衆院憲法調査会(2・24) 平成十二年二月二十四日(木曜日)     午前十時一分開議  出席委員    会長 中山 太郎君    幹事 愛知 和男君 幹事 杉浦 正健君    幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君    幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君    幹事 仙谷 由人君 幹事 平田 米男君    幹事 野田  毅君       石川 要三君    石破  茂君       衛藤 晟一君    奥田 幹生君       奥野 誠亮君    小泉純一郎君       左藤  恵君    白川 勝彦君       田中眞紀子君    中川 秀直君       中曽根康弘君    平沼 赳夫君       船田  元君    穂積 良行君       三塚  博君    森山 眞弓君       柳沢 伯夫君    山崎  拓君       横内 正明君    石毛えい子君       枝野 幸男君    中野 寛成君       畑 英次郎君    藤村  修君       古川 元久君    石田 勝之君       太田 昭宏君    倉田 栄喜君       福島  豊君    安倍 基雄君       中村 鋭一君    二見 伸明君       佐々木陸海君    中路 雅弘君       東中 光雄君    伊藤  茂君       深田  肇君     …………………………………    参考人    (駒澤大学法学部教授)    (駒澤大学大学院法学研究    科委員長)        西   修君    参考人    (日本大学法学部教授)  青山 武憲君    衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君     ――――――――――――― 委員の異動二月二十四日  辞任         補欠選任   福岡 宗也君     古川 元久君   志位 和夫君     中路 雅弘君同日  辞任         補欠選任   古川 元久君     福岡 宗也君   中路 雅弘君     志位 和夫君     ――――――――――――― 本日の会議に付した案件  日本国憲法に関する件(日本国憲法の制定経緯)     午前十時一分開議      ――――◇――――― ○中山会長 これより会議を開きます。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を進めます。  本日、午前の参考人として駒澤大学法学部教授、駒澤大学大学院法学研究科委員長西修君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に、参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、西参考人、お願いいたします。 ○西参考人 御紹介いただきました西でございます。  このような席でお話をさせていただくことを大変光栄に存じております。よろしくお願いいたします。  本憲法調査会の目的は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うということでございます。そして、最初にいわば憲法成立過程について共通の認識を得よう、そういうところからスタートなさっていらっしゃる、こういうことに関して深い敬意を表したいと思っております。  イギリスの法諺、法律の格言に次のようなものがございます。ファクツ・アー・モア・パワフル・ザン・ワーズ、事実は言葉よりも強力である、力が強い。逆に言うならば、どんな言葉も事実の前には無力である、こんな意味だろうと思います。  さて、本日、皆様方のお手元に私のレジュメがあるかと思います。ふだん学会等で発表するレジュメよりも少し詳しく書いてまいりました。というのは、皆様方にも読んでいただいて御理解をいただきたい、そういう意図からでございます。  最初に、「事実認識と評価」という項目について簡単に申し上げたいと思います。  読み上げます。  事実認識でありますけれども、最初に、これは最近配られたようでありますけれども、内閣の憲法調査会が憲法制定の経過に関する小委員会報告書を作成いたしました。その最後の、いわばまとめの部分であります。このようなことが書かれております。  原案が英文で日本政府に交付されたという否定しえない事実、さらにたとえ日本の意思で受諾されたとはいえ、手足を縛られたに等しいポツダム宣言受諾に引き続く占領下においてこの憲法が制定されたということは、明らかなのであるから、この面に関する限り、それを押しつけられ、強制されたものであるとすることも十分正当であるというべきである。特に、日本側の受諾の相当大きな原因が、天皇制維持のためであつたことも争えない事実である。ただ、それならば、それは全部が全部押しつけられ、強制されたといい切ることができるかといえば、当時の広範な国際環境ないし日本国内における世論なども十分分析、評価する必要もあり、さらに制定の段階において、いわゆる日本国民の意思も部分的に織り込まれたうえで、制定された憲法であるということも否定することはできないであろう。 これが憲法調査会の憲法制定に関する結論部分であります。  それでは、私自身でありますけれども、実はもう十何年か前に、この日本国憲法の成立過程について著書を著しました。その中の前書きの部分を申し上げたいと思います。  日本国が敗戦を認めたのは、昭和二十年八月十四日のことである。大日本帝国憲法改正の序曲は、このときから静かに奏で始められたといえよう。敗戦国の当然の運命として待っていたのは、占領国からの数限りない指令であった。憲法改正の動きも、このような運命の中で進行していった。それは、マッカーサー連合国最高司令官の示唆で始まり、総司令部案の提示によって急転し、極東委員会の監視の下で展開し、マッカーサー元帥の承認によって、効力を発した。   憲法制定の全過程を鳥瞰してみると、連合国総司令部の作った舞台の上で、極東委員会の監視の中、日本国政府および国会議員らがそれぞれの役回りを演じていたように思われる。 これが私自身の事実認識であります。  次に、このような成立経過についてどのような評価がなされているのか。いろいろなものを取り上げることは可能かと思います。ここでは、三つの方面からのものを引用してまいりました。  一つは、宮沢俊義教授であります。後の丸括弧の中をごらんになっていただければわかるように、一九四六年十月一日、貴族院の帝国憲法改正案特別委員小委員会、これは非公開でありましたが、この中で次のような発言をなさっていらっしゃいます。  宮沢俊義教授については、あえてここで説明する必要はないかと思います。戦後、東大法学部教授として長年教鞭をとっておられ、多くの弟子の方たちが、今の日本の憲法では有力な人たちになっております。そしてまた、ある時期から、護憲の方の非常に強い旗印を掲げておられた一人であります。  その宮沢教授が、この小委員会で次のように述べております。「憲法全体ガ自発的ニ出来テ居ルモノデナイ、」「重大ナコトヲ失ッタ後デ此処デ頑張ッタ所デサウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己偽瞞ニスギナイ」  この宮沢教授の言葉のキーワードを言うならば、憲法というものは、非自発的、非自主的、そして自己欺瞞である、宮沢教授ははっきり言っているわけであります。  もう一つ、アメリカの新聞はどのように言っているか。かぎ括弧の中を読み上げます。  日本政府は近代民主制の最新式制度を全部取り入れたみごとな新憲法を発表した。しかしこれは全く価値なきものである。実際これは日本国民に対してのみならず、アメリカの新聞を賑わすために提供された美しい玩具であって、しかも罠となる恐れがある。   草案自体にはなんらの難点はないが、これをもって日本の憲法である、これにより日本は民主的な平和愛好国となるという主張は問題にならない。これは日本の憲法ではない――日本に対するアメリカの憲法である。   もちろん数千の日本自由主義者は憲法の字句を了解し、これを遵守せんとしているであろう。しかし日本の民衆は自らの経験からこの憲法を作り上げたのではない。この憲法の重要条項に日本の現実から生まれた思想はひとつもない。  これは、一九四六年三月六日に憲法草案要綱というものが発表されます。これに対するアメリカの新聞のコメントであります。  もう一つだけ引用させていただきます。  これはオプラーという人の著書であります。オプラーという人は、総司令部に十年以上おりまして、日本の司法、法律制度の改革に尽力をした人であります。  内閣は連合国最高司令官草案に対して自由ではなかった。ひとたびそれを受け入れるという決定がなされると、吉田新首相と彼のスポークスマンである金森徳次郎は、占領軍の内意をうけた草案を、両院の長い会期において懸命に弁護した。  このオプラー博士によると、内閣はいわゆるGHQ案に対して自由ではなく、そして、その意を受けた首相それから憲法担当の大臣は懸命に弁護したんだということを言っているわけであります。  以下、3からずっと項目がございます。何分にも一時間であります。したがって、幾つか重点的に申し上げさせていただくことをお許しいただきたいと思います。  三つばかりの点から申し上げたいと思います。一つは、余り知られていない事実、これが項目として取り上げるものであります。それから、どうも誤解されているのではないか、こういう面。そして最後に、例の小委員会の報告書、これには、ほぼ余すところなく憲法の成立過程については経過が出ているわけでありますけれども、まだまだ足りない部分がございます。その足りない部分について、若干私なりに調査をしてまいりましたので、ここで御披露させていただきたいと思います。  そこで、3について申し上げたいと思います。  マスコミの報道では、改憲、論憲、護憲、そして、改憲の勢力といたしましては自民党、自由党、論憲の勢力といたしましては民主党、公明党、そして護憲の勢力といたしましては共産党、社民党、このように色分けしております。けれども、成立過程について見るならば、これは全くの反対であります。最も強く今の憲法について反対を表明したのが共産党であります。そして、その次に反対を表明したのは社会党であります。  以下、申し上げてみたいと思います。  共産党は、四六年六月に、日本人民共和国憲法草案を発表なさっていらっしゃいます。そして、これははるか昔のことかと思ったのですけれども、今から七年前、ちょうど五月三日の憲法施行記念日に発行された「憲法の原点」、こういう本がございます。ここに山口富男という、私は存じ上げておりませんけれども、ここに書いてあるとおり、共産党中央委員会附属社会科学研究所事務局次長、この方の名前で、「「日本共産党憲法草案」の歴史的意義――いまなぜ光をあてるか――」ということが載っております。ただ、そこでは、四六年のときの日本人民共和国という言葉がなぜか日本共産党憲法草案になっておりまして、人民共和国という言葉がなぜここで消えたのか、これは私はわかりません。いずれこの調査会でぜひ調査をしていただけたらと思います。  そこで、当時の共産党の最高幹部の方々、どんなことをおっしゃっていたのか、少しピックアップをしてみたいと思います。  まず第一に、宮本顕治――肩書はよくわかりませんので、すべて「さん」にいたします。宮本顕治さんは、「新民主主義憲法のために」ということで、こんなふうにおっしゃっておられます。  