけれども、憲法改正ができる条件というのは、フランスのあの第四共和制の憲法でしたか、外国の軍隊が一部でも占領しているときには憲法を改正してはいけないという条文を御承知だと思うのですけれども、ちょうどこの憲法を改正するときに、美濃部さんはまさにそういう立場に立って、今は憲法を改正すべきでないということを積極的に主張していましたよね、美濃部達吉さんは。だけれども、ああいう状況で憲法は改正された。そして、今欠陥が問題になっているわけですけれども、憲法を改正する理想的な条件というのは、やはり主権が回復して、完全に日本人、日本国民が日本のことを自主的に考えられるような条件ができたとき、そのときにこそ本格的に憲法を改正することができるのではないか、これはごく当たり前のことですけれども。  それで、その条件というのは、確かに、米軍がいなくなってもらうということは、これは僕じゃなくてもだれでも、日本を独立させるためには、あるいは日本の主権を回復するためには、まずは沖縄あたりから米軍をどんどん減らす、それは一つの条件になると思います。  それからさっき言ったように、私は、憲法と安保条約、日本には基本法が二つあると言っているんですから、片一方の改憲論者の人は憲法をなくせと言うかもわからぬけれども、私は安保の方をなくしてほしい。私は、憲法と安保条約という現実に機能している二つの基本法が日本にあると思っていますから、安保条約の方はなくなってほしい。  だから、安保条約がなくなって米軍が日本から出ていってくれてもまだほかの条件がいろいろあるかもわかりませんが、ともかく、その二つがずっと今日のように続いている限りは、とても憲法改正を議論する――ですから、憲法改正を主張する、押しつけ論を主張する人たちが、何で今の日本の政治にアメリカが軍事的に圧力をかけたり経済的に押しつけをやっているのに対して黙っているのか、私は非常に不思議です。ですから、私も押しつけには反対です。 ○石破委員 どうも議論が余りかみ合いませんが、私は、戦後、日本が平和であり、経済的繁栄を遂げることが少なくとも今日までできたのは、日本国憲法のおかげであると同時に、否、それよりも、日米安全保障条約と自衛隊の存在があったから日本国は平和であり、そしてまた経済的繁栄を遂げたというふうに、客観的事実として自分としては認識をしておるわけです。  ただ、冷戦終了後は、本当に日本のあり方というものが問われねばならない。そうしますと、今の日米安全保障条約というのは、片務条約だとは私は申しませんが、非対称的双務条約なんだろうなというふうに思っているのです。集団的自衛権が使えないなどというのはその最たるものだと思っています。  では、それを、対称的なというのでしょうか、双務条約に近づけるということも、主権を確保するということに必要なことではなかろうか。  つまり、米軍が出ていってくれる、日米安全保障条約もなくなってくる、それから憲法改正なんだと言うことは、我が国の存立、平和、独立の維持ということを考えれば、極めて危険な論であるというふうに考えておる次第でございますが、いかがですか。 ○長谷川参考人 政治的な意見でしたら幾らでも、今のと全く反対の議論をすることもできますし、私自身は、日本の現状を見て、現状に満足していませんから、憲法のおかげでこんなによくなったとか、あるいは安保のおかげでこんなに平和だなんて思ったこともありません。それは、現状をエンジョイしている人と、私のように年とってひとりで年金だけで生活している人間とのあるいは感覚の相違かもわかりませんけれども、私は現状自身に非常に不満を持っているし、憲法については特に、さっき言ったように、主権も回復していない、人権も守られていないという例ばかり、あるいはそういうのばかり私のところに来るのかもわかりませんけれども、そういうのを見ていますから、だから、余りあなたのような政治論はできない。  ただ、私は、問題はそういう政治論ではなくて、日本国憲法というのが現に有効な憲法としてあれば、そこに書かれていることがどれだけ守られているかどうかということをまずしっかり確認して、憲法を守っている人でなければ憲法を変える資格はない。だって、変えたってまた守らないんでしょう、都合が悪くなれば。  だから、今憲法を守らないで憲法を変えろ変えろなんて言っている人たちは、僕は、もう七十年生きていますと、そういうことを言っている人は、変わったら必ず何をするかということを聞かなくてもわかるような気がします。今本当に忠実に憲法を守ろうとして努力している人なら、憲法が変わったら、今度は変わったものを一生懸命守るでしょう。私はそういう感じがします。 ○石破委員 私は、時の主権者の意向で憲法が変わることはあり得べしだと思っているんですよ。憲法の改正に限界があるかどうかはまた別の議論ですけれども。 仮に九九%、八〇%の人が賛成しても、憲法には変えられないものがあるという議論も、これはもう一度再検討してみる必要があるのではないか。先人の方が後の人よりも絶対的な権力を持っているということも、考えてみれば極めておかしなことだと私は思っているわけです。  時間でございますので、先生、あと一つか二つお教えください。  先生は幾つかの著書の中でスターリン憲法を随分称賛しておられるわけです。それは、深くインターナショナル的であり、徹底的な、終始一貫した民主主義であり、ブルジョア憲法とは異なり、社会は、相互に親睦の関係にある労働者と農民から成っておるというようなことが書いてあるわけですね。「新版憲法学の方法」の中で先生はそのようにお書きになっておられる。ところが、残念ながら、スターリン憲法のもとで、スターリン政権下で何百万という人が虐殺をされておる、これは明らかな事実だと思います。  そしてまた、同じ本の中で、このソ連同盟憲法の意義が世界の三分の一で実証されつつある、スターリンの指摘した、ソ連憲法が日本人にとって綱領となるという性格も、次第に身近になって感ぜられつつあるというふうにお書きであります。  これは、イフということはやってはならないことかもしれませんが、私は、日本がソ同盟憲法を採用しなくて本当によかったなというふうに心から思っている一人であります。  そのソ連の憲法というものは徹底的に変わったわけですね。先生がおっしゃったように、三権分立というものを否定しておる、議会が立法もやり、そしてまた行政もやる、そしてそれが正しいかどうかは、政治がまさしく正しいかによって決まるのであるというふうに先生はお書きであります。それはすべて、ロシアの成立によって否定をされた。そしてまた、同じように東欧諸国もすべて憲法を変えてきたわけであります。  私は、やはりその国の実情に合わなくなってきたとすれば、憲法というものは変わっていかねばならない。先生が絶賛されておられるスターリン憲法もそのように変わってきたわけであります。私どもも、そういう観点から、実情に合わない点というものは、広く、国民主権、主権者の意思を体しながら、変えるべきものは変えていく、それが正しい姿勢ではないかというふうに考えておりますが、御見解を承ります。 ○長谷川参考人 私はスターリン憲法を絶賛した記憶がないんですけれども、スターリン憲法のすぐれた点、これは、ソ連の憲法の歴史から見ての話と、それからソ連が影響力を持っていた周辺の国、それから資本主義国との関係で、スターリン憲法の持っている意義というものを認めたことはあります。  特に、今記憶しているのは、スターリンが憲法をつくるときに、最初に長い演説をしているんです。その演説の中で、スターリンは非常に自慢げに、一九三六年の憲法は、資本主義の憲法みたいに、まだ実現していない理想だけを掲げているのと違って、スターリン憲法は既に実現していることを述べているんだ、こういうふうに演説で言っているんですね。  私は不明にして、ソ連の研究者でも何でもないものですから、その一九三六年のソ連の実態というものは、行ったこともないし、知りませんでした。だけれども、スターリンが、憲法の議論として、観念的な理想だけを掲げるのは、これは道徳の問題で法の問題ではないんだ、法の問題というものは、既に実現したこと、実現できることを書くんだと言ったことは、私は、スターリンの言ったことは今でも憲法論としては正しいし、イギリス人の憲法学者はほとんど同じようなことを言ったり書いたりしています。  私は憲法学者ですから、スターリンの演説の憲法論に関するところの意味とか、一九三六年憲法のソ連における位置づけとかをしたことはあります。あるいはそれをもっと政治的に判断すれば、私がまさか九〇年代になってソ連が解体するとは思わず、あんなことを書いていたのはばかだと言うけれども、それは私だけじゃなくて、ほとんどの人がばかなんです、そういうことを言えば。だから、それはもちろん、私もばかだったということは認めないことはありませんけれども、問題は、どういう論点でスターリンを礼賛したのか、褒めたのか。  これは、ソ連の憲法については、私は、レーニンのときからソ連共産党を、社会団体の一つであるのに、実際には国の制度として扱っていることは憲法に違反しているということは随分言ったこともありますし、何か議論した覚えもありますから、私は社会主義型の憲法に全面的に賛成していたわけではありません。 ○石破委員 ありがとうございました。  私は、憲法は本当に時代によって変わらなければいけないというふうに思っているんです。そこになければいけないことというのは、やはり人権宣言、そしてまたそれにかわるというのでしょうか、人権宣言というのは自由主義だろうというふうに思っています。そして国民主権、民主主義というものが担保される。それによって、時代によって憲法は変わっていかねばならない。そして、それは、主権者たる国民が自由な意思において時代に合ったように変えていくのが正しいというふうに考えております。  本日は、まことにありがとうございました。     〔会長退席、鹿野会長代理着席〕 ○鹿野会長代理 中野寛成君。 ○中野(寛)委員 民主党の中野寛成でございます。きょうはどうもありがとうございました。  先ほど先生が、日本国憲法の成立の経緯については現在は私は余り関心がないというふうにおっしゃられました。私とその理由は違うかもしれませんが、私自身も実は余り関心がない。しかし、きょうは、現憲法の制定の経緯をということで当調査会の方からお願いをしたわけでありますので、そういう意味では、先生が憲法の歴史観から始められたことにむしろ私としてはほっとしております。  さてそこで、憲法の経緯を振り返ることの意味なのですが、憲法を改正するかしないかという論議をするときには私は余り関心がない。しかし、成立の経緯を勉強することが無意味だという意味ではなくて、解釈をするときには大いに役に立つというふうに思っております。  今日まで長い間、日本は憲法について不毛の論争が重ねられてまいりました。これは、不毛の論争ではなくて建設的な論争は、これからも、日本の国が存在する限り永遠に続けていくべきであると思います。よって、憲法調査会は常に存在しているべきだというふうにさえ私は思うわけであります。  そこで、ただ問題は、先生から、主権の回復がなされていない、なされるまでは憲法改正論を論ずるべきではないという今のお話がありましたが、有権的解釈は一体だれがするのでしょうか。それは最高裁判所でしょうか、国会でしょうか、世論調査でしょうか。この見解の相違、私たちは、主権があると思っています。そして、主権を持っている日本国民が憲法の改正論議をすることは当然だと思っていますが、有権的解釈はだれがするんでしょうか。 ○長谷川参考人 それは法律家的に言えば、憲法は、国会が国権の最高機関であるということになっているわけですから、主権者である国民自身が何らかの方法で、例えば国民投票法とかそういうものをつくって、国民投票なりなんなりで国民自身が意見を述べることが可能になれば、それが第一。その次にはやはり、国家権力の中では国会が国権の最高機関として役割を果たすことができるんだろうと思います。 ○中野(寛)委員 そのとおりのことが今、日本国憲法には改正手続論の中で触れられているのではないでしょうか。国会が発議をし、そして国民投票にかけるということになっております。  少なくとも、現在の日本国憲法を日本国憲法として私たちは認める立場でありますが、そしてまた同時に、今の日本国憲法は明治憲法と形式上はその改正という形でつながっていると思っていますし、そしてまた、戦前からあったいわゆる片仮名法律が、新たな憲法のもとでもこれは認知されて継続しているものもあるわけであります。  ちょっと横道にそれますが、よく学生時代に、日本国憲法は民定憲法か欽定憲法かという話を習ったことがあります。私の教えていただいた教授は、どちらでもない、君民共同憲法だというふうに教えられましたけれども、それをだれが言っているかは先生は御存じだと思います。  しかし、いずれにせよ、手続上は継続性を持ったもの。そこにGHQの意図が働いたか、またポツダム宣言が働いたかという問題は、現実論としてあるけれども、形の上では継続したもの。そして、これから我々が論ずる憲法の改正か否かというものも、現在の日本国憲法の改正手続に基づいてやろうということであって、革命をやろうというわけではない。  だとするならば、先生が言われた、現在、主権が回復していないから改正論議を今するのはいかがかというのは、これは憲法学者としての御判断というよりも政治的御判断、あえて申し上げるならば、いわゆる解釈上の違いということになるのかなというふうに思いますが、いかがですか。 ○長谷川参考人 憲法を改正すべきかどうかというのは、手続の問題を別にすれば、極めて政治的な判断ですね、それ自体は。  そして、私が一つの条件として、主権が回復していないときには憲法改正はしない方がいいと言うのは、それはフランスの第四共和制憲法の一つの条文などを参考にして言っている意見であって、問題は、私の政治的な意見じゃなくて、私の言った、今の日本は主権が完全には存在していないというのが事実かどうかということは、これは調べることができます。  例えば、安保と憲法が矛盾している、これは憲法の第九条と安保条約を比較すればだれだってわかることですね。そうすると、砂川事件でもって、それが最高裁まで行くと、最高裁は、安保条約は高度に政治的だから、統治行為だから、要するに憲法判断ができなかったわけですね。憲法判断しないから安保条約は無効にならなかっただけであって、積極的に安保条約が合憲だという論証は私はできていなかったと思うんです。ですから、最高裁でさえ、普通の法律論では安保条約は認められない。その前の東京地裁の伊達判決なんかでは、明らかに米軍の駐留は憲法違反だということを地裁で言っているわけですね。  ですから、地裁の裁判官が違憲だと言い、最高裁の裁判官が判断できなかったような問題、それは内閣が承認し、国会もそれを追認したとしても、私の意見では、だれが何と言おうと、それは事実関係なんだから、それこそ憲法調査会で憲法の調査をするなら、沖縄に委員を派遣して、沖縄で日本の国家主権が存立しているかどうかということをお調べになったら、行って一週間も調査すればすぐわかるんじゃないかと思います。  ですから、私は、そういう事実に基づいて、それは学者はすべてそうですけれども、事実に基づいて自分の主張を組み立てているわけでして、単に私は政治論、別にこの年で特定の政治目的を持って行動する必要も全くありませんから、きょうお話ししたいのは、私が今まで言ってきたことと矛盾しないように、憲法についての、憲法の学界で納得されるような、通用するような議論をしていたわけです。  ただ、確かに、憲法改正論で、主権が回復しなきゃできないんだなんということを積極的に言っているのは、余り聞いたことがありませんけれどもね。これは私の個人的な意見かもわかりません。 ○中野(寛)委員 私は憲法改正もしくは改悪の論議をするときによく冗談に言うんですが、改悪なら反対だけれども改正なら賛成、こういう言い方をするときがあります。その改悪か改正かの判断は、これは国会の発議と国民の投票によって決めるしかないと思うんです。  現在の憲法を認め、そして、現在の憲法を認めるということは、私は日本に主権があることだと思っている。それから、日米安保条約は現在の日本国憲法のシステムに基づいて結ばれ、そして、世論調査をやっても国民の大多数が憲法の維持を支持している、まあ村山さんみたいに堅持まで言うかどうかは別にして。という実態があるときに、主権の回復論を、先生が私見だとおっしゃられましたので、それはそれとして先生の御私見として受けとめたいと思います。  さて、憲法が守られているかどうかがまず優先的な課題だと言われました。憲法には、消極的な概念、すなわち何々をしてはならないという概念と、それから積極的な概念、いわゆる基本的人権を守るとかという積極的な概念とがある。ややもすると消極的な概念、してはならない、例えば九条の戦争放棄のところなどは、意図的にといいますか、政治的にといいますか、厳しく解釈をして、それこそ自衛隊違憲論まで行く人もいます。一方で、積極的な概念の方は、何か目標値みたいになっていて、日本国民の生存権が完全に守られているかというと、これも不十分であるということがあるでしょう。  ですから、憲法が完全に守られているかどうかというこのことが定まらなければ改正論議等ができないというのも、私はいかがかと。むしろ、唯一国会にのみ発議権があるわけですから、国会で、憲法調査会があり、このようにして論議をし、そして、もし意見が一致すれば、この現在ある調査会は発議権を前提としたものではないけれども、しかし、憲法上は国会に発議権があって、そして国民投票ですから、この憲法が守られているか否かの有権的解釈も、また国会と国民にしかないのではないかというふうに私は思うんです。ですから、それは、議論をしてそこで諮るしかない。  その場合に、先生おっしゃるように、憲法が守られなければ憲法の改正はできないと言われることは、果たしてだれが守られていると解釈するのかしないのか。これは、それぞれの学者の論争として、学説として議論を続けることは私は当然のことだと思いますが、もう一つ先生の御説明に納得がいきかねたのでありますが、どうお考えでしょうか。 ○長谷川参考人 私のきょうの報告で一貫して言おうとしてきたことは、大変簡単なことで、日本国憲法というのは、憲法典に書かれていること、それがいいか悪いかということじゃなくて、世界の憲法の歴史が示しているような、憲法の中身として考える、例えば人権が守られているかどうかとか、国家権力が規制されているかどうかとか、主権があるかどうかとか、そういう原則的なことを十分考えて議論してほしいというのが私の意見なんですね。  ですから、その三つの基準の一つの基準である主権があるかないかということは、もう四百年も前から、当時のイタリアの都市国家には、あるかないかとかという議論は山ほどあるんですね。ですから、そういうのをちゃんと勉強して、今の日本の現状が果たして主権国家と――これは法律的にではないですよ。主権という概念は憲法的な概念で、法律的であると同時に高度に政治的な概念ですから、この主権という名に値するような状態で今の日本があるかどうかということは、お調べになれば、日本の憲法学者はかなりの人が私の言うことに賛成してくれると思うし、アメリカの憲法学者なら、今の日本を見て、一体、外交権、防衛権、日本は自主的に行使されていますかと聞いたら、ノーというふうに答えるだろうと思います。  私は、常識と言うとおかしいですけれども、そういう今の日本の現実というのは、だから、憲法の規定どおり、国会で国権の最高機関として審議され、そこでお決めになって、結論が出たら国民投票にかけるというのは、それは合法的で結構ですけれども、そういう条件に、今、日本の社会なり日本の法、日本の憲法の実態がない、私が何十年か研究した自分の研究の結果としてそう見ているのですから、これは、国会でどういう意見があろうと最高裁がどう考えようと、私の学者としての意見は私が言ったとおりでございます。 ○中野(寛)委員 先生の御意見として承りました。  ただ、私の感想を申し上げさせていただければ、先生の論理でおっしゃると、世界の国々の中で何カ国が主権を実質的に持っている国と言えるのだろうか、何カ国が憲法を本当に守っていると言えるのだろうかという疑問の方が大変大きく浮かび上がってまいりました。そこは私の感想だけ申し上げておきます。  さて、もう一つ、日本の憲法解釈についての不毛の論争を避ける方法として一つ参考になるのが憲法裁判所。これは、いろいろな国に憲法裁判所はありますが、現在の違憲立法審査権を持っているという最高裁判所のことではなくて、私が申し上げたいのは、ドイツ型の憲法裁判所を想定して申し上げたいと思います、オーストリア型でもなくて。  私は、新たに憲法を改正するときには、日本はぜひ憲法裁判所を持つべきだと考えているのです。  例えば、有名な例でいうと、ドイツからソマリアへのドイツ軍派遣のときに、野党が憲法裁判所に訴えた。そして、憲法裁判所は、国連の意思に基づいての出兵ということで、合憲判決を下した。しかし、そこで終わらないで、その当時、改めてまたその段階で憲法を改正するという経緯を経たと思います。  言うならば、国民の間で憲法解釈について意見が違ったときに、一たん憲法裁判所に有権的解釈をゆだねる、その判決が気に入らなければ改憲を主張する、その判決が気に入ったところはよしよしと納得するという形をとる。だから、新しい憲法のあり方を決めるのは国会であり国民なのだけれども、この憲法に基づく解釈はこうですよと、一たん有権的解釈を決める場所というものがあることによって、不毛の論争をある程度避けていくということになるのではないか、このようにも思うのです。  先ほど来、先生の御意見をお聞きしながら、何かそこに有権的解釈をするということがなければ、いつまでも不毛の論争が続いてしようがないということになると思いますが、そのような考え方についてはどうお考えでしょうか。 ○長谷川参考人 今のお考えは、現在のヨーロッパ、フランスでもそうですが、憲法の考え方としては、かなり有力なというか、流行しているというか、そういう考え方だと思います。  しかし、私にあえて言わせれば、日本の現状で、憲法八十一条で違憲立法審査権をゆだねられている最高裁または下級裁判所が日本にはあるのですから、例えば先ほど言った、最高裁が砂川事件のときに米軍の駐留は憲法違反だと十五人で判決を下したら、あっという間に条約が変わるかもわかりません、法律が変わるかもわかりません。