衆院憲法調査会(3・23)

平成十二年三月二十三日(木曜日)
    午前九時三十分開議
 出席委員
   会長 中山 太郎君
   幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君
   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君
   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君
   幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君
   幹事 野田  毅君
      石川 要三君    石破  茂君
      奥田 幹生君    奥野 誠亮君
      久間 章生君    小泉純一郎君
      左藤  恵君    坂井 隆憲君
      白川 勝彦君    田中眞紀子君
      中川 秀直君    中曽根康弘君
      中野 正志君    平沼 赳夫君
      船田  元君    穂積 良行君
      村岡 兼造君    森山 眞弓君
      柳沢 伯夫君    山崎  拓君
      横内 正明君    石毛えい子君
      枝野 幸男君    島   聡君
      土肥 隆一君    中野 寛成君
      畑 英次郎君    藤村  修君
      石田 勝之君    太田 昭宏君
      倉田 栄喜君    福島  豊君
      安倍 基雄君    中村 鋭一君
      二見 伸明君    佐々木陸海君
      志位 和夫君    春名 直章君
      東中 光雄君    伊藤  茂君
      深田  肇君    保坂 展人君
    …………………………………
   参考人
   (名古屋大学名誉教授)  長谷川正安君
   参考人
   (香川大学法学部教授)  高橋 正俊君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
委員の異動
三月二十三日
 辞任         補欠選任
  三塚  博君     坂井 隆憲君
  福岡 宗也君     島   聡君
  横路 孝弘君     土肥 隆一君
  志位 和夫君     春名 直章君
  深田  肇君     保坂 展人君
同日
 辞任         補欠選任
  坂井 隆憲君     中野 正志君
  島   聡君     福岡 宗也君
  土肥 隆一君     横路 孝弘君
  春名 直章君     志位 和夫君
  保坂 展人君     深田  肇君
同日
 辞任         補欠選任
  中野 正志君     三塚  博君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)

    午前九時三十分開議
     ――――◇―――――
○中山会長 これより会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を始めます。
 本日、午前の参考人として名古屋大学名誉教授長谷川正安君に御出席をいた
だいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとう
ございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見を賜り、調査の参考にし
たいと存じます。
 次に、議事の進行について申し上げます。
 最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委
員の質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、
参考人は委員に対し質疑をすることはできないことになっておりますので、あ
らかじめ御承知おきを願いたいと思います。
 それでは、長谷川参考人、お願いをいたします。
○長谷川参考人 初めに、自己紹介から始めます。
 私は、一九四〇年に東京商科大学の予科に入学しました。四二年に学部に進
学して、田上穣治という憲法を担当していた教授のゼミナールで憲法学の勉強
を始めました。学徒出陣で二年間学業は中断しましたけれども、復学して、一
九四六年に卒業して、一橋大学の特別研究生として三年間憲法の勉強をしまし
た。その後は、一九四九年から定年になるまで名古屋大学の法学部で憲法の講
義をしていましたし、定年になってからは、大阪の私立大学で同じ憲法を十数
年教えておりました。
 したがって、憲法の講義を五十年以上やっていたので、あるいはきょうの話
も、議員の諸君に対してではなくて、何か学生に対して話をするような調子に
なるかもわかりませんけれども、その失礼はお許しください。
 この五十年の間に、憲法に関するさまざまな著書、論文を発表してきました
けれども、きょうは憲法の歴史をお話しするというつもりで、その歴史に直接
関係がありますのは、皆さんにお配りしたレジュメには書いてありますけれど
も、「昭和憲法史」、これは一九六一年です。それから「憲法現代史」とか
「世界史のなかの憲法」、そういう本を書いております。また、今、岩波新書
で「日本の憲法」という題の本が出ていますが、これは、憲法施行十周年記念
ということで一九五七年に初版を書きましたが、それから二十年たって、三十
周年のときに全面的に書き改めて、またそれから二十年近くたって、九〇年代
になって全部書き改めるという、版が違うというだけではなくて、そのときそ
のときの日本の憲法の現状分析を三回やっておりますので、これを自分なりに
比較してみると、戦後の日本の憲法史の特徴が出ているのではないかというよ
うな気がいたしております。
 私は、日本の憲法を大学で教えていただけではなくて、外国の憲法史につい
ても、「フランス革命と憲法」という一冊を書いておりますし、また「イング
ランド革命と憲法」という、イギリスの憲法史についても勉強したことがあり
ます。
 そして、きょうこういうテーマでお話ししたいと思ったのは、現在、十七世
紀から十八世紀、十九世紀にかけてのヨーロッパの近代憲法の成立史といいま
すか、これをイギリス、フランスを中心にして研究中なものですから、どうし
ても歴史のことを話したいと思って東上いたしました。
 日本の憲法学では、戦前から憲法典の条文を解釈するのが中心で、これは戦
後も同じですが、憲法の歴史を専攻する人というのは憲法の研究者にはほとん
どおりません。憲法学以外の人、歴史学者で憲法をやっているという人はおり
ますけれども、憲法研究者として憲法史をやっているという人はほとんど見当
たりません。
 私自身も憲法の歴史を専攻しているわけではありませんけれども、日本の憲
法の学界では一番いろいろなものを書いている、そういう一人でありますから、
そういう資格で、学問的な立場から、本日問題になっている問題を歴史的に見
てみたいというのが私の真意でございます。
 ここに来るときに公文書をいただきましたが、それには、日本国憲法に関す
る件(日本国憲法の制定経緯)の調査というふうに書いてございました。昨年
改正された国会法によりますと、衆議院の憲法調査会は、日本国憲法について
広範かつ総合的に調査を行うため設置されたというふうに規定されております。
 そこで、私は、御依頼の「日本国憲法の制定経緯」というテーマを、日本の
憲法の歴史の一つの過程として、さらに言えば、世界の憲法史の流れに沿った
出来事として、これまで私自身が研究してきたことを、限られた時間ですけれ
ども、お話ししたいと思っているわけです。
 そこで、第一の問題は、憲法の歴史を見る場合に、どういう基準で憲法の歴
史を見なきゃいけないのかという非常に大まかな問題です。
 これはすべての論争がそうですけれども、憲法論争をしていても、互いに違
うことを憲法という同じ名前で考えて議論していたのでは、その議論はかみ合
いません。そこで、一応手がかりですけれども、憲法の定義といいますか、憲
法について、その国の権威ある辞典にどう書いてあるかを見たのです。
 例えば日本の広辞苑、これが権威があるのかどうか、ちょっと語弊がありま
すけれども、皆さんよくお使いになっている岩波の広辞苑を見ますと、こう書
いてあります。
 (1)として、「おきて。基本となるきまり。国法。」というふうに書いて
あります。これは憲法という日本語が昔から持っていた意味だと思うのですが、
聖徳太子の憲法なんというのはこの憲法の意味です。
 しかし、今私たちが使っている憲法の意味はそうではありません。広辞苑で
は(2)のところに、最初に「constitution」という英語が、あるいはフラン
ス語ですかが書いてあって、それの説明として、「国家存立の基本的条件を定
めた根本法。国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通
常他の法律・命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる。」こ
ういうふうに書いてあります。
そして、矢印で「→日本国憲法・大日本帝国憲法。」というふうに書いてあり
ます。
余り上手な定義だとは思えませんけれども、きっと法律家でない人がこれをつ
くったんだろうと思いますが、そういう定義になっている。
 矢印で示したように、この憲法と憲法典、日本国憲法とか大日本帝国憲法、
この憲法と憲法典をほとんど同じに見ている説明では、イギリス人は、ごく一
時の例外を除いて憲法典というものを持っていませんから、この広辞苑の定義
ではほとんど納得できないだろうと思います。せっかく説明の頭に「constitu
tion」と書いてあるのですけれども、コンスティチューションという言葉を使
っているイギリス人はきっと納得しないだろうと思います。
 イギリスには憲法典はありませんけれども憲法があることは、皆さん御承知
のとおりです。あるだけじゃなくて、イギリスは近代憲法の成立にとって最先
進国であるということを認めない憲法研究者はおりません。
 そのイギリスで一番権威のある字引、私どもOEDと言っていますが、オッ
クスフォードの英語辞典を見ますと、コンスティチューションという言葉はい
ろいろな説明がしてありますけれども、その第七番目にこういう定義がござい
ます。ある国民、国家あるいは政治体が、それに従って組織され、統治される
基本原理の体系、あるいは基本原理の集合、この意味は一六八九年から一七八
九年の間に次第にでき上がったというふうに書いてあります。
 では、イギリスで憲法とされているのは何かといえば、憲法典はございませ
んけれども、まず国会でできた法律があります。例えば一六八九年の権利章典
という人権を定めた法律とか、それから、日本の皇室典範に当たるんでしょう
か、王位継承法という法律、あるいは、一八二三年以来何回も改正されていま
すが、人民代表法という議会の選挙を決める法律とか、衆議院の優越を決めた
議会法とか、あるいは大英帝国の統合を決めたウエストミンスター法というの
がありますが、こういう国会でつくった法律の中から、国の統治原理あるいは
組織原理に当たるものを憲法と呼んでいます。
 それから、イギリスは、御承知のように、もともと判例法の国ですから、判
例の国ですから、政治的な慣行、慣習が憲法とみなされる場合が大変たくさん
あります。
例えば、衆議院議員の総選挙で第一党になった政党の総裁が必ず首相に任命さ
れるとか、あるいは、国王は君臨すれども統治せずというような有名な言葉が
ありますけれども、こういう立憲君主制の慣行も憲法とみなされています。
 イギリスの憲法のことが書いてあって、私たちがそれで勉強した、また、そ
の本を読んだというふうにイギリスへ行ったときに言ったら、では、もうほか
の本は読まなくてもいいと言われた本があります。ダイシーという人の書いた
「憲法研究序説」、これは幸い日本語の非常にいい翻訳が出ておりますので読
んでいただきたいと思います。
 この「憲法研究序説」を読みますと、そこでは今の法律、憲法の法律、憲法
とみなされている法律と憲法とみなされている慣習、ローとコンベンション、
憲法の法律と憲法の慣行がどういう関係にイギリスではなっているかという、
少なくともイギリスで行われている現実を、ダイシーは、これは十九世紀の終
わりに書いた本なんですけれども、何回も版を改めて出版しているわけです。
 ですから、オックスフォードの英語辞典の説明では、憲法というのは憲法典
じゃなくて国家の統治・組織の基本原理の体系だというふうになっていますが、
その後についている説明が大切で、一六八九年、これは先ほどの、権利章典が
できた名誉革命のときですが、そのときから、一七八九年、フランス大革命の
とき、この百年の間にこの意味はできたんだというふうに言っています。
 そこで、これは疑って引いたわけじゃないんですけれども、念のためにフラ
ンスの、フランス文学をやっている人なら必ず引用する大きな字引がありまし
て、リトレのフランス語辞典というのがあるんです。それでラ・コンスティテ
ュシオンというフランスの憲法のことを引いてみますと、これもいっぱい意味
が挙がっているんですが、その五番目に挙げられているたくさんの例の中に、
一カ所だけ、一つの例としてこういうことが言われています。
 国民の政治的諸権利、統治形態及び公権力の組織を規制する制定法だと書い
てあるんです。この制定法というのは、アクトと書いてありますが、英語でも
アクトといえば同じ意味ですけれども、法律のことです。国会で、議会でつく
った法律のことです。そして、その最後のところに、憲法の時代は一七八九年
に始まるというふうにリトレでは説明しているんですね。
 だから、同じ言葉でも、憲法あるいはコンスティチューション、フランスな
らコンスティテュシオンと発音は違いますけれども、憲法という同じ言葉でも、
日本とイギリスとフランスでは、その字引ができたときの国情に応じて、字引
ができたときの憲法の状態に応じて説明が違うわけですね。ですから、我々は、
その言葉の違い、国によって言葉の使い方が違うということを注意すると同時
に、もちろん、それに共通した意味がなければ問題をとらえることはできませ
ん。
 例えばフランス。今読んだリトレで憲法の説明をするのに、アクト、法律だ
というふうに出てくるんですけれども、リトレの字引というのがいつできたの
か私は正確にわからない。というのは、その字引のどこを見ても製作年が書い
てないんですね、それでよくわからないんです。少なくとももう百年以上前に
できていることは確かなんですが、このリトレを利用していたフランスでは、
第三共和制、すなわち一八七〇年から一九四〇年まで七十年間、実は憲法典が
なかったんですね。フランスで憲法典がないというのは妙ですけれども、この
時代には憲法典がなくて、あるのは、組織に関する法律とか、あるいは憲法律
という、憲法という形容詞をつけた法律があるだけだったんです。そこで、学
者は余りそういうことを気にしないんですけれども、字引をつくる人は大変そ
れを気にしたんじゃないかと思います。
 したがって、近代憲法のとる法形式というものは、法律であったり慣行であ
ったり、あるいは国によって、時代によっていろいろですけれども、十九世紀
の後半から二十世紀になりますと、憲法典、例えば日本国憲法とか、あるいは
フランス共和国憲法とかアメリカ合衆国憲法とか、憲法典が原則となって、イ
ギリスや第三共和制のフランスは全くの例外になってきます。
 しかし、法形式のいかんにかかわりなく、憲法の意味内容には、国家の統治
・組織原理として共通のものがあるというふうに私たちは考えています。その
原理的な意味の憲法が、ある時代のある国家に現実にあったかどうかというこ
とが、世界の、あるいは日本の憲法の歴史を見る決定的な基準になるんじゃな
いかと思います。
 問題は、実質的な意味の憲法ですね。形式じゃなくて憲法の中身が問題にな
る。
 この点でよく引用されますのは、フランスの一七八九年の有名な人権宣言の
第十六条です。この条文には、「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定
されないすべての社会は、憲法をもつものでない。」こういうふうに書いてあ
ります。あるいは、皆さんも大学で憲法の講義を聞いたときに、きっと先生が
こういうことを教えたんじゃないかというふうに私は思います。しかし、この
規定は、人権の保障と権力の分立が憲法に不可欠の要素だというのは、この当
時のフランス人が考えたことで、現在の目から見れば、かなり修正して見ない
と正確な憲法の考え方だとは言えません。
 国民個人の自由と権利が現実に保障されていない国家は、たとえ憲法典があ
っても憲法がないということは、今日でも憲法研究者なら多くの人が認めるで
しょう。
 しかし、権力の分立が不可欠というふうに書いてあるのは、フランス革命の
当時に、革命に参加した政治家の中でモンテスキューの「法の精神」を読んだ
人がたくさんいて、その影響があったからこういう表現になった話です。とこ
ろが、これはもう学者、研究者には有名な話ですけれども、このモンテスキュ
ーのモデルになった十八世紀のイングランドには、「法の精神」で描いたよう
な権力の分立なんてものはなかったのです。これはモンテスキューが意図的に
つくった考え方。そこにはイングランドをモデルにしていると書いてあるので
すけれども、事実はそうでないのですね。
 名誉革命以降のイングランドで確立した憲法というのは、まず議会主義です。
君主の専制的な権力じゃなくて、議会がこれをコントロールする議会主義。あ
るいは行政も、君主が行うのじゃなくて、議院内閣制、議会がコントロールし
た内閣が政治を行う。ですから、そこでは立法権と行政権というのは、これは
日本の現状もそうですけれども、結びついていますね。特に、イギリスでは貴
族院が最高裁判所なんですから、制度上、権力の分立なんてものはイギリスに
はあるとは思えません。モンテスキューは自分が裁判官ですから司法権を分立
させたのかもわかりませんけれども、それはともかくとして、イングランドに
はそういうものはない。しかし、イギリスの議会主義とフランス革命のときに
言った権力の分立には、憲法の原理としては共通のものがあります。それは何
かといえば、両方とも国家権力の発動をチェックする組織原理だ、こういうこ
とです。
 議会主義とか権力分立に、もう一つ、法の支配という言葉をつけ加えてもい
いと思うのですけれども、ここで問題なのは、それが、最高の国家権力の発動
を現実にコントロールしている、そういう原理であるかどうかということが問
題です。
 ですから、私は、近代憲法に不可欠の要素として、まず人権の保障、それか
ら次には国家権力をチェックする原理を持っているかどうか、もちろん現実に
機能している原理を持っているかどうか、これが二つで、第三番目に主権の問
題、国家主権の問題あるいは国民主権の問題、主権の問題というのがあると思
います。この三つの問題が私は憲法の実質的な意味を決定している問題じゃな
いかというふうに考えております。
 これはちょっとだんだん学生相手の講義みたいになってきますけれども、主
権の概念が確立したのは、不思議なことなんですけれども、ジャン・ボーダン
という人で、その著書「国家論」があるのですが、その「国家論」の冒頭にこ
ういうふうに書いてあるのですね。国家とは、多くの家及びそこに共通してい
る事柄を主権的な権力でもって正しく統治することである、こういうふうに、
こんな厚い本ですけれども、その厚い本の一番上のところに、ボーダンという
のはフランス人ですから、フランス語でもちろん書いてあります。ただ、その
本はほとんど日本にはないので、余りその本を見たことのある人はないかもわ
かりません。むしろ日本の法律家は、それをラテン語に訳した本がありまして、
その訳で読んでいる人が多いのです。
 それはともかくとしまして、ボーダンによれば、この主権の所在、どこにあ
るかによって国家は君主制とか貴族制とか民主制に分類される、こう書いてあ
るのですね。
そうして、どの制度がいいか悪いかということも詳しく述べてあるのですが、
ボーダン自身はもちろん君主制の立場に立って書いています。
 この当時は、十六世紀から十七世紀に来るもう四百年も前の話ですけれども、
ボーダンは君主主権の絶対性というものを強調するわけですが、それに対して、
その当時はフランスでは宗教戦争が行われていた最中ですから、フランスの新
教徒である、ユグノーと言いますが、ユグノーの理論家は、人民主権の主張を
して、悪いことをした君主は殺してもいいんだ、こういういわゆる君主放伐論
というのも展開します。そして、その当時は、実際の歴史の上では、フランス
では、新教のユグノーの出身でありながらカトリックに変わって宗教戦争を勝
ち抜いたアンリIV、ヘンリ四世というのがいるのですが、その王様からあの有
名な朕は国家だと言ったルイ十四世まで、要するに絶対王政の時代ですね。そ
れから、ちょうど同じ時期は、イングランドではエリザベスの時代ですし、そ
の次にジェームズ一世というやはり絶対君主がいた時代なんですね。
 ですから、西ヨーロッパでは、近代憲法が成立する以前に、君主主権と人民
主権の理論的対立というものが、宗教戦争とかその他内乱とか革命とか、そう
いう要素を含んで闘われながら近代国家というものが成立した。憲法ができる
以前にそういう闘争があったわけです。
 そこで、一体主権というのは何なんだということが問題になります。
 主権というのは、近代国家が成立したことを証明する概念なんですね。近代
の国民国家が成立するということは、対外的には、例えばフランスにしろイギ
リスにしても、ローマ法王の支配、今、ローマ法王は世界を漫遊していますけ
れども、四百年前の法王から、いろいろな理由でもって金を取られないように、
いろいろなことで影響を受けないようにローマ法王から独立する。要するに、
その当時の国家としての独立というのは、ローマ法王と離れる。
 と同時に、国の中では、これはちょうど明治維新のときの各藩の殿様みたい
なものがたくさんヨーロッパにいるわけです。ヨーロッパには四百年前にはド
イツだけで三百人ぐらい王様がいたのですから、日本と同じようなものですが、
そういう藩の領主から独立する。
 要するに、近代国家というものは、対外的にはローマ法王から、対内的には
そういう封建的な領主から独立して確立するんだ、それが国家主権あるいは主
権と言われているものだ。
 ですから、憲法の歴史を見る基準というのは、憲法の形式として憲法典の重
要性を認めるのはいいのですけれども、それだけにはとどまらない。憲法の内
容としては、今言った主権があるかどうか、あるいはまた別に言えば、最高の
国家権力というものを規制する組織原理があるかどうか、そしてさらには国民
個人の自由と権利が保障されているかどうか、この三つが私は憲法の歴史を見
る基準になると思うのですね。
 そこで、次に「世界の憲法史にまなぶ」ということになります。
 簡単にお話ししますが、まず十七世紀です。今から三百年以上前の話ですが、
オックスフォードの辞典では、近代憲法の考え方は一六八九年の名誉革命と権
利章典の年から始まるというふうに言っていますが、イギリスの憲法史研究者
はこの字引のような簡単な考え方はしていません。
 憲法史の研究者として有名なタンナーという人がいるのですが、その人の
「十七世紀イングランドの憲法闘争 一六〇三―一六八九年」という表題の本
がありますが、ここでは名誉革命というものを出発点とはとらえない。そうで
はなくて、先ほど言ったジェームズ一世とか、そういう絶対君主とそれに対抗
する議会が、百年にわたって、一世紀にわたって、コンスティチューショナル
コンフリクトと書いてありますが、まさに憲法闘争を繰り返して、その到達点
が名誉革命なのだ、こういうふうに言っています。
 その一世紀の途中で、議会の軍隊と国王の軍隊が戦って、国王の軍隊が負け
て、君主チャールズ一世は捕虜になって、裁判にかけられて、ロンドン塔で首
を切られた。ロンドンでロンドン塔を見学に行かれれば、あそこにチャールズ
一世の首を切ったおのと台が置いてあります。これは一六四九年ですが、そう
いう事件があった。
 そのことはともかくとして、議会軍の指導者であったクロムウェル、これを
護民官、プロテクターだというふうに決めた、これはイギリスの歴史上空前絶
後なのですが、一度だけ憲法典ができているのですね。インストルメント・オ
ブ・ガバメント、直訳すれば統治の手段というふうに訳せる、インストルメン
ト・オブ・ガバメントという憲法典が一六五三年にできています。これはもう
数年しかもたなかったわけですが。
 その革命は、ピューリタン・レボリューションとか、あるいは、今歴史家の
中ではイングランド・レボリューションとか、そういうふうに呼ばれている動
乱があるわけですけれども、それが終わって、名誉革命というのはその紛争の
到着点としてついてくる。
 名誉革命というのは、変なと言っては失礼ですけれども、非常に異常な出来
事で、名誉革命によって成立したイングランドの君主制というのは、メアリー
という女王、それと夫婦になったオランダの領主、その二人の共同統治という
ことになったのが名誉革命です。要するに、その当時、トーリーとかホイッグ
とか、日本語で言えば保守と自由、そういう議会の二つの勢力があったわけで
すが、その二つの勢力が完全に一緒になって、もうイングランドのジェームズ
二世というのはだめだから、オランダから王様を連れてこようということで、
オランダから領主の一人のウィリアム三世というのを連れてきて、それを王様
にしてイギリスの君主制というのは始まった。議会がつくった君主制なのです
ね。それが何で名誉革命、名誉なのか、日本人にはちょっとわかりかねますけ
れども、ともかくそういう異常な出来事があったのですね。これが十七世紀の
終わりです。
 十八世紀になりますと、イングランドでは議会主義が進行して議院内閣制が
成立します。
 しかし、皮肉なことに、イギリスの君主制のもとで、植民地だったアメリカ
が、全くイギリス人の憲法論を利用して、要するに、自分たちは代表を送って
いないのだからイギリスの議会の法律なんかに従う必要はないという理屈を考
え出すと同時に、独立戦争をして独立して、アメリカ合衆国憲法というのが一
七八七年にできたわけですね。
 そして、それにほとんどきびすを接するように、フランスで大革命が起こっ
て、フランスでは、一七八九年の人権宣言以来、九一年、九三年、九五年、九
九年というふうに憲法がいろいろと変わって、最後にナポレオンが登場して帝
政時代になるわけですね。
 ですから、戦争とか内乱とか革命と関連のない新しい憲法の制定なんという
のは、全くこのときまではありません。
 十九世紀になると、憲法典の制定はヨーロッパ全体に広がっていくわけです。
そして、世紀の後半には、開国した日本が、アジアの唯一の国として憲法にか
かわるようになってくるわけです。
 私の持っている、明治十年に元老院で編さんした「欧州各国憲法」という、
いわゆる憲法集があるのですね。この元老院の明治十年の憲法集を見ますと、
そこに載っているのはスペイン、スイス、ポルトガル、オランダ、デンマーク、
サルディニア、後のイタリアですが、ドイツ、オーストリアと、十九世紀に憲
法典をつくった国々の憲法が、ちょっと生硬な翻訳ですけれども、元老院で編
集したものとして明治十年に出ております。
 ちなみに、これらの国家というのは、スイスの連邦共和制を除いて全部君主
制の国家ですし、また、イギリスとフランスが載っていないというのは、先ほ
ど言いましたように、イギリスには憲法典がありませんし、フランスはその当
時は憲法典がなかった、第三共和制であったということも反映しているでしょ
う。ですから、それが大体、明治憲法制定前、明治十年代の日本の政治家の考
え方だったのですね。
 十九世紀にヨーロッパの憲法状況で日本の憲法制定に直接影響を与えている
というのを見ますと、当時ヨーロッパ随一と思われていたフランス第二帝政の
陸軍が、普仏戦争でビスマルクのプロシア軍に大敗して、ナポレオン三世は捕
虜になってしまったのですね。そして帝政が崩壊して、フランスは第三共和制
になりました。
 ですから、ちょうど普仏戦争でフランスが負けて、フランスには憲法典とい
うものがなくなってしまって、なくなったどころか、ベルサイユの宮殿に乗り
込んできたプロシアの軍隊がドイツ帝国憲法というものを制定してそれを世界
に宣言する、そういう状況でしたから、その後、日本から憲法取り調べに伊藤
博文ほか数名の者がヨーロッパへ行くわけですけれども、憲法典のないイギリ
スとか負けたフランスというのはもう素通りで、ドイツに直行したわけですね。
 だから、明治憲法が、戦勝国ドイツと、プロシア以外のいろいろなラントと
いいますか、諸邦の憲法をモデルにしたということは、その当時の一つの事情
になる。これはいい悪いの問題ではないと思うのですね。
 問題なのは、二十世紀になって、その前半に起きた二度の世界戦争が憲法に
与えた影響というものは、それまで人類が経験した戦争とか内乱とか革命以上
に大きなものがあったわけです。
 第一次大戦がきっかけになってロシア革命が起こりました。そして、これは
歴史的な事実ですが、世界で最初の社会主義憲法と言えるロシア社会主義連邦
ソビエト共和国憲法というのが一九一八年にできております。その憲法が、第
一次大戦の敗戦国であったドイツが新しい憲法をつくるときに、いわゆるワイ
マール憲法をつくるときに、このロシアの社会主義型の憲法が大変強い影響を
与えているのですね。例えば労働者の権利を保障するとか生存権の保障、そう
いう考え方をワイマール憲法が持っていて、日本国憲法に戦後影響を与えたと
言われているこの中身というのは、実は、第一次大戦が終わったときのロシア
革命の影響を受けたドイツの社会民主党の政権がつくった憲法だったというこ
とです。
 そして、第二次大戦の結果、例えば、戦勝国であるフランスでも、あるいは
敗戦国であるイタリアでも、それぞれ新しい憲法ができています。ソ連の影響
下にある東ヨーロッパの諸国もいわゆる社会主義型の新憲法をつくりましたし、
それから、植民地であったアジア、アフリカの諸地域も一斉に独立して新しい
憲法をつくるようになった。ですから、第二次大戦の後に、世界の憲法の状況
は一変してしまったわけです。
 十七世紀、十八世紀、十九世紀の中ごろまでは、進んだ資本主義国、あるい
は進んだ文明国が持っているものというふうに考えられていた憲法の原理とい
うものが、憲法典という形をとって、もう第二次大戦後は全世界のもの。今、
国連に加盟している百八十八カ国ですか、お調べになれば、どの国もきっと憲
法典というものを持っているだろうと思うんです。
 そこで、問題なのは、それから半世紀たったわけですけれども、今、このよ
うな変化が、果たして憲法にとっていい変化と言えるのかどうか、そういう問
題も考えてみる必要があると思うんです。
 ということは、要するに、憲法典を持っている国では、今、日本でやってい
るように、憲法典自体の内容がいいか悪いかということを問題にしていますが、
それだけじゃなくて、さらに大きな問題は、憲法典に規定されている条文が、
一体現実に行われているのかどうかということを検討せざるを得なかった。
 イギリスは憲法典というのがありませんから、イギリスでは行われているこ
とが憲法なんです。だから、憲法が行われているかどうかという問題は、イギ
リス人には、よほど日本の事情を知っていなければ理解できないでしょう。第
三共和制のフランスでも、法律しかありませんから、憲法といえば中身のこと
