衆院憲法調査会(3・9) 平成十二年三月九日(木曜日)     午前九時三十一分開議  出席委員    会長 中山 太郎君    幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君    幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君    幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君    幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君    幹事 野田  毅君       石川 要三君    石破  茂君       衛藤 晟一君    奥田 幹生君       奥野 誠亮君    久間 章生君       小泉純一郎君    左藤  恵君       島村 宜伸君    白川 勝彦君       田中眞紀子君    中川 秀直君       平沼 赳夫君    船田  元君       穂積 良行君    三塚  博君       村岡 兼造君    森山 眞弓君       柳沢 伯夫君    山崎  拓君       横内 正明君    石毛えい子君       枝野 幸男君    島   聡君       中野 寛成君    藤村  修君       松崎 公昭君    横路 孝弘君       石田 勝之君    太田 昭宏君       倉田 栄喜君    福島  豊君       安倍 基雄君    中村 鋭一君       二見 伸明君    佐々木陸海君       春名 直章君    東中 光雄君       伊藤  茂君    深田  肇君     …………………………………    参考人    (獨協大学法学部教授)  古関 彰一君    参考人    (広島大学総合科学部助教授)                 村田 晃嗣君    衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君     ――――――――――――― 委員の異動 三月九日  辞任         補欠選任   中曽根康弘君     島村 宜伸君   畑 英次郎君     松崎 公昭君   福岡 宗也君     島   聡君   志位 和夫君     春名 直章君同日  辞任         補欠選任   島村 宜伸君     中曽根康弘君   島   聡君     福岡 宗也君   松崎 公昭君     畑 英次郎君   春名 直章君     志位 和夫君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)     午前九時三十一分開議      ――――◇――――― ○中山会長 ただいまから会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を進めます。  本日、午前の参考人として獨協大学法学部教授古関彰一君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと思います。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願います。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、古関参考人、お願いいたします。 ○古関参考人 古関でございます。  私に与えられました依頼状によりますと、日本国憲法の経緯ということでございます。  日本国憲法の経緯ということですと、ほぼ連想ゲームのように、押しつけであったのかなかったのかということが言われてきておるわけで、私は、皆様のお手元にレジュメのようなものを配らせていただいてあるかと思いますが、まず、押しつけ論というものはどこから出てきているのか、何が起源なのかというところからお話をさせていただこうと思います。  御存じのように、日本国憲法は、GHQ案と通称呼ばれる原案が最初につくられ、そしてそれが日本政府に手渡され、日本政府とGHQとの間でさまざまな交渉がある中でつくられてきたという背景がありますが、実はそこの部分は、当初一般的には全く秘密にされたということであります。  一般的にはというふうに申し上げますのは、例えばGHQ案をつくっているときには、GHQ内でもほんのわずかな人しか知らなかった、あるいはまた日本国民にも全く伝えられなかった。政府の中でも知らない閣僚の方すらいたというふうに言われております。しかしながら、それが第九十帝国議会にかかるころには、一定度の人たちは、どうも原案は、当時GHQと言っていたわけですが、GHQでつくられたのではないか、翻訳調である等々のことが言われていたわけですから、全くそのことが知られていなかったわけではありませんけれども、公的には知られていなかったと言ってもよろしいかと思います。私が一般的というふうに申し上げたのは、そういう意味でございます。  そのGHQとの間の交渉といいますか、そういったことに、日本政府を代表して最も責任ある地位でかかわったのが、当時幣原政権下につくられた憲法問題調査委員会の委員長をされていらっしゃった松本烝治さんであります。この松本烝治さんが一九五四年に、当時自由党と言っていましたが、自由党の憲法調査会で証言をされました。細かく申しますとそれは七月でございます。七月に証言をされておりますが、この証言内容が、一つのというか、私は、ほぼこの起源のすべてであるという感じを持っております。  それでは、この一九五四年というのはどんな年であったのかということであります。  日本は一九五二年四月に対日講和条約に調印をいたします。講和条約というのは戦争を法的に終結させるものであり、日本が選択することのできない、法的に戦争を終わるためには調印せざるを得ないものであったわけであります。しかしながら、その講和条約の中に、日米安保条約という言葉は使っておりませんが、いわゆる駐留協定を結ばなければいけないという条項があったわけで、これが日米安保条約になるわけです。つまり日米安保条約は、本来、安保条約ですから選択的なものなのですが、講和条約という選択できないものとワンセットになって私どもは日米安保条約に調印するということになってまいります。  先生方は既に御存じのことかと思いますが、安保条約の中では、日本は自衛力を漸増的に、つまり少しずつ増強していくということが期待されるということになりますが、朝鮮戦争が停戦を迎え、アメリカがアジアの極東戦略を全面的に見直す中で、日本はいわゆる相互防衛条約、通称MSA協定と呼ばれておりますが、これに五三年に調印いたします。この中では、防衛力というものが、日本が防衛力を持つことが義務づけられます。その義務づけられたことに基づいて、翌年には自衛隊がつくられます。そして自衛隊と憲法九条とが最大の問題になり、自由党や改進党はこの五四年を前後して憲法改正に踏み切ります。  そういう中で、五四年の三月に自由党の中に憲法調査会がつくられ、七月に松本さんが先ほどのような、体験の中身はまた後でお話ししますが、GHQとの交渉の経過をお話しするということになります。  ですから、押しつけられたということは、私の見る限り一九五一年、つまり五一年というのはどういう年かといいますと、翌年から講和条約が発効するころですが、そのころから、私の鮮やかな記憶にあるのは、例えば当時「改造」という雑誌がございましたが、そこではかなり具体的に押しつけの事実というものが書かれております。しかし、その段階では、政治の渦の中になかったように思います。あるいはそれほど注目も浴びていなかったのではないかと思いますが、この五四年の証言というものが、御本人であるということもありますが、まさにこの押しつけということが非常に大きな問題になる。  つまり、歴史文脈の中でもう一度整理して考えますと、押しつけ論というものは、憲法九条との関係で憲法改正が大きな問題になる中で、その後に押しつけという問題が出てきたというふうに私は考えざるを得ない、歴史的な文脈をたどってみるとそのように思います。  それでは、松本さんが押しつけだというふうにおっしゃられた最大の場面は何かということですけれども、そのレジュメに、一般にこう言われますので二つの場面を書いておきました。一つは、GHQ案を日本側に手渡したときの場面。もう一つは、その後日本の政府の中で、最終的にはGHQ案を受け入れることを決めて、そしてその後GHQ案を横に置いて日本案をつくるわけですけれども、つくった段階でGHQと交渉をする過程。この二つの場面が押しつけと言われる最大の理由であったと私は考えております。  かなりはしょったお話をしておりますので、ちょっと解説をさせていただきますと、一九四六年二月十三日というふうにレジュメに書いてありますが、まずそこに至る過程ですが、極めて簡単に申し上げれば、一九四五年の十月末に、二十五日と記憶いたしますが、先ほど来申し上げております憲法問題調査委員会が発足いたします。  当時は調査を目的としてつくられたわけですけれども、十二月段階から松本委員長は、もう改正に踏み込まざるを得ないというふうに決断をいたします。その理由はどういうことかといいますと、当時、民間草案なんて呼ばれておりましたが、いろいろな団体であるとかあるいは政党が案を出し始めます。そういう中で、政府の側も、つまり松本さんの側も案をつくります。  実際に松本さんが起草を始めるのは、十二月の半ばから末にかけてというふうに私は思います。GHQはかなりこのことをよく知っています。どうもいろいろな向こう側の文書を読んでみると知っております。そして松本さんに、早く公表しろ、公表しろというふうに大変急ぎます。急いで申します。  ところが、松本さんはまだ公表の段階ではないというふうに御判断されたのだと思いますが、そんな中で二月一日に毎日新聞が、これが政府案だと、正確に言いますと政府試案であるといって大スクープをいたします。そして、細かく申しますと、この日は金曜日なんですが、翌日が土曜日、二月二日には翻訳ができます。英文で急いで翻訳をします。そして三日、日曜日、マッカーサーは今のアメリカ大使館のところにいたのですけれども、そこにこもって、もうこれはGHQの側で具体的な案をつくる以外にないと判断し、通称マッカーサー三原則と呼ばれるものを作成いたします。  そして、四日から十日の一週間、GHQの中でGHQ案の作成に取りかかります。 よく憲法は一週間でできたとかおっしゃる方もいらっしゃいますが、多分、ここの事実だけで一週間とおっしゃっているのだろうと思います。その意味では一週間です。こういうふうにして十日に案ができ、そして十三日に日本政府にこれを手渡すことになります。  ここの場面ですけれども、これはいろいろなところで言われていることですが、外務省の側にも、それからアメリカ、GHQの側にも、双方、どういうふうにしてこのGHQの案を渡したかという記録が残っております。どちらも、私が見る限り大差はないというふうに思います。  レジュメには、簡単に、これは日本側に渡すときにホイットニーが演説をするのですけれども、その演説の内容です。  一つは、日本側に押しつける考えはないということを言います。外務省の記録をちょっと紹介いたしますと、ホイットニーは、「本案ハ内容形式共ニ決シテ之ヲ貴方ニ押付ケル考ニアラサルモ実ハ之ハ「マカーサ」元帥カ米国内部ノ強烈ナル反対ヲ押切リ天皇ヲ擁護申上クル為ニ非常ナル苦心ト慎重ノ考慮ヲ以テ」この案をつくったんだというふうに言っております。  アメリカ側、GHQ側の文書もほぼ同じで、内容は、押しつけるつもりはないということ、それからもう一つは天皇制を擁護するためであるというふうに述べております。  しかし、松本さんもこの点について後に自由党の憲法調査会で証言をされておりますけれども、そこの部分はちょっと違っておりまして、こんなふうにおっしゃっています。日本が受け入れなければ、「天皇の身体の保障をすることはできない。われわれは日本政府に対し、この提案のような改正案の提示を命ずるものではない。」押しつけるものではないけれども、受け入れなければ天皇の身体が保障できないという表現を使われております。これも後ほど問題になるところですが、そこには今の段階では立ち入らないで申し上げておきますが、こういう形。つまり、事実上それは押しつけではないか、強要ではないかということ。  それから、その後、先ほど申しましたように、日本の政府は十九日に最初の閣議にかけます。十九日まで約一週間どうしようとやっていたわけですが、十九日の閣議にかけ、結論は出ず、最終的には二十二日の閣議で受け入れを決定いたします。  そして、法制局を中心にして、入江法制局次長ですが、次長、それから特に主として実務的には佐藤達夫さんという第一部長を中心にして、日本案の作成に取りかかります。そして、この間にもGHQは、早く出せ出せ、こう言ってくるわけですけれども、佐藤さんは一生懸命日本案をつくられて、そして三月四日の十時に日本案を持ってGHQの本部に行きます。このときには、松本さんも一緒に行かれております。それと通訳官が二人ほどです。そこへ行ってみますと、これは佐藤さんの記録ですけれども、約二十人ほどのGHQのスタッフがずらっと並んでいるところに行ったということであります。  そして、ここでは、憲法の前文からその後一条に始まり逐条の交渉が始まるわけであります。これは、一条ごとにやっていくわけですから、双方の憲法観の違いということが明白になったことであったわけですが、それ以上に、何と一条ごとに三十時間にわたって議論を続行したわけであります。あしたまでにはこの案をつくろうということで、翌午後四時まで、三十時間かかっております。  この間には、松本さんは大変屈辱的な経験をされたというふうにおっしゃっておられます。ちょっとだけ御紹介をいたしておきますと、この前面に立って松本さんと交渉されたのは、当時約四十歳ぐらいのアメリカの陸軍大佐、と申しましても、彼はハーバード・ロースクールを出た弁護士資格を持つ法律家でもありますが、このケーディスと松本さんとの間で主として交渉がなされるわけです。  ケーディスは、例えば、天皇の行為に内閣のコンセント、いわゆる合意と日本語にしたらいいのでしょうか、コンセントを要するというふうに言っているけれども、あなた方の案はそこを輔弼、これは明治憲法の言葉ですね、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ」、あの輔弼です。輔弼という言葉を使っているじゃないか、こういうふうに言うわけですね。それに対して松本さんは、内閣の協賛というのは我々にはどうも変に聞こえるので、そういう字は使わないことにしたというようなことで、二十分ぐらい議論をしました。  「このときは向うは非常に激しまして、手がぶるぶる震えて、卓が震えるくらいになりました。そこで私の方も激しまして、とても白洲君」これは通訳で行っているのですが、「白洲君に訳してもらっておられないので、とうとう私のブロークンの英語で応酬しました。一体、あなたは」つまりケーディスは、「日本に日本語を直しに来たのかと、そういうことまで言ったのです。」ということで、まさに表現をめぐってすさまじいやりとりがある。  しかし、これは単なる表現ではなく、私から見れば、まさに天皇の地位はどうあるのかという、極めて権限とか権利とかにかかわる、厳しい憲法観を問われる三十時間であったかと思います。松本さんは、とてもこんな議論には耐えられないといって、私は用があるからと途中で帰ってしまいまして、主として三十時間全部耐え抜いたのは佐藤達夫さんであります。  この二つの場面をどう見るのかということであります。  私は、やはり極めて急いだということ、さらには、法的にもGHQは日本政府の上にあったわけでございますが、それにしても、威圧的な側面というのはぬぐい去ることができないと思います。  さらに申しますと、少しパーソナルめきますけれども、松本烝治さんという方は当時七十歳に近いです。私もきのうちょっと年齢を数えてきたのですが、六十九か七十だと思います。東大の商法担当の教授であり、その後、満鉄の副社長になり、法制局長官もされ、さらに当時日本の一流の企業の顧問弁護士をたくさんされている。明治憲法下でまさに功成り名を遂げた方であります。それに相対して、松本さん、それは間違っていると言っているのは、何と当時四十歳の、先ほど申しました陸軍大佐のケーディスであります。  今も東大の先生というのは偉いのかどうか私はよくわかりませんが、しかし、今よりもはるかに権威があったと思うのですね。特に、私のまずい本にも書いておきましたが、松本さんという方は大変な自信家である。その方が、多分生まれて初めてだと思うのですが、彼から見れば四十歳の若造に、あなたの憲法はここがおかしいと言われたわけですから、それは激するのも私はそれなりの理由があるというふうにも思います。  ただ、重要なことは、私が強調しておきたいことは、それは松本さん個人の経験であるということですね、この自由党の憲法調査会でおっしゃられたことは。憲法というものは、言うまでもなく国家意思として形成されるものであって、その後国家意思をどう形成してきたのかということは、私は、そこで松本さんが経験された、人間として大変屈辱的であったということと離れて、冷静に検討しなければならないことであろうと思います。  確かに、当時は、日本民族にとって六年八カ月という初めての異民族の占領体験を経たわけですから、そういう屈辱の体験を披露するということは、私は、一般的に日本人の感情に受け入れられやすかったとは思います。思いますけれども、その感情論だけでこれだけ重大な問題を決していいのかというと、私はそうは思わないわけで、私がこのテーマに取り組んだことの一つの動機も、そんなところにございます。  それでは、なぜ松本案がGHQに拒否されたのかということですけれども、松本案は突然出てきたわけではなく、松本案がGHQに知れるのは一九四六年、昭和二十一年の二月一日以降ですね。それまでに既にGHQは、例えば通称人権指令と呼ばれていますけれども、明治憲法下では必ずしも人権が十分ではなかったということで、思想、信条の自由を認めなさい、特に治安維持法は廃止しなさいと命令を出しているわけです。それに対して、日本政府はそれを受け入れて、治安維持法の廃止手続を、衆議院、貴族院を経て廃止しているわけですね。あるいはまた、婦人が権利的に大変劣悪な状況にある、婦人参政権を付与しなさいという中で、当時衆議院選挙法と呼んでおりましたが、衆議院選挙法は既に一九四五年、昭和二十年十二月の末には改正されて、婦人参政権は付与されておるわけですね。  そういうことが既に行われている、日本政府は受け入れてきたにもかかわらず、次の新しい時代の憲法の案をつくったらそういう人権規定がないということは、やはりGHQに落胆をさせた。私たちの、つまりGHQから見る民主化政策が理解されていないと考えたことは、私はある意味では当然だろうと思います。  そしてさらに、GHQにはポツダム宣言というにしきの御旗があるわけであります。 ポツダム宣言を日本政府は受け入れたではないか、ポツダム宣言の中には日本国民の自由な意思の表明に従う政府をつくるのだと書いてあるではないか、にもかかわらず国民主権規定はないではないかというふうにGHQが判断することは、私はそれなりの理由があると思います。  そのことは、決して松本さんの遠くにある方、GHQの側の人たちだけが言っていたことではなく、松本烝治さんと一緒に憲法問題調査委員会の顧問をされていた元東大教授の憲法学者野村淳治氏は、この委員会の中で野村意見書と言われるものを出しております。つまり、松本案に反対するといいますか、相対立するような意見書です。その中で、ポツダム宣言に準拠することを絶対的必要条件とすると言っているのですが、実は、パーソナリティーもあるのでしょうか、全く野村意見書は松本さんには受け入れられませんでした。ほぼ無視されたと言ってもよろしいのではないかと思います。  そういう一つの背景、そのことが、明治憲法とさして変わらない松本案をつくらせてしまった、そしてそれがGHQの受け入れられるところでなく、GHQ案をつくらせてしまったと言えるのではないかと思います。  さっき急ぎましたので申しておりませんが、松本案ができる前に、GHQは具体的なそういう作業には取りかかっておりません。そのことはまた、今既に申しておることでもありますが、したがって簡単に申し上げますが、ポツダム宣言の日本政府の理解というものも、私が見る限り、松本さんもそうですが、日本政府全体もポツダム宣言というものをかなり軽く見ていたといいますか、あるいは見たかった。それは気持ちとしてはあると思いますね、あると思いますが、見たかったという側面もあるやに思います。  具体的に申しますと、例えば高木さんという方は、アメリカ政治史を御専攻だと思いますが、東大教授で、ここでは今お話をしておりませんが、近衛文麿案をつくるときの事実上の顧問をされていた方であります。この方は、アメリカ人に知っている方がいるということもあり、かなりGHQ側に案を、自分はこんな案だけれどもどうだろうとやりながら近衛案をつくっていくわけですが、そういう経験もあって、松本さんに、司令部側の意見を御聴取になった方がいいというふうに勧めたけれども、松本さんは、いやそれは自主的にやると言って聞かなかった。やはりその辺にまずいことがあったのではないかというふうに後で回想をされております。  それからさらに、これは全く基本的な、ポツダム宣言とそれに基づくものの解釈の問題ですが、ポツダム宣言の中では、御存じのように、天皇の地位をどうするかということは触れられておりません。これはその後の研究者の研究成果によりますと、あえて入れなかったということであります。  そこで、日本政府は、それでは天皇の大権はどうなるのですかという問い合わせをしております。八月の十一日だったと思いますが、出しております。これに対して、通称バーンズ回答と呼ばれておりますけれども、アメリカの国務長官が回答を出しておりますが、その中では、天皇及び日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官の従属のもとに置かれる、つまり、天皇と日本政府の上にマッカーサーがいるのですよと回答しているわけですね。  ちょっとここを解説しておきますと、しかしながら当時外務省は、ここを従属と訳しませんでした。ここを「制限ノ下ニ置カルル」と訳したわけです。先ほど私は、占領ということをできるだけ軽く見たかったと。それはまあ占領される側ですから、そう思うことは私は当然だと思いますが、ただ原文でいけば、そこのところはシャル ビー サブジェクト ツー ザ シュープリーム コマンダー オブ ジ アライド パワーズと書いてあるわけですから、従属と制限では大分違うわけで、やはりそういう、占領に伴う権力関係というものを正視するといいますか、冷静に見るといいますか、そういったことを必ずしもしてこなかったところに、最後に押しつけという場面を迎えてしまったということがあるのではないかというふうに思っております。  それにしても、先ほど来お話をしておわかりになっていただけたのではないかと思いますが、GHQはなぜこんなに急いだのかということですね。やはりこの疑問はあるわけですけれども、私は、今までいろいろ調べる中でその理由をほぼ二つに集約いたしております。  一つは、極東委員会が設置される前に憲法をつくりたいとマッカーサーは考えた。レジュメには書いてございませんが、よくアメリカに押しつけられたとおっしゃる方もいらっしゃるのですが、それは私の調べた限り大変な間違いでして、アメリカ政府は、マッカーサーのように急いでやるやり方に、やめろやめろと何度も言っています。人を介しても言っています。トルーマンは、わざわざ憲法問題の特別顧問まで派遣しています。しかし、マッカーサーは全然聞く耳を持たないのですね。そのぐらいマッカーサーは自信家であります。  しかし、マッカーサーはマッカーサーなりの判断があった。それはどういうことかといいますと、ソ連等々を含む極東委員会が設置されてしまえば、なかなか自分が構想するような憲法案は受け入れられないということですね。  じゃ、どうして急いだのかということですけれども、少し細かく申し上げます。  一九四五年、昭和二十年十二月二十七日、モスクワで米英ソ三国外相会議が開催され、そこで占領地域に関する合意がなされます。これは日本の占領だけをやったわけじゃないんですが、その中で、日本占領については、今まであった極東諮問委員会を改組して極東委員会をつくるということになります。極東委員会の権限は日本の占領政策を決定するということになりました。  これは、結果的には今のワシントンの日本大使館、当時閉鎖でしたから、そこに極東委員会を設置いたします。そして、連合国十一カ国で構成するわけですけれども、緊急の事態がある場合にはアメリカ政府が中間指令を出せるという中間指令権をアメリカに与えます。とはいっても、それはレジュメに書いてあるのですが、それ以降、その付託事項の中で、日本国の憲政機構もしくは管理制度の根本的改革を規定する指令は極東委員会の決定の後にアメリカ政府が指令を発することができる、こうなっております。つまり、きょうのお話との関係で申しますと、憲政機構の根本的な改革の指令というものは極東委員会が持つんですよと言っているわけですね。これが出されたのが十二月二十七日です。  これはGHQにとっては決定的なことです。つまり、ぐずぐずしていれば、日本国憲法をどうするかという問題は極東委員会の問題になるということであります。そのことは、かなりGHQは注目していたんだと思います。  したがいまして、先ほどの毎日スクープがあって、その翌日から日本語訳が出るわけですが、何と日本語訳が出る前に、マッカーサーの懐刀であるホイットニー民政局長は早速マッカーサーにあてて進言をいたします。どんな進言をしたかということですけれども、時間のない中ですけれども、大事なことですのでちょっと読ませていただきます。  「最高司令官のために」というメモランダムをつくっております。「憲法の改革について」というタイトルがついております。  「日本の統治機構について憲法上の改革を行なうという問題は、急速にクライマックスに近づきつつある。日本の憲法の改正案が、政府の委員会や」、憲法問題調査委員会を指すと思いますが、政府の委員会や私的な組織、つまりこれは憲法研究会とか民間草案をつくったところですが、もう一度読みますと、「日本の憲法の改正案が、政府の委員会や私的な委員会によっていくつか起草された。次の選挙の際に憲法改正問題が重要な争点になるということは、大いにありうることである。」ちょっと飛ばします。「私の意見では、この問題についての極東委員会の政策決定がない限り――いうまでもなく同委員会の決定があればわれわれはそれに拘束されるが――閣下は、」つまりマッカーサーは、「憲法改正について、日本の占領と管理に関する他の重要事項の場合と同様の権限を有されるものである。」こういう進言をしています。  つまり、極東委員会が開催される前に、あなた急いでやりなさい、やればまだあなたのところに権限はありますよという進言をするわけであります。  先ほど、大変マッカーサーは急いでいたということを言ったのですが、急いでいるそこのゴールはどこにあったかといいますと、レジュメに書いてありますように、二月二十六日に極東委員会第一回の会議がワシントンで開催されるわけですが、その前に何とかゴールをつくってしまいたいとマッカーサーは考えたのだろうと思います。これが急いだ一つの理由であります。  二番目は、この極東委員会との関連で急いだということともかかわりますが、天皇の地位を早く確定することであります。  当時、連合国の中には、天皇は戦争犯罪者に該当するというふうに政府の決定までしていた国々もあるわけです。しかしながら、マッカーサーは、今までいろいろな方々がこの研究をされておりまして、私も全部読んでいるわけではございませんが、しかし、マッカーサーはかなり早い段階から昭和天皇の戦争責任をできるだけ免責したいと考えていたということは、ほぼ今の研究段階で立証されたというふうに言ってよろしいんではないかと思います。そこで、そのメルクマールとなるものを簡単にレジュメに書いておきました。  一つは、一月十九日に、マッカーサーは極東国際軍事裁判所、つまり東京裁判の条例をつくります。それは、被告人の対象として、計画立案に参加した指導者という言葉を使い、ニュルンベルクの、ヨーロッパの国際軍事裁判所条例とはかなり違っています。ヨーロッパの方は、元首も含むと明確に書いてあります。つまり、そこには一つの意図があったと私は推論いたします。  さらに、そればかりではなく、前年の十一月、昭和二十年、一九四五年十一月には、アメリカは当時アイゼンハワーが陸軍参謀長ですけれども、後に大統領になりますが、陸軍参謀長から、天皇に戦争責任があるかどうか調査をしろという手紙をマッカーサーはもらっています。ずっと困っていたようですけれども、その回答を一月二十五日にいたします。最終的には、このレジュメに簡単に書いておきましたように、かなりこれは長いんですけれども、「過去十年間に日本帝国の政治決定と天皇を結びつける証拠は発見されていない」「天皇を起訴すれば日本人が激しく動揺する」というようなことを書きまして、そして、自分は天皇に戦争責任はないと考えるという回答をいたしております。  そして、その一方において、マッカーサーは、この憲法というのは政府がつくった憲法、もう少し言えばその素案はGHQがつくったと言ってもいいと思うんですが、これはもちろんGHQがつくったなどということは口が裂けても言わないわけで、それだけではなく、天皇が率先してイニシアチブを握ってつくったものであるということを連合国側に一日も早く伝える努力をさまざまなところでいたしております。これは、私も当初気づかなかったことであります。しかし、アメリカ側の文書を読んでみると、そのことに私は改めて気がつきました。  例えばその象徴的なことを一つ挙げておきますと、三月五日というのは先ほど申しました。三月四日から五日にかけて三十時間、GHQとの間で政府案をつくり、そして首相官邸で五日の夕方、閣僚は待っているわけですけれども、そこで閣議を開いて政府案を決めるわけですね。そして、その翌日、政府の草案要綱を発表するわけですけれども、実は、その要綱を発表するときに、同時に天皇の勅語が発せられております。これは余り注目されていないことですが、実はマッカーサーはこれを大変重視しております。  それはどんなものかということですけれども、レジュメのところですけれども、三月五日というところをごらんいただきたいと思います。それほど長いものではございませんので、全文読ませていただきます。「朕曩ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意思ニヨリ決定セラルベキモノナルニ顧ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享有シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ抛棄シテ誼ヲ万邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念ヒ乃チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メムコトヲ庶幾フ政府当局其レ克ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ」、こういう勅語でございます。これを発しています。  これは、一言で言えば、この内容はほとんどポツダム宣言の内容を天皇は述べております。そして、それに従って政府は憲法をつくりなさい、こう言っているわけですが、さっと読みましたのでお気づきでないかもしれませんが、私は、この日本語の中にはかなりおかしな日本語があると思っていろいろ調べたんです。これは、以後は推測ですが、どうも原文は英語でつくられたのではないかというふうに、幾つかメモが出てまいりますが、思っております。ここは推測です。  いずれにいたしましても、GHQが、戦争を放棄し、人権を尊重した憲法を、昭和天皇が率先してつくられたということを連合国側に非常に強調しているということが読み取れると思います。  しかし、当時、昭和天皇の側ではもっともっと緊張した状況にございまして、数年前に公表されましたけれども、昭和天皇は、このときたしか御病気であったように記録には書かれております。記録というのは、木下侍従次長日記等々を読むとわかりますが、その中で、何と、三月の十八日から四月の八日まで五回にわたって、当時の松平宮内大臣を初め木下侍従次長等々を聞き役として、第二次大戦が始まる前ぐらいからどういうふうに自分はこれをしてきたのかという、独白録というふうな形で公表されましたが、独白録をつくっておられるわけであります。このことは、やはりどう見ても、仮に東京裁判にかかわるようになった場合に整理をしておくということしか考えられないと思いますけれども。  こうした非常に緊張した状態の中で、三月二十日に日本国憲法の基本的な骨格は枢密院に諮詢されます。明治憲法の手続を踏むわけですから、まず最初に枢密院に諮詢されます。三月の二十日であります。その冒頭、幣原喜重郎首相が述べているところを読みますと、このことが非常によくわかります。日本の皇室の維持のためにこういうことをしたんだということを述べ、「若シ時期ヲ失シタ場合ニハ我ガ皇室ノ御安泰ノ上カラモ極メテ懼ルベキモノガアツタヤウニ思ハレ危機一髪トモ云フベキモノデアツタト思フノデアル。」こういうふうに述べておられます。  このようにして見ますと、急いだ理由は、一つは、極東委員会に先んじるということ、もう一つは、天皇を象徴として天皇の地位を明確に規定した憲法を一日も早くつくることによって、しかも、その憲法は、戦争を放棄し、平和主義である、人権を尊重している、こういう連合国に受け入れられやすい憲法を一日も早くつくることによって日本を安定させようとマッカーサーは考えた。それが急いだ理由であるというふうに言えるのではないかと思います。  だんだん時間が迫ってまいりましたので、急がせていただきます。  それから、確かに私は、先ほど二つの場面を申し上げて、押しつけの根源というのはここから出ているというふうに考えられると申しました。