逆に、最高裁がどうかなるかもわかりません。それはわかりませんけれども、今の日本の憲法で、今言われたような趣旨のことは、最高裁がちゃんとしていればできることだし、まさに、私に言わせれば、今の憲法を私は支持している一つの理由に、最高裁の違憲判決というものを想定しているのです。  ところが、最高裁の十五人の裁判官、自民党内閣が何十年と続くものだから、自民党の政策に反対の人はだれも、私の知っている人でも、憲法九条に反対だと一度論文を書いたために、それを調べられて最高裁の裁判官になり損なったのがいますけれども、そういう最高裁だからだめなので、憲法裁判所をつくらなくても、ちゃんと今の最高裁はそれだけの判決を下すことができるように憲法はできているのですから。あの最高裁の裁判官、国会は関係ないですね、あれは内閣が任命権を持っていますから、だけれども、もう少し裁判官を何とかしてもらって、少なくとも憲法学者が憲法論としては適切と思えるような判決をたまには下してくれれば、今言われたような趣旨は、憲法裁判所をつくらなくても、それにまた政府なり国会なりが上手に対応すれば、今の憲法のもとでも随分よくなるのではないかと思います。     〔鹿野会長代理退席、会長着席〕 ○中野(寛)委員 時間が参りましたから終わりますが、現在の日本の最高裁の違憲立法審査権というのは、何か具体的な事例が出ないと裁判というものが行われないという経緯もあります。そういう意味では、先ほど申し上げたドイツ型の憲法裁判所とは性格が違うと思うのです。  そしてまた、最高裁の判事が政治的にどうこうという論議は、これは日本に政権交代があれば是正されることですから、そのことについては、私は余り議論をしたいとは思っておりません。  最後に、私は、これは先生に申し上げるのではないのですが、結びとして、憲法はやはりその国の基本法ですから、一つの風格が必要だと思います。その風格を得られるものは、国際社会の憲法に対する歴史と今後の動向、また日本の今後のあるべき姿、すなわち、未来から見る憲法のあり方ということを大いに大事にしなければいけない、それが憲法の風格をつくり、説得力を持つものだというふうに思っておりまして、これからも大いに論じてまいりたいと思います。どうもありがとうございました。 ○中山会長 平田米男君。 ○平田委員 長谷川先生、きょうは大変にありがとうございました。  私、もう少し具体的な話にさせていただきたいと思います。  先生が労働旬報社から昭和五十六年三月に出版されておられます「世界史のなかの憲法」という著作がございますが、その中で、文民規定の問題に触れておいでになるわけでございます。ちょっと読ませていただきますと、   「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という一句が第六六条に加えられたのは、貴族院の特別委員会においてである。当時、第九条二項は芦田の考えとはちがって、いっさいの戦力の保持を禁止するものと考えられていたから、いっさいの軍隊を否定しておきながら、総理大臣と国務大臣をシビリアンでなければならないと規定するのは意味がないとおもわれてもしかたがなかった。この問題はGHQの要請で、はじめは衆議院でとりあげられたが、政府の反対で沙汰やみになった。ところが、今回は、極東委員会の要請であるということでGHQは引きさがらず、金森はその旨を第一回小委員会(九月二八日)でのべざるをえなかった。結局、シビリアンを「文民」という日本語にして、修正案ができあがった。  この修正は、政府や多くの議員が反対したほど無意味な規定ではなかった。新憲法のもとでいっさいの戦力が否定されれば軍人は存在せず、国民はすべてシビリアンだということになるが、もしそうなったとすれば、旧軍人は現在シビリアンだということで首相や閣僚の座につくことが可能になる。軍国主義の復活をおそれる極東委員会の諸国が、旧軍人の復活をおそれていたと考えれば、それには相当の理由がある。 このように書かれているわけでございます。  極東委員会が、まさに日本国民が自主的に憲法を制定しなければならないと言っておりました極東委員会が、この文民規定については大変強力に挿入することを要求してきた。この辺の経過について、先生の御認識を、また評価をお伺いできればと思います。 ○長谷川参考人 これは前回か前々回か、ここの参考人が詳しく述べている部分があったかと思うんですが、その経過は、私の判断では、極東委員会が開会される前にマッカーサーが中間的な措置として以上に多くのことを憲法についてすべてやってしまったことに対して非常に批判的な立場を持っている国が多かったということと、それからもう一つは、芦田修正というものについて、大体金森さん自身にも私は聞いたんですけれども、あれによって何の変化もないんだというふうに自分たちは思っていたし、芦田さん自身が、変えたなんということはあの当時は言いもしないし、そういう顔色もしていないから、あれは全然問題にしていないんだということを私は聞いたことがあるんですが、それにもかかわらず、原案に何らかの修正が小委員会でなされたということに対する極東委員会の懸念というものがあそこに出ていたんじゃないだろうか。芦田修正から必然的にではなくて、芦田修正に何らかのそういう日本の再軍備に対する疑惑みたいなものがあったためにああいう厳しいのが出てきた。そうすると、極東委員会からそういう疑惑が来ると、マッカーサーもやはりそれに従わざるを得ない。それに抵抗すると、何か自分がそれを認めているように思われるということもあったでしょうし。  率直のところ、芦田修正というのは、全く意味を変えないというふうにGHQでは考えていたんだろうと思います。ところが、極東委員会でそういう批判が出たために、あれは結果として文民規定というものができ上がったんじゃないかというのが私の見解ですし、それから皆さん大体そういうふうに思っているんじゃないかと思いますが。 ○平田委員 極東委員会は、芦田修正によって日本が再軍備ができる余地が出てきた、こういうことを心配して強く文民規定を入れたという御説明でございました。  そういたしますと、この芦田修正というものでございますけれども、これについては、同じ書籍で、先生は、衆議院での重要な修正点は、  第九条の戦争放棄規定であり、ここでは特別委員会委員長芦田均が特別に大きな役割を演じている。それは、原案にはなかった第九条一項の冒頭に、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という句と、第二項の冒頭に、「前文の目的を達するため」という句を特別委員会小委員会で芦田が挿入したことをさしている。 このように、大変重要な修正点だというふうに言われているわけでございます。  金森大臣の解釈は今先生がおっしゃられたとおりでございますが、この芦田修正の評価でございますが、極東委員会の認識というものは、先生から見られて、それは十分考えられるものだというふうな御認識であるからゆえに重要な修正点だというふうに御指摘になったんでしょうか。それをちょっと御説明いただけますか。 ○長谷川参考人 私は、芦田修正というものを、その当時、私も含めて、また金森さんもそうですし、学界でも、意味を変えないというふうな考え方が、芦田さん自身を除けばほとんどの人がそう思っていたから、GHQでもそれを認めたんじゃないかと思うんですね。  そして、そういうふうに思うのは、あんな一行を入れたからといって、そもそも自衛のための軍備まで捨てるというマッカーサー・ノートから始まった第九条ですから、しかも世界的に監視される中で行われている憲法制定で、あの芦田修正のたった一行で意味が逆転するなんということは皆さん考えていない。それを考えたら、あの芦田修正というのは否決されたと思います。  ですから、私自身も、あの当時の日本の状況、それから占領の状況から考えて、後からああいうことを述べるというのは、それからまた法律家として言えば、法律の解釈、憲法の解釈というのは、そのとき腹の中で何を考えていたかなんということは、まあ知らないよりも知っている方がましですけれども、そんなことによって法の解釈が変わるというふうには私は考えていません。 ○平田委員 今お伺いしたのは、当時の状況ではなくて、金森さんが説明された内容も私が指摘したとおりでございますので、要するに、極東委員会がそういうふうに危惧をした、再軍備することを危惧したことについて、この芦田修正というものはそういう解釈が十分成り立つものなのかどうか。それを芦田さんも否定したし、金森さんも否定したという事実はそのとおりでございますけれども、先生に憲法学者として伺っているわけです。まさにGHQが文民規定を入れたことについては相当の理由があるというふうにおっしゃっているわけですからお伺いしているわけです。この芦田修正について先生も重要な修正点だともおっしゃっているわけですから、これはどういうつながりになるんでしょうか。先生がおっしゃるとおりだったら、まさにGHQの要求は相当な理由があるなどということにはならないのではないかと私は思っておるものですから。  相当な理由があるとおっしゃった以上、芦田修正については、当時はそのような発言があったにしても、この修正によってやはり再軍備の可能性が出てきたんだ、こういうふうに解釈するのがまさに自然だったからこそ、先生は、相当な理由が極東委員会の修正要求にあったんだ、こういう御指摘なのではないかというふうに私は思ったものですから、もう一度その辺、簡単に御説明いただけませんか。余り時間がありませんので、手短にお願いいたします。 ○長谷川参考人 残念ながら、極東委員会の審議録というものは完全には公開されていないと思います、今でも。ですから、極東委員会に関する、たしかプリーズリーという人のパンフレットみたいな本がありますし、若干の本があって、それに基づいて、あるいは関係者の何か私的な話に基づいてしかこの問題については歴史的な結論は持てないと思いますが、私は、大まかに言って、芦田修正というのがあったから、どういう修正とかなんとかということじゃなくて、ともかく原案に対する日本側の修正があったから、それを極東委員会が懸念して、積極的にシビリアンにしろというのを持ってきたんじゃないかというふうに、その当時から、今もそういうふうに判断しております。  ですから、将来、極東委員会のそのときの議事録がソ連も同意して完全に公開されれば、またあるいは意見が変わるかもわかりません。 ○平田委員 もう一つ。  これは日本評論社から出されておるものでございますが、「憲法現代史」、これの下で、一九五二年、内閣法制局による戦力に関する統一見解、これについて先生は、「「統一見解」は既成事実の合理化を目的としていたが、自衛のためであれば「戦力」を保持しうるという、いわゆる「芦田理論」を採用していない点に注意したい。」「「芦田理論」によれば、憲法第九条第二項は一切の戦力の保持を禁止したわけではなく、自衛のための戦力は保持できるとされた。」「事実上の再軍備を「芦田理論」によらずに説明しようとしたところに「統一見解」の苦心があり、そこに論理上の弱点もあった。この弱点は、再軍備が進行するにつれて、大きくならざるをえない。」このようにおっしゃっておいででありまして、ちょっと今先生のここでの御発言とこの文章の内容は違うんじゃないかなと思うのです。まさに芦田理論によれば再軍備が認められているんだということをここで評価されておられるというふうに思うのでございますが、その点どうなのかということ。  それから、先ほど、日米安保条約をなくせというふうにおっしゃいました。憲法と矛盾する条約だからということでございましたけれども。では、安保条約をなくしたときに、この憲法九条との関係はどのようになるというふうにお考えなのでしょうか。すなわち、再軍備をすべきだというふうにお考えなのか、いや、もう一切の軍備は要らないというお考えなのか、その辺のお考えをお聞かせいただけますでしょうか。 ○長谷川参考人 内閣の統一見解というのは、非常に細かい議論ではあるんですけれども、芦田氏の言うことは、要するに「前項の目的」というのを特定の部分にひっかけて、自衛のためなら再軍備できる、だから戦力を持てるという議論ですね。ところが、政府は、その当時から、一貫して戦力という言葉を使わない、一定の何とかかんとかということを言っても戦力ということを一貫して使わなかったものですから、特に政府見解というのは、近代戦を戦うことのできる軍隊は持てないとか、何か非常に条件をつけていたものですから、私がそこに書いたように、自衛隊がだんだん大きくなるに従って説明できなくなっちゃって困っていたわけですね。特に自衛隊をめぐる裁判が問題になっているときに裁判所に出させる政府の見解というのは、本当にわけのわからないものにだんだんなってきたわけです。(平田委員「長々と説明ではなくて、結論を」と呼ぶ)ですから、それが一つ。  それからもう一つは、安保をなくせば九条は非常にすっきりするんじゃないですか。 ○平田委員 すっきりするというのは、要するに再軍備すべきだ、こういうふうにおっしゃっているのでしょうか。先生の「憲法現代史」の先ほどの文章から見ますとそのように聞こえますが、それでよろしいのでしょうか。 ○長谷川参考人 今の私の意見としては、再軍備には反対ですし、それから、私はもう年ですから再軍備されても軍隊には行けませんけれども、私は、陸軍の砲兵の経験を二年間やってきていますから、軍隊というのがどんなものかということを皆さん以上によく知っているので、軍隊をつくるくらいならば刑務所をふやした方がましだと思っています。 ○平田委員 終わります。 ○中山会長 二見伸明君。 ○二見委員 自由党の二見伸明です。本日は、いろいろな御意見をありがとうございました。  私は、憲法論の立場からいきますと改正論者であります。基本的人権、国民主権、平和主義、これは定着しています。と同時に、むしろ私は、基本的人権、国民主権、平和主義というものを、より深く、さらに発展的にとらえて、そういう立場から憲法を見直し、改正すべきではないかというふうに考えています。  日本国憲法は、制定の過程からして、マッカーサーに押しつけられたということは否めない事実だと私は思います。だから、押しつけられたものだから憲法を改正すべきだという短絡的な立場は私はとりません。今の憲法が時代に合っているかどうか、二十一世紀の日本の国の形にふさわしいかどうかという立場から憲法というものは見直す必要があるのではないかというふうに実は考えております。  私は、現憲法は明治憲法改正の手続をとっておりますけれども、全く違う憲法だと思います。私は子供のころから、日本国憲法というよりも新憲法という名前でもってずっと親しんでまいりました。これは明治憲法とは全く異質な憲法だと私は思います。そして、現憲法が持っている根本原理である個人の尊厳、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、これは堅持すべきものだというふうに私は考えています。  そういう中で、憲法改正を論議する場合に中心となるのは、例えば平和主義とは何かということが恐らく憲法改正論議の核心になるだろうというふうに私は思っております。ただアプリオリに基本的人権、国民主権、平和主義と言っているだけじゃなくて、平和主義とは何ぞや、基本的人権とは何ぞやということを議論した上での憲法改正であるべきだと思っております。  実は、憲法が公布されたのは昭和二十一年十一月三日であります。私は当時、小学校六年生でした。クラスの先生が、日本はもう二度と戦争はしないんだ、だから軍隊は要らないし、軍備は持たなくていいんだ、こう説明されたのを今でも覚えております。私は、そのとき先生に質問しました。日本が戦争をしなくても攻められたらどうするんですかと聞いたらば、世界じゅうの国々が日本の国を助けてくれるんだ、日本はそれを期待すればいいんだ、だから軍備は要らないんだと教えられたわけであります。私は、武力紛争に介入するのは嫌だ、かかわるのは嫌だという、いわゆる一国平和主義の原点というのはここにあるのではないかなというふうに実は考えております。  九条を素直に読めば、自衛隊は違憲だと私は思います。どんな理屈をつけてあれを読んでも、自衛隊が合憲だというふうになりません。それを、憲法の解釈という不可思議な方法でもって、憲法制定当時とは百八十度違う合憲という解釈を下したと私は思います。これは私は、政治の怠慢であると同時に最高裁の怠慢だと思います。先生が先ほど申されたように、もし最高裁が憲法判断をきちんと示していれば、例えば違憲だという判決が出れば、その瞬間に憲法を改正するかどうかという議論が起こったはずですから、それをあいまいにしてしまったという最高裁のあのときの判決はおかしいと私は思う。  ただ、平和主義というものを考えた場合に、先生の著作の中に消極的平和主義という言葉があったように思います。  私は、平和主義を考えた場合に、二つあると思います。日本は何もしないんだ、いろいろなことがあるが何もしないんだという平和主義。そうじゃなくて、世界の国々がみんなそれぞれの力を出し合って、場合によっては血を流しても平和を守ろうじゃないか、国際の平和を維持しようじゃないかと頑張っているときに、日本もそれに参加すべきだという積極的な平和主義というのが当然あると私は思います。私はむしろ積極的な平和主義の立場に立つ者です。  そうした現状で、先生は、あくまでも何もしないという、自衛隊も解散する、すべてなくしてしまって何もしないという消極的な平和主義を日本は貫くべきだと考えているのか、むしろ積極的な平和主義に変えるべきだというふうなお考えをお持ちなのかどうか、まずそこら辺はどうでしょうか。 ○長谷川参考人 私がきょうお話ししたのは、日本が積極的あるいは消極的な平和主義、いずれにしても平和主義的な外交政策をとるべきかどうかという問題を考える場合に、その前提として、今の日本は今の国際情勢の中で、自主的に平和主義、平和外交を考えることができるのかどうかということを問題にしていただきたいと。例えば、日米安保条約があって、新しいガイドラインができて、法律ができているときに、アメリカの意向に反して日本が積極的な平和外交をとれるのかどうかといえば、私は、とれないというふうに言わざるを得ません。  だから、さっきの憲法改正論と同じですけれども、そういう憲法の今の議論を現実的なものとするためには、現状がどうなっているかということを前提にした上で、その主張が立派なら、立派な主張が実現するためには今の憲法をどうすればいいのかということを考えた方がいい。  だから、私は、個人的に言えば、極めて積極的な平和論者というか、私は学界の中では極めて戦闘的な学者だということになっているんですけれども、別に平和を乱すつもりはないけれども積極的な人間ですが、問題は、国の立場として考えるためには、そういうことが言える条件があるかどうかということをまず調査すべきだというのが私の意見です。 ○二見委員 実は、憲法の問題は、そういう自衛隊に関係する問題というのは、日本では憲法解釈というやり方でやっているわけですね。  本当に憲法に合わせるように政治をすべきだ、これは私は正論だと思います。ところが、憲法に合わせたような政治はできない、こういうふうに変えなきゃならないという場合には、憲法を変える以外ありません。本来ならば憲法を変えるべきなのに、憲法を変えるという大変なエネルギーを使うよりも、むしろ解釈でやってしまえという解釈改憲という手法が日本ではとられておりますけれども、このことについては先生はどういうお考えですか。  私は、解釈改憲ではなくて、それなら憲法をばっと改正してしまうという方が、日本人にもわかりやすいし、世界じゅうにもわかりやすいのですから、むしろ、解釈改憲じゃなくて、ばっと改正してしまうという手法の方が私はとるべき態度ではないかなと思っておりますけれども、先生はどうでしょうか。 ○長谷川参考人 私は、日本の憲法問題について、改憲、護憲の問題が、先ほど言いました宮澤さんと中曽根さんが、宮澤さんが護憲論者で、片一方が改憲論者というような形で今朝日新聞が編集した本が出ているので、それを読んできたのですけれども、憲法を守るということが今の自民党の枠内でしか考えられないようなことでは、憲法の実態というものを無視してあらゆる議論がなされるんじゃないだろうか。だから、中曽根さんはもうお帰りになったようですけれども、問題の次元をやはりもう少し下げて客観的に審議した方が、私は、説得力のある議論ができるんじゃないかなという感じがします。 ○二見委員 実は別の件ですけれども、先生の御著作を読んでおりましたらば、憲法の前文には基本的人権という言葉がないということですね。国連憲章には、基本的人権、人間の尊厳という言葉が明記されています。ところが、憲法三原理だといいながら、基本的人権という言葉は前文には見当たりません。生存権はあります。基本的人権という言葉はない。それは条文の中にあるからいいじゃないかと言えばそれまでだけれども、やはり基本的人権が本当に大事なものであるとするならば、前文の中に高々と掲げてよかったんではないかというふうに思っております。  これは、前文を議論する時間がなかったために見逃したのか、あるいは、もともとそういうものについては考慮していなかったのか。それはどういうふうにお考えでしょうか。 ○長谷川参考人 これは実は、研究者ならわかることですけれども、憲法という言葉の意味が国の組織原理とか統治原理というふうに一般的に考えられていますから、特にイギリス人は基本的人権には反対の人が圧倒的です。  基本的人権に反対というとおかしいのですけれども、基本的人権というフランス革命のときの考え方自身、いわゆる天賦人権という考え方に対する反対は、私が専門にやっていたジェレミー・ベンタムという法律家がいますけれども、その本には、基本的人権という考え方がいかに非科学的な考え方かということが綿々と述べられています。ですから、イギリス人は、前国家的な基本的人権という考え方は認めません。現在の国会でそれを認めると次の時代の国会を拘束することになるので反対だという人が非常に多いのですね。  