戦争放棄の宣言をいくらしても、資本主義的矛盾が排除されないかぎり侵略戦争への衝動は不可避であり、天皇制権力の保存によってその可能性は倍加される。きたるべき時代は民主主義後革命を完遂した後に、社会主義の建設に向かう以外にあり得ない。   わが党の目指すものは、天皇制との妥協ではない。 はっきりおっしゃっておられます。  さらにまた、徳田球一さん。「我々の目標は天皇制を打倒して、人民の総意に基く人民共和政府の樹立にある。」  そしてもう一つ、後のかぎ括弧の部分は、四六年八月二十四日、衆議院本会議において、共産党を代表して、野坂参三さんが強い調子で反対演説をなさっていらっしゃるものの一部であります。政府の憲法改正草案は、「我が国民の欲するような完全な民主主義を実現せず、寧ろ不徹底と曖昧と矛盾に満ちて居ると我々は考えるのであります。」はっきりおっしゃっておられます。  そしてもう一人、ここには書いてありませんけれども、志賀義雄さん。この方は、六月二十五日、衆議院の本会議が開議になりました冒頭、志賀義雄議員は、この政府の憲法草案は日本人民全体の意向を実質的に取り入れていない、こんなようなことで、議事進行ということで、最初に改正案審議延期の動議を提出なさいました。  このように、当時の最高幹部、上から申し上げますと、宮本顕治さん、徳田球一さん、野坂参三さん、志賀義雄さん、いわば当時の最高幹部すべて、今の憲法はとても先駆性がない、とんでもないとおっしゃっていらっしゃるわけであります。  共産党の方のあれを見ますと、今の憲法に先駆性があるとおっしゃっておりますけれども、当時の憲法の先駆性を完全に否定なさっていらしたのが共産党でありました。そして、天皇制について言うならば、今も綱領は変わっていないはずであります。けれども、二、三年前、象徴天皇制との妥協というようなことをたしか発表なさったはずであります。この宮本顕治さんの天皇制との妥協は許さない、これは一体今どうなっているんだろうか、我々とすれば、どうしてもその疑問を解けないわけであります。このことを申し上げておきたいと思います。  次に、社会党であります。  社会党は既に四六年二月二十四日に新憲法要綱を発表なさっていらっしゃいます。ここで、社会主義経済は絶対にやっていくのだということのほか、社会主義経済の重要性というものを強調なさっていらっしゃいます。  そして、本会議になりましたら、原彪さん、黒田寿男さん、あるいは加藤シヅエさんが社会主義の理念によって非常に活発に発言なさっていらっしゃいます。特に、加藤シヅエさんは、女性の立場から、未亡人、戦争に夫をとられた、亡くなった、一体その未亡人の権利をどうすればいいのかと切々と訴えられ、当時の新聞などでは深い感銘を与えたというふうに書かれております。  また、いわゆる芦田小委員会におきましては、社会党からは鈴木義男さん、森戸辰男さん、西尾末広さんが非常に活発に発言なさっていらっしゃいます。  そうして、最終的には、八月二十四日、これは衆議院の本会議の最終日であります、社会党は十カ所の修正案を提出なさいました。とても受け入れることができないというわけであります。しかし、これは否決されました。否決された後で、片山哲委員長は、いわば次善の策として、民主主義に一応一歩近づいている、そういう側面から賛成演説をなさっていらっしゃいます。この辺が、最後まで徹頭徹尾反対を表明されました共産党とは違う部分であります。  なお、非常に活発に社会党の議員さんがここでなされた、その余韻が残っております。これにつきましては、私は時間がありませんので、午後の部で、日本大学教授の青山先生が現物をもってお示しになられるかと思います。  なお、それ以降の社会党の改憲姿勢につきましては、もし後ほど時間があれば、幾つか私の方で申し上げたい、このように思っております。  余韻以下は、ちょっとその次のページにゲラ校はありますけれども、これは省略をさせていただきます。  そして、4、5、6、7、8、9はちょっと時間の関係で省略をさせていただきます。 私がトップバッターということですので、こういう項目を挙げておくことがいいだろう、後の方が、こういう項目にいろいろ言及をされるだろう、また私に対する質問があったときなどに備えて一応項目を掲げたわけであります。  ただ、8の極東委員会についてちょっと一言だけ申し上げます。これは余り知られていない事実なものですから、ちょっと申し上げておきたいと思います。  極東委員会では、四六年十月十七日、「本委員会は、政策事項として、憲法施行後一年以上二年以内に、新憲法に関する事態が国会によって再審査されねばならないことを決定する。極東委員会もまた、この同じ期間内に憲法の審査を行う。」こういう政策決定をしておりまして、四九年一月にマッカーサーに情報を要請しております。マッカーサーが再検討の必要はないということで、ようやく四月末に、極東委員会は新たな指令を発しないことを決定。しかし、五月五日には、やはり憲法運用上、例えば憲法下において外国人の地位など問題があるのではないかということを伝達して、ここでようやく極東委員会はこの憲法に幕を引きます。  何を言いたいか。一九四七年五月に憲法が施行された、それで、もうすべて我々のものになったのだというふうにお思いかもしれませんけれども、二年間、我々はまだ保護観察下にあったのだということをここで申し上げたいわけであります。  そうして10、保護観察下ということで、最も典型的なのが総司令部の検閲だと思います。いろいろな検閲がありました。  時間の関係で検閲自体については申し上げませんけれども、その中に、連合国最高司令官が憲法を起草したとか深く関与したとか、あるいはそれに対する批判、こういったものは絶対に許さない、検閲の対象になっていたわけであります。  これにつきましては、皆さんのお手元に三つばかり資料があるかと思います。  一つは、ちょっと見にくいかもしれませんけれども、金森徳次郎序で「新憲法の意義と解説」、この金森徳次郎序という、その隣が、ちょっと消えておりますが、尾崎咢堂序ということになっております。もう一つは、文芸春秋で、佐野学さんの「新憲法批判」という論文であります。それからもう一つは、滝川事件で有名な滝川幸辰、何かユキトキというんですか、そういうのが本当の名前のようですけれども、いわゆる滝川事件で有名な。その三つをとりあえず持ってまいりました。  時間もありませんので、どんな検閲があったのか、文芸春秋の佐野学さんの「新憲法批判」についてちょっと実態をごらんになっていただきたいと思います。  文芸春秋とありまして、「新憲法批判」がありまして、その次に、「二、背後の力としてのポツダム宣言」、こういう小さい表題になっているかと思います。その第一行、「憲法草案は日本政府の独力によつて成立したものではない。」消えております。消すように要求をしているわけであります。そして、それから四、五行の真ん中下あたり、「貴族院の憲法委員会で南原氏が」云々、消えております。そして下の段三行目、「憲法草案は天皇制を維持しているのであるがこれは必ずしも連合国側の一致した意見でもなかつたらしい。」云々、これはかなり削られております。 十何行削られております。  お手元のもう一ページの方をごらんになっていただきたいと思います。「背後の力としてのポツダム宣言」、どんなふうになっているでしょうか。先ほどの「憲法草案は日本政府の独力によつて成立したものではない。」きれいに削られております。そしてまた、それから四、五行後の三、四行分ですか、全部削られております。下の段、これも全部削られております。非常にきれいな形ででき上がってきているわけであります。  憲法成立に関して連合国側が関与したということは検閲によって完全に削られていたという事実、これは余り知られていないようであります。そういったところから、私はある論文を書きまして、日本国憲法聖典化のルーツということで、ここにあるのではないか、そういう論文を書いたことがございます。  さて、11でありますけれども、これはちょっと時間の関係で、後で時間があったらまた戻りたいと思います。  それから12、これは、私が、一九八四年から八五年にかけまして、総司令部民政局の方たちにインタビューをしてまいりました。その感想を簡単に申し上げたいと思います。自分で言うのもなんですけれども、憲法のオリジナルドラフト、原案を書いたこれらの人たちにインタビューをした人がおりませんので、簡単に感想を申し上げたいと思います。九人です。  最後のジャスティン・ウィリアムズという方は、総司令部民政局におりましたが、ちょうど憲法をつくるときに漆にかぶれて入院していたというようなことで、憲法草案に参加はしませんでしたけれども、非常によく知っております。だから、いろいろな本を書いております、同僚はいっぱいいるわけですから。  そこで、時間の関係で、ごく簡単に申し上げたいと思います。  まず第一に、すべて高学歴でありました。これは、たしか総司令部民政局の人たちというのでもう一つ資料があるかと思います。これをごらんになっていただければ、最初の三人、チャールズ・L・ケーディス、アルフレッド・R・ハッシー、マイロ・E・ラウエル、これらは全部ロースクールを出ております。この人たちが運営委員会を構成いたしまして、中心になりました。そのほか、ごらんになればわかるように、高学歴であります。ですから、確かに、よく言われるように、いわゆる素人の軍人ではない、これははっきりしておく必要があるかと思います。かなり高学歴であります。  第二に、私のインタビューで受けた強い印象は、民政局長がホイットニーでありますけれども、ホイットニーの命令によりまして、二月四日から十二日にかけて、すべての業務をほうり出して、日本国憲法の草案の起草に着手をしたわけであります。インタビューした強い印象では、職務に対して非常に忠実かつ懸命に努力したということはひしひしと感じました。特に、ベアテ・シロタ・ゴードン、この方は当時二十一歳でありました。私は何度かお会いしていますけれども、私たちは私心を抱くことなく本当に日本のためにやったんだ、このことはぜひ日本の皆さんに伝えてほしいということを強く言っておりましたので、この場をかりて御報告を申し上げたいと思います。  しかしながら、問題は、彼らの思想、彼らの立場、これはやはり西欧的な民主主義であります。西欧的な民主主義をいかに日本に植えつけるか、こういった点をやはり考慮する必要があるのではなかろうかと思います。  そして、ミルトン・エスマン、この人はもうこのときプリンストン大学の博士号を持っておりました。そしてGHQにおりました。日本では何人かの著名な人たちと交際がありました。日本の憲法をなぜ自分たちがつくらなければいけないのか、非常に疑問を持ったということを言っておりました。  そしてまた、多くの人たちは、法律、まして憲法、そういう面では素人であります。学歴を得ている、高学歴でありますけれども、憲法なんかつくったことはありません。自信が全くなかった。ただ一人、リゾーという人は、この人は財政を担当したわけですけれども、私は十分書く自信があって、みずから志願したんだということを言っておりました。  そしてもう一つ最後に、この人たちすべてと言って構いません、自分たちのつくったものがまさか、そのときは四十年だったものですから、四十年近くも無改正であるとはほとんど信ずることはできない。自分たちはあくまで暫定的なものとして書いたんだ。ケーディスのごときは、日本で無改正だということを、私が訪ねたほんの一年ぐらい前にやっと知った。当然改正がなされているものだ、非常に驚いておりました。  