しかし、それでは、GHQ案を翻訳したとかおっしゃる方もよくいらっしゃるようですが、そういうものなのかということですけれども、枢密院に諮詢された後、衆議院、貴族院で審議をされます。昭和二十一年の六月二十日から、貴族院では十月までかかって審議がなされるわけであります。その間にあって、私はきょうのレジュメでは三つに分けておりましたが、GHQ案はかなりの程度に修正をされております。とても全部読んでおる時間がございませんので、大枠だけ申し上げますと、つまり、GHQ案にあったものが政府の要請で修正されたものもございます。  例えば、一番最初の憲法十四条の部分ですけれども、「すべての自然人は」というところは、「すべて国民は」とされております。大して大きなことではないとおっしゃられるかもしれませんが、これは実は大変大きな、自然人というのは法人以外のものが自然人ですから、人間すべてに対して法のもとの平等を保障するというのがGHQ案です。そういう中で、そこを日本国民とする。  あるいはまた、GHQ案の二行目ですけれども、カーストまたは出身国によって差別されないという言葉を使っております。このカーストは、日本には被差別部落民がいるということをGHQは知っていてカーストという言葉を使ったそうです。あるいは出身国、これは、旧植民地であったところから、朝鮮人、台湾人がいるということを知っていて出身国という言葉を使っております。それを政府は門地という言葉にしてくれといって、「カーストまたは出身国」を「門地」に変えますね。英語でいうと大して変わらないんですけれどもね。出身国というのはナショナルオリジンですね。門地というのはファミリーオリジンですから、どちらもオリジンで余り変わらないんです。だからGHQがうんと言ったという説もありますけれども、それとの関連で外国人の人権は全部削ります。土地国有化についても削っております。国会の一院制についても削っております。  こういうふうに政府の案を受け入れている部分もございます。  さらには、帝国議会の中でもGHQ案になかったものを加えている部分もあるわけであります。  憲法十条には、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と大変簡単に書いてありますが、この条文は明治憲法十八条そのままであります。私は、政府案に政府が修正できないから三党の共同提案になっておると思っていて、本来は多分法律家がつくったものではないかと思います。  さらに、生存権、憲法二十五条の一項、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」これは社会党の修正案。社会党は何から持ってきているかというと、ワイマール憲法の社会権規定、それを知っていて、これが必要だというふうに言って、これは入れております。ただ、もちろん当初の案はいろいろ削られたりもしております。不十分なものですけれども、入りました。さらに、政府案が議会の中でかなり修正をされております。  それから、さらに申し上げておきたいことは、こうした機会を与えられましたので、時間の許す限り申し上げておきたいことは、今申し上げたことは比較的本にいろいろ書かれております。特に佐藤達夫さんが出された「日本国憲法成立史」には細かく書かれております。しかし、日本の一般的な書物、それはある意味では憲法の本もそうですね。そればかりではなく、歴史書もそうですけれども、ほとんど無視してきているものがある。無視といいますか、無視したんじゃなくて、あえて見てこなかったんだろうと思います。決して私だけが見ているとは申しませんが、日本の中では余り議論されていないことです。  それは、マッカーサーは、一九四八年五月から翌年の五月まで、正確に言えば五月の三日から翌年の五月の二日までの一年間に憲法を再検討してもいいですよということを時の吉田首相に伝えております。どうしてこれを伝えたかといいますと、極東委員会が、その前の一九四六年十月十七日に、日本国憲法を再検討する機会を日本国民に与えるべきだという決定をしたからです。  しかし、マッカーサーは、先ほど来申し上げておりますように、人の意見を余り聞かないといいますか、とにかく偉い人ですから、日本国憲法がまだ議会で公布もされていないのに、つまり、この段階は十月ですから、十一月三日に公布されるわけですから、こんなことをやったら憲法の権威が落ちるではないかというわけですね。 まさに、おれのつくった憲法の権威を落とすなとは言っていないんですが、まあ言いたかったんでしょう。したがいまして、日本政府には伝えません。そして、極東委員会の決定とは関連のない形で、私信をもって吉田首相に一九四七年一月三日に伝えております。これを受け取った吉田首相は、たしか一月六日ぐらいだったと思います、すぐに、心にとどめおきますという返事を書いております。  そして、その後、極東委員会の決定等々がいろいろ新聞等々で報道される中で、当時法務総裁と言っておりました法務大臣も衆議院議長もこの問題を知っておりますけれども、いずれも、この国会ででございますが、国会で技術的な改正しか自分は考えていない。その例として憲法八十九条、私的な、私立学校であるとか宗教団体であるとか慈善団体に対して公的な援助を与えてはいけないという条文ですが、そこの問題の再検討などは必要かもしれないけれどもというような言い方をしています。あるいは松岡駒吉さんという当時の衆議院議長は、改正は考えていない、自分はいろいろな大政党の幹事長にも相談したけれどもみんなそういう意見だということを言っております。さらに、新聞の社説等も、改正の必要性についてはほとんど述べておりません。  そして、そういう中で、最終的には吉田首相は、一九四九年四月、つまり再検討の期間がもうほとんどない段階において衆議院外務委員会での質問に答えて、「極東委員会の決議は、直接には私は存じません。承知しておりませんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持つておりません。それから芦田内閣」には、つまり自分の前の内閣ですが、「芦田内閣において憲法改正の議があつたとすれば、これも私は伺つておりません。」と明白に述べております。  したがいまして、吉田首相は押しつけの立場をとっておりません。吉田さんの最大の回想録である「回想十年」を読まれても、それは明白であります。あるいはまた、これを理由に憲法を改正するべきだという立場もとっておられません。それは非常に象徴的なことだろうと思います。  最後に、こういった過程をどんなふうに見るのかということで、お話をした以上、結論的なことを申し上げなければいけないわけで、申し上げるわけですが、大変難しい問題だろうと思います。日本民族にとって有史以来の占領がされ、その中で国家の基本法が改正されたという事態をどう評価するのかということですから、大変な問題であります。  私は、一応そこに三つくらい書いておきましたが、一つは、ポツダム宣言の受け入れというもの、言い方をかえれば敗戦ということを、力の問題、軍事力で負けたというふうに考えていた方が、当時、記録を読む限り大変多いわけであります。  確かにそれは冷厳なる事実でありましょうが、しかし、そうなった原因を、国の政治レベルの、政治体制の問題として、言い方をかえれば、明治憲法体制との関連でどこまで見てきたのかということをやはり問うてみざるを得ないわけであります。  そしてさらに、その明治憲法体制が問われた占領というものは法的に見た場合にどうであるのか。もう繰り返しませんけれども、明らかにそれは対等な関係ではなかったわけですが、なかったということを私どもは国家意思の決定の手続を経て受け入れてきたわけであります。確かに屈辱的なことでありましたが、私は、その受け入れる手続というものはきちっとしてきていると思います。  それからさらに、日本の行った戦争に対する日本の責任というものに対する意識というものを、当時それほど強く感じていなかった。それは言い方をかえれば、明治憲法をどこまで改正しなければ、国際社会、特に連合国に受け入れられないのか。 日本があれだけの戦争をした後で、国際社会の中でどう生きていかなければならないのかということを、国際社会との関係の中で必ずしも考えていなかった。  このことは、言い方をかえますと、僕もいろいろなことを考えるんですけれども、憲法をつくったというのは、昭和二十年の八月十五日、敗戦を迎えてから一年もたっていないわけですね。その前までは米英鬼畜と言い、神州不滅と私たちは言ってきたわけですね。半年にして人間の心というのはそう簡単にすぱっと変わるんだろうか。なかなか変え得なかったと思うんです。そこは、当時生きた人たちの気持ちは酌まなければいけませんが、しかし、明治憲法体制というものが近代憲法であり得たのか、あるいはまた、連合国が日本に突きつけたポツダム宣言を受け入れたという意味は、明治憲法との関係で那辺にあるのかということを突き詰めて考えてこなかった部分にやはりある。  そして、連合国を構成するアジア諸国、さっき十一カ国と申しましたけれども、それ以降、フィリピン等アジアの国も入っていきますが、十三カ国になります。そういった国々の主張の厳しさというのは、極東委員会での議事録を読みますと、私のような戦後生まれの者でも、私は昭和十八年に生まれていますが、愕然とさせられます。日本人として何でこんなことを言われるのだと思いますが、しかし、事実は事実であります。そこを私たちはどこまで、歴史に対して、歴史の教訓を自分の思考の一部とするということをしてきているのかとやはり考えざるを得ないわけであります。  確かに感情として屈辱的な部分があったことは、何度も申し上げておりますように、事実であろうと思います。しかし、再度、もう一度申し上げますが、天皇の詔書、さらには内閣の議決、枢密院、衆議院、貴族院と、明治憲法下の法の適正手続は明確にとられてきたわけであります。私たちの先輩は、この案に対して賛成の意思を表明してきたわけであります。それを国家意思との関係でどう考えるかという場合に、私はそう簡単に押しつけというふうに、つまり感情論を公的なものにしてしまうということは、必ずしも国家意思の形成という点では適正ではないというふうに最終的には考えております。  ありがとうございました。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。中川昭一君。 ○中川(昭)委員 おはようございます。  古関先生から大変貴重なお話を聞かせていただきまして、大いに考えさせられるところがございました。  結論的に、先生のきょうのお話、レジュメ、あるいはきのうの大きく報道されておる先生のあの記事、さらには「新憲法の誕生」というものの、これは一部ですけれども読ませていただきまして、先生のお話は、押しつけというものがあったといえばあったし、なかったといえばなかった。それから、感情というものが非常にその過程において大きなウエートを占めたという、大きな文脈の中でのお話ではなかったかというふうに思います。  そこで、何となく、押しつけについては両論併記的なお考えのように私は拝察をさせていただくわけでございますけれども、このレジュメについて、幾つかまず事実関係についてお伺いをしたいと思います。  まず、日本はポツダム宣言あるいは占領軍、占領政策を甘く見ていたのではないか、したがって天皇の国家統治権あるいはまた占領政策というものについて、そして憲法制定をみずからの延長線上でやろうとしたけれども、途中からマッカーサーを初めとするGHQが憲法の改正手続を取り上げて、一週間の草案でつくったというお話がございました。私も、その流れは根本的には間違っていないと思います。  しかし、そこで、先生はバーンズ回答のお話をされましたけれども、たしかポツダム宣言というのは七月の二十六日に日本に通知されて、八月の十日に日本から連合国に対して、天皇の統治権は何とか温存させてもらいたいという質問をして、それに対して、当時のアメリカ国務長官であるバーンズから翌日、それはだめだと。その根拠は、ポツダム宣言の第十二項に基づく、国民の自由意思に基づく政府が樹立されたときには占領軍は撤退するんだという、その裏返しの解釈として先生はバーンズ回答を引用されているように思いますけれども、今申し上げたように、バーンズ回答というのは、降伏する前、八月十一日の回答でありまして、憲法制定の議論とバーンズ回答とは直接的にはかなりのずれがあるというふうに考えますけれども、先生のお考えはいかがでしょうか。 ○古関参考人 確かに時間的にはかなりありますけれども、今の先生のお話をつなげて申しますと、十日に問い合わせをする、つまり、天皇大権に変更なきものと認めてポツダム宣言を受け入れるという条件つきのものを出すわけですね。ですから、天皇大権の変更がないとかあるとかという回答をすべきところ、そこはしないで、従属のもとに入るんだということを言うわけですね。それに対して当時の日本の政府は、当時は制限と訳したんでしょうが、制限のもとに入るということは、天皇の地位は残るんだと解釈をしたということだと思います。  そのことと憲法制定過程は関係ないではないかとおっしゃいますけれども、確かに直接関係はございませんが、どうして私がそれを申し上げたかといいますと、連合国最高司令官と天皇との関係はどうなるのかということを明確に示すものとして申し上げたわけで、そのことを前提に、GHQが天皇にあるいは日本政府に命令をし、日本側は法の改正をしという形で進んできているということで、ですから確かに直接関係はないでしょうけれども、しかし、連合国最高司令官と日本政府とがどういう法的な、権利義務的な関係にあるのかという点では私は大事だと思って引用いたしたまででございます。 ○中川(昭)委員 私は、限られた質問の中で、押しつけ論という議論とそれから間接統治という二つの流れから質問をさせていただきたいと思います。  ポツダム宣言の、表から読むか裏から読むかということで、本質的には解釈自体はそう変わらないんだろうと思いますけれども、マッカーサーへの連合国最高司令官としての権限という文書があります。天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官、つまりダグラス・マッカーサーに帰属するとはっきり書いてあるわけですね。これに邪魔することがあってはならないということがはっきり書いてあります。「米国ノ初期ノ対日方針」というものに書いてある。ところが、マッカーサーは、天皇というものを存続させるという判断に早くから立った。これは、占領政策を、言葉は悪いですけれども、比較的犠牲を伴わない安いコストで遂行するために、ある意味では天皇陛下を象徴として利用された、恐れ多くも利用したと私は思うわけでございます。  その中で幾つかの、押しつけとは言えないという部分にちょっと飛びますけれども、この資料のところで、例えばカースト制の話、出身国の話を先生はされましたけれども、確かにこれは、連合国案といいますかGHQ案の英語の部分にはカースト・オア・ナショナル・オリジンということがありますけれども、日本文には消えている。 カーストというのは、特定の、ある国の宗教に基づく階級制度でありますから、日本では全くなじみがないということは、これはある意味では常識でありまして、これを起草した方はローストという中佐さんで、インドで教えたことがあるということを伺ったことがありまして、その影響かなと。これは推測であります。したがって、これを消すということは余り大した問題ではない。  それから、ちょっと飛びますけれども、土地の国有化という文章がなかったと。  土地の国有化については、これは後で申し上げますけれども、日本に対しての占領政策は、欧米型民主主義と、共産主義の排除を大前提に、日本の伝統と文化、あるいは戦争をさせない、あるいは国家統治機構というものを間接的に奪うという幾つかの基本政策があって、それに天皇制を利用したというふうに私は理解をするわけであります。  共産党の日本人民共和国憲法草案、これには当然のことながら、「封建的寄生的土地所有制の廃止、」とか所有権を絶対に認めないようなことが、「社会的生産手段の所有は公共の福祉に従属する。」つまり、私有権の制限ですね。あるいはまた、社会党の新憲法要綱、これにも「社会主義経済の断行」ということが第一の「方針」に書いてあって、そして所有権も公共の福祉のために制限されるということがある。  まさしくこれは、GHQの基本方針としても、やはり社会主義化、共産主義化を防ぐためには、ある意味では当然削除されるべきものというふうに私は推測をするわけであります。  それから、外国人の人権についてということでありますけれども、当時、一九四六年時点で、外国人に対してきちっとした人権、先生は参政権とは先ほどはおっしゃらなかったと記憶しておりますけれども、人権について、ほかの、マッカーサーがお手本としたであろう欧米型民主主義の憲法においてもきちっと規定した国が果たしてあったんだろうか。つまり、当時予想し得た範囲内での条文になり得たであろうかということについて、私は疑問を感じるわけであります。  それから、国会の一院制についてもお触れになっておりますけれども、私の聞いたというか調べたところによりますと、ケーディス大佐に言わせると、これは日本政府があくまでも主体的に民主的に憲法制定をするという過程の中で、一つの妥協材料といいましょうか、落としていい材料だということをケーディスははっきり言っているというふうに伺っております。  これらの、押しつけとは単純に言えないという中で挙げてきた項目というのは、はっきり言って、全部が余り意味のない議論の結論として日本の主張が通ったというふうに私は考えますけれども、先生はいかがでございましょうか。 ○古関参考人 幾つかございますので、順番が御質問いただいたとおりになるかどうかわかりませんが、お答えさせていただきます。  まず、一院制ですけれども、私も、御指摘のとおりというか、それしか資料がないのでそういうふうに申し上げるわけで、一言で言えば、いわゆる取引の材料だというふうにケーディスは言っていたと思います。それはそのとおりだと思います。  それから、土地国有化の問題にかかわってですけれども、私は、そんなに単純と言っては失礼ですか、そういうふうには言えないだろうと思います。  と申しますのは、例えば、もちろんこれは社会主義との関係が非常にあると思いますが、一九一九年のワイマール憲法では、所有権は義務を有すると言っているわけで、所有権を制限したりするものは社会主義だというふうには言えないわけです。よく言われますように、近代憲法というものは、そもそも国家権力の人権への介入を排除することによって確立されてきたと言いますけれども、しかしながら、二十世紀に入る中で、同時に、国家が介入することによって経済的な不平等を是正している。  それは確かに、政治的には社会主義化を防止するとか共産主義革命を防止するという部分もあったと思います。しかし、そういう消極的なものではなく、もっと積極的に、社会権の導入ということはヨーロッパ型の憲法ではとっくに二十世紀の初頭からつくられてきているわけですから、私は、それとの関連でも考えてみる必要があると思います。  それから、外国人の人権とか、憲法十四条の、そもそもは「すべての自然人は」という言葉を使っていたとか、そういった部分にかかわってですが、実は、日本の占領政策をしていくに当たって、アメリカ政府は幾つかの基本的な指令とか決定をマッカーサーに対して与えております。  その中で、日本国憲法と非常に大きくかかわるものとして、通称SWNCC―二二八と呼ばれている文書ですが、よくいろいろなところで知られておるかと思います。 それは、国務省、陸軍省、海軍省の三省調整委員会の略語です。一九四八年に改組されて、現在でもそれは続いております。国家安全保障会議だというふうに言えばおわかりいただけると思いますが、アメリカの最高政策決定機関であります。そこで、日本統治体制の再編成というタイトルの文書を決定しております。これが文書番号でいうと二二八と呼ばれるものです。  その中で、これから日本で人権をどういうふうに改革していくのか、人権政策をどうしていくのかという部分にこういう文章があります。今私持っていないので正確に申し上げられませんけれども、ほぼこういうことです。  日本国内にいる日本臣民、言葉としてこれはよく覚えています。サブジェクトという言葉を使っていますから日本臣民と訳す以外にないと思いますが、日本臣民。それだけではないのですね、日本臣民と日本の領土内に住む人の人権を保障しなさいという言い方をしております。私は、このこととこのGHQ案十三条、十六条は関連があると思います。  それからもう一つ、非常に特徴的なことで申し上げますと、よくワイマール憲法というものは民主的で進歩的な憲法だと一般的に評価されていると言ってよろしいかと思います。ワイマール憲法は、人権保障の主語が、「ドイツ人は」とか「ドイツ国民は」というものが多いです。しかし、一九四九年につくられたドイツ連邦共和国基本法、ボン基本法とも呼ばれておりますが、それはよく知られていることですが、そこの人権の規定は、「すべて人は」とか「人は」に変わってきているわけです。  私もそんなによく知っているわけではないのですが、私の見る限り、戦後と言ってもいいのでしょうか、二十世紀の後半の人権規定は、例えば、憲法学者なんかの言う言葉で言えば、国民権から人権への時代的な流れであったと言いますけれども、つまり、人権というのはそもそも国籍など問わないわけですね、フランス革命の中からつくられたフランスの人権宣言はフランス人にこんな権利を与えるなんて言ってもいませんから。それが、各国で憲法をつくるようになって、どうしてもナショナルなものに人権の対象がなっていく、それは避けられなかったと思います。しかしながら、二十世紀の後半からは、そうではなくて、本来の、国籍等を問わない規定、「すべて人は」なんというふうになっていくわけです。  以後私の申し上げることは推測ですが、そういう流れをアメリカのSWNCC―二二八は反映していたのではないかということです。しかし、そこは、日本政府はそうしたくないというふうに考え、先ほど申しました憲法十条の国民要件規定を、明治憲法の十八条をそのまま入れて今のようになった。そういう意味では、私は、どうでもいい小さな問題ではなくて、日本国憲法の基本的な性格がたったこの十条でかなり変えられているんではないか、法技術的なものも含めて。私は、そこはかなり大きなものと見ております、お答えになっているのかどうかわかりませんが。 ○中川(昭)委員 私も、憲法二十九条の、所有権は保障されるけれども、正当な補償のもとで公共の福祉に供せられるという条文は重いと思っております。それから、日本国憲法の中でも、「国民は、」とか「何人も、」とか、いろいろな表現の仕方が使われておりますので、一概に右だ左だ、こう簡単に片づける問題ではないということは、私も先生のおっしゃるとおりだと思います。  そこで、結局、明確な改正手続でこの憲法は制定されておるというふうに先生は最後におっしゃいました。先生の「新憲法の誕生」の「序」のところで、実は私は幾つかわからない点があるのです。  この憲法は旧憲法を引き継いでいる、あるいは旧憲法時代の人がつくっている、あるいはまた潜り込まそうと思ってという表現だったか、正確じゃないかもしれませんけれども、暗に入れようと思って入ったものもあるというふうな、連続性を認めているような文章もございます。つまり、「戦前と戦後の連続以外のなにものでもないであろう。」というような一文もございます。一方では、にもかかわらず、あえてここで新憲法という、新憲法と言ってももう五十年以上たっているので決して新しい憲法と私は思わないのでありますけれども、そこにはやはり明治憲法とは全く違った新しいものを見出すと。  これは、手続的に連続性があるかないかという御議論なのかもしれませんけれども、そうだとするならば、ここでも先生が触れられております宮沢俊義先生あたりの、途中から、いわゆる八月革命論というもので御説明をされているようでありますが、こういう憲法議論、あるいは先生の連続性あるいは非連続性との関係というものはどういうふうにお考えになっているのか教えていただきたいと思います。 ○古関参考人 本を読んでいただいてありがたいのですけれども、私は、今中川先生のおっしゃられた部分を違う表現で言うと、「モザイク模様」という言葉を使いました。  これはどういうことかといいますと、先ほどの例で言えば憲法十条がそうですが、理念の上でも明治憲法を引き継いだものもありますし、明治憲法と全く違うものもあるわけで、その象徴的なのは第二章の第九条だと思いますが、内容的にもさまざまな側面がある。そして、新しく盛られた内容が、そのオリジナルがGHQにある。 思想的に言えば、アメリカ憲法の思想的な流れのものもあるし、あるいはヨーロッパ的な考え、先ほどの二十五条一項の社会権なんというのはそうですけれども、そういうものを日本の国会議員を通じて入れたものもあるし、さまざまな要因が働いている。したがって、手続的に見れば、これはやはり連続性を非常に重んじたとしか言いようがないと思います。つまり、明治憲法七十三条の改正手続をとったわけですね。  連続、非連続という点で、一点だけきちっと考えなきゃいけないと思う点で申しますと、マッカーサーは手続的連続性を非常に強調していたと思います。先ほど申しましたように、できるだけ断絶をつくりたくないわけですね。それは、いろいろな国際法上の問題等々も含めてつくりたくない。  しかし、それだけではなく、日本人に受け入れられやすいというものを考えたということも言えると思います。  非常に形式的な言い方で言えば、非常にわかりやすい言い方で言えば、第一章に「天皇」があり、第二章の「戦争の放棄」は明治憲法とは違いますが、ざっと言って、第二章の「戦争の放棄」と第八章の「地方自治」、これを除くと編成の順序は明治憲法と同じです。二十世紀後半の憲法で第一章に「天皇」があるという憲法は、私はそうそうないと思いますけれども、マッカーサーはあえてそれをつくっているという点では、連続性を物すごく意識したというふうに私は思います。  だから、手続的な連続性ということは否定しがたいだろうと思います。 ○中川(昭)委員 私も、形式的な手続論としては、大日本帝国憲法の改正という手続をとり、しかもその本質は、先ほど申し上げたように、マッカーサー並びに当時のアメリカ政府は、間接統治、つまり、日本の民主的なあるいは代表された形の政府を樹立するという基本方針のもとでいろいろな占領政策が行われていったというふうに思います。  そこで、最後になるかと思いますが、押しつけ憲法論であります。  押しつけ憲法論をあえて整理いたしますと、制定そのものを押しつけるということが一つで、それから、内容について押しつける。これはもちろんダブる部分もあるわけですけれども、とにかく何でもいいから新しいものをつくれということと、こういうものをつくりなさいということと、あえて二つに分けます。ダブっている部分というか、混然一体の結論になると思いますけれども。  その場合に、先生は、内容がいいんだから、押しつけ憲法と言われても仕方がないというか、いいのではないかというようなことを、きのうの新聞なんかでも、これは新聞報道ですから間違っている可能性も否定いたしません。いずれにしても、押しつけ憲法である可能性がある、でも、この憲法は新憲法として時代の先端にあるというふうなお考えでありますが、私は、押しつけ憲法であるかないかの前に、憲法というものは国にとって何だろうかということを、根本論を考えなければいけない。  戦勝国が敗戦国に対して占領政策を行う。そして、国というものは、領土があって、国民がいて、そして歴史と伝統と文化があって、そしていろいろな統治機構がある。その中で、GHQは、先ほどから何回も申し上げておりますけれども、天皇を利用しながら、欧米的民主主義を押しつけといいましょうか強いて、そして共産主義を排除していこうとした。そして一方では、領土と国民を守りながら、文化、伝統、教育の相当部分を排除しようとしていった。  そういう状態に置かれていた当時の日本というのは、果たして国家として認められるのか。先生はここで、国家対国家の関係、これはもう既に古いとおっしゃっておりますけれども、私は、当時の日本はまともな憲法を持ち得る国家ではなかったのではないかという、もっとその前提に立ち入っているわけでございます。  したがって、押しつけであろうが何であろうがいいじゃないかという議論は、私は一つの理屈だろうと思いますけれども、そもそも、国家でない、まともな国家でない、それが実際は植民地だったのか自治領だったのかあるいは信託統治だったのか、いろいろな形態があると思いますけれども、いわゆるまともな国家でない国に、まともな憲法が形式的には民主的な手続で制定されたとしても、実質的には、あの憲法は、少なくとも占領当時の一つの最高法規、国内統治の最高法規であったかもしれませんけれども、先生がいみじくもおっしゃったように、吉田首相に対するマッカーサーの話、あるいはサンフランシスコ講和条約によって日本が主権、独立を回復した後に存在する国家の基本法規、最高法規としての位置づけとは全く違う性格のものであったはずであり、したがって、それ以降は、新たな独立国家としての、間接統治に基づかない、我々の意思に本当に基づく憲法というものをつくるべきだった。  これはまさに先生が、吉田さんがつくらなかったのはけしからぬというようなことをおっしゃっている。私はそのとおりだと思うわけであります。当時の数少ないアンケート、毎日新聞のアンケートなんかを見ても、国民の代表によって憲法をつくるべきだというのが過半数というようなアンケートもこの資料の中に載っております。  そういう意味で、私は、そもそもこの憲法は、押しつけだとか押しつけでないと言う以前に、当時の占領政策の基本法規であって、独立した我が国にとっての、国民の意思としての憲法ではない。実質的にそうではない。  したがって、私は、先生がきのうの新聞で最後におっしゃっているように、二十一世紀を見据えた、変えるべきところは変え、また追加すべきところは追加し、そしてまた、私は読みやすいということも大事だろうと実は思っておるわけでございます。 社会党も共産党も制定当時と解釈をかなり変えた政策を持っております。共産党が本当に変えたかどうか私は知りませんけれども。そういう国民に合った議論というものをしながら、私は、憲法改正も含めた幅広い議論をぜひすべきである、この点については先生と同じ考えではないか。前段の部分についてはちょっと意見が違うかもしれませんけれども、結論的には同じではないかと思いますが、最後に先生の御意見をお聞きして、終わらせていただきたいと思います。 ○古関参考人 たくさんいろいろ先生の方がおっしゃられているので、時間内でどのくらいお答えできるかわかりませんが。  最初に、制定そのものと憲法の内容というふうにおっしゃられて、私が、内容さえよければ手続はいいじゃないかというふうに見ているのではないかということですが、私はそうではない。もちろん内容も大事ですけれども、それだけではなく、私たちこの日本という国が、憲法にかかわる国家意思の形成をどのようにしてきているのか、そこを一つ一つ丁寧に見ていくことが大事だということを、先ほど一時間の中で申し上げたつもりでおります。私は、内容さえよければというふうには全く思っておりません。  それから、新憲法というタイトルをつけて、みんなに、中川先生ばかりではなく友人たちにも大いに笑われました。  私があえてつけたのは、やはり日本国憲法は全く新しい理念を盛り込んでいるということです。きょうは全く申し上げませんでしたけれども、あの当時の多くの青年たちが半官半民でつくられた憲法普及会のことに非常に積極的にこたえている内容を見て、私は追体験として大変感激をしたわけであります。  それからさらに、むしろこちらの方が大事なのでしょうけれども、憲法は国にとって何であるのかという問いを出される中で、当時の日本は国家ではなかったのではないかということです。  日本が、占領下でありますから、当然に外交権を持たないとか、あるいは日本の国家意思の最高決定の上に占領軍がいるとかという権力形態というのは、確かに、絶対的な国家主権が存在するものを国家であると規定するならば、私は国家でなかったと言い得ると思います。占領されているんだから、ある意味では当然です。しかも、大事なことは、その占領を私たちはポツダム宣言という形で明確に受け入れたわけであります。それはむしろ私たちの責任であります。ですから、やはりそういうところは、一つ一つの手続をむしろきちっと見ておくべきだということであります。  それから、読みやすいことが大事だとおっしゃられました。私もそのとおりだと思います。しかし、では日本国憲法はどうなのかと見たときに、当時、昭和二十一年段階で、刑法も、民法は一編から三編までですが、それも全部文語体であったわけです。その中で日本国憲法は口語体で発せられたわけで、読みやすさからいったら、格段に日本国憲法の方が読みやすいことは単純に考えて明白だろうと私は思います。  最後に、今のお話を伺いながら、私は、憲法をつくるときにケーディスと一緒に最高責任者であった、ラウエルさんの回想をふと思い出します。ラウエルさんはこう言っているのですね。日本の象徴は松だというふうによく言われるけれども、日本人は竹を愛する、強風が来ると、こうべを垂れて強風が去るのを待つ、強風が去り行くと、またもとに戻るという言い方をしています。私は、これを読んだときにぎくっとしました。  私たちはいかなるときにも、自分が合意したものに対して合意の責任はとらなければならないと思います。  先ほど私は、国家の手続を経たというふうに申しましたが、そのときに枢密院顧問官であった美濃部達吉さんはついに立ち上がりませんでした。反対でした。大変な勇気だったと思います。そういう方もいたわけですね。ほとんどその方々は知っていたわけですから、もし本当にこれが押しつけであって承知できないのであれば、承認しなければよかったわけで、承認した以上は、私たちはその責任をみずからのものとして負わなければいけないのだろうと思います。そこはあいまいにしてはいけないというふうに、お話を伺いながら思いました。  長くなりました。 ○中川(昭)委員 終わります。ありがとうございました。 ○中山会長 石毛えい子君。 ○石毛委員 民主党の石毛えい子でございます。  本日は、大変お忙しいところをおいでいただきまして、ありがとうございました。  きょう、古関先生から、日本国憲法制定の経緯をめぐって、押しつけをどう見るかということを中心にお話を伺わせていただきました。  