ですから、基本的人権の考え方については、イギリスの有力な法律家で全く反対している人もいるし、賛成している人もいるし、日本人が考えているほど基本的人権というのは、世界じゅうだれでも賛成している、そういう考え方ではないのですね。  だから、そういう意味でいえば、前文に平和的生存権だけがあって基本的人権というのがないというのは、あれをつくった人が大体憲法というのはこういうふうに考えていたんじゃないか、それは別に例外的でもないし、ごく普通のことだというふうに私は思っています。 ○二見委員 終わります。 ○中山会長 東中光雄君。 ○東中委員 長谷川参考人、どうも御苦労さまでございます。  今日の政治的な改憲ムードがずっとあるのですが、昨年の文芸春秋九月号で、小沢一郎自由党党首が改憲試案を発表して、これが今日の政治的な改憲ムードをつくってきたと言ってもいいぐらい大きく喧伝されておるわけです。  これによりますと、「昭和二十一年、日本は軍事的占領下にあった。日本人は自由に意思表示できる環境になかった。正常ではない状況で定められた憲法は、国際法において無効である。」こういう命題がありまして、「占領下に制定された憲法は無効であると宣言し、もう一度、大日本帝国憲法に戻って、それから新しい憲法を制定すべきであった。」こういう論が出されておるわけであります。  日本国憲法無効論というのは、先ほどもそういうことは法律的にはあり得ないということを言われましたが、一般的に通用しない、まさに時代錯誤的な感じがするのですけれども、それが大きな一つの基調みたいになって、そしてあの試論というのが出されておるわけであります。「戦後日本のタブーを破って現職政治家が初めて条文を書いた 日本国憲法改正試案 小沢一郎」こういうぐあいになっているのです。  小沢氏の改憲試案について、長谷川さん、お読みになっていると思いますし、御意見を聞かせていただきたいと思います。 ○長谷川参考人 同じ今の与党の改憲論者と言われている人たちの意見でも、小沢一郎氏とか、さっきの中曽根氏とか宮澤氏とか、戦前に大学を出て明治憲法しか試験を受けたことのない人、戦後は選挙に忙しくてどうも憲法の本なんか読んでいないんじゃないかと思う人、そういう世代の人の憲法論というのは、本当に何か理屈なしに、すぐ明治憲法に返ってみたり、天皇が出てきたり、そういう意味では、私が読んでいても、そういう世代の憲法論というのは、大体もう安保、一九六〇年代、あの高度成長の終わりに自民党の中でも実は絶滅したんじゃないかと私は思っていたのですが、最近何か少しずつ復活しているみたいです。  むしろ問題なのは、同じ改憲論でも第二世代の、そういう古い、古典的な、戦前の明治憲法しか学んでいないような考え方じゃなくて、戦後、ともかく日本国憲法について勉強して、そうして今の現状で議論するというふうに、何か二種類あるような気がするのですね。  だから、私は、小沢一郎氏のあれを読んだときに、こういうものは、出す雑誌社も雑誌社だし、新聞社も新聞社で、出せば出すほどマイナスになるんだからほっておけばいいんじゃないかというような気がいたしました。 ○東中委員 押しつけ憲法論とか、それから占領基本法というのですか、こういう考え、それでその憲法は無効だとまでは言わないまでも、新しい憲法を制定しろという論といいますのは、一九五五年に自主憲法期成議員同盟というのがつくられまして、その趣意書によりますと、日本国憲法は押しつけ憲法である、それから占領基本法である、だから新しい自主憲法制定、こういう論理で貫かれておるわけです。それができたのは三月でしたか、その秋には自由党と民主党が一緒になって自由民主党ができた。だから、その自主憲法期成議員同盟というのは、両方から出ていますから、自由民主党ができるについての保守合同ですか、それを促進する役割を果たしたんだということさえ書かれております。  そういう状態で、かつて、自主憲法の制定ということで、中曽根さん、それから奥野さん、鈴木内閣のときに奥野さんが法務大臣で、新しい憲法の制定をやかましく言うて大問題になりました。三回も発言したと問題になりました。八三年の中曽根内閣でも、八〇年の自主憲法制定運動というのがずっと進んできたんです。私も国会で、八一年二月と八三年三月、二回その点について質問しているんです。  大体、自主憲法制定というのはそもそも日本国憲法そのものを否定することになるんじゃないかということで鈴木総理を追及しました。鈴木さんは、押しつけ憲法というようなものじゃないということを答えまして、しかし、議員同盟では自主憲法の制定と言っているじゃないかと。  それから、中曽根さんは、私は改憲論者だということを発言されたんですが、と同時に自主憲法期成議員同盟の中心ですから、自主憲法制定と憲法改正では全然意味が違うじゃないかということをいろいろ追及しまして、それから後、自主憲法制定というのは、中曽根さんに言わすと、法律的表現ではなくて政治的表現なんだと。  だから、自民党の政綱自身も書き改めましたね。自主憲法制定、すなわち憲法の自主的改正を立党以来の党是としてきたと。自主憲法の制定と自主的改正、それが同じものだというふうに、現行がそうなっていますね。だから、余りこれは論理的じゃないということはわかっていて、しかもなお、押しつけ憲法、それから占領憲法ということで改正をしよう、こういう動きなんです。  この調査会も制定経過を聞くということから出発しているので、そういうことに絡んでいるのだと問題なので、憲法のあり方として、確かに、あなたも言われたように、事実としてはポツダム宣言で大体押しつけられたということもあるでしょう。しかし、そういう点について基本的に、一体どういうふうに押しつけ論に対して憲法論としてお考えになるか、自民党のそういう自主憲法制定、正確には自主憲法期成議員同盟ですか、それについてお考えを聞かせていただきたい、こう思います。 ○長谷川参考人 これは、私だけではありませんけれども、例えば、私の後に参考人として意見を述べられる方も、前もそうだと思うんですが、いわゆる古いタイプの、小沢さんが言っているような憲法無効論というのは、もう学界ではほとんどだれも取り上げる人がない。ただ、言っている政治家がいるかもわかりませんけれども、余りそれを支持する人はないというのが、憲法学者あるいは憲法研究者の中ではもう一般的の、それは別に改憲に賛成する反対する関係なしに、共通の主張じゃないか。また、押しつけ論はともかくとして、押しつけたんだから無効だというような、何かわかったようなわからないような議論も、ほとんど研究者の間では問題にしていないように思います。  ですから、私はむしろ、きょう、こういう憲法調査会を開いて憲法調査をやれといういわゆる改憲論者の考え方というのは、もっと新しい――例えば首相公選論をとれとか、あるいは、環境権が憲法に書いていないからもっと新しいのをふやせとか、今までの古いタイプの改憲論者が言って、宮澤さんに言わせれば、さっきの本の中では、そんな古いタイプの改憲論というのは自民党の中でももうなくなっちゃった。中曽根さんはそれを認めようとしていないけれども、少なくとも古いタイプのものがなくなったというのは今だれでも考えていることで、問題なのは、やはり、新しいタイプの改憲論というのが個別的に出てきていますけれども、それが学問的な形をとって、体系的な形で、現行憲法にかわる新しい憲法というものがあり得るかどうかというような議論は、まだ、少なくとも私の目に触れた限りではないと言ってもいいと思います。 ○東中委員 要するに、現在の日本国憲法改憲論というのは、いろいろな形をとっていますけれども、発生したのは、日本国憲法ができて、四六年に公布、それから四七年に施行されて、もうその直後から出てきた。それは、日本を占領したアメリカが対日政策を百八十度転換して再軍備の方向を出してきた、そこから出てきたことなので、自主憲法制定とかなんとかいうのも理屈をつけているだけで、五〇年代から改憲論が出てきた経過、それから、その主要な問題点の特徴というものを、ひとつ日本の憲法史として、そういう改憲論の憲法史的な意義づけといいますか意義といいますかというものを、お伺いしたいと思います。 ○長谷川参考人 私は、今東中さんが言われたように、そういう戦後の憲法史というのを丁寧に調べていけば、確かに、改憲論というのがどういう状況の中で、既に占領中から始まってどういう形で出てきたかということは、いろいろな事実があって立証することはできると思うんですけれども、きょうは私は、もっと大きな、世界の憲法の歴史の流れの中で見ると日本の憲法制定の経緯についての議論はどういう意味を持っているか、あるいは、日本の憲法の現状はどうなっているかという観点から問題を調査していただいた方がいいんじゃないかというふうに思ったものですから、今のような点については触れなかったわけです。 ○東中委員 そうすると、今言われました、日本の現状はどうかという点でいえば、沖縄の現状ですね。  沖縄は、日本国憲法が押しつけられたというか、押しつけ論でいえば、押しつけられたのはずっと後になるわけですけれども、その沖縄の現状と、それから憲法との関係ですね。日本の国土、国民の住んでいる沖縄県について徹底的に調査すべきじゃないかということを言われている若い学者もいらっしゃいますが、そういう点について、先ほどもちょっと言われましたけれども、御意見がありましたらお伺いしたいと思うんです。 ○長谷川参考人 きょう私は、日本国憲法の現状について、もちろん肯定的な面もたくさんあるんですけれども、主として否定的な面を述べ過ぎたかなという反省も今しているんです。  特に沖縄の問題を見たときに、まさに日本の国家主権が存在しない現場としての沖縄、それから、憲法では地方自治というものを認めていますけれども、日本国全体の中であれだけ差別的に扱われて住民が困っている県というものはない。だから、地方自治の原則から見ても主権の問題から見ても、やはり沖縄の現状というものは、憲法の観点から見れば、私が世界史の流れの中で見た三つの原理、あるいは戦後の平和主義とか民主主義の原理というものが、沖縄ぐらい守られていないところはないんじゃないかというふうに思います。  ですから、もし小渕内閣で沖縄でサミットをやるというんだったら、外国から来た元首に沖縄の現状を率直に見せて、一体この状況が日本の国家にとってどういう意味を持っているのかということを議論してもらえば、私は非常に日本の実態というものがよくわかるんじゃないかという気がしています。 ○中山会長 次に、保坂展人君。 ○保坂委員 長時間お話を聞かせていただいて、どうもありがとうございました。 社会民主党の保坂展人です。  私は、ちょっと自分の体験のお話をまず簡単にさせていただきたいと思うんですが、一九五五年生まれで現在四十四になりますけれども、そういう意味では戦後世代であります。私が憲法というものを意識したのは、実はこの国会近くの中学で、当時七〇年安保、ベトナム反戦などの市民運動に興味を持って、学校の中で新聞を発行しよう、あるいは生徒会で討論会をやろう、こういうことがきっかけでした。  その当時、学校の先生から、君が思想を持つのはいい、心の中で何を思うのも構わない、ただ他人にしゃべったら悪影響を与えるのでしゃべったらだめだ、こういうふうに言われたわけなんですね。また、同じように印刷物などをつくるのもいかぬと。だから、憲法二十一条の集会、結社、表現の自由というようなところを、私の場合はこれをあえて発言し続けたということで内申書にこの問題が記載をされて、その後十六年裁判をやることになります。  その十六年後にまたもや、自分の十六年争った裁判の判決が実は当事者である本人に一切告知をされないという問題に行き着いたんですね。最高裁の小法廷で開かれる民事裁判の事件は、その当時は本人に対する告知がありませんでした。 これは、憲法の八十二条を見ても公開すると書いてあるし、しかも、人権にかかわるようなものは絶対公開しなきゃいけないんだとただし書きまでついているわけですね。  そういう意味でいうと、やはり憲法はいいこともたくさん言っているけれども、まだまだ実態は乖離しているなという思いがあるんです。  そういう意味で、先ほど中部電力のお話をされましたけれども、今の日本の人権状況ということでお感じになっていることがあれば、もう少しお話しいただきたいと思います。 ○長谷川参考人 今の日本の人権状況を典型的にあらわしているのは、何年かに一遍、ジュネーブの国連の人権委員会に日本政府の代表が行って、日本はこうこうこういう法律をたくさんつくってあるから日本は人権が守られているんだという報告をすると、それと同時に、労働組合やその他のNGOの代表の人が、日本の実態を、全然そうじゃないんだ、日本の社会では人権がじゅうりんされている例がこうこうこういうふうにあるんだと。中部電力の問題もその一つなんですけれども、そうやって両方の報告が行って、それでそれを両方読んで、大体何年に一遍かジュネーブの人権委員会から、日本あての勧告のような、あるいは意見書のようなものが出されています。それを見ると、とても日本国憲法の人権規定が、今規定されているものがそのまま守られているというふうには私は判断できない。  それから、私が関係しているいろいろな、国民救援会とか平和委員会とかそういう団体がありますが、特に中部電力の人権訴訟の後援会に参加したり、あるいは部落解放運動の全解連という団体に行って話を聞いたりすると、確かに人権規定、これはもうつくって五十年もたつわけですから、新しい人権規定をもっとふやすべきだという意見も出てくるかと思うんですけれども、それよりもっと大事なのは、既に決めてあることを守っていないということの方が重大じゃないだろうか。  だから、国民が、あるいは国の政治家なり企業の幹部が、人権を守るという意識がない限りは、憲法をどんなに変えたって実態は変わらないわけですね。私は、いわゆる人権感覚というものをちゃんと国民が持つように教育が行われていれば、あんな聞いたらびっくりするような人権差別が企業で行われるようなことはあり得ないと思っています。  ですから、人権問題について言えば、日本国民の人権感覚、あるいは権力を握っている、社会的な勢力を持っている人の人権感覚というものをふやさない限り、憲法の規定を変えたぐらいではどうしようもないというふうに思っています。 ○保坂委員 今おっしゃった国連の規約人権委員会の勧告が五年ごとに出ますよね。国会の中に死刑廃止議員連盟というのがあって、本当に与野党を問わず活動しているんですが、規約人権委員会で勧告があると、必ず二週間、三週間たって処刑があるというのが現実でありまして、国際社会、国際社会と言われる割にはそこのところは実にダブルスタンダードで、人権の面では非常におくれている国なのではないかというふうに私なんかは思っているんです。そういう意味で、憲法を積極的に守り、擁護していくという戦後世代もいるということをお伝えしたいというふうに思いましたので、先ほど自己紹介したんです。  一点だけ。私が生まれた五五年、まさに五五年体制がスタートしたそのころですけれども、その当時、やはり大きな改憲論議があったと思うんですね。そして今、それから四十数年して国会に憲法調査会がつくられて、きょうも議論がされているわけです。この二つの議論を隔てている時間は大変長いわけですけれども、どんな変化が感じられるか、率直に御感想をお願いしたいと思います。 ○長谷川参考人 先ほどから同じことばかり答えるようですけれども、宮澤さんと中曽根さんの対談が文庫になっているものをお読みになればよくわかると思うんです。古い、五五年に自民党が保守合同ででき上がった当時の改憲論というのは、天皇の元首化と、それから九条を廃止しての再軍備と、人権、自由が行き過ぎているから制限しろという、これが三本柱だったんですね。その当時のことをまだずっと思っているのは、大体あれを読んでみると、中曽根さんなんかはやはりそのときと全然変わっていないですね。  だけれども、宮澤さんなんかからいうと、そういう古い改憲みたいなのも、あのとき選挙をやって社会党なり護憲派が三分の一以上を占めたために、もう憲法改正ができなくなったということははっきりしたから、もうそんなむだなことは考えないようになった。もう少し言えば、いわゆる解釈改憲というのですか、解釈でやれるんであればもう十分なので、自衛隊だって、今の九条のもとでつくったって、別に最高裁が違憲と言わないのならそれでいいじゃないかみたいな流れ。これが護憲派と書いてあるんですけれども、自民党の中でもそういう古い考え方は、さっきの小沢一郎氏は自由党ですけれども、今までもいるし、それから、同じ年代でも宮澤さんのように、そうではない、自民党にいるのに今や護憲派と言われるような人もいるし、随分変わったなというふうに思います。  ただ、私は憲法学者として何十年も同じ勉強をしていますから、よくまあ同じ憲法をめぐってこうもころころと言うことを変えたり、変わるものだなというふうに、自分の所属する政党をかえる人もいるわけですから憲法論ぐらい変わっても仕方ないかもわからないけれども、やはり憲法の議論というのは、さっきから私が言っているように、百年に一遍の問題を基本にして考えるのが普通なので、ことしはたまたま二〇〇〇年ですからいい機会だとは思いますけれども、戦後の憲法の歴史、憲法論の変遷というのを見ますと、ある意味では変わり過ぎている、また、ある意味では何か同じ人が同じことを言っているという、そんな感じを持っています。 ○保坂委員 それでは、これが最後の質問になると思います。  先ほど、一九五四年六月五日に、「和して争う」ですか、その座談会をされて、それは大変貴重な本で、多分もう手に入らないだろうと思いますが、そこの五つの説を御紹介いただきましたね。それが一つというのではなくて、まあ二つないし三つが複合的に反応したということもあり得るんだというようなこともおっしゃいましたけれども、先生の説は、その五つの中でどういうふうに構築されていらっしゃったんでしょうか。 ○長谷川参考人 一番基本的に言えば、私もいろいろな国の憲法の歴史をずっと勉強して、憲法ができたときに、だれがつくったかというような素朴な発想というんですか、単純な発想というのはしたことがありません。  要するに、問題は、革命があったり内乱があったり敗戦があったりすれば、戦勝国と敗戦国、あるいは革命に勝利した階級と負けた階級、内乱だったら政治勢力の対立、そういう、具体的にそのときの、先ほど私の言った権力関係というものを見て、それで、権力を握った人が基本的には憲法をつくっている。しかし、権力を握っていない者も、その制定過程で、いろいろ抵抗したり国民運動を背景にすればいろいろ修正することもできる。だから、そういう意味でいえば、そういう複合的なものにならざるを得ない。余り単純には言えない。  だから、日本国憲法の場合には、戦勝国がポツダム宣言というのを基本法にして新しい憲法をつくったというのは事実で、それに対して日本の保守政治家がいろいろ抵抗して、いろいろと部分的に直したということも事実です。 ○保坂委員 そうすると、いろいろな複合的な五つくらいの要素に分けられるというふうに伺ってよろしいんだと思います。  きょうはどうもありがとうございました。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言参考人にごあいさつを申し上げます。  長谷川参考人におかれては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして御礼を申し上げます。  この際、暫時休憩いたします。     午後零時三十四分休憩      ――――◇―――――     午後三時一分開議 ○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行します。  午後の参考人として香川大学法学部教授高橋正俊君に御出席をいただいております。  この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、本調査会の検討の資料にさせていただきたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、高橋参考人、お願いいたします。 ○高橋参考人 紹介にあずかりました香川大学の高橋でございます。  本日は、「日本国憲法制定史とその法理的視角」という題でお話をさせていただきたいと思います。  日本国憲法の制定史研究というものは、歴史的、政治的、経済的、その他のさまざまな視角から行われているところでございますが、法的な側面から、特に、君主主権憲法からその改正として国民主権憲法を生み出したという、一見するといささか矛盾するような事態をどのように理解すべきかということについて考えてみたいと思うわけです。それは、ある意味で法理的な視角が定まっておりませんと、例えば押しつけ憲法論といったような議論がございますが、それがどういう意味を持つのかということが必ずしもはっきりしないと思うからでございます。  まず、日本国憲法の制定及びそれが行われることに関する類型について、若干お話をしたいと思います。  さまざまな考えがあるわけでございますが、類型化すると幾つかのものになりますので、まず第一に、改正説というものについてちょっとお話をいたします。  この改正説というのは、簡単に言いますと、明治憲法を改正して日本国憲法となったという非常に単純なものでございます。これにつきましては、実はGHQやら日本政府、佐々木惣一その他の方々、かなり有力な方々が主張されているところでございますが、これについては現代の憲法学では必ずしも主要な見解になっておりません。  その基本的な見方というのは、このレジュメに書いておりますように、ポツダム宣言受諾以後も明治憲法は維持されて、それが十一月三日公布の日本国憲法へと改正され、五月三日の施行にまで至る、そういうふうなものでございます。  この理論の前提となるものは、まず第一に、ポツダム宣言の受諾によって日本政府は自主改正の義務が生じただけであって、依然として天皇主権は維持されているが、ただGHQによる制限を受けた状態である、こういうふうに見るわけでございますね。そして二番目の前提は、憲法改正は、手続に従って改正する限り限界はなく、天皇主権から国民主権に法的に連続して移行できるという憲法改正無限界論という考え方になっております。