丸括弧のところの「ほいとんど」というのがありますけれども、あれは「ほとんど」ということで、ちょっと誤植がありましたので、訂正をしておきます。  なお、この調査の関係で、総司令部の検閲はどこが検閲があったのか、かなり持ってまいりました。もし必要であれば提供する用意もあります。また、総司令部局員とのインタビューの感想でありますけれども、これは、テープそのものですと私の英語のまずさがわかるものですから、非常に恥ずかしい限りでありますけれども、そのテープから起こしたタイプ、これは全部ありますので、もし必要であれば提供させていただきたいと思っております。  後半部分は九条を中心にお話ししようと思うものですから、前半部分の最後といたしまして、昨年十一月十九日、ジョージ・ブッシュ共和党候補がこういうことを言っております。「われわれは、日本を打ち負かした国民である。そして食糧を配給し、憲法を書き、労働組合を奨励し、女性に参政権を与えた国民である。」この前後を見ますと、何か植民地国、宗主国の関係のような、そういう口調が出ておりました。  確かに、戦後、アメリカによって憲法は書かれたということは言えるかもしれません。しかし、一体いつまでそういうことを言わせておくのでしょうか。このブッシュはあるいは大統領になるかもしれません。大統領になったときも、おれたちが日本の憲法を書いてやったんだ、こんなことを言われることは、私は日本国民として誇りを非常に傷つけられます。  そういう意味におきまして、個人的には、確かに過去においてアメリカにつくってもらったかもしれない、しかしながら、今我々は我々の英知を集めて日本のこんなすばらしい憲法を書きましたと言うことの、できる限り近い日が来ることを切望するわけであります。  後半部分に参ります。  第九条の成立過程につきまして、特に芦田修正と文民との関係につきましては、内閣の憲法調査会の小委員会報告書には十分に出ておりません。そこで、私はこのことを中心にして調査してまいりました。これを中心に、残りの時間お話をしてみたいと思います。  その前に、九条はどういう過程を経て今のようになったのか、これは案外知られていないわけであります。まず、もともとの原案は何だったのか。四六年二月三日に書かれたマッカーサー・ノートであります。マッカーサー・ノートにはこのように記されておりました。本来は英文なんですけれども、一応訳の方を中心にお話をいたします。  国権の発動たる戦争は廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。  日本が陸海空軍をもつ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。  これが九条のもともとのものであります。これがオリジナルであります。いろいろな形で今の九条になりました。  全部言うのは時間的に無理でありますので、ポイントだけ申し上げたいと思います。  ごらんになればわかるように、マッカーサーは戦争というものを二種類考えていたわけであります。前段部分、「紛争解決のための手段としての戦争」、これは、言うまでもなく侵略とか征服とか、そういうものを目的とした戦争であります。それだけではだめである。「さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争」、これも放棄しなければいけない。後半部分は、これはもう言うまでもなく自衛戦争であります。マッカーサーは、この両方とも放棄しなければならない、これを日本の憲法に書き入れるべきだと言っていたわけであります。  これが二月十三日に日本側に示されるときに、変化が出ております。二月十三日は、(3)であります。(2)については後でちょっと申し上げますけれども、(3)が日本側に示されたものであります。そのときは第八条になっておりました。外務省の仮訳を読み上げたいと思います。時間の関係で、特に第一項に限定をさせていただきます。「国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス」。前の原案から、「自己の安全を保持するための手段」、この部分が一体なぜ消えたのか、だれがどんな意図で消したのか、これを見ただけではわかりません。  これは結論から申し上げます。ケーディスがある意図を持って削除したわけであります。(10)、八ページですけれども、私がケーディスに聞きました。あなたはマッカーサー・ノートから「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、」という文言を削除しました、それは全面的戦争放棄を部分的戦争放棄にするためだったと言われていますが、事実でしょうかと。私の下手な英語で、イズ・イット・ライトと聞いたわけですけれども、イエス・アイ・オミット・ザ・ワーズ、ずっと続いております。テープで何回も聞いておりますから、この部分はもうそらで言えます。こんなことを言っております。  日本語で言います。はい、そのとおりです。私は、例の黄色い紙、先ほど申し上げましたマッカーサー・ノートに書いてあった「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、」という文言を削除しました。そしてそのかわりに、戦争のみならず、武力の行使または武力による威嚇をも放棄するように書き加えました。  なぜ書き加えたかというと、この部分について言えば、国際連合憲章にこういう武力の行使、武力の威嚇があるんですね。それよりもむしろ、なぜならばというところを申し上げます。なぜならば、自己の安全を保持するための手段としての戦争を放棄すると、日本が攻撃されてもみずから守ることができなくなる。そのようなことは現実的でないように思えたからです。以下省略をいたします。英語で、イット シームド ツー ミー ザット イット ワズ ノット リアリスティックとはっきり言っております。  しかしながら、どうも我が国の九条解釈は、ケーディスが現実的でないと思って削除したにもかかわらず、今でもまだ非現実的に解釈しよう、こういう空気が非常に強いということを第一に申し上げたいと思います。  第二に、(1)、(2)がずっとありまして、(4)が若干微妙に違うんです。これは、三月四日、総司令部へ提出したものであります。これはいきさつについてはあるいはもう皆さん御存じと思いますので詳しく申し上げませんけれども、二月十三日に、マッカーサー総司令部案、マッカーサー案が日本側に提出されました。受け取ったのは、御存じのように松本国務大臣と吉田外務大臣であります。驚きました。驚いて、幣原総理がマッカーサーをオフィスに訪ねたところ、とにかく細かいことは修正は可能だけれども、例えば戦争放棄、あるいは象徴天皇制、これは絶対入れなきゃいかぬというようなことを言っているわけですね。  そこで、とにかく一生懸命書き直しました。二月十三日から、局面は完全に違ってくるわけであります。それまでは松本委員会がみずから案をつくっていたわけでありますけれども、二月十三日以降、先ほど挙げた私の事実認識の本に言うならば、舞台が暗転をするわけであります。これ以降は、マッカーサー草案をいかに日本的に脚色するか、完全に暗転します。  そこで、とにかく天皇のところに一条を加えて第九条に位置づけ、「戦争ヲ国権ノ発動ト認メ武力ノ威嚇又ハ行使ヲ他国トノ間ノ争議ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ廃止ス」今度は一文になりました。「アズ ア ミーンズ オブ セトリング ディスピューツ ウイズ アザー ネーションズ」、これが全部戦争に、武力の威嚇、武力の行使も、全部かかるようになりました。微妙に変わってくるわけであります。  そして、もう一つ大きな変化が、いわゆる芦田修正であります。(8)であります。  (8)、芦田小委員会、(i)はちょっと省略しまして、(ii)が、芦田修正によって成案になり、そしてこれが現在の第九条であります。御存じのように、芦田修正と言われるものは、第九条の第一項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という文を入れると同時に、第二項の冒頭に「前項の目的を達するため、」と入れたわけであります。  一体、「前項の目的を達するため、」とはどういう意味なのか。芦田さんがこのとき本当に意味を持ってやったのかどうか、これはちょっと不明な部分があります。 しかし、残っているものといたしまして、(11)をごらんになっていただきたいと思います。  時間の関係で、まことに申しわけないのですけれども、全部読み上げる時間がございません。したがって、「芦田修正に関する芦田均氏の証言」ということで、そこのところ、五行目の右側から数行だけ読ませていただきます。  修正の辞句はまことに明瞭を欠くものでありますが、しかし私は一つの含蓄をもつてこの修正を提案いたしたのであります。「前項の目的を達するため」という辞句を挿入することによつて原案では無条件に戦力を保有しないとあつたものが一定の条件の下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるのではないということは明白であります。これだけは何人も認めざるを得ないと思うのです。そうするとこの修正によつて原案は本質的に影響されるのであつて、従つて、この修正があつても第九条の内容には変化がないという議論は明らかに誤りであります。 これは内閣の憲法調査会の第七回総会議事録、昭和三十二年十二月五日のことであります。  これがいわゆる芦田修正であり、芦田解釈と言われているものですけれども、芦田さんが本当に最初からそういう意識を持っていたのかどうか、私はこれはわかりません、正直言って。けれども、これに対して、非常に強いリアクションがありました。これが残りの時間、強調したい文民条項の導入であります。  芦田修正が極東委員会の方に行きました。ワシントンにまで行きました。ワシントンでは、極東委員会では、かなり強い、しかも素早い――素早いかどうかはともかくとしまして、かなり強いリアクションが出るわけであります。(12)をごらんになっていただきたいと思います。  (12)は、これは私の拙訳でありまして、後ろの方に、エンクロージャー百七十三と書いてあるのがこの部分であり、さらにまた、その次のインカミングメッセージと書いてあるのが(13)であります。時間の関係で要点だけ申し上げたいと思います。  九月二十日のことでありますけれども、極東委員会の第三委員会、第三委員会というのは日本の憲法とか法律を検討する委員会であります。ここで、こういう議事録が残っております。これはロンドンの国立公文書館かな、そういったところで入手をしてきたものであります。こんなことを言っております。  「第三委員会は、「すべての大臣は、シビリアンでなければならない」とするソ連の提案について、注意深い考慮を払った。この条項は、極東委員会が政策声明」、これは後で申し上げますけれども、「三b項でとくに設定していた原則である。」  ちょっと時間の関係で速くなってしまうかもしませんけれども、(14)をちょっとごらんになっていただきたいと思います。(14)で実は、SWNCC―二二八については説明しませんでしたけれども、極東委員会の動きについて言うならば、七月二日に、内閣総理大臣、国務大臣はすべて文民でなければならない、こんなことを憲法に入れろということを極東委員会で政策決定をしているんです。  そこで、(14)の(ウ)のところをごらんになっていただきたいと思いますけれども、それを受けまして、八月十九日、マッカーサーが吉田首相に対して文民条項を入れるように求めるんですけれども、日本はこれを拒否して、総司令部も了承いたしました。