御著書を読ませていただきまして、またきょうのお話も伺わせていただきまして、一九五四年に自由党憲法調査会が設置されて、そこで松本烝治委員長が憲法制定過程での体験を証言されたということから、恐らく押しつけというとらえ方が一般化したといいますか、社会的になってきた。そして、もし当時の松本国務相が押しつけと言うその事態をとらえたとすれば、それは一九四六年の二月から三月四日にかけてという七年間の、もっとあるかもしれませんが、タイムラグがあるということです。  まず、前半の、四六年三月四日の、押しつけと松本国務相自体が言いたいと思ったそのことに関しまして、古関先生は、GHQの人権指令などを御紹介くださりながら、人権規定がない松本案に落胆というふうに御紹介くださいました。  私も、後の質問で触れさせていただきますが、女性の人権等々をとらえますとそういうふうに思うわけでございますけれども、もう少しこのあたりで確認のための質問をさせていただきたいと思います。  毎日新聞がスクープをいたしました松本案、先生の御著書で紹介されておりますけれども、整理されて紹介されている部分につきましては、主に天皇の位置に関する部分が紹介されておりまして、人権の部分は、確かに二十八条のところで、「信教ノ自由ヲ有ス 公安ヲ保持スル為必要ナル制限ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」ということで、他の法律に付託されているというようなつくり方になっております。  松本案につきまして、先ほど人権規定がないというふうに一点御紹介くださいましたけれども、もう少し総論としてといいましょうか、総体として、松本案が持っていた問題点、論点というようなところを御指摘いただければと思います。 ○古関参考人 さっと答えるのは難しいのですけれども、それでは、今先生の方が引用くださった、明治憲法の二十八条になりますか、信教の自由の部分ですね。  明治憲法は、信教の自由を保障しつつ、限定を二つつけていたわけですね。一つは臣民の義務に背かない、それから安寧秩序を妨げない、こうなっていたと思うのです。つまりそれは、神聖不可侵な天皇家の宗教である神道に背くことは臣民たるの義務に背くわけですから、それに背かないという限定を明治憲法はつけております。  それについて、松本案はそこは削ったわけです。  それはどういうことかといいますと、そこの部分はやはり削ろう、しかしながら、安寧秩序部分は残したわけで、そういった意味では限定的なわけです。つまり、法律の留保と一言で言いますけれども、表現の自由についても法律の範囲内で保障をしているわけです。  しかしながら、先ほどの人権指令の関係等々で申せば、法律の留保を憲法上認めていることによって治安維持法等々の法律はつくられてきたわけですね。そういった意味で、法律の留保のある人権規定は、結果的には、また再び明治憲法下の人権状況になると、GHQの側は、特にケーディスなんかは判断した。  ケーディスのようにアメリカで法学教育を受けた人間から見れば、特にアメリカの人権観はそうですが、人権というものは国家以前の権利である、前国家的というか、国家ができる前の、国家によって与えられるものではない、人間としてこの世に生まれてくれば、生まれながらの生来の権利としてあるものだというのがかのアメリカの独立宣言的な考え方ですから、そこから見ると、法律で留保するということはおかしいではないかという考えになっていくわけです。  しかし、松本さんはそうではなくて、やはり明治憲法が大前提にありますから、やはり国家によって与えられるものという観念になります。  ひとまずそういうお答えでいいでしょうか。 ○石毛委員 日本国憲法制定の経緯を見る、先生が最後にお使いになっていらっしゃる表現でもありますけれども、視座というときに、当然、国家としてのアメリカないしは極東委員会を構成するそれぞれの国々と、占領下で国家としての主権があったかどうかということはおいておきまして、日本としての関係、それから、それぞれの国に住み、さまざまな活動をされておられる、いろいろな考え方、運動、動き、そういう相対の関係でこの日本国の新憲法が誕生したという、背景の相互関係もあったのだろうというふうに私は思います。  事実、先生のこの御著作でも、例えば高野岩三郎さんが大変民主的な中身の憲法を考えておられたとか、それから個別の課題に関しまして、例えば教育をめぐって、児童ではなくて子女にするとか、初等教育を普通教育にするとか、さまざまな動きがあった。その相互関係のある結節点で、そのとりわけ大きな結節点というのはGHQと日本政府との関係だと思いますけれども、そのバックグラウンドにはさまざまな関係があったんだというふうに思います。  そこで、私は、松本案をどうしても受け入れることができないというのは、GHQが人権指令を出していたというそちらの動きと、それから、日本の国内にもさまざまな民主的な考え方や動きが出てきていて、その相関関係の中でGHQの案をきちっと政府案として展開しながら整序していく、こういう関係があったんだと思います。  憲法制定過程を見る視座としまして、押しつけがあったのかなかったのかという局所の部分部分を見るだけではなくて、相対の関係から判断していくことが必要なのではないか。ちょっと抽象的な表現になりますけれども、GHQは日本国内のさまざまな動きも見ていたのではないかというようなことを直観的に思った部分もありますから、そういう質問をさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。 ○古関参考人 おっしゃるとおり、日本の国内のことはよく調べていますね。大体アメリカというのは、そういう世論調査とかいろいろなことが好きですね。  占領下で検閲が行われていたということはよく知られていることであります。検閲をされた私たちから見れば、決していい気持ちではございません。したがって、否定面が非常に強いのです。日本国憲法は二十一条二項で検閲を禁止しておりますから、私もそれはいいことだと思っておりますけれども、皮肉っぽく言えば、そういう検閲はしてはならないという憲法案をつくりながら、GHQは検閲をしていたわけです。  その否定面だけが言われますが、今の御質問との関係でいえば、実はGHQは、検閲をしながら、それを結構世論調査に使っています。例えば手紙は全部当時見られていたわけですが、それで細かくリストをつくって、最近マッカーサーは評判悪いとか、全部つくっていた。そういう意味では、非常に世論をよく見ています。  これは既によく知られたことだと思いますけれども、憲法研究会という学者を中心とした知識人の組織が、かなり早い段階で案をつくります。それを全部、わざわざ英訳して持っていったのですね。それが残っているのです。  だけれども、自分たちで別の英訳をつくっています。そして、一条一条全部コメントをラウエルはつけております。  ただ、そこで、ちょっとお答えをしておきたいのですが、私などが思いますことは、そういうふうに非常にそれを研究して、いざGHQ案をつくるときにそれも使っていますね。非常によく日本人の動向を見ております。  それから、せっかくの機会ですから、余り言われていないのではっきり申し上げておきますと、GHQ案を、確かにああいう形で日本の政府に押しつけと言われるようなことをしていますが、当時の日本のオピニオンリーダーといいますか、そういう方たちに実はそっと見せていますね。  既に私の本でもちょっと紹介した方で言えば、例えば労働法学者で東大教授の当時法制審委員をしていた末弘厳太郎氏、彼に見せていますね。それから宮沢俊義氏、東大の憲法の教授ですが、これも事前に見せています。僕も、いろいろなところに行って調べて、コピーをとると何か安心して、中を見ていないということが最近わかったのです。最近というか、しょっちゅう反省していますが、手書きだったので、僕も英語なんてよく読めませんからぶん投げておいたのですが、改めてよく見たら、何と南原繁氏にも見せています。当時、東大総長ですね。そういう方々に事前に見せて、これでいくけれども、どうかとやっているわけですね。南原さんは、天皇条項については、これは日本にはうまくいかないという言い方をしています。しかしながら、ほかの面では非常に歓迎しています。  かなりいろいろな人に事前に見せていて、その点について私たちはまだきちっと全部研究していませんからわかりませんけれども、やはり世論を形成する人というのですか、オピニオンリーダーというのですか、そういった人たちには事前に見せていて、政府には押しつけるというかなり強い形になったわけですね。  もう一点だけ済みません、時間がないのに。もう一点だけ申し上げておきますと、例えば憲法研究会案を大変高く評価しているにもかかわらず、GHQは憲法研究会の人と接触をしていないですね。この意味を僕はずっと考えたんですが、結論は簡単だと思いました。  間接統治なわけですから、日本政府を通じてやるわけですから、直接的にマッカーサーが、おまえのところの憲法はなかなかいいぞ、政府案よりいいなんということを言ったら、間接統治じゃなくなってしまうわけですね。だから、日本政府をできるだけ自分の方に近づけようと必死にする。その必死にする過程で押しつけであるとか強引だとかということは出てくるんだと思いますけれども、それは逆の言い方をすれば、野党に、あるいは反政府的な人にイニシアチブを与えさせないという点にもなっているわけですね。  その辺をやはり両方見た上であの押しつけが何であったのかと考えることが、私は思慮深い判断だと思いますけれども、いかがでしょうか。 ○石毛委員 残された時間がほんの数分しかございませんので、ぜひこの質問の機会に、女性の人権という点について触れさせていただきたいと思います。  私は、日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝「一九四五年のクリスマス」という文章の中で、いろいろと考えさせられ、思いを深くする本だと思いますが、松本案に関連しまして、その中に女性、母親、家庭、児童という言葉は全く発見できなかったと書かれております。そして、このベアテ・シロタ・ゴードンさんは、女性の仕事を持つ権利ですとか、母性保護の問題ですとか、非嫡出子に対する差別の禁止、今私たち女性が大いに課題としているような点を、既に四五年の時点で非常に綿密に書いておられます。  それから、憲法制定議会でも、加藤シヅエ議員が、寡婦の生活権というような、さまざまな女性の人権、権利について大きな内容と広さの展開をされております。  ところが、制定された憲法では、性別による差別の禁止、それから両性の平等というのはありますけれども、具体的な展開はちょっと落ちている。このあたりのいきさつについて、お考えになられているところがございましたら承りまして、質問を終わりたいと思います。 ○古関参考人 私のお話で時間をとってしまいまして、申しわけございません。  今のことで申しますと、ベアテ・シロタさんというのは、GHQの中で人権条項をつくった三人のうちの一人で、当時二十一、二歳の若い女性であります。  一つは、彼女は日本の女性の人権状況を何によって知ったのかということですが、多分その御本の中にも、いろいろなところに最近お書きですが、彼女は小さいころ、お父様が東京芸大の教授であったということもあって、日本にいらっしゃいます。お手伝いさんがいらっしゃいまして、女性なんですが、その方を通じて日本の女性の置かれている大変低い地位というものを知るわけですね。  そして、本国で、アメリカで大学教育を受けます。大学教育を受けて雑誌社に勤めますが、当時のアメリカでは、雑誌社に勤めても、そこでも女性はリサーチャーというか下働きで、いろいろ調査をして調べてきても、実際それを書くのはみんな男の名前になるということで、彼女は、そういう若い情熱を傾けて、この機会にこそ女性の人権を細かく書きたいというふうに思って素案をつくったということですね。  ところが、素案がイコールGHQ案になったわけではなく、その後で、先ほどのケーディス、それからラウエル、ハッシーというこの三人が運営委員会を構成して、この三人の許可がなければだめなわけですね。最終的にはホイットニーが、民政局長がうんと言わなきゃだめだ。一番若かったのがハッシーでしょうけれども、とにかく四十代、五十代の男性たちが、こんな細かいのはもういいよということで切っちゃうわけですね。たしか、その本に彼女は、泣いたというふうに書いてあると思います。  そんなGHQ案の裏側はちっとも知らずに、GHQ案をかなり参考にした政府案が出てきますが、それは、先ほど先生のおっしゃられたように、非常に抽象的なものになっております。  そこで、加藤シヅエさんが、加藤勘十の奥さんだということもありますが、戦前から労働運動をされたり、あるいは産児制限運動などにかかわってきたという自分の経験から、特に働く女性とか、あるいは当時、寡婦の人権という言い方をしておったと思いますけれども、そういうことを強く主張されるわけです。  当時の男性たちは、ここの衆議院でも、加藤さんの所属政党である社会党でも、鈴木義男さんなんかは、いや、そんなのは要らないと言って切ってしまうわけです。  ただ、その結果、先ほどの二十五条一項の生存権規定が保守党との妥協の産物として生まれたということも、一方では考えなければいけないと思います。確かにそれは、そういった方々から見れば、歴史に生かされていない教訓といいますか、これから生かしたい教訓なのだろうとは思います。 ○石毛委員 現代から見ますと、まだ人権の問題では、例えば障害を持つ方の人権の問題ですとか、昨今大変大きな問題になっております子供の人権等々、議論しなければならない課題というのはたくさんあると思います。そういう意味では、それぞれ関係する法律の中で人権がどういうふうに位置づけられているかという審議とともに、憲法の人権条項についても大いなる議論を尽くしていく必要があると私は考えているということを申し上げさせていただきまして、質問を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。 ○中山会長 倉田栄喜君。 ○倉田委員 公明党の倉田でございます。  古関先生、きょうは大変ありがとうございます。  私は、お話を聞きながら、二つのことを思いました。  一つは、こうして憲法調査会で我が国憲法の成立過程についてのお話を聞かせていただいているわけでありますけれども、私どもは、この成立過程の中から何を学ばなければならないのかということについて、できるだけ共通の認識を得られるように努力しなければならないということ。  そしてもう一つは、私は、この制定過程の検証とともに、憲法が成立をしてからおよそ半世紀、この半世紀の経過、戦後、現行憲法がどのような役割を果たしたのかという検証も欠かしてはならないのではないのか、こう思っております。  この二つの視点から、先ほどの先生のお話とともにお伺いをさせていただきたいと思います。四項目七点ぐらいになると思いますので、全部お聞きできるようにお願いをできればと思います。  まず、制定過程から何を学ぶべきかということについて、一つは、先生のレジュメの中にありました押しつけ論と戦後観の相関について何を学ぶべきかということでございますが、最後の方に「明治憲法体制との関連で見る視点」等々、三つの視点がございます。この視点は、なるほど、そのとおりだと思いながら聞いたわけでありますけれども、これらの視点から何をどう学ぶかということについて、先生の御意見があればお伺いしたいということが一つ。  それから、押しつけという、私はこれはいわゆる政治的論だとも思いますけれども、この論と、一方で次第に人々に定着し、進歩をしてきたという論、これをどう考えるか。  まず、この二点について、先生からお伺いできればと思います。 ○古関参考人 憲法制定から五十年以上たった時点で、私たちは憲法の制定過程をどう見るのかということを問われているということは確かだと思います。  そこから何を現在の時点で学ぶのかということですけれども、大変大きな御質問で、とても御質問のお答えにはならないのではないかと思いますが、私が若者と接しながら、そういうことが職業なので多いわけですけれども、やはり改めて思うことは、国際社会の中で主権国家がこれからどういう生き方をするのかということを検証していくことが、今の時代に問われているのだろうというふうに思います。  そのことは、最初の中川先生の御質問にもありましたように、国家というものがと、日本は当時国家であったのかとかということをおっしゃられましたが、そのことは言い方をかえれば、私は、自分の民族であるとかそういったものに対する誇りを失うことなく、しかし、それが自国のことのみに専念して他国を無視するということにもならず、他文化を尊重し他国を尊重する、そういう関係の中でどう生きていくのかということを私たちは学ぶ必要があるだろうと思います。  確かに、私たちが占領を受けたということはある意味では不幸だと言ってもいいと思います。しかし、戦後を考えてみるときに、他民族の考え方を知るということなしに戦後は生きられなかった、この五十年間を考えると。それはもうはっきりしていることですから、ある意味では、占領というのはその最大の一つのきっかけだったわけですね。ついこの間まで米英鬼畜と言っていた人たちと、それこそ道路でも会わなければいけない。警察官も両方がやっていたわけですから、やらなければいけない。カムカム英語なんといって、英会話の本が物すごく売れるという時代でございます。  そして、その後、こう言ってよろしいと思うんですが、日本は、アメリカなしには日本の政治はあり得ないということですね。反対する人も賛成する人もいろいろいらっしゃると思いますが、アメリカなしにはあり得なくなってしまったわけです。その出発点は占領にあったわけですね。いいか悪いかはともかくとして、冷厳なる事実であります。  そういう意味で、占領下でアメリカとどういうつき合いとか、どういう関係性をつくってきたのかという検証をすることは、同時に、戦後の検証をすることにもなるのではないかというふうに思います。  そして、それが定着してきた、進歩してきたということをどう見るかということです。  時間も限られていますが、僕は、あえて私だけの体験で言うとすれば、残念ながらと申し上げてもいいのかもしれませんが、戦後というものは日本国憲法を学ぶ過程であったという日本人が大変多いのではないかと思うんです。自治体とかいろいろなところに呼ばれますけれども、私と同じくらいの世代、あるいはその上の世代は、憲法に人権を発見してきたわけであります。そういう人はかなり多いです。そのことは、ある意味では残念なことだと思います。  言うまでもなく、人権というものは、みずからの生き方に合わせてつくっていくものである、それを自分たちみずからがつくる、あるいは代議員にそれをつくってくれと要求していくものだと私は思います、基本的に。だけれども、残念ながら私たちは、日本国憲法という、何か上の方にあるありがたいものからいただいてきた、学んできたと思います。  こういう言い方をすることは、おまえは日本人としてけしからぬとおっしゃられる方もいらっしゃろうかと思いますが、しかし、私たちはそこから戦後を出発したと判断していいと私は思います。そういう中で人権意識というものを獲得したり、あるいは人権の尊重される社会を目指してきた、それが私たちの戦後の五十年であった、そこに日本国憲法があったと言い得るのではないかと思っております。  以上でございます。 ○倉田委員 なかなかお答えいただくのは大変だなと思いながら、残された時間の中で少しお聞きをいたしますけれども、先生の「憲法制定過程へのこだわり」という論文の中で読ませていただいたのですが、「日本の政治文化、法文化の底に流れる天皇制の強さと深さ」ということを言っておられます。これはどういうことを言っておられるのかということが一つ。  それからもう一つ、これは新聞の記事だったと思うんですが、憲法の戦争放棄条項というのは天皇の戦争責任免罪と沖縄の要塞化がねらいとの御主張があります。この先生の御主張は、制定過程検証の結論なのか、あるいは憲法が戦後制定をされて半世紀たった、その戦後体制そのものの検証による結論なのか。  時間がないものですから、あわせてもう一点。  戦後における現行憲法の役割等々のことについては今先生のお話の中で少しお触れいただいたと思いますので、そのことをまた勉強させていただきながら、最後に、これも今先生がどうお考えになっているかわかりませんけれども、前の話の中で、「現憲法に改正すべき点があっても、いま改正する必然性はどこにもない」というふうな御主張もあったように思います。これは、ある意味では論憲という立場に通じるのかなと思いますけれども、しかし、その論憲した後はどうなるの、こういう問題にもつながっていくと思いますので、残された時間の中で三つ、大変申しわけありませんが簡潔にお答えいただければと思います。 ○古関参考人 大変大きな御質問で、三十七分までということでございますが……。  私は、戦争放棄条項というものは、やはり当時、マッカーサー三原則にも入っているものであり、マッカーサーの考えたものだというふうに、私はその立場をとっております。しかし、それは単なる理想ということではなく、マッカーサーの極めて現実的な政治判断というものが含まれているというふうに最近思っております。  実は、先ほど来先生方がおっしゃられる私の本は、一九八九年、平成元年に書いた本でございます。もう十年も前で、その段階では、実はそう考えておりませんでした、正確に申しますと。その後、いろいろな資料を読む中で、だんだんいろいろなことがわかってきて、先ほど御紹介いただいたような結論に今のところなっております。また変わるのかもしれませんが。そう考える以外にないのではないかというのが私の現時点での結論でございます。  それで、そういうふうにいろいろ調べてみますと、私は、ある意味では戦後教育を受けてきた人間ですから、象徴天皇制という選択が日本国憲法の背骨を流れる、それほど重いものだと思っていなかったのですが、日本国憲法ができてくる過程では、その背骨を流れる極めて重い位置を持ったものだということを改めて知ったという感じでおります。その政策決定に当たって、マッカーサーから見れば、あるいは日本政府にとっても、当時の幣原内閣にとっても、物すごく重い意味を持っていたということを私は改めて思い知らされたという感じがいたします。  それから、先生が引用されたもの、ちょっと正確に記憶がなくて申しわけないのですが、決して無責任なことを書いているわけではございませんが、文春でしたか、今改正する必要がない、たしか私はそういうふうなことを言っておると思います。  ただ、きょうは、改正する必要があるのかないのかの前に、きょうのテーマが憲法制定の経緯であるというふうに伺っておりましたので、私はできるだけ、先生方が御議論になるに際して資料といいますか、肥やしになるようなことをお話しすればいいのだというふうに思ってここに参っておりますので、この辺で御勘弁いただけたらと思いますが、よろしゅうございましょうか。 ○倉田委員 最後の点は、「日本の論点」というところに見出しとしてついていたものですから、あるいは先生のそのままの御意見ではなかったのかも……(古関参考人「いえ、私の意見です」と呼ぶ)そうですか。そういうことでお聞きをしたわけであります。ありがとうございました。 ○中山会長 中村鋭一君。 ○中村(鋭)委員 きょうは参考人の古関先生、御苦労さまでございます。  早速質問させていただきますけれども、私は、昭和二十年の八月十五日には十五歳でございました。滋賀県の中学校の旧制の四年生でございましたが、進駐軍がやってまいりまして、カービン銃を持った兵隊さんが交差点に立ちまして、大津の航空隊の後に進駐軍が入りまして、大津キャンプですね。それで、どこへ行きましてもオフリミットという看板が立っておりまして、ルーテナントゼネラル・アイケルバーガー、オフリミットばかり目につきました。  そういう状況の中で、アメリカが来て、とうとうたるアメリカニズムの流れですね。 ジープの後ろを追っかけまして、ギブ・ミー・チョコレート、ギブ・ミー・シガレットと言って、キャメルだとかハーシーのチョコレートを投げてもらって、コーラを飲んでいるアメリカ兵を見て、スマートで格好いいなと思いました。  一方では、つい数カ月前までは我々は、鬼畜米英、まさに先生おっしゃったとおりですね。出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし、こういう歌を歌っておりました。そのマッカーサーが最高司令官としてやってきたのですね。  そういう状況の中で、英文の草稿が渡され、そうしてこれを翻訳しなさいよ、こう言われたら、先ほど中川委員がおっしゃったように、これはどう見たって押しつけをはるかに超えた、占領政策の一環としてのバイ・オーダー・オブ・ゼネラル・マッカーサーだ、こう我々日本人が思ったとしても、これは無理からぬところですね。  結果を言っているんじゃないのです。結果、でき上がった憲法がよかったか悪かったか、それは時代が検証をいたします。まさにそのために憲法調査会があるわけでございますけれども、成立の過程を見れば、これはまさに進駐軍の命令により、我々に無理やり与えられた憲法の草稿であったと言わざるを得ないと思うんですが、先生、その点いかがでございますか。 ○古関参考人 先ほども幾つか申し上げておりますが、先生が御経験になられたような雰囲気の中で、この案でいけと言われれば、それはバイ・オーダー・オブ・ゼネラル・マッカーサーである、わかりますけれども、しかし私が、私は先生より大分若いということもありますが、それはともかくとして、日本政府、具体的に言えば外務省文書ですが、外務省文書あるいはGHQ側の記録等々を読んでも、決してこれはマッカーサーの命令だぞとは言っていないわけです。そこはかなりGHQもやはり気にしていて、日本側の文書からもそこはあるんですけれども、決してこれを押しつけるものではない、フォーストするものではないということは断っているわけです。  断っているからこそ、その後、法制局の例えば入江さんとか佐藤さんを中心にした日本案は、GHQ案と異なっていたわけですね。異なっていたからこそ、その後三十時間にも及ぶ議論をしなければならなかったわけで、命令ではいはいはいとやれば、そんな長い時間議論をする必要はなかったと私は思うのです。 ○中村(鋭)委員 先生、私は事実、命令であったかとかいうことを言っているのじゃないのです。当時生きていた我々からすれば、そのような印象を持っても仕方がなかったということを言っているわけですね。  現実に、それが占領政策の一環としてというようなことは、これはそのような記録がはっきり残っているわけでもありませんからあれですが、当時の時代背景の中で、我々敗戦をした日本人からすれば、あの憲法そのものは、アメリカの非常に強制力を持った力によって、いわばまさに先生がおっしゃったとおり、フォーストですよ、強いられた憲法であったという理解を当時の我々がして、今五十有余年を経て、さらにその印象が深まりつつあるということは無理からぬということを先生に御理解をお願い申し上げたい、こう思うのです。  先生は、終戦のときは二歳ですよね。まことに失礼ではありますが、先生が今一人の学徒として、スチューデントとして憲法を研究していらっしゃる、これすべて、一言一句余さず、先生はまさに机の上であらゆる文献を渉猟して勉強になったわけですね。当時の時代背景がどういうものであったか、我々が八月十五日にどういう感懐を持ったか。大きな町は全部空襲に遭って、そこから我々立ち上がってきたのです。そういうことは、まことに失礼ながら、先生は一切御存じない。先生が成人されたときは、もはや戦後ではないという、まさに日本が民主国家として、経済大国として世界じゅうにその名を知られてきた、そういう中でお育ちになり、その中で先生は御研究になったわけでございます。  ですから、私は再度申し上げますが、現実にその中にあって新憲法を手にして、今日五十有余年を経た私が抱いておる感懐と、先生が御勉強なさった憲法というものには、やはり気持ちの上で相当な乖離があるということは御理解をお願い申し上げたい、こう思うのであります。  先生、ここにこういう言葉があるのです。「人間の作品で、完全なものは存在しない。時代の流れのなかで、成典化憲法の不完全さがあらわになるのは、避けられない。さらに、時代の経過は、憲法が適合しなければならない社会に変化をもたらすであろう。それゆえ、憲法を改正するという現実的な方法を定めておくことは、絶対に必要なのである」、これはアメリカ独立宣言の起草者であります第三代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソンの言葉でありますが、先生この言葉を、今私申し上げましたが、お聞きになりまして、どういう印象をお持ちになりますか。 ○古関参考人 御指摘いただきましたように、確かに私は、一人の人間として戦争体験を持っておりません。また、日本国憲法がつくられたときのことなどは、全くと言っていいほどわかりません。であるからこそ、私は制定過程を学んできたとも言えます。知らないからこそ知りたいと思うところに学問がつくられ、文化がつくられるわけであり、そのことを通じて、第三者に対して伝達が可能になり得ると思います。  自分の体験と感情を絶対化し、あなたは若いからとか言われてしまいますと、私はお答えのしようがないわけでございます。  さらには……(中村(鋭)委員「今のジェファーソンの言葉」と呼ぶ)ちょっとお待ちください。そればかりでなく、今のようにおっしゃられると僕は物すごくつらいのは、さっきも申し上げたことですけれども、文化を異にしたり歴史を異にしている人たちと、この社会はともにどう生きていくのかということを考えなければいけないわけでして、今のようにおっしゃられて、みずからの印象とか感情とかですべてを決してしまうとすれば、もう対話が、何かお答えのしようがないといいますか、なぜ僕はここにいるのだろうという気持ちになります。  これ以上はちょっとやめます。 ○中村(鋭)委員 先生、もう余りそれは気にしないでください。これは私の体験に基づいて申し上げたので、別にあなたの言っていることは体験の裏打ちがないからだめだと言っているわけではないのです。私には私のそういう体験に裏打ちされた経験、体験というものがありますよ、先生はその体験はございませんね、しかし先生は十二分に御勉強をなさっているのですから、そのことは私はとやかく言うつもりは一切ございません。ただ、私がそのような印象を持ったという点について、御理解をお願い申し上げているのです。あなたを責めているわけでも何でもございませんので、その点はひとつよろしくお願いを申し上げておきたい。  先生、ジェファーソンの言葉についてはお答えがございませんでしたので、ちょっと申し上げますけれども、今倉田さんもお尋ねになりました。私も、ここにあるのですよ。今改正の必要はないということを、これは雑誌ですか新聞ですか、おっしゃっておいでなのですけれども、しかし、中を読んでみると、やはり改正すべき点は幾つもあるということを先生自身がおっしゃっているわけでございますね。であれば、今改正する必要はどこにもないということをわざわざタイトルにうたわれることもなかった、こう思うのです。その言葉、表現そのものに絶対矛盾があるように私は思うのでございますが、先生、それはいかがでしょうか。 ○古関参考人 先ほども申し上げましたように、私は本日、出席依頼のテーマとして、日本国憲法制定の経緯について陳述しなさいという、してほしいというのですか、しなさいというのですか、そういうことで参っておりますので、そのことを中心にお話をし、先生方の御議論に何らかのお役に立てればうれしいと思って参りましたので、何か急に結論で、改正するのがいいのか悪いのかというふうに迫られると、僕自身は、確かにこういう仕事をしておりますので、いろいろなところに自分の意見を書いたりしていますけれども、本日は、私は自分の意見を申し述べるという立場で来ていないというふうに理解をいたしております。  それは、この出席依頼との関連でいえば、そういう場ではないと思ったから参っておるわけであります。私は、とても政治家の皆さんのように立派なことを言える人間ではなく、何月何日にだれはどうしていて、どういう文書が残っております、ここから考えればこうですということをここで申し上げているにすぎないわけであって、あえて申し上げれば、私が役に立ちたいことは、私の意見を聞いていただきたいというふうに申し上げておるつもりでは全くなくて、事実を検証するとこういうふうになります、こういう組み立て方が可能でございますと言うために私はここに呼ばれているというふうに考えております。  以上です。 ○中村(鋭)委員 もう一つお尋ねしたいことがあったのですが、先生がそのようにおっしゃいましたので、もうやめます。  やめますが、この資料は、私どものところへ届いた資料に基づいて私はお尋ねしているのですよ。ここに、「現憲法に改正すべき点があっても、いま改正する必然性はどこにもない」、こういう見出しがあります。私がいただいた資料です。ですから、テーマはなるほど、憲法が押しつけか否かということについて先生は陳述をなさる、そういうことでありましょうけれども、別にこれはテーマを限定して、我々が先生にこれだけは聞いてもよろしい、これは聞いてはいけないというふうに言われているわけではございませんので、お尋ねをしたわけでございます。  本来ならば、いただいた資料の中に先生が、「主権者「国民」とは誰だろうか」ということで、国民、人民そして市民という言葉がありますけれども、先生のいわゆる国家観、国民観、これについても言及している。この辺でちょっとじっくりとお話をお伺いしたい、こう思ったのでございますけれども、先生、これもちょっとあれですか、お尋ねするには先生御自身は適当でないとお思いになりますか。お尋ねしてもよろしゅうございますか。 ○古関参考人 先ほどちょっとお話ししたことですが、国民という日本語を日本国憲法で選んだ、もう少し言い方をかえれば、明治憲法では臣民という言葉を選んでいるわけですけれども、なぜ日本国民であるのか。  特に、GHQ側のつくった案の英語も、国民という場合はピープルを使っています。 日本国民という場合はジャパニーズピープルを使っております。