そして、実際、改正規定に従って改正されたわけでございますので、日本国憲法の効力はある、こういうことでございます。  このような場合には、簡単に言いますと、明治憲法七十三条の改正規定に則して改正しておれば日本国憲法は効力があるということになるわけですから、そこで問題になりますのは、一体七十三条に則した改正であったかどうかということで、ここで押しつけの議論が出てくるわけでございます。  これまで議論されておると思いますが、まず、マッカーサー草案が手交され、その基本原則、根本形態を変えてはならぬ、こういう条件の中で行われたということ。 それから、いわゆる天皇の戦争犯罪ということを取引材料にされた、そういうふうな二月十三日のマッカーサー草案手交状況をめぐる問題。それから、三番目としては帝国議会の審議が完全なGHQのコントロール下にあったといったような諸点がこのときに問題になるわけであります。そして、そのような部分がいわば七十三条に則した改正と言えないということが、すなわちここで問題となってくるわけでございます。  二番目は、無効説と呼ばれるものでございます。  無効説は、いわゆる自主改正の義務があるということについてはまさしく同じでございますが、しかし、明治憲法七十三条の憲法改正には限界があって、天皇主権から国民主権に移行はできないという憲法改正限界論を前提にしております。そして、この限界が認められる以上、日本国憲法の効力は当然のこととしてないということになるわけでございます。  これは非常に少数の人だけが主張しておられることでございますが、理論的にはばかにできない説でございまして、これから申し上げる八月革命説は、この説をいわば予想して、こういうふうな無効に陥らないように論理を構成しよう、こういう試みであると見ることもできるものでございます。  三番目の八月革命説について若干お話をいたします。  これにつきましては、この無効説のような隘路に陥らないために、明治憲法がポツダム宣言を受諾した時点において、いわば法的な革命というふうな状況に至り、天皇主権は国民主権にここで変わった、こういうふうに考えるものでございます。したがって、それ以後の明治憲法、ここでは明治憲法Bとしてございますが、明治憲法Bは、国民主権の憲法に変質したことになってしまいます。したがって、明治憲法Bは既に国民主権の憲法でございますから、それを改正、施行して日本国憲法にするというのは差し支えない、こういう議論となるわけでございます。  ただ問題になりますのは、改正手続でございまして、先ほど申しましたように、明治憲法Bというのは国民主権によってモディファイされたものでございますので、国民主権に抵触する機関、例えば枢密院とか貴族院が改正に参加しておりますが、この議決については効力はない、こういうふうなことになるわけでございます。  この議論は、すなわち明治憲法Bというのは既に国民主権の憲法になっておるというわけですから、幾つか問題が出てまいります。  まず、モディファイされた改正手続というものは、一体いかなるものであろうかという問題です。第二番目は、そのモディファイされた憲法改正手続に参加する、国民主権にかなうような構成員は、どうやって確保されたか。ここでは、ホワイトパージとか新法での衆議院選挙による構成員で十分なのかといった問題が起こってくるわけです。さらには、改正無限界論で議論されたような、マッカーサー草案の手交の問題とか、審議がGHQの完全なコントロール下にあったなどということの押しつけが、さらに問題となってまいるわけでございます。  ですから、押しつけの議論といっても、無限界説における議論と八月革命説における議論というのは、視角がそもそも違うということをちょっと御記憶いただきたいというふうに思うわけでございます。  いずれにせよ、法的連続性が確保される以上、日本国憲法の効力はあるという議論になるわけでございます。  四番目に、失効説ということについてちょっと申し上げます。  この失効説というものは、明治憲法が、ポツダム宣言を受諾することによっていわばGHQの占領管理の中に入っていくということになるわけです。そして、占領管理下にあるわけですから、いわば明治憲法Aと明治憲法Bは断絶をする。ここに一種のやはり革命みたいなものが起こっている、こういうふうに考えるわけであります。  そして、その中でつくられた、改正された日本国憲法Aと言われるものも、これもまた占領管理期でございますから、管理法令の一部ということになるということでございます。その限りで、講和条約によって日本の占領が終わるまでは管理法令として有効だということを認めるようでございます。  ただし、講和条約による占領の終了とともに日本国憲法はどういう運命をたどるかということについて考えれば、それはまたもう一度断絶が起こったわけでございますから、その時点で失効するのではないかということです。したがって、そのときには、本来、日本国憲法Bの効力はないはずなのだ。これが失効説の筋書きでございます。  もちろん、混乱を避けるために日本国憲法の失効を宣言すべきだといったような提言がなされるところでございますが、これは法理的にはちょっと関係がないということになっております。  ところで、これらの類型を申し述べたわけですが、簡単に評価を加えておきます。  まず第一に、主権変更に関する限り、憲法改正無限界論はちょっと採用しがたいのではないかと考えております。これは、主権が権力の究極の源であるという、主権の中の最も重要な意味でございますが、そのように考えますと、究極の源は二つあり得ないわけですから、君主主権と国民主権は並び立ち得ず、その連続性を考えることはできないことになる、こういう理屈によっております。ここのところが、小生としては限界論をとる理由でございます。  ただ、ちょっとここでお話ししておかなきゃいけないのは、憲法改正限界論もしくは無限界論というのもいろいろなバリエーションがございますので、ここで議論しているのは、主権変更、君主主権からほかの主権への変更という限りにおいて、無限界論はとりにくいと言っていることでございます。この無限界論の根拠などについてもいろいろ議論がございますが、ここではこれぐらいにさせていただきたいと思います。  次に、無効説について若干お話をしておきたいと思います。  無効説というのは、改正限界論をとりますと、ある意味で必然的な結果でございます。ただ、この理由といいますか理屈づけには、日本国憲法の効力は明治憲法との法的連続性からしか得られないという前提が置かれております。つまり、日本国憲法が、改正憲法ではなくて、新憲法として効力があるのではないかということについて議論をしておりませんで、それはないのだとどうも考えているようでございます。したがって、この点について何か新しい議論ができるとすれば、当然のことながらまた新しく考えなきゃいかぬということになります。  失効説も、日本国憲法Bについて、やはり前からの法的な連続性がなければ効力はないと考えられているわけですから、同じようなことが言えるわけで、新憲法として効力があるという可能性が新たに別に出てくれば、効力があるということになり得るわけでございます。  次に、一番重要な八月革命説について若干お話をいたしたいと思います。  まず、八月革命説というのは、限界論に基づきまして、かつ日本国憲法を新憲法として基礎づける、こういうふうな考え方でございまして、今も多数説という形で生きております。恐らく学者の中ではかなり多くの人がこれをとっているのではないかというふうに考えられます。  しかしながら、近年、この八月革命説については、さまざまな観点から難点があるのじゃないかという批判があるところでございまして、理論的な問題点、及びその当時起こった歴史的な事態と整合性がないといったような問題が出てまいっております。  まず第一でございますが、これが本当は一番重要な点でございますけれども、八月革命説というのは、ポツダム宣言によって国民主権が成立したということをある種、絶対的な前提にしておるわけでございます。しかしながら、この議論の根拠にしているポツダム宣言、バーンズ回答から、日本は国民主権を採用したという結論を引き出すことはできないと思われます。  この点については、詳しくは申しませんけれども、御存じのとおり、制憲議会、帝国議会における金森国務大臣の答弁の中に、「我ガ憲法ノ根本的建前」は「八月十五日ニ変ルベキ情勢デナイ、是ガ憲法ノ制定ヲ経過シテ変ルベキ情勢ニアル」 というふうに、この段階でポツダム宣言、バーンズ回答からは国民主権に直接に変わったと言うことはできないというふうに一般的に考えられているわけでありまして、むしろ占領軍の撤退条件とされているのである、すぐさま国民主権に変わるということを言っているのではないというふうに思われます。  ところが、この自明と思われるほど明らかな見解に対するはっきりした反論なくして、この八月革命説は長く通説としての立場を占めてきておるわけですが、この点について非常に問題があると言われるわけでございます。  次に、もう少し法理的なところに入っていきますと、二番目にa、b、cと書いてありますが、これは一つのことでございますので、簡単に説明させていただきます。  占領管理下の状況の中で国民主権ということになっているのは、非常に事態に合わないし、法理的に問題があることではないか。事実に合わないのではないか、こういう疑問でございますね。  また、ポツダム宣言を八月革命説のように解釈するためには、国際法であるポツダム宣言があらゆる国内法に上位し、違反するすべての国内法規は無効であると考えるラジカルな国際法優位の一元論をとる必要があるわけでございますが、これについては、実は日本国憲法を勉強している人たちの間にこのような説をとる人はほとんどおらないし、あるいは政府の見解もそうではなく、国際法というのは国家と国家の間の権利義務関係を規律しているもので、このようなラジカルな考え方は国家の独立性を害するというふうに考えているようでございます。  さらに、cですが、占領管理下の日本を国民主権の国家とするということは、ハーグの陸戦条約附属書四十三条との整合性が実は問題になります。これも前に恐らく議論になっただろうと思うのですが、ポツダム宣言の受諾を、四十三条の特別法である、四十三条のもとで特に合意されたものであるから有効である、優先適用される、こういう考え方があるわけですけれども、もしそういうことが自由にできるというのであれば、四十三条を規定している意義などというものはほとんど失われるのではないか、こういう反論があるところでございます。  最後に、手続的問題に即してちょっとお話をいたしますと、改正手続に衆議院のほかに枢密院、貴族院がかかわって、貴族院では修正さえされておる。国民主権が既に存在したのであれば、このような非民主主義的機関が参与したという事実を説明できない、こういうことが起こってまいります。  恐らく、これに対する答えとしては、貴族院の修正も最後には衆議院が一括可決しておる、したがって、それによって、衆議院によって正当化されているのだから、それでよいのだと言うほかないのだと思いますが、これはなかなか苦しい説明ではなかろうかと思われるわけでございます。  以上、八月革命説にはどうも根本的なところで問題がありそうでございまして、近時、歴史的な役割は終わったのではないかという有力な評があるのはゆえなしとしないわけでございます。  では、問題はどんな説明が可能かということでございます。以下にお話をするのは小生の個人的な見解ということになりますので、そういうふうな観点からお聞き願えればそれでよいと思っておりますが、すなわち、まず日本が置かれました全体の法的状況の概観というものは、四ページのところに(1)として図に書いておりますが、次のようなものだったと思われます。  まず、本来の明治憲法をAといたしますと、ポツダム宣言を受諾することによって、ここで私も断絶があると考えておりまして、すなわち天皇主権から連合国ないしはマッカーサー主権ともいうべきものに、主権という言葉はちょっと問題があるわけですが、移行したのではないか。そしてまた、この根底には、日本国の国家性が揺らいだのではないか、そういうふうな考えをいたしております。したがって、揺らいだという観点から、主権というところにはてなマークがついているわけでございます。  そして、明治憲法Bと日本国憲法Aというのは、いずれもいわば連合国・マッカーサー主権というものの下位法として存在した管理法令であるというふうに考えております。  そして、講和条約によって占領が終了するわけでございますが、そこにもまたもう一度、断絶があるのではないかというふうに見ています。すなわち、連合国主権、マッカーサー主権といったようなもの、ないしは国家の非常にあやふやな立場が、もう一度通常の国家そして国民主権国家ともいうべきものになったという意味で、断絶があるというふうに考えておるわけでございます。  このようなことを前提として、もう一度全体の憲法の状況というものを振り返ってみることが次に必要になろうかと思います。  まず、日本国憲法につきまして、占領下における日本国憲法、日本国憲法Aの効力と、講和条約後の日本国憲法、日本国憲法Bの問題を別々に扱うべきであろうと考えております。すなわち、その置かれた法的地位が全く異なるわけですから、各時期の憲法の効力を、おのおの承認されるかどうかということを別々に考えることが必要なのではないかというふうに考えている次第でございます。  ここでは、特に日本国憲法のA、Bについてのみ言及をさせていただきたいというふうに思います。  まず、日本国憲法Aについてでございますが、占領下における日本国憲法制定の法的環境というものは、恐らく皆さんもよく御存じのとおり、まことに異例なものでございました。日本が受諾いたしましたポツダム宣言というものは、実は本来、いわゆる条件つき休戦条約であったと考えられております。  どうして条件つき休戦条約であったかといえば、これは実はポツダム宣言をアメリカ側で制定する過程を調べてまいりますと、特にその起草に深くかかわった国務省内で二つの勢力、いわゆる中国派と言われる人たちと、日本派もしくは知日派と言うべきなんでしょうが、知日派と一応名づけておきますが、その勢力が激しくぶつかっております。そして、その結果、ポツダム宣言が形成される段階におきまして、七月二十日のことだというふうに言われておりますが、それまで草案二項の中に、日本の無条件降伏までということがうたわれておったわけですけれども、それが、日本が抵抗をやめるまでというふうに変更されておりまして、国家としての無条件降伏という言葉が消えております。日本の軍隊の無条件降伏だけが残る、こういうことになるわけですね。  実際、そのように意図したようでございまして、ここでは、したがってポツダム宣言というのは、本来、条件交渉を認めない条件つき休戦条約、そういうふうなものになった、そしてそのように理解されておったということでございます。  ところが、現実にポツダム宣言が受諾されて、それが実施される段階になりますと、無条件降伏として運用されることになります。  なぜ無条件降伏として運用されることになったかということでございますが、これについては、一つの一番重要な理由は、いわゆる知日派であった国務次官グルーなどが辞任いたしております。これは八月十五日のことのようでございます。その結果、中国派の方が非常に強い勢力を得る。そして、ポツダム宣言を無条件降伏として取り扱うべきだというふうなことになってくるわけでございます。  そのあらわれが、いわゆる「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」という有名な文書として発表されるということのようでございます。事実、マッカーサー元帥の態度も、どうもそのような無条件降伏としての行動を現実に示しているということでございます。  このように、運用の段階におきまして無条件降伏、そういうふうな形で運用されることになるわけですから、御存じのとおり、そこにおきましては、ルーズベルトの意図しました、降伏をし、その後に占領管理を行って国家改造プログラムを発動させる、そしてその国家改造プログラムが成就した後に講和条約を結ぶ、こういうふうなルーズベルトの意図が、後継者であるトルーマンのもとで行われるというふうに考えられるわけであります。  そこにおいては、国家を改造するという意図が厳然として第二次世界大戦の戦勝国である連合国側にあり、それによる敗戦国処分として日本の占領管理が行われた、日本にとってはまことに残念なことでありますが、ということでございますので、よく議論になりますけれども、このような措置は、ハーグ陸戦条約附属書四十三条に反するのではないかということが言われたり、あるいはいわば憲法の自主決定権に反するのではないかということは言われるわけですけれども、それはまさしく、このような状況を考慮すれば、その運用の効力を疑う余地というのはちょっとあり得ないということになろうかと思うわけでございます。  そこで、そのようないわば一時国家改造プログラムが発動されている間、日本国という国家性が失われ、そのもとで存在した明治憲法Bというものが管理法令の一部として組み込まれる、そういうことが現実に起こってくるわけであります。そこでは、権力の究極の源という意味で、主権は連合国にあると考えざるを得ないということになるわけです。もちろん、法理的に言いましては、実はこのことは、国家性自体が疑わしい状態、国家であるかどうかということが疑わしい状態に陥るわけでございます。  どうしてかといいますと、国家というのは、三要素説という一番簡単な議論からいいますと、国民と領土と固有の統治権が国家存立の三つの要素であるというふうに考えているわけですけれども、その固有の統治権性が日本から脱落したわけですから、本来的意味での主権というものを言うことがここではできなくなっているということでございます。  このような状態のもとでどのような統治が行われていたかといいますれば、従来の日本政府組織を使う間接統治を原則としておりますけれども、連合国最高司令官は、必要があれば直接統治もなし得るというふうにされていたわけでございます。日本政府は言うに及ばず、通説もこの間接統治原則を非常に重視いたしまして、日本の主権は制限されていたけれども、決して連合国、マッカーサーに主権が移行したというふうな議論はしておりません。  しかし、間接統治であろうと直接統治であろうと、法理的にこれを、間接統治であるから国家性が存在したとか、主権は制限されただけだと言うことは難しいのではないかというふうに考えておる次第でございます。  このような占領管理下におきましては、日本の法令は、明治憲法Bを含めまして、ポツダム宣言からGHQの命令に至る法体系に接続し得る限りにおいてその効力が維持される下位法にすぎなくなったというふうに考えられるわけであります。すなわち、明治憲法B、これも管理法令中の下位法という地位を持つにすぎなかったと考えられるわけであります。  さらに、GHQは検閲など占領管理に必要な措置を直接行うとともに、間接統治の原則に従いまして、多くの日本の法令の改廃、制定を日本政府に要求したり、場合によってはほぼ強制ではないかと言われるような形でその改廃、制定を要求しております。その最も著しいものが明治憲法の改正、すなわち日本国憲法の制定でございます。  そういうふうな状況にあるとすれば、日本国憲法の中にある文言や制定手続、さらには政府、国民の主観的な見方はともあれ、この時期における日本国憲法は管理法令と見ることになり、したがって、ほかのGHQの命令による法令の制定、改廃と同じ立場に立っているわけでありまして、特に異なって、押しつけその他といった議論をなされるべき理由は見出しがたいということになるわけであります。  さらに、そこにおきましては、君主主権から国民主権へという憲法改正の限界などといったことは、実はそれほど問題にはならない。なぜならば、君主主権から国民主権へという憲法改正の限界というのは、実は文言上の事柄であったわけでありまして、さらには、押しつけの議論であるとか、それから枢密院や貴族院の参与といったようなものも、管理法令たる憲法の効力という観点からすれば、その効力自身が疑われるようなものではあり得なかったのではないかというふうに考えております。  最後に、講和条約後の日本国憲法の効力、こういうことでございますが、講和条約の締結、占領の終了によって日本という国がもう一度再構築された後において、日本国憲法の効力は一体どのようにして存在する、ないしはなくなっているのか。 もちろん、だれも現在のところ効力がなくなったと考える人はおりませんけれども、それはどのような理由で維持されるのか、こういう点について若干お話をいたしたいと思います。  前に申しましたように、占領期の憲法が管理法令の一種だということであれば、ここで法の断絶をもう一度見ることになるわけであります。なぜならば、管理法令としての日本国憲法Aと占領終了後の日本国憲法Bは、名前は同じでありましても、国民が権力の究極の源であるという意味での主権であるとか、憲法の最高法規性といった最も基本的な点で異なっておるわけですから、ここにやはり法的な断絶を認めなければならないということになります。  講和条約の締結は、ある意味で日本国憲法Aという管理法令をこれから日本国としていかに扱うべきかを決定する時期の到来を本来意味したものであります。しかしながら、これに対しまして、日本政府は憲法を再検討する動きを全く示しませんでしたし、国民にも積極的な動きはなかったようであります。  では、通俗言われるように、日本国憲法の効力は、黙認という形式でこの主権の移動という断絶状態を乗り越えることができるのであろうか、あるいは、ほんの一部の人が言うように失効するんだという意見の方が正しいのであろうか、こういう問題が残ってくるわけでございます。この点についても若干お話をしたいということですね。  この問題は、実は、法の効力という一般的な問題にかかわるものでございます。 普通、近代法は統一的、組織的な法体系として組み立てられておりまして、上位法あるいは前法によって授権されて存在するとき、原則としてそれに従ってつくられた法の効力は疑われないというのが約束事になっております。