を考えなきゃならなかった。ところが、現状は、すべての国が憲法典を持つよ
うになって、規定されていることが実際に行われているかどうかということが
問題になった。もちろん、その規定の仕方がいいか悪いかということも問題で
す。
 そこで、憲法の歴史を見る三つの基準が達成されているかどうかということ
を、五十年前の第二次大戦後の変化が一体どれだけよかったのか悪かったのか、
結果があったのかということを、今改めて考えなきゃならない時点に来ている
と思います。
 この私の述べた三つの基準による憲法の見直し、あるいは憲法の検討という
ことは、社会主義型であろうと資本主義国の憲法であろうと、変わることがあ
りません。
 そして、この三つの基準に対してもう少しつけ加えるとすれば、例えば平和
主義とか民主主義という二つの原理が、第二次大戦後の新しい憲法には共通の
原則として取り入れられているものが多くなりました。これは、東ヨーロッパ
のソ連の影響下にあった国でも、あるいは、勝ったフランスの第四共和制の憲
法でも、負けたイタリアの憲法でも、同じように平和主義と民主主義の原則が
入っていますから、あるいは三つの基準に対してもう二つ加えて、五つの基準
ということになるかもわかりません。
 そこで、最後に、日本の憲法史になるわけですが、一時間というと、あと十
五分ぐらいになりましたね。少しはしょって言います。
 私は、日本の憲法史を第一期から第四期に分けているんですが、第一期は、
徳川の幕藩体制が崩壊してから大日本帝国憲法の発布される、大体二十年間で
すね。この二十年間というのは、憲法というものはありませんでした。今まで
問題にしてきた憲法というものは全くなかった。
 その当時の政治家や知識人が、ヨーロッパやアメリカの憲法のことを知らな
かったわけではありません。知ってはいたんだけれども、そのときの明治新政
権は、憲法をつくらずに二十年間過ごしたんですね。
 なぜ私はそれを強調するかというと、例えば、第二次大戦後独立したアジア、
アフリカ諸国というのは数十ありまして、私は、独立した年と憲法をつくった
年を比べてみたんですけれども、ほとんど一、二年、あるいは同じ年の間に憲
法をつくっているのが普通です。例外は、独立してから憲法をつくるまで九年
かかった国があります。これは何かクイズみたいですけれども、パキスタン共
和国がそうです。同じときに独立した隣のインドでは三年目に、これはもう世
界一長い憲法典をつくっています。
 ですから、九年もかかったというのは全く例外的で、大体アジアでもアフリ
カでも、国が独立すれば憲法というものをつくって、その独立、国の形を明確
にするというのが普通ですけれども、私はこれがいいとか悪いとか言っている
わけじゃないんですが、日本では、明治政府は明治憲法をつくるまでに二十年
かかっているということ。これは、無知のせいではない、一定の政治的な理由
があってやっていることですけれども、それが問題です。
 明治新政権は、憲法のない二十年の間に、何の法的拘束も受けずに天皇制と
いうものをつくり上げたわけですね。明治の初めに、津田真一郎というオラン
ダのライデン大学へ留学した人がいまして、「泰西国法論」というものをもう
明治元年に出していますけれども、この人の本なんか非常によく読まれていま
す。今でもこの本を読めば、ほとんどヨーロッパの十九世紀の憲法事情という
ものはわかるようになっていますし、自由民権運動を通じて、ヨーロッパのい
ろいろな古典的な自由主義思想、憲法の考え方が翻訳されて入ってきたという
ことも、皆さん御承知のとおりです。要するに、二十年の無憲法状態から日本
の憲法史は始まっているということですね。
 それから、第二期になります。二期は、当然ですけれども、大日本帝国憲法
が発布されてから、太平洋戦争に負けてポツダム宣言を受諾した、それによっ
て明治憲法の効力が停止された、その時期ですが、私は、明治憲法そのものに
大変大きな問題があると。
 もちろん、その歴史過程を一つ一つ述べることはできませんけれども、かい
つまんで言いますと、例えば私自身は、戦前の大学で、田上さんから明治憲法
の解釈論というものを習ったわけです。国家総動員法が違憲かどうか、そうい
う解釈論を詳しく聞きました。非常によく読んだものに、例えば、美濃部達吉
「逐条憲法精義」という、こんな厚い本があります。当時は実はこれは発禁に
なっていたんですが、発禁になっているのに古本屋では売っていたんです。こ
れもちょっと不思議な話ですが、この美濃部さんの「逐条憲法精義」というも
のを私は読んだ記憶があります。
 ここで私が問題にするのは、そういう憲法の解釈論ではなくて、明治憲法と
いうものが果たして日本の国政全体を規制していたか、コントロールしていた
かどうかという問題です。明治憲法というのはどういう法であったか。
 そうすると、まず、明治憲法をつくったと言われている伊藤博文の名前で
「憲法義解」という本があります。今、岩波文庫にもなっていますが、これを
見ると、その中身は、「大日本帝国憲法義解」というのと並んで、「皇室典範
義解」という二つの内容から成っているんですね。二部構成になっている。そ
して、つくった人は、憲法は国政をコントロールする、皇室典範は皇室のこと
を扱う根本法だと。あるいは、憲法は府中、府中と言うと競馬場みたいですけ
れども、府中を扱う、皇室典範は宮中のことを扱うというふうに書いてある本
もありますが、ともかく、明治憲法は皇室のことは扱わない。要するに、明治
憲法は、日本の国の政治の中で、全部をコントロールするんじゃなくて、皇室
のことはすべて自律的に皇室典範にゆだねますというふうに書いてあるんです
ね。
 ところが、この報告をするので、先日もう一度美濃部さんの「逐条憲法精義」
を読み直してみましたら、そこでは美濃部さんは、伊藤は間違いだ、皇室典範
は憲法に従属するのだと、その結論を出すのに三ページぐらい、物すごく難解
な解釈論を、いわば無理な解釈論を展開しています。
 しかし、つくった伊藤も、あるいは多数説であった穂積八束という人の本に
も、皇室典範と憲法は対等のものだ、対等の根本法だというふうに書いてある
のですね。ですから、明治憲法というのはそもそも国政の全体をコントロール
するものではなかった。ヨーロッパの人には理解できない。外国の殿様を呼ん
できて自分の国の君主にするようなイギリス人にはとても想像がつきません、
憲法が皇室を除外しているというようなことは。
 それから、もう一つの点は、これはもう皆さんも御承知と思いますけれども、
統帥権の独立という問題がありますね。これは憲法の十一条です。
 これはもう、私自身兵隊のときに、兵舎の中であの軍人勅諭というのを暗記
させられて、覚えられないでどのぐらい殴られたか。そういう経験のある方は
ほかにもあると思うのですけれども、その軍人勅諭にちゃんと書いてあるので
す、統帥権の独立。要するに、日本の軍隊というものは天皇に直属する、政治
にはかかわらない。
 そういう大原則が実は明治憲法でも前提になっていて、それどころか、明治
憲法では、内閣を構成しているはずの陸軍大臣、海軍大臣だけは、首相に関係
なしに、自分の所管事項、軍機軍令に関することは天皇に直接上奏できるとい
うふうになっていた。だから、どの内閣でも、陸軍大臣、海軍大臣が何を言う
かということでそれが決まってしまうというような状況ですし、しかも、統帥
権の独立で軍隊の組織のことは憲法には何も書いてありませんから、統帥権の
独立というのは大変重大な意味を持っていました。
 と同時に、もっと不思議なことには、明治憲法を大学で習った戦前の方は、
きっと試験を受けていますから皆さん覚えていると思うのですけれども、戦後
の学生に聞いてみると、そういうことはよくわからない人が多いのですが、明
治憲法の条文のどこを見ても「内閣」という言葉は一言も出てこないのですね。
これは非常に不思議なことなのですね。
 明治憲法に出てくるのは、天皇を輔弼する、補佐する一人一人の大臣、「国
務各大臣」というのは出てきますけれども、「内閣」という言葉が一言も出て
こない。内閣はなかったのかというと、そうじゃありません。明治十八年に、
明治憲法ができる四年も前に、伊藤博文が最初の首相になって内閣はできてい
るのに、憲法をつくったときに、どうしてか憲法には出てこないのですね。
 だから、私がきょうここで述べますのは、別に明治憲法を批判するというこ
とに意味があるのではなくて、大日本帝国憲法という憲法典は、せっかくつく
った憲法典なのだけれども、明治の国政全体を規制する、そういうものではな
かったということなのですね。
 ですから、みんな憲法を敬って、憲法は不磨の大典である、憲法を尊重しよ
うと言っていたけれども、非常にその尊重の仕方は限られていて、一九三五年、
昭和十年ですが、いわゆる天皇機関説事件というのが起こってから後の十年間
なんというものは、ほとんど憲法に書かれていること自体が問題にならない。
 例えば、一九三八年に国家総動員法というのができました。これはもう臣民
の権利義務というものを行政に白紙委任する、そういう法律です。それから、
一九四〇年には政党が全部解散されて大政翼賛会というのができた。四二年に
は翼賛選挙という、大政翼賛会が推薦している候補者だけが優遇されるような
選挙が行われた。もちろん、推薦されていないで当選した方もおりますけれど
も、そういう選挙が行われて、いわゆる天皇制のファッショ化が行われた。
 したがって、この第二期が終わる、すなわち戦争に負ける直前の日本の状況
というものは、私は二年間軍隊に行っていてうちには帰れませんでしたけれど
も、その十年というのはほとんど無憲法状態、明治憲法さえ棚上げされている
ような状況だった。
 だから、そういう意味で、第三期の占領期を考える場合には、憲法制定の経
緯が始まる直前は日本は全く無憲法状態であった。よく明治憲法から昭和憲法
へとか、明治憲法から新憲法へということを書いてある本はありますけれども、
よく見てみると、明治憲法そのものがもう棚上げされて、軍部の中ではまさに
改憲論が出ていたのですね。明治憲法を変えろという意見が出ていたぐらい、
一般ではほとんど憲法なんというものはだれも考えない状況で、実は第三期、
一九四五年から五二年までの占領期が始まったわけです。
 ですから、日本国憲法制定の経緯というのはここから始まるわけですけれど
も、この経緯については、既に前の憲法調査会でも随分詳しく調査しています
し、私自身も何冊も本を書いていますし、また、これまでの報告者が随分詳し
く報告していると思いますので、私のきょうの話では、これから全く私たちの
知らなかった新しい事実が出てくるとか、非常にすぐれた分析の歴史理論が出
てくるのじゃない限り、余りこの経緯については私は現在関心がないわけです。
 ただ、こういうことだけははっきりさせておきたいと思います。
 一九四五年に占領が始まるわけですけれども、その占領期間、占領軍も含め
て日本の統治機構はどういうふうになっていたか、それから日本の法律、法と
いうものはどういうふうになっていたか。このことだけは、占領期間の評価を
するために、我々法律家としてははっきりさせておかなければならないと思っ
ています。
 それで、統治機構の方は、日本を占領したのは連合国軍でありますし、その
最高司令官というのはアメリカ合衆国政府が任命したマッカーサーでしたね。
そして、アメリカからの指令で、他の諸国の軍隊の占領への参加は歓迎され期
待されるが、その占領軍は合衆国の任命する最高司令官の指揮下にあるだけで
なく、万一主要連合諸国に意見の不一致が起きた場合は合衆国の政策に従う、
そういう対日方針が出されておりましたから、日本にはイギリス軍もちょっと
来ていたし、中国の軍隊もいましたし、私も何回か見たことがありますけれど
も、事実上のアメリカの単独占領だと言っていいでしょう。そして、そのマッ
カーサーに、天皇及び日本国政府は、いわゆる間接統治という形をとりながら
従属した、こういう形になるわけですね。
 それに、憲法制定の経緯でしばしば問題になってくる極東委員会、一九四五
年の十二月にソ連の提唱でモスクワで会議が開かれて、そこで、ワシントンに
十一カ国から成る極東委員会というものが最高の政策決定機関としてつくられ、
諮問機関として東京に対日理事会がつくられたわけですね。
 ただ、問題は、この極東委員会が四六年の二月二十六日にしか発足しないと
いうことで、それ以前のマッカーサーあるいは司令部がどうであったかという
ことが問題になっているわけですけれども、そういう付随的な機関があった。
だから、権力構造というものは、形式的に言えば、極東委員会、対日理事会が
あり、連合国軍隊最高司令官というのがおり、その下に天皇及び日本政府とい
うのがあって、占領中はそういう統治構造になっていたわけです。
 それでは、法律はどうなっていたかといいますと、この当時の法律は私の
「日本の憲法」の初版に書いてあって、今の版にはもう書いてありませんけれ
ども、これは二本立てになっているのですね。
 どういうことかというと、まず、ポツダム宣言が最高法規であることは、こ
れは言うまでもない。憲法に当たるのはポツダム宣言ですね。ただ、その下に、
最高司令官をスキャップとその当時言いましたが、そのスキャップの指令があ
ると、その指令を受けて、日本の勅令五百四十二号というのがありまして、占
領軍の司令官の指令があったらそれをすぐ日本で引き受けて日本の政令に直す、
そういういわゆるポツダム勅令と言われたのがあって、その下にポツダム政令。
だから、スキャップの指令、ポツダム勅令、ポツダム政令というのが、これが
いわゆる管理法規、占領法規であったのです。
 ところが、それだけじゃなくて、間接統治ですから日本の自主性をある程度
認められたものがあった。憲法ができてからは、それと並んで日本国憲法、そ
の下に例えば教育基本法、法律、その下にまた命令。ですから、占領中の法律
を見る難しさ、占領中の判例なんかを見るときの難しさというものは、占領軍
が直接自分で何かをやるときには別ですけれども、そうでないときには、占領
法規と憲法法規が二本立てになって存在していたということですね。
 こういう状況が七年間続いているわけですが――約一時間になりましたが、
あと十分ぐらい続けてよろしいですか。――それでは、皆さんあれですが、し
ゃべっている私の方が大変だと思うのですけれども、あと十分ぐらい延長させ
てください。
 この占領中のことについてですけれども、実は、きょうここに持ってきた汚
い本なんですけれども、一九五四年、ですから朝鮮戦争の直後ですが、占領が
終わって二年目ぐらいのときですが、一九五四年六月五日の日付で、皆さんも
御承知の金森徳次郎さんが「和して争う」、和して争うというのは何かよくわ
からないのですが、一緒になって争うというのですか、「和して争う」座談会
記録として推薦されている「日本憲法の分析」という本があるのですね。
 この座談会は、私が司会をして中日新聞でやった座談会なんですけれども、
そのとき来られたのは、金森徳次郎さん、それから改憲論者の大石義雄さん、
それから、これは何と説明していいかわからない戒能通孝さん、それから国際
基督教大学の学長を後にやった鵜飼信成さん、そしてあと東北大学の教授にな
った、これは私と同じように、その当時は本当に若い助教授か助手クラスだっ
た小島和司というこの五人、私を入れて六人でやった座談会がありまして、そ
の座談会の記録がこれなんですね。中日新聞に五十日ぐらい連載された、田舎
の、田舎のというと名古屋へ帰ると怒られますけれども、新聞ですし、また名
古屋で出した本ですからほとんど売れなかったと思うのですが、しかし、この
中身は今でも大変有意義だと思っているのです。
 ちょっと紹介しますと、この本の第一章、座談会の第一章は「日本国憲法制
定過程論」となっているのですね。それで、どんなことが書いてあるかという
と、私が最初に憲法制定をめぐる五つの説というものを挙げて、どういう説が
あるかというと、こういうことを言っているのですね。
 まず最初に、憲法制定をめぐる説は三つあると。一つは、要するに、日本国
憲法はスキャップ、マッカーサーが代表するアメリカの占領政策の産物だ、そ
ういう指摘、これが第一の考え方。それからもう一つの考え方は、それは非常
に現象的な見方で、実はその背後にある国際的な民主主義勢力、反ファシズム
統一戦線をつくったソ連とか中国とかイギリスとかフランスとかオーストラリ
ア等の影響力を重視すべきだというのが、第二の説です。それから第三の説と
しては、いや、そんな対外的な要因ばかり考えるべきではなくて、この憲法を
つくったのは国内の政治勢力だと。
 そういう三つの説があるということを紹介した上に、その第一の見方も二通
りあって、アメリカの占領政策というものは、占領の初期は対日政策が大変民
主的で、封建的な日本社会を改良する大変進歩的な役割を果たした、こういう
ふうに評価するものと、いや、どうもアメリカは朝鮮戦争を境にしておかしく
なっているのじゃなくて、初めから自分の国益優先で日本の民主化を考えてい
たのじゃないか、そういう批判的な見方。第一の、アメリカ産であっても民主
的だという考え方と、帝国主義的だという考え方、二つに分かれます。
 それから、第三の国内の政治勢力の評価にしても、一方では、一九四五年の
十月にいわゆる自由の指令が司令部からあって、治安維持法が廃止されたこと
によって共産主義者や社会主義者や自由主義者が一斉に大衆運動に参加できる
ようになって、労働組合がどんどんできる。デモが行われて、五月にメーデー、
続いて食糧メーデーなんというのが行われたような、そういう革新勢力を重視
する考え方と、もう一つは、これは幣原首相が亡くなる前にしょっちゅう言っ
ていたことなんですけれども、日本国憲法の主要な内容は日本の為政者、当時
の保守政治家がつくったものだ、特に憲法の第九条を考えていたと思うのです
けれども、そういう主張がございました。ですから、第三の考え方は二つに分
かれて、結局、合計五つの考え方があると。
 そういう問題提起を受けて、私は一人一人に、金森さんどうだとか、戒能さ
ん、大石さん、鵜飼さん、小島さんにそれぞれ意見を聞いたら、五人ともみん
な違う答えなんですね。ただ、この五つの考え方を挙げますと、これは矛盾し
ている点もあれば相互に補い合う点もございまして、この五人の意見を全体と
して読めば、読んだ人なりに憲法制定の経緯、特に日本国憲法というのはだれ
がつくったのかということがほぼわかるようになっているような気がします。
 これを私、もう一度読んでみて、やはり憲法調査会で行われる憲法調査とい
うのはこういうものであってほしい。参加した人みんなが率直に自分の意見を
述べる。
その意見は、非常に対立している点もあるかもわからないけれども、共通して
いる点もあるかもわからない。ただ、私がこの五人を呼んだときには、改憲論
者も改憲論者でない人も、年寄りも若い者も、それから憲法のことを直接知っ
ている人も頭でしか知らない人も、と思って公平に集めました。憲法調査会の
委員の方がそういうふうに選ばれているのかどうかということは私にはわかり
ませんが、しかし、趣旨としてはそういう公正な調査であってほしいというこ
とが私の考え方です。
 そして、もうこれで終わりますけれども、最後に第四期の、サンフランシス
コ講和条約と日米安保条約が発効した一九五二年の四月二十八日から今日まで、
約五十年が日本の憲法の現代史になるわけですね。
 問題なのは、五十年たって今、我々が当面している日本の憲法の実情という
のはどうかということです。
 ですから、私は、ずっと一貫して言っているように、憲法典にどう書かれて
いるかという問題よりも先に、憲法典に書かれていることが守られているのか
どうか、実現しているのかどうかということをまず調査すべきであって、その
上で、現実を直すべきなのか、あるいは条文の方を直すべきなのかを考える。
 そうでなくて、初めから憲法典がいいか悪いかなどという、だれがつくった
にせよ、文章を文章としていいか悪いかという議論をしていても、これは論者
によってみんな意見が違うのは当たり前で、さっき私が言ったように、憲法と
いうたった一つの言葉が、広辞苑とOEDとリトレではあれだけ違う。イギリ
ス人は百年かかってつくったと思うし、フランス人はフランス革命からだと思
うし、日本人は聖徳太子の憲法まで頭に浮かぶ。それだけ違うのですから、ま
して、現代の憲法の分析というものは慎重にやる必要がある。
 そういう点でいいますと、私は、現代の憲法状況というのは、先ほど言った、
世界の憲法史から学ぶ三つの基準に照らし合わせてみると、まず第一に、一体、
日本の現状というのは主権が存在しているのかどうか、これが第一の問題です。
 明治憲法のときに、日本に主権があるかどうかなどということを疑う人は一
人もいませんでした。明治憲法の時代、第一期には、憲法はなかったけれども
主権はありました。第二期、明治憲法ができたときにも主権はあった。戦争中
もあった。しかし、占領中は主権はありません。日本の主権はない。もちろん、
占領軍が権力を握っていたわけですから、その上に極東委員会があっても、天
皇及び日本政府はそれに従属していたわけですから、日本には主権はありませ
ん。
 しかし問題なのは、占領が終わった今日、例えば講和条約を結んで日本は独
立した、占領は終わったというけれども、一例を挙げればあの講和条約、当時
のソ連は排除されていたわけですね。だから、いまだに北方領土の問題などと
いうのは解決のしようがない。要するに、もし日本が完全に独立するのであっ
たら、これは理想論に過ぎるかもわからないけれども、少し占領が長く続いて
も、やはり独立する以上は主権を回復しなければならない。
 また、もっと重大なのは、占領中に全く国民には秘密に結ばれた日米安保条
約というものがあって、日米安保条約に基づけば一体日本に主権があるかどう
か、これが第一の問題です。
 私の本に、例えば今の日本の法体系が占領中とよく似ている、あるいは明治
時代とよく似ているというのは、今の日本には憲法、法律、命令といういわゆ
る憲法の体系があることは皆さん御承知のとおりですが、それと全く矛盾する
安保条約、地位協定、特別法、特別法というのは民事特別法とか刑事特別法と
かたくさんありますが、そういう体系が全く矛盾するものの二本立てなんです
ね。
 だから、日本では明治以来、日本の憲法というのは二本立てだから、そのう
ちに学校の生徒は日本のことを書かせると二本と、一本、二本の二本を書くの
じゃないかと私は冗談を言ったことがあるんです、漢字を知らない人間はです
ね。
 それこそ法律が二本立てになっているんですね。だから……
○中山会長 発言者にちょっと申し上げます。
 幹事会の申し合わせの時間が相当超過をしておりますので、結論をお願いい
たします。
○長谷川参考人 はい、わかりました。
 そういうことですから、今の主権の問題。
 それから第二の問題としては、国家権力の発動を規制する規制原理というも
のがあるかどうかという問題、これは私は、例えば今の議院内閣制とか、そう
いう点を考えれば、かなり整備していると思います。
 それから第三の問題は、一体、基本的人権が保障されているかどうか。この
点については、私の経験では、私は名古屋に住んで、中部電力という電気会社
の電気で生活していますけれども、中部電力の労働者が職場で差別されて、そ
の差別を会社に謝罪させる、補償させる、二度とそういうことをしないという
ふうに言わせるために、何と二十五年かかって、昨年和解して勝利しましたけ
れども、それの後援会の会長を私は二十五年やらされていたものですから、そ
れが中部電力だけではなくて、東京電力、関西電力、日本じゅう同じような職
場があるのを見て、この点に関する限り、日本の大企業の職場には人権はない
んじゃないかというふうに思います。
 それはともかくとして、そういう三つの基準で調べていただきたい。ですか
ら……
○中山会長 参考人にひとつ改めてお願いいたします。時間が相当超過しまし
たので。
○長谷川参考人 はい。日本国憲法の現状をそういう基準で調べていただいて、
その上で。調べるということ自身がこの憲法調査会のお仕事だと思いますので。
 大変時間を余計とって申しわけありませんでしたけれども、私の話はこれで
終わらせていただきたいと思います。どうも失礼しました。(拍手)
○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。石破茂君。
○石破委員 長谷川先生、きょうはまことにありがとうございました。
 私は、昭和三十二年生まれであります。完全な戦後世代であります。大学に
入りましたのが昭和五十年。ですから、完全な戦無世代、前の憲法調査会のこ
とも本の上でしか存じません。そのような主権者、有権者が相当数を占めてき
ましたので、私は、制定過程についてもう一度議論することは極めて意義深い
ことだというふうに考えております。
 私、学生時代に先生の論文を幾つか読ませていただきましたが、正直申し上
げて、かなり違和感を持って読ませていただきました。どうも違うなというふ
うに思いました。
 今回、初めて先生の論文集をずっと読ませていただきましたが、先生は、昭
和二十七年に「マルクシズム法学入門」という本をお書きでいらっしゃいます。
そこにこういうふうにお書きなんですね。資本主義社会に至る階級社会におい
て、法学は、自己の体系をつくり上げることが目的ではない、階級的法体系の
虚偽性を批判し、暴露し、宣伝することが主な任務であるというふうにお書き
になっておられます。そしてまた、プロレタリアートの立場に立ち得ない者に
はこんな任務はわかるはずがないだろうというふうにお書きになっている。あ
るいはそういうことなのかもしれません。
 見解が違いますので、あるいは失礼な質問をするかもしれませんが、どうか
御容赦をいただきたいと思っております。
 まず第一に、先生は御著書の中でこういうふうに書いていらっしゃる。無効
とははっきりお書きではありませんが、占領下につくられた憲法は、占領後は
再検討され、修正されたり、廃止されたりするのが当然である、それゆえ、占
領中の憲法が当然占領後に残り得るためには、占領後の検討を無意味ならしめ
るほどの強い国民の支持が占領中に示され、憲法の規範的意味内容が完全に国
民のものとなっていなくてはいけない、こういうふうにお書きであります。
 つまり、占領後は、占領下につくられた憲法は再検討され、修正されたり廃
止されるのが当然であるというふうにお書きですが、その御見解は今も変わり
ませんか。
○長谷川参考人 その意見は今も変わりません。
 今までの古関さんかどなたかの報告にもあったように、占領中につくった憲
法を再検討しろというのは、極東委員会の意見でもありましたし、それがマッ
カーサーを通じて吉田内閣までも来ていた、そういう意見なんですね。それを
しなかったのは、一般の国民ではなくて、また日本の知識人ではなくて、その
当時の日本を担当していた政治家がそういうことをしないと決めたわけですね。
 それからまた、つけ加えて言えば、検討をするためには、国民は日本国憲法
というものを、きょう私がしゃべったみたいに自由に批判もできる、そういう
条件でなければ困るので、単独講和が結ばれて、安保条約が発効して、自衛隊
ができて、その上でおまえ憲法を検討しろと言われたのでは――憲法に書かれ
ていることを守っている人こそが、困るから憲法を変えろと言う資格があるの
で、憲法を守らない人間、守っていない人間が変えろなんと言うのは、これは
私は、税金を払わない者が税法を変えろと言うのと同じことだと思っています。
○石破委員 先生は、六一年に書かれた「昭和憲法史」の中で、現在の憲法は
占領中につくられた押しつけの憲法の性質を脱しつつある、こういうふうに書
かれまして、押しつけだというふうにお書きであります。さらに、六八年の
「新版憲法学の方法」の中では、アメリカ帝国主義者が日本の人民、大衆に幻
想を与えつつつくられた憲法である、このようにお書きであります。ところが、
「前衛」の八一年を見ますと、日本国憲法の普遍的原理は、世界の憲法史の中
で位置づけられるものばかりであり、占領という偶然によって日本に押しつけ
られたものでないことは明白である、こう書いてあるわけですね。
 私は別に瑣末なことで議論するつもりはないのですが、先生は、これを押し
つけであり、そしてまた無効であるというふうに、つまり法律的に無効である
というふうにお考えですか。無効であるとすれば、その法律的な根拠は何です
か。
○長谷川参考人 私は、日本国憲法の制定経緯を見ていて、結果的に、占領中
も一定の、先ほど私の言った限度でですけれども、また戦後もそうですが、憲
法が無効であるというふうには考えておりません。
 それから、いわゆる押しつけというのは、だれがだれに押しつけたのかとい
うことが日本語の意味であって、ただ単に押しつけがあったかどうかと聞かれ
ても、返事のしようがないわけですね。ですから、例えばマッカーサーがその
当時の幣原内閣の閣僚に、また特に松本烝治なら松本烝治に押しつけたという
のだったら、きっとあの人たちは押しつけられたと思うと思います。また、そ
れを押しつけというのなら、押しつけでいいんじゃないですか。だから、憲法
を押しつける押しつけないは、だれがだれに対してかということを決めた上で
ならば、そういう押しつけはあったとかなかったとかというふうに評価できま
す。
 それから、先ほどの私の表現ですが、私も随分、論文だけで七、八百書いて
いますから、どこで何を書いたかということはよく覚えていません。しかし、
先ほどの「日本憲法の分析」で、五つの説がある、こう言ったわけですけれど
も、いろいろな見方が憲法にはまつわっているということは歴史的な事実だろ
うと思います。
 ですから、それのどこを強調するか。「前衛」で押しつけ論を強調するか、
あるいは普通の法律雑誌に書くときに、帝国主義がどうしたとかプロレタリア
がどうしたということを書くか書かないか、これは、だれを相手にして物を言
っているのかによって違うので、私のきょうの報告も、議員さん相手ですから、
決してそんな今言ったような、若いときに書いたような階級闘争がどうとか、
法というものは階級闘争のないところには必要がないんだというような話は、
そう思っていますけれども、きょうはしていないわけですね。
 ですから、それはその書いた論文の、だれがどう読んでいるときに合わせて
私が書いているのかということを知って、もし矛盾していればそれは私が至ら
なかったのだろうと思いますが、私は、割合高度に政治的な判断を加えて書い
ているつもりです。
○石破委員 私も、制定過程でだれがつくったとか押しつけであるとか、そう
いうことにそう生産的な意味があるとは思っていないのです。ただ、歴史の検
証として、それは一つのコンセンサスを、ある程度のコンセンサスを国民の間
で持たねばならぬのではないだろうかというふうに思っておるわけですね。
 これは、無効というのでしょうか、無効的にお話をされる方というのはいろ
いろなことをおっしゃるわけです。
 一つは、まず松本案を出したのだが、これは拒否をされました。そして、い
わゆる司令部案というのが出てきました。それは意に反するものであったけれ
ども、戦犯で追放されるという恐怖心や、天皇陛下が戦犯にかかるのではない
かという恐怖心、そういうようなもとで、一種の強迫による意思表示みたいな
ものでしょうか、そういう形でなされた。そしてまた、そのときに選挙は行わ
れたが、先生がどこかでお書きになっているように、当時の雰囲気は、憲法よ
り飯だ、こういう感じだった。
 そして、残った案は、政府案か共産党案しかなかった。二者択一でありまし
たね。