日本国憲法の英訳版というのがありまして、それは、どうも法務省の仮訳であって、正式の英訳はないと言われておるようです、むしろこれは私が先生方に伺いたいところでもあるんですが。しかし、例えば「各国の憲法」なんという世界の憲法をだっと並べたものがありますけれども、コンスティテューションズ・オブ・ネーションズというのがありますが、その資料集なんかではこの法務省の仮訳が使われていて、それは全部、日本国民という場合にはジャパニーズピープルという言葉になっています。  それで、ピープルと国民がどんな意味を持つのか、それがGHQとの間でどういう議論をされてきたのか等々のことは調べましたので、お話しすることができるんですが、ちょっと時間がかなりになってしまうので、ここでは、日本国憲法の制定過程との関係で非常に関連のある言葉であるということだけを申し上げさせていただきます。 ○中村(鋭)委員 先生、どうもありがとうございました。  時間がありませんので、これは先生自身がお書きになった言葉でありますが、「「国民」とは、天皇と私たちの関係をあいまいにし、外国人を国籍によって排除する言葉として登場した、ということができよう。」と先生は書いていらっしゃいますね。 「言葉は思想の表現である。」これは結びの言葉になっておりますが、私は、まさに言葉は思想の表現でありますから、だからこそ、このように「「国民」とは、天皇と私たちの関係をあいまいにし、外国人を国籍によって排除する言葉として登場した」ということにつきましては、まさに言葉が思想の表現であるならば、私はこの表現は間違いであるというオブジェクションを申し上げ、なおかつ、もう一遍、先生、トーマス・ジェファーソンの言葉をできればかみしめていただければ大変幸いでございます。  失礼の段はお許しを願いまして、これで先生に対する質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。 ○中山会長 佐々木陸海君。 ○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。きょうは、貴重な時間をどうもありがとうございます。  今憲法問題が議論をされる中で、自由党の小沢一郎党首が文芸春秋の九九年九月号に「日本国憲法改正試案」というものを発表されております。それによりますと、「昭和二十一年、日本は軍事的占領下にあった。日本人は自由に意思表示できる環境になかった。正常ではない状況で定められた憲法は、国際法において無効である。」こういうことを前提として主張されておられます。  押しつけられた憲法というのを極論まで持っていけば、現憲法無効論、こういう議論になるのだろうと思います。私はこんな議論は全くの論外だというふうに考えておりますが、参考人は、憲法学界から見てこういう議論がどう扱われているのか、どう思われているのか、その点をお聞かせ願いたいと思います。 ○古関参考人 私は、物を書くときに、中には憲法学者というふうに書かれてしまうこともあるのですが、そしてまた大学でも学生に憲法の講義をしておるんですけれども、憲法解釈学というのはほとんどやっていない、自分の研究としてはしていない人間で、気がついたときには肩書を、専攻を憲法史にしてくださいというお願いをしております。  ただ、これはまじめに申し上げているんですが、憲法史という授業が法学部にあるところはほとんどなく、したがいまして、それだけですと私はお給料がいただけないわけで、これは私にとって重大事でございます。ですから、憲法の授業も担当いたしておりますけれども、私がしている本当の仕事は、日本国憲法の制定過程であるとか、あるいは日米安保条約の成立過程であるとか、あるいは現在やっているのは、憲法に伴う司法制度、いわゆる裁判所、司法制度の成立過程であるとかということをやっております。  まずそういう存在でありまして、憲法学界でどうかというふうに言われても、実は憲法史の学会というのはないのじゃないかと思うんですが、こんなに時間を使うと申しわけない、簡単に申し上げます。簡単に申し上げまして、私は、全くひとりで、それこそ自虐的、自嘲的にははぐれがらすなどとも言っておるんですが、ひとりでもそもそと資料を読んでいるような人間でございまして、今の憲法学界がどうかとかということは、やはりきちっと研究者としては知っておかなければならないのでしょうが、そんな、学界で中心的な人間ではなく、端っこの方にいる人間ですので、とてもお答えできる立場にないということで、申しわけないのですが、そういう人間でございます。 ○佐々木(陸)委員 その点は大変失礼いたしました。  それでは、参考人御自身は、日本国憲法無効論に対してどういうお考えをとっているか。先ほどのお話で大体わかるんですけれども、一言。 ○古関参考人 文芸春秋の九月号ですね、小沢一郎さん、私も拝見いたしました。  それを読んで非常にびっくりすることというのは、国際法上違法であるという最大の根拠が、たしか、不正確だったら訂正をしていただいてよろしいのですが、一九〇七年のハーグ陸戦法規では、占領者が統治形態のようなものを根本的に変えることをしちゃいかぬと書いてあるではないか、それをやったんだから国際法違反だということでございます。  最初、一時間お時間をいただきましたときに申し上げましたように、マッカーサーはそのことを重々知っていたからこそ、あるいはアメリカ政府がそのことを重々知っていたからこそ、間接統治形態により、明治憲法を無効とせず、明治憲法の手続を経てやってきたわけですね。  なぜならば、もう一度申し上げますように、ハーグ陸戦法規の主語は、占領者がやってはいかぬということですから、逆に言えば被占領者がやることについては関知しないというわけですから、それを、明治憲法を使ってやるということをしてきたわけです。それは、逆に言えば改革のヘゲモニーを当時の政権にいない人には渡さないという側面もあったわけですけれども、そういう側面もありますが、だからこそ、ああいう形の憲法ができ上がったわけで、国際法に違法なことをやるのであれば、アメリカ政府もGHQもあんな苦労をしなかったというふうに思います。 ○佐々木(陸)委員 小沢氏の改憲試案は、私に言わせれば、決着済みの日本国憲法無効論の上に立って国民に改憲論を誘導しようとするものでありまして、そこでは、憲法九条の改正だとか、あるいは天皇の元首化とか、あるいは基本的人権の制限など、いわば私に言わせれば明治憲法的な内容を志向しているということが言えると思うんです。  こういう議論が出てきているだけに、日本国憲法の制定過程を見るときに……(発言する者あり) ○中山会長 静粛に願います。 ○佐々木(陸)委員 どこに憲法制定の中心問題があったかということを、一つは、近代民主主義の世界史的な流れの中で確認することが大変大事だというふうに私は思うわけであります。  明治憲法に基づく政治というのは、国内では人権弾圧、そして海外には侵略戦争、こういうことに日本を駆り立てて、結局、敗戦し、ポツダム宣言の受諾ということを受け入れたわけでありまして、これはもう歴史的な事実であります。戦後は、そこから出発し、ポツダム宣言が、日本の民主化と、軍国主義の一掃というところからスタートをしているわけでありまして、この憲法の制定過程というのも、お話にありましたように、連合軍、あるいは日本から侵略を受けた国々、アジア諸国等々の国際世論、日本の国内の世論、占領者アメリカ、それから国体護持を堅持する日本政府、こういう四者のいろいろな関係の中で展開したというふうに思うのであります。  そこで、新しい憲法に盛られた内容というのは、憲法九条の問題でも、戦争違法化への世界の流れというようなものをしっかりと受けとめる内容のものでありましたし、それから、国民主権、基本的人権、そして生存権の保障、こういった問題も、当時の世界の発展の方向にきちんと沿ったものであったということは、私は、世界の流れを見ていけば間違いのない事実であったんではなかろうかというふうに思うわけで、日本国憲法に盛られたこういう基本的な内容は、何か突然変異が起こったようなものではなくて、真っ当な世界史の発展の胎動の中に生まれてきた内容のものであったというふうに思うわけであります。  その点をやはりしっかり確認しておくことが必要でありまして、この押しつけ憲法論というのは、結局、こういう九条の内容だとか、あるいは基本的人権、生存権というようなものが自分たちの明治憲法的な感覚に合わないというところから押しつけ論が出てきているんではないだろうかというふうに思うわけですが、しかし、ポツダム宣言を受け入れ、そして、ポツダム宣言が連合国の宣言としてああいう方向をうたっていた以上、連合国、連合軍の指示のもとでこういう憲法が制定されたことを何ら非難するいわれはないんではないかというふうに思うわけです。  この世界の民主主義的な世界史の発展の流れの中で憲法に盛られた内容というのを位置づければ、確かに、参考人がおっしゃるようにいろいろなモザイク模様はあったにしても、世界の発展をきちんと受けとめる内容、そういうものが基本だったんではないかというふうに私は思うんですが、その点、参考人はどうお考えになるでしょうか。 ○古関参考人 先ほど来申し上げておりますように、余り大きなことにお答えするのが苦手だけではなくて、僕はそんな資格のある人間ではないんです、呼ばれてきながらお答えができなくて申しわけないんですが。  大枠では私もそういうふうに思いますけれども、私は、一つ一つの事実みたいなものをどういうふうに考えるのかということで、ひとりでもそもそ資料を見ながらやっている人間でございまして、そのとおりですとか、いやとかというふうになかなか申し上げられないもので、お答えにはとてもなっておらないかと思いますが、むしろ、私の方が御意見を伺わせていただくということになろうかと思いますが、だめなんでしょうか。ひとまず座りますが。 ○佐々木(陸)委員 制定過程論の継続というようなことになるかもしれませんけれども、先見、先駆的な内容を持つ憲法が制定され、公布、施行された直後から、改憲への動きがいろいろな形であらわれてきていると思います。  きょう、参考人が最初におっしゃった講和の発効とかあるいはMSA協定とかいったものの、つまり押しつけ論が出てくるのと、まあ一歩先んじるといいますか、それと歩調を合わせながら、憲法九条を中心としながらこれを変えていこうという動きがあらわれてきている。その辺のところは、参考人、アメリカの文書なんかについてもいろいろ研究しておられると思うんですけれども、その九条を変えろというような動きは、私の知る限りでは、アメリカにいわば起源があるような感じを持っているんですけれども、その辺のところをどうお考えになっているでしょうか。 ○古関参考人 先生がアメリカとおっしゃられた部分ですけれども、そこの中身も含めて、それこそ私の知っている事実を、最初、羅列的に申し上げておきたいと思います。  アメリカの軍部、具体的に言えば陸軍省ですけれども、陸軍省がいろいろな対外的な、今は違ってきているようですけれども、細かな政策決定をしていますけれども、軍事戦略ですね、一九四八年の半ばぐらいから日本の再軍備を細かく具体的に案をつくり出します。しかしながら、出先機関と言うとなんですが、でも一応出先なんですね、つまりマッカーサーというのはアメリカの極東陸軍の司令官でもあるわけですけれども、マッカーサーはこれに断固反対なんですね。  それに対して、いや、あれはマッカーサーが自分で戦争放棄条項をつくったから反対しているにすぎないと言う方もいらっしゃいますが、そんな問題ではなくて、マッカーサーは、日本がアジアの中でどうこれから生きていくのかということを考えると、戦争放棄をしておくことが大事である、あるいはまた沖縄の要塞化ができれば大丈夫だというふうに考えていきます。  そういうものを決定的に変えたのはやはり朝鮮戦争だと思いますね、私の資料で見る限り。朝鮮戦争がすべてを変えたという感じがします。それはもちろん日本だけではなく、御存じのとおり、西ドイツの再軍備だって朝鮮戦争に端を発しているわけです。朝鮮戦争の次はベルリンだという意識ですから、彼らから見れば。ですから、そういう意味では、アメリカの政策決定が決定的であったと言い得ると思います。  占領についても私はそうだと思うんです。何か政治家の前で余り、だから事実関係だけで申しますが、政治の話をするのはちょっと気恥ずかしいんですが、でも、占領もそうですね。占領をする側とされる側の協力があって初めて占領というのは成り立ちますね。占領される側がそれに全部反対したら、先ほど来、全く反対だったという方もいらっしゃいますが、仮にそれが本当に抵抗という形になれば、占領は成り立たないと思うんですね。  再軍備も同様でありまして、私の見る限り、アメリカの再軍備に対して日本の政府、あるいは軍部と言ったらいいんですか、軍事担当の方々の記録などを見る限り、非常に熱心であったということも言えるわけで、一方的な関係ではないと思います。私の調べている限り、今調べている最中なんですが、一方的ではないと思います。 ○佐々木(陸)委員 時間になりました。どうもありがとうございました。 ○中山会長 伊藤茂君。 ○伊藤(茂)委員 十二時半から衆議院の本会議がございますから、要約して質問をさせていただきます。  一言だけ申し上げたいんですが、先生、しばしばこういうところにお越しいただいているのかどうか私はよく存じませんけれども、ちょっと緊張したと申しましょうか、委員同士で不規則発言があったり、緊張する委員会だなという印象をお持ちかもしれません。     〔会長退席、鹿野会長代理着席〕  私どもは、やはり非常に大事な、まさに日本の将来をかけた大事な議論の場だというふうには一人一人全部思っているということでございますし、それから、それぞれやはり人生をかけたと申しましょうか、政治家の生涯を込めた思いでの非常に大きな隔たりもございます。真剣な議論をしなきゃならぬというのがいつも、私は私なりの気持ちでございます。  さっき同僚の中村委員、少年時代、戦争とおっしゃいましたが、私は、終戦、敗戦のときに、陸軍予科士官学校の生徒でございました。航空でありまして、特攻隊要員であります、簡単に言うならば。そして、教官が言われたことは、大日本帝国の将来は君たちの双肩にかかっている、爆弾を抱いて飛び込むんだ、爆弾を抱いて操縦桿を握って照準を定めたら、体に何ぼ弾が当たろうと、ぶつかるまでまばたきするななんという教育をされました。戦争が終わりまして、一時頭が全く空白になりました。それから、新憲法を含めまして、今日の平和な時代になりました。本当に立派な平和国家の日本であってほしいというのは本当の思いでございます。  議員同士で随分そういう人生体験、気持ち、隔たりがあるのが現実であります。 国内でもございます。それを本当に本音で議論をし合って、真剣な議論をして日本の将来を考えるというのが私どもの責任であろうというふうに思います。  それからもう一つ、これは参考人にお願いなのですが、先生のお書きになったいろいろな本それから論文など、私どもみんな読ませていただいております。貴重な機会ですから、きょうのテーマ以外は、事務局がつい言ったのでしょうが、答えてはなりませんとかなんとか。そういう気持ちはさらさらございませんし、貴重な機会ですから、憲法の専門の先生ですから、いろいろなお気持ちも率直に伺いたい。ガードを張られる必要は全然ございませんで、率直にどうぞ言っていただいて結構なのですから。主権者のお一人で、尊敬する先生としてお越しをいただいているわけですから、ということでございます。  そういう気持ちで一つだけお願いしたいのは、先ほど、先生がお書きになったほかの論文の中で、憲法は改正する点があるが、急ぐべきではないみたいな論文を私も拝見をいたしました。そこに論文でお書きになっていることをここで述べてはいかぬなんという気持ちはさらさらございませんから、私は同じことは申しません。  別の意味で申しますと、私の考えなのですが、今我が国には、外交問題も財政問題も福祉の問題も税制も、深刻な、大変な問題を抱いています。国民はいらついています。政治家はもっとしっかりしてくれぬか、政府もしっかりしてくれぬかというお気持ちを持っている。それにどうこたえるのかということが我々一人一人の使命だというふうに私も存じます。  そういうことを考えますと、憲法条文についてのさまざまな議論がここに開始をされております。それは国会で決まったことでございますから、真剣に私どももやってまいります。  ただ、大事なことは、やはり憲法の条文論議をやって、下手して五五年体制当時の何かイデオロギー論争みたいな時代には絶対してはならぬ。前向きに未来を開発する議論をしなくちゃならぬ。そういう意味では、やはり日本の骨太のビジョンをどう描くのか、そういう議論を騒然と国民的にやって、その上で、日本の憲法はどうあるべきなのかということをまたそこで詰めていくというのがいい方法じゃないかな、我が委員会の運営もできるだけそうあってほしいなと思っておりますが、そういう一般的なお考え方、もしお答えできましたら、一言。 ○古関参考人 イデオロギーというものをどういうふうに考えるかということは大変難しいことですので、一般に私たちが気軽に日常の中で使っているようなものとして使わせていただくとすれば、私は、憲法などというものは深く政治と結びついた問題があり、そしてある意味では、一定度のイデオロギーを抜きにして論じ得ないものも多々あると思います。  しかしながら、そういう議論をしていきますと、お互いにイデオロギーが違うからということで合意ができにくくなる。私は、自分がこういう仕事をしているからかもしれませんけれども、例えば、日本国憲法がどういうふうにしてつくられたのかという場合には、共通の合意をつくっていくということは何であるかというふうに考えると、事実を一つ一つ丹念に突き合わせる中で、どういった合意を形成できるのかということを模索するということ。それは、逆に言えば、今の段階で日本国憲法の制定過程をもう一度調査するということは、その事実を歴史的教訓として今どう受け継ぐのかということだと思います。  イデオロギーだけでするならば、なかなか共通なものはつくられにくいわけですけれども、歴史的経験としての事実を積み重ねていったときに、私たちは、それでも全部同じとはとてもならないと思いますが、一定度の共通の歴史的教訓というものを引き継ぐことはできると思います。それが民族の経験とか民族としての歴史とかという言葉にもなっていくんだろうと思います。  ですから、私が、あえてと申し上げますが、おまえはあるところで今は憲法を改正するべきでないと言っているけれども、それについてどう思うかということにこういうところでお答えしたくないなというふうに思いましたことは、ここは国民の代表者のいる場であり、国民を代表する方々が、そういう歴史の積み重ねであるとか民族の経験であるとかという点について共通の理解ができて、そして新しいものを生み出していただくためのある意味では参考資料を提供するということに私は徹したいと思ったわけです。自分はこう考えるという結論を幾ら述べ合っても、共通なものはできにくい。  ちょっと偉そうに言えば、先生方お忙しいわけで、これからも何とか会議とかいろいろやっていらっしゃいます。これは当然だと思います。では、私どもは忙しくないかといえば、これでも私は大変忙しくて、今入試の最中なのですけれども、それでも先生方と比べればはるかに、こんな憲法の制定過程なんという小さなテーマを何十年間ももそもそとやっているわけです。ですから、口幅ったい言い方ですが、ひょっとしたら、私だけとかあるいは私と数人の人しか知らないという事実もあり得るのではないか、であったら、そのことを国民の代表者である皆様方に提供して、よりよい有意義な議論をしていただきたいと思って参っているわけでございます。  ですから、私が余り結論的なことを言わないことに先生方は御不満かもしれませんが、あえて私流の参考人解釈を言わせていただければ、私は参考人とはそういうものなのではないかと思っているというふうに御理解をいただきたいと思います。  以上でございます。 ○伊藤(茂)委員 時間ですから、一問だけ質問して、私の質問を終わりたいと思います。  この憲法制定過程、その後の議論の中で、それから改めて現在も非常に大きな焦点になっているのは、いわゆる芦田修正の問題がございます。先生のお書きになりました本を読ませていただきましたが、その中でも、何か一つの焦点のパートとして言われております。  中身は御承知のとおりでございますから、九条二項のこの数文字の問題になるわけでありますが、御案内のように、現憲法制定の議会では、吉田茂首相を初め、国家正当防衛権戦争を認めるのは間違いだという御答弁をなさっておりました。それから若干の日にちがたちまして、芦田さんを含めまして、自己防衛あるいは自衛のための武力は憲法の許すところであるということになっているわけであります。  私のところの出身でございました村山前総理もそのような答弁をなさいました。どう考えたらいいのかなということをいろいろと私も思うわけでございますが、これは憲法論といいますか、憲法はやはり最も基礎になる規定でございますから、政治的な解釈論ではない発想をどう持ったらいいのかなということをいろいろ思うわけでございます。  と同時に、外交は現実ですから、やはり現実からかけ離れた空論をしているわけには私どもはまいりません。政治は現実に責任を持つわけでありますから。  そうなりますと、一番必要なことは、PKOも国際協力もいろいろございますけれども、やはり我が国は、憲法の立場からするならば、まず第一にやるべきことは、ピースメーキングのための、大国間の戦争はもうない時代ですから、さまざまの、朝鮮半島まで含めました地域紛争、そういうものをどう解決していくのかという先見性のあるさまざまの努力をするというピースメーキング、PMOと申しましょうか、そういうことをやるのが憲法から見たあるべき方向じゃないだろうかという感じがいたしておりますが、いかがでございましょうか。 ○古関参考人 大変大きな問題で、時間も迫っている中で一言で申し上げますと、例えば、国会の議事録などを私はとても全部読んでおりませんが、ただ、憲法九条であるとか、憲法が問題になったところは比較的読んできたつもりでおります。  その中で、例えば戦力解釈、戦力とはどういうものなのだという議論は大変たくさんしてきていると思います。私たち研究者も、特に憲法解釈学の方々、あるいは裁判所においても、自衛隊の違憲をめぐる訴訟の中でかなりしてきていると思います。政府の言い方は、自衛隊は戦力にまでいかない、実力であるという言い方をしていますね。  しかし、私は、この戦後の、例えば自衛隊ができて五十年近くになりますか、その中で、警察力の限界とはどこにあるのかという議論をどこまでしてきたんだろうかという疑問を持ちます。  特に、私がはたと思ったのは、あの北朝鮮の工作船問題であります。あのときはまさに、海上保安庁の警察力と海上自衛隊の、自衛力と言ってもいいと思うのですが、軍事力と言っておきますが、それが競ったわけですね。その線の引き方に、どこまでどういう線の引き方をしたときに合理性があるのかないのかという議論は、実は私たちは――私は偉そうなことは言えない。でも、余り国会でもされてこなかったのではないでしょうか。私は少なくとも研究者の中でもしてきておらないと思います。  さらに申しますと、そもそも自衛隊の前身である警察予備隊ができたときに、警察予備隊は軍隊か警察かという議論はありました。小さな軍隊だという議論もありました。  そもそも日本の警察というのは、御存じのとおり、明治憲法のもとでは、大きな集団を抑圧するという必要はなかったわけですね。だって、集団は憲法上禁止されているわけですから、デモなんてないわけです。ほとんど警察の主力は思想警察であります。そういうまず警察に対する観念が私たちにはあります。  さらに、国境警備隊などという警察力も必要ないわけであります。海の中に私たちはおります。陸続きではございません。  しかし、世界は、御存じのとおり、国境警備隊もありますし、沿岸警備隊もありますし、騎馬警察もありますし、さまざまなタイプの警察力があり、軍事力とは違った形での、先生の申されるピースキーピングをしておるわけです。  しかも、現在求められるものは、先進国間の大規模な戦争ではなく、民族紛争であるとかゲリラであるとかとよく言われます。現にそうです。  そのときに、軍事力と警察力の関係はどうであるのか、警察力の有効な使用が日本国憲法の精神とどういう関係になるのかという議論は、私は、政治の場だけではなく、学問の場も含めて、改めて再検討してみるときなのかなと思っております。  お答えになっているかどうかわかりませんが、試行錯誤をしているということだけを申し上げておきます。 ○伊藤(茂)委員 ありがとうございました。 ○鹿野会長代理 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  古関参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)  午後一時三十分から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時二十五分休憩      ――――◇―――――     午後一時三十分開議 ○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行いたします。  午後の参考人として広島大学総合科学部助教授村田晃嗣君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をいただいて、調査の参考にさせていただきたいと思います。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おきを願いたいと存じます。  それでは、村田参考人、お願いいたします。 ○村田参考人 ただいま御紹介にあずかりました広島大学の村田でございます。 本日は、衆議院の憲法調査会にお招きいただきまして、まことにありがとうございます。  私は、若干私事にわたりますけれども、私の専門は、憲法学ではございませんで、アメリカの外交、日米関係史あるいは安全保障という問題でございますので、必ずしも極めて歴史的に実証的なお話ができるかどうかわかりませんけれども、国際関係の文脈に即して、日本国憲法が制定された当時の政治過程について、幾つかの論点を挙げてお話し申し上げたいと思います。  お配りいたしております資料に即しましてお話をさせていただきます。  まず第一点でございますけれども、「占領下の憲法改正」という問題でございます。  これについては、既にいろいろな参考人や御専門の方からお話もあったことかと思いますし、あるいは違った見解があることも十分承知しておりますけれども、よく言われますところでは、一般に、一九〇七年のハーグ陸戦法規というのがございまして、この第四十三条に「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」ということでございまして、つまり、占領下で勝手に占領地の法律を変えるべきではないというのがこの四十三条の趣旨でございます。これにのっとりまして、占領下に、占領地である日本の法律、とりわけ最高法規である憲法の改正を日本政府に強いるということはこの一九〇七年のハーグ陸戦法規第四十三条に違反するのであるという議論がなされることがしばしばあるわけでございます。  ちなみに、比較という観点から申し上げますと、同じように占領を受けましたドイツ、とりわけ旧西ドイツの場合でございますけれども、これはどうかと申しますと、御承知おきのとおり、ドイツ基本法というものが制定をされたわけでございますけれども、ドイツと日本では大きな違いがございます。  と申しますのは、ドイツの場合は、戦争が終わりました段階でナチス・ドイツの中央政府が崩壊をしております。したがいまして、これは、国際法で申しますところのデベラチオという事態だそうでございまして、デベラチオというのはラテン語で征服という意味だそうでございますけれども、占領される側の受け入れ主体である中央政府が存在をしないというような場合には戦勝国が敗戦国を併合する権限を持っておるということでございます。実際、連合国は、ドイツに対しては、ドイツに対する最高権限の掌握宣言というのを出して占領を始めております。  ところが、我が国の場合は、先生方御承知おきのとおり、沖縄を除きましては一切本土決戦が行われておりません。ポツダム宣言を受諾しました段階で我が国には歴然と中央政府が存在をしたわけでございます。この点では、ドイツと日本では状況が違うということになります。  では、日本の場合は、先ほど申し上げましたハーグ陸戦法規の四十三条が適用されて、占領下の憲法の制定あるいは改正というものはこのハーグ陸戦法規に違反するというふうに考えるべきかということになるわけでございますけれども、私は、必ずしもそのような議論は当たらないという考えでございます。  と申しますのは、我が国は、これも御承知のとおり、ポツダム宣言を受諾しております。ポツダム宣言の第十項には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」という項目がございます。我が国は、このポツダム宣言を受諾して占領を受けたわけでございます。  そうしますと、これも一般に法律でよく言われることでございますけれども、個別法は一般法に優越するという原則に照らしますと、ハーグ陸戦法規は占領に関する一般的な規定でございまして、アメリカが、あるいは連合国が日本を占領したという個別の事態については、このポツダム宣言という個別法が優越するというふうに考えるべきではなかろうかというふうに私は思います。  日本政府がポツダム宣言を受諾している以上、連合国が、この場合アメリカですが、日本の民主主義的傾向の復活強化を日本政府に求めるというのは、ポツダム宣言にのっとって、法的根拠のあることであるというふうに解するべきではなかろうかというふうに私は理解をしております。  実際、帝国議会で憲法改正の審議が行われておりましたときに、当時の金森徳次郎国務大臣も、政府といたしましては、憲法に基づいてこの憲法を改正し、しかもポツダム宣言によっておる国際義務をもその中において履行する、それを現実の姿にあらわしたのが今回の手続であるというふうに答弁をしておられるわけであります。したがって、ポツダム宣言による義務を履行するという観点から日本国憲法が占領下に改正されたというふうに理解するべきであろうというふうに思われます。  高名な国際法学者の安藤仁介教授も、ハーグ条約に定める以上の権限を国際取り決めによって占領軍に与えることは一般に禁じられていないことにまず注目しなればならないというふうにその御論考の中で述べていらっしゃいます。すなわち、ハーグの陸戦法規が、占領下で占領地の法律をできるだけ尊重すべきであるというふうに言っているけれども、別の取り決めがあって、それ以上の、プラスアルファのことをするということをこのハーグの陸戦法規が禁止をしているというふうに解釈すべきではないということでございます。  今申し上げましたのが法律的な議論でございますが、私は外交史家といいますか政治学者でございますから、やや政治的観点から若干つけ加えて申し上げますと、占領下での憲法改正であるからそのような手続は無効であるというような議論がもし成り立つとすれば、日本国憲法はその成立のときから違法であるということになるわけでありまして、それは、戦後の日本の発展とか戦後の日本の民主政治というものを、原点に振り返って初めから無効であるという議論になってしまう。そのことは、私は、政治的に見ても決して生産的な議論ではなかろうというふうに思います。そもそも、この国会という場が憲法によってつくられているわけでありまして、その国会での議論で憲法そのものが初めから無効であると言うのであれば、国会における議論もそもそも無効であるという自己矛盾に陥るのではなかろうかというふうに私は思います。  さらに、その憲法の精神ということに関して申しますと、もちろん押しつけ憲法論というものがございまして、私も、憲法がGHQの非常に強い影響のもとに制定をされた、そういう意味では普通の憲法の制定過程とは随分異なっているということは認めるにやぶさかではございませんけれども、しかし、憲法に盛り込まれた精神というものがすべて押しつけであったというふうに考えるのは、私は、いささか、日本の歴史に対して、余りにも悲観的なといいますか、日本の近代史を矮小化する議論ではなかろうかと思います。  と申しますのは、我が国は、大正年間にいわゆる大正デモクラシーというのを経験しております。そして、政党政治が花咲いた時代があるわけでございます。したがって、戦前の日本には戦後の日本国憲法が規定するような民主主義的精神は全くなく、戦後にGHQがやって来て憲法を押しつけられたから戦後の日本が今日のような民主主義社会になったのだというふうに考えるのは、私は、余りにも安直な二分論であるように思います。  戦前においても、与えられなくても日本人が自分たちの手で獲得し発展させていったデモクラシーの経験を我々は持っているということに、我々日本人はもっと誇りを持つべきであろうと思います。不幸にしてその大正デモクラシーは、その後の一九三〇年代の軍部の台頭に押し流されていきますけれども、二〇年代に私どもが民主主義を自分たちの手で持っていたということの意味を私どもはもっと積極的に評価すべきではなかろうかというふうに存じております。  その点につきまして、やや示唆的なエピソードを御紹介いたします。  我が国がまさにポツダム宣言を受諾するという敗北のふちに立ったときに、アメリカの当時の陸軍長官であったヘンリー・スティムソンという人、この人は、満州事変が勃発したときにはアメリカのフーバー政権の国務長官でございましたし、それから、実は日本には非常に因縁が深くて、広島、長崎への原子爆弾の投下を陸軍長官として決定をした人物でございます。このスティムソン陸軍長官のもとに、戦前に駐日大使を務めましたグルーという有名なアメリカの外交官がおりますけれども、当時は国務次官ですが、このグルー国務次官が、戦後の日本の処理に関するアメリカ政府の基本的な考え方についてメモランダムをつくりまして、それをスティムソン陸軍長官に回覧をしているわけです。  グルーは、天皇制温存と、天皇制温存をはっきり打ち出せば日本はむだな抵抗を続けずに降伏を受け入れるというので、日本に対して寛大な態度をとるようにと、そういうメモランダムをつくるわけですけれども、そのメモランダムを見たときにスティムソン陸軍長官が述べた有名な言葉は、日本は幣原、若槻、浜口といった西洋世界の指導的政治家と同等にランクされ得る進歩的指導者を生み出す能力を持っているということをスティムソン陸軍長官が言っているわけでございます。  