日本は、これで一件落着と思っていたわけであります。  けれども、(14)の(エ)、八月に衆議院本会議で芦田修正の改正がありました。 そこで、九月十九日、ソ連から、やはり大臣は文民でなければならないというのを入れるよう提案があるわけであります。そして、それについて議論をしているのが、私が今読み上げているものであります。  続きとして、三行目から行きます。(12)であります。  「日本国憲法の初期の草案」、すなわち――注は私が書きました。「芦田修正以前の草案には、軍隊の保持の全面的禁止が含まれていたことにかんがみ、当委員会は、この条項を草案のなかに挿入するよう、以前には勧告していなかった。」一回やったんだけれども、まあいいだろう、こんなふうに考えたわけであります。 「しかしながら、当委員会は、草案第九条第二項が衆議院で修正され、」すなわち芦田修正であります。「日本語の案文は、いまや第一項で定められた以外の目的、すなわち自衛の目的であれば、軍隊の保持が認められると日本人によって解釈されうるようになったことに気づいた。もしそのようになれば、帝国憲法がそうであるように、内閣に軍人を含めることが可能になろう。それゆえ、当委員会は、極東委員会が合衆国代表に対して、この疑念を最高司令官、すなわちマッカーサー元帥に伝えるよう求めるべきこと、および日本人は、かれらの憲法に、内閣総理大臣を含むすべての国務大臣は、シビリアンでなければならないという条項をいれなければならないことを主張すべきことを勧告する。」  第三委員会でこういう勧告、一つのメッセージといいますか、そういう決定を決議するわけであります。これを受けまして、極東委員会にいるアメリカ代表がワシントンの方に伝えます。  そして(13)、ちょっと長いので全部読みませんけれども、ピーターセンという陸軍次官からマッカーサー元帥に至急電信、もちろんトップシークレットであります。何を言っているのか。ちょっと長いので一言だけ簡単に言うと、要するに、極東委員会でこういう議論があったので、どうしてもシビリアンを入れろ。シビリアンを入れなければ――先ほど、一年以上二年以内と言いました。極東委員会は当然これは蒸し返すであろう。蒸し返すと困る。だから、可能であれば今の段階でシビリアンを入れろということを強くマッカーサーに求めてくるわけであります。  そこで、また(14)をごらんになっていただきたいと思います。(キ)が今の、九月二十二日のピーターセンからマッカーサーに対する至急電報であります。そして、それを受けまして、(ク)、九月二十四日、ホイットニー民政局長が吉田首相に対し文民条項の追加を強く要請する。日本側は、かつて八月に拒否したのをオーケーしたのに何で今また蒸し返してくるのか困惑したものの、非常に強く言っていますので導入せざるを得ない。  そこで、九月二十六日、このときは憲法草案はどこに行っているか。貴族院に行っております。そこで、貴族院で織田信恒という議員がいわば八百長質問をします。文民条項を入れたらどうか。そうですね、金森国務大臣はいとも簡単に応じて、文民条項が入るわけであります。そして、九月二十八日から十月二日には、貴族院の小委員会でこういうことが議論をされる。最終的に今の文民条項が入ります。  そこで、もう一つここに問題があります。内閣はこのとき文民についてどんなふうに考えていたのか。これはパージの一種だと考えておりました。だから、過去において職業軍人の経歴を持った者は大臣になれないんだ、こんなふうに考えておりました。そして、極東委員会でこういう議論があったことはつゆ知りません。最後まで知りません。  ここで二つのことを申し上げたいと思います。  政府が全く知らないまま、極東委員会でこんなことをやっているとは全然知りません、とにかく何とかやらなきゃいけないということで、みずからの解釈でやっていったということであります。日本国憲法草案をつくる、しかもその提案者の政府が全く知らないうちにこの文民条項が入れられた、こういういびつな状況。これはやはり私たちは認識をする必要があるんではなかろうかと思います。  それからもう一つ、九条の解釈であります。芦田修正と文民条項は不可分の関係にあるということであります。けれども、今の政府の解釈は、九条は九条、文民は文民、全く分離して解釈をしております。無関係に解釈をしております。  私の結論からいうならば、ケーディスによっていわゆる不戦条約――不戦条約につきましてはお手元の十二ページにあります。戦争放棄に関する不戦条約でありますけれども、これと結局同じだったんだ、だから自衛のためであれば戦力は持ち得るんだ、こういう解釈によって文民条項が生きてくるはずであります。  けれども、今の政府解釈は、文民条項を全然別にしまして、芦田修正も全く無関係。だから、自衛のためであるとも戦力は持ち得ないんだ。では、自衛隊は何か。 戦力ではない、自衛力である。では、自衛力と戦力とどう違うのか。それもかなり、自衛隊ができる前とできた後が変わっております。非常にあいまいな解釈に終始してきている。  そこで、私は、この調査会においてぜひ今後調査していっていただきたいのは、内閣の憲法調査会の小委員会報告書には十分触れられていない文民条項の導入過程、芦田修正との関係、そういったことをぜひここで調査をしていただきたい。その一つのいわばきっかけとして申し上げた次第であります。  一時間以内ということでございます。一応私のお話をこのくらいにして、後ほどまたお話をさせていただきたいというように思います。  どうも御清聴ありがとうございました。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。 ○保岡委員 この歴史的な、意義のある憲法調査会が国会に設置されまして、会長を初め多くの皆様の御努力が実ったことに心から敬意を表するものでございます。最初の参考人の質疑を迎えるに当たって、一政治家としてその重責を改めて感じるとともに、正確な憲法の調査と真摯で活発な議論が行われることを祈念いたします。  なお、きょう最初の参考人としておいでいただいた西修先生にも、心から感謝を申し上げるものでございます。  そこで、我が国は、幕藩体制の崩壊から近代国家を目指した明治維新、そして戦後の焼け野が原から新たな国家建設を目指し民主的な経済大国になったこの五十余年、それぞれの時代に応じて、国の歴史を担う最高法規たる憲法のもとに歩んでまいりました。明治憲法が敗戦によりその役割、使命を終えて新憲法にバトンタッチし、そして今日本は、新しく戦後の憲法を得てから五十余年、国際化が物すごい勢いで進んでおります。社会も、当時予想できなかったことが圧倒的に進んでいる状況でありますし、欧米モデルという目標も失った。こういう二十一世紀の日本の歴史を担う新たな憲法というものを、いろいろ現憲法の問題を尋ねながら求めていくこと、このことは歴史的な意義を有する調査、検討である、そういうふうに思っております。  そこで、先生にまずお伺いしたいのは、先生が述べられました前半部分の、憲法の最初に出てくる陛下の勅語の中に、自由に表明された国民の総意によってこの憲法が確定されたと書いてありますが、その点については大いに検証を要するところで、占領軍の占領政策による強制が痛烈に働いていて、検閲など、国民の世論についても、これを操作する徹底した対応がなされていたということ、そのあたりは後に愛知先生にお話を聞いていただくことにいたしまして、私は、先生が後半に述べられました芦田修正と文民条項との関係について、第九条の解釈が明確になったという先生の御主張についてお伺いを申し上げたいと思います。  今先生が御指摘になったように、最初の条項のスタートになったのはマッカーサー・ノートである。その第二原則に、自衛のための戦争と、国際紛争を解決する手段としての戦争、いわゆる侵略戦争を意味する戦争とははっきり区別されていて、これはケーディスの、現実的な条項でないということで削られたいきさつがお話に出てまいりました。  そこでお伺いするのでございますが、先生も挙げられました一九二八年のパリ不戦条約、ここには、まさにこの国際的紛争の解決のための戦争ということを否定する条約の条文があるわけでございます。この中に自衛戦争が含まれないということはこの条約の加盟国の共通の認識であったか、まずお伺いしたいと思います。 ○西参考人 お答えいたします。  この不戦条約、一九二八年でありますけれども、この提案者、いわゆるケロッグ、ブリアンと言っております。ケロッグはアメリカの国務長官の名前であります。 ブリアンはフランスの外務大臣の名前であります。この不戦条約、お手元の十二ページでありますけれども、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ」、これがいわゆる我が国の九条一項とほとんど同じであります。「且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」  今保岡先生のお尋ねは、これを各国が締結したわけでありますけれども、いわゆる自衛戦争まで放棄していない、こういう認識のもとでこれを締結したのか、こういう御質問として理解してよろしいですね。  これは、ケロッグにしろブリアンにしろ、はっきり国際社会に発言をしております。 やはりこの不戦条約を締結することによって自衛のための武力行使もできなくなるのではないか、そういうことを心配した国が多かったわけであります。そこで、ケロッグ、ブリアンははっきり言っております、これは自衛のための武力行使は否定するわけではないと。それによって自衛権は一切否定されないんだとはっきり言っております。  申し上げるまでもございませんが、当然このことはマッカーサーも知っておりますし、ケーディスにちょっと聞きましたら、このとき自分はロースクールだった、このことはよく知っているということを言っていたということを申し上げておきたいと思います。 ○保岡委員 この条項をめぐる国会審議に当たった日本国の総理大臣である吉田茂、あるいは今先生がお述べになりました芦田修正、このお二人はいずれもすぐれた日本を代表する外交官だと思いますが、日本側のその二人も、この不戦条約における国際紛争を解決する手段としての戦争の意味が自衛戦争を含まざるものであるということを承知していたはずだと思いますけれども、いかがでございますか。 ○西参考人 お答えいたします。  これにつきましては、芦田均さんが、昭和二十一年の十一月三日、ダイヤモンド社から「新憲法解釈」だったと思いますけれども、そういう本を出しております。そこで、昭和二十一年十一月三日というのはまさに憲法公布記念日で、公布記念を目指して発行したものであります。そこではっきり言っております。九条一項の国際紛争を解決する手段としての戦争というのは、一九二八年の不戦条約、これを受けるんだとはっきり言っております。だから、当然承知していたと思います。  吉田首相も、これはやはり、いわゆる芦田小委員会には吉田さんは入っておりませんけれども、本会議の中でそういうことが議論なされておりまして、具体的に、自分は知っていたという明快なものはちょっとないのですけれども、当然知っていたという前提に立つべきだというふうに思います。 ○保岡委員 六月二十九日の衆議院本会議における憲法の議論の中で、共産党の野坂参三氏が、戦争には我々の考えでは二つの種類の戦争がある、侵略された国が自国を守るための戦争と、いわゆる侵略、不正の戦争とがある。自衛戦争と言っておられると思うこの戦争については正しい戦争と位置づけられて、この憲法は正しい戦争を否定しているものではないという質問をしているわけです。  