少なくとも、政府案よりも保守的なものは全部撤回をさせられました。そうい
うもとでできたものは、これは一種の無効的に考えるべきではないか、こうい
う主張があろうかと思っています。
 ただ、確かに民法的に言えば、強迫による意思表示かもしれない。しかし、
まさしくその強迫状態が終わったときに、つまり占領が終わった後に、では我
々日本人はどうしましたかということが、まさしく問われてしかるべきではな
いだろうかというふうに私は考えております。また、無効論を唱えましても、
それでは全部日本国憲法は無効なのか、そう言っているわけではありません。
一部改正ということを唱えているわけですから、それは無効論ではないと思っ
ているのですね。問題は、占領後に我々がどのような態度をとったかという点
にあろうかと思っております。
 そこで、私は思うのですけれども、何回もその後総選挙がありました。では、
憲法改正というのを正面から掲げて選挙を戦ったことがあるか、それはないと
思っているのです。これは一種の瑕疵の治癒みたいなものが行われたのではな
いだろうか。法定追認のような、そういう形で一種定着をしたのではないか。
少なくとも現時点においてはそうではないかというふうに思いますが、御見解
を承ります。
○長谷川参考人 私は、ちょうど戦争から帰ってきて大学の特別研究生という
のになって憲法をやっているときに、ある朝、新聞を読んだら、三月七日の朝
刊に新憲法のあれが出てきて、それでびっくりして大学に行っていろいろと人
に聞いたりなんかして、なかなかその当時の事情というのは一般の国民にはわ
からなかったわけですけれども、それ以来ずっと憲法のことを見ているわけで
す。
 あの手続に対しては、私は宮沢さんが述べているような、明治憲法の改正手
続をとって新憲法をつくったとか、それをマッカーサーが認めたとか、そうい
う手続について、私はもう初めから、だから占領中からそういう手続について
は批判的な見解しか述べたことはありません。
 しかし、でき上がったものが有効か無効かということになりましたら、私は
法律家として、無効にできる理由というものはない。
 なぜかというと、さっき私はクロムウェル革命のときから何百年の憲法の歴
史の話をしましたけれども、いまだかつて、外国の憲法で、つくるときに人殺
しがあったとか外国の殿様を連れてきたとか、そういうことを理由にして、で
き上がった憲法が無効か有効かなんということを議論しているのは聞いたこと
がありません。そこででき上がった憲法がその国の国民にとって利益か不利益
かによって問題はあるのであって、先ほど言ったように、憲法の制定過程とい
うのは、戦争とか革命とか内乱とか、そういうことがなければ憲法というのは
今までは新しくならなかったわけですね。
 だから、今幸い皆さんは非常に平和な手続で平和的に憲法を議論しているか
らそういうことも問題になるのかもわからないけれども、今までの例でいえば、
憲法というものは、でき上がったものが有効か無効かということを、例えば日
本の最高裁なら最高裁、裁判所なら裁判所が決めることで、法律家として考え
れば、私は憲法無効論というのは、日本の法律学の常識からいえば認められな
いと思います。
○石破委員 先生は護憲論者として著名な方だと私は認識をいたしております。
 先生はこういうふうにおっしゃるのですね。憲法が占領中にできた、よって
不完全なものであるということはある程度認める、しかしながら、今日これを
改正してはいけない、なぜならば、それがまさしく改正論者のロジックだから
であるというふうにおっしゃるのです。つまり、方法としては一緒なのですよ
ね。しかしながら、片一方はよくて片一方はいけないと言うのは、極めて非論
理的だと私は思っているのです。
 また、先生はなぜこの資本主義憲法というものを非常に支持をされるのか。
この憲法のもとにあります我が国民法というのは所有権絶対を定めたものであ
ります。
なぜ先生はこの憲法を極めて支持をされるのかということと、そしてまた繰り
返してのお尋ねになりますが、理屈として、片一方はいい、片一方はいけない、
それは非常に矛盾した態度ではないかというふうに私は思いますが、いかがで
すか。
○長谷川参考人 私は、自分から、自分が護憲論者だと言ったことはたしか一
度もないはずです。私の属している憲法会議というのがありまして、その憲法
会議の機関誌の名前は、私も提案したのですけれども、「憲法運動」という雑
誌があるのですね。護憲運動でもなければ改憲運動でもない、私のしようとし
ていることは憲法運動だと言ったことがあるのです。
 護憲という言葉、余り私は使ったことがないのですが、きょう実は、名古屋
からここへ来るのに、新幹線で文庫本、中曽根さんと宮澤さんの対談を読んで
きたのですね。そうしたら、今や日本語で護憲論というのは、自民党の中の宮
澤さんが護憲論者だと書いてあるのですね。あんな護憲というのは、僕は見た
ことも聞いたことも考えたこともない。
 自民党の中に護憲論者と改憲論者、中曽根さんが改憲論者で片一方が護憲論
者だという、中曽根さんは不思議そうな、何か文句がありそうなことで言って
いるんだけれども、宮澤さんはそれが当たり前みたいで、例の調子と言っては
悪いんだけれども、言っているのですが、ああいう日本語の使い方で、今自民
党の中でしか護憲と改憲が争われていない、使われていないような雰囲気だっ
たら、絶対に僕は護憲論者だと言う気はありません。
 それから、あと何でしたか……(石破委員「資本主義憲法を擁護されるいわ
れ」と呼ぶ)それは資本主義憲法といっても、結局、四百年の歴史があるので、
だんだん変わってきています。今はもうヨーロッパなんかは、社会民主党の人
たちが政権をとっている国が多いわけですから、そこで資本主義といっても、
それはかなり修正された資本主義で、特に憲法の上では、先ほど私が言ったよ
うに、第二次大戦後は労働者の基本権とか国民の生存権、それからまた平和の
問題、そういう問題を採用するようになってきているからこそ――私は資本主
義憲法であるから賛成しているわけでも何でもなくて、日本の憲法でも、憲法
二十九条の所有権を私は絶対とは思っていない。
 これは、やはり制限を受けているからこそ、日本の最高裁でも農地改革を合
憲という判例があるわけですね。もし憲法二十九条の所有権が絶対であったな
らば、農地改革が合憲になるなんというはずはないのです。
 ですから、考え方というのはどんどん変わってきていますから、私は、日本
の現状で日本国憲法を支持はするけれども、しかし、日本国憲法の中に賛成で
きないところもあります。
 それは最初に言ったように、もっとよく改正される、そういう政治状況があ
るなら、私は憲法改正に賛成するかもわかりません。しかし、私の現状分析で
は、今、改悪する条件はあっても、改正される条件なんというのはほとんどな
いという判断ですから、そういう意味で、私は今の憲法に賛成しているわけで
す。全面的に賛成しているわけではありません。
○石破委員 それでは、話が戻って恐縮ですが、今の日本国は完全なる主権国
家ではないというふうにお考えなのだと思います。そうしますと、完全に主権
を回復した状態になって初めて憲法というのを議論すべきだ、憲法改正という
ものを試みるべきだというふうにお考えなのでしょうか。
 そして、完全に主権を回復するということは、先生の御主張からすると、日
米安全保障条約を破棄し、米軍が撤退をするということが完全な主権の回復で
あるというふうにお考えですか。
○長谷川参考人 これは、先ほどから私は外国の例を随分挙げているわけです
けれども、憲法改正ができる条件というのは、フランスのあの第四共和制の憲
法でしたか、外国の軍隊が一部でも占領しているときには憲法を改正してはい
けないという条文を御承知だと思うのですけれども、ちょうどこの憲法を改正
するときに、美濃部さんはまさにそういう立場に立って、今は憲法を改正すべ
きでないということを積極的に主張していましたよね、美濃部達吉さんは。だ
けれども、ああいう状況で憲法は改正された。そして、今欠陥が問題になって
いるわけですけれども、憲法を改正する理想的な条件というのは、やはり主権
が回復して、完全に日本人、日本国民が日本のことを自主的に考えられるよう
な条件ができたとき、そのときにこそ本格的に憲法を改正することができるの
ではないか、これはごく当たり前のことですけれども。
 それで、その条件というのは、確かに、米軍がいなくなってもらうというこ
とは、これは僕じゃなくてもだれでも、日本を独立させるためには、あるいは
日本の主権を回復するためには、まずは沖縄あたりから米軍をどんどん減らす、
それは一つの条件になると思います。
 それからさっき言ったように、私は、憲法と安保条約、日本には基本法が二
つあると言っているんですから、片一方の改憲論者の人は憲法をなくせと言う
かもわからぬけれども、私は安保の方をなくしてほしい。私は、憲法と安保条
約という現実に機能している二つの基本法が日本にあると思っていますから、
安保条約の方はなくなってほしい。
 だから、安保条約がなくなって米軍が日本から出ていってくれてもまだほか
の条件がいろいろあるかもわかりませんが、ともかく、その二つがずっと今日
のように続いている限りは、とても憲法改正を議論する――ですから、憲法改
正を主張する、押しつけ論を主張する人たちが、何で今の日本の政治にアメリ
カが軍事的に圧力をかけたり経済的に押しつけをやっているのに対して黙って
いるのか、私は非常に不思議です。ですから、私も押しつけには反対です。
○石破委員 どうも議論が余りかみ合いませんが、私は、戦後、日本が平和で
あり、経済的繁栄を遂げることが少なくとも今日までできたのは、日本国憲法
のおかげであると同時に、否、それよりも、日米安全保障条約と自衛隊の存在
があったから日本国は平和であり、そしてまた経済的繁栄を遂げたというふう
に、客観的事実として自分としては認識をしておるわけです。
 ただ、冷戦終了後は、本当に日本のあり方というものが問われねばならない。
そうしますと、今の日米安全保障条約というのは、片務条約だとは私は申しま
せんが、非対称的双務条約なんだろうなというふうに思っているのです。集団
的自衛権が使えないなどというのはその最たるものだと思っています。
 では、それを、対称的なというのでしょうか、双務条約に近づけるというこ
とも、主権を確保するということに必要なことではなかろうか。
 つまり、米軍が出ていってくれる、日米安全保障条約もなくなってくる、そ
れから憲法改正なんだと言うことは、我が国の存立、平和、独立の維持という
ことを考えれば、極めて危険な論であるというふうに考えておる次第でござい
ますが、いかがですか。
○長谷川参考人 政治的な意見でしたら幾らでも、今のと全く反対の議論をす
ることもできますし、私自身は、日本の現状を見て、現状に満足していません
から、憲法のおかげでこんなによくなったとか、あるいは安保のおかげでこん
なに平和だなんて思ったこともありません。それは、現状をエンジョイしてい
る人と、私のように年とってひとりで年金だけで生活している人間とのあるい
は感覚の相違かもわかりませんけれども、私は現状自身に非常に不満を持って
いるし、憲法については特に、さっき言ったように、主権も回復していない、
人権も守られていないという例ばかり、あるいはそういうのばかり私のところ
に来るのかもわかりませんけれども、そういうのを見ていますから、だから、
余りあなたのような政治論はできない。
 ただ、私は、問題はそういう政治論ではなくて、日本国憲法というのが現に
有効な憲法としてあれば、そこに書かれていることがどれだけ守られているか
どうかということをまずしっかり確認して、憲法を守っている人でなければ憲
法を変える資格はない。だって、変えたってまた守らないんでしょう、都合が
悪くなれば。
 だから、今憲法を守らないで憲法を変えろ変えろなんて言っている人たちは、
僕は、もう七十年生きていますと、そういうことを言っている人は、変わった
ら必ず何をするかということを聞かなくてもわかるような気がします。今本当
に忠実に憲法を守ろうとして努力している人なら、憲法が変わったら、今度は
変わったものを一生懸命守るでしょう。私はそういう感じがします。
○石破委員 私は、時の主権者の意向で憲法が変わることはあり得べしだと思
っているんですよ。憲法の改正に限界があるかどうかはまた別の議論ですけれ
ども。
仮に九九%、八〇%の人が賛成しても、憲法には変えられないものがあるとい
う議論も、これはもう一度再検討してみる必要があるのではないか。先人の方
が後の人よりも絶対的な権力を持っているということも、考えてみれば極めて
おかしなことだと私は思っているわけです。
 時間でございますので、先生、あと一つか二つお教えください。
 先生は幾つかの著書の中でスターリン憲法を随分称賛しておられるわけです。
それは、深くインターナショナル的であり、徹底的な、終始一貫した民主主義
であり、ブルジョア憲法とは異なり、社会は、相互に親睦の関係にある労働者
と農民から成っておるというようなことが書いてあるわけですね。「新版憲法
学の方法」の中で先生はそのようにお書きになっておられる。ところが、残念
ながら、スターリン憲法のもとで、スターリン政権下で何百万という人が虐殺
をされておる、これは明らかな事実だと思います。
 そしてまた、同じ本の中で、このソ連同盟憲法の意義が世界の三分の一で実
証されつつある、スターリンの指摘した、ソ連憲法が日本人にとって綱領とな
るという性格も、次第に身近になって感ぜられつつあるというふうにお書きで
あります。
 これは、イフということはやってはならないことかもしれませんが、私は、
日本がソ同盟憲法を採用しなくて本当によかったなというふうに心から思って
いる一人であります。
 そのソ連の憲法というものは徹底的に変わったわけですね。先生がおっしゃ
ったように、三権分立というものを否定しておる、議会が立法もやり、そして
また行政もやる、そしてそれが正しいかどうかは、政治がまさしく正しいかに
よって決まるのであるというふうに先生はお書きであります。それはすべて、
ロシアの成立によって否定をされた。そしてまた、同じように東欧諸国もすべ
て憲法を変えてきたわけであります。
 私は、やはりその国の実情に合わなくなってきたとすれば、憲法というもの
は変わっていかねばならない。先生が絶賛されておられるスターリン憲法もそ
のように変わってきたわけであります。私どもも、そういう観点から、実情に
合わない点というものは、広く、国民主権、主権者の意思を体しながら、変え
るべきものは変えていく、それが正しい姿勢ではないかというふうに考えてお
りますが、御見解を承ります。
○長谷川参考人 私はスターリン憲法を絶賛した記憶がないんですけれども、
スターリン憲法のすぐれた点、これは、ソ連の憲法の歴史から見ての話と、そ
れからソ連が影響力を持っていた周辺の国、それから資本主義国との関係で、
スターリン憲法の持っている意義というものを認めたことはあります。
 特に、今記憶しているのは、スターリンが憲法をつくるときに、最初に長い
演説をしているんです。その演説の中で、スターリンは非常に自慢げに、一九
三六年の憲法は、資本主義の憲法みたいに、まだ実現していない理想だけを掲
げているのと違って、スターリン憲法は既に実現していることを述べているん
だ、こういうふうに演説で言っているんですね。
 私は不明にして、ソ連の研究者でも何でもないものですから、その一九三六
年のソ連の実態というものは、行ったこともないし、知りませんでした。だけ
れども、スターリンが、憲法の議論として、観念的な理想だけを掲げるのは、
これは道徳の問題で法の問題ではないんだ、法の問題というものは、既に実現
したこと、実現できることを書くんだと言ったことは、私は、スターリンの言
ったことは今でも憲法論としては正しいし、イギリス人の憲法学者はほとんど
同じようなことを言ったり書いたりしています。
 私は憲法学者ですから、スターリンの演説の憲法論に関するところの意味と
か、一九三六年憲法のソ連における位置づけとかをしたことはあります。ある
いはそれをもっと政治的に判断すれば、私がまさか九〇年代になってソ連が解
体するとは思わず、あんなことを書いていたのはばかだと言うけれども、それ
は私だけじゃなくて、ほとんどの人がばかなんです、そういうことを言えば。
だから、それはもちろん、私もばかだったということは認めないことはありま
せんけれども、問題は、どういう論点でスターリンを礼賛したのか、褒めたの
か。
 これは、ソ連の憲法については、私は、レーニンのときからソ連共産党を、
社会団体の一つであるのに、実際には国の制度として扱っていることは憲法に
違反しているということは随分言ったこともありますし、何か議論した覚えも
ありますから、私は社会主義型の憲法に全面的に賛成していたわけではありま
せん。
○石破委員 ありがとうございました。
 私は、憲法は本当に時代によって変わらなければいけないというふうに思っ
ているんです。そこになければいけないことというのは、やはり人権宣言、そ
してまたそれにかわるというのでしょうか、人権宣言というのは自由主義だろ
うというふうに思っています。そして国民主権、民主主義というものが担保さ
れる。それによって、時代によって憲法は変わっていかねばならない。そして、
それは、主権者たる国民が自由な意思において時代に合ったように変えていく
のが正しいというふうに考えております。
 本日は、まことにありがとうございました。
    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕
○鹿野会長代理 中野寛成君。
○中野(寛)委員 民主党の中野寛成でございます。きょうはどうもありがと
うございました。
 先ほど先生が、日本国憲法の成立の経緯については現在は私は余り関心がな
いというふうにおっしゃられました。私とその理由は違うかもしれませんが、
私自身も実は余り関心がない。しかし、きょうは、現憲法の制定の経緯をとい
うことで当調査会の方からお願いをしたわけでありますので、そういう意味で
は、先生が憲法の歴史観から始められたことにむしろ私としてはほっとしてお
ります。
 さてそこで、憲法の経緯を振り返ることの意味なのですが、憲法を改正する
かしないかという論議をするときには私は余り関心がない。しかし、成立の経
緯を勉強することが無意味だという意味ではなくて、解釈をするときには大い
に役に立つというふうに思っております。
 今日まで長い間、日本は憲法について不毛の論争が重ねられてまいりました。
これは、不毛の論争ではなくて建設的な論争は、これからも、日本の国が存在
する限り永遠に続けていくべきであると思います。よって、憲法調査会は常に
存在しているべきだというふうにさえ私は思うわけであります。
 そこで、ただ問題は、先生から、主権の回復がなされていない、なされるま
では憲法改正論を論ずるべきではないという今のお話がありましたが、有権的
解釈は一体だれがするのでしょうか。それは最高裁判所でしょうか、国会でし
ょうか、世論調査でしょうか。この見解の相違、私たちは、主権があると思っ
ています。そして、主権を持っている日本国民が憲法の改正論議をすることは
当然だと思っていますが、有権的解釈はだれがするんでしょうか。
○長谷川参考人 それは法律家的に言えば、憲法は、国会が国権の最高機関で
あるということになっているわけですから、主権者である国民自身が何らかの
方法で、例えば国民投票法とかそういうものをつくって、国民投票なりなんな
りで国民自身が意見を述べることが可能になれば、それが第一。その次にはや
はり、国家権力の中では国会が国権の最高機関として役割を果たすことができ
るんだろうと思います。
○中野(寛)委員 そのとおりのことが今、日本国憲法には改正手続論の中で
触れられているのではないでしょうか。国会が発議をし、そして国民投票にか
けるということになっております。
 少なくとも、現在の日本国憲法を日本国憲法として私たちは認める立場であ
りますが、そしてまた同時に、今の日本国憲法は明治憲法と形式上はその改正
という形でつながっていると思っていますし、そしてまた、戦前からあったい
わゆる片仮名法律が、新たな憲法のもとでもこれは認知されて継続しているも
のもあるわけであります。
 ちょっと横道にそれますが、よく学生時代に、日本国憲法は民定憲法か欽定
憲法かという話を習ったことがあります。私の教えていただいた教授は、どち
らでもない、君民共同憲法だというふうに教えられましたけれども、それをだ
れが言っているかは先生は御存じだと思います。
 しかし、いずれにせよ、手続上は継続性を持ったもの。そこにGHQの意図
が働いたか、またポツダム宣言が働いたかという問題は、現実論としてあるけ
れども、形の上では継続したもの。そして、これから我々が論ずる憲法の改正
か否かというものも、現在の日本国憲法の改正手続に基づいてやろうというこ
とであって、革命をやろうというわけではない。
 だとするならば、先生が言われた、現在、主権が回復していないから改正論
議を今するのはいかがかというのは、これは憲法学者としての御判断というよ
りも政治的御判断、あえて申し上げるならば、いわゆる解釈上の違いというこ
とになるのかなというふうに思いますが、いかがですか。
○長谷川参考人 憲法を改正すべきかどうかというのは、手続の問題を別にす
れば、極めて政治的な判断ですね、それ自体は。
 そして、私が一つの条件として、主権が回復していないときには憲法改正は
しない方がいいと言うのは、それはフランスの第四共和制憲法の一つの条文な
どを参考にして言っている意見であって、問題は、私の政治的な意見じゃなく
て、私の言った、今の日本は主権が完全には存在していないというのが事実か
どうかということは、これは調べることができます。
 例えば、安保と憲法が矛盾している、これは憲法の第九条と安保条約を比較
すればだれだってわかることですね。そうすると、砂川事件でもって、それが
最高裁まで行くと、最高裁は、安保条約は高度に政治的だから、統治行為だか
ら、要するに憲法判断ができなかったわけですね。憲法判断しないから安保条
約は無効にならなかっただけであって、積極的に安保条約が合憲だという論証
は私はできていなかったと思うんです。ですから、最高裁でさえ、普通の法律
論では安保条約は認められない。その前の東京地裁の伊達判決なんかでは、明
らかに米軍の駐留は憲法違反だということを地裁で言っているわけですね。
 ですから、地裁の裁判官が違憲だと言い、最高裁の裁判官が判断できなかっ
たような問題、それは内閣が承認し、国会もそれを追認したとしても、私の意
見では、だれが何と言おうと、それは事実関係なんだから、それこそ憲法調査
会で憲法の調査をするなら、沖縄に委員を派遣して、沖縄で日本の国家主権が
存立しているかどうかということをお調べになったら、行って一週間も調査す
ればすぐわかるんじゃないかと思います。
 ですから、私は、そういう事実に基づいて、それは学者はすべてそうですけ
れども、事実に基づいて自分の主張を組み立てているわけでして、単に私は政
治論、別にこの年で特定の政治目的を持って行動する必要も全くありませんか
ら、きょうお話ししたいのは、私が今まで言ってきたことと矛盾しないように、
憲法についての、憲法の学界で納得されるような、通用するような議論をして
いたわけです。
 ただ、確かに、憲法改正論で、主権が回復しなきゃできないんだなんという
ことを積極的に言っているのは、余り聞いたことがありませんけれどもね。こ
れは私の個人的な意見かもわかりません。
○中野(寛)委員 私は憲法改正もしくは改悪の論議をするときによく冗談に
言うんですが、改悪なら反対だけれども改正なら賛成、こういう言い方をする
ときがあります。その改悪か改正かの判断は、これは国会の発議と国民の投票
によって決めるしかないと思うんです。
 現在の憲法を認め、そして、現在の憲法を認めるということは、私は日本に
主権があることだと思っている。それから、日米安保条約は現在の日本国憲法
のシステムに基づいて結ばれ、そして、世論調査をやっても国民の大多数が憲
法の維持を支持している、まあ村山さんみたいに堅持まで言うかどうかは別に
して。という実態があるときに、主権の回復論を、先生が私見だとおっしゃら
れましたので、それはそれとして先生の御私見として受けとめたいと思います。
 さて、憲法が守られているかどうかがまず優先的な課題だと言われました。
憲法には、消極的な概念、すなわち何々をしてはならないという概念と、それ
から積極的な概念、いわゆる基本的人権を守るとかという積極的な概念とがあ
る。ややもすると消極的な概念、してはならない、例えば九条の戦争放棄のと
ころなどは、意図的にといいますか、政治的にといいますか、厳しく解釈をし
て、それこそ自衛隊違憲論まで行く人もいます。一方で、積極的な概念の方は、
何か目標値みたいになっていて、日本国民の生存権が完全に守られているかと
いうと、これも不十分であるということがあるでしょう。
 ですから、憲法が完全に守られているかどうかというこのことが定まらなけ
れば改正論議等ができないというのも、私はいかがかと。むしろ、唯一国会に
のみ発議権があるわけですから、国会で、憲法調査会があり、このようにして
論議をし、そして、もし意見が一致すれば、この現在ある調査会は発議権を前
提としたものではないけれども、しかし、憲法上は国会に発議権があって、そ
して国民投票ですから、この憲法が守られているか否かの有権的解釈も、また
国会と国民にしかないのではないかというふうに私は思うんです。ですから、
それは、議論をしてそこで諮るしかない。
 その場合に、先生おっしゃるように、憲法が守られなければ憲法の改正はで
きないと言われることは、果たしてだれが守られていると解釈するのかしない
のか。これは、それぞれの学者の論争として、学説として議論を続けることは
私は当然のことだと思いますが、もう一つ先生の御説明に納得がいきかねたの
でありますが、どうお考えでしょうか。
○長谷川参考人 私のきょうの報告で一貫して言おうとしてきたことは、大変
簡単なことで、日本国憲法というのは、憲法典に書かれていること、それがい
いか悪いかということじゃなくて、世界の憲法の歴史が示しているような、憲
法の中身として考える、例えば人権が守られているかどうかとか、国家権力が
規制されているかどうかとか、主権があるかどうかとか、そういう原則的なこ
とを十分考えて議論してほしいというのが私の意見なんですね。
 ですから、その三つの基準の一つの基準である主権があるかないかというこ
とは、もう四百年も前から、当時のイタリアの都市国家には、あるかないかと
かという議論は山ほどあるんですね。ですから、そういうのをちゃんと勉強し
て、今の日本の現状が果たして主権国家と――これは法律的にではないですよ。
主権という概念は憲法的な概念で、法律的であると同時に高度に政治的な概念
ですから、この主権という名に値するような状態で今の日本があるかどうかと
いうことは、お調べになれば、日本の憲法学者はかなりの人が私の言うことに
賛成してくれると思うし、アメリカの憲法学者なら、今の日本を見て、一体、
外交権、防衛権、日本は自主的に行使されていますかと聞いたら、ノーという
ふうに答えるだろうと思います。
 私は、常識と言うとおかしいですけれども、そういう今の日本の現実という
のは、だから、憲法の規定どおり、国会で国権の最高機関として審議され、そ
こでお決めになって、結論が出たら国民投票にかけるというのは、それは合法
的で結構ですけれども、そういう条件に、今、日本の社会なり日本の法、日本
の憲法の実態がない、私が何十年か研究した自分の研究の結果としてそう見て
いるのですから、これは、国会でどういう意見があろうと最高裁がどう考えよ
うと、私の学者としての意見は私が言ったとおりでございます。
○中野(寛)委員 先生の御意見として承りました。
 ただ、私の感想を申し上げさせていただければ、先生の論理でおっしゃると、
世界の国々の中で何カ国が主権を実質的に持っている国と言えるのだろうか、
何カ国が憲法を本当に守っていると言えるのだろうかという疑問の方が大変大
きく浮かび上がってまいりました。そこは私の感想だけ申し上げておきます。
 さて、もう一つ、日本の憲法解釈についての不毛の論争を避ける方法として
一つ参考になるのが憲法裁判所。これは、いろいろな国に憲法裁判所はありま
すが、現在の違憲立法審査権を持っているという最高裁判所のことではなくて、
私が申し上げたいのは、ドイツ型の憲法裁判所を想定して申し上げたいと思い
ます、オーストリア型でもなくて。
 私は、新たに憲法を改正するときには、日本はぜひ憲法裁判所を持つべきだ
と考えているのです。
 例えば、有名な例でいうと、ドイツからソマリアへのドイツ軍派遣のときに、
野党が憲法裁判所に訴えた。そして、憲法裁判所は、国連の意思に基づいての
出兵ということで、合憲判決を下した。しかし、そこで終わらないで、その当
時、改めてまたその段階で憲法を改正するという経緯を経たと思います。
 言うならば、国民の間で憲法解釈について意見が違ったときに、一たん憲法
裁判所に有権的解釈をゆだねる、その判決が気に入らなければ改憲を主張する、
その判決が気に入ったところはよしよしと納得するという形をとる。だから、
新しい憲法のあり方を決めるのは国会であり国民なのだけれども、この憲法に
基づく解釈はこうですよと、一たん有権的解釈を決める場所というものがある
ことによって、不毛の論争をある程度避けていくということになるのではない
か、このようにも思うのです。
 先ほど来、先生の御意見をお聞きしながら、何かそこに有権的解釈をすると
いうことがなければ、いつまでも不毛の論争が続いてしようがないということ
になると思いますが、そのような考え方についてはどうお考えでしょうか。
○長谷川参考人 今のお考えは、現在のヨーロッパ、フランスでもそうですが、
憲法の考え方としては、かなり有力なというか、流行しているというか、そう
いう考え方だと思います。
 しかし、私にあえて言わせれば、日本の現状で、憲法八十一条で違憲立法審
査権をゆだねられている最高裁または下級裁判所が日本にはあるのですから、
例えば先ほど言った、最高裁が砂川事件のときに米軍の駐留は憲法違反だと十
五人で判決を下したら、あっという間に条約が変わるかもわかりません、法律
が変わるかもわかりません。逆に、最高裁がどうかなるかもわかりません。そ
れはわかりませんけれども、今の日本の憲法で、今言われたような趣旨のこと
は、最高裁がちゃんとしていればできることだし、まさに、私に言わせれば、
今の憲法を私は支持している一つの理由に、最高裁の違憲判決というものを想
定しているのです。
 ところが、最高裁の十五人の裁判官、自民党内閣が何十年と続くものだから、
自民党の政策に反対の人はだれも、私の知っている人でも、憲法九条に反対だ
と一度論文を書いたために、それを調べられて最高裁の裁判官になり損なった
のがいますけれども、そういう最高裁だからだめなので、憲法裁判所をつくら
なくても、ちゃんと今の最高裁はそれだけの判決を下すことができるように憲
法はできているのですから。あの最高裁の裁判官、国会は関係ないですね、あ
れは内閣が任命権を持っていますから、だけれども、もう少し裁判官を何とか
してもらって、少なくとも憲法学者が憲法論としては適切と思えるような判決
をたまには下してくれれば、今言われたような趣旨は、憲法裁判所をつくらな
くても、それにまた政府なり国会なりが上手に対応すれば、今の憲法のもとで
も随分よくなるのではないかと思います。