しかし、上位法がなく、また前法との間に法的断絶が存在する場合もあるわけでございまして、日本国憲法が占領終了とともに置かれた立場はこれに相当するものだというふうに考えられているわけです。  この場合どうなるかということは、実は法哲学上の一大問題でございまして、なかなか難しい問題がございますが、私の考えているところを特にここでは申し述べたい。決して高橋の定説という最近はやりのことではございませんでして、私の、ほかの賛同する方がいないわけではございませんが、こういうふうな考え方もあるよということをここで申し述べたいと思うところでございます。  まず第一点は、初めての憲法といいますか、最初の憲法というのは、実は、いかなる制定の定式もどうも存在しないようでございます。もちろん、政治的には、制定目標たる憲法にとって適合的で説得的な手続であるべきである、国民主権ならば国民の意思をできるだけそこに流入させるようなシステムが必要であるということ、そういったことは確かに必要でございますが、実は定式そのものは存在しない。これは、フランス革命時の憲法制定とか、合衆国においての合衆国憲法の制定手続においても、ちょっと解せないような、法理的に説明できないような行動があって、しかし、それは結局効力ありと認められているというところからも明らかになろうかと思うわけです。  それから、その手続というものが定式がなく、それなりの合意を得られるものであればそれでいいというふうに考えられるとすれば、次に、では真に効力を生むものは何かという問題に入ります。  この効力を生むものは何かといいますと、最初の憲法の効力は結局それを支える意思と諸力の存否にかかわる、こういう考えがあるわけであります。これはかなり有力な先生方の主張されるところでございまして、そういうことを考えてみますと、むしろこの考え方は、法の効力というのは、制定手続とか内容などがある一定のものであれば効力が生ずるといったような法の属性、必然的属性として存在するものではなくて、それを支える意思、諸力といった受け手を含めた環境から生ずるものであるというふうに考えるわけであります。  それだけ言ったのでは余りはっきりしませんので、最近の法の効力論を参考にして、次のように敷衍できるのではないかというふうに私自身は考えております。  まず第一に、憲法を支える意思というのは、法の主体でありかつ受け手である人々に生ずる、ある法は効力があるという間主観的な意識。ですから憲法の場合は、法の主体であり受け手である人々がこの憲法は効力があるんだと、それが多くの人が同じ考えに至る、そういう状況でございます。  日本国憲法Bに関して言えば、そもそもこの間主観的な意識は、管理法令時代に既に十分に醸成されていたと考えられます。  すなわち、まず、広い意味での教育や情報など、これは操作も含めまして、そういうものを通じまして、日本国憲法を法として守るべきだという情動が広く国民に植えつけられておったということ。また、二番目として、法として信頼し得るだけの内容を含むと考えられるに至っていた。特に、占領の終了後における日本国憲法に対する国民のこのような効力ありとする観念を見出すことは、それほど難しくはないというふうに考えられるわけでありまして、時として法的確信とか定着という言葉であらわされるのがそれに近いというふうに考えております。  第二は、支える力という側面でございます。  国内的には、占領終了後はもちろんでございますが、占領下においてさえも、憲法違反行為に対する強制であるとか制裁であるとかが相当、人を納得せしめる程度に行われていたことは疑えません。例えば、この点について、アメリカ占領軍は非常に自制をしていたのではないか。少なくとも表面上は、彼らもある程度従っているというふうにどうも行動したようでございます。  マクロ的にいいますと、日本国憲法が例えば国内外の勢力によって動揺させられることもなかったし、あるいは、このような強制的な、もしくは制裁的な行動が憲法以下の法においてある程度なされており、憲法というのが全体として行われているという意識を植えつけたということは、疑うことはできないわけです。ただ一点、憲法九条問題について、いわば自衛隊問題というところにおいて疑念があるというふうな側面があったのかもしれませんけれども、それもまた十分乗り越えられたのだと私としては考えておるわけでございます。  実を言いますと、このような新憲法の効力というのは、支える意思と支える諸力の関数として存在して、それが憲法の効力を形成し、維持させるわけでございます。したがって、恐らく初めは非常に力の方で効力が支持され、だんだん支える意思の方の効果が高まることによって、力の側面が余り出てこなくても、十分日本国憲法の効力が認められるというふうなことに現在では至っているのではないかというわけであります。  実は、前述いたしました、近代法が上位法もしくは前法によって授権される場合には効力があると考えるのは、このような授権による場合には、支える意思というものの要素が非常に高く評価される結果、そのような場合には当然効力はあるという約束事が形成されたのではないかというふうに考えられておるわけでございます。  このように、今日では、日本国憲法の効力を本格的に疑うという失効説であるとか無効説といったような考えは、ほぼ姿を消しているというふうに私は言ってよろしいのではないかと思っております。  日本国憲法の諸説、どの説をとっても、簡単に言いますと管理法令時代にできたものでございますから、恐らくどのような説をとってみても、改正手続ないしは内容上の瑕疵と感じられる点があろうかと思います。それについては、これまで皆様方の間でさまざまな側面から御議論をなさってきたことだと思います。しかしながら、それらの諸点は恐らく、もし改正の議論が実行に移されるときに、いわばその憲法改正の根拠の一部として働くにすぎないものではなかろうかというふうに思っております。  例えば憲法九条という問題におきましても、それは一体だれがつくったかという問題もいろいろあるわけですけれども、一種の瑕疵的なものである、傷のようなものである、国際社会の、冷厳な社会の中で生きていくのは難しいというふうに考えられる方も相当程度におられることでございましょう。  そのような問題は恐らく憲法改正という議論の中でさらに展開されるべき問題であり、もしくはさまざまな押しつけの議論、押しつけの議論というのは今までも大分おやりになったようですけれども、恐らく、前に申しましたように、各法理的な観点が変われば、押しつけの内容もしくは押しつけの法的評価ということについても、相当程度に変わってくるものではないかというふうに私考えております。ただ単に情緒的な、感情的な形で、それは押しつけに感じられるとか感じられないとかいう問題として議論をするときには、しょせんこれは水かけ論に終わるような問題ではなかろうかと私は危惧しておるわけでございます。その点、もう少し法理的なことをしっかり確認した上で議論をされるということは、非常によいことではないかというふうに考えております。  このように、憲法はさまざまな形で理解され、制定過程の法理的な見方は実にさまざまなものでありまして、実を言いますと、最後に申しました私の問題提起というものは最近のものでございますし、必ずしも追随する人が多くいるというものでもございません、まことに私としては残念でございますが。しかし、それが、少なくともあるところの説明をつけるために、整合的な理解を得るためになしている努力であるということはぜひお認めを願って、よいところはよいとして、議論の参考にしていただきたいというふうに私は思っているところでございます。  結局、憲法の歴史を、特に制定史を勉強するということは、学者にとってはもちろん給料の一端ではございますけれども、より多く言えば、憲法の過去をそしゃくして、そこにあるさまざまな問題点を指摘し、新たな展望を開く、そういうふうな観点を持って考えているものでございますから、憲法調査会におかれても、そのような視点で新たな展開を開くという形で議論を深めていただければ幸いに存じます。  ありがとうございました。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。穂積良行君。 ○穂積委員 高橋先生、きょうは大変ありがとうございました。あらかじめお配りいただきました「日本国憲法制定史とその法理的視角」をきのうから拝見し、そしてきょうまたお話を伺ったところでございます。  実は、私は昭和十年二月生まれ、当年とって満六十五歳でございます。なぜこんなことから申しますかといえば、私ども、現在の憲法をどう評価し、この改正問題についてどう考えていくかということは、すぐれて、それぞれ私ども国民一人一人の人生における憲法とのかかわり、それを踏まえた見解ということになると思います。それぞれの、私も含めての国民の人生観、それから世界観、あるいは日本のあるいは世界の歴史観というものを踏まえて、これまでの憲法の歴史を、そしてこれからをどう展望するかということだろうと思いますので、あらかじめ申し上げた次第でございます。  先生、まず、いつお生まれで、終戦時、どんな状況におられたかをちょっと御説明ください。 ○高橋参考人 私は昭和二十二年二月二十六日でございまして、五十三歳になります。ですから、恐らくは私、まだ生まれていなかったのではなかろうかと思っております。  ただ、昭和二十二年というのは、まさしく憲法と同じ年でございますので、憲法を勉強し、こういうことに際会するのはまことに、少しでもお役に立てればありがたいなというふうな感慨はございます。 ○穂積委員 ありがとうございました。  それでは、憲法と私の人生のかかわりといいますか、これを簡単に申し述べます。  私は一九四一年、昭和十六年、国民学校一年生でございました。十二月、開戦のときの詔勅を今も覚えております。「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス」こういう宣戦の詔勅を国民学校一年生のときに覚えましたよ。それから国民学校五年生、後で小学校になりましたが、八月十五日、終戦の日は、校庭に集まって、あの玉音放送をお聞きしました。そして、昔は教育勅語がありまして、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」ということで始まる教育勅語も、終戦前、何回も学校で頭にたたき込まれた、そういう世代でございます。  ところが、終戦、これは実際は敗戦ですね、敗戦に伴って、雰囲気ががらりと変わりまして、そこで私は、これは遊び事ではなしに、痛切な体験を一つ申し上げたいと思うのです。  戦争に負けてから、実質は占領軍を進駐軍として、占領軍の進駐を受けてから、世の中、本当に大人、学校の雰囲気が変わりました。そのころ、小学校五年生の生徒の間、あるいは大人の間でこういうなぞなぞが言われたのです。失礼な話ですが、「マッカーサーとかけて何と解く」――どなたか覚えておられますか。「へそと解く。心は、チン(朕)の上」こういうようなことが昭和二十年、一九四五年の年末から翌年にかけて流布されておったのでございます。私は、これはある意味では、まさに権力の劇的な移動、主権者の交代、こういうことと実感を持って思い出すわけでございます。  そこで、私は、現憲法が押しつけかどうかということから始まって、累次、この調査会でも諸先生からいろいろお教えもいただいているのでございますが、これはまさに占領軍のもとで、占領管理下において、日本の支配層は、つべこべ言わずに占領政策に従えという雰囲気の中で、総司令部の憲法改正案を押しつけられ、これを受け入れざるを得なかった、当然の状況だというふうに私は思い出すのでございます。形式は明治憲法第七十三条の改正手続をとったとしても、これはそうした権力関係のもとで、占領下のもとで日本国民が受け入れざるを得なかった憲法草案であり、形式上は格好をつけて、明治憲法の改正手続を踏んで改正が行われたと私は思っておるのでございます。  しかし、先ほどの戦後の一変した空気の中でこの憲法を多くの国民が受け入れたか受け入れなかったかということですが、私は、これはあの敗戦の惨禍の後、日本国民はこれを受け入れる雰囲気が横溢していたと思い出すわけでございます。 戦争の放棄の規定もそうです、そして、基本的人権の保障は受け入れられました。 そうして今日に至っている。  そこで、先生のきょうのお話で、講和条約の成立と発効の際に、そうした占領管理下につくられた憲法を改めてどう評価するかということについて、その当時どうであったかといえば、一九五二年の講和時までの歴史の中で、日本国民の大半はこれで行っていいのじゃないかという雰囲気のもとで、まさに先生がおっしゃるような、最後のページにございます、これを受け入れるような雰囲気というか、国民の支える意思というものが多数を占めておった。その上で、日本国政府が主権を回復してみずから統治するという権力関係に円満に移行した中で、その権力関係のもとでこの憲法が国民に受け入れられ、また有効に、占領下の、講和条約発効時に断絶があったとしても、スムーズに引き継がれ今日に至った、こういうふうに私は思うわけでございます。  今まで申し上げたことについての先生の御所見といいますか、御感想をお伺いできればと存じます。 ○高橋参考人 先生のお話の中で、やはりそれは人生観の中で、もしくは世界観の中でそのようなお話をお伺いしておるわけでございまして、私のような、憲法を商売とするけれども、その当時の雰囲気なりそのような人生経験を必ずしも受けていなかった人間にとって、そのような感じがする、こうであったというふうにおっしゃっていただけるのは、私としても非常にありがたいというふうに思っております。ありがとうございます。 ○穂積委員 実は、私は自民党に所属する一国会議員でございます。自民党には、私の世代の上下、若い人は三十前後の国会議員も所属しておりますし、また八十を超えた大元老の諸先生も元気に国政に参加しておられます。さまざまなその人生経験、国家観等を踏まえて、この党は、ちょっと宣伝になりますが、自由民主主義を基本的な政治原理として受け入れて、その上で、日本国のこれまで、そしてこれから、有意義な、最も国民にとって妥当する政策を採択し、進めようという政党でございます。諸先生、いかがですか、そんなふうに私は自分の党を誇りに思っているのでございますが。  そういう中で、我が党にも、憲法押しつけ論からする、これを抜本的に初心に返って新たな憲法をつくろうという考えの方、これは自由党の皆さんにも多いかと存じますが、そういう方、あるいは、中どころと言ってはなんですが、まあまあこれまでこの日本社会に妥当してきた憲法の諸規定は、これは貴重なものとして、まさに保守本流として守っていくべきものは守る、しかし、いろいろと不都合な点が出てきているのは真剣に議論して改正の方向を、できれば与野党大方の見解をまとめて国民に提案すべきではないか、こういう方もかなり多い、こんな感じでございます。  そこで、その上でお聞きしたいのは、現在の憲法で、やはりどうにも、解釈改憲的ないろいろな手法、手練手管といいますか、言葉は悪いのですが、そういうことで現実への適応をしてきたけれども、それがこれ以上この条文、具体的な日本語で書かれたものと照らし合わせて、もつかもたないかということで議論されざるを得ないのは、やはり憲法第九条だと思います。  この憲法調査会でも勉強の中でだんだんと明らかになりましたのは、憲法九条をめぐっては、それはまず絶対的に戦力を放棄し、自衛のためにも軍隊、戦力を保持しないというつもりでこの条文がつくられたという考え方の人と、いや、実は総司令部の中にもあるいは日本政府内にも、何とか自衛のための、要するに日本国民の生存権にかかわる話として自衛権を認め、それに応ずる戦力、軍隊保持は可能だとする条文解釈の可能性を残すような、芦田改正とか、そうしたことがあったんだとか。ところが、吉田元総理は、そうした自衛のための戦力保持もこれは認めていないんだということを主張されておった、こういう経過がございますね。  そうしますと、憲法第九条の条文一つを見ても、日本語で数行書いた憲法の重大な問題にかかわる文章から、読める、読めないみたいなことが長年にわたってこれだけ議論されてきたというのは、これは成文法として余り褒められたものじゃない。 そこはきちっと、いずれにするかということを踏まえてはっきりとするというような、基本法たる憲法が意図すべきあるいはこうすべきだということについての方向に即して、それに適合する文章にしていくということは、この憲法第九条についても当然この憲法調査会でもいずれ議論しなければならないと思うわけでございます。  基本は、日本国をどう持っていくか、特に、自衛のための軍隊保持、あるいは国際協力の中での戦力の供与ということなどを含めて日本国家として今後どうするんだということをまず決めて、その合意の上に、それに適合する憲法の文章にしていくということは当然ではないかと私は思っております。  そのような条文が幾つかございます。もう一つ例を言いますと、憲法第八十九条でしたか、教育関係で、私学に対しては公金を出しちゃいかぬぞというふうに一見書かれているのに、解釈上、公的管理ということで、とにかく私学に対しても文部省の規制がある程度あれば公金を出してもいいんじゃないかという解釈合憲的に補助金を出しているという実態がありますね。そうしたことが幾つもあるわけであります。  そうしたことについて、日本国憲法を今後に向けて、本当に裏も表もない、こういうことで我が国の政治の基本はこうやっていくんだということを決めた上で、わかりやすく憲法にその点をはっきりさせていく、憲法を改正しようということについては先生はどんなふうな感触でおられますか。 ○高橋参考人 先ほど私の議論の中でちょっと申し上げましたように、結局、憲法の特に重要な効力というものは、皆さんがそれに対して法的確信を持っているかどうか、すなわち、この憲法に書かれていることが、事実としてそうであって、かつ、そのように我々は行動すれば十分なのだというふうな法的確信ということを効力の妥当根拠にしております。したがって、今御指摘のように、もし現実にはそれがとれないというふうなことになれば、場合によっては効力の力をそぐということになりまして、余り望ましいことではないということだろうと思います。  ただ、もちろんそのような方向をどちらに決めるかということのときには、事実と余りに違えば、事実の方に引っ張っていくということも一つありますけれども、逆に、今の憲法の方向に事実を何とかするのだということも考えられるわけでございますから、ぜひその点については、学問というよりは、政治がそれをお決めになるということが絶対必要でございます。そういう形でどうか議論を深めていただきたいというふうに思っております。 ○穂積委員 もう二、三点申しますと、例えば表現の自由という基本的人権の問題がございますね。これについては、実は最近でも、性的表現をめぐっての広告のあり方ということで、広告拒否を続けている大新聞もございます。自由とはいいながらも、自由勝手というか、そういうことや何やを含めまして、基本的人権の中で本当に他人の迷惑にも配慮せずに勝手に権利を主張するというようなことなどで、それをどう扱うべきかという問題が、表現の自由ということを一つ言いましたけれども、そのほかにも何点もあるかと思うんでございます。  そういうことなどについて、先生の最後のページの、結局憲法の効力はどうなんだということに関連して御説明のありました、まず国民の中で大方の合意が得られて、これを基本法に盛り込もうということについての一番大事な、そうしたコンセンサスを支える意思ということについて、言葉としては、ちょっとこれもう少しわかりやすい言葉で御説明いただければいいかと思うんですが、「間主観的な」という言葉がございますね。これらも含めて、私の言いました、現時点でもいろいろな意見がある問題についてコンセンサスをつけて、それでこれを、例えば基本的人権の規定についても、公共の福祉絡みの話や何やもそうなんですが、こうしようというときの、新しい憲法を確定しようというプロセスの中で「間主観的な」云々ということをどんなふうに取り込んでいったらいいかについて、これ、大変興味のある点でございますので、お伺いいたします。 ○高橋参考人 「法の主体でありかつ受手である人びとに生ずる、ある法は効力があるという間主観的な意識」、こういう難しいことを書いておりますが、実をいいますと、これはある法哲学の先生が書かれたことを引用したもので、非常に難しくなっておる次第でございますが、「間主観的な」、つまり、僕らが通常な普通の人間であれば同じような意見、感覚に達するであろうという、いわばおっしゃったコンセンサスというふうな言葉と非常に近いものだろうと私思っております。  ただ、どうも法哲学ではもう少し深い意味に使うようでございまして、我々が例えばある共同体なり社会の中に産みつけられるわけでございますね。そして、その中で一定のルールを、つまり、これまで支えられてきた歴史的な、もしくは、その社会、共同体のつくってきたルールの中で身を処す。そういうことによって生きて、もちろんそれだけでは足らないわけでして、そのような共同体などのルールに従いながらも、しかし、自分は共同体の一員ではありながらも個人であるというふうな、その個人としての側面を強く出す。昔は、そういうふうな意味では間主観性があり過ぎたといいますか、皆同じ結果になっちゃったけれども、今はある意味でその個性というのが非常に強く出るような社会になっております。  したがって、特にこのような価値が多様化された時代ということになりますと、その間主観性をつくり出すというのは簡単なことではなく、例えば国会の先生方がみんなそう思ったからといって国民がそうすぐ思うというほど、そういうふうな時代ではないと考えております。  だからこそ、国民の間に、議論をした上で、お互いに説得し合う中で一つの同じような意見を少しずつ醸成していく。そしてその結果として、この法は生きていく、これは改正すると、そのような形で形づくっているものと存じております。そして、そのようなものが醸成された中で、やはり自由といったようなものがそこから生み出される。  