それに対して、吉田さんは、自衛戦争を、むしろこれは日本国憲法ではできないんだという見解を述べているがごとき答弁なんですが、それは、一項で自衛権は否定していないが、二項で戦力を保持しないことと交戦権を否定することをもって、全体として日本は自衛戦争ができないと認識していたのかどうか。先生、いかがでございましょうか。 ○西参考人 その辺のところはいろいろ議論のあるところであります。  このとき、内閣法制局が吉田首相に渡したものといたしましては、今先生おっしゃったように、第一項では必ずしも自衛権は否定していないんだ、だけれども、やはり第二項で陸海空その他の戦力はこれを保持しないとなっているから、この辺で限界があるんだということを、何かそういう問答集を用意していたようであります。  けれども、吉田首相は何かのはずみで、野坂さんに対する何かちょっと反発があったのかどうかわかりません、その辺のところは。この辺は、いろいろと吉田首相のそのときの心情を書いてある本もちょっと見たことがありますけれども、ぽっと言ってしまったというのが、中日新聞社から出ている金森徳次郎さんの本に書いてあります。ぽっと出てしまった、後で修正というのが非常に大変だったということが、その金森さんの本には出ております。 ○保岡委員 政府の憲法調査会の会長であった高柳賢三氏が、マッカーサーから書簡をいただいたというような証言をしているようでございますが、その点に関し、マッカーサーが憲法制定当時、自衛権を含むかどうかという点についての憲法の審議の過程における認識を表明しているかに聞いているのですが、いかがでございましょうか。 ○西参考人 マッカーサーが本当に何を考えていたのか。  マッカーサー・ノートの第二原則から見ると、日本は自衛のためであれ、イーブン・フォー・プリザービング・イッツ・オウン・セキュリティーと言って、自己の安全を保持するための手段としての戦争もだめだとはっきり書いているわけですね。  けれども、昭和二十五年一月のマッカーサーの年頭所感によると、こんなことを言っています。日本はだれが何と言おうと自衛はできるんだと、はっきり言っているわけであります。そして、それが朝鮮戦争というものに進んでいきますね。進んでいって、マッカーサーは警察予備隊というものをつくる。マッカーサーの言葉だとオーソライズということを言っておりますけれども、オーソライズするということで、自衛力はいいんだということを言うわけです。マッカーサー自身が本当に何を考えていたか、ちょっとわかりませんけれども、歴史に残っているマッカーサーの言葉だと、昭和二十五年の一月に、日本はどんな理屈を並べようと自衛できるんだと、これははっきり言っております。  では、その辺の、マッカーサー・ノートとその二十五年、これはマッカーサーの心の中でどういうふうになっていたのか、ちょっとそこまではそんたくできません。 ○保岡委員 芦田修正は、占領下でGHQに対して常に交渉をして、そこの了解を得ながら憲法の制定手続を進めていたと思いますが、芦田修正をケーディスに、窓口だったと思いますが、持っていったときのケーディスの認識について若干触れていただければと思います。 ○西参考人 マッカーサー・ノートについてケーディスが、「自己の安全を保持するための手段としての戦争を」の部分は削除したと、これは私にはっきり言っております。  そこで私は、次のようなことを聞きました。これはマッカーサー元帥のノートですよ、あなたが「自己の安全を保持するための手段としての戦争を」の部分を削除したことに対して、マッカーサーはどういう反応を示しましたかと私は聞きました。 ケーディスはこういうことを言いました。私はカーネル、大佐である、マッカーサーはファイブスターである、とても直接に会えるような間柄ではない。間にホイットニーという准将もおります。ホイットニーがちょっと、二、三言言ったんだけれども、それを持っていった。持っていってそのまま、削除されたままになっているということは、マッカーサーからは直接に聞かなかったけれども、一応私の意図は理解してもらったんだろうということを私に言っておりました。  芦田修正に対してはこんなことを言っておりました。  芦田修正は、芦田さんがケーディスのところへ来たわけであります。ケーディスのところへ来まして、九条を変えたい。こういうものを入れたい、いいか。ケーディスは、問題ないと言いました。芦田さんの方がむしろびっくりしたのですね、歴史に残っているものを見ますと、本によりますと。あなたはこの意味がわかるかと、芦田さんがケーディスに尋ねております。ケーディスは、わかっているはずだということを言っております。わかっているはずだったら本当に芦田修正の意味があったかどうかはちょっとわかりませんけれども、とにかく、それによってむしろ芦田さんが驚いたということが記録に残っております。 ○保岡委員 そこで、若干観点を変えまして、私は、GHQは、みずからの憲法草案というものが国民みずからの手でつくられたのだということを日本国民や世界にできるだけ示してみせるという、いろいろな方法を尽くしているように思いますが、そういう中で、結果的にはしかしそれは装ったのであって、かなり強制する中で憲法制定が進んでいったということが先生の先ほどのお話でうかがわれるのでございます。  そういう制定過程の影響を現憲法がどう受けているかという観点について伺いたいのですが、私は現憲法が、当然憲法にはあるべきその国の伝統文化、歴史を尊重し、その延長線上において国の理想をうたうということがどの憲法にもあります。それからまた私が憲法を見て、確かに、国家権力やあるいは軍国主義というものを排除するために、人類普遍の原理といって基本的人権、特に自由、権利というものはかなり詳しく明快に規定されているものの、国家や社会、家族という、共同体における義務、責任というものが希薄であるようにも感じます。  こういった憲法の現在の性格、問題というものが、当時の占領政策の中の意図が行き過ぎた結果そういうことになったのかどうか。そういう要素について、先生に特に述べていただける点があればお述べいただきたいと思いますし、また、よかったと思われる点についてもお述べいただければと存じます。 ○西参考人 占領政策の行き過ぎというような点もあって、そして日本のよき伝統、歴史、文化、そういったものを占領政策の行き過ぎによって壊したのではないかというような、第一の観点はそこだったかと思いますね。いろいろな点からこれは申し上げたいのですけれども、時間がございませんので一つだけ、いわゆる神道指令、昭和二十年十二月十五日だったでしょうか、神道指令についてちょっと申し上げたいと思います。  神道指令の最初の、神道指令が発せられた目的にはっきり書いてあります。神道の理論及び信仰が日本国民を欺き、これを侵略戦争に導こうとする軍国主義的及び超国家主義的な宣伝に再び悪用されることを防止するために神道指令を発したのだということであります。  しかしながら、行き過ぎと思われるのは、例えば修学旅行、遠足で神社仏閣を訪れてはいけない、こんな指令まで出ているわけですね。それはもう、日本の伝統を何か賛美するようなことになるからこれはだめだと。いろいろな点でありました。あるいは、建設会社の何々組とやくざの何々組がよくわからない。何々組だったらすぐに注意したというようなことで、いろいろやはり問題があったように思います。  そこで、最後に基本的人権の問題でありますけれども、一言だけ申し上げますと、基本的人権、私はすばらしいと思いますが、ただ、先ほどもちょっと申し上げましたように、やはり西欧的な人権観と日本的な人権観は違うように思います。これを言うとまた時間がかかりますから、ほんの一言申し上げます。  西欧的には、やはり国家対個人だと思うんですね。日本はその中間にいろいろあるわけです。家庭があり、共同社会があり、そういう中間のものがいろいろな形で全体の社会を構成している。でも、アメリカのといいますか、西欧的なものは国家対個人。個人の尊厳、そういうものから国家対個人という、そういう二極観が出ているように思います。その辺が日本と非常に違う、そんなふうに思います。 ○保岡委員 私も、基本的人権の尊重とか、国民主権主義とか、本当に日本がこれから守っていかなければならない基本原則がここにあらわれていると思いますが、また、占領のいろいろな厳しい状況の中でつくった憲法が、本来の我が国の憲法が当然持っていていいいろいろな要素を落としているということについても、二十一世紀を展望する憲法では、調査して見出していく必要があろうと存じます。  以上で終わりたいと思います。ありがとうございました。 ○中山会長 愛知和男君。 ○愛知委員 西先生、きょうは貴重な御意見、ありがとうございました。  ごく限られた時間でございますので、焦点を絞って先生の御意見を伺いたいと思います。  先ほどお話の中で、国会での共産党の御主張等々御披露がございました。  そこで、今の憲法がアメリカの手によって書かれたとかいろいろあるけれども、最後は日本の国会でこれを議決したのだから、最終的には日本の国民がこれを決めたのではないかという議論があるわけですね。そうだとしますと、この国会が果たして日本の国民を代表するような議員によって構成されていた議会なのかどうかというところが大変肝心な点であるように思います。  憲法制定の経過に関する小委員会の報告書などを拝見いたしますと、最終的には四月の十日に総選挙が行われたわけでございますが、それに至るまで随分いろいろな変化がありまして、最初は昭和二十一年一月二十二日に行うものと閣議で決定された、そうしたら、総司令部から、三月十五日より早くない時期にしろ、つまり一月二十二日では早過ぎる、こういうような話があって、それではということで三月三十一日にすることに決めたんだけれども、さらにその後、何らかの理由で、最終的に四月の十日に行われた。  こういう非常に不明瞭というのでしょうか、不透明な環境の中で最終的に四月の十日に総選挙が行われた、こういうことが記録に残っているわけでありますが、先生は、この選挙が、今我々がやっている選挙と比較して、本当に国民の代表を選ぶ選挙だったのかどうか、その辺の御認識をお伺いしたいと思います。 ○西参考人 私は憲法で、議会政治史とかそういったものは専門ではありませんけれども、その点はごく簡単に、常識的に知っていることを申し上げたいと思います。  今先生おっしゃられたように、当初、政府が一月二十二日に総選挙の施行を予定していたわけでありますけれども、その間何があったのか。一月四日に公職追放がありました。その公職追放によりまして、日本の議会を完全に一新させようというのが総司令部のねらいであったと言われております。  そして、これは最初はいろいろ胸算用をしていたわけであります。皮算用といいますか、おれのところは大体何議席とれるかということなんですけれども、この公職追放によってこういうようなことになりました。進歩党でありますけれども、旧議員、二百六十名中二百四十六名、ほとんど大半であります、公職追放に遭いました。もう候補になれないわけであります。それから、自由党が三十名中十七名、社会党が十名中三名、協同党が二十一名中何と十九名が公職追放で、次の立候補に立てない。これはいろいろな基準があったわけでありますけれども、民政局なりに基準を立てて、この人はだめだというようなことで排除した。  その排除をどう考えるか、これは国民の本当の意思だったのかどうかということについてはまた次の議論になるかと思いますけれども、こういう事実だけ申し上げておきたいと思います。 ○愛知委員 これは大変重要な御指摘だと思うのでございまして、実は、このときの選挙で当選をされた方が、まだ我々の議員の同僚というか大先輩としておられます原健三郎先生でございます。いつか原先生にお出ましいただきまして、当時の選挙がどうだったのか、御自分の経験談などを伺うということも大変意味のあることではないか。  あるいは、この委員会の委員のお一人でございますが、奥野誠亮先生は、議員ではおられませんでしたけれども、内務省に御勤務で、この選挙をそういうお立場からつぶさに、いろいろな角度からごらんになっておられた方でございまして、こういう方にぜひ参考人としてこの調査会でお話を伺って、この議会が本当に国民を代表していたのかどうかという検証をすることは大変意味のあることではないか、このように思いますので、今の点、こういう方々を参考人としてこれからお呼びするということについて、ぜひ幹事会でお取り上げをいただきたいと思います。会長にお願いしたい。 ○中山会長 了解しました。 ○愛知委員 まだちょっと時間がございますので、ちょっとだけ続けますと、この選挙で憲法の問題がどの程度争点になったのかということ、この点につきましてどのように把握をしておられるかお伺いをいたしまして、私の今の時点での質問を終わらせていただきます。 ○西参考人 これにつきましては、内閣の小委員会報告書に幾つか出ております。一体、選挙公報で憲法改正草案要綱にどれだけ触れられているのか。選挙公報でですよ。それは、全部はなかなか無理だったようなので、八選挙区の立候補者、選挙公報の五百三十五人を調べたところ、憲法改正草案要綱に触れているものはわずか一七・四%。選挙公報であります。八二・六%は何ら触れていない。  それから、もう一つ申し上げたいと思います。内閣の憲法調査会に何人かの参考人が呼ばれております。例えば、女性の立場から山下春江参考人はこんなことをおっしゃっておられます。「候補者の多くは天皇制護持については演説したが、憲法の議論をした候補者は一人もいなかつた」。早川崇参考人は、「総選挙はあの憲法の内容についてはナッシングであつた」。  そんなようなことで、よく、今の憲法がつくられた四月十日の選挙、これは国民の意思を体しているんだ、それから、その選挙で憲法が一応争点になった、だから、そこでつくられた憲法というのは国民の意思を体しているんだというような議論もありますけれども、このような結果を見ると、四月十日の選挙において憲法が争点になったという例は、少なくとも記録を見る限りナッシングだった、なかったということが言えるのではなかろうかと思います。  その実態は、奥野先生とかいろいろな方がいらっしゃいますので、むしろ経験談からもっと詳しいことが出るのではなかろうかと思います。よろしいでしょうか。 ○愛知委員 ありがとうございました。  終わります。 ○中山会長 枝野幸男君。 ○枝野委員 先生は、先ほどのお話の中で、日本人の誇りというお言葉をお使いになっておられましたが、当然、学者としても高い誇りをお持ちなのでしょうね。 (西参考人「今、速くてよく聞こえなかったです。日本人の誇りが……」と呼ぶ)先生は、学者として高い誇りを持って仕事をしておられるのでしょうね。(西参考人「今の憲法についてですか」と呼ぶ)いや、今、学者としてのお仕事の仕方。 ○西参考人 誇りを持っているつもりでありますけれども。 ○枝野委員 念のためお伺いするのですが、一般的に、誇りとか道徳とかおっしゃる方に限って、特に永田町の世界ですが、御自身では政治倫理に反するようなことをなさっている方が多いので、念のためお伺いしたいのですが、先生は、先生の御著書「日本国憲法を考える」の百八十八ページで、私学助成金は憲法違反であるというふうに書いておられます。その先生が、助成金を受けている私立大学で給料をお受け取りになって教授をされておられるというのは、先生の学者としての誇りとどうつながっていくのでしょうか。 ○西参考人 憲法違反であるということで、それが実現するならば、非常に幸せなことだと思います。  例えば第九条、多くの方々が、自衛隊は憲法違反である、だから自衛隊はやめなきゃいけないというようなことを主張することによって、では自衛隊が解散されたかということはないと思うんですね。ですから、八十九条は憲法違反であるということを主張することと、一応大学で、特に私立で教鞭をとっていることとは矛盾しない。私は八十九条解釈、これは主張する。しかし、だからそれをどうするかとなると、非常に強い、大きなエネルギーと政治力が必要だと私は思います。そういうエネルギーと政治力は私にはありません。したがって、一介の憲法学者として、八十九条、これはやはり私学助成は憲法違反である、ここが私の申し上げることのできる最大のことではないかというふうに考えております。 ○枝野委員 まあ結構です。  私は別に、九条があるから自衛隊をなくせだなんという立場でもありませんし、憲法の今の規定にしっかりと従ってすべてのルールをやるべきだと。私学助成金は違憲なんですから、少なくとも大学の中で、違憲の私学助成金を受け取るのはやめるべきだということの論陣を張られるのが憲法学者としての信念に基づいた行動だと私は思います。  次に、先生は現行憲法の国民主権と旧明治憲法の天皇主権と、どちらを支持されますか。 ○西参考人 当然に国民主権を支持いたします。 ○枝野委員 先生が、宮沢俊義教授の「評価」、レジュメの一ページにありますとおり、憲法が自主的にできているものではない、重大なことを失った後でここで頑張ったところで、そう得ることはなく云々というのをお引きになりました。宮沢先生は、例えば宮沢甲案と呼ばれるところで、宮沢先生御自身は天皇主権のままで憲法改正をしようとされておった、そういうことは御存じですか。 ○西参考人 これは御存じと思いますけれども、ポツダム宣言を日本が受諾いたしました。それに対応したのが、一つが外務省であり、もう一つは内閣法制局であります。一体ポツダム宣言を受諾したことによって、これは大日本帝国憲法のままやっていけるのかどうか、官庁といたしましてそれを非常に心配して、宮沢俊義先生ほかに意見を聞いております。  宮沢俊義先生は、ポツダム宣言を受諾してもそれがそのまま大日本帝国憲法の改正につながるわけではないということをはっきり、外務省の公文書の中でおっしゃっております。それが、天皇主権といっても、明治憲法においてはいろいろな形で、いわゆる立憲君主といいますか、ただ、統帥権の独立とかそういったものは問題があった。これは運用上の問題であって、今後その運用上の問題を整理していくことによって、ポツダム宣言を受諾しても大日本帝国憲法を絶対に改正しなければならないというわけではないということを宮沢先生がおっしゃっている。 それを、天皇主権ということを宮沢先生が理解しておられたかどうかということはちょっと別問題だと思う。明治憲法においてもこれはやはり立憲君主制であるということは言えると思いますので。よろしいでしょうか。 ○枝野委員 ちょっとごめんなさい。  立憲君主制というのは天皇主権じゃないんですか。国民主権なんですか。 ○西参考人 立憲君主制もいろいろあるわけで、君主主権の憲法のもとで天皇が独走していかないということは、これは十分あり得るというふうに思います。 ○枝野委員 いいですか。宮沢博士は、憲法調査委員会で、例えば昭和二十一年に議論の俎上に上がった、宮沢博士が作成した甲乙二つの案があると言われていますが、その甲案、乙案、宮沢博士がつくったとされている原案ですね、その中では、「日本国ハ君主国トス」とお書きになっておられますし、「天皇ハ君主ニシテ此ノ憲法ノ条規ニ依リ統治権ヲ行フ」、天皇主権で改正をするべきだというような原案を憲法調査委員会にお出しになっている、こういう歴史的事実は御存じないんですか。 ○西参考人 先ほどからそういったことを申し上げたつもりですけれども。 ○枝野委員 憲法においていろいろな条項がありますけれども、主権がどこに存するかというのは憲法の最も本質的な問題だと思いますが、そうではありませんか。 ○西参考人 当然、主権の所在というのは憲法の基本命題であると言っていいと思います。 ○枝野委員 結果的に、新憲法は天皇主権ではなくて国民主権となりました。それはどういう経緯でなったか、きょう先生がいろいろお話しになりましたが、主権がどこに存するかという基本的なところについて自分の意見と違う結論になっていたとすれば、自発的なものではないし、ほかのところで頑張ったってそう得るところはないという結論になるのは、天皇主権か国民主権かというところの違いで必然的になってくる。もちろんそれ以外の理由もあったのかもしれませんが、天皇主権が国民主権と変わったことによって、宮沢先生がこういう発言になるのは当然のことだというふうに思うのですが、いかがですか。 ○西参考人 私はただそれだけではないと思います。  この発言は十月一日のことであります。十月一日というのは、先ほども申し上げましたように、極東委員会を通じて貴族院で、二つのことを入れろと言っているわけであります。一つは六十六条二項、いわゆる文民条項、もう一つは成人の普通選挙ですね、これを入れろと言っているわけであります。非常に強く極東委員会から、総司令部を通じて圧力が来ているということはわかっているわけであります。 そういう中での発言であります。そういう中での非自主性、非自発性、自己欺瞞というような言葉として入れかえすることもできるように思います。  それから、宮沢先生の中に入って、宮沢先生の心をどう考えるかということは私はちょっと理解できないものですから、そういう中で申し上げているわけであります。 ○枝野委員 そうですね。最後の言葉が一番正しいんですよ。宮沢先生がどういうお気持ちでこうお使いになったのかというのは御本人にお伺いしなければ、ここだけ引用して、自分の都合のいいように解釈はできない、客観的に文字を読むだけの話でしかないということを私は指摘しておきたいと思います。  それから先ほど愛知先生からの御質問で、憲法制定当時の議会の話をされました。日本国憲法における主権者は、改めて聞きますが、だれですか。日本国憲法です。 ○西参考人 今の憲法のもとにおける主権者ということですね。それは当然国民であります。 ○枝野委員 憲法制定、形式的には改正になるんでしょうか、新憲法制定当時の議会の意味というのはどういう意味を持っていましたか。 ○西参考人 これは政府案が提出されて、それに対する審議、これは明治憲法、御存じのように七十三条で、一応天皇がこれを提出するわけでありますけれども、それによって衆議院、貴族院が政府案に対していろいろと議論をする、これが当時の議会の使命である。 ○枝野委員 では、こう聞きます。当時の帝国議会は――逆に、まず今から言いましょう。現在の日本国憲法下における国会というものは、国民主権を実現するための機関として、国民の代表機関として選ばれています。国民主権を実現するための機関です。当時の帝国議会というものは国民主権を実現するための道具で、機関でありましたか。 ○西参考人 これは明治憲法をお読みになればわかるように、帝国議会はあくまで協賛するわけであります。天皇に対する協賛機関であります。したがって――よろしいでしょうか。 ○枝野委員 それだけで結構です。  まさにそういうことでありまして、この場合、日本国憲法の主権者、当然主権者が憲法制定権力だと思います、新憲法の。  あの議会について、どういう構成であったかとかどういう議論がされたかということは、もちろんそれを議論することも大切でありますが、その構成がどうであったかどうかということは、少なくとも国民主権とは関係ない話ではあります。旧憲法下の議会でありますから。  