    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕
○中野(寛)委員 時間が参りましたから終わりますが、現在の日本の最高裁
の違憲立法審査権というのは、何か具体的な事例が出ないと裁判というものが
行われないという経緯もあります。そういう意味では、先ほど申し上げたドイ
ツ型の憲法裁判所とは性格が違うと思うのです。
 そしてまた、最高裁の判事が政治的にどうこうという論議は、これは日本に
政権交代があれば是正されることですから、そのことについては、私は余り議
論をしたいとは思っておりません。
 最後に、私は、これは先生に申し上げるのではないのですが、結びとして、
憲法はやはりその国の基本法ですから、一つの風格が必要だと思います。その
風格を得られるものは、国際社会の憲法に対する歴史と今後の動向、また日本
の今後のあるべき姿、すなわち、未来から見る憲法のあり方ということを大い
に大事にしなければいけない、それが憲法の風格をつくり、説得力を持つもの
だというふうに思っておりまして、これからも大いに論じてまいりたいと思い
ます。どうもありがとうございました。
○中山会長 平田米男君。
○平田委員 長谷川先生、きょうは大変にありがとうございました。
 私、もう少し具体的な話にさせていただきたいと思います。
 先生が労働旬報社から昭和五十六年三月に出版されておられます「世界史の
なかの憲法」という著作がございますが、その中で、文民規定の問題に触れて
おいでになるわけでございます。ちょっと読ませていただきますと、
  「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という一
句が第六六条に加えられたのは、貴族院の特別委員会においてである。当時、
第九条二項は芦田の考えとはちがって、いっさいの戦力の保持を禁止するもの
と考えられていたから、いっさいの軍隊を否定しておきながら、総理大臣と国
務大臣をシビリアンでなければならないと規定するのは意味がないとおもわれ
てもしかたがなかった。この問題はGHQの要請で、はじめは衆議院でとりあ
げられたが、政府の反対で沙汰やみになった。ところが、今回は、極東委員会
の要請であるということでGHQは引きさがらず、金森はその旨を第一回小委
員会(九月二八日)でのべざるをえなかった。結局、シビリアンを「文民」と
いう日本語にして、修正案ができあがった。
 この修正は、政府や多くの議員が反対したほど無意味な規定ではなかった。
新憲法のもとでいっさいの戦力が否定されれば軍人は存在せず、国民はすべて
シビリアンだということになるが、もしそうなったとすれば、旧軍人は現在シ
ビリアンだということで首相や閣僚の座につくことが可能になる。軍国主義の
復活をおそれる極東委員会の諸国が、旧軍人の復活をおそれていたと考えれば、
それには相当の理由がある。
このように書かれているわけでございます。
 極東委員会が、まさに日本国民が自主的に憲法を制定しなければならないと
言っておりました極東委員会が、この文民規定については大変強力に挿入する
ことを要求してきた。この辺の経過について、先生の御認識を、また評価をお
伺いできればと思います。
○長谷川参考人 これは前回か前々回か、ここの参考人が詳しく述べている部
分があったかと思うんですが、その経過は、私の判断では、極東委員会が開会
される前にマッカーサーが中間的な措置として以上に多くのことを憲法につい
てすべてやってしまったことに対して非常に批判的な立場を持っている国が多
かったということと、それからもう一つは、芦田修正というものについて、大
体金森さん自身にも私は聞いたんですけれども、あれによって何の変化もない
んだというふうに自分たちは思っていたし、芦田さん自身が、変えたなんとい
うことはあの当時は言いもしないし、そういう顔色もしていないから、あれは
全然問題にしていないんだということを私は聞いたことがあるんですが、それ
にもかかわらず、原案に何らかの修正が小委員会でなされたということに対す
る極東委員会の懸念というものがあそこに出ていたんじゃないだろうか。芦田
修正から必然的にではなくて、芦田修正に何らかのそういう日本の再軍備に対
する疑惑みたいなものがあったためにああいう厳しいのが出てきた。そうする
と、極東委員会からそういう疑惑が来ると、マッカーサーもやはりそれに従わ
ざるを得ない。それに抵抗すると、何か自分がそれを認めているように思われ
るということもあったでしょうし。
 率直のところ、芦田修正というのは、全く意味を変えないというふうにGH
Qでは考えていたんだろうと思います。ところが、極東委員会でそういう批判
が出たために、あれは結果として文民規定というものができ上がったんじゃな
いかというのが私の見解ですし、それから皆さん大体そういうふうに思ってい
るんじゃないかと思いますが。
○平田委員 極東委員会は、芦田修正によって日本が再軍備ができる余地が出
てきた、こういうことを心配して強く文民規定を入れたという御説明でござい
ました。
 そういたしますと、この芦田修正というものでございますけれども、これに
ついては、同じ書籍で、先生は、衆議院での重要な修正点は、
 第九条の戦争放棄規定であり、ここでは特別委員会委員長芦田均が特別に大
きな役割を演じている。それは、原案にはなかった第九条一項の冒頭に、「日
本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という句と、第
二項の冒頭に、「前文の目的を達するため」という句を特別委員会小委員会で
芦田が挿入したことをさしている。
このように、大変重要な修正点だというふうに言われているわけでございます。
 金森大臣の解釈は今先生がおっしゃられたとおりでございますが、この芦田
修正の評価でございますが、極東委員会の認識というものは、先生から見られ
て、それは十分考えられるものだというふうな御認識であるからゆえに重要な
修正点だというふうに御指摘になったんでしょうか。それをちょっと御説明い
ただけますか。
○長谷川参考人 私は、芦田修正というものを、その当時、私も含めて、また
金森さんもそうですし、学界でも、意味を変えないというふうな考え方が、芦
田さん自身を除けばほとんどの人がそう思っていたから、GHQでもそれを認
めたんじゃないかと思うんですね。
 そして、そういうふうに思うのは、あんな一行を入れたからといって、そも
そも自衛のための軍備まで捨てるというマッカーサー・ノートから始まった第
九条ですから、しかも世界的に監視される中で行われている憲法制定で、あの
芦田修正のたった一行で意味が逆転するなんということは皆さん考えていない。
それを考えたら、あの芦田修正というのは否決されたと思います。
 ですから、私自身も、あの当時の日本の状況、それから占領の状況から考え
て、後からああいうことを述べるというのは、それからまた法律家として言え
ば、法律の解釈、憲法の解釈というのは、そのとき腹の中で何を考えていたか
なんということは、まあ知らないよりも知っている方がましですけれども、そ
んなことによって法の解釈が変わるというふうには私は考えていません。
○平田委員 今お伺いしたのは、当時の状況ではなくて、金森さんが説明され
た内容も私が指摘したとおりでございますので、要するに、極東委員会がそう
いうふうに危惧をした、再軍備することを危惧したことについて、この芦田修
正というものはそういう解釈が十分成り立つものなのかどうか。それを芦田さ
んも否定したし、金森さんも否定したという事実はそのとおりでございますけ
れども、先生に憲法学者として伺っているわけです。まさにGHQが文民規定
を入れたことについては相当の理由があるというふうにおっしゃっているわけ
ですからお伺いしているわけです。この芦田修正について先生も重要な修正点
だともおっしゃっているわけですから、これはどういうつながりになるんでし
ょうか。先生がおっしゃるとおりだったら、まさにGHQの要求は相当な理由
があるなどということにはならないのではないかと私は思っておるものですか
ら。
 相当な理由があるとおっしゃった以上、芦田修正については、当時はそのよ
うな発言があったにしても、この修正によってやはり再軍備の可能性が出てき
たんだ、こういうふうに解釈するのがまさに自然だったからこそ、先生は、相
当な理由が極東委員会の修正要求にあったんだ、こういう御指摘なのではない
かというふうに私は思ったものですから、もう一度その辺、簡単に御説明いた
だけませんか。余り時間がありませんので、手短にお願いいたします。
○長谷川参考人 残念ながら、極東委員会の審議録というものは完全には公開
されていないと思います、今でも。ですから、極東委員会に関する、たしかプ
リーズリーという人のパンフレットみたいな本がありますし、若干の本があっ
て、それに基づいて、あるいは関係者の何か私的な話に基づいてしかこの問題
については歴史的な結論は持てないと思いますが、私は、大まかに言って、芦
田修正というのがあったから、どういう修正とかなんとかということじゃなく
て、ともかく原案に対する日本側の修正があったから、それを極東委員会が懸
念して、積極的にシビリアンにしろというのを持ってきたんじゃないかという
ふうに、その当時から、今もそういうふうに判断しております。
 ですから、将来、極東委員会のそのときの議事録がソ連も同意して完全に公
開されれば、またあるいは意見が変わるかもわかりません。
○平田委員 もう一つ。
 これは日本評論社から出されておるものでございますが、「憲法現代史」、
これの下で、一九五二年、内閣法制局による戦力に関する統一見解、これにつ
いて先生は、「「統一見解」は既成事実の合理化を目的としていたが、自衛の
ためであれば「戦力」を保持しうるという、いわゆる「芦田理論」を採用して
いない点に注意したい。」「「芦田理論」によれば、憲法第九条第二項は一切
の戦力の保持を禁止したわけではなく、自衛のための戦力は保持できるとされ
た。」「事実上の再軍備を「芦田理論」によらずに説明しようとしたところに
「統一見解」の苦心があり、そこに論理上の弱点もあった。この弱点は、再軍
備が進行するにつれて、大きくならざるをえない。」このようにおっしゃって
おいででありまして、ちょっと今先生のここでの御発言とこの文章の内容は違
うんじゃないかなと思うのです。まさに芦田理論によれば再軍備が認められて
いるんだということをここで評価されておられるというふうに思うのでござい
ますが、その点どうなのかということ。
 それから、先ほど、日米安保条約をなくせというふうにおっしゃいました。
憲法と矛盾する条約だからということでございましたけれども。では、安保条
約をなくしたときに、この憲法九条との関係はどのようになるというふうにお
考えなのでしょうか。すなわち、再軍備をすべきだというふうにお考えなのか、
いや、もう一切の軍備は要らないというお考えなのか、その辺のお考えをお聞
かせいただけますでしょうか。
○長谷川参考人 内閣の統一見解というのは、非常に細かい議論ではあるんで
すけれども、芦田氏の言うことは、要するに「前項の目的」というのを特定の
部分にひっかけて、自衛のためなら再軍備できる、だから戦力を持てるという
議論ですね。ところが、政府は、その当時から、一貫して戦力という言葉を使
わない、一定の何とかかんとかということを言っても戦力ということを一貫し
て使わなかったものですから、特に政府見解というのは、近代戦を戦うことの
できる軍隊は持てないとか、何か非常に条件をつけていたものですから、私が
そこに書いたように、自衛隊がだんだん大きくなるに従って説明できなくなっ
ちゃって困っていたわけですね。特に自衛隊をめぐる裁判が問題になっている
ときに裁判所に出させる政府の見解というのは、本当にわけのわからないもの
にだんだんなってきたわけです。(平田委員「長々と説明ではなくて、結論を」
と呼ぶ)ですから、それが一つ。
 それからもう一つは、安保をなくせば九条は非常にすっきりするんじゃない
ですか。
○平田委員 すっきりするというのは、要するに再軍備すべきだ、こういうふ
うにおっしゃっているのでしょうか。先生の「憲法現代史」の先ほどの文章か
ら見ますとそのように聞こえますが、それでよろしいのでしょうか。
○長谷川参考人 今の私の意見としては、再軍備には反対ですし、それから、
私はもう年ですから再軍備されても軍隊には行けませんけれども、私は、陸軍
の砲兵の経験を二年間やってきていますから、軍隊というのがどんなものかと
いうことを皆さん以上によく知っているので、軍隊をつくるくらいならば刑務
所をふやした方がましだと思っています。
○平田委員 終わります。
○中山会長 二見伸明君。
○二見委員 自由党の二見伸明です。本日は、いろいろな御意見をありがとう
ございました。
 私は、憲法論の立場からいきますと改正論者であります。基本的人権、国民
主権、平和主義、これは定着しています。と同時に、むしろ私は、基本的人権、
国民主権、平和主義というものを、より深く、さらに発展的にとらえて、そう
いう立場から憲法を見直し、改正すべきではないかというふうに考えています。
 日本国憲法は、制定の過程からして、マッカーサーに押しつけられたという
ことは否めない事実だと私は思います。だから、押しつけられたものだから憲
法を改正すべきだという短絡的な立場は私はとりません。今の憲法が時代に合
っているかどうか、二十一世紀の日本の国の形にふさわしいかどうかという立
場から憲法というものは見直す必要があるのではないかというふうに実は考え
ております。
 私は、現憲法は明治憲法改正の手続をとっておりますけれども、全く違う憲
法だと思います。私は子供のころから、日本国憲法というよりも新憲法という
名前でもってずっと親しんでまいりました。これは明治憲法とは全く異質な憲
法だと私は思います。そして、現憲法が持っている根本原理である個人の尊厳、
基本的人権の尊重、国民主権、平和主義、これは堅持すべきものだというふう
に私は考えています。
 そういう中で、憲法改正を論議する場合に中心となるのは、例えば平和主義
とは何かということが恐らく憲法改正論議の核心になるだろうというふうに私
は思っております。ただアプリオリに基本的人権、国民主権、平和主義と言っ
ているだけじゃなくて、平和主義とは何ぞや、基本的人権とは何ぞやというこ
とを議論した上での憲法改正であるべきだと思っております。
 実は、憲法が公布されたのは昭和二十一年十一月三日であります。私は当時、
小学校六年生でした。クラスの先生が、日本はもう二度と戦争はしないんだ、
だから軍隊は要らないし、軍備は持たなくていいんだ、こう説明されたのを今
でも覚えております。私は、そのとき先生に質問しました。日本が戦争をしな
くても攻められたらどうするんですかと聞いたらば、世界じゅうの国々が日本
の国を助けてくれるんだ、日本はそれを期待すればいいんだ、だから軍備は要
らないんだと教えられたわけであります。私は、武力紛争に介入するのは嫌だ、
かかわるのは嫌だという、いわゆる一国平和主義の原点というのはここにある
のではないかなというふうに実は考えております。
 九条を素直に読めば、自衛隊は違憲だと私は思います。どんな理屈をつけて
あれを読んでも、自衛隊が合憲だというふうになりません。それを、憲法の解
釈という不可思議な方法でもって、憲法制定当時とは百八十度違う合憲という
解釈を下したと私は思います。これは私は、政治の怠慢であると同時に最高裁
の怠慢だと思います。先生が先ほど申されたように、もし最高裁が憲法判断を
きちんと示していれば、例えば違憲だという判決が出れば、その瞬間に憲法を
改正するかどうかという議論が起こったはずですから、それをあいまいにして
しまったという最高裁のあのときの判決はおかしいと私は思う。
 ただ、平和主義というものを考えた場合に、先生の著作の中に消極的平和主
義という言葉があったように思います。
 私は、平和主義を考えた場合に、二つあると思います。日本は何もしないん
だ、いろいろなことがあるが何もしないんだという平和主義。そうじゃなくて、
世界の国々がみんなそれぞれの力を出し合って、場合によっては血を流しても
平和を守ろうじゃないか、国際の平和を維持しようじゃないかと頑張っている
ときに、日本もそれに参加すべきだという積極的な平和主義というのが当然あ
ると私は思います。私はむしろ積極的な平和主義の立場に立つ者です。
 そうした現状で、先生は、あくまでも何もしないという、自衛隊も解散する、
すべてなくしてしまって何もしないという消極的な平和主義を日本は貫くべき
だと考えているのか、むしろ積極的な平和主義に変えるべきだというふうなお
考えをお持ちなのかどうか、まずそこら辺はどうでしょうか。
○長谷川参考人 私がきょうお話ししたのは、日本が積極的あるいは消極的な
平和主義、いずれにしても平和主義的な外交政策をとるべきかどうかという問
題を考える場合に、その前提として、今の日本は今の国際情勢の中で、自主的
に平和主義、平和外交を考えることができるのかどうかということを問題にし
ていただきたいと。例えば、日米安保条約があって、新しいガイドラインがで
きて、法律ができているときに、アメリカの意向に反して日本が積極的な平和
外交をとれるのかどうかといえば、私は、とれないというふうに言わざるを得
ません。
 だから、さっきの憲法改正論と同じですけれども、そういう憲法の今の議論
を現実的なものとするためには、現状がどうなっているかということを前提に
した上で、その主張が立派なら、立派な主張が実現するためには今の憲法をど
うすればいいのかということを考えた方がいい。
 だから、私は、個人的に言えば、極めて積極的な平和論者というか、私は学
界の中では極めて戦闘的な学者だということになっているんですけれども、別
に平和を乱すつもりはないけれども積極的な人間ですが、問題は、国の立場と
して考えるためには、そういうことが言える条件があるかどうかということを
まず調査すべきだというのが私の意見です。
○二見委員 実は、憲法の問題は、そういう自衛隊に関係する問題というのは、
日本では憲法解釈というやり方でやっているわけですね。
 本当に憲法に合わせるように政治をすべきだ、これは私は正論だと思います。
ところが、憲法に合わせたような政治はできない、こういうふうに変えなきゃ
ならないという場合には、憲法を変える以外ありません。本来ならば憲法を変
えるべきなのに、憲法を変えるという大変なエネルギーを使うよりも、むしろ
解釈でやってしまえという解釈改憲という手法が日本ではとられておりますけ
れども、このことについては先生はどういうお考えですか。
 私は、解釈改憲ではなくて、それなら憲法をばっと改正してしまうという方
が、日本人にもわかりやすいし、世界じゅうにもわかりやすいのですから、む
しろ、解釈改憲じゃなくて、ばっと改正してしまうという手法の方が私はとる
べき態度ではないかなと思っておりますけれども、先生はどうでしょうか。
○長谷川参考人 私は、日本の憲法問題について、改憲、護憲の問題が、先ほ
ど言いました宮澤さんと中曽根さんが、宮澤さんが護憲論者で、片一方が改憲
論者というような形で今朝日新聞が編集した本が出ているので、それを読んで
きたのですけれども、憲法を守るということが今の自民党の枠内でしか考えら
れないようなことでは、憲法の実態というものを無視してあらゆる議論がなさ
れるんじゃないだろうか。だから、中曽根さんはもうお帰りになったようです
けれども、問題の次元をやはりもう少し下げて客観的に審議した方が、私は、
説得力のある議論ができるんじゃないかなという感じがします。
○二見委員 実は別の件ですけれども、先生の御著作を読んでおりましたらば、
憲法の前文には基本的人権という言葉がないということですね。国連憲章には、
基本的人権、人間の尊厳という言葉が明記されています。ところが、憲法三原
理だといいながら、基本的人権という言葉は前文には見当たりません。生存権
はあります。基本的人権という言葉はない。それは条文の中にあるからいいじ
ゃないかと言えばそれまでだけれども、やはり基本的人権が本当に大事なもの
であるとするならば、前文の中に高々と掲げてよかったんではないかというふ
うに思っております。
 これは、前文を議論する時間がなかったために見逃したのか、あるいは、も
ともとそういうものについては考慮していなかったのか。それはどういうふう
にお考えでしょうか。
○長谷川参考人 これは実は、研究者ならわかることですけれども、憲法とい
う言葉の意味が国の組織原理とか統治原理というふうに一般的に考えられてい
ますから、特にイギリス人は基本的人権には反対の人が圧倒的です。
 基本的人権に反対というとおかしいのですけれども、基本的人権というフラ
ンス革命のときの考え方自身、いわゆる天賦人権という考え方に対する反対は、
私が専門にやっていたジェレミー・ベンタムという法律家がいますけれども、
その本には、基本的人権という考え方がいかに非科学的な考え方かということ
が綿々と述べられています。ですから、イギリス人は、前国家的な基本的人権
という考え方は認めません。現在の国会でそれを認めると次の時代の国会を拘
束することになるので反対だという人が非常に多いのですね。
 ですから、基本的人権の考え方については、イギリスの有力な法律家で全く
反対している人もいるし、賛成している人もいるし、日本人が考えているほど
基本的人権というのは、世界じゅうだれでも賛成している、そういう考え方で
はないのですね。
 だから、そういう意味でいえば、前文に平和的生存権だけがあって基本的人
権というのがないというのは、あれをつくった人が大体憲法というのはこうい
うふうに考えていたんじゃないか、それは別に例外的でもないし、ごく普通の
ことだというふうに私は思っています。
○二見委員 終わります。
○中山会長 東中光雄君。
○東中委員 長谷川参考人、どうも御苦労さまでございます。
 今日の政治的な改憲ムードがずっとあるのですが、昨年の文芸春秋九月号で、
小沢一郎自由党党首が改憲試案を発表して、これが今日の政治的な改憲ムード
をつくってきたと言ってもいいぐらい大きく喧伝されておるわけです。
 これによりますと、「昭和二十一年、日本は軍事的占領下にあった。日本人
は自由に意思表示できる環境になかった。正常ではない状況で定められた憲法
は、国際法において無効である。」こういう命題がありまして、「占領下に制
定された憲法は無効であると宣言し、もう一度、大日本帝国憲法に戻って、そ
れから新しい憲法を制定すべきであった。」こういう論が出されておるわけで
あります。
 日本国憲法無効論というのは、先ほどもそういうことは法律的にはあり得な
いということを言われましたが、一般的に通用しない、まさに時代錯誤的な感
じがするのですけれども、それが大きな一つの基調みたいになって、そしてあ
の試論というのが出されておるわけであります。「戦後日本のタブーを破って
現職政治家が初めて条文を書いた 日本国憲法改正試案 小沢一郎」こういう
ぐあいになっているのです。
 小沢氏の改憲試案について、長谷川さん、お読みになっていると思いますし、
御意見を聞かせていただきたいと思います。
○長谷川参考人 同じ今の与党の改憲論者と言われている人たちの意見でも、
小沢一郎氏とか、さっきの中曽根氏とか宮澤氏とか、戦前に大学を出て明治憲
法しか試験を受けたことのない人、戦後は選挙に忙しくてどうも憲法の本なん
か読んでいないんじゃないかと思う人、そういう世代の人の憲法論というのは、
本当に何か理屈なしに、すぐ明治憲法に返ってみたり、天皇が出てきたり、そ
ういう意味では、私が読んでいても、そういう世代の憲法論というのは、大体
もう安保、一九六〇年代、あの高度成長の終わりに自民党の中でも実は絶滅し
たんじゃないかと私は思っていたのですが、最近何か少しずつ復活しているみ
たいです。
 むしろ問題なのは、同じ改憲論でも第二世代の、そういう古い、古典的な、
戦前の明治憲法しか学んでいないような考え方じゃなくて、戦後、ともかく日
本国憲法について勉強して、そうして今の現状で議論するというふうに、何か
二種類あるような気がするのですね。
 だから、私は、小沢一郎氏のあれを読んだときに、こういうものは、出す雑
誌社も雑誌社だし、新聞社も新聞社で、出せば出すほどマイナスになるんだか
らほっておけばいいんじゃないかというような気がいたしました。
○東中委員 押しつけ憲法論とか、それから占領基本法というのですか、こう
いう考え、それでその憲法は無効だとまでは言わないまでも、新しい憲法を制
定しろという論といいますのは、一九五五年に自主憲法期成議員同盟というの
がつくられまして、その趣意書によりますと、日本国憲法は押しつけ憲法であ
る、それから占領基本法である、だから新しい自主憲法制定、こういう論理で
貫かれておるわけです。それができたのは三月でしたか、その秋には自由党と
民主党が一緒になって自由民主党ができた。だから、その自主憲法期成議員同
盟というのは、両方から出ていますから、自由民主党ができるについての保守
合同ですか、それを促進する役割を果たしたんだということさえ書かれており
ます。
 そういう状態で、かつて、自主憲法の制定ということで、中曽根さん、それ
から奥野さん、鈴木内閣のときに奥野さんが法務大臣で、新しい憲法の制定を
やかましく言うて大問題になりました。三回も発言したと問題になりました。
八三年の中曽根内閣でも、八〇年の自主憲法制定運動というのがずっと進んで
きたんです。私も国会で、八一年二月と八三年三月、二回その点について質問
しているんです。
 大体、自主憲法制定というのはそもそも日本国憲法そのものを否定すること
になるんじゃないかということで鈴木総理を追及しました。鈴木さんは、押し
つけ憲法というようなものじゃないということを答えまして、しかし、議員同
盟では自主憲法の制定と言っているじゃないかと。
 それから、中曽根さんは、私は改憲論者だということを発言されたんですが、
と同時に自主憲法期成議員同盟の中心ですから、自主憲法制定と憲法改正では
全然意味が違うじゃないかということをいろいろ追及しまして、それから後、
自主憲法制定というのは、中曽根さんに言わすと、法律的表現ではなくて政治
的表現なんだと。
 だから、自民党の政綱自身も書き改めましたね。自主憲法制定、すなわち憲
法の自主的改正を立党以来の党是としてきたと。自主憲法の制定と自主的改正、
それが同じものだというふうに、現行がそうなっていますね。だから、余りこ
れは論理的じゃないということはわかっていて、しかもなお、押しつけ憲法、
それから占領憲法ということで改正をしよう、こういう動きなんです。
 この調査会も制定経過を聞くということから出発しているので、そういうこ
とに絡んでいるのだと問題なので、憲法のあり方として、確かに、あなたも言
われたように、事実としてはポツダム宣言で大体押しつけられたということも
あるでしょう。しかし、そういう点について基本的に、一体どういうふうに押
しつけ論に対して憲法論としてお考えになるか、自民党のそういう自主憲法制
定、正確には自主憲法期成議員同盟ですか、それについてお考えを聞かせてい
ただきたい、こう思います。
○長谷川参考人 これは、私だけではありませんけれども、例えば、私の後に
参考人として意見を述べられる方も、前もそうだと思うんですが、いわゆる古
いタイプの、小沢さんが言っているような憲法無効論というのは、もう学界で
はほとんどだれも取り上げる人がない。ただ、言っている政治家がいるかもわ
かりませんけれども、余りそれを支持する人はないというのが、憲法学者ある
いは憲法研究者の中ではもう一般的の、それは別に改憲に賛成する反対する関
係なしに、共通の主張じゃないか。また、押しつけ論はともかくとして、押し
つけたんだから無効だというような、何かわかったようなわからないような議
論も、ほとんど研究者の間では問題にしていないように思います。
 ですから、私はむしろ、きょう、こういう憲法調査会を開いて憲法調査をや
れといういわゆる改憲論者の考え方というのは、もっと新しい――例えば首相
公選論をとれとか、あるいは、環境権が憲法に書いていないからもっと新しい
のをふやせとか、今までの古いタイプの改憲論者が言って、宮澤さんに言わせ
れば、さっきの本の中では、そんな古いタイプの改憲論というのは自民党の中
でももうなくなっちゃった。中曽根さんはそれを認めようとしていないけれど
も、少なくとも古いタイプのものがなくなったというのは今だれでも考えてい
ることで、問題なのは、やはり、新しいタイプの改憲論というのが個別的に出
てきていますけれども、それが学問的な形をとって、体系的な形で、現行憲法
にかわる新しい憲法というものがあり得るかどうかというような議論は、まだ、
少なくとも私の目に触れた限りではないと言ってもいいと思います。
○東中委員 要するに、現在の日本国憲法改憲論というのは、いろいろな形を
とっていますけれども、発生したのは、日本国憲法ができて、四六年に公布、
それから四七年に施行されて、もうその直後から出てきた。それは、日本を占
領したアメリカが対日政策を百八十度転換して再軍備の方向を出してきた、そ
こから出てきたことなので、自主憲法制定とかなんとかいうのも理屈をつけて
いるだけで、五〇年代から改憲論が出てきた経過、それから、その主要な問題
点の特徴というものを、ひとつ日本の憲法史として、そういう改憲論の憲法史
的な意義づけといいますか意義といいますかというものを、お伺いしたいと思
います。
○長谷川参考人 私は、今東中さんが言われたように、そういう戦後の憲法史
というのを丁寧に調べていけば、確かに、改憲論というのがどういう状況の中
で、既に占領中から始まってどういう形で出てきたかということは、いろいろ
な事実があって立証することはできると思うんですけれども、きょうは私は、
もっと大きな、世界の憲法の歴史の流れの中で見ると日本の憲法制定の経緯に
ついての議論はどういう意味を持っているか、あるいは、日本の憲法の現状は
どうなっているかという観点から問題を調査していただいた方がいいんじゃな
いかというふうに思ったものですから、今のような点については触れなかった
わけです。
○東中委員 そうすると、今言われました、日本の現状はどうかという点でい
えば、沖縄の現状ですね。
 沖縄は、日本国憲法が押しつけられたというか、押しつけ論でいえば、押し
つけられたのはずっと後になるわけですけれども、その沖縄の現状と、それか
ら憲法との関係ですね。日本の国土、国民の住んでいる沖縄県について徹底的
に調査すべきじゃないかということを言われている若い学者もいらっしゃいま
すが、そういう点について、先ほどもちょっと言われましたけれども、御意見
がありましたらお伺いしたいと思うんです。
○長谷川参考人 きょう私は、日本国憲法の現状について、もちろん肯定的な
面もたくさんあるんですけれども、主として否定的な面を述べ過ぎたかなとい
う反省も今しているんです。
 特に沖縄の問題を見たときに、まさに日本の国家主権が存在しない現場とし
ての沖縄、それから、憲法では地方自治というものを認めていますけれども、
日本国全体の中であれだけ差別的に扱われて住民が困っている県というものは
ない。だから、地方自治の原則から見ても主権の問題から見ても、やはり沖縄
の現状というものは、憲法の観点から見れば、私が世界史の流れの中で見た三
つの原理、あるいは戦後の平和主義とか民主主義の原理というものが、沖縄ぐ
らい守られていないところはないんじゃないかというふうに思います。
 ですから、もし小渕内閣で沖縄でサミットをやるというんだったら、外国か