これは私のかなりの思い込みかもしれませんけれども、今の憲法の解釈は、ある意味で、いわば裸の個人と個人が平等に存在して、それの契約によってルールが形づくられるという、ある意味で、間主観性というよりは、個人がもしかしたら偶然に一致すればそれでコンセンサスなんだというふうな形でどうもいっているんじゃないか。  そういうふうな意味で、やはり我々の共同体の固有の歴史なり、あるいはその共同体は、実は世界じゅうの国々はすべてある意味で共同体でございますので、それらの間で一致できるようなものなり、そういったものが恐らく世界の中で多くの国という共同体が一致できるようなことについてかなり具体的な形になれば、国際連合のようなものも実際に働けるようになるだろうし、あるいは、その中で、いわば間主観的な力で、単なる表面上のコンセンサスだけでなく、世界秩序を守れるようにもきっとなろうかと思います。それは大きな話でございますが、我々日本の状況の中では、私としては、そのような間主観性というのは、かなり今のような多様化の時代においては、意識的にやはりコンセンサスづくりということを通してでなければ得られないものというふうに考えております。 ○穂積委員 いや、実はこの質問に絡んで共同体等のお話もされるかなと思って期待して質問したんです。  実は私どもは、自民党内の政策集団の一つで、今後のキーワードの一つは共生社会、共生思想ということで、今後の社会の万般にわたって考えていくべきじゃないかという主張をしておるグループでございまして、社会の中でのコンセンサスづくりというものについて、先ほどの表現の自由とそれについての自制といいますか、これの話にもう一回戻すんですけれども、権利に対して、これは、共同体の中で、共生ということである程度権利を制約すべきものが多々出てくると思うのですね、基本的人権絡みの話で。そういうことについて、間主観的意識ということで、コンセンサスをつけていくというプロセスこそが実は非常に難しい、しかし労をいとってはならない問題ではないか、こんなふうな気がしているのでございます。  そのことについて、少しわかりやすい例でお話ししようかと思って来たのです。道路交通法で、スピード違反を取り締まるという規定になっています。五十キロ制限のところで、五キロオーバーの五十五キロぐらいで流れているときは、交通取り締まりの警官も、その一台を捕まえてスピード違反ということはしないでもよかろうというようなことで、法の執行の現場である程度裁量をしてやっている。それが二十キロオーバーじゃ、ちょっと危ないぞ、これはネズミとりで捕まえろ、こういうようなことなど、法の運用についても、適宜現場での取り締まりに弾力性を持ってやっているということでありますね。  なぜこんなことを言ったかといいますと、ここは五十キロ制限の道路だ。ところが、見通しはいいし、直線だし、この一キロ間ぐらいは大体五十五キロあるいは六十何キロで走っている車が多いということで、どんどん流れているというような場合には、そこにおのずから共通の、まあこの辺まではいいじゃないかというコンセンサスがついてドライバーは走っている。こういうことがありますね。  これで大体類推いただけると思うのですが、基本的人権について、公共の福祉なりなんなりについての見地から制約を加えようという場合には、どの程度制約を加えるかということについておのずから、問題別に、ケース・バイ・ケースでこの辺の線引きをしようというような、その時点における合理的なめどをつけるという、法制化といいますか、立法や何やということが必要ではないか、こんな感じを私は持っておるのです。  そうしたことで、今後も、憲法論議に際して、微妙な、こうした権利と権利制限ということについてのコンセンサスづくりについては、ともに生きるこの社会で、この辺まで合意をし、これを決めたらきちっと守ろうじゃないか。余り現場での行政運用で恣意にわたらぬような形で、きちっとした社会にしていくのがいいのかなという法律観を持っておりますので、先生にこの点をお伺いしたいと思っておったのでございます。どうぞよろしく。 ○高橋参考人 非常に難しい問題でございますけれども、本来、表現の自由であれ、今の行動の自由、運転という自由であろうかと思いますが、そういうふうなものであれ、基本的に自由であるけれども公共の福祉によって制限される、いわばこういうふうな理屈の立て方ということになっておるわけでございます。  これは、公共の福祉というもので権利を制限することができるかどうかということについて、実は、学界では非常に考え方が四分五裂でございまして、例えば、公共の福祉というのは、基本的には経済的自由その他のものにしかかかっていかない。ほかのものは、基本的に、他者危害といいますか、他者を害しない程度で制限できるにすぎないという、そのような、非常に強く自由を広くとるというふうな方々もおられるようでございます。  ただ、言えることは、例えば、表現の自由のように憲法の中で非常に強く保障されているような場合は、原則として、はっきりした現実的な危険性といったようなもの、害悪というものを生ずるような場合に限って制約を加えていくような方向であるようです。それに対して、そうでないような、例えば経済的自由については、公共の福祉で制約されるといっても、かなり政策的な、裁量的な法律をつくれば、それでもやってよろしいのだ、そういうふうなもののようでございます。  恐らく交通取り締まりの規定というのはその中間ぐらいにあって、しかしそれが起こると害されるのは人間の生命でございますし、そのような交通ルールをどこまでやっていくかというのは、そういうふうな意味で、ちょっと厳しくせざるを得ないのかなというふうに私自身は考えております。 ○穂積委員 時間が参りましたので終わりますが、先生、現憲法の効力についての先生のお説は、私は多数説でいいんじゃないかと思ってお聞きしましたことを申し上げて、質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。 ○中山会長 土肥隆一君。 ○土肥委員 先生、きょうはありがとうございます。民主党の土肥隆一でございます。  私は、憲法調査会ができたことを評価いたします。なぜならば、それはまさに、今高橋先生がおっしゃいました間主観的な意識でやる憲法調査会、こういうふうに私は、間主観的というのは何だろうかと思っておりましたら、先ほど穂積先生が聞いてくださいましたので、まさに中山会長にも、ぜひとも間主観的体制で、意識でやっていただきたいなと。  と申しますのは、穂積先生も図らずもおっしゃったのですが、自分の人生を振り返って、戦後、新憲法、平和憲法と言われておるものにどっぷりというか、そのままつかって生きてきた私どもでございますし、そしてまた、これは五十年もたっておりますから、ちょうど中山会長は臓器移植法のときにも率先しておやりになった方でございまして、あれはまさに人生観をかけた法律でございました。そういう意味では、この憲法の問題も、まさにこれこそ、国民一人一人、そして国会議員のすべてが人生をかけた結論を出すべきだと思うのですね。  しかしながら、この調査会の勉強の報告というのは、余り一般国会議員に伝わっていないんじゃないか。ここの人たちは勉強しているけれども、ほかの議員は全くやっていない。したがって、何か時々、全議員にアンケートをするなり、あるいは最終的には、あなたの憲法観を聞きますよというふうな、そういう働きかけを常にしていただいて、やはり全国会議員が関心を持つような憲法調査会にしていただきたいなというふうに思います。  そうした中で、きょうは高橋先生、本当にありがとうございます。実は、先生の結論は「支える意思と諸力」ということでございまして、支える意思と諸力が存否するかどうか、これが憲法の効力の根拠であるというふうにおっしゃいました。私は、大変興味深く、また印象深く聞いたわけであります。  例えば、私ここに、「拝啓マッカーサー元帥様」という、戦後マッカーサー司令官が日本にやってきた直後に、五十万通の手紙がGHQマッカーサー元帥あてに、「東京都軍司令部マッカーサー閣下親覧」というような手紙が行っておりまして、この五十万人のマッカーサーへの手紙が、全部ではございませんけれども、こうやってまとめられているわけです。  これを見ておりますと、占領国が来た、そして自分たちは占領管理下に置かれたという、その日本国民が、大多数は大歓迎をもって、マッカーサー以下GHQの駐留を歓迎しているわけですね。編集者の解説によりますと、これは一時期の情動、一時期の情熱ではなくて、かなり経過的に続いたんだ。そして、五年、十年、二十年たつと、それは一定の定着をしてくるわけでございまして、その定着ということを私ども国会が無視しますと、国民にしっぺ返しを食うのではないかというふうに思います。  ですから、国会議員のそれぞれの憲法観というものも大切でありますけれども、一体国民はこの憲法をどう受けとめているかということを絶えず知る方法を持っておかないと、改正案は出したわ、ひっくり返るわというようなことになるかというふうに思うのであります。  しかし、その間主観的な意識というのは、法哲学的な非常に難しい定義なんですけれども、言うところはわかるのですが、それをどういうふうに把握したらいいのか。何か国勢調査あるいは世論調査みたいなことをするのか、その辺は先生はどうお考えなのでしょうか。 ○高橋参考人 そういうふうな意味では、いわばやや理屈倒れのところがあるわけでございますけれども、御指摘のとおりでございますが、ただ、我々は、日々の中で、まさしく潮のだんだん満ちていくように、やはりこの憲法というものについて、ある程度考え直さなきゃいかぬのではないか、それから、これを支えていかなきゃならぬのではないかということが、何かこの社会の中に感得できるようなところがあるのではなかろうかと思っておるわけです。それが一つ、例えばマッカーサー元帥に対する手紙の例でありますし、それから、現在において、例えば国旗・国歌法案その他についてのいろいろな論調であり、また、場合によってはインターネットその他で与えられる意見ではないでしょうか。  これまでは特に憲法というのは高く持ち上げられてはいたと思いますけれども、しかし、おっしゃるとおり、具体的にそれはどの程度支えられているのか、どの程度の賛同を持っているのか、どのような点を問題点として見ているかというのは、割と調べられてこなかったのではないでしょうか。そういうふうな意味で、例えば今日ではインターネットという非常に大きな強い武器もございますものですから、そういうふうな形で常に国民の動向をもう少しうまく把握できるような方法をやっていただければ、当方としても非常にありがたいというふうに思っている次第です。 ○土肥委員 今、専ら九条問題が俎上に上がっていると思いますけれども、御承知のように、やがて朝鮮戦争が怪しくなってきて、一九五〇年、昭和二十五年ですけれども、マッカーサーは突然、「相手側から仕掛けてきた攻撃にたいする自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない。」と、自衛的再軍備を示唆するような発言をするわけです。ところが、吉田首相は、アメリカの再軍備要求をかわすために、武装を禁じた平和憲法を盾として抵抗を試みるわけですね。片山、芦田両氏も、施政方針演説で、民族更生の一大宣言がこの憲法なんだ、こういうふうに言っているわけであります。  この九条というのは、いろいろと言い方はありますけれども、私は、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争にしても、あるいはコソボの紛争にいたしましても、あるいはコンゴの問題にいたしましても、全部これは政治的意図が絡んでいるわけですね。政治家は時に慢心を起こしまして、そして、武器を使ってその権力を保持しようとするのは政治家のさがでございまして、それは絶えずあるということを念頭に置きながら、では、九条というのはもうどうにもこうにもならないような、解釈の余地がないような状態になっているのかどうかということ、これは本調査会できっちりと議論をしていただきたいというふうに思うわけであります。  そもそも、憲法というのは細かいことまで一々決めているわけじゃございませんで、やはり九条で言われているのは、先ほど言いましたように、政治家への戒め、国家権力への戒めとしては十分この五十年間働いてきたというふうにも思うわけでございます。  そうした中で、この改正条項は九十六条にございますけれども、三分の二条項と国民投票、国民の過半数の賛成を得なきゃならないので、これが一つの大きな足かせにもなって、これまで憲法が改正されないできたということもあるいは言えるのじゃないか。  先生、三分の二とか、あるいは国民投票を課しているこの憲法についての御意見をお聞きしたいと思います。 ○高橋参考人 確かに、日本国憲法の改正条項というのは厳しい、類例のないほどというほどではないですけれどもかなり厳しくて、各議院の三分の二の賛成プラス国民投票というのはかなりきついだろうと思います。  ただ、本当のことを申しますと、本当にきついのは各議院の三分の二というところがきついのでございまして、そういうふうな意味では、私は、国民投票に付する部分については、もうそれで動かしようがない、少なくとも動かしようがないと思っていますので、その三分の二ということを皆様がどのようにお考えになるか。  コンセンサスといいますか、間主観的な意思は三分の二は要るものなのかどうか。逆に言えば、三分の一の方がとにかく反対すれば動かなくてよろしいのかという、これは恐らく経験則に基づいて決まることではないか。なぜならば、日本並みに難しいドイツの憲法はかなり改正されておりますので、その点、いわば皆様の考え方に基づいているところがございまして、観念に基づいているところがございまして、その経験則に基づいて、これは多過ぎるとか少な過ぎると言える問題でございまして、どうも、申しわけありませんが、学問的なことで云々ということには、難しい問題であることだけをお話をいたさせていただきます。 ○土肥委員 私は、やはり三分の二条項は置いておいた方がいい。これを克服できないような国会であるなら、これは先ほど先生もおっしゃった、多様化した国際情勢あるいは国民の意識の中で、憲法を新たに決めようというときは、少なくとも国会議員がこの国会で発議するわけでありますから、三分の二が、ただ数の問題ではなくて、そこまでまさに間主観的な意識というものを育てて、そして三分の二に達する。私は、これはあり得ると思うのですね。そこまで議論する覚悟をしなきゃならない。当然、国民投票をしなきゃならない、主権は国民にあるわけでございますから。  そうすると、まだこの国民投票の方法なりなんなりは決まっていないわけですね。 したがって、私は、本調査会で、いわばルールとして、三分の二をどうするのか、国民投票はどうやってやるのかというようなことも含めて、ぜひとも議論もしていただきたい。  つまり、私が申し上げたいのは、憲法をもう一度見直そうというときに、そのルールなり土俵をはっきりと決めて、その土俵において間主観的な意思合意を得られるような努力をするのが本調査会ではなかろうかというふうに思うわけでございます。  しかし、先生は、今の日本国憲法の中身というのは手続とか内容上の瑕疵だ、こうおっしゃるわけですね。この瑕疵で国会議員が納得するかどうか。九条も瑕疵というならば、それは相当な議論をして、その瑕疵を直していかなきゃならないということでございます。  しかし、第一章はどうなんでしょうか。この間主観的な意識を見ながら、第一章に瑕疵はないのかということ。そして、やはりこの調査会の最大の、最後に乗り越えなきゃならないのは第一章、第二章でありますから、その点の先生の御意見をお聞かせいただきたいと思います。 ○高橋参考人 まず、もし誤解がありましたら申しわけないのでございますが、瑕疵というのは、別にそれほど、法律家でございますのでつい法律用語を使ってしまったということでございまして、つまり、瑕疵と感じられる部分、感じられる方々がおられるというほどの意味でおとりいただければありがたいと思います。  ただ、先ほど申しましたように、手続につきましては、どの学説、考え方をとっても若干問題点が生じますし、それから、内容については、九条も含めて、実は九条について話をさせていただくのを避けていることにお気づきだろうと思います。これは特に、私、若干考えておることはあるのですけれども、今お話しするのは余りふさわしくないと思って、実はもっと十分にお考えの方が多いものですから、ここでは今のところ避けさせていただきたいと思った次第でございます。そのような理由でございます。  それから第一章ということでございますが、言えというふうに言われるんでしたら、実は、第一章というのは、天皇の権限に関してはちょっと問題がございます。むしろ、考え方、地位をどうするかといったような問題は、まさしくこれは大きな政治上の問題ですのでここではお話ししないとしても、実を言いますと、GHQがマッカーサー草案をつくったときに、各グループが、天皇なら天皇を書く、それから内閣なら内閣を書く、国会なら国会を書くというグループがつくりまして、そして各草案をいわゆる運営委員会に上げまして、そこで一回だけ本格的に議論しているんですね。  そのために、例えば、天皇と国会の関係、天皇と内閣の関係、簡単に言えば解散権問題でございますね。あれが実はどのようにでも解釈されるような状況が、つまり各条項の接続の悪さがございます。そういうふうなことは、もし天皇の中で法律解釈上に何が問題だといえば、そのような問題もやはり出てくるかというふうに思っております。     〔会長退席、鹿野会長代理着席〕 ○土肥委員 君が代論争のときに、君が代というのは天皇を含む日本国民という解釈だっただろうと思うのであります。そうすると、天皇は、例えば投票権を持たないというのは国民の義務を欠いているわけでございまして、あるいは納税をされないという、消費税はどこかで払わなきゃいけないのかと思いますけれども、納税の義務もないというようなことからいいますと、やはり第一章はここでしっかりと議論をしていただかなければまずいんじゃないかというふうに思います。  最後に、先ほど穂積委員も八十九条の話をなさいましたけれども、公的な税金を私立学校に拠出しない、してはならないと。これは学校教育だけでなくて、公の支配に属さない慈善、博愛という事業、これは福祉事業ですね。これは社会福祉法人をつくってそこにお金をおろしているわけでありまして、全く準国家的な機関になっているわけでありますけれども。  例えば学校、私学に関していえば、これは法文上出ておりますけれども、私学振興法、なぜ私学に金を出すかというところで、その子供の経済的な支援をするためだと書いてあるわけですから、私学振興法の関係からいって、私学の建設費や何やに出さないで子供に出しているわけですから、その子供が受けたお金を学校に出して、それで学校を建てるのはそれは構わないわけでありまして、そういう意味ではいいだろうと。  それから福祉に関していえば、これは介護保険が入りまして、今までは福祉は社会福祉事業法に基づいて社会福祉法人が一手に引き受けてきたものを、今度は介護、看護の技術を法人格さえあれば民間事業者に全部渡す、そういう時代になったわけでありまして、ここはもう、やはり八十九条というのは、その精神は、私学なりあるいは社会福祉事業、博愛とか慈善という事業は、やはり政治からあるいは行政からやや離れたところで積極的にやってください、国民の相互の生活の支援というものはそういうふうにしてやるんですよということからいえば、八十九条があっても構わないわけであります。  そういうことも考えながら、実はいつも国会議員はついでに八十九条を持ち出すわけでございまして、そうであるならば、私は、例えば十九条、二十条の信教の自由というところもよっぽど議論していただかないと、例えば、マッカーサー、GHQが市民的権利委員会で出したこの十九条、二十条の素案になった文書がございまして、「いかなる宗教団体も、宗教の見せかけだけの下で他者への敵意をかき立てたり、それを実践するか、公の秩序や倫理を強めるどころか弱めるならば、宗教団体として認められない」、こう書いてあるんですね。  これはオウム真理教の話もそうでありまして、やはりいろいろな条文で、そういう国民の生活に緊密な関係のあるところを憲法学者ももっと積極的に書いていただきまして、今後、高橋先生の御活躍を期待しながら、私の意見を終わりますが、ちょっと最後にその八十九条について。 ○高橋参考人 八十九条の、特に私学助成の部分については非常に難しゅうございまして、これは経緯がまだよくわかってはいないようでございますが、恐らくプエルトリコ準州に関する法律、従来はニューヨーク州憲法由来だと言ったんですけれども、どうもプエルトリコ・ジョーンズ法という法律に由来するものだったらしいんですね。それはやはりそのように、つまり、渡しっきりのお金にすると問題が起こるというふうなことが背景にあったようでございます。  ですから、そういうふうな意味で、完全に渡しっきりでなければ、ある程度目的がよいということで十分たえられるというのであればというふうな形で今緩和的に解釈しておる、そういうことでございますが、それをはっきり書くということもよろしいことではないかと思います。  それから信教の自由でございますが、これは、日本の場合には、信教の自由を憲法学者の非常に多くの人は非常に絶対的にとらえております。ですから、それが具体的危険というふうなことにならない限りはそれを制約するのは難しいという御意見のようでございますので、これだけちょっと最後にお話ししておきます。 ○土肥委員 どうもありがとうございました。終わります。 ○鹿野会長代理 石田勝之君。 ○石田(勝)委員 高橋先生、きょうは大変御苦労さまでございます。  先ほど来、先生の御意見を拝聴させていただきました。また、きょう質問するに当たりまして、事前にいただいた先生のレジュメ、それから先生の書かれた論文も拝見をさせていただきました。そういう中で、何点か御質問をさせていただきたいと思います。  高橋先生は論文の中で、「日本国憲法は一身にして二世を経たものである。」として、占領期と占領の解除以降を分けてその性格を考えるべきだとおっしゃっております。