ここで言われております幣原、若槻、浜口というのは、言うまでもなく、一九二〇年代に、今申し上げました大正デモクラシーの時代に英米協調の国際協調外交を展開した我が国の政治家、幣原喜重郎は戦後も総理大臣を務めますし、若槻礼次郎、浜口雄幸、これも総理大臣を務めた人物でございます。  こうした人たちのリーダーシップのもとで、一九二〇年代に日本が、外に対しては国際協調路線、国内においては大正デモクラシーというものを積極的に進めてきた、そのような側面を無視すべきではないというふうに、当時のアメリカの陸軍長官自身が、戦前の日本の歴史を肯定的に評価している発言をしているわけでございます。  そのように、戦前と戦後を余りにも明確に裁断することは、私は、歴史認識として必ずしも正しくはなかろう、大正デモクラシーを持った経験というものをもっと積極的に評価し、その精神が発展強化されて日本国憲法にも受け継がれているのだというふうに考えるのが成熟した政治観というものではなかろうかというふうに存じます。これがまず第一点でございます。  それから、第二点でございますけれども、お配りした資料では「マッカーサーの戦略観」というふうに書いてございますけれども、これも先生方御承知のとおり、憲法を制定するときに、マッカーサー元帥が最初にマッカーサー・ノートという憲法改正に関する三つの基本原則を手渡すわけです。その第二の原則が戦争の放棄ということでございまして、マッカーサーが最初に出したマッカーサー・ノートでは、戦争の放棄というのは、単に侵略戦争の放棄だけではなくて、自衛戦争までも放棄するという趣旨のことを、マッカーサー元帥はそのノートの中で第二原則として提示をしたわけです。ところが、その後紆余曲折がございまして、侵略戦争はともかく自衛戦争までは否定する必要がないというふうにGHQの立場も変わってくるわけでございます。  GHQのもとで日本占領に当たった占領将校たちの平均年齢が非常に若くて、いわゆるニューディーラーと言われるアメリカの左派の改革主義的な人たちが非常に多かったことはよく知られます。そういうニューディーラーが自衛戦争までも日本に否定させようとしたのならともかく、マッカーサーのような軍人、つまり戦争のプロ中のプロが、たとえ敗戦国とはいえ自衛戦争までも放棄させるような指示を、初期の段階に限ったとはいえ、そのような命令を日本に与えようとしたのはなぜかということがよく言われるわけでございます。  これは、大きな政治状況の中で申しますと、マッカーサーは、恐らく、自衛戦争までも日本は放棄する、つまり、それほど戦後の日本は平和主義に徹するのであるということを国際社会にアピールする、そのことによって、日本の占領をできるだけ速やかに終わらせ、そして天皇制を守ろうという大局的な意図がそこにあったことは間違いがございません。  同時に、余り知られておらないことで、最近歴史家が研究していることを若干申し上げますと、そこにはマッカーサーの当時の戦略観というものが反映をされていたということが最近の研究で言われているわけでございます。それはどういうことかと申しますと、マッカーサーは、その当時、核兵器に非常に依存する戦略計画というものを考えていたということなのでございます。  私のお配りした資料の冒頭に、「将軍たちは過去の戦争を戦い、外交官たちは過去の講和を論じる」ということを書いてございますけれども、これはよく歴史の教訓に関して言われることでございまして、歴史の教訓を学ぶというのは簡単なようで実は大変難しい作業でございます。  しばしば人間は、安直に、直前に経験した非常に大きな出来事を短絡的に歴史の教訓というふうに考えがちである、したがって、軍人たちは、前に戦った大戦争、それと同じような大戦争がこの次にもあるだろうと想定しがちである、外交官たちは、前に話し合った講和会議、それと同種類の講和会議というものがこの次も開かれるであろうというふうに考えがちであるということでございまして、実際、第二次世界大戦が終わったときのアメリカの軍部も、過去の戦争を戦う、つまり、第二次世界大戦型の米ソ全面戦争というものが恐らく第三次世界大戦として戦われるであろうというのがアメリカ軍部の基本的想定であったわけでございます。  そういう意味では、一九五〇年に朝鮮戦争が勃発をいたしましたときに、それはアメリカ軍部の意図するところでは全くなかった。あのように局地的な限定戦争が戦われるということは、当時のアメリカ軍部の想定を超えているところであったわけでございます。したがって、ワシントンのアメリカ軍部も、そしてマッカーサーも、来るべき次の戦争は米ソ間の世界全面戦争であろうというふうに想定をしていたわけです。  そのときに、では、ソ連を相手に戦争いたしますときにどのような作戦を立てるべきかというので、アメリカ・ワシントンの統合参謀本部は、ピンチャー・シリーズという作戦計画をずっと改定を重ねながらつくっておりました。その前提となる調査では、ソ連に決定的な結末を与える、そのためには百九十六発の原子爆弾が必要であるというふうに当時アメリカ軍部は想定していたというふうに最近の研究は指摘しているわけでございます。  百九十六発の原子爆弾というのは、これは大変な数でございまして、実は、アメリカが当時どれぐらいの原子爆弾を持っていたかと申しますと、一九四五年の末で、アメリカは原子爆弾を二発しか持っておりません。実際、広島、長崎に落としまして、長崎に落としたのが当時のアメリカの核兵器のストックの最後でございまして、長崎以降は、もし戦争が続いていてもアメリカは当面核兵器は持っていなかったのでございますけれども、四五年末にはさらに二発つくった。それから、四六年の七月段階で九発、四七年七月で十三発、そして四八年の七月に至ってもまだ五十発しかアメリカは核兵器を持っておらないわけでございます。そうしますと、ソ連に決定的な結末を与える百九十六発というのには、これははるかに足らない数字になるわけです。  そうしますと、そもそも核兵器が足りませんので、ワシントンの統合参謀本部は核兵器に依存しない形で米ソの全面戦争を戦う戦略を考える必要がある、つまり、通常戦力の強化であるということになるわけです。  当然アメリカ自身が通常戦力の強化をしなければなりませんけれども、アメリカの同盟国にも通常戦力の強化を求める。さらには、アメリカの占領下にある旧の敵国であるドイツや日本にも将来的には再軍備を求めるという発想が、当然ここから出てくるわけでございます。したがって、ワシントンのアメリカ軍部は、日本に再軍備をさせたい。それは、核兵器が足らず、通常戦力を増強しなければ米ソ全面戦争に対応できないという認識があったからなのでございます。  それに対しまして、マッカーサーのもとのアメリカ極東軍は、全く別にベーカー・シリーズという作戦計画を立てていたそうでございます。冒頭に申し上げましたように、マッカーサーは、ワシントンとは違いまして、核兵器の威力を非常に高く評価いたしまして、核兵器に依存する戦略を立てようとしていた。  このベーカー・シリーズの想定に基づきますと、米ソ全面戦争が起こりましたときに、極東のソ連軍はおよそ三十日の間に四十個師団を動員できるという想定に立っているわけでございます。四十個師団の極東ソ連軍は、あっという間に朝鮮半島を席巻し、北中国を席巻し、さらには北海道や九州にも侵攻してくる可能性があるというふうな見通しを持っていたわけでございます。  それに対して日本を守らなければならないわけでありますが、マッカーサーの参謀たちが考えた計画では、アメリカが極東において四発の原子爆弾を用いる。百九十六発でなくてもよいのであって、四発でよい。その四発の核兵器によって、ウラジオストク、釜山、旅順、大連というこの四つの町を先制攻撃でたたく。そうしますと、この四つの町は当然核汚染されてしまいますから、極東ソ連軍は、当面の間、そのウラジオ、釜山、旅順、大連を越えて先に進めないということになるわけでございます。マッカーサーの参謀たちの考えた計画では、この間にソ連軍をアジア大陸の内部に約九十日間足どめを食わすことができるという想定なのでございます。  実は、このマッカーサーの計画では、米ソ戦争が始まりましたら、朝鮮半島は直ちに放棄して、南朝鮮に駐留している米軍は日本に帰ってくる。そして、今申し上げた四カ所に核兵器を落として、ソ連軍をアジア大陸に九十日間足どめする。そうしますと、単純な計算でございますけれども、ソ連軍が動員をかけるのにそもそも最初に三十日かかり、核兵器によって九十日間足どめを食わすことができるということになりますと、合計で百二十日間ソ連軍は動きがとれないわけでございます。その間にアメリカの本土からアメリカ精鋭の二個師団が日本防衛のために来援するというのが、マッカーサーの基本的な戦略計画であった。  このように考えますと、有事の際にも、ソ連軍を四カ月も足どめを食わすことができて、その間に本土から米精鋭二個師団がやってくるというマッカーサーのような想定に立てば、日本再軍備ということは当面全く必要のないことであったわけです。つまり、米軍の来援によって日本は守れるという想定でございます。したがって、マッカーサーがワシントンの米軍部と違って日本再軍備に対して決して熱心ではなかったというのは、このような彼自身の戦略的な計算に基づいていたということになります。  そのような考えに立てば、アメリカの日本占領が続いている限りにおいて、日本が憲法で自衛戦争まで放棄していたとしても軍事的にさして危険ではないというふうにマッカーサーが考えたとしても、これは驚くに当たらないわけでございます。  このことは、私は単なる歴史のエピソードにはとどまらないと思います。  マッカーサーが憲法が制定された前後にそのような戦略観を持っていたということは、その後の日本の安全保障の考え方に、私は少なくとも二つの意味を持っておると思います。  一つは、戦後日本の平和主義というものが、まことに皮肉ではあるけれども、その出発点からアメリカの核戦力というものを前提にしなければ成り立たないものであったということを、まず第一点申し上げたいと思います。  それから第二点に、このマッカーサーの構想では、米ソ全面戦争が起こりますと、南朝鮮から米軍はすぐに日本に撤退してくるということになりますから、したがって、日本の防衛というものを、朝鮮半島の安全保障であるとか、北東アジアの、日本近隣諸国の安全保障と関連づけて日本の安全保障というものを考えるという習慣を日本人から奪う、そういう影響も持っていたのではなかろうかというふうに思うわけでございます。  いずれにしましても、マッカーサーが核兵器の力というものを非常に高く見て、そのような戦略計画を持っていたということでございます。  実は、当時、憲法改正の枢密院の会議で、これは朝日新聞に報道がございますけれども、三笠宮様も同じような認識を示しておられたようでありまして、新聞からの引用を読み上げますと、「戦争形態の大変化である。世界のどこからでも原子爆弾を持った飛行機が無着陸で任意の目的地に攻撃を加える時代となった。ゆえに海岸に要塞があれば安心とか、満州や南洋を占領していれば本土は安全とかいう時代ではない。 従って新憲法前文にあるごとく「我等の安全と生存をあげて平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ね」ねばならないのである。」というふうに枢密院の発言で三笠宮様は述べておられるわけでございます。  これは、ある意味でマッカーサーの考え方と非常に近いのであって、核兵器の出現というものが世界の戦略観というものを根本的に変えてしまったのであるから、したがって、日本はもう自衛戦争というようなことを言ったって意味がないというのが三笠宮殿下のここでの御発言の趣旨だと思います。  マッカーサーは、核兵器の出現というのは非常に大きいから、日本に再軍備を促さなくてもアメリカの核によって日本を守れるというふうに考えた。やはり、この当時の人たちが、新しく出現した核兵器というものを、非常に大きな決定的な意味があるものというふうに見ていたということであろうというふうに思います。  次に、第三点でございまして、「「侵略戦争」の定義」ということについて若干お話を申し上げたいと思います。  これも先生方御承知おきのとおり、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で、東条英機以下の戦犯が平和に対する罪というので裁かれたということはよく知られているところでございます。  この平和に対する罪というのは何かと申しますと、「宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」というのが極東国際軍事裁判で示された平和に対する罪ということでございます。  ここでも侵略戦争という言葉が出てまいります。しかしながら、この東京裁判では最後まで、では侵略戦争は何かということについては明確な定義は示されなかったわけでございます。実は、その後の歴史の中でも、国際法は侵略戦争に対する明確な定義を示してはいないのでございます。  このことは、憲法九条を考える場合に非常に大事なことであろうと思います。と申しますのは、後でももう一度申し上げますように、憲法九条の解釈について、九条第二項、いわゆる「前項の目的を達するため、」という芦田修正が入った結果、憲法九条は、侵略戦争は否定はしているけれども、自衛のための戦争まで否定するものではないという見解が広く持たれているわけでございます。私も、基本的にこれが正しいというふうに考えております。  侵略戦争と自衛戦争を分けて考えるときに、私どもが国際社会で明確な侵略戦争の定義を持っていないということの意味は非常に大きいのでございます。すなわち、侵略戦争の定義がない以上、侵略戦争と自衛戦争を分けて、憲法九条は前者は否定しているけれども後者は認めているということのロジックを立てることは、非常に困難になってくるわけでございます。  ここが非常に議論の分かれるところでありましょうけれども、日本の戦前の歴史に対する評価というものと関係をしてまいります。少なくとも満州事変に始まって一九四五年のポツダム宣言受諾で終わる太平洋戦争の終わりまで、昔は歴史家はよくこれを十五年戦争というふうに言っておりましたけれども、最近はアジア太平洋戦争というふうに呼ぶことの方が多いようでございますので、私もここでは便宜上アジア太平洋戦争というふうに言わせていただきますけれども、このアジア太平洋戦争が侵略戦争であったか否かという問題が、実は非常に大きな問題であろうかと思います。  もちろん、長期にわたってさまざまな局面を持った戦争でございますから、この戦争全体を侵略戦争であるとか、この戦争全体が侵略戦争でないとかいうふうに論ずることは、私は余り生産的ではないと思いますけれども、しかし、個別の局面において、あの戦争で日本がやったことに侵略性があったということは、私はこれは認めざるを得ないというふうに思います。  もし、あのアジア太平洋戦争が、全面的に、全く侵略戦争でないという歴史認識に我々が立つならば、憲法九条が侵略戦争と自衛戦争を分けているという議論は、あのアジア太平洋戦争でも解釈によっては自衛戦争と解釈できるのだということになれば、我々が新たに憲法九条をもって侵略戦争と自衛戦争を分けたことの意味合いがほとんどなくなってしまうということになろうかと思います。  したがって、私どもが、戦前の、アジア太平洋戦争の少なくともある局面について侵略性があったということを認めるという前提に立たなければ、実は戦後の自衛隊のレジティマシーというか正統性を私ども自身が掘り崩してしまうことになるのではなかろうかというのが、私の申し上げたいことでございます。  このことは、実は法的にも意味のあることでございまして、我が国が占領を終えて独立を回復いたしましたサンフランシスコの対日平和条約、一九五一年九月の八日に締結されたものですが、この対日平和条約の第十一条に「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、」という一文が挿入をされているわけでございます。すなわち、我が国は、独立を回復するときのサンフランシスコの講和条約において、東京裁判の歴史観を政府として公的に国際条約上受け入れているということを、私どもはまず認識する必要があろうかというふうに思います。  そのことについて、実は文芸評論家の山崎正和先生は「歴史の真実と政治の正義」という非常に示唆に富む御論考を最近お書きになっておりまして、若干それを引用させていただきたいと思いますけれども、山崎さんはこういうふうに言っておられます。  「法は現在に生きる人間のためにあるものであり、そのために法的な真実は時間というものに強く制約されている。時間のかかりすぎる裁判は学問的に誠実ではあっても、法的な正義の実現にとっては無意味であることが多い。だとすれば、同じく現在に生きる人間に奉仕し、時間に制約される政治はこの法の精神にこそなじみやすい。学問的真実と法的真実の二つの真実があるとすれば、政治的正義は後者の実現をこそめざすべきなのである。」  つまり、やたらめったらに時間がかかる裁判というのは、時間をかけて検証すればするほど、真理に近づくかもしれませんけれども、その間に、例えば被害者の人権を救済することはできない。それでは法の正義に当たらない。政治というものも、そのような現実的、時間的な制約のもとである種の妥協的正義を図るというのが政治の知恵なのであるということが山崎さんの言いたいことであります。それに対して、歴史研究とか学問の真実というものは学者が幾ら時間をかけてもいいのであって、そういうものと政治や法律の正義というものを混同してはならないということであります。  それを受けて山崎さんはこのように言っておられます。  「この納得を具体的にいえば、「東京裁判」の描いた戦争の姿はまさに法的真実であって、戦後の日本はそれを政治的正義の立場から受けいれたのであった。世界の平和とより大きな秩序のために、より小さな真実の細部は不問に付することを認めたのである。たしかにあの裁判は法理的に不備のある裁判だったし、その進め方にも問題は多かったが、日本はそのことを含めて政治的に受けいれた。サンフランシスコ講和条約の条文のなかに、日本は「東京裁判」の判決を否定しないという誓約を明記した。それを前提にして日本は新しい国内体制をつくり、旧敵国とさまざまな条約を結び、結果として平和で豊かな社会を楽しむことができた。思えば戦争直後に獲得した天皇制の保持、占領軍による直接統治の回避、日本通貨の維持などを手始めに、戦後日本の独立の継続と回復は、いわばあの裁判での司法取引の成果だったと見ることができるのである。」というふうに山崎さんは言っておられる。  つまり、東京裁判で示された歴史観が歴史の真実としてすべて正しいわけではもちろんない。したがって、それは今後も、日本だけではなくて、アメリカでも中国でも韓国でも、あるいは北朝鮮でも台湾でも、世界的に歴史家が、あるいはその他の学者が歴史の真実を究明していけばよい。しかしながら、我が国は独立を回復するときに、サンフランシスコ条約によって、法の正義あるいは政治の正義として、そのような東京裁判で示された解釈を有権解釈として受け入れたのである。その結果、戦後の日本の国際社会への復帰と繁栄と安定があったということを我々は理解しなければならない。そうすると、東京裁判での歴史認識を、とりわけ公的立場にある人間がひっくり返すことによって戦後の日本の正統性を覆すということは決して賢明ではないということが、恐らく言いたいことではなかろうかというふうに思います。  これは、きょうお話し申し上げることの全体にかかわることでありますけれども、憲法ができた経緯や解釈というものを法律論の観点からだけ論ずるということは、決して生産的ではないと私は思います。特殊な政治状況のもとでつくられたのであって、それを含めて今日の憲法があるという認識を持つべきである。例えば、吉田茂首相も当時の貴族院の本会議で、「憲法論、国法論以外ニ現在ニ於ケル国情、国際ノ情況等ヨリ」判断してこの憲法の審議をされたいということを言っておられるわけでございます。  日本が大きな戦争を引き起こし、そして大きな敗北を迎え、アメリカを中心としたGHQに占領されておる。そして、我が国が一日も早く独立を回復したい。そのときに、恐らく当時の多くの日本国民が天皇制の存続も望んだ。そのような目的を達成するために、日本が、あるいは理不尽と思われるところでも譲るべきところを譲って、その結果として日本の独立と戦後の発展があったのだという認識を持つべきではなかろうかというふうに存じます。これが第三点についてでございます。  第四点に、「文民条項」についてのお話を若干申し上げたいと思います。これは既に、これ以前の参考人がより細かく、実証的にお話しになったかと存じますけれども、大変大事な点でございますので、繰り返し申し上げたいと思います。  先ほど申し上げました芦田修正というものが、芦田小委員会で加えられます。憲法九条の第二項に「前項の目的を達するため、」という一文が加えられたわけでございます。  これも御承知おきのように、憲法九条第一項の「国際紛争を解決する手段としては、」という文言は、一九二八年のパリ不戦条約にのっとった表現でございます。このパリ不戦条約による「国際紛争を解決する手段としては、」というのは、侵略戦争という意味でございます。したがって、憲法九条の一項は、侵略戦争を遂行する目的としてはというふうに解釈すべきである。それを受けて、第二項の冒頭に「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」というふうに続くわけでございます。  したがって、芦田が意図した解釈と申しますのは、侵略戦争のための戦力は持てない、しかし、自衛のための戦力であれば必要最小限のものは持つことができる、そういう意図を込めて、芦田小委員会でこの「前項の目的を達するため、」という一文が入れられたということになるわけでございます。  この芦田修正に対しまして、極東委員会が強く反発といいますか、危惧の念を持ちます。つまり、芦田修正の結果、日本は、侵略戦争はともかく、自衛のための戦力なら持つことができるというふうに憲法九条の第二項を解釈することができる。 そうすると、日本が今後再軍備をする可能性が出てくる。そのときに、もし戦前の日本の軍部大臣現役武官制度のような制度がとられれば、日本が再び、いつか来た道、軍国主義の道に走るのではないかという危惧を、極東委員会の一部、オーストラリアや中国あるいはソ連の代表が持ったわけでございます。  極東委員会は、芦田修正を受けて、そのような懸念を払拭するために、憲法にシビリアン条項を入れるべきであるというふうに強く要求をしてまいります。極東委員会の圧力を受けまして、GHQ、つまりマッカーサーの占領司令部でございますけれども、GHQは日本政府に対して、シビリアン条項を憲法に盛り込めという指示を下します。  当初日本側は、このシビリアン条項を入れることに対しては非常に消極的でございました。なぜならば、憲法九条でもし我が国が一切の戦力を持てないというふうに解釈するならば、戦後の日本国憲法のもとでは我が国には軍隊は存在しないのであって、軍隊の存在しない国ではすべてがシビリアンでございますから、わざわざ改めてシビリアン条項などというものを入れる必要はないというふうに当初日本政府は考えた。ところが、極東委員会の圧力を強く受けたGHQから、そのような条項を入れることを指示されるわけでございます。  そこで日本政府は、当初、GHQがこのように言ってくるのは、恐らくある種の公職追放的な観点からこのような条項を挿入すべきであると言っているのであろうというふうに解釈をいたしました。  このシビリアンというのをGHQが求めた条文は、プライム ミニスター アンド オール ミニスターズ オブ ザ ステート シャル ビー シビリアンズというものでございますけれども、問題はこのシビリアンの訳語であったわけでございます。つまり、当時の日本語にシビリアンに相当するボキャブラリーが存在をしなかったわけでございます。  これは、ある意味では示唆に富むことでございまして、シビリアンとかシビルという言葉が戦前日本で日本語のボキャブラリーに定着したのは、私どもが今日着ております背広、この背広というのはシビルがなまって背広になったものでございます。つまり、軍人が軍服、ユニホームを着ているのに対して、民間人は背広を着ておりますから、シビルは背広という日本語を生んだにとどまるわけでございまして、戦前日本では文民というような日本語を生むことはなかったわけでございます。  これは、日本の近代史を考える上でなかなか示唆に富むことかと思います。  と申しますのは、幕末、明治維新に、例えば福沢諭吉ですとか西周ですとか、多くの先達が、西洋の非常に高度な概念、例えばポリティックスとかエコノミーとかいう概念を、政治だとか経済だとか、哲学とか倫理学とかいう難しい日本語に翻訳して、新しい日本語のボキャブラリーをつくってきたわけです。しかし、戦前日本はついに、シビルに相当するボキャブラリーをつくることはなかったわけでございます。 恐らく、シビルであるということが積極的な意味を持つことが戦前には余りなかったからではないかと私は思いますけれども、少なくとも、敗戦の後にアメリカによる占領を受けて憲法改正という事態に至るまで、シビリアンに当たる日本語を我々は持たなかった。  これが大きな問題でございまして、では憲法の中でこのシビリアンというのをどういうふうに訳すのかというので、今申し上げましたように、政府は、このことを一種の公職追放的な意味合いのあるものというふうに解釈いたしましたから、「総理大臣その他の国務大臣は、武官の職歴を有しない者」というふうな訳語をつくりまして、これを貴族院の委員会に送付することになるわけでございます。  ところが、この総理その他の国務大臣は武官の職歴を有しない者という訳語に対しましては、貴族院の帝国憲法改正特別委員会の委員たちの間から、非常に強い不満、反論が出てまいります。  と申しますのは、これは先生方御承知かと存じますが、英語のシビリアンと申しますのは、軍人でない者という意味でございます。つまり、マッカーサーですら、退役して軍服を脱げばシビリアンでございます。アイゼンハワーはアメリカの大統領になっておりますけれども、退役後でございまして、軍服を脱げばシビリアンなのでございます。つまり、今軍人でない人はすべてシビリアンというのが、英語のシビリアンの本来の意味でございます。  ところが、政府が貴族院に送った訳では、武官の職歴を有さない者という意味になります。そうしますと、今武官でなくても、さかのぼって過去において武官であった者は総理大臣にも国務大臣にもなれないということになるわけでございます。政府は公職追放的な意味合いをそこに読み取りましたから、このような訳語をあえてつくったわけでございます。  しかし、それに貴族院が反発をいたします。例えば、当時の憲法改正特別委員会の委員でありました、当時の東京大学法学部教授の宮沢俊義教授はこういうふうに言っております。「たとえていえば、五だけ制限しろと注文されたのに対して一〇制限しようとするものである。総司令部の注文に応じて行う修正である以上、その注文の範囲だけ修正すればいいので、それ以上におよぶ必要はない。」  つまり、GHQはシビリアンということを求めてきたのであって、それは今軍人でない者ということにすぎない。ところが、政府案では、過去にもさかのぼって軍人であった者を排除しようとしている。これは、GHQが五求めているのに日本が自発的に十も制限するということであって、本来の趣旨にかなわないというふうに貴族院は考えたわけでございます。そこで、貴族院は、政府提案を退けまして、単純にシビリアンを全く別の日本語に置きかえようとしました。  ところが、先ほど申し上げましたように、シビリアンに相当する日本語がないという問題が出てまいります。そこで、いろいろな珍案が出てまいりまして、例えば、文官という言葉が出てまいりますが、官というのは非常に官僚主義的でよろしくないというので、文官は退けられます。それから、珍妙な訳がいろいろ出てまいりまして、地方人などという訳が出てまいりますが、一体どういうことがあって地方人というのが出てきたのかわかりません。もっとひどいのは凡人というものがございまして、もしこれが採用されておりましたら、総理大臣その他の国務大臣は凡人でなければならないということになって、先生方は、もし入閣を求められても甚だ不本意に思われるであろうというふうな、そのような訳語も出たわけでございますが、いろいろな漢字の組み合わせを考えまして、結局貴族院は文民という言葉をつくったところでございます。  しかし、宮沢が言いますように、貴族院は、広く武官の職歴を有する者から国務大臣になる資格を奪うのは妥当でないと考えて、政府の意見を排斥して、シビリアンをそのまま文民と訳して六十六条二項とした。つまり、文民という言葉をつくった当時の帝国議会の専門家たちは、文民というのは単に軍人ではないという意味でこの条項を入れたのであるというふうに言っているわけでございます。  いずれにしましても、この経緯から、私は二点申し上げたいと思います。  第一点は、極東委員会が、芦田修正に対して非常に危惧を感じて、将来日本が再軍備をするのではなかろうか、そこでシビリアン条項を入れろというふうにGHQを通じて日本に要求したということでございます。つまり、極東委員会は、憲法九条を読めば日本が再軍備できるというふうに解釈したということ、これが第一点。これは非常に大事なことであります。  もう一つ非常に大事なことは、そのように解釈したにもかかわらず、極東委員会もGHQも、芦田修正を取り除けとは要求していないわけです。そうではなくて、もしそうなれば再軍備の可能性があって、将来日本が軍備を持つことがあるから、そのかわり文民条項を入れろというふうに極東委員会もGHQも要求したのであって、芦田修正そのものをチャラにしろというふうには、当時国際社会は要請していなかったわけでございます。  その後、憲法九条の解釈にしましても、文民条項の「文民」の解釈にいたしましても、日本政府の答弁も歴史の中で何度か揺れ動きますし、憲法学者の間でもさまざまな解釈があることは、先生方御承知おきのとおりでございます。しかし、私は、健全な常識にのっとれば、このときに極東委員会とGHQが示した判断というのが実は最も真っ当なものなのではなかろうかということを申し上げたいところでございます。  それからもう一つは、この六十六条二項をつくりますまでに、我が国にシビリアンというボキャブラリーがなく、その定義をめぐっても政府案と貴族院の考えが対立をする、そして文民という新しい言葉がつくられる、このような文民条項の成立の経緯から「文民」という概念が混乱する。そのことは、実は、その後の日本のシビリアンコントロールというものが矮小化され、あるいは、必ずしも効果的に機能しない側面が出てくるということの源になっているのではなかろうかというふうに私は存じます。  これは、申し上げる時間はございませんけれども、我が国が憲法を制定した当時、実はアメリカでも、一九四七年に国家安全保障法という法律がつくられております。この法律はその後も何度かにわたって改正をされておりますけれども、この法律によって初めて、今日の国防省がつくられ、国防長官という職がつくられ、そして国防長官と陸海空軍長官との関係を規定したり、統合参謀本部の法的な役割を定めたりというふうに、シビリアンという概念を日本に輸入しようとした、あるいはシビリアンコントロールという考え方を日本に教えようとしたアメリカ本国でも、戦後一貫して、シビリアンコントロールをめぐってさまざまな試行錯誤があったということを付加的に申し上げておきたいと思います。  幸い、若干まだ時間がございますので、つけ加えて、「その他」について申し上げたいと思います。  それは、個々の憲法の条文や、あるいは憲法ができた経緯についてのお話からは少しそれるわけですけれども、憲法の表現と申しますか、あるいは憲法の奥にある精神というものについて若干申し上げたいと思います。  これは、もう随分前にお亡くなりになりました高名な文芸評論家の福田恒存さんという人がいろいろなところで言っておられることで、私は非常に示唆に富むなと思いますので、若干御紹介して私の話を終わらせていただきますが、まず、天皇は象徴であるといったときの「象徴」という言葉についてでございます。  長々と引用することは避けますけれども、福田恒存は、象徴ということは本当は一体何を意味するのであろうかということを言っておられるわけです。つまり、果たして生きた人間が抽象的な象徴というものになり得るのであろうかということなのでございます。  とりわけ、国民統合の象徴というものを生身の人間に求めるというのはどういうことであろうか。つまり、日本国内には天皇制に賛成する人も天皇制に反対する人もいるわけでございまして、それを含めて、生身の人間が国民統合の象徴になるということはあり得るのであろうか。  憲法の前に天皇の人間宣言というものがなされておりますが、一見、憲法一条の象徴天皇制と天皇の人間宣言というのは非常に論理的に結びついているように思われるけれども、福田に言わせますと、もし天皇を人間というふうに規定するのであれば、生身の人間が果たして抽象的な象徴たることはできるのだろうか。つまり、生身の人間は元首になることはできる。そして、生身の人間が元首である場合、個々の国民は、君主制に反対したり賛成したり、あるいは、個別の君主が好きであったり嫌いであったりという嗜好を持つことができる。しかし、天皇は、そのような元首ではなくて、抽象的な国の象徴というふうに規定をされ、しかも、「国民統合の象徴」というふうに規定をされている。果たして、そのことは一体どういう意味を持つのであろうかということを言っておられるわけであります。  これは、憲法の制定のときに、政府側の松本烝治博士が、GHQの示した憲法草案の中に、この象徴、シンボルという言葉を見まして、何かしら文学の表現のようであるというので非常に反発したというふうに言われますけれども、果たして、この象徴ということをどれほど考え抜いた結果憲法は規定しているのであろうかということを、福田さんは問題提起をしておられるわけであります。  