ら来た元首に沖縄の現状を率直に見せて、一体この状況が日本の国家にとって
どういう意味を持っているのかということを議論してもらえば、私は非常に日
本の実態というものがよくわかるんじゃないかという気がしています。
○中山会長 次に、保坂展人君。
○保坂委員 長時間お話を聞かせていただいて、どうもありがとうございまし
た。
社会民主党の保坂展人です。
 私は、ちょっと自分の体験のお話をまず簡単にさせていただきたいと思うん
ですが、一九五五年生まれで現在四十四になりますけれども、そういう意味で
は戦後世代であります。私が憲法というものを意識したのは、実はこの国会近
くの中学で、当時七〇年安保、ベトナム反戦などの市民運動に興味を持って、
学校の中で新聞を発行しよう、あるいは生徒会で討論会をやろう、こういうこ
とがきっかけでした。
 その当時、学校の先生から、君が思想を持つのはいい、心の中で何を思うの
も構わない、ただ他人にしゃべったら悪影響を与えるのでしゃべったらだめだ、
こういうふうに言われたわけなんですね。また、同じように印刷物などをつく
るのもいかぬと。だから、憲法二十一条の集会、結社、表現の自由というよう
なところを、私の場合はこれをあえて発言し続けたということで内申書にこの
問題が記載をされて、その後十六年裁判をやることになります。
 その十六年後にまたもや、自分の十六年争った裁判の判決が実は当事者であ
る本人に一切告知をされないという問題に行き着いたんですね。最高裁の小法
廷で開かれる民事裁判の事件は、その当時は本人に対する告知がありませんで
した。
これは、憲法の八十二条を見ても公開すると書いてあるし、しかも、人権にか
かわるようなものは絶対公開しなきゃいけないんだとただし書きまでついてい
るわけですね。
 そういう意味でいうと、やはり憲法はいいこともたくさん言っているけれど
も、まだまだ実態は乖離しているなという思いがあるんです。
 そういう意味で、先ほど中部電力のお話をされましたけれども、今の日本の
人権状況ということでお感じになっていることがあれば、もう少しお話しいた
だきたいと思います。
○長谷川参考人 今の日本の人権状況を典型的にあらわしているのは、何年か
に一遍、ジュネーブの国連の人権委員会に日本政府の代表が行って、日本はこ
うこうこういう法律をたくさんつくってあるから日本は人権が守られているん
だという報告をすると、それと同時に、労働組合やその他のNGOの代表の人
が、日本の実態を、全然そうじゃないんだ、日本の社会では人権がじゅうりん
されている例がこうこうこういうふうにあるんだと。中部電力の問題もその一
つなんですけれども、そうやって両方の報告が行って、それでそれを両方読ん
で、大体何年に一遍かジュネーブの人権委員会から、日本あての勧告のような、
あるいは意見書のようなものが出されています。それを見ると、とても日本国
憲法の人権規定が、今規定されているものがそのまま守られているというふう
には私は判断できない。
 それから、私が関係しているいろいろな、国民救援会とか平和委員会とかそ
ういう団体がありますが、特に中部電力の人権訴訟の後援会に参加したり、あ
るいは部落解放運動の全解連という団体に行って話を聞いたりすると、確かに
人権規定、これはもうつくって五十年もたつわけですから、新しい人権規定を
もっとふやすべきだという意見も出てくるかと思うんですけれども、それより
もっと大事なのは、既に決めてあることを守っていないということの方が重大
じゃないだろうか。
 だから、国民が、あるいは国の政治家なり企業の幹部が、人権を守るという
意識がない限りは、憲法をどんなに変えたって実態は変わらないわけですね。
私は、いわゆる人権感覚というものをちゃんと国民が持つように教育が行われ
ていれば、あんな聞いたらびっくりするような人権差別が企業で行われるよう
なことはあり得ないと思っています。
 ですから、人権問題について言えば、日本国民の人権感覚、あるいは権力を
握っている、社会的な勢力を持っている人の人権感覚というものをふやさない
限り、憲法の規定を変えたぐらいではどうしようもないというふうに思ってい
ます。
○保坂委員 今おっしゃった国連の規約人権委員会の勧告が五年ごとに出ます
よね。国会の中に死刑廃止議員連盟というのがあって、本当に与野党を問わず
活動しているんですが、規約人権委員会で勧告があると、必ず二週間、三週間
たって処刑があるというのが現実でありまして、国際社会、国際社会と言われ
る割にはそこのところは実にダブルスタンダードで、人権の面では非常におく
れている国なのではないかというふうに私なんかは思っているんです。そうい
う意味で、憲法を積極的に守り、擁護していくという戦後世代もいるというこ
とをお伝えしたいというふうに思いましたので、先ほど自己紹介したんです。
 一点だけ。私が生まれた五五年、まさに五五年体制がスタートしたそのころ
ですけれども、その当時、やはり大きな改憲論議があったと思うんですね。そ
して今、それから四十数年して国会に憲法調査会がつくられて、きょうも議論
がされているわけです。この二つの議論を隔てている時間は大変長いわけです
けれども、どんな変化が感じられるか、率直に御感想をお願いしたいと思いま
す。
○長谷川参考人 先ほどから同じことばかり答えるようですけれども、宮澤さ
んと中曽根さんの対談が文庫になっているものをお読みになればよくわかると
思うんです。古い、五五年に自民党が保守合同ででき上がった当時の改憲論と
いうのは、天皇の元首化と、それから九条を廃止しての再軍備と、人権、自由
が行き過ぎているから制限しろという、これが三本柱だったんですね。その当
時のことをまだずっと思っているのは、大体あれを読んでみると、中曽根さん
なんかはやはりそのときと全然変わっていないですね。
 だけれども、宮澤さんなんかからいうと、そういう古い改憲みたいなのも、
あのとき選挙をやって社会党なり護憲派が三分の一以上を占めたために、もう
憲法改正ができなくなったということははっきりしたから、もうそんなむだな
ことは考えないようになった。もう少し言えば、いわゆる解釈改憲というので
すか、解釈でやれるんであればもう十分なので、自衛隊だって、今の九条のも
とでつくったって、別に最高裁が違憲と言わないのならそれでいいじゃないか
みたいな流れ。これが護憲派と書いてあるんですけれども、自民党の中でもそ
ういう古い考え方は、さっきの小沢一郎氏は自由党ですけれども、今までもい
るし、それから、同じ年代でも宮澤さんのように、そうではない、自民党にい
るのに今や護憲派と言われるような人もいるし、随分変わったなというふうに
思います。
 ただ、私は憲法学者として何十年も同じ勉強をしていますから、よくまあ同
じ憲法をめぐってこうもころころと言うことを変えたり、変わるものだなとい
うふうに、自分の所属する政党をかえる人もいるわけですから憲法論ぐらい変
わっても仕方ないかもわからないけれども、やはり憲法の議論というのは、さ
っきから私が言っているように、百年に一遍の問題を基本にして考えるのが普
通なので、ことしはたまたま二〇〇〇年ですからいい機会だとは思いますけれ
ども、戦後の憲法の歴史、憲法論の変遷というのを見ますと、ある意味では変
わり過ぎている、また、ある意味では何か同じ人が同じことを言っているとい
う、そんな感じを持っています。
○保坂委員 それでは、これが最後の質問になると思います。
 先ほど、一九五四年六月五日に、「和して争う」ですか、その座談会をされ
て、それは大変貴重な本で、多分もう手に入らないだろうと思いますが、そこ
の五つの説を御紹介いただきましたね。それが一つというのではなくて、まあ
二つないし三つが複合的に反応したということもあり得るんだというようなこ
ともおっしゃいましたけれども、先生の説は、その五つの中でどういうふうに
構築されていらっしゃったんでしょうか。
○長谷川参考人 一番基本的に言えば、私もいろいろな国の憲法の歴史をずっ
と勉強して、憲法ができたときに、だれがつくったかというような素朴な発想
というんですか、単純な発想というのはしたことがありません。
 要するに、問題は、革命があったり内乱があったり敗戦があったりすれば、
戦勝国と敗戦国、あるいは革命に勝利した階級と負けた階級、内乱だったら政
治勢力の対立、そういう、具体的にそのときの、先ほど私の言った権力関係と
いうものを見て、それで、権力を握った人が基本的には憲法をつくっている。
しかし、権力を握っていない者も、その制定過程で、いろいろ抵抗したり国民
運動を背景にすればいろいろ修正することもできる。だから、そういう意味で
いえば、そういう複合的なものにならざるを得ない。余り単純には言えない。
 だから、日本国憲法の場合には、戦勝国がポツダム宣言というのを基本法に
して新しい憲法をつくったというのは事実で、それに対して日本の保守政治家
がいろいろ抵抗して、いろいろと部分的に直したということも事実です。
○保坂委員 そうすると、いろいろな複合的な五つくらいの要素に分けられる
というふうに伺ってよろしいんだと思います。
 きょうはどうもありがとうございました。
○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言参考人にごあいさつを申し上げます。
 長谷川参考人におかれては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにあり
がとうございました。調査会を代表いたしまして御礼を申し上げます。
 この際、暫時休憩いたします。
    午後零時三十四分休憩
     ――――◇―――――
    午後三時一分開議
○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。
 日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行しま
す。
 午後の参考人として香川大学法学部教授高橋正俊君に御出席をいただいてお
ります。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうご
ざいました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、本調査
会の検討の資料にさせていただきたいと存じます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委
員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、
参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あら
かじめ御承知おき願いたいと存じます。
 それでは、高橋参考人、お願いいたします。
○高橋参考人 紹介にあずかりました香川大学の高橋でございます。
 本日は、「日本国憲法制定史とその法理的視角」という題でお話をさせてい
ただきたいと思います。
 日本国憲法の制定史研究というものは、歴史的、政治的、経済的、その他の
さまざまな視角から行われているところでございますが、法的な側面から、特
に、君主主権憲法からその改正として国民主権憲法を生み出したという、一見
するといささか矛盾するような事態をどのように理解すべきかということにつ
いて考えてみたいと思うわけです。それは、ある意味で法理的な視角が定まっ
ておりませんと、例えば押しつけ憲法論といったような議論がございますが、
それがどういう意味を持つのかということが必ずしもはっきりしないと思うか
らでございます。
 まず、日本国憲法の制定及びそれが行われることに関する類型について、若
干お話をしたいと思います。
 さまざまな考えがあるわけでございますが、類型化すると幾つかのものにな
りますので、まず第一に、改正説というものについてちょっとお話をいたしま
す。
 この改正説というのは、簡単に言いますと、明治憲法を改正して日本国憲法
となったという非常に単純なものでございます。これにつきましては、実はG
HQやら日本政府、佐々木惣一その他の方々、かなり有力な方々が主張されて
いるところでございますが、これについては現代の憲法学では必ずしも主要な
見解になっておりません。
 その基本的な見方というのは、このレジュメに書いておりますように、ポツ
ダム宣言受諾以後も明治憲法は維持されて、それが十一月三日公布の日本国憲
法へと改正され、五月三日の施行にまで至る、そういうふうなものでございま
す。
 この理論の前提となるものは、まず第一に、ポツダム宣言の受諾によって日
本政府は自主改正の義務が生じただけであって、依然として天皇主権は維持さ
れているが、ただGHQによる制限を受けた状態である、こういうふうに見る
わけでございますね。そして二番目の前提は、憲法改正は、手続に従って改正
する限り限界はなく、天皇主権から国民主権に法的に連続して移行できるとい
う憲法改正無限界論という考え方になっております。そして、実際、改正規定
に従って改正されたわけでございますので、日本国憲法の効力はある、こうい
うことでございます。
 このような場合には、簡単に言いますと、明治憲法七十三条の改正規定に則
して改正しておれば日本国憲法は効力があるということになるわけですから、
そこで問題になりますのは、一体七十三条に則した改正であったかどうかとい
うことで、ここで押しつけの議論が出てくるわけでございます。
 これまで議論されておると思いますが、まず、マッカーサー草案が手交され、
その基本原則、根本形態を変えてはならぬ、こういう条件の中で行われたとい
うこと。
それから、いわゆる天皇の戦争犯罪ということを取引材料にされた、そういう
ふうな二月十三日のマッカーサー草案手交状況をめぐる問題。それから、三番
目としては帝国議会の審議が完全なGHQのコントロール下にあったといった
ような諸点がこのときに問題になるわけであります。そして、そのような部分
がいわば七十三条に則した改正と言えないということが、すなわちここで問題
となってくるわけでございます。
 二番目は、無効説と呼ばれるものでございます。
 無効説は、いわゆる自主改正の義務があるということについてはまさしく同
じでございますが、しかし、明治憲法七十三条の憲法改正には限界があって、
天皇主権から国民主権に移行はできないという憲法改正限界論を前提にしてお
ります。そして、この限界が認められる以上、日本国憲法の効力は当然のこと
としてないということになるわけでございます。
 これは非常に少数の人だけが主張しておられることでございますが、理論的
にはばかにできない説でございまして、これから申し上げる八月革命説は、こ
の説をいわば予想して、こういうふうな無効に陥らないように論理を構成しよ
う、こういう試みであると見ることもできるものでございます。
 三番目の八月革命説について若干お話をいたします。
 これにつきましては、この無効説のような隘路に陥らないために、明治憲法
がポツダム宣言を受諾した時点において、いわば法的な革命というふうな状況
に至り、天皇主権は国民主権にここで変わった、こういうふうに考えるもので
ございます。したがって、それ以後の明治憲法、ここでは明治憲法Bとしてご
ざいますが、明治憲法Bは、国民主権の憲法に変質したことになってしまいま
す。したがって、明治憲法Bは既に国民主権の憲法でございますから、それを
改正、施行して日本国憲法にするというのは差し支えない、こういう議論とな
るわけでございます。
 ただ問題になりますのは、改正手続でございまして、先ほど申しましたよう
に、明治憲法Bというのは国民主権によってモディファイされたものでござい
ますので、国民主権に抵触する機関、例えば枢密院とか貴族院が改正に参加し
ておりますが、この議決については効力はない、こういうふうなことになるわ
けでございます。
 この議論は、すなわち明治憲法Bというのは既に国民主権の憲法になってお
るというわけですから、幾つか問題が出てまいります。
 まず、モディファイされた改正手続というものは、一体いかなるものであろ
うかという問題です。第二番目は、そのモディファイされた憲法改正手続に参
加する、国民主権にかなうような構成員は、どうやって確保されたか。ここで
は、ホワイトパージとか新法での衆議院選挙による構成員で十分なのかといっ
た問題が起こってくるわけです。さらには、改正無限界論で議論されたような、
マッカーサー草案の手交の問題とか、審議がGHQの完全なコントロール下に
あったなどということの押しつけが、さらに問題となってまいるわけでござい
ます。
 ですから、押しつけの議論といっても、無限界説における議論と八月革命説
における議論というのは、視角がそもそも違うということをちょっと御記憶い
ただきたいというふうに思うわけでございます。
 いずれにせよ、法的連続性が確保される以上、日本国憲法の効力はあるとい
う議論になるわけでございます。
 四番目に、失効説ということについてちょっと申し上げます。
 この失効説というものは、明治憲法が、ポツダム宣言を受諾することによっ
ていわばGHQの占領管理の中に入っていくということになるわけです。そし
て、占領管理下にあるわけですから、いわば明治憲法Aと明治憲法Bは断絶を
する。ここに一種のやはり革命みたいなものが起こっている、こういうふうに
考えるわけであります。
 そして、その中でつくられた、改正された日本国憲法Aと言われるものも、
これもまた占領管理期でございますから、管理法令の一部ということになると
いうことでございます。その限りで、講和条約によって日本の占領が終わるま
では管理法令として有効だということを認めるようでございます。
 ただし、講和条約による占領の終了とともに日本国憲法はどういう運命をた
どるかということについて考えれば、それはまたもう一度断絶が起こったわけ
でございますから、その時点で失効するのではないかということです。したが
って、そのときには、本来、日本国憲法Bの効力はないはずなのだ。これが失
効説の筋書きでございます。
 もちろん、混乱を避けるために日本国憲法の失効を宣言すべきだといったよ
うな提言がなされるところでございますが、これは法理的にはちょっと関係が
ないということになっております。
 ところで、これらの類型を申し述べたわけですが、簡単に評価を加えておき
ます。
 まず第一に、主権変更に関する限り、憲法改正無限界論はちょっと採用しが
たいのではないかと考えております。これは、主権が権力の究極の源であると
いう、主権の中の最も重要な意味でございますが、そのように考えますと、究
極の源は二つあり得ないわけですから、君主主権と国民主権は並び立ち得ず、
その連続性を考えることはできないことになる、こういう理屈によっておりま
す。ここのところが、小生としては限界論をとる理由でございます。
 ただ、ちょっとここでお話ししておかなきゃいけないのは、憲法改正限界論
もしくは無限界論というのもいろいろなバリエーションがございますので、こ
こで議論しているのは、主権変更、君主主権からほかの主権への変更という限
りにおいて、無限界論はとりにくいと言っていることでございます。この無限
界論の根拠などについてもいろいろ議論がございますが、ここではこれぐらい
にさせていただきたいと思います。
 次に、無効説について若干お話をしておきたいと思います。
 無効説というのは、改正限界論をとりますと、ある意味で必然的な結果でご
ざいます。ただ、この理由といいますか理屈づけには、日本国憲法の効力は明
治憲法との法的連続性からしか得られないという前提が置かれております。つ
まり、日本国憲法が、改正憲法ではなくて、新憲法として効力があるのではな
いかということについて議論をしておりませんで、それはないのだとどうも考
えているようでございます。したがって、この点について何か新しい議論がで
きるとすれば、当然のことながらまた新しく考えなきゃいかぬということにな
ります。
 失効説も、日本国憲法Bについて、やはり前からの法的な連続性がなければ
効力はないと考えられているわけですから、同じようなことが言えるわけで、
新憲法として効力があるという可能性が新たに別に出てくれば、効力があると
いうことになり得るわけでございます。
 次に、一番重要な八月革命説について若干お話をいたしたいと思います。
 まず、八月革命説というのは、限界論に基づきまして、かつ日本国憲法を新
憲法として基礎づける、こういうふうな考え方でございまして、今も多数説と
いう形で生きております。恐らく学者の中ではかなり多くの人がこれをとって
いるのではないかというふうに考えられます。
 しかしながら、近年、この八月革命説については、さまざまな観点から難点
があるのじゃないかという批判があるところでございまして、理論的な問題点、
及びその当時起こった歴史的な事態と整合性がないといったような問題が出て
まいっております。
 まず第一でございますが、これが本当は一番重要な点でございますけれども、
八月革命説というのは、ポツダム宣言によって国民主権が成立したということ
をある種、絶対的な前提にしておるわけでございます。しかしながら、この議
論の根拠にしているポツダム宣言、バーンズ回答から、日本は国民主権を採用
したという結論を引き出すことはできないと思われます。
 この点については、詳しくは申しませんけれども、御存じのとおり、制憲議
会、帝国議会における金森国務大臣の答弁の中に、「我ガ憲法ノ根本的建前」
は「八月十五日ニ変ルベキ情勢デナイ、是ガ憲法ノ制定ヲ経過シテ変ルベキ情
勢ニアル」
というふうに、この段階でポツダム宣言、バーンズ回答からは国民主権に直接
に変わったと言うことはできないというふうに一般的に考えられているわけで
ありまして、むしろ占領軍の撤退条件とされているのである、すぐさま国民主
権に変わるということを言っているのではないというふうに思われます。
 ところが、この自明と思われるほど明らかな見解に対するはっきりした反論
なくして、この八月革命説は長く通説としての立場を占めてきておるわけです
が、この点について非常に問題があると言われるわけでございます。
 次に、もう少し法理的なところに入っていきますと、二番目にa、b、cと
書いてありますが、これは一つのことでございますので、簡単に説明させてい
ただきます。
 占領管理下の状況の中で国民主権ということになっているのは、非常に事態
に合わないし、法理的に問題があることではないか。事実に合わないのではな
いか、こういう疑問でございますね。
 また、ポツダム宣言を八月革命説のように解釈するためには、国際法である
ポツダム宣言があらゆる国内法に上位し、違反するすべての国内法規は無効で
あると考えるラジカルな国際法優位の一元論をとる必要があるわけでございま
すが、これについては、実は日本国憲法を勉強している人たちの間にこのよう
な説をとる人はほとんどおらないし、あるいは政府の見解もそうではなく、国
際法というのは国家と国家の間の権利義務関係を規律しているもので、このよ
うなラジカルな考え方は国家の独立性を害するというふうに考えているようで
ございます。
 さらに、cですが、占領管理下の日本を国民主権の国家とするということは、
ハーグの陸戦条約附属書四十三条との整合性が実は問題になります。これも前
に恐らく議論になっただろうと思うのですが、ポツダム宣言の受諾を、四十三
条の特別法である、四十三条のもとで特に合意されたものであるから有効であ
る、優先適用される、こういう考え方があるわけですけれども、もしそういう
ことが自由にできるというのであれば、四十三条を規定している意義などとい
うものはほとんど失われるのではないか、こういう反論があるところでござい
ます。
 最後に、手続的問題に即してちょっとお話をいたしますと、改正手続に衆議
院のほかに枢密院、貴族院がかかわって、貴族院では修正さえされておる。国
民主権が既に存在したのであれば、このような非民主主義的機関が参与したと
いう事実を説明できない、こういうことが起こってまいります。
 恐らく、これに対する答えとしては、貴族院の修正も最後には衆議院が一括
可決しておる、したがって、それによって、衆議院によって正当化されている
のだから、それでよいのだと言うほかないのだと思いますが、これはなかなか
苦しい説明ではなかろうかと思われるわけでございます。
 以上、八月革命説にはどうも根本的なところで問題がありそうでございまし
て、近時、歴史的な役割は終わったのではないかという有力な評があるのはゆ
えなしとしないわけでございます。
 では、問題はどんな説明が可能かということでございます。以下にお話をす
るのは小生の個人的な見解ということになりますので、そういうふうな観点か
らお聞き願えればそれでよいと思っておりますが、すなわち、まず日本が置か
れました全体の法的状況の概観というものは、四ページのところに(1)とし
て図に書いておりますが、次のようなものだったと思われます。
 まず、本来の明治憲法をAといたしますと、ポツダム宣言を受諾することに
よって、ここで私も断絶があると考えておりまして、すなわち天皇主権から連
合国ないしはマッカーサー主権ともいうべきものに、主権という言葉はちょっ
と問題があるわけですが、移行したのではないか。そしてまた、この根底には、
日本国の国家性が揺らいだのではないか、そういうふうな考えをいたしており
ます。したがって、揺らいだという観点から、主権というところにはてなマー
クがついているわけでございます。
 そして、明治憲法Bと日本国憲法Aというのは、いずれもいわば連合国・マ
ッカーサー主権というものの下位法として存在した管理法令であるというふう
に考えております。
 そして、講和条約によって占領が終了するわけでございますが、そこにもま
たもう一度、断絶があるのではないかというふうに見ています。すなわち、連
合国主権、マッカーサー主権といったようなもの、ないしは国家の非常にあや
ふやな立場が、もう一度通常の国家そして国民主権国家ともいうべきものにな
ったという意味で、断絶があるというふうに考えておるわけでございます。
 このようなことを前提として、もう一度全体の憲法の状況というものを振り
返ってみることが次に必要になろうかと思います。
 まず、日本国憲法につきまして、占領下における日本国憲法、日本国憲法A
の効力と、講和条約後の日本国憲法、日本国憲法Bの問題を別々に扱うべきで
あろうと考えております。すなわち、その置かれた法的地位が全く異なるわけ
ですから、各時期の憲法の効力を、おのおの承認されるかどうかということを
別々に考えることが必要なのではないかというふうに考えている次第でござい
ます。
 ここでは、特に日本国憲法のA、Bについてのみ言及をさせていただきたい
というふうに思います。
 まず、日本国憲法Aについてでございますが、占領下における日本国憲法制
定の法的環境というものは、恐らく皆さんもよく御存じのとおり、まことに異
例なものでございました。日本が受諾いたしましたポツダム宣言というものは、
実は本来、いわゆる条件つき休戦条約であったと考えられております。
 どうして条件つき休戦条約であったかといえば、これは実はポツダム宣言を
アメリカ側で制定する過程を調べてまいりますと、特にその起草に深くかかわ
った国務省内で二つの勢力、いわゆる中国派と言われる人たちと、日本派もし
くは知日派と言うべきなんでしょうが、知日派と一応名づけておきますが、そ
の勢力が激しくぶつかっております。そして、その結果、ポツダム宣言が形成
される段階におきまして、七月二十日のことだというふうに言われております
が、それまで草案二項の中に、日本の無条件降伏までということがうたわれて
おったわけですけれども、それが、日本が抵抗をやめるまでというふうに変更
されておりまして、国家としての無条件降伏という言葉が消えております。日
本の軍隊の無条件降伏だけが残る、こういうことになるわけですね。
 実際、そのように意図したようでございまして、ここでは、したがってポツ
ダム宣言というのは、本来、条件交渉を認めない条件つき休戦条約、そういう
ふうなものになった、そしてそのように理解されておったということでござい
ます。
 ところが、現実にポツダム宣言が受諾されて、それが実施される段階になり
ますと、無条件降伏として運用されることになります。
 なぜ無条件降伏として運用されることになったかということでございますが、
これについては、一つの一番重要な理由は、いわゆる知日派であった国務次官
グルーなどが辞任いたしております。これは八月十五日のことのようでござい
ます。その結果、中国派の方が非常に強い勢力を得る。そして、ポツダム宣言
を無条件降伏として取り扱うべきだというふうなことになってくるわけでござ
います。
 そのあらわれが、いわゆる「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサ
ー元帥への通達」という有名な文書として発表されるということのようでござ
います。事実、マッカーサー元帥の態度も、どうもそのような無条件降伏とし
ての行動を現実に示しているということでございます。
 このように、運用の段階におきまして無条件降伏、そういうふうな形で運用
されることになるわけですから、御存じのとおり、そこにおきましては、ルー
ズベルトの意図しました、降伏をし、その後に占領管理を行って国家改造プロ
グラムを発動させる、そしてその国家改造プログラムが成就した後に講和条約
を結ぶ、こういうふうなルーズベルトの意図が、後継者であるトルーマンのも
とで行われるというふうに考えられるわけであります。
 そこにおいては、国家を改造するという意図が厳然として第二次世界大戦の
戦勝国である連合国側にあり、それによる敗戦国処分として日本の占領管理が
行われた、日本にとってはまことに残念なことでありますが、ということでご
ざいますので、よく議論になりますけれども、このような措置は、ハーグ陸戦
条約附属書四十三条に反するのではないかということが言われたり、あるいは
いわば憲法の自主決定権に反するのではないかということは言われるわけです
けれども、それはまさしく、このような状況を考慮すれば、その運用の効力を
疑う余地というのはちょっとあり得ないということになろうかと思うわけでご
ざいます。
 そこで、そのようないわば一時国家改造プログラムが発動されている間、日
本国という国家性が失われ、そのもとで存在した明治憲法Bというものが管理
法令の一部として組み込まれる、そういうことが現実に起こってくるわけであ
ります。そこでは、権力の究極の源という意味で、主権は連合国にあると考え
ざるを得ないということになるわけです。もちろん、法理的に言いましては、
実はこのことは、国家性自体が疑わしい状態、国家であるかどうかということ
が疑わしい状態に陥るわけでございます。
 どうしてかといいますと、国家というのは、三要素説という一番簡単な議論
からいいますと、国民と領土と固有の統治権が国家存立の三つの要素であると
いうふうに考えているわけですけれども、その固有の統治権性が日本から脱落
したわけですから、本来的意味での主権というものを言うことがここではでき
なくなっているということでございます。
 このような状態のもとでどのような統治が行われていたかといいますれば、
従来の日本政府組織を使う間接統治を原則としておりますけれども、連合国最
高司令官は、必要があれば直接統治もなし得るというふうにされていたわけで
ございます。日本政府は言うに及ばず、通説もこの間接統治原則を非常に重視
いたしまして、日本の主権は制限されていたけれども、決して連合国、マッカ