そして、占領の解除以降、すなわち、先ほど来お話が出ておりますように、講和条約による主権の回復とその後の支える意思と諸力によって日本国憲法は初めて正当化された、国家の最高法規になったと主張されている、そのように理解をしてよろしいんでしょうか。 ○高橋参考人 そのとおりで結構でございます。  ただ、それにつけ加えさせていただければ、日本国憲法の制定事情というものは、ですから、講和期以後に、そこから見てその正統性が評価されるということになるということだけ、つけ加えさせていただきます。 ○石田(勝)委員 講和期以降が正当化される、こういうお話でございました。  そして、先ほどもいろいろお話が出ておりますが、「支える意思と諸力」、私も先生から御説明を受けるまでちょっと意味がよくわからなかったわけでありますが、この「支える意思と諸力」という言葉は、国民の自由な意思あるいは選択といったものだろうというふうに先生のお話を聞かせていただいて、そういうふうに理解するのかなと思って聞かせていただいたわけであります。  そこで、先生は、日本国憲法の起源はポツダム宣言である、その中に盛り込まれた無条件降伏という概念は、従来の休戦から講和に至る終戦処理に新たに国家改造プログラムを組み込んだ新しい試みである、このようにおっしゃっておられるわけでありますが、そうであれば、その後の占領解除に至ったのはその国家改造プログラムが成功したからであり、占領解除で日本国憲法が先生のおっしゃる支える意思と諸力によったとしても、これはGHQの国家改造プログラムの成果にしかすぎないのではないか、国民の自由な意思や選択ではなかった、そういうふうに理解をしてしまうわけでありますが、その点、いかがでございますか。 ○高橋参考人 おっしゃった部分は、いわゆる日本国憲法Aと書いたものですね。 その部分については、まさしく占領軍の力、もしくは、いわば国家改造プログラムにのっとった政治、経済、文化に対する働きかけという形で効力が維持されたというふうに考えております。  その後、結局占領軍が日本より撤退した後は、まさしく日本人がどうするか、もちろん国際的な圧力はありましょうし、その他のことはございますけれども、日本人がどうするかという、そういう形で日本国憲法の効力が維持されるわけでございますから、決して日本人の意思が本当に――あれは占領管理期でつくられたものだから排除するんだと思えばそうなるわけでございまして、そういう例はいわば占領管理期につくられたオーストリア憲法が、これは実はナチスによってつくられたわけで、逆の方向ですけれども、そういうふうなのはけしからぬというわけで、占領が終わった途端にそれを失効宣言をして破棄しております。そういうことも日本はできないわけではないというふうな形で、日本国民の意思は生きている、働いているのだというふうに僕は考えております。  以上です。 ○石田(勝)委員 今の憲法そのものの存在する、先生のおっしゃる正統性について次にお聞きしたいと思うのですが、今の憲法そのものの存在の正統性には何ら問題がないとすると、それでは先生は今の日本国憲法を改正するについてはどうお考えなのか、今の憲法の正統性というところはどういう点にあるのか、そしてどういう状況であれば改正してよいのかどうか、その点をお聞かせいただきたいと思います。 ○高橋参考人 効力の問題と改正する問題は若干やはり分けて考えた方がよろしいのではないかと思っております。私はここでは、効力についてはもう疑いはないのではないか、そのとき問題にされたことがもしあるとすれば、それは将来あり得べき改正のときに問題にされればそれでよろしいということではないかというふうに書いております。  そして、いつ改正ということが問題になり得るかというと、御存じのとおりどんな法律も時代に合わなくなることはあります。それから、そもそもできたときに若干問題があったものももちろん効力があるわけでして、それがやはり外にあらわれて、みんながもう少し改正したらどうかなと論議を始め、さらに、それに対する実際的な行動を始めたときに、それはまさしくその時期が到来したのだというふうに、学者としては見ているということでございます。 ○石田(勝)委員 今先生がおっしゃったように、みんなが論議をしてそういう時期が来たときにこの改正について考えるべきだ、まさしく今その時期が来ている、そういうことで憲法調査会が設置された、先生のお話を聞くとそういうふうにとれるわけでありますが、例えば読売新聞のアンケート調査なんかでは、国民の過半数を占める五三%が憲法改正を要望、改正すべきだという考えが過半数を占めている、そういう状況の中で、今先生がおっしゃったみんなが論議を始める時期だということも含めて、国民の半数以上が改正を考えるべきだというふうに言っておりますが、この点についてはいかがでしょうか。 ○高橋参考人 おっしゃるとおりでして、もちろん現在のようなサンプル数の問題もございますでしょうけれども、少なくとも論議をすべきではないか。必ずしも十分な論議がない部分が、瑕疵と言って先ほど怒られましたけれども、あるのではないかとか、あるいは、事情が非常に大きく変わってきている。  例えば、九条問題は僕は余りしゃべりたくはないわけですが、背景としては、結局二十世紀の後半というのは簡単に言えば非常に平和な時代であって、私に言わせれば二十世紀後半というのは、これはまさしく信じられないほど平和な時代であった。それが、そのたがが外れまして、二十一世紀は、大きな戦争が起こるかどうか知りませんけれども、非常にある種危機的な状況があり得るような状況に少し入っているのじゃないかというふうな、恐らくそれは、アンケートに答えられている、例えば九条に関するアンケートに答えられている方も、もしかしたらそういう意識があるのではないか。そのときに当たって、この九条の本来の意味を再確認し、それで十分やっていけるかどうかということを論議をする、これはやはり必要な時期に来たということについては、恐らく国民の方々に余り異論はないのではないかというふうに考えております。 ○石田(勝)委員 それでは違う角度から御意見を承りたいと思います。  先生はその論文の中で、終戦後の日本政府の最大の関心事は天皇制の護持にあった、マッカーサーもそれには理解を示していた、こう述べられておるわけであります。そこで、昭和二十一年の二月三日に、GHQの民政局に憲法草案の起草を命じたときも、みずからマッカーサー三原則を示して、象徴としての天皇制の存続を認める一方、天皇制に対する連合国の危惧を取り除くため、戦争の絶対的放棄を取り入れたのだと主張されておるわけであります。  そうすると、日本国憲法第九条の戦争放棄条項は、その前文に示された恒久平和の理念に基づいて条文化されたというよりも、天皇制と交換条件として先に条文化され、その理由づけとして前文が考えられた、こういうふうに解釈してもいいのかというふうに、先生の論文からあれするとそういう解釈になるんですが、その点はいかがなんでしょうか。 ○高橋参考人 申しわけございません。その点に関して、今ちょっと手元で調べる時間がないのでございますが、それはちょっとうがち過ぎ、そういうふうに読まれるかもしれませんけれども、ちょっとうがち過ぎではないかと思います。  その二つが、片一方は片一方を補完するようというよりは、やはり日本にとっての最大関心事、それからそのときの連合国の最大関心事、それを両方マッカーサーが取り入れてノートの項目としてつくり出したというふうに、並列的に考えていただければありがたいというふうに思います。  もちろん、マッカーサーは、彼の腹の中はよくわかりませんし、いろいろ言われておりますけれども、私は一点つけ加えるとすれば、どうも恒久平和ということを言うことによって、いろいろありましょうけれども、自分の配下のアメリカ占領軍を守る、そういうふうな意識だってあったのだろうと。単なる高い理想でやっただけではないのではないかと若干思ってはおります。そういうことは書いておりませんけれども、そういう推測もいたしております。 ○石田(勝)委員 時間があれですから最後の質問に入りますが、並列的に考えるべきだ、今そういうふうにおっしゃったので、そういうふうに私どもも考えさせていただきたいと思いますが、「占領期の国民と領土は三層の支配関係の下にあった。」こうおっしゃっております。  すなわち、第一は連合国による支配、第二はGHQによる支配、第三は日本政府による支配である。そして、この中で実質的な主権者はGHQであった。GHQの命令は明治憲法に抵触してもその有効性は否定されていない。明治憲法を含むすべての法律は管理法令としてGHQ指令に対する下位法令となったと先生は主張されているわけであります。  そうしますと、国家の最高法規としての本当の意味の憲法は占領中は存在しなかったということになるわけであって、昭和二十六年の講和条約締結まではいわば無憲法状態であったと考えてよろしいのか。先ほど来お話にありましたように、日本国憲法A、Bとか、いろいろ先生がおっしゃっておる説も含めて、お聞かせをいただければと思います。 ○高橋参考人 憲法というのは、実は、御存じかもしれませんけれども、実質的意味の憲法、こういう考え方。つまり国の基本法、普通は最高法でございますが、最高法規と言われる、そういうふうな憲法典というものがなくても、憲法のいわばルール集がなくても、実際の権力関係をたどってみると、ある一定の道筋をたどって権力が集中され、逆にそこから出た命令が下の方に伝わるという、そしてその一部が憲法典という形で文書に書かれる。そして明治憲法Bと言ったのは、実はその憲法よりもさかのぼるものがあるのだけれども、その部分は憲法典に書かれていない、そういうふうな意味でそれを下位法規というふうに言ったわけでございまして、実質的意味の憲法と言うときには、その書かれていない部分を含めて、国の本当のいわばあるべき姿を憲法という形で言うこともある、その両方がちょっと混同を、もしかしたら私の書いた論文の中にも混同している部分もあるかもしれませんので、どうぞもう一回お調べください。 ○石田(勝)委員 ありがとうございました。 ○鹿野会長代理 二見君。 ○二見委員 自由党の二見伸明です。  制定過程につきまして、改正説、無効説、八月革命説、大変興味深く拝聴いたしました。結論を言うとよくわからぬなということであります。  私の立場はどちらかというと八月革命説に近いのです。理屈だけを言いますと、理屈で考えると無効説なんですけれども、五十数年間日本に憲法として定着し、実効があるわけですから、それを無効だというのはちょっと粗っぽいな。ですから、理屈の上からいくと無効説だけれども、現実的にいけば八月革命説に近いなと私は自分流に思っております。  先生の君主主権、それからマッカーサー、連合国主権ですか、それから国民主権、これは一種の八月革命説の修正という考え方なのかなと思いますが、どうでしょうか。 ○高橋参考人 そういうふうに見ていただいても結構です。どうしてかといえば、つまり現行憲法が、実は、これまでの各説ではうまくそれが効力があることを理屈として説明できていない、しかし現実にはある、そういうふうな側面がございます。 そして、日本のような憲法も、ほかの国でもちゃんと効力がある。では、なぜなのだろうか。  しかし、無限界説でも八月革命説でもちょっと説明がつきにくいところがある。それを修正して、学問的にも通るようなものに、よりよいものにしたい、そういうふうな意図で書かれているという点では、先生おっしゃったとおり修正説というふうに見ていただいても結構なんですけれども、ただ、ちょっとその中で申しましたように、これまでの学界の基本的姿勢は、ある憲法が効力があるためには、必ず前から権力をいただくといいますか、授権されなければいけないというふうな非常に確固とした理念がございましたので、その部分を私の論文では要らないのじゃないかと言ったところが非常に今までの考え方と違うということでございます。 ○二見委員 私は実は憲法改正論者なんです。現行憲法の持つ、いわゆる三原理といいますか、基本的人権、それから国民主権、恒久平和主義、これを私はさらに深め、発展させた立場での憲法改正論者であります。もしこの三原理の一つでも否定するようなことがあれば、それは憲法改悪でありまして、それは私のとる立場ではありません。  ただ、制定過程で議論しますと、そういうふうにすばらしい三原理なのだけれども、引っかかるのは、これは感情的、情緒的に引っかかるのです。  「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」、四五年九月二十二日、「第一部 究極ノ目的 日本国ニ関スル米国ノ究極ノ目的ニシテ初期ニ於ケル政策ガ従フベキモノ左ノ如シ 「イ」 日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」、勝った国ですから、日本がまた強くなってやられてはかなわぬと思うから、日本は負けているのですから、それはわかる。制定の過程でこういう意図があったということは当然わかるし、当たり前だけれども、ここら辺は日本としても払拭しなければならぬなという感じはしておりますけれども、どうでしょうか。 ○高橋参考人 やはりおっしゃるとおり、憲法というのは、本来的には自分たちの意思が、その基本的な考え方が憲法の中にあふれていなければいけないものであろうと存じます。ですが、残念ながら、その当時の情勢の中で、そういうことについて必ずしも万全を期し得なかった。  ただ、それはまことに残念と言えば残念ですけれども、日本はそのような、いわば新しい憲法草案をある意味で出せなかったという側面もやはりあるわけでございまして、私は、憲法改正の論議も含めて、ルサンチマンでやってはいけないと思いますけれども、しかし、そういうふうなことを反省して、今に合う、日本国民の最も心情に合うような方向に、例えば憲法を改正するように論議をすること自体は、特にしなければならないということについては全く賛成いたしております。 ○二見委員 「支える意思と諸力」の中で、先生は、「第二は、支える力の側面である。」というところで、「また、マクロ的にいって、日本国憲法が国内外の勢力によって動揺させられることもなかった。」私は、これは表面的に見ればそうです。  なぜこうだったかと言うと、例えば一番大事な問題は自衛権の問題だと思います。それについて、政府も、最高裁も、真っ正面から取り組んでこなかった。解釈改憲、憲法の解釈というやり方でやってきた。それもちょっとの開きならいいけれども、憲法九条ができたときの背景は、日本は一切軍備を持たないというんです。だれでもそう思いますね。それが今では百八十度変わっている。それをあくまでも憲法の解釈、解釈、解釈でやろうとした。解釈改憲という手法でやったから、表面的には動揺させられることもなかったのだと思います。  その解釈改憲という手法は、先生はどう思いますか。 ○高橋参考人 おっしゃるとおりでして、先ほどの私の心覚えには憲法九条と書いてあるのですが、やはりおっしゃるとおり、少なくとも憲法典として、書いてあることとして動揺を受けなかった。本来ならば可能性はあったわけでございますけれども、それを日本人の知恵と申しますか、そこいらは難しい問題でございますけれども、すり抜けるという、そういう形で事なきを得たというふうに私自身は考えております。  ただし、そのような非常時において、非常の事態に対応するようなことを、特に急速にそのような重要な点に手をつけなければいけないということが本当にいいのかどうかというのは、これまた別であろうというふうに私自身は思っております。  やはりそういうふうな非常事態というふうなことを考えるときには、平和なときに、もっと前に十分想を練って考えていくべきものでありまして、むしろあのときに手をつけて、拙速によって諸外国の不信を買ったり、現実に国内的な動乱を誘うようなことに、もしそういうことが本当に起これば、占領はもっと長引いたのじゃないかと私自身は実は思っておるわけですけれども、そういうふうな形で実はその部分について述べさせていただいたわけでございます。 ○二見委員 恒久平和主義という概念ですけれども、憲法制定当時に描いた恒久平和主義と今とはかなり隔たりがあると思います。このギャップ、この隔たりを埋めるのは、やはり憲法改正以外にはないと私は思っています。  例えば、護憲論の立場に立つ方は、純粋の護憲論者であるならば、自衛隊は即時解散すべきであり、安保条約は直ちに廃棄すべきだ。また、九条には絶対手をつけないというお方も、同じく、自衛隊は直ちに解散をする、安保条約は直ちに廃棄するというのが、純粋な私は行き方だと思うのです。それを、九条を絶対厳守するといいながら現在の状況を是認するということは、これは、政治的な判断としてはやむを得ないとしても、決して好ましいことではないし、そういうようなことが結局諸外国に不信感を抱かせるのではないかと私は思っておりますけれども、そういう点について、先生のお考えはいかがでしょうか。 ○高橋参考人 その点になりますと、基本的に政治的な全体の構想としてどう考えるかということだろうと思いますけれども、ただ、憲法学の立場としてちょっと言えることは、ここは、九条は、平和主義というふうに言っておりますけれども、その前に、その平和を求める理由が書いてあるわけですね。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和」という、そのような目的を持った平和主義であるということであるとすれば、もしかしたらそれに相応するような解釈があり得るということも、もちろん考え得ると思います。  ただし、それは芦田修正と同じように、ある意味でそれがどう理解されるのかというのは非常に難しい、恐らく政治的な最大のイシューであろう。それについて憲法学が言えることは、そういう可能性が全くないわけではないよぐらいしか、恐らく今のところの学説は言えないのじゃないかというふうに思っております。 ○二見委員 私は、二度と侵略戦争はしてはならないということは、もう当たり前だと思います。したがいまして、九条の一項というのは、私は大変大事な条文だと思っております。しかし、自衛隊というものを日陰者に扱っておくことがいいのかどうか。国連のいろいろな平和活動に日本が参加をすることにストップをかけるような今の条文でいいのかどうかということになると、二項については、私は見直してもいいのではないかな。それは、恒久平和主義に相反するものじゃなくて、むしろ積極的な平和主義の立場だというふうに私は考えておりますけれども、お差し支えなければ、先生のお考えも承りたいと思います。 ○高橋参考人 ちょっと申しわけありませんけれども、言いましたように、そこまで憲法学として踏み込んで、こちらですよというふうに、残念ながらそこまで私は考えが熟しておりませんというのが本当のところでございます。  確かにこの平和の、例えば、私はつまらない本を書きまして、その中で、日本の憲法というのは、憲法の九条はある意味で、国際の平和にいわば積極的に参加するというふうな、もしかしてその平和の形成にも努力をするような感じがあるのですね。  これはある意味で、いわば非常に薄められた形の正戦論、やはり正しい戦いがあるのかなというふうな感じが実はするのですね。ただ、それが、そのような感じはするのですけれども、いわば方法、手段というものについて制約が加えられている。それはやはり憲法の出自により、あのような状況の中でつくられたものであるから、それを我々がもし解除し方法を少し充実させようというふうなときには、まさしくこれは間主観的な意思を大いに議論した上でつくってからにしていただかなければ、非常に困るのじゃないか。そこまで進めるかどうか、ちょっとそれは政治の問題ではなかろうかと思っております。 ○二見委員 最後に、制定過程の議論、私もこれは大事だと思います。ただ、例えば天皇について、マッカーサーの文書では「エンペラー イズ アット ザ ヘッド オブザ ステート」となっているのですね。それが、憲法では「象徴」というふうになっている。  実は、私は、ちょうど中学へ入ったときに憲法が施行された。社会科の先生が説明に窮している。困っている。わからない。天皇は象徴ですと言われたって、わからない。説明する先生もわからない。説明を受ける方も全くわからない。今になりますと、五十年もたちますと、大体皮膚感覚的に、ああこうだなと思うけれども、これは説明しにくいですね。「エンペラー イズ アット ザ ヘッド オブ ザ ステート」というのが、どうしてこういう「象徴」ということになったのかというようないきさつも、実は我々は知りたいわけです。  ですから、会長にお願いですけれども、各論に踏み込んだ制定過程のいろいろな議論も、ぜひとも、ここでいろいろな参考人の方々からお聞きをしたいと思います。 一般論だけではなくて、各論にわたったところまで踏み込んだ制定過程のいきさつをお願いしたいと思いますので、お取り計らいをお願いしたいと思います。 ○鹿野会長代理 幹事会でいろいろとまた協議をしてまいりたいと思います。 ○二見委員 幹事会で御協議の上、お取り計らいをお願いします。 ○鹿野会長代理 佐々木君。 ○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。きょうは、どうも貴重な御意見をありがとうございます。  参考人は、制定過程論を論じて、結論的な部分で制定過程とかかわって、日本国憲法が無効であるとか失効しているとかいったような日本国憲法の効力を本格的に疑う見解は、今日の日本ではほぼ姿を消しているというふうに断ぜられたわけであります。学界などでは確かにそのとおりだろうと私も思うのですが、しかし、政界といいますか、政治家の中では今も、現役の政治家の中でも、論文などで、日本国憲法は無効だ、明治憲法に戻れというような主張が堂々と出てくるという状況が、現実にはまだあるわけですね。  そして、参考人の書かれた著書の中で、無効論というようなものは現実乖離性とイデオロギー性が批判をされているというふうにも述べておられるのですけれども、そういう、学界ではもう消えてしまっているような議論が、政治の世界で今あらわれてきている。繰り返しあらわれる。  私自身、だからこそ、この制定過程をこの調査会で調査するということがまた大事なテーマになるというふうに思っているのですけれども、その辺の問題について、どんなふうにお考えになっているでしょうか。 ○高橋参考人 今おっしゃいましたように、あの部分につきましては、学界の事情を知識として書いたものでございまして、政界の中ではそういうことが時として本として出ていることも承知いたしております。  ただ、そういうことは、ある意味で、波がだんだん引くように、やはり時々出ては、それが少しずつタイドアウトしていくようなものではないか。やはりそういうことがないと、本当に静かにはならないのではないか。それが力を集めるようになったときは、やはりまた別の考え方をしなければいかぬのかなということになろうかと思います。 ○佐々木(陸)委員 きょう参考人がお述べになった制定過程についての法理的な説明といいますか、これはやはり、一番の根本になっているのは、サンフランシスコの講和条約発効後の日本国民が、言ってみれば主体的に憲法などについても選択できるようになった段階で、国民の中に今の日本国憲法が定着をしているといいますか、コンセンサスになっている、そこを一番の出発点にされた上で、そこから振り返ってみて、制定過程をこういうふうに整理すれば矛盾がなく説明がつくんではないかということで展開をされたというふうに受け取ったんですが、そんなことでよろしいんでしょうか。 ○高橋参考人 私の思考過程はそのとおりでございます。しかし、お互いをなぜうまく説明ができないか、今までの説明ではどうしてうまくいかないのかという、思考はそうでございますが、しかし、それを目的として何が何でもそうしようとしてつくった本ではございません。それは学問的な廉直感は私でもまだ残っておりまして、やはりある程度説明がつくし、学説的、それから理論的な性格をもちゃんと踏まえた説明としてできるという形で長い間考えてきて、大体それでいけるんじゃないかという形で本の一部として世に出したものでございまして、決してためにする議論ということではございませんので、それをよろしくお願いいたします。 ○佐々木(陸)委員 その点はちょっと言い足りませんでした。よくわかっているつもりです。ただ、今の憲法が定着しているという事実が非常に重いものがあるということは、やはりお認めになっていらっしゃるんじゃないかと思うんです。  先ほど自民党の委員も自己紹介みたいなことをされましたけれども、私も、名前から推察されますように戦争中の生まれでありまして、一九四四年、昭和十九年の一月の生まれですね。しかし間もなく戦争が終わって、物心つくころはもう日本国憲法と一緒に育ってきた。あの講和のころが小学校の低学年だったと思いますけれども、そういう育ち方をしてまいりました。  そして、先ほどの委員の発言では、中学校で憲法を教わるときに違和感があったという話があったんですが、私は全く逆でありまして、だれから教えられたわけでもなかったとは思いますけれども、あの憲法のいろいろな文章を読んでみて、高い理想がうたわれていてすばらしい内容だということを、小学校の高学年か中学校になってからだと思いますけれども、そんなふうに受けとめて、ある意味では法的な確信を国民の間に築いてくる、コンセンサスを築いてくる、そういう一過程で私自身の育ったところもあったのかなということを考えるわけなんです。  この憲法の効力とか有効性とか、あるいは妥当性とかいうものを参考人がおっしゃる場合に、難しいさっきの言葉なんかもありますけれども、私自身は、憲法に盛られている内容の正当性というのか、世界的な視野で見た正当性というのか、合理性というのか、そういうものもその妥当性を支える大事な要素になっているんじゃないかと。  つまり、振り返ってみれば、あの憲法は大変正常でない状況のもとで正常でない形でつくられたことは確かに事実ですけれども、それがそこまで妥当性を持ち、効力を持ってずっと維持されてくる背景には、やはりその内容の正統性、合理性というようなものもあったのではないかということを私自身は自分の確信として思うんですけれども、参考人はその辺の考え方についてはどんなふうでしょうか。お聞きしたいと思います。     〔鹿野会長代理退席、会長着席〕 ○高橋参考人 レジュメの中でも簡単に、日本国憲法が法として信頼し得るだけの内容を含むというふうに考えるという情動がきちっと起こっていたということ、そういうふうに考えられていたということが妥当性の一つの要素であるというふうに実は考えております。実際、日本国憲法を全体として眺めてみますと、その当時の各国の憲法とも比較してみますと、実は、その当時としては世界の流れに即した原則がかなり多く盛り込まれていた、むしろ先取りをしたものがあった、そういうふうな側面がございます。  ただ、現在問題になっていますのは、それが五十年過ぎて、かつ、急いでつくったものですから、やはり先ほども言いましたようにいろいろ問題点がございますので、これから新しくどうしていくかという問題、そういうところから考えるということでございまして、おっしゃるとおり、どのように制定過程がよい憲法であろうと、やはり国民の内容上の信頼を得られないような憲法は長く続くはずはないですし、あってはならないだろうと思っております。 ○佐々木(陸)委員 今の憲法がつくられてから年月を経て、今の日本との現実の関係でこれからどうしていくかという問題は、これは当然一つの大きな問題として存在すると思うんですが、この制定過程論にかかわって言うならば、今参考人がおっしゃったように、世界の流れをちゃんと、場合によっては先取りするような中身も含まれていて、非常に合理的な内容、積極的な意味を持つ、中身を持つ憲法であったからこそまた国民的なコンセンサスも強まって、講和発効後も直そうというようなことに、当時の政府も提案をしなかったし、定着をしてきたというふうに私は受けとめておきたいと思うんです。  しかし、制定過程論ということになりますと、さっきの無効論や失効論とも関連するんですけれども、押しつけ論というのが常に出てくるわけであります。  そして、その点でも参考人も本の中でも述べられていて、私ちょっと読ませていただいたんですけれども、ポツダム宣言を受諾した当時の日本の政府、そしてポツダム宣言の内容からしても、当然にあったかどうかは別としても、憲法を変える必要があったんではないか。そしてまた、GHQからも憲法を考えろと言われていたけれども、しかし、当時の日本の政府にはそういうものを受けとめて、世界の流れに沿って、場合によっては先取りするようなものをつくっていくような能力も意思もなかった。しかし、当時日本を全体として見れば、民間の中からでも必ずしもその政府の水準には拘束されない内容のものも出てきていたと思うんですけれども、少なくとも、当時の政府というんですか、天皇とそのもとでの政府にとっては、確かに参考人もおっしゃるように青天のへきれきというような連合国側のマッカーサーの憲法草案の提示に対しての受けとめがあった。  その勢力が押しつけだと感じるのは、ある意味では当然だっただろうと私は思うんですけれども、しかし、国民的なレベルでいいますと、参考人が講和発効前から国民の中に定着していたということも言われておりますように、国民は全体としてはそういう受けとめ方をしなかったからこそ定着をしてきたということが言えるんじゃないかと私は思うんです。  その意味では、この押しつけというのは、もちろんいろいろな意味がありますから、当時の政府が押しつけられたということは日本に押しつけられたということになる、それはそういう論理もありますけれども、しかし、意識として押しつけられたというレベルでいいますと、やはりそれは何よりも、当時の日本の政治の支配層といいますか、そういう勢力が押しつけられたと感じたということに結局はなるんじゃないかと思うんですが、その辺の経過などはいかがでしょうか。 ○高橋参考人 まず第一点ですけれども、ポツダム宣言その他から憲法を改正しなければならないというふうに結論を引き出せるか、こういう問題は実は昔からございまして、実を言いますと、ポツダム宣言を解釈した当時の美濃部先生やら宮沢先生といったような日本を主導される先生方は、これは明治憲法の運用という形でカバーできる、例えば民主主義の復活強化というのは、復活、もともとあったのだから、それを強化するのだからと。  それからもう一つは、十二項なのですが、日本国民の自由に表明せる意思、これはつまり日本国民が自由にやれることである、どう料理するかというのは日本国民に任せてくれる言葉だというふうに実は考えたようでございます。  それから人権などについても、明治憲法の人権は法律留保といって、一応保障するけれども法律であったら制限できますよというものだったのですね。その法律留保型というのは当時のいわば通常の人権保障方式なのでございますね、それをとっていないのはアメリカとかスイスぐらいだったものですから。日本側はそのようなことを考えて、実は明治憲法を、少なくともポツダム宣言などにおいては必ずしも改正しなければならないものではないのではないかという結論を引き出しております。これはある意味で、ただこれだけを見せられたときにはそうなる可能性はあります。  ただ、アメリカ的な意味で、アメリカの考え方、スタイルで民主主義とは何か、人権とは何かといったようなことに、アメリカ人の考え方に立ってみればもう改正は必然的と。ここにつまり行き違いがあったということでございます。  本来ならば、行き違いがあるのですから、アメリカが日本にそうだよと教えてくれなければいけない。ところが、御存じかもしれませんけれども、まずマッカーサーの示唆によっていわば近衛草案がつくられます。佐々木惣一先生がつくりましたが、あのときには、そのときのGHQの顧問であったアチソンが、こうですよ、この中身はこうしなければだめですよと教えているのですね。ところがあの草案がポシャりまして、新たに松本委員会が草案を一からつくり直す。しかもそのとき松本先生は、実は、日本国民はこれを自由にできるはずだから、アメリカ軍、占領軍と交渉を持たないというプリンシプルを立ててしまったのですね。したがって、一体何を意味するかについて勝手に解釈をして始めてしまった。  そういうことですから、アメリカ軍が、もしくはアメリカがどういうことを考えているかということを、情報が入らないままにつくってしまったというのが実情のようでございます。  そして、それについて日本国民はどうだったかと聞かれますと、これについては申しわけありませんが、全くわかりません。日本国民の通常の階層の方々がどうであったかについては、憲法よりも飯だという言葉に象徴されるようなことではなかったか。こういう状況であったようでございます。 ○佐々木(陸)委員 終わります。ありがとうございました。 ○中山会長 保坂展人君。 ○保坂委員 長時間どうもありがとうございます。社会民主党の保坂展人です。  私は、午前中も申し上げたのですが、一九五五年の生まれでありまして、今お話のあった日本国憲法Aと日本国憲法Bの、ちょうどそのころに生まれたという世代。 私自身は、大変多くの価値をこの憲法は日本社会に生んできたし、今もなお生み続けているというふうな立場から質問をしたいと思うのです。  お話の一番最後のところで、「支える意思と諸力」というお話をされました。その中で、結局のところ、日本国憲法が国内外の勢力によって動揺させられることはなかった、こう結論づけておられますね。これは現在はどういう認識でいらっしゃるのか、現在はそうじゃないというのであれば、いつごろ変わったのか、そのあたりの認識を率直に伺いたいのです。 ○高橋参考人 その点については、先ほどちょっと申しましたけれども、国際情勢が非常に緊迫する場合には、それが憲法全体とは言いませんけれども憲法の一部について、例えば九条について動揺が起こることはあり得るわけです。そして、それについて、やや糊塗的なやり方ではございますが、解釈改憲という形で乗り切ってきた。しかしそれが現代の、さらに冷戦が終わった状態の中で、たがが外れた中でどうなっていくのかということを我々は今突きつけられておる。  それから、国際社会の中で日本が平和を享受しながらお金だけであるというふうな、これがいいかどうかわかりませんけれども、そういう批判も突きつけられておる。そういう国際情勢の中で考えていかなければならないこともあるかな、そういうふうな形で議論がなされていくのではなかろうか。  ただ、それがゆえに恐らく、日本国民がこの条項はもう効力がないよなどということは決して言わないと私は思っております。  以上でございます。 ○保坂委員 今さまざまな、警察も、あるいは防衛庁でも不祥事が続出していますね、この四年間の中でもあらゆる役所でそういうことが行われている。そういうところをたどっていくと、どうも日本国憲法という上着あるいは身につけているもの以外に、やはり体の中に、特に官僚組織の体の中に、明治憲法が生きているんじゃないか、ここがやはり一番問題なのだろうというふうに私は感じております。先生がお書きになったものの中で、  伝統的な運用は、明治憲法的な運営に執着する 態度としても表れる。たとえば、議院規則と国会法の関係、内閣総理大臣の権能、政府の法律 案提出権、予算の形式、予備費、地方自治の扱いなどといった点にみてとることができる。  いずれも明治憲法以来の枠組みのなかで運用され、英米との比較憲法的観点や運営の合理性に対する学界からの批判があるにもかかわらず、牢固として従来の運営の様式を維持してきた。  こういうふうに書かれていらっしゃいますが、このあたりをもう少しお話しいただきたいと思います。 ○高橋参考人 どこの国でもそういう、現代の憲法枠組みというもの、いわばこれは教育的な側面でございますので、どうしても、新しい着物を着てもやや古い内容に基づいて、やはりある程度それに従って解釈をしていくというのはどこにでもあることではないかというふうには思っております。  ただ、日本国憲法の場合には、国家の基本的な枠組みの異なるアメリカ的考え方、今アメリカンスタンダードは非常に広く世界じゅうで行われていますから、それに早くなじんだということはある意味で日本にとっても有利な立場はございますけれども、しかしそれにしても、基本線については確かにそのようなことは、現行憲法の正当な解釈に従って行動しているということはあり得ますけれども、学者も認める解釈の中でそういったものが実はまだ生き残っている。もっと別な解釈があるじゃないか、そういうふうなことでございまして、直接、学者は認めないのだけれども立法府なり行政府がそうしているというふうな意味で書いたものではちょっとございませんのですが、そういうことでございます。 ○保坂委員 公務員の不祥事は現在も続いているわけですけれども、一昨年ぐらいに公務員倫理法という法律をつくろうじゃないかということで、当時は与党でしたから、そういう中でいろいろ議論をさせていただき、そして、本日のテーマは憲法の制定過程ですけれども、国家公務員法の制定過程というのは一体どうだったのだろうかと。いろいろ調べてみますと、国会の議事録というのも逐条でほんの少ししかないんですね。  その中で、国家公務員法の十七条に、人事院が証人喚問をすることができる、こういう規定があって、そして守秘義務を定めたところの百条の四項に、いわば解除規定として、証人喚問のときには何人の許可も得てはならないのだ、真実を言わなければ罰則がある、こういうふうに担保されている、ここは抜かずの宝刀とかと言われて使われてこなかったそうですけれども。そこによってきちっと公務員倫理審査会というものをつくろうというようなことで、昨年この法律は成立したわけです。  こういった準備や議論をしてみて、憲法の部分は確かにいろいろ議論もされ研究もされているのでしょうけれども、例えば国家公務員法など、同時に戦後成立をしていったその他の法律の中にどういう骨格があるのか、こういう議論は随分欠けているのではないか、こう思うのですが、いかがでしょうか。 ○高橋参考人 ただいまの先生のおっしゃることは、まことにそのとおりでございます。  私の書いた「展望」の中に、憲法附属法についての問題をちょっと書いておったと思いますが、実を申しますと、憲法というのは、憲法というものがぽんとあれば、そのまま現実具体にそれを敷衍していけばできるというものではございません。それは先ほどからちょっとお話がありましたけれども、改正規定があるのに改正を具体化する法律が一切ない、これではできないわけでして、そういうふうな意味で、実は附属法と憲法というのはワンセットになっていなければ本当の具体の姿を見ることはできない、そういう性質のものでございます。  ところが、そのときに皆さん非常に努力されたのでしょうけれども、附属法がどうしてもおくれがちで、これを言ってはいかぬのでしょうけれども、詰めないままにできたのではないかというふうに推測されます。それが今の規定かどうかちょっと問題があるのですけれども、そういう規定がどうも多かったようでございます。  それで、実際には記録その他が非常に少のうございまして、例えば、その当時のいろいろな法制局次長とか局長とかのメモ、そういったものを参考にしながら、少しずつたぐり出しながら、実際にどういう議論で、どういう趣旨でやられたのかということを、その筋の先生方は今それを固めようとして努力をしておられるということでございます。今のような、いわばあらゆるものが記録に残されていつでも見られるような状態ではない。  そういうことでございますので、もちろん学者の方もいろいろ努力をしなければいけないのでございますが、皆様におかれては、そういうふうな余り資料がないということも含めて、もし新しくする場合には、初歩からもう一度考え直していただく方がよろしいのではないかというふうに考える次第です。 ○保坂委員 実にあらゆるところで資料を探してみたのですけれども、なかったのですね。ですから想像するしかなかったということが、先ほどの点でいえば、戦後一回だけ証人喚問が行われて一回で終わりになったということだけ人事院の資料でわかったのですが、それ以外にわかりませんでした。ただ、憲法を補完するというか支えていくさまざまな基本法についても、もう一度、なぜこれが定められたのかということを読み取る価値は十分あるというふうに思います。  もう一点なんですが、これからの憲法の論点として、昨年、私たち野党は、いわゆる通信傍受法案、我々は盗聴法と呼んでいましたけれども、こういったものに対して極めて強い疑問を持った。このままだと賛成できない、憲法の通信の秘密、これを侵すことになる、こういう議論をしたわけですが、そういうときにも、やはり公共の福祉という概念が繰り返し語られました。  この公共の福祉という言葉は何か伸縮自在にも聞こえまして、基本的人権と公共の福祉、このかみ合わせをどういうふうに先生お考えになっているのか。これからの重要な論点だと思いますので、お考えをお願いします。 ○高橋参考人 この点につきましては学界で割れているということはちょっとさっきからお話をしたところでございますが、私といたしましては、公共の福祉ということを限定しながら、類型化しながら、比較考量でやっていくほかないのではないかというふうに実は考えております。特に、これからの社会は非常に価値多様化といいますか、個別的な行動原理を持った人が多くなるというふうに私自身は考えております。それは当たり前の話でございまして。  しかし、そういうときに、一つは、だから一律に制約しようという考え方もあろうかと思いますけれども、そういうわけにはいかないわけでありまして、やはり、例えば通信傍受なら通信傍受、それから政党の新聞における広告なら広告、そういったものをある程度表現分野もしくは通信分野の類型化をいたしまして、その中で、この程度のいわば公共の福祉をかぶせることが必要だというきめ細かい議論を少しやっていかなければいけないのではないか。  そして、その分野を定めてどうするかについては、やはり基本的には比較考量の中で考えていくほかないのかなという感じもいたしますけれども、この点は非常に難しいので、ちょっと今すぐというわけにはいきませんので、済みません、これぐらいで。 ○保坂委員 ではもう一点。お書きになったものの中で「社会権と福祉国家」という部分で、とりわけその基本権の中で社会権が位置づけられていて、憲法議会の衆議院の段階で付加された二十五条一項の文化的生活権、ここが後々福祉国家というような指標に結果として役立ったというような部分をもう少しお話ししていただきたいと思うのです。 ○高橋参考人 基本的には、そこで書こうとしていたのは、実はドイツのことがちょっと頭にございまして、ドイツはいわば憲法の初めの方に性格定義、ドイツ国の性格の定義をいたしまして、社会的国家であるというふうな形でやっておるわけです。そうでありますれば、それが全体の中ですべてのものを支配する形で定着させることができるわけですね、解釈上。それに対して、日本国憲法においては、二十五条という人権の中の一つとして書かれ、それも非常にあいまいな形で書かれたわけでございますので、その条文は一種の、日本国憲法は自由主義憲法なんだけれども、セーフティーネットとして一部こういうふうにするのですよと考えるのか、それとも本来の国家の性格の一つとして大きくとらえるかという、この二つの解釈態度が生じたわけでございます、簡単に言いますと。  そして、日本の、いわば発展期といいますか経済成長期の方々は、ある意味でその経済的な発展に支えられて文化的意識も向上したということがあったのでしょう、余りそれがもたらす議論をなしに、それを日本国という国家全体の中に定着させたというわけです。それが現在のようなアメリカ的な自由国家の中でやっていった方がいいのではないかという議論になったときに、ある意味でそれを問い直される状況に今あるのだということを、あの中で実は主張したかったということでございます。 ○保坂委員 大変ありがとうございました。  終わります。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  高橋参考人におかれましては、貴重な御意見をちょうだいし、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。  次回は、来る四月六日木曜日、幹事会午前九時二十分、調査会午前九時三十分から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後五時四十九分散会