問題は、旧憲法の手続を利用して、この新憲法は主権者を入れかえるということをしたわけでありますから、その結果に対して主権者たる国民が、議会という形では制定前に表現をできなかったけれども、当時の国民、新たなる主権者が、憲法ができる直前、まだ憲法制定権力がこの憲法についてどう考えてどう容認をしたのか、あるいは否認をしたのかということを、国民主権という観点から当時を検証するのであるならば正当だとは思いませんか。 ○西参考人 その場合、先ほども申し上げましたように、非常に大きな制約があったということですね。ただ、今のように全く制約がない中での憲法審議ではなかったということであります。憲法が審議されても、一字一句、ケーディス初めこれでいいのかということを聞いているわけであります。そういう歴史的背景あるいは圧力、さらに、これは総司令部だけではありません、その上に極東委員会がいるわけであります。そういう異常事態の中での憲法審議、このことはやはり理解する必要があるかと思います。 ○枝野委員 いや、ですから議会の話が制約があったことはそうでしょうと申し上げているんです。それは、その当時の議会は国民主権の、国民の代表としての議会ではなくて、天皇の輔弼協賛機関としての議会なんですから、国民主権という観点からすれば、主権者たる国民がどう判断したのかということについて、参考にはなるかもしれないけれども、その議会でどういう議論がされたかということは、基本的には国民主権の観点ではちょっと視点が違うということは間違いないですね。 ○西参考人 先生の理論だと、こういう非常に大きな法的な疑問がわいてくるように思います。すなわち、天皇主権のもとでどうして国民主権の憲法ができるのかということであります。一体そこに継続性があるのかどうなのか、無効かどうか、当然ここに出てくると思います。天皇主権という制度、これは明治憲法の最大の基本原理であります。その最大の基本原理である天皇主権のもとで、国民主権の憲法がどうしてつくられたのだろうか。そこに一体法的な継続性があるのだろうか、法的な効力があるのだろうか。  そこで、これは御存じとは思いますけれども、何とか私の言葉で言うと、つじつま合わせでありますけれども、宮沢俊義教授、また出しますけれども、いわゆる八月革命説、もう八月革命説でしか法的に説明できない。言ってみれば、では革命があったのかという架空の議論で、天皇主権の明治憲法を国民主権の憲法に変える、そういう八月革命説という非常に苦しい議論でもって今の憲法を説明しなければならない。そこに私は、今の憲法の持つ非常に大きな問題点がある、禍根があるのじゃないかということを申し上げておきたいと思います。 ○枝野委員 おっしゃることはよくわかります。そういう経緯で八月革命説が出てきたというふうに思います。  しかし、そこに禍根があるという今のお話の仕方ですと、主権が天皇に存したのをその憲法のルールに従って変えることはできない、革命でしか説明できないとしたら、天皇主権の憲法を合法的に変えることはできないという結論になってしまいませんか。 ○西参考人 これは、法理論の問題になります。憲法改正の限界論という問題になります。宮沢俊義先生は、憲法を改正するには限界があるという立場であります。要するに、憲法の基本原理をたとえ改正手続によっても改正できない、その一つ大きな限界があるというのが憲法改正の限界論ですね。だから、明治憲法は天皇主権であります。天皇主権の明治憲法を国民主権に変えるということは、憲法改正限界論ではこれは説明がつかないわけであります。だから八月革命説を出してきたわけであります。  私の解釈を申し上げます。私は憲法改正無限界論をとっております。憲法改正無限界論の立場だったらこれは説明できます。よろしいでしょうか。 ○枝野委員 はい、結構です。無限界論をおとりになるということでしたら、それで結構なんですが、さて、もう一度戻ります。  先生が御指摘になりましたGHQ、マッカーサー、そういった圧力といいますか、そういったものは、いずれも当時の天皇、当時の旧憲法下における権力者に対してなされている、権力側に対してなされている、主権者あるいはその主権者を取り巻く輔弼機関に対してなされています。したがいまして、新憲法の主権者、憲法制定権力が国民の側にある。  国民に対して圧力がかけられたというようなことについての説明は全くございません。  そうした意味では、今の御説明は、主権者たる立場から見ればそんないきさつは、当時、旧権力を握っていた内側ではあったかもしれないけれども、国民の側からは、主権者からは関係のない議論ではないのですか。 ○西参考人 お答えいたします。  要するに、一言で言うと、押しつけられたのは日本国政府であり国会である、国民はそうでないんだ、だから国民は関係ないんだというような御理論かと思います。  けれども、当時、先ほど申し上げたように、一体憲法はだれがつくったんでしょうか。やはり政府が案を出すわけであります。国会がそれを承認するわけであります。今の九十六条のように、最終的に国民の過半数でそれを承認するということでは決してなかったわけであります。ですから、一体国民に押しつけられたかどうかといっても、押しつける必要は全くなかったわけであります。  先ほど制定権者のことをおっしゃいましたけれども、少なくとも、明治憲法の改正におきましては、制定の主体は政府であり国会でありました。これに対して非常に強い圧力があったということは歴然たる事実であるということを申し上げておきます。 ○枝野委員 押しつけられていない国民が、さあでき上がりましたというときに、憲法が施行されて主権者になりました。主権者として憲法改正権力を持っています。その人たちが、そのときどういうふうに受け取ったのか。押しつけられてもいないけれども、上の一部の人たちが押しつけられて起案をした憲法ができ上がった。それに対して国民がどういう反応を示したかということが、本当に日本国としてこの憲法を押しつけられたかどうかという判断をする材料であるのではないですか。 ○西参考人 先ほども申し上げました、四月十日に総選挙がありました。ここで選挙公報として、そのときは四月十日ですから、先ほども言いました三月六日に憲法改正草案要綱というものが出てきております。それを国民に示すことはできたわけであります。先ほどの私のデータでは、ほとんどそれが示されていない。であるならば、果たして国民の意思が完全にそこに証明されたと言えるかどうか。  それから、先ほど主権のことをおっしゃいましたけれども、そうするとまたぐるぐる回りで、要するに、また憲法の法理論になってくるということであります。 ○枝野委員 ですから、私はでき上がった時点でというふうに申し上げたんです。旧憲法が効力を持っていた時点での議会は、国民主権とは関係のない存在、天皇の輔弼協賛機関でありますから、そこの議会はまさに、そこの法理論のごちゃごちゃをやりますとわけがわからなくなりますから、置いておきます。  でも、少なくとも新憲法が施行をされて、そして国民主権になって、国会が国民主権の表現体としてでき上がった以降、そして、あえて言うならば最初の議会ですね、日本国憲法下における最初の議会や、あるいは占領下で云々ということまでおっしゃるのでしたらば、サンフランシスコ条約が施行された直後の時点でのこの国の国民、主権者たる国民の意思というものこそが、押しつけられたかどうかということの判断材料である、最優先で考えなければならない問題であるというふうに思いませんか。 ○西参考人 いろいろな機会はあったと思うのですね。本当に国民の意思を聞く、独立時において聞くこともできたと思います。私は、そういう意味において、日本国民が今の憲法をどう思うか。この際、本当に聞くというような方向でこの憲法調査会をぜひ実りあるものにしていっていただきたい。今までは、それはもう架空のことであります。一体、本当にあったのかどうか、そういう架空のことで、本当の現実のものとしてこの憲法調査会でやっていっていただきたいというふうに思います。 ○枝野委員 もう時間ですので、終わりますが、まさにそういうことなのであって、例えば、最近は世論調査をやっても国民のかなりの部分が憲法改正に積極的な姿勢を示している。まさに主権者の意識が大分変わってきたので、それはいろいろな議論はあるけれども、少なくとも、国会の場で議論をしようとようやくなってきたのであって、制定当時あるいは独立当時というものはそういう国民的な意識でなかった。主権者がまさにそう判断をしていたから、例えば当時の憲法改正を党是で掲げている党も無理をしてこなかったのは、主権者がそういう意識だったからだ。  したがって、制定当時の経緯を議論すること自体否定しませんが、そのことがどうだったからああだったからということをしても余り意味はない。むしろ、今からどうするのかということこそが本質であるのだということを改めて強調して、質問を終わります。ありがとうございました。 ○中山会長 次に、石田勝之君を指名いたします。 ○石田(勝)委員 改革クラブの石田勝之でございます。公明党・改革クラブを代表いたしまして、西先生に質問をさせていただきます。  本日は、西先生におかれましては、大変お忙しい中御出席をいただきまして、貴重な御意見をお述べいただきまして、心から厚く御礼を申し上げます。  さて、制定後五十年以上を経過いたしまして、時代や社会情勢が大きく変化する中で、現憲法について調査をして論議をしようという憲法調査会の設置は、長年、憲法調査委員会設置推進議員連盟、中山会長を中心としまして、こちらにいらっしゃいます先生方も多く参加をしていただいたわけでありますが、私もその活動に長年携わっていた者として、今回この憲法調査会の設置については、高く評価すべきものと考えておる次第でございます。  私は、現行の憲法の主権在民、平和主義や基本的人権、これらの尊重などの原則を二十一世紀へ向けて発展させるとともに、時代や社会状況が大きく変わった中で、憲法にそぐわない部分があるとすれば、変えた方がいいのか、あるいは別な方法があるのか、議論を始めるべきだと思っておりました。その意味で、全会派そろって、まずこの憲法の制定過程から調査し、論議を始めるということは、大変有意義なことであると思っているわけであります。  そこで、西先生にお聞きしたい点がございますが、昭和二十一年の一月、米国政府がマッカーサーに対し政府の考えを伝えた「日本の統治体制の改革」という文書がありますが、占領政策の基本とも言える文書でありますが、ここには、戦前の体制を是正する諸改革は、日本政府がみずから発議し、実施したものでなければならない。また、最高司令官が改革の実施を政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなくてはならない。そして、その理由として、改革が連合国によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれらを受け入れ、支持する可能性は著しく薄れることであろうと述べておるわけであります。  つまり、憲法が日本国民に押しつけと映らないようにGHQもぎりぎり気を使ったが、最初に日本側が作成した改正案、いわゆる松本国務大臣案が余りにも明治憲法をベースにした復古的なものであったがために、最後の手段として約十日間でみずから憲法改正草稿をまとめたことだ、私はそういうふうに認識をしておるわけであります。そして、実質的に憲法も、先ほども前の質問で、国民主権とか天皇主権とかさまざま議論がされておりましたけれども、この憲法もGHQの強要に極めて近いものであったと思うわけであります。  その後、事態はGHQが危惧したようにはならず、むしろ幅広く国民がこれを受け入れて、支持をしてきたと思います。