ーサーに主権が移行したというふうな議論はしておりません。
 しかし、間接統治であろうと直接統治であろうと、法理的にこれを、間接統
治であるから国家性が存在したとか、主権は制限されただけだと言うことは難
しいのではないかというふうに考えておる次第でございます。
 このような占領管理下におきましては、日本の法令は、明治憲法Bを含めま
して、ポツダム宣言からGHQの命令に至る法体系に接続し得る限りにおいて
その効力が維持される下位法にすぎなくなったというふうに考えられるわけで
あります。すなわち、明治憲法B、これも管理法令中の下位法という地位を持
つにすぎなかったと考えられるわけであります。
 さらに、GHQは検閲など占領管理に必要な措置を直接行うとともに、間接
統治の原則に従いまして、多くの日本の法令の改廃、制定を日本政府に要求し
たり、場合によってはほぼ強制ではないかと言われるような形でその改廃、制
定を要求しております。その最も著しいものが明治憲法の改正、すなわち日本
国憲法の制定でございます。
 そういうふうな状況にあるとすれば、日本国憲法の中にある文言や制定手続、
さらには政府、国民の主観的な見方はともあれ、この時期における日本国憲法
は管理法令と見ることになり、したがって、ほかのGHQの命令による法令の
制定、改廃と同じ立場に立っているわけでありまして、特に異なって、押しつ
けその他といった議論をなされるべき理由は見出しがたいということになるわ
けであります。
 さらに、そこにおきましては、君主主権から国民主権へという憲法改正の限
界などといったことは、実はそれほど問題にはならない。なぜならば、君主主
権から国民主権へという憲法改正の限界というのは、実は文言上の事柄であっ
たわけでありまして、さらには、押しつけの議論であるとか、それから枢密院
や貴族院の参与といったようなものも、管理法令たる憲法の効力という観点か
らすれば、その効力自身が疑われるようなものではあり得なかったのではない
かというふうに考えております。
 最後に、講和条約後の日本国憲法の効力、こういうことでございますが、講
和条約の締結、占領の終了によって日本という国がもう一度再構築された後に
おいて、日本国憲法の効力は一体どのようにして存在する、ないしはなくなっ
ているのか。
もちろん、だれも現在のところ効力がなくなったと考える人はおりませんけれ
ども、それはどのような理由で維持されるのか、こういう点について若干お話
をいたしたいと思います。
 前に申しましたように、占領期の憲法が管理法令の一種だということであれ
ば、ここで法の断絶をもう一度見ることになるわけであります。なぜならば、
管理法令としての日本国憲法Aと占領終了後の日本国憲法Bは、名前は同じで
ありましても、国民が権力の究極の源であるという意味での主権であるとか、
憲法の最高法規性といった最も基本的な点で異なっておるわけですから、ここ
にやはり法的な断絶を認めなければならないということになります。
 講和条約の締結は、ある意味で日本国憲法Aという管理法令をこれから日本
国としていかに扱うべきかを決定する時期の到来を本来意味したものでありま
す。しかしながら、これに対しまして、日本政府は憲法を再検討する動きを全
く示しませんでしたし、国民にも積極的な動きはなかったようであります。
 では、通俗言われるように、日本国憲法の効力は、黙認という形式でこの主
権の移動という断絶状態を乗り越えることができるのであろうか、あるいは、
ほんの一部の人が言うように失効するんだという意見の方が正しいのであろう
か、こういう問題が残ってくるわけでございます。この点についても若干お話
をしたいということですね。
 この問題は、実は、法の効力という一般的な問題にかかわるものでございま
す。
普通、近代法は統一的、組織的な法体系として組み立てられておりまして、上
位法あるいは前法によって授権されて存在するとき、原則としてそれに従って
つくられた法の効力は疑われないというのが約束事になっております。しかし、
上位法がなく、また前法との間に法的断絶が存在する場合もあるわけでござい
まして、日本国憲法が占領終了とともに置かれた立場はこれに相当するものだ
というふうに考えられているわけです。
 この場合どうなるかということは、実は法哲学上の一大問題でございまして、
なかなか難しい問題がございますが、私の考えているところを特にここでは申
し述べたい。決して高橋の定説という最近はやりのことではございませんでし
て、私の、ほかの賛同する方がいないわけではございませんが、こういうふう
な考え方もあるよということをここで申し述べたいと思うところでございます。
 まず第一点は、初めての憲法といいますか、最初の憲法というのは、実は、
いかなる制定の定式もどうも存在しないようでございます。もちろん、政治的
には、制定目標たる憲法にとって適合的で説得的な手続であるべきである、国
民主権ならば国民の意思をできるだけそこに流入させるようなシステムが必要
であるということ、そういったことは確かに必要でございますが、実は定式そ
のものは存在しない。これは、フランス革命時の憲法制定とか、合衆国におい
ての合衆国憲法の制定手続においても、ちょっと解せないような、法理的に説
明できないような行動があって、しかし、それは結局効力ありと認められてい
るというところからも明らかになろうかと思うわけです。
 それから、その手続というものが定式がなく、それなりの合意を得られるも
のであればそれでいいというふうに考えられるとすれば、次に、では真に効力
を生むものは何かという問題に入ります。
 この効力を生むものは何かといいますと、最初の憲法の効力は結局それを支
える意思と諸力の存否にかかわる、こういう考えがあるわけであります。これ
はかなり有力な先生方の主張されるところでございまして、そういうことを考
えてみますと、むしろこの考え方は、法の効力というのは、制定手続とか内容
などがある一定のものであれば効力が生ずるといったような法の属性、必然的
属性として存在するものではなくて、それを支える意思、諸力といった受け手
を含めた環境から生ずるものであるというふうに考えるわけであります。
 それだけ言ったのでは余りはっきりしませんので、最近の法の効力論を参考
にして、次のように敷衍できるのではないかというふうに私自身は考えており
ます。
 まず第一に、憲法を支える意思というのは、法の主体でありかつ受け手であ
る人々に生ずる、ある法は効力があるという間主観的な意識。ですから憲法の
場合は、法の主体であり受け手である人々がこの憲法は効力があるんだと、そ
れが多くの人が同じ考えに至る、そういう状況でございます。
 日本国憲法Bに関して言えば、そもそもこの間主観的な意識は、管理法令時
代に既に十分に醸成されていたと考えられます。
 すなわち、まず、広い意味での教育や情報など、これは操作も含めまして、
そういうものを通じまして、日本国憲法を法として守るべきだという情動が広
く国民に植えつけられておったということ。また、二番目として、法として信
頼し得るだけの内容を含むと考えられるに至っていた。特に、占領の終了後に
おける日本国憲法に対する国民のこのような効力ありとする観念を見出すこと
は、それほど難しくはないというふうに考えられるわけでありまして、時とし
て法的確信とか定着という言葉であらわされるのがそれに近いというふうに考
えております。
 第二は、支える力という側面でございます。
 国内的には、占領終了後はもちろんでございますが、占領下においてさえも、
憲法違反行為に対する強制であるとか制裁であるとかが相当、人を納得せしめ
る程度に行われていたことは疑えません。例えば、この点について、アメリカ
占領軍は非常に自制をしていたのではないか。少なくとも表面上は、彼らもあ
る程度従っているというふうにどうも行動したようでございます。
 マクロ的にいいますと、日本国憲法が例えば国内外の勢力によって動揺させ
られることもなかったし、あるいは、このような強制的な、もしくは制裁的な
行動が憲法以下の法においてある程度なされており、憲法というのが全体とし
て行われているという意識を植えつけたということは、疑うことはできないわ
けです。ただ一点、憲法九条問題について、いわば自衛隊問題というところに
おいて疑念があるというふうな側面があったのかもしれませんけれども、それ
もまた十分乗り越えられたのだと私としては考えておるわけでございます。
 実を言いますと、このような新憲法の効力というのは、支える意思と支える
諸力の関数として存在して、それが憲法の効力を形成し、維持させるわけでご
ざいます。したがって、恐らく初めは非常に力の方で効力が支持され、だんだ
ん支える意思の方の効果が高まることによって、力の側面が余り出てこなくて
も、十分日本国憲法の効力が認められるというふうなことに現在では至ってい
るのではないかというわけであります。
 実は、前述いたしました、近代法が上位法もしくは前法によって授権される
場合には効力があると考えるのは、このような授権による場合には、支える意
思というものの要素が非常に高く評価される結果、そのような場合には当然効
力はあるという約束事が形成されたのではないかというふうに考えられておる
わけでございます。
 このように、今日では、日本国憲法の効力を本格的に疑うという失効説であ
るとか無効説といったような考えは、ほぼ姿を消しているというふうに私は言
ってよろしいのではないかと思っております。
 日本国憲法の諸説、どの説をとっても、簡単に言いますと管理法令時代にで
きたものでございますから、恐らくどのような説をとってみても、改正手続な
いしは内容上の瑕疵と感じられる点があろうかと思います。それについては、
これまで皆様方の間でさまざまな側面から御議論をなさってきたことだと思い
ます。しかしながら、それらの諸点は恐らく、もし改正の議論が実行に移され
るときに、いわばその憲法改正の根拠の一部として働くにすぎないものではな
かろうかというふうに思っております。
 例えば憲法九条という問題におきましても、それは一体だれがつくったかと
いう問題もいろいろあるわけですけれども、一種の瑕疵的なものである、傷の
ようなものである、国際社会の、冷厳な社会の中で生きていくのは難しいとい
うふうに考えられる方も相当程度におられることでございましょう。
 そのような問題は恐らく憲法改正という議論の中でさらに展開されるべき問
題であり、もしくはさまざまな押しつけの議論、押しつけの議論というのは今
までも大分おやりになったようですけれども、恐らく、前に申しましたように、
各法理的な観点が変われば、押しつけの内容もしくは押しつけの法的評価とい
うことについても、相当程度に変わってくるものではないかというふうに私考
えております。ただ単に情緒的な、感情的な形で、それは押しつけに感じられ
るとか感じられないとかいう問題として議論をするときには、しょせんこれは
水かけ論に終わるような問題ではなかろうかと私は危惧しておるわけでござい
ます。その点、もう少し法理的なことをしっかり確認した上で議論をされると
いうことは、非常によいことではないかというふうに考えております。
 このように、憲法はさまざまな形で理解され、制定過程の法理的な見方は実
にさまざまなものでありまして、実を言いますと、最後に申しました私の問題
提起というものは最近のものでございますし、必ずしも追随する人が多くいる
というものでもございません、まことに私としては残念でございますが。しか
し、それが、少なくともあるところの説明をつけるために、整合的な理解を得
るためになしている努力であるということはぜひお認めを願って、よいところ
はよいとして、議論の参考にしていただきたいというふうに私は思っていると
ころでございます。
 結局、憲法の歴史を、特に制定史を勉強するということは、学者にとっては
もちろん給料の一端ではございますけれども、より多く言えば、憲法の過去を
そしゃくして、そこにあるさまざまな問題点を指摘し、新たな展望を開く、そ
ういうふうな観点を持って考えているものでございますから、憲法調査会にお
かれても、そのような視点で新たな展開を開くという形で議論を深めていただ
ければ幸いに存じます。
 ありがとうございました。(拍手)
○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。穂積良行君。
○穂積委員 高橋先生、きょうは大変ありがとうございました。あらかじめお
配りいただきました「日本国憲法制定史とその法理的視角」をきのうから拝見
し、そしてきょうまたお話を伺ったところでございます。
 実は、私は昭和十年二月生まれ、当年とって満六十五歳でございます。なぜ
こんなことから申しますかといえば、私ども、現在の憲法をどう評価し、この
改正問題についてどう考えていくかということは、すぐれて、それぞれ私ども
国民一人一人の人生における憲法とのかかわり、それを踏まえた見解というこ
とになると思います。それぞれの、私も含めての国民の人生観、それから世界
観、あるいは日本のあるいは世界の歴史観というものを踏まえて、これまでの
憲法の歴史を、そしてこれからをどう展望するかということだろうと思います
ので、あらかじめ申し上げた次第でございます。
 先生、まず、いつお生まれで、終戦時、どんな状況におられたかをちょっと
御説明ください。
○高橋参考人 私は昭和二十二年二月二十六日でございまして、五十三歳にな
ります。ですから、恐らくは私、まだ生まれていなかったのではなかろうかと
思っております。
 ただ、昭和二十二年というのは、まさしく憲法と同じ年でございますので、
憲法を勉強し、こういうことに際会するのはまことに、少しでもお役に立てれ
ばありがたいなというふうな感慨はございます。
○穂積委員 ありがとうございました。
 それでは、憲法と私の人生のかかわりといいますか、これを簡単に申し述べ
ます。
 私は一九四一年、昭和十六年、国民学校一年生でございました。十二月、開
戦のときの詔勅を今も覚えております。「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メ
ル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ米国及英国ニ対シ
テ戦ヲ宣ス」こういう宣戦の詔勅を国民学校一年生のときに覚えましたよ。そ
れから国民学校五年生、後で小学校になりましたが、八月十五日、終戦の日は、
校庭に集まって、あの玉音放送をお聞きしました。そして、昔は教育勅語があ
りまして、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」ということで始まる教育勅語も、終戦前、
何回も学校で頭にたたき込まれた、そういう世代でございます。
 ところが、終戦、これは実際は敗戦ですね、敗戦に伴って、雰囲気ががらり
と変わりまして、そこで私は、これは遊び事ではなしに、痛切な体験を一つ申
し上げたいと思うのです。
 戦争に負けてから、実質は占領軍を進駐軍として、占領軍の進駐を受けてか
ら、世の中、本当に大人、学校の雰囲気が変わりました。そのころ、小学校五
年生の生徒の間、あるいは大人の間でこういうなぞなぞが言われたのです。失
礼な話ですが、「マッカーサーとかけて何と解く」――どなたか覚えておられ
ますか。「へそと解く。心は、チン(朕)の上」こういうようなことが昭和二
十年、一九四五年の年末から翌年にかけて流布されておったのでございます。
私は、これはある意味では、まさに権力の劇的な移動、主権者の交代、こうい
うことと実感を持って思い出すわけでございます。
 そこで、私は、現憲法が押しつけかどうかということから始まって、累次、
この調査会でも諸先生からいろいろお教えもいただいているのでございますが、
これはまさに占領軍のもとで、占領管理下において、日本の支配層は、つべこ
べ言わずに占領政策に従えという雰囲気の中で、総司令部の憲法改正案を押し
つけられ、これを受け入れざるを得なかった、当然の状況だというふうに私は
思い出すのでございます。形式は明治憲法第七十三条の改正手続をとったとし
ても、これはそうした権力関係のもとで、占領下のもとで日本国民が受け入れ
ざるを得なかった憲法草案であり、形式上は格好をつけて、明治憲法の改正手
続を踏んで改正が行われたと私は思っておるのでございます。
 しかし、先ほどの戦後の一変した空気の中でこの憲法を多くの国民が受け入
れたか受け入れなかったかということですが、私は、これはあの敗戦の惨禍の
後、日本国民はこれを受け入れる雰囲気が横溢していたと思い出すわけでござ
います。
戦争の放棄の規定もそうです、そして、基本的人権の保障は受け入れられまし
た。
そうして今日に至っている。
 そこで、先生のきょうのお話で、講和条約の成立と発効の際に、そうした占
領管理下につくられた憲法を改めてどう評価するかということについて、その
当時どうであったかといえば、一九五二年の講和時までの歴史の中で、日本国
民の大半はこれで行っていいのじゃないかという雰囲気のもとで、まさに先生
がおっしゃるような、最後のページにございます、これを受け入れるような雰
囲気というか、国民の支える意思というものが多数を占めておった。その上で、
日本国政府が主権を回復してみずから統治するという権力関係に円満に移行し
た中で、その権力関係のもとでこの憲法が国民に受け入れられ、また有効に、
占領下の、講和条約発効時に断絶があったとしても、スムーズに引き継がれ今
日に至った、こういうふうに私は思うわけでございます。
 今まで申し上げたことについての先生の御所見といいますか、御感想をお伺
いできればと存じます。
○高橋参考人 先生のお話の中で、やはりそれは人生観の中で、もしくは世界
観の中でそのようなお話をお伺いしておるわけでございまして、私のような、
憲法を商売とするけれども、その当時の雰囲気なりそのような人生経験を必ず
しも受けていなかった人間にとって、そのような感じがする、こうであったと
いうふうにおっしゃっていただけるのは、私としても非常にありがたいという
ふうに思っております。ありがとうございます。
○穂積委員 実は、私は自民党に所属する一国会議員でございます。自民党に
は、私の世代の上下、若い人は三十前後の国会議員も所属しておりますし、ま
た八十を超えた大元老の諸先生も元気に国政に参加しておられます。さまざま
なその人生経験、国家観等を踏まえて、この党は、ちょっと宣伝になりますが、
自由民主主義を基本的な政治原理として受け入れて、その上で、日本国のこれ
まで、そしてこれから、有意義な、最も国民にとって妥当する政策を採択し、
進めようという政党でございます。諸先生、いかがですか、そんなふうに私は
自分の党を誇りに思っているのでございますが。
 そういう中で、我が党にも、憲法押しつけ論からする、これを抜本的に初心
に返って新たな憲法をつくろうという考えの方、これは自由党の皆さんにも多
いかと存じますが、そういう方、あるいは、中どころと言ってはなんですが、
まあまあこれまでこの日本社会に妥当してきた憲法の諸規定は、これは貴重な
ものとして、まさに保守本流として守っていくべきものは守る、しかし、いろ
いろと不都合な点が出てきているのは真剣に議論して改正の方向を、できれば
与野党大方の見解をまとめて国民に提案すべきではないか、こういう方もかな
り多い、こんな感じでございます。
 そこで、その上でお聞きしたいのは、現在の憲法で、やはりどうにも、解釈
改憲的ないろいろな手法、手練手管といいますか、言葉は悪いのですが、そう
いうことで現実への適応をしてきたけれども、それがこれ以上この条文、具体
的な日本語で書かれたものと照らし合わせて、もつかもたないかということで
議論されざるを得ないのは、やはり憲法第九条だと思います。
 この憲法調査会でも勉強の中でだんだんと明らかになりましたのは、憲法九
条をめぐっては、それはまず絶対的に戦力を放棄し、自衛のためにも軍隊、戦
力を保持しないというつもりでこの条文がつくられたという考え方の人と、い
や、実は総司令部の中にもあるいは日本政府内にも、何とか自衛のための、要
するに日本国民の生存権にかかわる話として自衛権を認め、それに応ずる戦力、
軍隊保持は可能だとする条文解釈の可能性を残すような、芦田改正とか、そう
したことがあったんだとか。ところが、吉田元総理は、そうした自衛のための
戦力保持もこれは認めていないんだということを主張されておった、こういう
経過がございますね。
 そうしますと、憲法第九条の条文一つを見ても、日本語で数行書いた憲法の
重大な問題にかかわる文章から、読める、読めないみたいなことが長年にわた
ってこれだけ議論されてきたというのは、これは成文法として余り褒められた
ものじゃない。
そこはきちっと、いずれにするかということを踏まえてはっきりとするという
ような、基本法たる憲法が意図すべきあるいはこうすべきだということについ
ての方向に即して、それに適合する文章にしていくということは、この憲法第
九条についても当然この憲法調査会でもいずれ議論しなければならないと思う
わけでございます。
 基本は、日本国をどう持っていくか、特に、自衛のための軍隊保持、あるい
は国際協力の中での戦力の供与ということなどを含めて日本国家として今後ど
うするんだということをまず決めて、その合意の上に、それに適合する憲法の
文章にしていくということは当然ではないかと私は思っております。
 そのような条文が幾つかございます。もう一つ例を言いますと、憲法第八十
九条でしたか、教育関係で、私学に対しては公金を出しちゃいかぬぞというふ
うに一見書かれているのに、解釈上、公的管理ということで、とにかく私学に
対しても文部省の規制がある程度あれば公金を出してもいいんじゃないかとい
う解釈合憲的に補助金を出しているという実態がありますね。そうしたことが
幾つもあるわけであります。
 そうしたことについて、日本国憲法を今後に向けて、本当に裏も表もない、
こういうことで我が国の政治の基本はこうやっていくんだということを決めた
上で、わかりやすく憲法にその点をはっきりさせていく、憲法を改正しようと
いうことについては先生はどんなふうな感触でおられますか。
○高橋参考人 先ほど私の議論の中でちょっと申し上げましたように、結局、
憲法の特に重要な効力というものは、皆さんがそれに対して法的確信を持って
いるかどうか、すなわち、この憲法に書かれていることが、事実としてそうで
あって、かつ、そのように我々は行動すれば十分なのだというふうな法的確信
ということを効力の妥当根拠にしております。したがって、今御指摘のように、
もし現実にはそれがとれないというふうなことになれば、場合によっては効力
の力をそぐということになりまして、余り望ましいことではないということだ
ろうと思います。
 ただ、もちろんそのような方向をどちらに決めるかということのときには、
事実と余りに違えば、事実の方に引っ張っていくということも一つありますけ
れども、逆に、今の憲法の方向に事実を何とかするのだということも考えられ
るわけでございますから、ぜひその点については、学問というよりは、政治が
それをお決めになるということが絶対必要でございます。そういう形でどうか
議論を深めていただきたいというふうに思っております。
○穂積委員 もう二、三点申しますと、例えば表現の自由という基本的人権の
問題がございますね。これについては、実は最近でも、性的表現をめぐっての
広告のあり方ということで、広告拒否を続けている大新聞もございます。自由
とはいいながらも、自由勝手というか、そういうことや何やを含めまして、基
本的人権の中で本当に他人の迷惑にも配慮せずに勝手に権利を主張するという
ようなことなどで、それをどう扱うべきかという問題が、表現の自由というこ
とを一つ言いましたけれども、そのほかにも何点もあるかと思うんでございま
す。
 そういうことなどについて、先生の最後のページの、結局憲法の効力はどう
なんだということに関連して御説明のありました、まず国民の中で大方の合意
が得られて、これを基本法に盛り込もうということについての一番大事な、そ
うしたコンセンサスを支える意思ということについて、言葉としては、ちょっ
とこれもう少しわかりやすい言葉で御説明いただければいいかと思うんですが、
「間主観的な」という言葉がございますね。これらも含めて、私の言いました、
現時点でもいろいろな意見がある問題についてコンセンサスをつけて、それで
これを、例えば基本的人権の規定についても、公共の福祉絡みの話や何やもそ
うなんですが、こうしようというときの、新しい憲法を確定しようというプロ
セスの中で「間主観的な」云々ということをどんなふうに取り込んでいったら
いいかについて、これ、大変興味のある点でございますので、お伺いいたしま
す。
○高橋参考人 「法の主体でありかつ受手である人びとに生ずる、ある法は効
力があるという間主観的な意識」、こういう難しいことを書いておりますが、
実をいいますと、これはある法哲学の先生が書かれたことを引用したもので、
非常に難しくなっておる次第でございますが、「間主観的な」、つまり、僕ら
が通常な普通の人間であれば同じような意見、感覚に達するであろうという、
いわばおっしゃったコンセンサスというふうな言葉と非常に近いものだろうと
私思っております。
 ただ、どうも法哲学ではもう少し深い意味に使うようでございまして、我々
が例えばある共同体なり社会の中に産みつけられるわけでございますね。そし
て、その中で一定のルールを、つまり、これまで支えられてきた歴史的な、も
しくは、その社会、共同体のつくってきたルールの中で身を処す。そういうこ
とによって生きて、もちろんそれだけでは足らないわけでして、そのような共
同体などのルールに従いながらも、しかし、自分は共同体の一員ではありなが
らも個人であるというふうな、その個人としての側面を強く出す。昔は、そう
いうふうな意味では間主観性があり過ぎたといいますか、皆同じ結果になっち
ゃったけれども、今はある意味でその個性というのが非常に強く出るような社
会になっております。
 したがって、特にこのような価値が多様化された時代ということになります
と、その間主観性をつくり出すというのは簡単なことではなく、例えば国会の
先生方がみんなそう思ったからといって国民がそうすぐ思うというほど、そう
いうふうな時代ではないと考えております。
 だからこそ、国民の間に、議論をした上で、お互いに説得し合う中で一つの
同じような意見を少しずつ醸成していく。そしてその結果として、この法は生
きていく、これは改正すると、そのような形で形づくっているものと存じてお
ります。そして、そのようなものが醸成された中で、やはり自由といったよう
なものがそこから生み出される。
 これは私のかなりの思い込みかもしれませんけれども、今の憲法の解釈は、
ある意味で、いわば裸の個人と個人が平等に存在して、それの契約によってル
ールが形づくられるという、ある意味で、間主観性というよりは、個人がもし
かしたら偶然に一致すればそれでコンセンサスなんだというふうな形でどうも
いっているんじゃないか。
 そういうふうな意味で、やはり我々の共同体の固有の歴史なり、あるいはそ
の共同体は、実は世界じゅうの国々はすべてある意味で共同体でございますの
で、それらの間で一致できるようなものなり、そういったものが恐らく世界の
中で多くの国という共同体が一致できるようなことについてかなり具体的な形
になれば、国際連合のようなものも実際に働けるようになるだろうし、あるい
は、その中で、いわば間主観的な力で、単なる表面上のコンセンサスだけでな
く、世界秩序を守れるようにもきっとなろうかと思います。それは大きな話で
ございますが、我々日本の状況の中では、私としては、そのような間主観性と
いうのは、かなり今のような多様化の時代においては、意識的にやはりコンセ
ンサスづくりということを通してでなければ得られないものというふうに考え
ております。
○穂積委員 いや、実はこの質問に絡んで共同体等のお話もされるかなと思っ
て期待して質問したんです。
 実は私どもは、自民党内の政策集団の一つで、今後のキーワードの一つは共
生社会、共生思想ということで、今後の社会の万般にわたって考えていくべき
じゃないかという主張をしておるグループでございまして、社会の中でのコン
センサスづくりというものについて、先ほどの表現の自由とそれについての自
制といいますか、これの話にもう一回戻すんですけれども、権利に対して、こ
れは、共同体の中で、共生ということである程度権利を制約すべきものが多々
出てくると思うのですね、基本的人権絡みの話で。そういうことについて、間
主観的意識ということで、コンセンサスをつけていくというプロセスこそが実
は非常に難しい、しかし労をいとってはならない問題ではないか、こんなふう
な気がしているのでございます。
 そのことについて、少しわかりやすい例でお話ししようかと思って来たので
す。道路交通法で、スピード違反を取り締まるという規定になっています。五
十キロ制限のところで、五キロオーバーの五十五キロぐらいで流れているとき
は、交通取り締まりの警官も、その一台を捕まえてスピード違反ということは
しないでもよかろうというようなことで、法の執行の現場である程度裁量をし
てやっている。それが二十キロオーバーじゃ、ちょっと危ないぞ、これはネズ
ミとりで捕まえろ、こういうようなことなど、法の運用についても、適宜現場
での取り締まりに弾力性を持ってやっているということでありますね。
 なぜこんなことを言ったかといいますと、ここは五十キロ制限の道路だ。と
ころが、見通しはいいし、直線だし、この一キロ間ぐらいは大体五十五キロあ
るいは六十何キロで走っている車が多いということで、どんどん流れていると
いうような場合には、そこにおのずから共通の、まあこの辺まではいいじゃな
いかというコンセンサスがついてドライバーは走っている。こういうことがあ
りますね。
 これで大体類推いただけると思うのですが、基本的人権について、公共の福
祉なりなんなりについての見地から制約を加えようという場合には、どの程度
制約を加えるかということについておのずから、問題別に、ケース・バイ・ケ
ースでこの辺の線引きをしようというような、その時点における合理的なめど
をつけるという、法制化といいますか、立法や何やということが必要ではない
か、こんな感じを私は持っておるのです。
 そうしたことで、今後も、憲法論議に際して、微妙な、こうした権利と権利
制限ということについてのコンセンサスづくりについては、ともに生きるこの
社会で、この辺まで合意をし、これを決めたらきちっと守ろうじゃないか。余
り現場での行政運用で恣意にわたらぬような形で、きちっとした社会にしてい
くのがいいのかなという法律観を持っておりますので、先生にこの点をお伺い
したいと思っておったのでございます。どうぞよろしく。
○高橋参考人 非常に難しい問題でございますけれども、本来、表現の自由で
あれ、今の行動の自由、運転という自由であろうかと思いますが、そういうふ
うなものであれ、基本的に自由であるけれども公共の福祉によって制限される、
いわばこういうふうな理屈の立て方ということになっておるわけでございます。
 これは、公共の福祉というもので権利を制限することができるかどうかとい
うことについて、実は、学界では非常に考え方が四分五裂でございまして、例
えば、公共の福祉というのは、基本的には経済的自由その他のものにしかかか
っていかない。ほかのものは、基本的に、他者危害といいますか、他者を害し
ない程度で制限できるにすぎないという、そのような、非常に強く自由を広く