アメリカの有名な日本史家のジョン・ダワーという人は、最近の本の中で、この象徴という言葉はスキャップ――スキャップ(SCAP)と申しますのはシュープリーム・コマンダー・オブ・ジ・アライド・パワーズの略でございまして、当時の連合国軍最高司令部でございますが、連合国軍最高司令部が象徴という日本語を与えたんです、つまりこれは、スキャップがつくった日本語という意味でスキャパニーズというものであるというふうに言っておられます。  いずれにせよ、この象徴という文言が、果たしてどれほど深く考え抜かれた結果であるかということについては疑問のあるところであるということでございます。  それから、もう時間がございませんので、憲法の前文についてでございますが、これも、福田は非常に示唆に富むことを言っております。これは若干引用させていただきますが、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。 これも変種の命令形である事は言ふまでもありません」というふうに福田は言います。  「それにしても「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい表現か、悪戯をした子供が、母親から「かう言つてお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和憲法と見做す大江」、これは大江健三郎氏のことですが、「大江氏の文章感覚を私は疑ひます。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。前から読み下して来れば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ言葉を予想するでせう。 といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちを犯しているからです。これは後に出て来る「平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」といふ一節についても言へる事です。例の座談会」、これはNHKの座談会だそうでございまして、小林直樹氏、これは憲法学者、大江健三郎氏、亡くなった京都大学の高坂正堯氏、同じく憲法学者の佐藤功氏、そして福田恒存氏の座談会で、「この虚偽、」つまり憲法前文の幾つかの想定がそもそも間違っているという「この虚偽、或は誤認」をやゆして、福田さんが、「刑法や民法の如き国内法の場合、吾々は同胞」、日本人ですが、「同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到に作る、それなのに異国人」、つまり国際社会「に対しては、すべて善意を以て日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをかしいではないかと言つた。第一、それでは他国を大人と見做し、自国を幼稚園の園児並みに扱つてくれと言つている様なもので、それを麗々しく憲法に織り込むとは、これ程の屈辱は他にありますまい。 処が、小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があつて、そこに集つたグループは反ファシズムの闘争をした諸国と手を握り合つて行かうといふ気持ちだつた、その諸国の正義に信頼しようといふ意味に解すべきだと答へました。 そもそも憲法の中に、猫の目の様に変る国際政治の現状判断を織り込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰」でありますというふうに福田さんは言っておられるわけでございます。  つまり、憲法の前文が想定しているところの公正と信義に信頼するとか、国際社会が圧迫と偏狭を除去しようと努めているとかいう、そのような国際認識がそもそも間違っているのである、そのような間違った国際認識を前提にして憲法をつくるということはおかしいと。それに対して憲法学者の小林教授は、それは当時の国連中心主義という考えを反映しているのだというふうに反論しておられるわけですが、福田氏はさらに、そういう転変きわまりない一時の国際情勢を、憲法の、しかも条文に織り込むとは何ということかというふうに反論をしておられるわけでございます。  私は、これは単なる言葉の遊びではなくて、非常に示唆に富むことであろうと思います。憲法の前文は、決して単なる能書きやつけ足しではございません。前文の精神にのっとって憲法そのものが規定されるべきでございまして、その憲法の前文に、今日の我々が常識的に考えて明らかにおかしいという部分があるとすれば、過ちを正すに恥ずるところはないというふうに私は考えるところでございます。  やや散漫な話で恐縮でございますが、以上でございます。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。杉浦正健君。 ○杉浦委員 自由民主党の杉浦でございます。  村田先生のお話を伺いまして、何と言ったらよろしいんでしょうか、目からうろこが落ちるという言葉がありますけれども……(発言する者あり)眠りませんでしたが、一時間緊張させていただきました。  実は、自民党の方でも先生のお話を伺ったんですが、私は、残念ながらそれは議事録でしか拝見しなかったんですけれども、びっくりいたしました。それで、きょう初めて、大体同じ内容を話されたんですが、お話を伺いまして、何という頼もしい若い方がお生まれになったのかなとも思った次第であります。  御経歴を拝見いたしますと、昭和三十九年生まれですから三十五歳ですか、私の娘と同じぐらいの年でございます。正確には言いませんけれども、私の娘のために。最年長は恐らく奥野先生ではないかと思いますが、奥野先生にすればお孫さんぐらいのお年になるのではないだろうかと。極めて論旨明快でありますし、しかも、その論旨が、法的論議ではございませんが、政治史、特にアメリカの外交史を御専攻のようなんですけれども、非常に詳しく事実をお調べになられた上に緻密に組み立てられまして、本当に啓発された一時間の御講義でございました。  私どもは、例えば私は小学校五年生で終戦でしたから、あの戦争を子供で見ていますし、その後の日本の廃墟、そこから先輩が立ち上がった姿も見ておりますから、どうしてもそれに引きずられる。先生の場合は、三十九年生まれですから、全く戦争の御体験もなければ、戦後のあの悲惨さの御記憶もない。冷静な立場で事実を見てこられた上での御発言だということで、私なんかは娘とはいつもけんかばかりしているんですけれども、やはりこれからは娘の意見も聞かなきゃいかぬかな、こう思っているところであります。  先生のお話に対して質問することはございません。むしろ、そういう若いお立場で、これから将来へ向かって、先生の御専門からどういうふうにごらんになっているかということについて、何点か質問させていただきたいと思います。  まず、謙虚に、我が党の姿勢についての率直な御意見からお伺いしたいと思います。  この会議の第二回におきまして、葉梨委員は、本会運営についての御所見を述べておられるわけですが、我が党が憲法改正問題についてどういう立場をとっておるかについては御言及にはなりませんでした。しかし、葉梨委員は、自民党の調査会長でありますが、そこにおきましては基本的な立場を述べておられます。私は副会長の立場でお聞きしておりましたが、それは、この委員会の第一回で中山会長がごあいさつされました中に基本がございます。  議事録を拝見いたしますと、「憲法調査会における議論を通じて、」これは会長のごあいさつでございますが、「この現実を直視し、」この現実というのは、「制定後既に五十有余年を経過し、その間、制定当時には想像もできなかったほどに国内及び国際情勢は極めて大きな変貌を遂げております。」ということでございますが、「この現実を直視し、個人の人権尊重、主権在民、侵略国家とはならないとの理念を堅持しつつ、新しい日本の国家像について、全国民的見地に立ち、調査検討を加える」、こう申しておられるわけですが、このお立場を葉梨会長は党の憲法調査会の冒頭でおっしゃっておられました。中山先生と基本的に同じだと思います。その見解について、先生の率直な御意見をお伺いしたいと思います。  ただ、先生も御存じのとおり、自民党は右から左までございまして、基本はそうであっても、いざどこをどう改正するかとなりますと、非常に考え方の幅広いものであることは御存じのとおりで、党の調査会のときに、先生は、中曽根元総理と宮澤元総理の朝日新聞の対談、護憲と改憲の論議を引いておられましたが、非常に幅のあるものを一言で集約するとそういうことになるということでございます。そういう立場について先生の御所見をお伺いできればありがたいと思います。 ○村田参考人 ありがとうございます。  率直なと申しますか、忌憚のない意見をということでございましたので、単純に忌憚のない意見を申し上げたいと存じます。  この憲法の問題につきまして、実際、各党がどういうふうにおっしゃっているかは存じませんが、新聞報道などでは、改憲、護憲そして論憲という三つの区分けがなされているように思われます。私の個人的な意見を申し上げますと、私はその三つの区分けがどれもどうも余り好きではないというのが私の個人的な立場、意見でございます。  まず、論憲というのは極めてもっともなことでございまして、憲法について忌憚なく論じよう。しかし、そのことは自明のことでございます。憲法について自由に論じようというのは、言論の自由が保障されており憲法改正の条項を持っておる日本国憲法のもとでは当たり前のことでございまして、それは特定の政党の立場だけではなくて、すべての政党が基本的に論憲の立場に立たなければならないものであろうというふうに存じております。  それから、その論憲を除きますと、今度は改憲と護憲という二つの立場になるわけでございますが、私はその改憲か護憲かという二項対立で論じることが憲法の問題を非常に硬直したものにしているのではなかろうかという印象を持っております。  これは、先生方はよく御承知おきのことと存じますが、一つだけ例を挙げますと、憲法の天皇の国事行為のところに、「国会議員の総選挙」というのが挙げられております。「国会議員の総選挙」というのはこれは誤りでございます。衆議院には総選挙がございますけれども、参議院には総選挙がございませんから、「国会議員の」とするのであれば「選挙」とすべきでございます。  なぜここに「総」がついているかと申しますと、当初、GHQは日本に一院制を押しつけようとしたわけでございます。押しつけようと言ったら悪いですが、一院制を求めたわけでございます。それに対して、日本は二院制である、戦前も二院制であるから二院制でいくのだ。するとGHQは、アメリカは連邦制をとっているから上院というのがあるけれども、日本のような国に第二院は要らないではないかというふうなことを言った。それに対して日本は、いや、第二院を持っているというのは、別に連邦制とは関係がないのであって、国会における審議に慎重を期するという意味で第二院が必要なのだというふうにやり返しまして、GHQは結局、それなら二院制を認めようということになった。  実はアメリカは、アメリカの方がずっと利口でございますから、初めから二院制を認めるつもりで、最初に一院制を打ち出して、日本側が二院制を言ってきたら、一歩譲歩したという形で、譲るところは譲ったという駆け引きをやっているわけでございますけれども、しかしその結果、二院制に戻った。そこで、憲法の国会に関する条項を全部書き直さなければならなかったのです。  ところが、天皇の国事行為の中にある「国会議員の総選挙」というところまでは書き直した人たちが気づきませんでしたので、一院制のときの「国会議員の総選挙」という文字がそのまま残っておるわけでございます。これは御承知の先生方は非常に多いと思います。  例えば、この「国会議員の総選挙」という、つまり単に憲法の記述が間違っているわけですね。この「国会議員の総選挙」から「総」という一字を取るということは、改憲か護憲かというレベルで論ずべきようなことであろうかということですね。私は、これは大いに疑問に思います。これは、単に誤植を改める、誤っている文字を修正するという程度のことであって、私風に言うならば、憲法を修正する、つまり修憲であるというふうに私は考えております。  それから、修憲という、単に憲法が内在的に間違っているところを直すというのが第一のカテゴリーであるとしますと、第二のカテゴリーといたしまして、そもそも憲法が制定をされたときに想定をしていない出来事が、その後の国際社会やあるいは日本の社会の発展によって生じてきたという側面がございます。  例えばよく言われるところでは、環境権ですとかプライバシーの権利ですとかいうような、憲法学者が新しい人権と呼ぶようなことでございます。一九七二年に国連が人間環境宣言というのを制定して以来、新たに環境権というものを憲法に追加している国が世界中にたくさんある。  別に、外国がやっているから日本もやれというのは単純な議論でございますが、新聞社などがやっている各種の世論調査でも、憲法のどこを改正したらいいと思いますかという意見を国民に問いますと、環境権であるとか、そういう新しい人権について、つけ加えるべきであるというのが相当上位のランキングに日本国民の世論調査でも出てくる。  憲法がつくられたときには、大気汚染でありますとか日照権の問題ですとか飛行機の騒音の問題ですとか、そういうことは想定はされておらないわけでございまして、それを今の憲法では、仕方がございませんから、十三条とか二十五条で広く読もうというふうにしているわけでございますけれども、それをより明瞭な形で、別個に環境権について一項を設けるとか、プライバシーの問題について積極的にもう一項を求めるとかいうのも、これも古くから言われている改憲論議とはちょっと質の異なる改憲論議ではないか。  つまり、憲法がそもそも想定をしていなかったものを追加して補強するというのであるから、これは私は追加するという意味で追憲であるというふうに考えます。  修憲がまずあって、追憲がある。それに対して第三の、最後のカテゴリーとして、憲法がつくられた当初から政党あるいは国民の間で幅広く議論があって、それについていろいろな論争がなされてきた論点、例えばそれは憲法九条が最たるものでございますし、あるいは天皇制についても異論のある向きがあるかもしれない。  そういうものは、今申し上げた第二のカテゴリー、追憲というものが、どちらかといえば、市民社会の成熟に伴って新たな人権をどうカバーしていくかという側面であるのに対して、この第三のカテゴリーは、言うならば、日本の国としての形、国家論のあり方を問う形で憲法ができた当初からずっと議論されてきたこと、私は、狭義にいえば、これが改憲であるというふうに三つに分けて考えております。  改憲か護憲かというのは、主として私が最後に申し上げた狭義の改憲については、確かに政党間でもあるいは国民の間でも意見の対立のあるところかもしれませんけれども、だからといって「国会議員の総選挙」の「総」の一字を取るのも憲法の精神に反して民主主義を壊すものであると言うのは、私はそれは決して護憲ではないというふうに思いますし、「国会議員の総選挙」の「総」の一語を取るのが改憲論者であると言うのも余りにも極端な議論であろう。  つまり、改正のポイントに分けて、幾つかのレベルに分けて議論をしていく必要があろうというふうに存じております。  以上でございます。 ○杉浦委員 大変頭脳明晰な方で、私が第二問目に予定しておりましたものを読まれまして御回答をいただいたのですが、我が自民党のことについてはお触れになりませんでしたけれども、ちょっと自民党のことはさておきまして、では、第二問目に、補充質問をさせていただきます。  私は、この調査会が設けられまして、衆議院、参議院の中に憲法について論議する場ができたというのは、多くの委員の方がおっしゃっておりますが、画期的なことだと思います。憲政史上初めてだと思いますね。  明治憲法の際は、伊藤博文等が天皇の命令でつくったわけですが、議会はございませんでしたし、いわゆる国民が選んだ議員が議論することはなかったわけですね。御案内のとおりです。  戦後の憲法も、これは帝国議会、憲法の規定によって憲法制定委員会ができて、手続にのっとってやっておりました。天皇が諮問してやっておりますが、敗戦、占領という、そういういわば外圧のもとでなされたものであって、真の意味で自主的に日本国民の発意で修正したものではないということははっきりしていると思うんです、やむを得なかった面もあると思うんですが。  今度の場合は、まさにだれに言われたわけでもない、外国に言われたわけでもない、そういう中で、大変な状況の変化に対応して、日本の行く末がいかにあるべきかということを将来に向かって論じ合おう。憲法というのは国家の基本法、ある意味では国の運営の基本マニュアルですから、そろそろマニュアルを変えていいころじゃないかというのが多くの方々の認識だろうと思うんです。  例えば、共産党、佐々木先生がいらっしゃいますが、今共産党は護憲ですけれども、この憲法制定時には、天皇制を排除して、侵略戦争は反対しておられたようですけれども、自衛の戦争もだめだとはおっしゃってなかったようで、憲法には反対されましたが、最近は憲法護憲だとおっしゃっている。ということは、今の象徴天皇制をお認めなのかなという感じがいたしますし、恐らく変わられたんでしょう。  それから、軍備の方も、今のような形の自衛隊ならば、これ以上のことはしないということならばオーケーなのかなとも推測するわけでございます。社民党についても、大幅に党是を変えられたのはもう詳しく申し上げるまでもございません。  私ども自民党の中の論議にいたしましても、さっきちょっと触れましたが、自民党のこの部会のときに宮澤先生と中曽根先生の論議は詳細に御紹介いただきましたが、我が党の中で最もタカ派と目されている中曽根先生ですら、先生御紹介のとおり、皇国史観はとらない、東京裁判史観は排除するということをはっきりおっしゃっておられますし、あの戦争についても区分けしておられる。米、英に対する戦いでは普通の戦いだった、米、英、もう一つありましたかな、米、英、仏、蘭。しかし、中国あるいはアジアの地域との関係ではある程度侵略的要素があったのは間違いないということもおっしゃっておられるわけでして、中曽根元総理は、先生の御表現をかりれば、区分けしておられるわけですね。  あの大東亜戦争、私は大東亜戦争と呼ぶんですが、あの戦争に至る過程、明治憲法、明治二十三年に施行されて以来五十六年で敗戦を迎えるわけです。明治憲法の時代と言っていいと思うんですけれども、その明治憲法、あの旧大日本帝国憲法が、私どもの田舎の方言を使えば、やくたいもない戦いに突入して悲惨な敗戦を迎えた一つの要素であろうと私は思うんですね、憲法の欠陥と言ってもいいかもしれませんが。  あの現実、大正デモクラシーのこともおっしゃいましたけれども、私は、少国民であの戦争を迎えてあの悲惨な戦争体験を経て、憲法を改正するべきだと思いますが、とても戦前のあの大日本帝国憲法の時代に戻してほしいという気にはさらさらなれないわけで、中曽根先生ですらそうはお考えになっていないという先輩のあれを聞いて、安心しておるわけなんです。  自民党の中、事ほどさようにいろいろとあるとは思いますけれども、共通しているのは、戦前のような時代に、憲法に戻すことは、私が知っている限り一人もいないし、恐らくいないんじゃないかというふうに思うんですね。ただ将来に向かって、あの帝国憲法の五十六年の運用を踏まえ、戦後五十数年の新憲法の運用を踏まえて、これから新しい時代に向かって変えていこうという気持ちでいるわけなんです。  ですから、その点については、時代も変わってきて民主党さんなんかも論憲とおっしゃっているけれども、論じながら変えるべきところを変えろということではないかと思っていますし、社民党さんもそうではないか。日米安保体制もお認めになったし、自衛隊は合憲だとおっしゃっているし、そう思うんですね。余り改憲とか論憲とか護憲の意味はないんじゃないか。むしろ、具体的に先生のおっしゃったような方向で議論していくのがいいんじゃないかというふうに思っている一人なんですが、私の言ったことにちょっと何かお言葉がございましたら。 ○村田参考人 ありがとうございます。  先生の御趣旨には、私は基本的に全く同感でございます。  若干追加的に申し上げることをお許しいただけるならば、歴史認識の話が出てまいりまして、中曽根元総理が、アメリカ、イギリス、フランスに対しての戦争は必ずしも侵略戦争でなかったと。それは私は先回、自由民主党の政務調査会の憲法調査会でお話しさせていただいたときに、朝日新聞社から出ております「憲法大論争」という本がございまして、中曽根、宮澤の両元総理が、座談といいますか、対談をなさっている中で、中曽根元総理が言っておられるところを引用したところでございますが、アメリカ、イギリス、フランスに対する戦争は侵略戦争じゃなかった、中国やその他の諸国に対するような意味での侵略戦争でなかったということは、私は全く同意をいたしますが、もっと大事なことは、しかし愚かな戦争をやったことは間違いない。  つまり、法律的に侵略であったか否かという次元よりも、政治的、軍事的に全く愚かな戦争であったということをまず戦後の日本の出発点として認めるべきである。 なぜ愚かかというと、勝てない戦争を始めたという意味で極めて無責任であるということでございます。勝てば官軍ではございませんけれども、絶対に勝てない戦争を始める政治家とか政府というのは極めて無責任な存在であろうというふうに存じます。  そのことは開戦のときに、これはよく知られるエピソードでございますが、当時アメリカの日本大使館に勤務しておりましたエマーソンさん、後に駐日公使になって、もう亡くなりましたが、エマーソンさんがアメリカ本国に戻りまして、日本をこれ以上追い詰めてはいけない、日本というのは侍の国でメンツを大変重んじる国であるから、これ以上日本を追い詰めると日本は暴走するかもしれないというふうにワシントンの国務省で上司に申し述べるわけでございます。すると、その上司が、歴史上いまだかつて絶対に勝つ見込みがないのに小国が大国相手に戦争をしかけた例が一つでもあったら挙げてみろというふうに言われて、エマーソンさんはたった一つの例も挙げられなかったわけでございます。それはある種の合理的判断でございます。  ところが、同じころ東京では、時の東条英機首相は、日本男児たるもの、一生に一回清水の舞台から飛びおりる覚悟が必要だというふうに言っておられる。つまり、日本の総理大臣は、清水の舞台から飛びおりるという覚悟論でもって戦争をやろうとしているわけですね。  私は、あのアメリカに対する戦争で一番愚かであったことは、日本政府も日本の陸海軍も、戦争を始めるときに、アメリカ相手の戦争をどう終わらせるかという見通しなしに戦争を始めたという意味では、これは極めて愚かであったと。つまり、戦争とかけんかとかいうものは、卑俗な言葉を使わせていただければ、あほうでも始められますけれども、戦争やけんかを終わらせるには非常な政治的英知というものが必要であって、あの戦争を始めたときに、日本政府は、戦争をどう終わらせるかという見通しのないままに戦争を始めたという意味では極めて愚かなことであったということを申し上げたいと思います。  それから、これも先ほど私が申し上げたことと関連して申しますと、三つのカテゴリーについてお話しさせていただきましたが、その二番目の追憲ということについて言いますと、いわゆる新しい人権について、ここには弁護士資格をお持ちの法律が専門の先生方もたくさんいらっしゃいますから、私のは全く生兵法の議論でございますけれども、その新しい人権というものを例えば憲法の十三条や二十五条で読もうというのは、私はある意味では憲法を、十三条や二十五条を非常に広く拡大解釈して読もうというふうなことではないかというふうに思います。一方で十三条や二十五条をできるだけ広く拡大して読もうという立場に立つ方が、他方で憲法九条については拡大解釈は認めないというのは、私は、論理的整合性に欠けるものであろうというふうに思っております。 ○杉浦委員 愚かな戦争であったという趣旨については、私も個人的には同感でございます。  そんなことをやっていると時間がなくなりますから進みますが、今の憲法の中に、日本が長年の歴史の間に積み重ねてきた貴重なものをなくす要素があるんじゃないか。国民主権とか基本的人権とか国際主義、平和主義といっても、これは西側民主主義の概念ですね。東洋的といいますか、和の精神というか、家族共同体、そういったものはまだ日本の社会に色濃くあちこちで残っておるんですが、そういった日本の伝統、文化、歴史というものを、今までの基本は大事にしながら重く見ていこうじゃないかというのが自民党の改憲を考える人たちの多くの方々の気持ちだと思うんです。さっきおっしゃった前文にしてもそうです。  その点については、先生、どうお考えでございますか。 ○村田参考人 伝統的なものとか、あるいは日本的な価値というんでしょうか、そういうものを憲法に反映させていくということについては、私は具体的なイメージというか、考えを実は持っておりません。  先生が御指摘の、西洋概念を多く、色濃く影響を受けているということにつきましては、しかしながら、ある意味では国が成文憲法を持っているということは、これはマグナカルタに始まる、実は極めて西洋的な物の考え方が広く世界に受容された結果であって、私は、西洋的なものとか東洋的なものとかいう分類にどれほど意味があるのかというのに若干留保するところがございます。  それは、先生がその前におっしゃいました、憲法をつくるに際して自主性を持ってということにも関連をいたしますけれども、確かに、今の憲法がつくられた際に、完全なフリーハンドで日本国民によってつくられたものではないということは私は否めないと思います。しかしながら、それが今日、先生もお認めになりましたように国民主権ですとか、人権とか、多くの点で国民に幅広く受容され定着してきているという側面については、私はそれは積極的に評価すべきであろうと思いますし、そのような概念がもともと西洋産であるとか東洋産であるとかいう国産地主義というのは、それほど私は意味があることではないのではなかろうかというふうに思います。  ですから、繰り返し申しますと、だから全部変えろとか、だから全然変えるなとかいう議論は当たらないのであって、先生お認めになりましたように、改憲というふうなことを今日本で言っている人たちでも、これは言論界を含めて、日本国憲法の基本的な精神を全く変えようというふうに論じている人はほとんどいないわけでございまして、それは継承していかなければいけないというふうに存じます。 ○杉浦委員 おっしゃっていることはよく理解できるのですが、年寄りの言っていることはなかなか御理解いただけない面もあるのですけれども、一つ、憲法の理念ですね。国民主権、結構です、定着してきたことは認めます。基本的人権、結構です。平和主義、国際主義、結構でございます。ただ、これから二十一世紀以降、国際社会の中で我々日本人が、あるいは日本が国家としてどういう役割を果たしていくかということを考えた場合に、理念として追加できるものがあるんじゃなかろうか。  例えば、基本的人権。権利ということは随分強くなってきましたが、権利の裏にございます責任と申しますか、義務という点についての戦後日本の社会体制、教育は非常に希薄になっているような気がするのですね。人間としての責任と申しましょうか、そういう面。あるいは、環境問題とかプライバシーとかおっしゃいましたが、そういう権利の中に含まれております例えば自然との共生とか、民族間の共生とか共存とか共栄とかいった、そういう調和の概念というのは、西と東を余り対比するといけないかもしれませんが、東洋には濃かったと思うんですね。  そういう新しい理念というのを高らかにうたい上げたらどうかとか、そういう考えを持っておるんですが、先生の御意見を伺いたいと思います。 ○村田参考人 前文について、私どもが、先生がおっしゃるように日本の国のあり方あるいは国民一人一人のあり方ということを考えて、前文が憲法全体の精神を反映するように書き直す必要があるという意味では私は全く同意でございます。  私の専門は国際政治でございますので、それに引きつけて申し上げますと、例えば国際貢献ということが盛んに言われるようになってまいりましたけれども、私はこの言葉も実は余り好きではございません。貢献という言葉は何かしら、お金を余分に持っている人とか余裕のある人が貧しい人に何か施しをするとかそのような雰囲気が、ボランティアでやるんだというような響きがございますけれども、先生がおっしゃったように、権利に伴う責任とか義務とかいうことで申しますならば、それは国民一人一人と同時に、日本国というものが国際社会に対して、もちろん、我が国を守るとか我が国の立場を国際社会の中で伝えていくとか、場合によっては国際連合の常任理事国を求めるとかいうのは、それはある意味で日本が自己主張する部分でございますけれども、それと同時に、日本が国際社会の中で果たしていかないといけない義務というものがあって、敗戦のゼロのときの日本と、今のように豊かに大きくなった日本とではおのずと異なるのであって、そういうことを例えば憲法が積極的に示すということは、私は極めて真っ当なことであろうと思います。  国際貢献という言葉は嫌いだと申し上げましたのは、私はあれは、正しく言うならば国際的責務とか国際的義務とかいうべきものであって、そもそも免れることのできない責任を日本が果たしているのであって、余裕があるからやっているというふうな意味合いで日本が国際社会に対して何かすることをとらえるべきではないというふうに存じます。 ○杉浦委員 時間がなくなりましたのでこれでやめさせていただきますが、先生、若い立場で、感情的にならないで、日本の将来を見越してどんどん御発言願いたいと思うんですね。  私どもはどうしても、しがらみがあるというか、マインドコントロールされているというか、ございまして、南京大虐殺ということも、中国の人に言われると、ここまで出てきても言えないところがあるわけですが、アメリカ人などに言われますと、何言ってるんだと。原爆を落としておいて、東京を初め大都市に大空襲をやっておいて、何十万と死んでいるんですね、南京大虐殺なんてよく言えたもんだって言い返したくなるわけです。言い返してはいるんですけれどもね。  そういう過去のことを体で知ったり見聞きしておるものですから、どうしてもとらわれた議論というのになりがちなので、先生のようにとらわれない形でひとつ、若い方ですし、どんどん御発言を願い、新憲法草案ぐらい書いていただくようにひとつお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。ありがとうございました。 ○中山会長 藤村修君。 ○藤村委員 民主党の藤村修でございます。  今の杉浦委員と村田先生とのちょうど間ぐらいの年齢かと存じます。私も、要は戦後の生まれでございますので、その意味では戦中あるいは戦後の混乱、この辺は全然、もちろん生まれていないし、戦後二十四年生まれですから。あるいはその意味でまだ若干の混乱とか荒廃が残っていて貧乏をしていた、そういう経験がほんのわずかある、そういう世代でございます。  それからさらに一回り以上若い村田先生から明快なお話をいただいたということで、感謝を申し上げたいと思います。  そこで、幾つかお話の中でお伺いしたい点は、まず、私のようなあるいは村田先生のような世代というのは、新憲法、今の現憲法がどういう過程でできたかということに対して、何となく押しつけられた、あるいは英文を訳したのじゃないかという観念がずっときょうまで強かったと私自身は思っています。  その点についてハーグの陸戦法から説き起こされて、私は、これに違反しているというふうにおっしゃるのかなと思ったら、いや、そうじゃなくてノーだと。つまり、押しつけ的な部分というのは感情としてもあるけれども、しかしすべてがそうではない、あるいは、むしろそれは積極的に評価をしているのだというお考えで、私もそこは共通していると思うのですが、ただ一般的に、やはり押しつけられた憲法とか、英文を日本語に訳した憲法という通念は相当広く浸透しているように思うのです。  私も、まさに成立過程を今この調査会で勉強する中で、細かく、いわば歴史的に検証していけば、これはそうじゃないなというふうにむしろ思い出したのですが、これは今の私の感覚でございます。先生はもっと勉強されておりますので、押しつけ論についてはどういうふうに考えていけばいいのか、お伺いしたいと思います。 ○村田参考人 英語を訳したものであるということについては、私はそれは基本的な事実関係としては、大枠は間違っていないというふうに思います。英語がもとになっているわけでございまして、それを日本語に訳し、そして部分的に修正するプロセスで今日の憲法になっている。例えば、私が先ほどお話し申し上げました六十六条の二項などは、そもそも入っていないものを極東委員会の指示で入れろというふうに言われたわけでございますから、それを押しつけといえば、私は押しつけというのが全く事実誤認であるというふうには思いません。  ただ、それは、どの程度大局的に憲法を評価するかという問題にかかわってきているというのが私の申し上げたいことでございまして、初めに必ずしも完全に自発的でなかったから、憲法の正統性が初めからさかのぼって無効であるというような議論は、私は法律的にも政治的にも、とりわけ政治的にとるべきではないというふうに思いますし、それから、個別の局面においては日本の主張が通ったところもあるのであって、全く一〇〇%アメリカから下し置かれたものであるというふうに考えることは、これも事実として正しくないというのが基本的な認識でございます。 ○藤村委員 ただ、政治家は時にそのことを利用して、押しつけだから、だからこれはやはり変えないといけないよという、論理をすりかえる部分が相当あるかと思うのですね。だから私は、この憲法調査会においてこの成立過程を、ある意味では客観的に冷静にその歴史的事実を明らかにしていくというか、本当にこれがここで終わることでなしに、議会にそれぞれ代表者がいるということは、それぞれの地域でもまたそういうものをむしろ流布していかねばならないのかな、そんな責任を感じているところでございます。  