とるというふうな方々もおられるようでございます。
 ただ、言えることは、例えば、表現の自由のように憲法の中で非常に強く保
障されているような場合は、原則として、はっきりした現実的な危険性といっ
たようなもの、害悪というものを生ずるような場合に限って制約を加えていく
ような方向であるようです。それに対して、そうでないような、例えば経済的
自由については、公共の福祉で制約されるといっても、かなり政策的な、裁量
的な法律をつくれば、それでもやってよろしいのだ、そういうふうなもののよ
うでございます。
 恐らく交通取り締まりの規定というのはその中間ぐらいにあって、しかしそ
れが起こると害されるのは人間の生命でございますし、そのような交通ルール
をどこまでやっていくかというのは、そういうふうな意味で、ちょっと厳しく
せざるを得ないのかなというふうに私自身は考えております。
○穂積委員 時間が参りましたので終わりますが、先生、現憲法の効力につい
ての先生のお説は、私は多数説でいいんじゃないかと思ってお聞きしましたこ
とを申し上げて、質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。
○中山会長 土肥隆一君。
○土肥委員 先生、きょうはありがとうございます。民主党の土肥隆一でござ
います。
 私は、憲法調査会ができたことを評価いたします。なぜならば、それはまさ
に、今高橋先生がおっしゃいました間主観的な意識でやる憲法調査会、こうい
うふうに私は、間主観的というのは何だろうかと思っておりましたら、先ほど
穂積先生が聞いてくださいましたので、まさに中山会長にも、ぜひとも間主観
的体制で、意識でやっていただきたいなと。
 と申しますのは、穂積先生も図らずもおっしゃったのですが、自分の人生を
振り返って、戦後、新憲法、平和憲法と言われておるものにどっぷりというか、
そのままつかって生きてきた私どもでございますし、そしてまた、これは五十
年もたっておりますから、ちょうど中山会長は臓器移植法のときにも率先して
おやりになった方でございまして、あれはまさに人生観をかけた法律でござい
ました。そういう意味では、この憲法の問題も、まさにこれこそ、国民一人一
人、そして国会議員のすべてが人生をかけた結論を出すべきだと思うのですね。
 しかしながら、この調査会の勉強の報告というのは、余り一般国会議員に伝
わっていないんじゃないか。ここの人たちは勉強しているけれども、ほかの議
員は全くやっていない。したがって、何か時々、全議員にアンケートをするな
り、あるいは最終的には、あなたの憲法観を聞きますよというふうな、そうい
う働きかけを常にしていただいて、やはり全国会議員が関心を持つような憲法
調査会にしていただきたいなというふうに思います。
 そうした中で、きょうは高橋先生、本当にありがとうございます。実は、先
生の結論は「支える意思と諸力」ということでございまして、支える意思と諸
力が存否するかどうか、これが憲法の効力の根拠であるというふうにおっしゃ
いました。私は、大変興味深く、また印象深く聞いたわけであります。
 例えば、私ここに、「拝啓マッカーサー元帥様」という、戦後マッカーサー
司令官が日本にやってきた直後に、五十万通の手紙がGHQマッカーサー元帥
あてに、「東京都軍司令部マッカーサー閣下親覧」というような手紙が行って
おりまして、この五十万人のマッカーサーへの手紙が、全部ではございません
けれども、こうやってまとめられているわけです。
 これを見ておりますと、占領国が来た、そして自分たちは占領管理下に置か
れたという、その日本国民が、大多数は大歓迎をもって、マッカーサー以下G
HQの駐留を歓迎しているわけですね。編集者の解説によりますと、これは一
時期の情動、一時期の情熱ではなくて、かなり経過的に続いたんだ。そして、
五年、十年、二十年たつと、それは一定の定着をしてくるわけでございまして、
その定着ということを私ども国会が無視しますと、国民にしっぺ返しを食うの
ではないかというふうに思います。
 ですから、国会議員のそれぞれの憲法観というものも大切でありますけれど
も、一体国民はこの憲法をどう受けとめているかということを絶えず知る方法
を持っておかないと、改正案は出したわ、ひっくり返るわというようなことに
なるかというふうに思うのであります。
 しかし、その間主観的な意識というのは、法哲学的な非常に難しい定義なん
ですけれども、言うところはわかるのですが、それをどういうふうに把握した
らいいのか。何か国勢調査あるいは世論調査みたいなことをするのか、その辺
は先生はどうお考えなのでしょうか。
○高橋参考人 そういうふうな意味では、いわばやや理屈倒れのところがある
わけでございますけれども、御指摘のとおりでございますが、ただ、我々は、
日々の中で、まさしく潮のだんだん満ちていくように、やはりこの憲法という
ものについて、ある程度考え直さなきゃいかぬのではないか、それから、これ
を支えていかなきゃならぬのではないかということが、何かこの社会の中に感
得できるようなところがあるのではなかろうかと思っておるわけです。それが
一つ、例えばマッカーサー元帥に対する手紙の例でありますし、それから、現
在において、例えば国旗・国歌法案その他についてのいろいろな論調であり、
また、場合によってはインターネットその他で与えられる意見ではないでしょ
うか。
 これまでは特に憲法というのは高く持ち上げられてはいたと思いますけれど
も、しかし、おっしゃるとおり、具体的にそれはどの程度支えられているのか、
どの程度の賛同を持っているのか、どのような点を問題点として見ているかと
いうのは、割と調べられてこなかったのではないでしょうか。そういうふうな
意味で、例えば今日ではインターネットという非常に大きな強い武器もござい
ますものですから、そういうふうな形で常に国民の動向をもう少しうまく把握
できるような方法をやっていただければ、当方としても非常にありがたいとい
うふうに思っている次第です。
○土肥委員 今、専ら九条問題が俎上に上がっていると思いますけれども、御
承知のように、やがて朝鮮戦争が怪しくなってきて、一九五〇年、昭和二十五
年ですけれども、マッカーサーは突然、「相手側から仕掛けてきた攻撃にたい
する自己防衛の冒しがたい権利を全然否定したものとは絶対に解釈できない。」
と、自衛的再軍備を示唆するような発言をするわけです。ところが、吉田首相
は、アメリカの再軍備要求をかわすために、武装を禁じた平和憲法を盾として
抵抗を試みるわけですね。片山、芦田両氏も、施政方針演説で、民族更生の一
大宣言がこの憲法なんだ、こういうふうに言っているわけであります。
 この九条というのは、いろいろと言い方はありますけれども、私は、ボスニ
ア・ヘルツェゴビナの紛争にしても、あるいはコソボの紛争にいたしましても、
あるいはコンゴの問題にいたしましても、全部これは政治的意図が絡んでいる
わけですね。政治家は時に慢心を起こしまして、そして、武器を使ってその権
力を保持しようとするのは政治家のさがでございまして、それは絶えずあると
いうことを念頭に置きながら、では、九条というのはもうどうにもこうにもな
らないような、解釈の余地がないような状態になっているのかどうかというこ
と、これは本調査会できっちりと議論をしていただきたいというふうに思うわ
けであります。
 そもそも、憲法というのは細かいことまで一々決めているわけじゃございま
せんで、やはり九条で言われているのは、先ほど言いましたように、政治家へ
の戒め、国家権力への戒めとしては十分この五十年間働いてきたというふうに
も思うわけでございます。
 そうした中で、この改正条項は九十六条にございますけれども、三分の二条
項と国民投票、国民の過半数の賛成を得なきゃならないので、これが一つの大
きな足かせにもなって、これまで憲法が改正されないできたということもある
いは言えるのじゃないか。
 先生、三分の二とか、あるいは国民投票を課しているこの憲法についての御
意見をお聞きしたいと思います。
○高橋参考人 確かに、日本国憲法の改正条項というのは厳しい、類例のない
ほどというほどではないですけれどもかなり厳しくて、各議院の三分の二の賛
成プラス国民投票というのはかなりきついだろうと思います。
 ただ、本当のことを申しますと、本当にきついのは各議院の三分の二という
ところがきついのでございまして、そういうふうな意味では、私は、国民投票
に付する部分については、もうそれで動かしようがない、少なくとも動かしよ
うがないと思っていますので、その三分の二ということを皆様がどのようにお
考えになるか。
 コンセンサスといいますか、間主観的な意思は三分の二は要るものなのかど
うか。逆に言えば、三分の一の方がとにかく反対すれば動かなくてよろしいの
かという、これは恐らく経験則に基づいて決まることではないか。なぜならば、
日本並みに難しいドイツの憲法はかなり改正されておりますので、その点、い
わば皆様の考え方に基づいているところがございまして、観念に基づいている
ところがございまして、その経験則に基づいて、これは多過ぎるとか少な過ぎ
ると言える問題でございまして、どうも、申しわけありませんが、学問的なこ
とで云々ということには、難しい問題であることだけをお話をいたさせていた
だきます。
○土肥委員 私は、やはり三分の二条項は置いておいた方がいい。これを克服
できないような国会であるなら、これは先ほど先生もおっしゃった、多様化し
た国際情勢あるいは国民の意識の中で、憲法を新たに決めようというときは、
少なくとも国会議員がこの国会で発議するわけでありますから、三分の二が、
ただ数の問題ではなくて、そこまでまさに間主観的な意識というものを育てて、
そして三分の二に達する。私は、これはあり得ると思うのですね。そこまで議
論する覚悟をしなきゃならない。当然、国民投票をしなきゃならない、主権は
国民にあるわけでございますから。
 そうすると、まだこの国民投票の方法なりなんなりは決まっていないわけで
すね。
したがって、私は、本調査会で、いわばルールとして、三分の二をどうするの
か、国民投票はどうやってやるのかというようなことも含めて、ぜひとも議論
もしていただきたい。
 つまり、私が申し上げたいのは、憲法をもう一度見直そうというときに、そ
のルールなり土俵をはっきりと決めて、その土俵において間主観的な意思合意
を得られるような努力をするのが本調査会ではなかろうかというふうに思うわ
けでございます。
 しかし、先生は、今の日本国憲法の中身というのは手続とか内容上の瑕疵だ、
こうおっしゃるわけですね。この瑕疵で国会議員が納得するかどうか。九条も
瑕疵というならば、それは相当な議論をして、その瑕疵を直していかなきゃな
らないということでございます。
 しかし、第一章はどうなんでしょうか。この間主観的な意識を見ながら、第
一章に瑕疵はないのかということ。そして、やはりこの調査会の最大の、最後
に乗り越えなきゃならないのは第一章、第二章でありますから、その点の先生
の御意見をお聞かせいただきたいと思います。
○高橋参考人 まず、もし誤解がありましたら申しわけないのでございますが、
瑕疵というのは、別にそれほど、法律家でございますのでつい法律用語を使っ
てしまったということでございまして、つまり、瑕疵と感じられる部分、感じ
られる方々がおられるというほどの意味でおとりいただければありがたいと思
います。
 ただ、先ほど申しましたように、手続につきましては、どの学説、考え方を
とっても若干問題点が生じますし、それから、内容については、九条も含めて、
実は九条について話をさせていただくのを避けていることにお気づきだろうと
思います。これは特に、私、若干考えておることはあるのですけれども、今お
話しするのは余りふさわしくないと思って、実はもっと十分にお考えの方が多
いものですから、ここでは今のところ避けさせていただきたいと思った次第で
ございます。そのような理由でございます。
 それから第一章ということでございますが、言えというふうに言われるんで
したら、実は、第一章というのは、天皇の権限に関してはちょっと問題がござ
います。むしろ、考え方、地位をどうするかといったような問題は、まさしく
これは大きな政治上の問題ですのでここではお話ししないとしても、実を言い
ますと、GHQがマッカーサー草案をつくったときに、各グループが、天皇な
ら天皇を書く、それから内閣なら内閣を書く、国会なら国会を書くというグル
ープがつくりまして、そして各草案をいわゆる運営委員会に上げまして、そこ
で一回だけ本格的に議論しているんですね。
 そのために、例えば、天皇と国会の関係、天皇と内閣の関係、簡単に言えば
解散権問題でございますね。あれが実はどのようにでも解釈されるような状況
が、つまり各条項の接続の悪さがございます。そういうふうなことは、もし天
皇の中で法律解釈上に何が問題だといえば、そのような問題もやはり出てくる
かというふうに思っております。
    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕
○土肥委員 君が代論争のときに、君が代というのは天皇を含む日本国民とい
う解釈だっただろうと思うのであります。そうすると、天皇は、例えば投票権
を持たないというのは国民の義務を欠いているわけでございまして、あるいは
納税をされないという、消費税はどこかで払わなきゃいけないのかと思います
けれども、納税の義務もないというようなことからいいますと、やはり第一章
はここでしっかりと議論をしていただかなければまずいんじゃないかというふ
うに思います。
 最後に、先ほど穂積委員も八十九条の話をなさいましたけれども、公的な税
金を私立学校に拠出しない、してはならないと。これは学校教育だけでなくて、
公の支配に属さない慈善、博愛という事業、これは福祉事業ですね。これは社
会福祉法人をつくってそこにお金をおろしているわけでありまして、全く準国
家的な機関になっているわけでありますけれども。
 例えば学校、私学に関していえば、これは法文上出ておりますけれども、私
学振興法、なぜ私学に金を出すかというところで、その子供の経済的な支援を
するためだと書いてあるわけですから、私学振興法の関係からいって、私学の
建設費や何やに出さないで子供に出しているわけですから、その子供が受けた
お金を学校に出して、それで学校を建てるのはそれは構わないわけでありまし
て、そういう意味ではいいだろうと。
 それから福祉に関していえば、これは介護保険が入りまして、今までは福祉
は社会福祉事業法に基づいて社会福祉法人が一手に引き受けてきたものを、今
度は介護、看護の技術を法人格さえあれば民間事業者に全部渡す、そういう時
代になったわけでありまして、ここはもう、やはり八十九条というのは、その
精神は、私学なりあるいは社会福祉事業、博愛とか慈善という事業は、やはり
政治からあるいは行政からやや離れたところで積極的にやってください、国民
の相互の生活の支援というものはそういうふうにしてやるんですよということ
からいえば、八十九条があっても構わないわけであります。
 そういうことも考えながら、実はいつも国会議員はついでに八十九条を持ち
出すわけでございまして、そうであるならば、私は、例えば十九条、二十条の
信教の自由というところもよっぽど議論していただかないと、例えば、マッカ
ーサー、GHQが市民的権利委員会で出したこの十九条、二十条の素案になっ
た文書がございまして、「いかなる宗教団体も、宗教の見せかけだけの下で他
者への敵意をかき立てたり、それを実践するか、公の秩序や倫理を強めるどこ
ろか弱めるならば、宗教団体として認められない」、こう書いてあるんですね。
 これはオウム真理教の話もそうでありまして、やはりいろいろな条文で、そ
ういう国民の生活に緊密な関係のあるところを憲法学者ももっと積極的に書い
ていただきまして、今後、高橋先生の御活躍を期待しながら、私の意見を終わ
りますが、ちょっと最後にその八十九条について。
○高橋参考人 八十九条の、特に私学助成の部分については非常に難しゅうご
ざいまして、これは経緯がまだよくわかってはいないようでございますが、恐
らくプエルトリコ準州に関する法律、従来はニューヨーク州憲法由来だと言っ
たんですけれども、どうもプエルトリコ・ジョーンズ法という法律に由来する
ものだったらしいんですね。それはやはりそのように、つまり、渡しっきりの
お金にすると問題が起こるというふうなことが背景にあったようでございます。
 ですから、そういうふうな意味で、完全に渡しっきりでなければ、ある程度
目的がよいということで十分たえられるというのであればというふうな形で今
緩和的に解釈しておる、そういうことでございますが、それをはっきり書くと
いうこともよろしいことではないかと思います。
 それから信教の自由でございますが、これは、日本の場合には、信教の自由
を憲法学者の非常に多くの人は非常に絶対的にとらえております。ですから、
それが具体的危険というふうなことにならない限りはそれを制約するのは難し
いという御意見のようでございますので、これだけちょっと最後にお話しして
おきます。
○土肥委員 どうもありがとうございました。終わります。
○鹿野会長代理 石田勝之君。
○石田(勝)委員 高橋先生、きょうは大変御苦労さまでございます。
 先ほど来、先生の御意見を拝聴させていただきました。また、きょう質問す
るに当たりまして、事前にいただいた先生のレジュメ、それから先生の書かれ
た論文も拝見をさせていただきました。そういう中で、何点か御質問をさせて
いただきたいと思います。
 高橋先生は論文の中で、「日本国憲法は一身にして二世を経たものである。」
として、占領期と占領の解除以降を分けてその性格を考えるべきだとおっしゃ
っております。そして、占領の解除以降、すなわち、先ほど来お話が出ており
ますように、講和条約による主権の回復とその後の支える意思と諸力によって
日本国憲法は初めて正当化された、国家の最高法規になったと主張されている、
そのように理解をしてよろしいんでしょうか。
○高橋参考人 そのとおりで結構でございます。
 ただ、それにつけ加えさせていただければ、日本国憲法の制定事情というも
のは、ですから、講和期以後に、そこから見てその正統性が評価されるという
ことになるということだけ、つけ加えさせていただきます。
○石田(勝)委員 講和期以降が正当化される、こういうお話でございました。
 そして、先ほどもいろいろお話が出ておりますが、「支える意思と諸力」、
私も先生から御説明を受けるまでちょっと意味がよくわからなかったわけであ
りますが、この「支える意思と諸力」という言葉は、国民の自由な意思あるい
は選択といったものだろうというふうに先生のお話を聞かせていただいて、そ
ういうふうに理解するのかなと思って聞かせていただいたわけであります。
 そこで、先生は、日本国憲法の起源はポツダム宣言である、その中に盛り込
まれた無条件降伏という概念は、従来の休戦から講和に至る終戦処理に新たに
国家改造プログラムを組み込んだ新しい試みである、このようにおっしゃって
おられるわけでありますが、そうであれば、その後の占領解除に至ったのはそ
の国家改造プログラムが成功したからであり、占領解除で日本国憲法が先生の
おっしゃる支える意思と諸力によったとしても、これはGHQの国家改造プロ
グラムの成果にしかすぎないのではないか、国民の自由な意思や選択ではなか
った、そういうふうに理解をしてしまうわけでありますが、その点、いかがで
ございますか。
○高橋参考人 おっしゃった部分は、いわゆる日本国憲法Aと書いたものです
ね。
その部分については、まさしく占領軍の力、もしくは、いわば国家改造プログ
ラムにのっとった政治、経済、文化に対する働きかけという形で効力が維持さ
れたというふうに考えております。
 その後、結局占領軍が日本より撤退した後は、まさしく日本人がどうするか、
もちろん国際的な圧力はありましょうし、その他のことはございますけれども、
日本人がどうするかという、そういう形で日本国憲法の効力が維持されるわけ
でございますから、決して日本人の意思が本当に――あれは占領管理期でつく
られたものだから排除するんだと思えばそうなるわけでございまして、そうい
う例はいわば占領管理期につくられたオーストリア憲法が、これは実はナチス
によってつくられたわけで、逆の方向ですけれども、そういうふうなのはけし
からぬというわけで、占領が終わった途端にそれを失効宣言をして破棄してお
ります。そういうことも日本はできないわけではないというふうな形で、日本
国民の意思は生きている、働いているのだというふうに僕は考えております。
 以上です。
○石田(勝)委員 今の憲法そのものの存在する、先生のおっしゃる正統性に
ついて次にお聞きしたいと思うのですが、今の憲法そのものの存在の正統性に
は何ら問題がないとすると、それでは先生は今の日本国憲法を改正するについ
てはどうお考えなのか、今の憲法の正統性というところはどういう点にあるの
か、そしてどういう状況であれば改正してよいのかどうか、その点をお聞かせ
いただきたいと思います。
○高橋参考人 効力の問題と改正する問題は若干やはり分けて考えた方がよろ
しいのではないかと思っております。私はここでは、効力についてはもう疑い
はないのではないか、そのとき問題にされたことがもしあるとすれば、それは
将来あり得べき改正のときに問題にされればそれでよろしいということではな
いかというふうに書いております。
 そして、いつ改正ということが問題になり得るかというと、御存じのとおり
どんな法律も時代に合わなくなることはあります。それから、そもそもできた
ときに若干問題があったものももちろん効力があるわけでして、それがやはり
外にあらわれて、みんながもう少し改正したらどうかなと論議を始め、さらに、
それに対する実際的な行動を始めたときに、それはまさしくその時期が到来し
たのだというふうに、学者としては見ているということでございます。
○石田(勝)委員 今先生がおっしゃったように、みんなが論議をしてそうい
う時期が来たときにこの改正について考えるべきだ、まさしく今その時期が来
ている、そういうことで憲法調査会が設置された、先生のお話を聞くとそうい
うふうにとれるわけでありますが、例えば読売新聞のアンケート調査なんかで
は、国民の過半数を占める五三%が憲法改正を要望、改正すべきだという考え
が過半数を占めている、そういう状況の中で、今先生がおっしゃったみんなが
論議を始める時期だということも含めて、国民の半数以上が改正を考えるべき
だというふうに言っておりますが、この点についてはいかがでしょうか。
○高橋参考人 おっしゃるとおりでして、もちろん現在のようなサンプル数の
問題もございますでしょうけれども、少なくとも論議をすべきではないか。必
ずしも十分な論議がない部分が、瑕疵と言って先ほど怒られましたけれども、
あるのではないかとか、あるいは、事情が非常に大きく変わってきている。
 例えば、九条問題は僕は余りしゃべりたくはないわけですが、背景としては、
結局二十世紀の後半というのは簡単に言えば非常に平和な時代であって、私に
言わせれば二十世紀後半というのは、これはまさしく信じられないほど平和な
時代であった。それが、そのたがが外れまして、二十一世紀は、大きな戦争が
起こるかどうか知りませんけれども、非常にある種危機的な状況があり得るよ
うな状況に少し入っているのじゃないかというふうな、恐らくそれは、アンケ
ートに答えられている、例えば九条に関するアンケートに答えられている方も、
もしかしたらそういう意識があるのではないか。そのときに当たって、この九
条の本来の意味を再確認し、それで十分やっていけるかどうかということを論
議をする、これはやはり必要な時期に来たということについては、恐らく国民
の方々に余り異論はないのではないかというふうに考えております。
○石田(勝)委員 それでは違う角度から御意見を承りたいと思います。
 先生はその論文の中で、終戦後の日本政府の最大の関心事は天皇制の護持に
あった、マッカーサーもそれには理解を示していた、こう述べられておるわけ
であります。そこで、昭和二十一年の二月三日に、GHQの民政局に憲法草案
の起草を命じたときも、みずからマッカーサー三原則を示して、象徴としての
天皇制の存続を認める一方、天皇制に対する連合国の危惧を取り除くため、戦
争の絶対的放棄を取り入れたのだと主張されておるわけであります。
 そうすると、日本国憲法第九条の戦争放棄条項は、その前文に示された恒久
平和の理念に基づいて条文化されたというよりも、天皇制と交換条件として先
に条文化され、その理由づけとして前文が考えられた、こういうふうに解釈し
てもいいのかというふうに、先生の論文からあれするとそういう解釈になるん
ですが、その点はいかがなんでしょうか。
○高橋参考人 申しわけございません。その点に関して、今ちょっと手元で調
べる時間がないのでございますが、それはちょっとうがち過ぎ、そういうふう
に読まれるかもしれませんけれども、ちょっとうがち過ぎではないかと思いま
す。
 その二つが、片一方は片一方を補完するようというよりは、やはり日本にと
っての最大関心事、それからそのときの連合国の最大関心事、それを両方マッ
カーサーが取り入れてノートの項目としてつくり出したというふうに、並列的
に考えていただければありがたいというふうに思います。
 もちろん、マッカーサーは、彼の腹の中はよくわかりませんし、いろいろ言
われておりますけれども、私は一点つけ加えるとすれば、どうも恒久平和とい
うことを言うことによって、いろいろありましょうけれども、自分の配下のア
メリカ占領軍を守る、そういうふうな意識だってあったのだろうと。単なる高
い理想でやっただけではないのではないかと若干思ってはおります。そういう
ことは書いておりませんけれども、そういう推測もいたしております。
○石田(勝)委員 時間があれですから最後の質問に入りますが、並列的に考
えるべきだ、今そういうふうにおっしゃったので、そういうふうに私どもも考
えさせていただきたいと思いますが、「占領期の国民と領土は三層の支配関係
の下にあった。」こうおっしゃっております。
 すなわち、第一は連合国による支配、第二はGHQによる支配、第三は日本
政府による支配である。そして、この中で実質的な主権者はGHQであった。
GHQの命令は明治憲法に抵触してもその有効性は否定されていない。明治憲
法を含むすべての法律は管理法令としてGHQ指令に対する下位法令となった
と先生は主張されているわけであります。
 そうしますと、国家の最高法規としての本当の意味の憲法は占領中は存在し
なかったということになるわけであって、昭和二十六年の講和条約締結までは
いわば無憲法状態であったと考えてよろしいのか。先ほど来お話にありました
ように、日本国憲法A、Bとか、いろいろ先生がおっしゃっておる説も含めて、
お聞かせをいただければと思います。
○高橋参考人 憲法というのは、実は、御存じかもしれませんけれども、実質
的意味の憲法、こういう考え方。つまり国の基本法、普通は最高法でございま
すが、最高法規と言われる、そういうふうな憲法典というものがなくても、憲
法のいわばルール集がなくても、実際の権力関係をたどってみると、ある一定
の道筋をたどって権力が集中され、逆にそこから出た命令が下の方に伝わると
いう、そしてその一部が憲法典という形で文書に書かれる。そして明治憲法B
と言ったのは、実はその憲法よりもさかのぼるものがあるのだけれども、その
部分は憲法典に書かれていない、そういうふうな意味でそれを下位法規という
ふうに言ったわけでございまして、実質的意味の憲法と言うときには、その書
かれていない部分を含めて、国の本当のいわばあるべき姿を憲法という形で言
うこともある、その両方がちょっと混同を、もしかしたら私の書いた論文の中
にも混同している部分もあるかもしれませんので、どうぞもう一回お調べくだ
さい。
○石田(勝)委員 ありがとうございました。
○鹿野会長代理 二見君。
○二見委員 自由党の二見伸明です。
 制定過程につきまして、改正説、無効説、八月革命説、大変興味深く拝聴い
たしました。結論を言うとよくわからぬなということであります。
 私の立場はどちらかというと八月革命説に近いのです。理屈だけを言います
と、理屈で考えると無効説なんですけれども、五十数年間日本に憲法として定
着し、実効があるわけですから、それを無効だというのはちょっと粗っぽいな。
ですから、理屈の上からいくと無効説だけれども、現実的にいけば八月革命説
に近いなと私は自分流に思っております。
 先生の君主主権、それからマッカーサー、連合国主権ですか、それから国民
主権、これは一種の八月革命説の修正という考え方なのかなと思いますが、ど
うでしょうか。
○高橋参考人 そういうふうに見ていただいても結構です。どうしてかといえ
ば、つまり現行憲法が、実は、これまでの各説ではうまくそれが効力があるこ
とを理屈として説明できていない、しかし現実にはある、そういうふうな側面
がございます。
そして、日本のような憲法も、ほかの国でもちゃんと効力がある。では、なぜ
なのだろうか。
 しかし、無限界説でも八月革命説でもちょっと説明がつきにくいところがあ
る。それを修正して、学問的にも通るようなものに、よりよいものにしたい、
そういうふうな意図で書かれているという点では、先生おっしゃったとおり修
正説というふうに見ていただいても結構なんですけれども、ただ、ちょっとそ
の中で申しましたように、これまでの学界の基本的姿勢は、ある憲法が効力が
あるためには、必ず前から権力をいただくといいますか、授権されなければい
けないというふうな非常に確固とした理念がございましたので、その部分を私
の論文では要らないのじゃないかと言ったところが非常に今までの考え方と違
うということでございます。
○二見委員 私は実は憲法改正論者なんです。現行憲法の持つ、いわゆる三原
理といいますか、基本的人権、それから国民主権、恒久平和主義、これを私は
さらに深め、発展させた立場での憲法改正論者であります。もしこの三原理の
一つでも否定するようなことがあれば、それは憲法改悪でありまして、それは
私のとる立場ではありません。
 ただ、制定過程で議論しますと、そういうふうにすばらしい三原理なのだけ
れども、引っかかるのは、これは感情的、情緒的に引っかかるのです。
 「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」、四五年九月二十二日、「第一部
 究極ノ目的 日本国ニ関スル米国ノ究極ノ目的ニシテ初期ニ於ケル政策ガ従
フベキモノ左ノ如シ 「イ」 日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界ノ平和
及安全ノ脅威トナラザルコトヲ確実ニスルコト」、勝った国ですから、日本が
また強くなってやられてはかなわぬと思うから、日本は負けているのですから、
それはわかる。制定の過程でこういう意図があったということは当然わかるし、
当たり前だけれども、ここら辺は日本としても払拭しなければならぬなという
感じはしておりますけれども、どうでしょうか。
○高橋参考人 やはりおっしゃるとおり、憲法というのは、本来的には自分た
ちの意思が、その基本的な考え方が憲法の中にあふれていなければいけないも
のであろうと存じます。ですが、残念ながら、その当時の情勢の中で、そうい
うことについて必ずしも万全を期し得なかった。
 ただ、それはまことに残念と言えば残念ですけれども、日本はそのような、
いわば新しい憲法草案をある意味で出せなかったという側面もやはりあるわけ
でございまして、私は、憲法改正の論議も含めて、ルサンチマンでやってはい
けないと思いますけれども、しかし、そういうふうなことを反省して、今に合
う、日本国民の最も心情に合うような方向に、例えば憲法を改正するように論
議をすること自体は、特にしなければならないということについては全く賛成
いたしております。
○二見委員 「支える意思と諸力」の中で、先生は、「第二は、支える力の側
面である。」というところで、「また、マクロ的にいって、日本国憲法が国内
外の勢力によって動揺させられることもなかった。」私は、これは表面的に見
ればそうです。
 なぜこうだったかと言うと、例えば一番大事な問題は自衛権の問題だと思い
ます。それについて、政府も、最高裁も、真っ正面から取り組んでこなかった。
解釈改憲、憲法の解釈というやり方でやってきた。それもちょっとの開きなら
いいけれども、憲法九条ができたときの背景は、日本は一切軍備を持たないと
いうんです。だれでもそう思いますね。それが今では百八十度変わっている。
それをあくまでも憲法の解釈、解釈、解釈でやろうとした。解釈改憲という手
法でやったから、表面的には動揺させられることもなかったのだと思います。
 その解釈改憲という手法は、先生はどう思いますか。
○高橋参考人 おっしゃるとおりでして、先ほどの私の心覚えには憲法九条と
書いてあるのですが、やはりおっしゃるとおり、少なくとも憲法典として、書
いてあることとして動揺を受けなかった。本来ならば可能性はあったわけでご
ざいますけれども、それを日本人の知恵と申しますか、そこいらは難しい問題
でございますけれども、すり抜けるという、そういう形で事なきを得たという
ふうに私自身は考えております。
 ただし、そのような非常時において、非常の事態に対応するようなことを、
特に急速にそのような重要な点に手をつけなければいけないということが本当
にいいのかどうかというのは、これまた別であろうというふうに私自身は思っ
ております。
 やはりそういうふうな非常事態というふうなことを考えるときには、平和な
ときに、もっと前に十分想を練って考えていくべきものでありまして、むしろ
あのときに手をつけて、拙速によって諸外国の不信を買ったり、現実に国内的
な動乱を誘うようなことに、もしそういうことが本当に起これば、占領はもっ
と長引いたのじゃないかと私自身は実は思っておるわけですけれども、そうい
うふうな形で実はその部分について述べさせていただいたわけでございます。
○二見委員 恒久平和主義という概念ですけれども、憲法制定当時に描いた恒
久平和主義と今とはかなり隔たりがあると思います。このギャップ、この隔た
りを埋めるのは、やはり憲法改正以外にはないと私は思っています。
 例えば、護憲論の立場に立つ方は、純粋の護憲論者であるならば、自衛隊は
即時解散すべきであり、安保条約は直ちに廃棄すべきだ。また、九条には絶対
手をつけないというお方も、同じく、自衛隊は直ちに解散をする、安保条約は
直ちに廃棄するというのが、純粋な私は行き方だと思うのです。それを、九条
を絶対厳守するといいながら現在の状況を是認するということは、これは、政
治的な判断としてはやむを得ないとしても、決して好ましいことではないし、
そういうようなことが結局諸外国に不信感を抱かせるのではないかと私は思っ
ておりますけれども、そういう点について、先生のお考えはいかがでしょうか。
○高橋参考人 その点になりますと、基本的に政治的な全体の構想としてどう
考えるかということだろうと思いますけれども、ただ、憲法学の立場としてち
ょっと言えることは、ここは、九条は、平和主義というふうに言っております
けれども、その前に、その平和を求める理由が書いてあるわけですね。「日本
国民は、正義と秩序を基調とする国際平和」という、そのような目的を持った
平和主義であるということであるとすれば、もしかしたらそれに相応するよう
な解釈があり得るということも、もちろん考え得ると思います。
 ただし、それは芦田修正と同じように、ある意味でそれがどう理解されるの
かというのは非常に難しい、恐らく政治的な最大のイシューであろう。それに
ついて憲法学が言えることは、そういう可能性が全くないわけではないよぐら
いしか、恐らく今のところの学説は言えないのじゃないかというふうに思って
おります。
○二見委員 私は、二度と侵略戦争はしてはならないということは、もう当た
り前だと思います。したがいまして、九条の一項というのは、私は大変大事な
条文だと思っております。しかし、自衛隊というものを日陰者に扱っておくこ
とがいいのかどうか。国連のいろいろな平和活動に日本が参加をすることにス
トップをかけるような今の条文でいいのかどうかということになると、二項に
ついては、私は見直してもいいのではないかな。それは、恒久平和主義に相反
するものじゃなくて、むしろ積極的な平和主義の立場だというふうに私は考え
ておりますけれども、お差し支えなければ、先生のお考えも承りたいと思いま
す。
○高橋参考人 ちょっと申しわけありませんけれども、言いましたように、そ
こまで憲法学として踏み込んで、こちらですよというふうに、残念ながらそこ
まで私は考えが熟しておりませんというのが本当のところでございます。
 確かにこの平和の、例えば、私はつまらない本を書きまして、その中で、日
本の憲法というのは、憲法の九条はある意味で、国際の平和にいわば積極的に
参加するというふうな、もしかしてその平和の形成にも努力をするような感じ
があるのですね。
 これはある意味で、いわば非常に薄められた形の正戦論、やはり正しい戦い
があるのかなというふうな感じが実はするのですね。ただ、それが、そのよう
な感じはするのですけれども、いわば方法、手段というものについて制約が加
えられている。それはやはり憲法の出自により、あのような状況の中でつくら
れたものであるから、それを我々がもし解除し方法を少し充実させようという
ふうなときには、まさしくこれは間主観的な意思を大いに議論した上でつくっ
てからにしていただかなければ、非常に困るのじゃないか。そこまで進めるか
どうか、ちょっとそれは政治の問題ではなかろうかと思っております。
○二見委員 最後に、制定過程の議論、私もこれは大事だと思います。ただ、
例えば天皇について、マッカーサーの文書では「エンペラー イズ アット ザ 
ヘッド オブザ ステート」となっているのですね。それが、憲法では「象徴」
というふうになっている。
 実は、私は、ちょうど中学へ入ったときに憲法が施行された。社会科の先生
が説明に窮している。困っている。わからない。天皇は象徴ですと言われたっ
て、わからない。説明する先生もわからない。説明を受ける方も全くわからな
い。今になりますと、五十年もたちますと、大体皮膚感覚的に、ああこうだな
と思うけれども、これは説明しにくいですね。「エンペラー イズ アット ザ 
ヘッド オブ ザ ステート」というのが、どうしてこういう「象徴」というこ
とになったのかというようないきさつも、実は我々は知りたいわけです。
 ですから、会長にお願いですけれども、各論に踏み込んだ制定過程のいろい
ろな議論も、ぜひとも、ここでいろいろな参考人の方々からお聞きをしたいと
思います。
一般論だけではなくて、各論にわたったところまで踏み込んだ制定過程のいき
さつをお願いしたいと思いますので、お取り計らいをお願いしたいと思います。
○鹿野会長代理 幹事会でいろいろとまた協議をしてまいりたいと思います。
○二見委員 幹事会で御協議の上、お取り計らいをお願いします。
○鹿野会長代理 佐々木君。
○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。きょうは、どうも貴重な
御意見をありがとうございます。
 参考人は、制定過程論を論じて、結論的な部分で制定過程とかかわって、日
本国憲法が無効であるとか失効しているとかいったような日本国憲法の効力を
本格的に疑う見解は、今日の日本ではほぼ姿を消しているというふうに断ぜら
れたわけであります。学界などでは確かにそのとおりだろうと私も思うのです
が、しかし、政界といいますか、政治家の中では今も、現役の政治家の中でも、
論文などで、日本国憲法は無効だ、明治憲法に戻れというような主張が堂々と
出てくるという状況が、現実にはまだあるわけですね。
 そして、参考人の書かれた著書の中で、無効論というようなものは現実乖離
性とイデオロギー性が批判をされているというふうにも述べておられるのです
けれども、そういう、学界ではもう消えてしまっているような議論が、政治の
世界で今あらわれてきている。繰り返しあらわれる。
 私自身、だからこそ、この制定過程をこの調査会で調査するということがま
た大事なテーマになるというふうに思っているのですけれども、その辺の問題
について、どんなふうにお考えになっているでしょうか。
○高橋参考人 今おっしゃいましたように、あの部分につきましては、学界の
事情を知識として書いたものでございまして、政界の中ではそういうことが時
として本として出ていることも承知いたしております。
 ただ、そういうことは、ある意味で、波がだんだん引くように、やはり時々
出ては、それが少しずつタイドアウトしていくようなものではないか。やはり
そういうことがないと、本当に静かにはならないのではないか。それが力を集
めるようになったときは、やはりまた別の考え方をしなければいかぬのかなと
いうことになろうかと思います。
○佐々木(陸)委員 きょう参考人がお述べになった制定過程についての法理
的な説明といいますか、これはやはり、一番の根本になっているのは、サンフ
ランシスコの講和条約発効後の日本国民が、言ってみれば主体的に憲法などに
ついても選択できるようになった段階で、国民の中に今の日本国憲法が定着を
しているといいますか、コンセンサスになっている、そこを一番の出発点にさ
れた上で、そこから振り返ってみて、制定過程をこういうふうに整理すれば矛
盾がなく説明がつくんではないかということで展開をされたというふうに受け
取ったんですが、そんなことでよろしいんでしょうか。
○高橋参考人 私の思考過程はそのとおりでございます。しかし、お互いをな
ぜうまく説明ができないか、今までの説明ではどうしてうまくいかないのかと
いう、思考はそうでございますが、しかし、それを目的として何が何でもそう
しようとしてつくった本ではございません。それは学問的な廉直感は私でもま
だ残っておりまして、やはりある程度説明がつくし、学説的、それから理論的
な性格をもちゃんと踏まえた説明としてできるという形で長い間考えてきて、
大体それでいけるんじゃないかという形で本の一部として世に出したものでご
ざいまして、決してためにする議論ということではございませんので、それを
よろしくお願いいたします。
○佐々木(陸)委員 その点はちょっと言い足りませんでした。よくわかって
いるつもりです。ただ、今の憲法が定着しているという事実が非常に重いもの
があるということは、やはりお認めになっていらっしゃるんじゃないかと思う
んです。
 先ほど自民党の委員も自己紹介みたいなことをされましたけれども、私も、
名前から推察されますように戦争中の生まれでありまして、一九四四年、昭和
十九年の一月の生まれですね。しかし間もなく戦争が終わって、物心つくころ
はもう日本国憲法と一緒に育ってきた。あの講和のころが小学校の低学年だっ
たと思いますけれども、そういう育ち方をしてまいりました。
 そして、先ほどの委員の発言では、中学校で憲法を教わるときに違和感があ
ったという話があったんですが、私は全く逆でありまして、だれから教えられ
たわけでもなかったとは思いますけれども、あの憲法のいろいろな文章を読ん
でみて、高い理想がうたわれていてすばらしい内容だということを、小学校の
高学年か中学校になってからだと思いますけれども、そんなふうに受けとめて、
ある意味では法的な確信を国民の間に築いてくる、コンセンサスを築いてくる、
そういう一過程で私自身の育ったところもあったのかなということを考えるわ
けなんです。
 この憲法の効力とか有効性とか、あるいは妥当性とかいうものを参考人がお
っしゃる場合に、難しいさっきの言葉なんかもありますけれども、私自身は、
憲法に盛られている内容の正当性というのか、世界的な視野で見た正当性とい
うのか、合理性というのか、そういうものもその妥当性を支える大事な要素に
なっているんじゃないかと。
 つまり、振り返ってみれば、あの憲法は大変正常でない状況のもとで正常で
ない形でつくられたことは確かに事実ですけれども、それがそこまで妥当性を
持ち、効力を持ってずっと維持されてくる背景には、やはりその内容の正統性、
合理性というようなものもあったのではないかということを私自身は自分の確
信として思うんですけれども、参考人はその辺の考え方についてはどんなふう
でしょうか。お聞きしたいと思います。
    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕
○高橋参考人 レジュメの中でも簡単に、日本国憲法が法として信頼し得るだ
けの内容を含むというふうに考えるという情動がきちっと起こっていたという
こと、そういうふうに考えられていたということが妥当性の一つの要素である
というふうに実は考えております。実際、日本国憲法を全体として眺めてみま
すと、その当時の各国の憲法とも比較してみますと、実は、その当時としては
世界の流れに即した原則がかなり多く盛り込まれていた、むしろ先取りをした
ものがあった、そういうふうな側面がございます。
 ただ、現在問題になっていますのは、それが五十年過ぎて、かつ、急いでつ
くったものですから、やはり先ほども言いましたようにいろいろ問題点がござ
いますので、これから新しくどうしていくかという問題、そういうところから
考えるということでございまして、おっしゃるとおり、どのように制定過程が
よい憲法であろうと、やはり国民の内容上の信頼を得られないような憲法は長
く続くはずはないですし、あってはならないだろうと思っております。
○佐々木(陸)委員 今の憲法がつくられてから年月を経て、今の日本との現
実の関係でこれからどうしていくかという問題は、これは当然一つの大きな問
題として存在すると思うんですが、この制定過程論にかかわって言うならば、
今参考人がおっしゃったように、世界の流れをちゃんと、場合によっては先取
りするような中身も含まれていて、非常に合理的な内容、積極的な意味を持つ、
中身を持つ憲法であったからこそまた国民的なコンセンサスも強まって、講和
発効後も直そうというようなことに、当時の政府も提案をしなかったし、定着
をしてきたというふうに私は受けとめておきたいと思うんです。
 しかし、制定過程論ということになりますと、さっきの無効論や失効論とも
関連するんですけれども、押しつけ論というのが常に出てくるわけであります。
 そして、その点でも参考人も本の中でも述べられていて、私ちょっと読ませ
ていただいたんですけれども、ポツダム宣言を受諾した当時の日本の政府、そ
してポツダム宣言の内容からしても、当然にあったかどうかは別としても、憲
法を変える必要があったんではないか。そしてまた、GHQからも憲法を考え
ろと言われていたけれども、しかし、当時の日本の政府にはそういうものを受
けとめて、世界の流れに沿って、場合によっては先取りするようなものをつく
っていくような能力も意思もなかった。しかし、当時日本を全体として見れば、
民間の中からでも必ずしもその政府の水準には拘束されない内容のものも出て
きていたと思うんですけれども、少なくとも、当時の政府というんですか、天
皇とそのもとでの政府にとっては、確かに参考人もおっしゃるように青天のへ
きれきというような連合国側のマッカーサーの憲法草案の提示に対しての受け
とめがあった。
 その勢力が押しつけだと感じるのは、ある意味では当然だっただろうと私は
思うんですけれども、しかし、国民的なレベルでいいますと、参考人が講和発
効前から国民の中に定着していたということも言われておりますように、国民
は全体としてはそういう受けとめ方をしなかったからこそ定着をしてきたとい
うことが言えるんじゃないかと私は思うんです。
 その意味では、この押しつけというのは、もちろんいろいろな意味がありま
すから、当時の政府が押しつけられたということは日本に押しつけられたとい
うことになる、それはそういう論理もありますけれども、しかし、意識として
押しつけられたというレベルでいいますと、やはりそれは何よりも、当時の日
本の政治の支配層といいますか、そういう勢力が押しつけられたと感じたとい
うことに結局はなるんじゃないかと思うんですが、その辺の経過などはいかが
でしょうか。
○高橋参考人 まず第一点ですけれども、ポツダム宣言その他から憲法を改正
しなければならないというふうに結論を引き出せるか、こういう問題は実は昔
からございまして、実を言いますと、ポツダム宣言を解釈した当時の美濃部先
生やら宮沢先生といったような日本を主導される先生方は、これは明治憲法の
運用という形でカバーできる、例えば民主主義の復活強化というのは、復活、
もともとあったのだから、それを強化するのだからと。
 それからもう一つは、十二項なのですが、日本国民の自由に表明せる意思、
これはつまり日本国民が自由にやれることである、どう料理するかというのは
日本国民に任せてくれる言葉だというふうに実は考えたようでございます。
 それから人権などについても、明治憲法の人権は法律留保といって、一応保
障するけれども法律であったら制限できますよというものだったのですね。そ
の法律留保型というのは当時のいわば通常の人権保障方式なのでございますね、
それをとっていないのはアメリカとかスイスぐらいだったものですから。日本
側はそのようなことを考えて、実は明治憲法を、少なくともポツダム宣言など
においては必ずしも改正しなければならないものではないのではないかという
結論を引き出しております。これはある意味で、ただこれだけを見せられたと
きにはそうなる可能性はあります。
 ただ、アメリカ的な意味で、アメリカの考え方、スタイルで民主主義とは何
か、人権とは何かといったようなことに、アメリカ人の考え方に立ってみれば
もう改正は必然的と。ここにつまり行き違いがあったということでございます。
 本来ならば、行き違いがあるのですから、アメリカが日本にそうだよと教え
てくれなければいけない。ところが、御存じかもしれませんけれども、まずマ
ッカーサーの示唆によっていわば近衛草案がつくられます。佐々木惣一先生が
つくりましたが、あのときには、そのときのGHQの顧問であったアチソンが、
こうですよ、この中身はこうしなければだめですよと教えているのですね。と
ころがあの草案がポシャりまして、新たに松本委員会が草案を一からつくり直
す。しかもそのとき松本先生は、実は、日本国民はこれを自由にできるはずだ
から、アメリカ軍、占領軍と交渉を持たないというプリンシプルを立ててしま
ったのですね。したがって、一体何を意味するかについて勝手に解釈をして始
めてしまった。
 そういうことですから、アメリカ軍が、もしくはアメリカがどういうことを
考えているかということを、情報が入らないままにつくってしまったというの
が実情のようでございます。
 そして、それについて日本国民はどうだったかと聞かれますと、これについ
ては申しわけありませんが、全くわかりません。日本国民の通常の階層の方々
がどうであったかについては、憲法よりも飯だという言葉に象徴されるような
ことではなかったか。こういう状況であったようでございます。
○佐々木(陸)委員 終わります。ありがとうございました。
○中山会長 保坂展人君。
○保坂委員 長時間どうもありがとうございます。社会民主党の保坂展人です。
 私は、午前中も申し上げたのですが、一九五五年の生まれでありまして、今
お話のあった日本国憲法Aと日本国憲法Bの、ちょうどそのころに生まれたと
いう世代。
私自身は、大変多くの価値をこの憲法は日本社会に生んできたし、今もなお生
み続けているというふうな立場から質問をしたいと思うのです。
 お話の一番最後のところで、「支える意思と諸力」というお話をされました。
その中で、結局のところ、日本国憲法が国内外の勢力によって動揺させられる
ことはなかった、こう結論づけておられますね。これは現在はどういう認識で
いらっしゃるのか、現在はそうじゃないというのであれば、いつごろ変わった
のか、そのあたりの認識を率直に伺いたいのです。
○高橋参考人 その点については、先ほどちょっと申しましたけれども、国際
情勢が非常に緊迫する場合には、それが憲法全体とは言いませんけれども憲法
の一部について、例えば九条について動揺が起こることはあり得るわけです。
そして、それについて、やや糊塗的なやり方ではございますが、解釈改憲とい
う形で乗り切ってきた。しかしそれが現代の、さらに冷戦が終わった状態の中
で、たがが外れた中でどうなっていくのかということを我々は今突きつけられ
ておる。
 それから、国際社会の中で日本が平和を享受しながらお金だけであるという
ふうな、これがいいかどうかわかりませんけれども、そういう批判も突きつけ
られておる。そういう国際情勢の中で考えていかなければならないこともある
かな、そういうふうな形で議論がなされていくのではなかろうか。
 ただ、それがゆえに恐らく、日本国民がこの条項はもう効力がないよなどと
いうことは決して言わないと私は思っております。
 以上でございます。
○保坂委員 今さまざまな、警察も、あるいは防衛庁でも不祥事が続出してい
ますね、この四年間の中でもあらゆる役所でそういうことが行われている。そ
ういうところをたどっていくと、どうも日本国憲法という上着あるいは身につ
けているもの以外に、やはり体の中に、特に官僚組織の体の中に、明治憲法が
生きているんじゃないか、ここがやはり一番問題なのだろうというふうに私は
感じております。先生がお書きになったものの中で、
 伝統的な運用は、明治憲法的な運営に執着する 態度としても表れる。たと
えば、議院規則と国会法の関係、内閣総理大臣の権能、政府の法律 案提出権、
予算の形式、予備費、地方自治の扱いなどといった点にみてとることができる。
 いずれも明治憲法以来の枠組みのなかで運用され、英米との比較憲法的観点
や運営の合理性に対する学界からの批判があるにもかかわらず、牢固として従
来の運営の様式を維持してきた。
 こういうふうに書かれていらっしゃいますが、このあたりをもう少しお話し
いただきたいと思います。
○高橋参考人 どこの国でもそういう、現代の憲法枠組みというもの、いわば
これは教育的な側面でございますので、どうしても、新しい着物を着てもやや
古い内容に基づいて、やはりある程度それに従って解釈をしていくというのは
どこにでもあることではないかというふうには思っております。
 ただ、日本国憲法の場合には、国家の基本的な枠組みの異なるアメリカ的考
え方、今アメリカンスタンダードは非常に広く世界じゅうで行われていますか
ら、それに早くなじんだということはある意味で日本にとっても有利な立場は
ございますけれども、しかしそれにしても、基本線については確かにそのよう
なことは、現行憲法の正当な解釈に従って行動しているということはあり得ま
すけれども、学者も認める解釈の中でそういったものが実はまだ生き残ってい
る。もっと別な解釈があるじゃないか、そういうふうなことでございまして、
直接、学者は認めないのだけれども立法府なり行政府がそうしているというふ
うな意味で書いたものではちょっとございませんのですが、そういうことでご
ざいます。
○保坂委員 公務員の不祥事は現在も続いているわけですけれども、一昨年ぐ
らいに公務員倫理法という法律をつくろうじゃないかということで、当時は与
党でしたから、そういう中でいろいろ議論をさせていただき、そして、本日の
テーマは憲法の制定過程ですけれども、国家公務員法の制定過程というのは一
体どうだったのだろうかと。いろいろ調べてみますと、国会の議事録というの
も逐条でほんの少ししかないんですね。
 その中で、国家公務員法の十七条に、人事院が証人喚問をすることができる、
こういう規定があって、そして守秘義務を定めたところの百条の四項に、いわ
ば解除規定として、証人喚問のときには何人の許可も得てはならないのだ、真
実を言わなければ罰則がある、こういうふうに担保されている、ここは抜かず
の宝刀とかと言われて使われてこなかったそうですけれども。そこによってき
ちっと公務員倫理審査会というものをつくろうというようなことで、昨年この
法律は成立したわけです。
 こういった準備や議論をしてみて、憲法の部分は確かにいろいろ議論もされ
研究もされているのでしょうけれども、例えば国家公務員法など、同時に戦後
成立をしていったその他の法律の中にどういう骨格があるのか、こういう議論
は随分欠けているのではないか、こう思うのですが、いかがでしょうか。
○高橋参考人 ただいまの先生のおっしゃることは、まことにそのとおりでご
ざいます。
 私の書いた「展望」の中に、憲法附属法についての問題をちょっと書いてお
ったと思いますが、実を申しますと、憲法というのは、憲法というものがぽん
とあれば、そのまま現実具体にそれを敷衍していけばできるというものではご
ざいません。それは先ほどからちょっとお話がありましたけれども、改正規定
があるのに改正を具体化する法律が一切ない、これではできないわけでして、
そういうふうな意味で、実は附属法と憲法というのはワンセットになっていな
ければ本当の具体の姿を見ることはできない、そういう性質のものでございま
す。
 ところが、そのときに皆さん非常に努力されたのでしょうけれども、附属法
がどうしてもおくれがちで、これを言ってはいかぬのでしょうけれども、詰め
ないままにできたのではないかというふうに推測されます。それが今の規定か
どうかちょっと問題があるのですけれども、そういう規定がどうも多かったよ
うでございます。
 それで、実際には記録その他が非常に少のうございまして、例えば、その当
時のいろいろな法制局次長とか局長とかのメモ、そういったものを参考にしな
がら、少しずつたぐり出しながら、実際にどういう議論で、どういう趣旨でや
られたのかということを、その筋の先生方は今それを固めようとして努力をし
ておられるということでございます。今のような、いわばあらゆるものが記録
に残されていつでも見られるような状態ではない。
 そういうことでございますので、もちろん学者の方もいろいろ努力をしなけ
ればいけないのでございますが、皆様におかれては、そういうふうな余り資料
がないということも含めて、もし新しくする場合には、初歩からもう一度考え
直していただく方がよろしいのではないかというふうに考える次第です。
○保坂委員 実にあらゆるところで資料を探してみたのですけれども、なかっ
たのですね。ですから想像するしかなかったということが、先ほどの点でいえ
ば、戦後一回だけ証人喚問が行われて一回で終わりになったということだけ人
事院の資料でわかったのですが、それ以外にわかりませんでした。ただ、憲法
を補完するというか支えていくさまざまな基本法についても、もう一度、なぜ
これが定められたのかということを読み取る価値は十分あるというふうに思い
ます。
 もう一点なんですが、これからの憲法の論点として、昨年、私たち野党は、
いわゆる通信傍受法案、我々は盗聴法と呼んでいましたけれども、こういった
ものに対して極めて強い疑問を持った。このままだと賛成できない、憲法の通
信の秘密、これを侵すことになる、こういう議論をしたわけですが、そういう
ときにも、やはり公共の福祉という概念が繰り返し語られました。
 この公共の福祉という言葉は何か伸縮自在にも聞こえまして、基本的人権と
公共の福祉、このかみ合わせをどういうふうに先生お考えになっているのか。
これからの重要な論点だと思いますので、お考えをお願いします。
○高橋参考人 この点につきましては学界で割れているということはちょっと
さっきからお話をしたところでございますが、私といたしましては、公共の福
祉ということを限定しながら、類型化しながら、比較考量でやっていくほかな
いのではないかというふうに実は考えております。特に、これからの社会は非
常に価値多様化といいますか、個別的な行動原理を持った人が多くなるという
ふうに私自身は考えております。それは当たり前の話でございまして。
 しかし、そういうときに、一つは、だから一律に制約しようという考え方も
あろうかと思いますけれども、そういうわけにはいかないわけでありまして、
やはり、例えば通信傍受なら通信傍受、それから政党の新聞における広告なら
広告、そういったものをある程度表現分野もしくは通信分野の類型化をいたし
まして、その中で、この程度のいわば公共の福祉をかぶせることが必要だとい
うきめ細かい議論を少しやっていかなければいけないのではないか。
 そして、その分野を定めてどうするかについては、やはり基本的には比較考
量の中で考えていくほかないのかなという感じもいたしますけれども、この点
は非常に難しいので、ちょっと今すぐというわけにはいきませんので、済みま
せん、これぐらいで。
○保坂委員 ではもう一点。お書きになったものの中で「社会権と福祉国家」
という部分で、とりわけその基本権の中で社会権が位置づけられていて、憲法
議会の衆議院の段階で付加された二十五条一項の文化的生活権、ここが後々福
祉国家というような指標に結果として役立ったというような部分をもう少しお
話ししていただきたいと思うのです。
○高橋参考人 基本的には、そこで書こうとしていたのは、実はドイツのこと
がちょっと頭にございまして、ドイツはいわば憲法の初めの方に性格定義、ド
イツ国の性格の定義をいたしまして、社会的国家であるというふうな形でやっ
ておるわけです。そうでありますれば、それが全体の中ですべてのものを支配
する形で定着させることができるわけですね、解釈上。それに対して、日本国
憲法においては、二十五条という人権の中の一つとして書かれ、それも非常に
あいまいな形で書かれたわけでございますので、その条文は一種の、日本国憲
法は自由主義憲法なんだけれども、セーフティーネットとして一部こういうふ
うにするのですよと考えるのか、それとも本来の国家の性格の一つとして大き
くとらえるかという、この二つの解釈態度が生じたわけでございます、簡単に
言いますと。
 そして、日本の、いわば発展期といいますか経済成長期の方々は、ある意味
でその経済的な発展に支えられて文化的意識も向上したということがあったの
でしょう、余りそれがもたらす議論をなしに、それを日本国という国家全体の
中に定着させたというわけです。それが現在のようなアメリカ的な自由国家の
中でやっていった方がいいのではないかという議論になったときに、ある意味
でそれを問い直される状況に今あるのだということを、あの中で実は主張した
かったということでございます。
○保坂委員 大変ありがとうございました。
 終わります。
○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 高橋参考人におかれましては、貴重な御意見をちょうだいし、まことにあり
がとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 次回は、来る四月六日木曜日、幹事会午前九時二十分、調査会午前九時三十
分から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
    午後五時四十九分散会