つまり、きょうの午前中も古関参考人のお話がありましたけれども、あるいは村田先生もさっきおっしゃったように、帝国議会での憲法改正という、手続的には連続性があり、憲法改正草案ができ、あるいは帝国憲法改正案を衆議院に提出し、衆議院で修正議決し、貴族院で修正議決し、そしてまたそれを衆議院に回付したものに同意し公布したという意味で、まさに我々がつくったのだと手続的には言えると思います。  ただし、中身について、個々には、相当これは押しつけられたぞというところがあることも事実である。当初のいわゆる松本案が完璧に拒否をされた、そこでGHQが一週間か十日ぐらいで閉じこもってつくって、どうだと言ってきた、それをたたき台にした、こういうことがございますので、その辺の経緯がやはり何となく押しつけられたのではないかということにつながっているのかなとは思うのです。  ただ、私は、先生おっしゃるように、そのことがだから今改憲のきっかけになるとか理由になるということは全くないと思うのですね。大局的に見て、むしろ積極的に評価すべきだ。古関先生のきょうの午前中のお話からすればモザイク模様で、日本から出した部分やら押しつけられた部分やらいろいろあるけれども、大局的に見て、うん、これはその当時、手続的にはまずこうして連続性を持ってやったのだからということで来ているのではないかなと思うのですね。だから、余り押しつけ論を何か前に持っていってやることは、実際有権者とか一般の方々にはわかりやすいのですけれども、間違いではないかなということを勉強させていただいた次第でございます。  その次に、お話の中でもうちょっとお伺いしたい点は、「マッカーサーの戦略観」というところで、日米の外交関係をお勉強されているということで、私、ちょっとわからない点は、マッカーサーは当初は自衛権までを否定していた、それがその後にGHQなどは自衛戦争の放棄はちょっと変更した方がいいのではないかと変わってきたと。この辺は朝鮮戦争と大きく絡むかとは思いますが、これをちょっと端的にわかりやすく御説明いただきたいと思います。 ○村田参考人 ありがとうございます。  まず、前半の部分について若干補足的に申し上げますと、先生御指摘のように、GHQが憲法のドラフトを非常に急いで早いプロセスでやったというのは、衆議院の総選挙に間に合わせたいというのがあったわけでございまして、総選挙前にこの憲法の案を示して、それをもとに総選挙をやって選ばれた国会で審議をするのだということでございますから、そういう意味でも、民意を反映するプロセスを踏んでいたということをもう一度申し上げたいと思いますし、それから、成立時が正しくないから全部だめという否定形の改憲論ではなくて、戦後の日本の発展に伴って、憲法のいいところを生かしながら発展させるという積極的な議論が必要であるというふうに思います。  後半の具体的な御質問についてでございますけれども、マッカーサーは当初、侵略戦争も自衛戦争も否定するというマッカーサーノートの指示を与えた。それをGHQの民政局の次長であったケーディス大佐が、自衛戦争までも否定するというのは例を見ないことであるというので、ケーディスの判断でこれを削り、ケーディスはさらにホイットニー准将という上にも上げて了承をとっているわけでございまして、朝鮮戦争までいきませんで、マッカーサーが最初にマッカーサーノートを出した直後に、自衛戦争まで否定するのは幾ら何でも無理だというので、GHQの中で早い段階でそれは修正されているということでございます。     〔会長退席、鹿野会長代理着席〕 ○藤村委員 それが、御説明をいただいた芦田修正とも大分絡むのだろうと思うのです。  それで、今、成立過程という、すなわち歴史を解明しているというか、勉強している最中であります。そうすると、歴史的事実とか、まさに史実に基づいて判断をしていかねばならない。  先ほどの村田先生のお話の中で、芦田修正を割にさらっと、修正項目を入れることにおいて自衛戦争までを否定しないというふうにおっしゃったのですが、それはある意味で、その後のいろいろな説明やらいろいろな報道でそういうことだと言われてきたのですが、ただ、事実を一つずつ積み重ねていくときに、芦田さんは果たして入れたときはそういうふうに考えたのかということと、あるいはその小委員会で発言をしている、つまり議事録にも載っているとおっしゃったけれども、これはどうも、アメリカ側でそのときの議事録を要約されたものが発見されたらそういう趣旨の発言は一言もなかったなど、事実がこう出てきますと、果たして――まず一つは、芦田さんが修正を入れたときの思いというのはまさにそういうことがあったとは思います。ただ、そのことはその修正段階で議論はされていないようですので、その辺、相当期間たってから、多分五一年ごろかと思います、後から発言された。  あるいは、東京新聞にはトップ記事で載って、これはまさに歴史的事実でありますが、その中で芦田さんが書いていることは「第二項については、武力および戦力の保持に制限を加えて、第九条の侵略戦争を行うための武力はこれを保持しない。 しかし、自衛権の行使は別であると解釈する余地を残したいとの念慮から出たものであった。」これを自分の日記にも書いているという新聞記事です。これは一つの事実です。  ところが、その後、東京新聞は、いろいろなところからの調査によって間違いであったと。芦田日記が後ほどに刊行されて出てきたら記述はどこにも書かれていないと。あるいは、東京新聞は、それは実は記者の作文だったというので、おわびの記事を掲げて作文部分を訂正削除したという事実がつながってきますと、やはり歴史的事実をしっかりと押さえないと、芦田修正というものの意図というかねらいというのが変わってくると思うのですが、先生の御見解をお伺いしたいと思います。 ○村田参考人 ありがとうございます。  実は、類似の御質問を以前自由民主党でも受けて、私はそのとき十分に答えられなかったのでございますけれども、先生御指摘のように、例えば私が手元に持っております新聞記事でも、一九九五年の九月三十日の朝日新聞の報道ですけれども、やはりこの帝国議会でのこれは秘密議事録であったわけでございますけれども、芦田がいわゆる「前項の目的を達するため、」という修正を入れたときに、必ずしも、後に芦田が言っているような説明を帝国議会の場でも明瞭にはしておらないということでございますし、それから芦田日記に、芦田が修正についてそのような意図を込めたということを日記の中に書いていないというのも、私が理解する限りでも先生の御指摘のとおりでございます。ただし、憲法が公布された直後に芦田が書いた解説書では、今日言われているような意図を自分はそこに込めたんだということを芦田は書いているわけですね。  したがって、情況証拠から見ますと、結論から言うと何とも言えない、芦田が修正を入れたときに本当に今日言われるような芦田修正の意図を込めたのか、それとも込めていなかったのかは、何とも言えないわけです。  私はそれについて二点申し上げたいと思いますが、第一点は、その芦田小委員会は秘密会で行われました。しかしながら、これはもう国会議員の先生方はよくおわかりかと思いますが、秘密会で行われた議事の内容が外に漏れないと想定するほど愚かなことはないのであります。当然、芦田は、自分がその小委員会の秘密会でもし芦田修正についての意図を非常に明瞭に述べたならば、それは秘密会の範囲を超えて外に漏れる可能性は十分あるというふうに、芦田のようなベテランの政治家であるならば判断したとしても全然不思議ではないわけです。そのことはGHQを刺激するものではなかったと思います。なぜならば、GHQは既にそのような考え方をとっているからでございます。  しかしながら、それが一部の国民世論や、憲法についてもっと明確な平和主義を打ち出すべきだという政治勢力を刺激する可能性はあって、そのことが憲法の審議を混乱させるかもしれないというふうに芦田が恐れた可能性は十分ある。したがって、芦田は、秘密会であるにもかかわらず自分の意図はできるだけ明瞭にせずに、おとぼけで入れておいて、憲法が正式に公布された後に、あれはああいう意味だったのだという自分なりの有権解釈を下したという可能性が高いのではなかろうかというふうに私は存じます。それが第一点。  それから第二点は、その芦田の意図はともかくとして、私の最初の話で申し上げましたように、極東委員会もGHQも、それによって日本が将来再軍備できると考えたし、そのことをやめさせようとする意図はなかったということでございます。 ○藤村委員 もう一つ、歴史的事実というか、あるいは認識の問題ですが、先ほどの質問にちょっと戻るのですが、なぜ急いだかという点。きょうの午前中の古関先生の御説明では、実は大きく観点が違っていたんですね、選挙ではないと。選挙ではないとはおっしゃらなかったが、むしろ大きなことは、極東委員会ができて、そこにまさに権限が移ってしまっては大変だというマッカーサーの焦りというふうにおっしゃって、どちらも歴史的な事実なんでしょうが、どちらが濃厚なんでしょうか。 ○村田参考人 それについては、古関先生の御意見が正しいと思います。  極東委員会が、アメリカの日本占領に対して、マッカーサーに排他的権限を与えるのではなくて、極東委員会にある種の諮問権というものを持たせよう、そういう動きが出てまいりましたから、極東委員会が力を持ってマッカーサーの占領政策に介入できるようになる前に、憲法についてはマッカーサーの手でまとめておきたいというのが、マッカーサーにとっては一番大きなタイムスケジュール上の問題であったというふうに思います。 ○藤村委員 我々のこの憲法調査会が、村田先生流に、ちょっと別な論文を読ませていただいた中で、あれは日米安全保障の問題ですが、いわゆるリージョナリスト、ファンクショナリスト、それから素人、つまり、ある意味じゃ憲法もそういうことが言えるのではないかと思うんですね。  非常に憲法に詳しい憲法学者であったり、あるいは憲法史の学者であったりという人たち。それから、ファンクショナリストというのが、ちょっと後ほどまた御説明いただいたらいいんですが、私の解釈では、むしろ村田先生のような、ちょっと別の分野ではあるけれども、割に広い、ワールドワイドな、あるいはグローバルな視点からこの問題に突っ込んでいく専門家。それから素人。これは、先生いわく、素人というのは議会でありメディアであるとおっしゃって、これは悪いことではない、つまり民主主義はそこが一番重要なんだというふうにおっしゃってはいるんですが。  まさに憲法の問題も、この三者がある意味では相当コミュニケーションをよくして検討していかないと、間違ったことになるんじゃないかな。国会だけで憲法をどうこうするという話でないように私はだんだんに考え始めたんですが、先生がおっしゃったことをちょっと今引用して申し上げましたので、ファンクショナリストの解釈も間違っているかもしれませんので、私の考えに対する御見解をお聞かせください。 ○村田参考人 ありがとうございます。私のほかの論文までお読みいただきまして、大変恐縮でございます。  私が日米安保についてリージョナリストとファンクショナリストという奇怪な言葉を用いましたのは、アメリカでは、日米安保の専門家には、日本語をよく話し、日本の事情に非常に精通をしているという、いわゆる日本専門家やアジア専門家というのがいて、これがリージョナリストである。  ところが、日米関係の重要性が非常に増してまいりますと、単に日本専門家とかアジア専門家以外の多くのアメリカのポリシーエリートたちが、時と場合に応じて日米安保関係について積極的に発言をしてくる。彼らは、何も日本という特定地域に関心があるわけではなくて、例えば、北朝鮮の問題が起こったらそのとき日本はどうするんだとか、台湾海峡に対する日本の態度はどうだ、通貨危機に対する日本の態度はどうだ、核拡散についてはどうだ、そういう個別の機能問題について、日本の問題に、日米関係に関心を持って介入してくるから、私はこれをファンクショナリストというふうに呼んでいる。  日本が大国化し、日米関係が重要になればなるほど、特定の地域専門家では日米関係は担えずに、そのようなファンクショナリストの参入がふえてくる。そのことは日米関係のある意味では成熟度を増すものであって、日米関係がライシャワーさんとマンスフィールドさんに頼っていれば大丈夫という時代はもう終わったということを私は申し上げたわけでございます。  それを憲法問題にひっかけて先生御指摘でございますので、申し上げますと、私は、憲法というのは、ほかのいかなる法律よりも素人が発言することが容易な法律であろうと思います。民法や商法に関して、私のような政治学者を呼んで、商法成立当時の政治事情など話させても何の意味もないことでございますけれども、憲法については憲法学者以外の発言があり得るし、そして、憲法に関しては、実はそのような素人の、私のとは申しませんが、素人の常識的見解というものを尊重することが非常に大事であるというふうに思います。  と申しますのは、九条の問題その他を含めて、憲法学者の議論が、あるいは御批判があるかもしれませんが、私の目から見れば、非常にテクニカルで専門的な袋小路に陥ってしまっていて、そういう意味では、良識のある非専門家の意見で憲法問題を活性させる必要が非常に大きいというふうに思っております。 ○藤村委員 私、藤村修と申しまして、修憲の修という字ですか、きょうお伺いして、修憲あるいは追憲ということも今後課題として考えていきたいということを述べまして、終わらせていただきます。ありがとうございました。 ○鹿野会長代理 福島豊君。 ○福島委員 公明党・改革クラブの福島豊でございます。  村田参考人におかれましては、本日は大変貴重な御意見をお聞かせいただきまして、心より御礼を申し上げます。  率直に申しまして、先生のお話をお聞きしておりまして、非常にわかりやすいお話だと私は思いました。私も戦後世代でございまして、先生のような観点でとらえるべきなんだろう、率直にそのように思っております。  ただ、幾つか御確認をしたい点がございます。  まず一つは、占領下の憲法改正ではあっても、憲法が無効だというような話にはならない。当時、要するに、押しつけられる、押しつけられないという話はありますけれども、主体的に選択をしたことである。そしてまた、そこから日本の戦後の政治、日本の国家ということが始まっている以上は有効であるという御判断だったと思うんです。  午前中は古関先生がおいでになられまして、憲法というものに対して、国家意思として形成されるべきものであるというお話がございました。主体的に選び取ったものであるといたしましても、果たして国家意思としてといいますか、国民の総意として選び取ったものであるのだろうかということは、論点として残るのではないかと思うんですね。  日本国憲法が制定されましてからその後、さまざまなイデオロギー的な対立が続いたわけでございまして、必ずしもあの憲法の中に国民的なすべての合意があったのかというと、恐らくそうではない。そうであるがゆえに、制定そのものも押しつけられたんだという話に常に舞い戻ってしまうというようなことがあるのではないかと私は思っているわけですが、この点についての先生の御認識をお聞きしたいと思います。 ○村田参考人 ありがとうございます。  御指摘のように、憲法に関して非常に国民的に広い合意があったわけではないということについては、国民の総意であったということであれば、何をもって総意というのかということになるのだと思うのですけれども、一〇〇%すべての国民がそれに合意したわけではないことは間違いないわけでありまして、より明治憲法に近いものを残すべきであるというふうに考えた方もいるでしょうし、もっと革新的な憲法を制定するように主張され、今日でも基本的に主張しておられる政党もあると思います。  したがって、もちろん一〇〇%の合意があったというわけではないと私は思いますけれども、しかしながら、日本国憲法の基本的な理念というものは、個々の条文、例えば九条二項をどう解釈するかとか、そういう個別的な局面については、議論はその後もずっとあったわけでございますけれども、憲法の基本的な精神とか理念とかいうもの、例えば先ほど来お話がございます国民主権というもの、これをなしにしてもう一回天皇主権に戻せというような議論は、私は、これはほとんどないというか、全くないと思います。それから、日本国憲法が自衛隊を認めているか否かという議論とは別に、国際平和を希求する精神というものを日本国憲法が追求しているということについても、私は、これは国民の間では相当広範なコンセンサスが存在するというふうに思います。そういう基本理念は、個別の問題を超えて、戦後日本で共有されてきたというふうに私は理解しております。 ○福島委員 そしてもう一点、当時の為政者がどう判断をしたのか。いろいろな経緯を伺っておりますと、天皇制をいかに維持するのかということが最大の課題であったのではないかというような気がいたします。  よく日本人というのは本音と建前という話がありまして、ひょっとしたら、GHQといろいろと交渉しながらつくられたこの日本国憲法というのは、当時の権力者にしてみれば、本音と建前の建前の部分だったんじゃないか、そんな思いもするんですけれども、そういう認識については先生はどうお考えでしょうか。 ○村田参考人 ありがとうございます。  天皇制を守るということが当時の日本帝国政府にとって非常に重要な政治課題であったことは、これは疑いを入れないと思います。しかしながら、それは、保守的な政府がそう思っていたというよりは、当時の日本国民の相当多数は、やはり天皇制の保持というものを支持したというふうに考えます。  それと、もう一つ大事なことは、やはり占領という特異な状況をできるだけ低コストで終わらせるということが政府にとっては非常に大きな課題であって、そのためには、ある意味では完全に自発的ではない憲法をとりあえず受け入れるということが政治的判断であったというふうに思います。  私は、少なくとも吉田茂は、憲法が五十何年間全く変えられないまま続くというふうにあの当時想定したとは全く思いません。吉田は、講和が終わって我が国が独立を回復すれば、しかるべき段階で憲法は変えられると。九条の解釈についても、当時の共産党の野坂参三議員とのやりとりで、吉田の方が言い過ぎまして、自衛戦争さえ認めないんだというような議論をして、その後政府がずっとそれで足をとられるということがございますけれども、とにかく、当時の吉田内閣の最大の課題は、日本がこれほど民主化しこれほど平和に徹する国になったということ、要するに日本は戦犯でございまして、刑事被告人でございますから、私どもはこれほど反省しました、それによって国際社会に復帰させてくださいというアピールという側面が非常に強くて、そして、一たん国際社会に迎え入れられて、要するに刑期を全うすれば、自分たちの判断で直せるところは直せるというのが当時の政府の指導者たちの考え方であったというふうに私は理解しております。 ○福島委員 要するに、本音と建前の部分が若干あったわけだけれども、しかし、気がついてみるとどうも建前が逆転してしまって、そこから身動きがとれなくなってしまったというんでしょうか。  先生のお話をお聞きいたしておりますと、修憲にしましても、さまざまな形で憲法についての検討そしてまた修正がなされ続けなければならない、この五十年間、そういうことが当然あってしかるべきだったと思いますけれども、しかし、日本の現実というのは、また吉田の予想も裏切ったような形で、そういうことは起こらなかったわけですね。なぜ起こらなかったのかということについて先生はどのようにお考えですか。 ○村田参考人 ありがとうございます。  まず、歴史に即して申しますと、サンフランシスコ平和会議によって日本の独立を回復したという、それは吉田外交の最大の勝利でございますけれども、その成功が吉田外交にとっては、あるいは政治家としての吉田の命運を決するわけでございまして、占領が終わると国民はもはや吉田を支持しなくなるわけでございます。一つの大きな歴史的、政治的使命を負えた吉田は政治の舞台から去っていく。これは、あの第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いたチャーチルがその後の総選挙で保守党が議席を失って退陣するという、そういう意味では民主主義というのは君主制と同様に非常に冷酷なものであって、用が済めばあなたはもう終わり、次にかわる、そういう判断をする。それは、ある意味で私は民主主義は健全であると思いますが、そういう意味では、吉田は自分のイニシアチブで改憲をする機会を失うわけでございます。  それから、やはり一番大きなことは、私は憲法改正について三つに分けてお話し申し上げましたけれども、しかしながら、戦後の日本では憲法改正イコール九条改正というイメージが非常に強くつきまとっていたということがあろうかと思います。そのことは、憲法改正について、部分的修正も認めないという原理的な、改憲か護憲かという対立に政治を導いていったのではなかろうかというふうに思います。  それと、九条が核心である以上、実は安保条約がある以上、九条についてはそんなに火急的に変える必要がなかったというところがあるんではなかろうか。つまり、安保条約によって、アメリカの力で日本がとりあえず守られる以上、九条については弾力的にその都度解釈していけばいいのであって、九条を変えなければ我が国の自衛が成り立たないという状況ではない。したがって、安保のおかげで九条は変えなくて済んだということになるのではなかろうかというふうに思います。 ○福島委員 非常にわかりやすいお話で、私も納得いたしております。  ただ、九条そのものも非武装中立というような思想が出てくる原点になったわけですが、先生のお話をお聞きしておりますと、要するにマッカーサーは、核戦略の中で自衛権も要らないということが出てきた。言ってみれば、非常に技術的な、純軍事的、技術的な観点からの発想であって、理想的平和論のようなところから出てきた話では全くないという御認識だと思いますが、そこのところを再度確認させてください。 ○村田参考人 ありがとうございます。  マッカーサーが核兵器の力を非常に高く評価していたというのは最近の研究が明らかにするところでございますし、それから、やはり私は、マッカーサーも吉田と同じように、日本がアメリカの占領が終わった後にもこの憲法をずっと持ち続けるとは思っていなかったと思います。それは、普通の考えでいえば、占領が終わればその国の国民が憲法を変えるであろうし、そのことについてアメリカも国際社会も反対はできないのは当たり前のことであって、マッカーサーは、自分の占領が終わった後にも日本人がこれほど長くこの憲法を持ち続けるとは思っていなかっただろうと思います。  それから、占領が続いている限りは、核兵器ももちろんそうなのでございますけれども、占領が続いているということは我が国に米軍がいるということでございまして、我が国に米軍がいる以上、日本の再軍備が火急的な問題でなかったということも、これはまた自明であったろうと思います。 ○福島委員 それから、日米安保条約そしてまた日本におきます米軍の駐留というようなことが憲法の改正そのものを求める動きにはならなかったという御判断なんですけれども、ただ、それだけではなくて、先ほど侵略戦争の定義について先生お話ございましたけれども、先生のお話は非常に冷静な客観的な話だなと私は思いましたが、必ずしもそうであると思わない人もたくさんおります。そういう意見もたくさんある。逆にまた、もっと非常に激しい意見の人もおると思うんですね。  そういう意味では、戦前の日本の、戦前といいますか、アジア太平洋戦争を含む日本の歴史に対しての日本人の認識というのは、私は二分されているというふうに思うんですね。決して合意に至っていない。国民の中で十分に消化されていない。 そしてまた、恐れというんですかね、過去に対しての恐れというのが潜在的に私はあるんじゃないかというような気がいたします。恐れというのは、要するに客観的にそれを見詰めて冷静に分析をしてという過程が伴っていないので、裏返せば恐れというようなことになる。  そういうことが、日米安保条約というような客観的な情勢とは別に、憲法そのものを論じる、そしてまた修憲なり追憲なりいろいろとあろうかと思いますけれども、そういうことに対して大変大きなブレーキに日本の国民の中ではなってきたんじゃないか、そんなような思いもいたしますが、その点についてはいかがでしょうか。 ○村田参考人 ありがとうございます。  御指摘のとおりかと思います。  例えば戦後の日本の政党史を考えましたときに、一九五五年に今日の自由民主党ができます。自由民主党は、自由党と民主党の合同によって成るわけですけれども、先生方御体験の方もいらっしゃるかもしれませんけれども、五五年の自由民主党発足のときに、主としてイニシアチブをとったのは民主党の側でございました。吉田がリードする自由党ではなくて、鳩山あるいは三木武吉といった民主党がイニシアチブをとって保守合同が起こる。そして、余り短絡的な色分けをすべきではありませんけれども、吉田と比べた場合に鳩山の方が戦前復帰型といいますか、国家主義的色彩が強いというふうに多くの国民が思ったことも間違いない。そして岸内閣が警職法の改正で最初から非常に国民に大きな抵抗を受けるというようなこともございます。  したがって、そういう保守の中でより保守的な側面のグループが中心的になって改憲をやるということに対して国民は、先生が御指摘になった戦前回帰のようなものを危惧して、ある種の心理的歯どめがかかったというふうに言えるのではなかろうかというふうに思います。  それから、自由民主党が改憲ということを党是に掲げる。五五年体制では同時に左右の社会党が合同いたしまして日本社会党になりますから、自民党が改憲というと社会党は護憲ということになるわけでありまして、その社会党に戦後つい最近まで国民がその他の野党を含めて三分の一程度の議席を国会に与え続けてきたということは、無意識のうちの国民のある種の判断が加わっていたかもしれないというふうな気もいたします。  それから、もう一つ歴史認識に関して申しますと、私は、恐らく日本人にとって一番大きな問題は、確かに非常に保守的な議論や反動的な議論をなさる方もいるわけですが、素朴な日本人の印象からいたしますと、日本人は実はあの戦争で自分たちも犠牲者だというふうに思っているわけですね。軍部の無謀な戦争に引きずられて、我々一般市民、自分たちの父や祖父も大変苦労して、家を焼かれて財産を失ったとか、疎開をしたとか、そういうふうに思っている。つまり、軍国主義のおかげで自分たちが被害者であるというふうに多くの国民は潜在的に思っていると思うのです。  そのことが、自分たちも実はアジア太平洋の人たちと同じように同列に犠牲者であるというふうに考えますから、そういう認識に立ちますと、実はアジア諸国に対する戦争責任とか反省、つまり、自分が日本という国の一部であって加害者の一部であったという側面よりも、自分も中国や韓国やその他の国の普通の国民と同じに軍部の被害者であったというふうな歴史認識に立ちやすい。そのような認識が戦後日本に非常に根強い反軍主義、軍について語ることはとにかくいけないという反軍主義を与えてきた。  つまり、そのような日本人のねじれた歴史認識が戦後の平和主義を支えてきたと同時に、アジア諸国との和解を困難にしてきたという二重の役割を果たしてきたというふうに私は思います。     〔鹿野会長代理退席、会長着席〕 ○福島委員 以上で私の持ち時間は終わりました。まだまだいろいろとお尋ねしたいことはございますが、また機会をつくっていただければと思います。どうもありがとうございました。 ○中山会長 中村鋭一君。 ○中村(鋭)委員 きょうは本当に御苦労さまです。さっきからずっとあなたのお話を伺っておりまして、私も、個人的ではありますけれども、非常に自分でも誇らしい思いがいたしました。  といいますのは、私もあなたと同じ同志社大学の出身でございまして、泉下に眠る新島襄先生は、ああ、いいのが出たなと喜んでいらっしゃる。私もまた喜んでいる一人でございます。また、年齢的にも、ちょうどあなたは私の二分の一引く二でございますので、私の下の娘と同い年。さっきから伺っておりまして、本当にこれで日本も安心だ、こう思って伺っておりました。  二、三お尋ねをさせていただきます。  ごめんなさい、先生と言わなきゃいけないのでしょうけれども、ついつい、どうしても何か先生と言いにくい。あなたと呼ばせていただきます。(発言する者あり)先生がいいですか。  では、ひとつ村田先生にお伺いいたしますが、前文について言及なさった中で、私が聞いておりました印象では、この現行憲法の前文がやはりもう一つぴったりきていないような印象を私は先生のお話から受けたのですけれども、率直な御意見を聞かせていただけませんか。要するに、長いとか、こういう表現はどうだとか、あるいは全体にパッシブであるとか、あるいはやめた方がいいとか、御意見があればお願い申し上げます。 ○村田参考人 ありがとうございます。  憲法の前文についてでございますけれども、先ほど別の先生の御質問で、憲法というのは実は英語の翻訳であってというようなお話がございましたが、恐らく前文は、憲法全体の中で最も翻訳調のにおいの強いところではなかろうかというふうに思います。それは、個別の条項は短くて、ここだけが文章が長うございますから、そういう翻訳調のニュアンスが一番出やすいところであろうというふうに思います。それが言葉の問題としての私の印象でございます。  それから、やはり前文というものが、先ほども申し上げましたように、憲法全体を支配する精神の提示というものであるとするならば、私は、前文については考えるべきところが多々あるというふうに思います。  それは、福田恒存の引用をいたしましたときに、福田が引用しているような箇所、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というような部分でございますが、「平和を愛する諸国民の公正と信義」というようなものが具体的には何を意味するのか、私には必ずしも明らかではない。そのような抽象的文言を並べることで、とにかく御託宣でありがたいというのでは、私は憲法の前文は意味をなさないものであろうと思いますし、福田が言うように、果たして、仮に「平和を愛する諸国民の公正と信義」というものが存在するにしても、そのようなものに一国の平和と安全を託するということが国の施策として正しいのかどうかは大いに疑問でございます。  これは、同じことを実は亡くなった高坂正堯氏がどこかのエッセーで言っておられまして、自分は改憲論者ではないけれども、憲法の前文については少し改めるところがある、平和を愛する諸国民の公正と信義にちょっとだけ信頼しというふうに、ちょっとだけを入れるべきであるというふうに言っておられます。これは高坂さんらしいユーモアでありますけれども。  つまり、我々が確かに国際社会の中で公正と信義を信頼しないといけない側面はある。それなしには、この相互依存の世の中で、日本が国際社会の中で発展することはあり得ない。しかしながら、同時に、我が国が主権国家である以上、国際社会の公正と信義に、非常に他者依存的に、それだけに頼って我が国の行く末を託すというのはこれは間違っているのであって、高坂さんはちょっとだけとおっしゃいましたけれども、私はこの表現については大幅に考え直す必要があるというふうに存じます。 ○中村(鋭)委員 私も本当に同感でございまして、特に、翻訳調という部分でいえば、ここに「全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、」とありますが、普通、やはり常識的に、日本語でこういう場合に「確保」という言葉を使うだろうかという疑問が出てまいりますね。  それから、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とありますが、こういう言葉遣いも、普通の日本語の使い方としては余り耳なれないと思うのですね。  また、「崇高な理想を深く自覚するのであつて、」この「自覚」という言葉。それから、「地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、」こういう言い回し。  それから、最後の三行でありますけれども、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、」ずっと参りまして、「他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」こう結んでありますけれども、この一番初めに「われらは、」というのがあって、その次に「いづれの国家も、」と来ると、非常にここに違和感があります。どうしても、日本語としてうまくしようと思えば、これは各国の責務であると我らは信ずる、ウイ・ビリーブということでありますから、ここへ「われら」が来なければ文章上はおかしい。  だから、そういう点を考えていくと、さっき先生がおっしゃいました、やはり修憲といいますか、そこへ行き着かざるを得ない、こう思うのですが、普通に護憲、論憲、改憲、こう言っておりますが、私は、ちょっと御意見を聞かせていただきたいのです。  護憲というのは、とにかく守るわけでありますから、これは一切さわらないということになりますね。改憲というのは、改めるわけですから、大いにさわることになりますが、論憲というのも、考えてみれば、さわらない護憲があって論憲というならば、論じていくうちにさわらなきゃいけないところがあるから、だから論ずるわけで、やはり論憲という言葉の含意、含むところは、修憲を含む、一切さわらないじゃなくて、さわらなければならぬという含意がある、こう私は理解するのですが、いかがでしょう。 ○村田参考人 ありがとうございます。  あるいは中村先生よりも私の方が護憲という言葉に対して寛容に理解をしているのかもしれませんが、私は、先生がおっしゃったように、護憲というものは、憲法について一切さわらないということでは必ずしもないのではなかろうか。  護憲とおっしゃっている政党がどういう意味で護憲という言葉を使っていらっしゃるか、あるいは私の解釈と違うかもしれませんけれども、私は、護憲というふうに言っていらっしゃる政党や、あるいはそういう論者の方々がおっしゃっているのは、憲法の基本的な精神を守るという意味で私は護憲とおっしゃっているのだろうと。もしかしたら私の理解が好意的に過ぎるのかもしれませんけれども、私はそのように考えておりまして、そうしますと、例えば、例に挙げました「国会議員の総選挙」の「総」という文字を取るということが、護憲を主張される政治政党にとってその立場に著しく反するというふうには、私は到底理解できないところでございます。 ○中村(鋭)委員 おっしゃるとおりだと思いますね。  やはり私の言葉が足りなかったので、護憲とおっしゃっている皆さんも、修憲という点では、別にそこにこだわることはない。やはり皆さんがおっしゃっておる護憲というのは、現行憲法の守るべき根幹といいますか、そこの部分は守らなければいけない、例えば憲法九条でありますとか、そういう点だと思います。がしかし、論憲という言葉に含まれるところは、最終的には、やはり改憲ということも含むという解釈を私はしておきたい、こう思うのであります。  せっかくの機会でありますから、修憲ですけれども、先生、どうなんでしょう。この憲法を見ると、ここに勅語がございますけれども、「朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。」「やう」の字は、やゐゆゑよのよじゃなくて、や、やなんですね。「やうに」と書いてありますね。「思ふ」は、ふ、はひふへほのふと書いてありますね。  こういった旧仮名遣いは、先生のようなお若い方から見れば、これはぱっと見て違和感を感じませんか。 ○村田参考人 感じます。 ○中村(鋭)委員 それから、ここに大学の先生、江橋崇教授が幾つか指摘をしていらっしゃるのですけれども、文法的な誤りと表現上の誤りが実際あるわけですね。  例えば、日本国憲法、今申し上げましたその勅語の後に、「朕は、」「帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」こうなっておりますが、第七条におきましては「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。」こうなっているわけです。 前半に「せしめる」とあって、第七条は「公布すること」になっているわけですね。これは天皇の国事行為でありますから、ここの部分は当然ながら「せしめる」とすべきである、こういう指摘を江橋教授はしておられます。  さらに、第二十六条に「保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」こうなっているのですが、子女というと、子供の子、女という字を書きますが、では、子男はいいのか、男はいいのか。子女というのは、この学者さんがおっしゃるのは、これは一つの差別であるということなんですね。だから、子供とか児童というならいいのですけれども、何でここで子女という言葉が出てくるのか、これもおかしいではないかと。ややいわゆる重箱の隅をほじくるような議論ではありますけれども、修憲と言うのなら、これにも言及せざるを得ない。  それから、第六十七条「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」とありますけれども、これはやはり言葉の正確な意味において、この「議決」は、さっき先生が「総選挙」とおっしゃいましたね、この「総」の字を取らなきゃいけないとおっしゃった。同じ意味で、この場合は、「国会の議決で、」ではなくて、「国会の選挙で、これを指名する。」と。総理大臣は選挙で選ばれるわけでありますから、選挙の結果、議決がある、そういう解釈は成り立ちましょうが、まず素直に読めば、六十七条は、やはり国会の選挙でと言わなければ相なりません。  こういった点を、根本的な憲法を改めるとかということとは別に、先生のお考えでは、こういった修憲の部分では、別に三年とか五年とか議論を待たず、国会で意見が一致をすれば直していいというふうにお考えでございますか。 ○村田参考人 そのように存じます。  ただ、恐らく、私が申し上げました「国会議員の総選挙」の「総」という一字を取るためだけにも、これは憲法改正手続を要して、国会の三分の二以上の発議によって、国民投票で過半数を得なければ「総」という一字が取れない、そういう状況でございましょうし、それから、憲法が規定するところの特別の選挙というのでしょうか、憲法改正のための改正法のようなものを今我が国は持っておりませんから、そういうものをおつくりいただくというのは非常に重要なことではないかと存じます。 ○中村(鋭)委員 これは、私、自由党でございます。自由党の方で国民投票を行うための立法措置は既に十分講じておりまして、これからまた国会の先生方にお諮りをして、なるたけ早く、国民投票法とでもいいますか、国民投票のための手続を完了したい。その暁にはやはり「総選挙」の「総」を取るように、ひとつ御期待をしておいていただきたい、こう思うのでございます。  最後に、私が国会の中で最も尊敬をいたしております中曽根康弘先生が最近の文章の中でこういうことをお書きになっていらっしゃいました。「最近の憲法論争における国家論の欠落である。敗戦以来、国家なる存在が国民からはるかに遠ざかった。国家の中に生きていながら、その国家なるものの解明や個人との関係に関する学問的論議が欠けたまま感情的な憲法論議が横行している。 正しい憲法観は、正しい国家観の上に築かれる。国民主権にあっては国民は憲法を自ら制定する権力をもつ。」「このことを真剣に行えば、おおよそ一国平和主義や一国繁栄主義のような利己的閉鎖的便宜主義が生まれる余地はなくなると思う。」と中曽根先生は書いていらっしゃいました。  この今私が朗読をいたしましたくだりにつきまして、特にこの国家観という点につきまして、最後に先生の御意見を承って、私の質問を終わりたいと思います。 ○村田参考人 ありがとうございます。  国家観というのは非常に難しい問題でございますが、恐らく二十一世紀の日本人が持つであろう国家観というものは、戦前の国家観とはもちろん全く違うものであって、それが成熟した市民社会と結びついていなければならないということが私は非常に大事なことであろうと思います。市民社会を犠牲にするような形での国家というものはもはや成り立たないということ。  それからもう一つは、戦前の日本は一国軍国主義で破れたわけでございまして、もしかしたら戦後の日本は一国平和主義で没落していくかもしれないというわけでありますが、日本のような国が繁栄し、安定していくためには、国際社会との協調という枠組みなしにはあり得ない。  したがって、自国についての国家論を持つと同時に、それが開かれた国家論であって、閉じた国家論ではなくて、国際社会との結びつきを重視し、市民社会の発展を育成するような国家観というものを、それこそ先生の年の半分の私どもの世代が打ち立てていくことが非常に大事だというふうに存じております。 ○中村(鋭)委員 ありがとうございました。 ○中山会長 次に、佐々木陸海君。 ○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。  この調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うということを目的としており、きょうのこの調査会は日本国憲法の制定経緯について調査を行うというテーマが課されているわけであります。大分そこから離れたような議論が展開されているようでありますけれども、私はそこに絞って質問をしたいと思います。  前回、二人の参考人がお話しになりましたが、日本国憲法、きょうの参考人がおっしゃる狭い意味での改憲論を主張なさる方々は、憲法が押しつけられたものだということを主張する、そしてその重要な論拠としてハーグ陸戦法規の四十三条というものをお挙げになります。前回の西修、それから青山武憲両参考人も、このハーグ陸戦法規をお引きになって、日本国憲法がそれに違反するとまでは言わなかった方もいらっしゃいましたけれども、そういう議論を展開されました。  きょう、参考人はそれとは違った立場を明確に表明をなさったと思います。つまり、ハーグ陸戦法規というものはありますけれども、日本はあの時点で、ドイツとは違って日本の厳然とした政府が存在するもとでポツダム宣言というものを受け入れて、そして降伏文書にも調印をするという形でこの占領を受け入れたわけでありますから、特別法は一般法を破るという原則もあって、このポツダム宣言に体現された日本の民主化、それから軍国主義の一掃、そういった方向について占領軍が一定の指示や命令を日本政府に対してやって、そして日本政府がそれを実行するということは当然あり得るという形で、これはハーグ陸戦法規違反ということは言えないということをおっしゃったと思うのですが、その点は間違いないでしょうか。確認をしておきたいと思います。 ○村田参考人 今先生がおまとめをくださったことが、私のきょうのお話の趣旨でございます。 ○佐々木(陸)委員 私どもは、むしろハーグ陸戦法規が適用されるべきということに関して言いますならば、沖縄に対するアメリカの占領、そしてそこでの銃剣による土地の取り上げ、そして基地の建設、あの過程というものはまさしくハーグ陸戦法規に違反するものだというふうに考えておりますが、きょう、そこには深入りする必要はないと思います。  それで、参考人はアメリカの外交、安全保障を研究しておられるし、フォレスタル国防長官、初代の国防長官については著書もおありになるようですので、その点に関して質問をしたいと思うのです。  連合国GHQの指示のもとで日本国憲法の制定に入っていくあの段階で、GHQは、マッカーサーは当然そうですが、日本国憲法の第九条に今なっているあの条項に関して、戦争を否認し、そして戦力不保持、そして交戦権否認ということを推進をしたわけでありますけれども、それについてマッカーサーの立場は矛盾がなかったと。一九四六年当時、矛盾はなかったし、アメリカは本国のアジア戦略といいますか、世界戦略からいっても、日本にそういうことをする方向には矛盾がなかったということを、主として核兵器とソ連との全面戦争という形で説明をしていただいたと思うんですけれども、アメリカの当時の世界戦略というようなものと、日本に軍備を一切持たせない、持たない日本ということとは、将来も展望してですけれども、当時のアメリカとしては整合性があり、矛盾はなかったのでしょうか。 ○村田参考人 ありがとうございます。  あるいは私のお話の仕方が若干粗雑であったかもしれませんが、きょう申し上げましたことの論点は、マッカーサーは、先生がおまとめくださったように、非常に核兵器について重く見ていて、有事の際にはアメリカ本国から来援が来るから、日本について再軍備を急がせる必要はない、あるいは必要がないという考えを一時持っていたというふうに思われます。  しかしながら、アメリカのワシントンのJCSは、ソ連との全面戦争のときに百九十六発核兵器が要る、アメリカの在庫は四八年末で五十発しかないということですから、ワシントンの意向は、イギリスやフランスのような同盟諸国に通常戦力の強化を促し、そして日本やドイツのような敗戦国についても再軍備を求めるというのが、ワシントンの軍部のピンチャー・シリーズという作戦計画からくるところではそのように考えられたということでございまして、つまり、ワシントンの意向とマッカーサーの戦略論には乖離がございまして、その後マッカーサーの戦略論が敗れていく、JCSの考え方が生き残るというのが事の経緯でございます。  ただ、もう一つ申し上げておかなければなりませんのは、私がここで申し上げておりますのはあくまで軍部のレベルの軍事作戦の話でございまして、軍部のレベルの軍事作戦で整合性があったとかなかったということと、アメリカのアジア政策、議会や大統領府を含めた政策とが、これが全く同一のものであるわけではない。つまり、アメリカ国民の中にも、あの太平洋戦争で戦った日本に武器を持たせるということは危険であるという素朴な国民感情というのは十分あって、政治家はそれを無視することはできませんから、そういう軍部の考えた作戦計画というものと、より高次の政治の判断が同じであるというわけではないということを申し添えておきます。 ○佐々木(陸)委員 それじゃ、その点についてもう一つお聞きしますけれども、四六年の当時、アメリカのそういう戦略というよりも、もう少し広い意味でのアメリカの国家の政策として、日本を非武装にするという方向との矛盾はなかったのでしょうか、あったのでしょうか。マッカーサーは非武装の方向の憲法をつくらせようという方向を推進していたわけですけれども、それとの矛盾は、アメリカの政策全体としてはなかったのでしょうか。 ○村田参考人 恐らく、日本占領についてはマッカーサーが相当大きな委任権を持っていたということが言えると思います。それから、占領地における憲法をどうするというようなことについては、例えば大統領のような高いレベルでは、強い関心のあった問題ではなかったというふうに私は思います。  それから、マッカーサーにしてみましても、四六年、四七年段階と申しますのは、例えば公職追放でありますとか、日本の戦前の軍国主義的勢力を一掃し、つまり、アメリカの日本占領政策にとって最大の最も重要な目的は、日本に平和憲法をつくらせることでも何でもなくて、日本が二度と再びアメリカにとって危険な存在でないようにするということが最大の目的であって、戦勝国が敗戦国に対してやることについては、これは当然のことでございます。  それが所期の目的でございますから、軍国主義勢力の一掃であるとか、それから戦前の帝国陸海軍の解体であるとか、そういう非軍事化というのが、四六年それから四七年の相当程度までのアメリカの主要な課題であって、それが達成された後に、今度は重点が日本の復興というふうに移っていく、そういう中では大きな矛盾があったとは存じません。 ○佐々木(陸)委員 つまり、四六年、四七年当時のアメリカの政策全体は、連合国全体の政策とも合致し、また、言ってみれば日本の侵略を受けたアジア諸国の世論とも合致して、日本を再びああいう侵略戦争ができないような、軍国主義勢力を一掃し、そして戦争否認、戦力不保持の憲法を日本がつくっていくという方向について、特別な矛盾はなかったということだと思うんですね。私もそのとおりだというふうに考えます。  しかし、今参考人が言われたように、その後、アメリカの中で変化が起こってくるということがあるわけでありまして、例えば冷戦政策のトルーマン・ドクトリンというのが四七年の三月に発表され、それから、ロイヤル陸軍長官の四八年一月の、日本を全体主義の防壁にしていくんだというような方向も出てくるということであります。  そのロイヤル長官の演説の直後に、まさしくフォレスタル国防長官の指示によりまして、陸軍省で日本の再軍備計画、「日本の限定的軍備」という文書が作成されるに至っているのではないかというふうに思うんですが、このフォレスタル長官のその当時のこういう指示の背景は何でしょうか。それまでのアメリカの政策がやはり明確に転換をしてきているということを背景にしてということだと思うんですが、その辺はいかがでしょうか。 ○村田参考人 アメリカの対日占領政策が四七年の半ば過ぎぐらいから転換をしてくるということについては、私は、基本的に先生のおっしゃるとおりであろうというふうに思います。 ○佐々木(陸)委員 フォレスタルの指示に基づいてつくられたこの文書というものは、五月の十八日に作成されて、四九年の二月の二十八日に統合参謀本部の決定となって、JCS一三八〇/四八というものになって出てくることになると思うんですね。これは既に日本でも公表されているものです。そこでは新しい憲法を修正するというようなこともうたわれていると思うんですが、その背景をもう少し具体的に。 ○村田参考人 先生御指摘の資料について、私、今手元にございませんので具体的なことを申し上げることはできませんけれども、一つは、トルーマン政権の緊縮財政ということがあるわけでございます。  トルーマンは非常な均衡財政論者でございまして、国防予算の上限を非常に厳しく定めていたのでございます。したがって、他方で第二次世界大戦が終わりまして、アメリカは大量の動員解除を行っていくわけですね。そして、軍事予算も大幅に削られてまいりまして、この上限が非常にリジッドに定められているわけでございます。  トルーマンがそのような非常にタイトな国防予算について大幅に見直しをするのは、一九五〇年の朝鮮戦争が勃発した後でございまして、その後にアメリカの国防予算は飛躍的に伸びてまいりますけれども、四八年とか四九年とかいうのは、アメリカの軍部が予算折衝をめぐって大統領から非常に抑えつけられた時期でございます。  そうしますと、自国の国防予算の大幅な増強が当面望めない。核兵器よりも通常戦力が一番金がかかりますから、そうしたときに、最初に申し上げたように、同盟諸国であるとかあるいは占領地で将来自国の同盟国になり得るような国に再軍備を促すという方向になったというのは、つまり、自分たちの通常兵力の拡大が早急に望めないという中での選択ではなかったかというふうに存じます。 ○佐々木(陸)委員 アメリカの国内財政の問題も確かにあるかもしれませんけれども、例えばアジアにおきましては、アメリカが自分たちの同盟として頼み得ると想定していた中国が、中国の中で革命がずっと前進していく、そういう背景のもとで、例えば蒋介石が支配をする中国であるならばアメリカにとっては安心なんだけれども、しかし、それがやがて、四九年の十月一日ですか、新中国が誕生していくというような局面を迎えつつある中で、単に財政的な事情というような問題だけではなくて、やはり日本を再武装させていく、そういう方向がこの時期からアメリカに明確に出てきたということではないのでしょうか。 ○村田参考人 ありがとうございます。  言うまでもなく、北東アジア、アジア太平洋で、潜在的にアメリカに対して脅威になり得る国は日本と中国しかございません。それは国力から考えて当然のことでございます。日本は実際に太平洋戦争でアメリカと三年半にわたって、負けたとはいえ戦うだけの力があったわけでございまして、その結果アメリカに敗れたわけでございます。アジアにおいてアメリカに潜在的に挑戦できる国が中国と日本しかなく、そして他方の中国が、今先生が御指摘になったように、共産主義の道を選んだというときに、アメリカが、もう一つの潜在的大国である日本をアメリカ側の陣営に取り込んで、軍事的にも強化しようとしたということは、私は事実であろうと思います。  それは、ジョージ・ケナンというアメリカの有名な外交官がこういうことを言っておりまして、世界の中で本当にアメリカが守るに値する重要な拠点というのは、五つしかない。一つは北米大陸、もう一つはロシアのヨーロッパ側、そして西ヨーロッパ、イギリス、日本である。  北米大陸は、既にこれはアメリカの領土でございますから、それはアメリカのものでございまして、ロシアのヨーロッパ側は、これはソ連、共産主義の手に落ちている。とすれば、アメリカの最も妥当な戦略は、残りの三つの拠点、西ヨーロッパとイギリスと日本を共産主義陣営の手に落とさないということであるというふうに考えていた。そういう意味では、先生のおっしゃるとおりであろうというふうに思います。 ○佐々木(陸)委員 まさにアメリカの方も四六年、四七年当時は、もちろんソ連を潜在的な敵として、同盟をしていたにもかかわらずそれをかなり強く意識していたでしょう。しかし、それを意識しても、日本の軍備はさせる必要はない、そこに利益を感じていた。しかし、中国でのこういう革命が前進してくる、その他のいろいろな変化の中で、日本の再武装というようなことをアメリカの中で積極的に検討するということになっていったというところに、これはけさの議論ですけれども、日本の中で憲法押しつけ論というようなものがその後強く出てくる背景があったと私たちは見ているわけであります。  日本での憲法九条を変えるというような議論は、そういう意味では、この時期のアメリカの戦略に端を発しているんではないかというふうに私どもは考えておりますが、参考人はいかがでしょうか。 ○村田参考人 憲法九条を変えようという昨今の議論が、終戦当時のアメリカのアジア戦略に端を発しているということについては、もし先生の御質問がそういうことでございますならば、これは相当周到な歴史的検証を必要とすることでございまして、私はにわかにお答えすることはできませんが、私の印象では、憲法の改正という問題がここ数年来盛んに論じられるようになってきたことの一番大きな理由は、湾岸危機、湾岸戦争において、我が国が国際的に十分な役割を果たすことができなかったということであろうかと思います。  PKO法案がその後に通っておりますけれども、我が国が、要するに消極的平和主義に徹していては日本が国際社会の中で十分な役割を果たすことはできないということが、湾岸危機、湾岸戦争で明確になった。その反省に立って、憲法九条についても、積極的な平和主義の立場から、見直せるところは見直そうという議論になってきているのだというふうに私は理解しております。 ○佐々木(陸)委員 私は、この時期、一九四八年、九年くらいからアメリカにこういう議論が起こってきて、そしてそれが、しかしこの憲法九条というようなものは、日本国民の言ってみれば戦争の体験に根差して非常に強いものがあって、なかなか憲法を改正することも果たせないということで、七〇年代末のガイドラインのときとかあるいは最近のガイドラインのときとかいう折に触れて、言ってみればアメリカ発の改憲論が出てきているというふうに私どもは見ているということを最後に申し上げまして、終わります。 ○中山会長 伊藤茂君。 ○伊藤(茂)委員 参考人のお話を伺いまして、まず一つ思ったことがございます。  それは、今進めている憲法論争の座標軸の置き方の問題でございまして、先ほど、修憲とか追憲も含めまして見直しがございました。  私の理解では、今まで五つあった。マスコミで言われているところでは、一つは改憲、自民党であることは言うまでもございませんが。二つ目には護憲、社民党もそう言われます。  私の護憲論は、護憲という言葉というのはどうもおもしろくないんで、骨とう品を大事にするような護憲とは私は全然思っておりません。きれいに磨いてぴかぴか光るような時代にしたいという意味でございまして、ちょっといい言葉はないかなと私はいつも思っているんですが、まあ二つございます。  三つ目には論憲ですね。私ども野党の兄貴分ですから批判はしたくないんですが、どっち向いているのかな、論ずるのは当たり前なんだけれどもという気持ちなんですが、いい兄貴分になってほしいと思っております。それから創憲というのがございました。私の友人でございました亡くなった山花さんなどが書いた問題がございます。それからもう一つは、廃憲という言葉がございます。石原慎太郎さんなどが言われている、捨てろという意見がございます。  それに加えまして、今、修憲、追憲でございました。七つあるのかなというふうな思いをしていたわけでございます。  しかし、同僚議員みんな同じ気持ちだと思いますが、やはり二十一世紀、これからの新しい日本の形をどうするのかという大事なことですから、七つあるなと思って感心しているわけにはまいりません。何かやはり、国民のマジョリティーを形成する座標軸を定めなくちゃならぬ。そのためには激しい議論も騒然たる国民的論争もしなければならないというふうな思いでございます。  そのことをどうするのかなと思いますと、やはり、憲法制定以来の経過とこれからの新しい時代というものを思います。  憲法制定の当時には、言うまでもございませんが、お話のありましたように、第二次大戦直後、世界も日本もみんなやはりノーモア・ウオー、もう戦争は二度と御免だ、そういう思いを深くして、私も軍人の学校へ行ってやめて帰ってきて、新憲法ができて、文部省の小学校の新憲法についての教科書には太陽の日の出がかいてありました。そういう気持ちだったと思います。  しかし、そのすぐ後に冷戦時代に入りまして、朝鮮戦争も起きました。いろいろな問題が起こるという中で、日本の今日というのは、片や憲法、片や日米安保条約、この二つの柱の相克でつづられてきた、しかもまだ未解決、何かこれを打開する新時代をつくらなくちゃならぬという思いでございます。  それらを考えますと、私は、国民のマジョリティーを形成できるような座標軸をどう定めていくのかということを意識した真剣な議論をしなければならない。幾つか条件がございます。  これは、社会も経済も非常に大きな変貌をいたしました。今までとは違った新しい設計図で次の時代をつくらなくちゃならぬというふうに思います。世界もポスト冷戦の時代になりました。先ほど国家論という話がございましたが、やはり、今や国が物差しの時代ではない、ネーションステートの時代ではない。インターナショナルではなくトランスナショナルなグローバリズム、あるいは地域とかコミュニティーとか家庭とか、最後は人とかこういう、国家を一つの最大の物差しとする時代は終わるんだということは、もう十年前にガルブレイス氏やドラッカー氏がポスト資本主義社会などと論じているということだと私は存じております。  先ほど先生は、積極的平和論とおっしゃいましたが、それも含めまして、こういう時代にやはり鮮明かつ鮮烈な理念を持つ国でありたい、同時に、それが架空の理想ではなくてすぐれた具体性、現実性を持つということだと思います。その両面を兼ね備えなくちゃならぬということではないかというふうに思います。  そうなりますと、私は、何か後ろ向きというと言葉は悪いんですが、何か朝鮮半島その他ごたごたしている中での不審船、工作船の問題もある、そんな中での状況、目の前にたくさんの困難な問題がございます。それを超えて次の時代をどうやるのかというやはり誇りある提唱をする、それぐらいの国、そういう誇りある国民、国に私はこれからなりたいと思います。  同時に、それを踏まえながら、その理想を高く掲げながら、いかにして具体的な方策をとるのか。新しい現実、そしてまた新しい対応をどうするのか、理想を持って。そういう意味で、非常に今、私の立場からいいますと、現実これでは対応できない、現実に返る――古くなった新しい問題というものはまた議論がありますけれども、というふうな気がするわけです。  先ほど積極的平和論とおっしゃいましたが、積極的平和論にも軍事的に普通の国並みにどう対応するのか、今のP5と同じことをやるのか、私は日本の国は違うと思います。国家間の戦争はない時代ですし、それから深刻な民族紛争その他のことがありますし、予想もされます。そういうことをやるためには周到な努力と時間をかけた対応をしなければならぬというふうに思いますが、そういう座標軸の定め方の基本的な方向づけというものをどうお考えになるでしょうか。 ○村田参考人 ありがとうございます。  先生が御引用になりましたガルブレイスでしょうか、国家中心の時代は終わったというようなことを今伺いましたけれども、私は、ガルブレイス博士、碩学に挑戦するつもりはございませんが、そのガルブレイス教授の認識は基本的に間違っていると思います。国家は依然として国際社会で中心的役割を果たすと思います。それは、国家以外のアクターが国際社会で重要な役割を果たすということと矛盾はいたしません。その二つのことは全然別でございます。他国籍企業も国際機関も、あるいはNPOもますます役割を高めていく、そのことは間違いございませんけれども、国際社会において国家の役割がなくなっていくというような考え方は、私は基本的に間違った考え方であろうというふうに思います。  それで、座標軸ということでございますが、お答えになるかどうかわかりませんが、東京大学の田中明彦教授は、その御著書の中で、国際社会を三つに分類しておられるわけです。  一つは、中世圏。彼は「新しい中世」という本を書いておりまして、つまり、先生おっしゃったように、例えば我々が、日本人であるけれども、でも勤めている会社はアメリカの企業であったり他国籍企業であったりして、NPOで市民団体でも一生懸命やっている。国境を超えていろいろな活動もやっている。そういうふうに、人間のアイデンティティーが、日本人だ、国家と自分というのを超えてさまざまなアイデンティティーを人間が持っているというのは、これは中世の状況と非常に近い。中世の人間が、どこかの領主に属しているというだけではなくて、カトリック教会に属しているとか、農民としてとか、あるいは、フランス人だと思ったら戦争であしたからドイツ人になっているとかいうふうに、アイデンティティーが多元化している。それで、国家だけが主たるアイデンティティーの源ではないという意味で、それは新しい中世というべき状況であるということを田中さんは言っておられました。  ただし、そのような新しい中世段階に入っているのは先進民主主義国家だけであると。それに対して、近代圏と呼ばれるような国々がございまして、まだまだ主権国家、国家の発展、確立ということを最大目標にしている地域がある。北朝鮮もそうですし、中国もそうですし、日本周辺の多くの国々は、そういう意味でまだ近代圏に属している。国家主権ということを非常に重要視する国々が周りにある。  それとは別に、そもそも国家主権というものを確立するに至っていない段階の地域があって、それは、不幸にして多くのアフリカの地域で民族紛争が続いているというような、そういう地域である。  そういうふうに申しますと、近代を終えてポスト近代で再び中世圏になった先進民主主義諸国と、そして、依然として主権国家を非常に重視する近代圏に生きている国々と、近代圏にまだ至っていない地域というふうに、世界は実は三層構造になっていて、同じように同時並行で進んでいるのではない。  それで、我が国の不幸なところは、我が国はポストモダンの中世圏に属しながら、我が国周辺はほとんど近代圏であるということであろうかと思います。  それから、積極的平和主義ということに関して申し上げますと、私が積極的と申しましたのは、先生が今いみじくも御発言の中で、ノーモア・ウオーということをおっしゃいましたけれども、ノーモア・ウオーだけでは平和主義にならないというのが積極的平和、つまり、戦争は嫌だという否定形で平和を定義することができないというのが、私が申し上げたい積極的平和主義でございます。  私、先ほど引用する時間がございませんでしたけれども、福田恒存は、やはり戦後の平和というものについて、戦後の平和が持っている最大の問題は、平和を通じて我々が何を実現するのかという理念を我々が提示できていないことである、平和そのものが目的なのではなくて、平和を通じて我々は何を実現しようとしているのかということを戦後の日本の平和主義は提起してこなかったのではないかと。とすれば、ただ戦争がなければよい、食うに困らなければよいという現状主義に我々はいつまでも引きずられていって、それは実は貧しいときではなくて社会が豊かになればなるほど、そのような、戦争さえなければよい、日々食えればそれでよいという現状追随主義に我々は敗れていくことになるというふうに福田は言っております。  その、平和を通じて何を実現するかということを、私どもは残念ながら長らく考えてまいりませんでしたから、今後、相当程度時間をかけてその問題について考える必要があるというふうに存じます。 ○伊藤(茂)委員 誤解のないように、私は国家を否定するわけではありませんで、国だけ、あるいは国を最大の物差しとした時代とは違うという意味でございますし、それから、さまざまな紛争その他について、理想を言っているだけという気持ちは私はありません。  と同時に、やはり世界でも経済的に大きなポジションを持つ国ですから、もっとそういうものにふさわしいような、ピースメーキングのさまざまの戦略、経済、外交、文化、それからNGOなどもあるでしょうね、そういうものを多面的にやれるような国でありたい。理想と現実を踏まえてという意味でございますので、御理解いただきたいと思います。  もう一点だけ伺いたいのは、天皇制の問題。  先ほどお話の中で、グルー・メモランダムの話がございました。憲法制定過程の中で、極東委員会でも、あるいはGHQとしても、我が国の中でも、一番念頭に置かれた問題でございます。  あれから長い月日がたちまして、私も、皇室、天皇に対する親愛と敬意の念は、国民の皆様と共通に持っているつもりでございます。ただ、憲法という立場からいいますと、国民主権原則からいって、第一章にこれがあるというのはいかがなものだろうかという議論ですね。これは天皇を悪く言う意味じゃないですね、冷静な気持ちで考えて。  調べてみますと、立憲君主国の憲法でも、第一章あるいは冒頭に国民主権を規定しているという国はさまざまございます。例えば、スウェーデン王国憲法の中でも、第一条、スウェーデンにおけるすべての公権力は国民に由来する。スペイン、ベルギー、タイその他、王様がいらっしゃる国でも憲法はそうなっているという形がございます。  私は、天皇元首論とかそこまでは、きょうはそういう議論はいたしませんが、何かそういう意味でふさわしい形というのは、第一章第一条、一番先にやはり国の主権は国民なんだということを言い、しかる後、尊敬を失せずしかるべき形で天皇を位置づけるというのがいいのじゃないかなと思いますが。  だから改正しろという議論は今私はしませんよ、政治的な判断ですからそれは別途でございますけれども、理論の問題として、あるいは憲法という建前の問題として、どうお考えでしょうか。 ○村田参考人 ありがとうございます。非常に重要な御指摘かと思います。  中学校や高等学校でも、日本国憲法を教えますときに国民主権ということが三大特色の一つとして言われますけれども、先生御指摘のように、ではどこに書いてあるんだといいますと、憲法の第一条の、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」というところで間接的に規定されているにすぎないわけでございまして、象徴天皇制をどうするかということとは別に、国民主権ということが明確に、もっと積極的に打ち出されるべきではないかということは、私は先生と全く同感でございます。  ただ、恐らく、今の憲法で一条にそれが来ているというのは、天皇制の問題がGHQにとっても日本政府にとっても一番センシティブな問題であったからそういう形になっている、そういう歴史的経緯のものでございましょうけれども、今日から見れば、国民主権の条項をもっと明確に打ち出すべきではないかという議論は、十分あり得ることだと存じます。 ○伊藤(茂)委員 ありがとうございました。  終わります。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  村田参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)  次回は、来る三月二十三日木曜日、幹事会午前九時二十分、調査会午前九時三十分から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時十七分散会