これは、そこに盛り込まれた内容が評価されたものであろうと思うのですが、先生はその点についてどうお考えになっておられるか、まずお聞かせいただきたいと思います。 ○西参考人 本日は、成立過程というものが中心だったものですから、私が強調したのは、成立過程の異常さということを強調したわけであります。今度はまた別に、新しくできた憲法、これをどう評価するかということのお尋ねだというふうに理解してよろしいですね。  私は、先生が先ほどおっしゃられたように、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、こういうものはやはり非常に重要なことだと思っております。そういうような基本原理というものは、国民は受け入れてきていると思います。  ただ問題は、平和主義の内容は何か、非武装が平和主義の内容なのか、世界の平和秩序が侵されているときに日本は何もしなくてもいいのかどうか、そういう平和主義の内容。また、基本的人権といっても、個人、個、そういうものを強調する。これが基本的人権の内容、本質であるとすれば、私はやはりちょっと違うのではないか。基本的人権の尊重というのは、公共の福祉とそういうものとのバランスをとった上での基本的人権、そういったものを考えた上での基本原理。これは、私は国民が支持してきていると思いますし、ともするとちょっとゆがめられてきているような感じもいたします。よろしいでしょうか。 ○石田(勝)委員 憲法制定過程についての文献を当たりますと、日本国憲法は、当時の政治経済に関する思想的諸潮流をかなり色濃く反映したものだと言われているわけであります。  例えば、前文についていえば、米国憲法の前文やリンカーンの演説が参考にされている部分があると言われていますし、また、一九四三年の米英ソの三首脳によるテヘラン宣言や、一九四一年の米英首脳による大西洋憲章の言葉を参考にしているとも指摘されているわけであります。また、GHQのスタッフはかなりニューディール政策の影響を受けたとも言われているわけでありまして、さらに国連の成立、これは一九四五年の十月でありますが、それに対する新鮮な期待を大きく意識して書かれていることは、間違いないところだろうと思います。  そこで、お伺いをいたしたいわけでありますが、こうした政治思想の諸潮流には、もちろん現在あるいは遠い将来まで通用するものもあれば、時代的制約を受けているものもあるのではないかと思いますが、このあたりについて先生はどのように認識しておられるのか、お聞かせいただきたいと思います。 ○西参考人 まことに申しわけありません、時代的制約があるものは何かということのお尋ねでしょうか。今の憲法のもとにおける時代的制約。ちょっと抽象的で、理解しかねる部分があるのですけれども、例えば現在との乖離という意味ではないわけですね。 ○石田(勝)委員 いや、そういう意味も含めて、現在の時代との乖離ということも含めてでございます。 ○西参考人 これは非常に、だれが見てもわかるような、ごく簡単なことからちょっと申し上げたいと思います。  これは本質論でないかもしれませんけれども、例えば日本国憲法、私が持っているこれも、実はこれは本当の憲法じゃないのですね。今、六法全書は本当の日本国憲法ではありません。例えば本当の日本国憲法というのは、「國」という字が難しい字であります。「國會」も難しい字であります。よく、現実を憲法に合わせろということをおっしゃいます。しかし、「國會」とか、あるいは何々すると「思ふ」、何々するようにを「やうに」、こういう憲法にどうして現実が合わせることができるのでしょうか。大学は今大学入試期間でありますけれども、こういうことを書いたら、まずちょっとおかしいのじゃないかと思われるのじゃないかと思います。  そういう極めて現象的なものから、あるいは例えば、そこで九条がかなり議論になっておりますから、九条についてちょっと申し上げたいと思いますけれども、やはり現実との乖離を一番痛切に感じられたのが当時の社会党ではないかと思います。それまで、自衛隊は憲法違反、日米安保条約即時廃棄と言っていたのが、総理になられたら今までの解釈をがらっと変えてしまった。これはやはり、九条解釈というものの自分たちの法規範の解釈と現実との乖離。いろいろ申し上げたいのですけれども、何か先生、いろいろ時間を気にしていらっしゃるようですから、一つだけちょっと申し上げたいと思います。申しわけございませんでした。 ○石田(勝)委員 時間が参りましたので終わります。ありがとうございました。 ○中山会長 次に、安倍基雄君。 ○安倍(基)委員 時間が十分しかございませんので、簡単に質問しようと思っております。  私は、憲法制定の経緯、本当に、特に芦田修正と文民条項ですか、こういったものは非常に参考になったわけでございますけれども、私は、今までの憲法論争でちょっと抜けているのは、比較法学と申しますか、ドイツと日本と同じような状況のもとに置かれた。ドイツの場合に、いわば基本法は、ドイツ統一の際とかそういったことで修正するという条項があったということはよくわかっていますが、戦争放棄の問題とかほかの条項について、大体同じような環境に置かれたわけですが、特に日本の場合とドイツの場合とどこがどう違っておったんだろうかということが第一点。  第二点は、改正条項といいますか、これは非常に両方とも厳しい。私は、当初、日本だけが例の議員の三分の二、国民投票、これじゃなかなか変わらないなと思ったんですけれども、意外とドイツなんかも似たような改正条項がある。それにもかかわらず、ドイツはどんどんと変わってきている。  この二つの点、非常に疑問に思っておりまして、第一の、憲法制定の過程で日本とドイツとどう違ったんだろう、また、原案的にどう違ったんだろうということをまずお聞きしたいと思います。 ○西参考人 ドイツの場合は、一九四五年の五月だったでしょうかね、ヒトラー崩壊ということでありました。憲法がつくられたのは一九四九年であります。四年間の審議期間がございました。審議期間というか、その期間がありました。日本の場合は、一九四五年八月に終戦を迎え、十月にすぐ憲法問題調査委員会を発足させる。非常にせかされた、この辺がまず第一に違うと思います。  それから第二に、国際関係であります。日本の場合は総司令部だけでありましたけれども、ドイツは御存じのように、今、東側はちょっと別にしまして、西側も三カ国の共同管理下にありました。そういった点が違うわけであります。  そして、もう一つの違いは、ドイツの場合は、あくまでこれは基本法である、グルントゲゼッツである。今こういう状況で、永久の、ドイツ語ではフェアファスングでありますけれども、フェアファスングはつくらないんだ、あくまでも基本法だ。こういうような点ですね、幾つかの違いがあるように思います。  そういったところで、あとは時間がないようですから細かいことはおきまして、それから、先生、何か平和主義のことをおっしゃいましたけれども、ドイツと日本の平和主義の違いを申し上げてもよろしいでしょうか。(安倍(基)委員「条文を持っておりますけれども。では、ちょっと御説明いただいて結構です」と呼ぶ)  ドイツの場合も平和主義条項を持っておりました。二十六条では、侵略戦争を準備するようなのは憲法違反だとはっきり言っております。そして、四九年のときには、軍備に関する条項は一切ありませんでした。ただ、なぜか良心的兵役拒否はありましたけれども。しかし、それが五四年、五六年、憲法を改正しまして、そこに軍備条項を入れました。それから、六八年には非常事態条項を入れました。  それから、先ほど先生、ドイツの憲法改正のことをおっしゃいましたけれども、私が調べたところ、ドイツは四十六回これまで憲法を改正しております。非常に頻繁に改正しております。さっきちょっとそういうことをおっしゃいましたので、一言申し上げておきます。 ○安倍(基)委員 では、基本的には、国際情勢が大分変わってきた状況のもとにドイツの基本法はできた、日本の場合には戦争直後に非常に即席でできたということが大きな相違の原因だと言われたと思いますけれども、それ以外に、マッカーサーの一つの理想主義的なものが相当背景にあったのかどうか。その辺、やはり当局者のいわば考え方が制定の経緯のときに相当関係しているのかと。その辺の考え方をお聞きしたいと思います。 ○西参考人 マッカーサーがなぜ急いだのか。これは、極東委員会ができることが予定されていたからであります。二月の二十六日に極東委員会が発足することが、十二月の終わりでやはり二十六日だったと思いますが、もうモスクワの外相会談で決まっておりました。  極東委員会ができますと、極東委員会が日本の憲法構造、これは小委員会報告では憲政機構と言っておりますけれども、コンスティチューショナルストラクチャーであります。この憲法構造につきまして、極東委員会が完全にイニシアチブをとります、二月末以降。極東委員会の中には、ソ連やオーストラリアなど、天皇制廃止論の国が、強硬に廃止したい国が多いわけであります。マッカーサーは何とか天皇制を維持しようというようなこともありまして、とにかくマッカーサーが急いだ非常に大きな原因は、目の上のこぶになる極東委員会の設置が予定されていたことがあるということを申し上げたいと思います。 ○安倍(基)委員 では次に、さっきの改正の問題で、改正のいわば要件というのはそんなに差がないですね、日本の場合には国民投票がございますが。この辺、なぜ日本がいつまでも、私は、さっきの議論の中で、確かに国民主権になった、国民主権になったら、そこで本当にまた論議をすべきではなかったかという感じがするんですよ。  かつて、制定当時の人が大分来て、東京で議論したことがございました。西先生も参加されたと思いますけれども、そのときに、なぜ要するに今まで変わっていないのだろうと。さっきの御説明の中にも、制定当時の人々が、これは暫定的なものだ、いつか国民が自分で変えるだろうと思った、そんなような発言もございましたけれども、なぜ変わらなかったのだろうか。要件が厳し過ぎたんだろうか、あるいは別の原因があるんだろうか、これについて御意見を承りたいと思います。 ○西参考人 これは、やはり二つの要件があると思います。  一つは、手続的な点であります。九十六条は、国会で両院の総議員の三分の二ですから、これは非常に厳しいですよね。これはやはり、まず手続のハードルを超さなければいけません。  それからもう一つは、これは先生の自由党でやっていらっしゃるわけでありますけれども、例えば自由党の案、憲法改正の国民投票法案を御検討なさっていらっしゃるようでありますけれども、今まで九十六条を受けた憲法改正の国民投票法がなかったということも、私はこれは非常に、例えば国民審査、最高裁判所の国民審査が憲法にあったら最高裁判所国民審査法があると同時に、九十六条は当然憲法改正国民投票法というものを予定しているわけで、私の立場から言うと、この憲法改正国民投票法が今まで制定されなかったというのは、ちょっと皆さんの前でこう言うのはどうかと思いますけれども、やはりこれは国会の怠慢じゃなかったかというふうに思わざるを得ません。  それから第二に、実質論として、とにかくいろいろな議論がありました。やや復古調のこともあったり、とにかく議論の場がなかった。憲法改正といえばすぐに、やれ軍国主義だなんとかで、そういう何か変な空気に支配されている。  そういう意味において、ぜひこの憲法調査会で、これは憲法調査会ができたということでも大変な進歩だと思いますので、ぜひここで、一体どういう問題点があるのかということを提案していただければ、国民がそれに応ずると思うのですね。  だから、やはり憲法改正問題、それをとらえて、何を国民は考えているか。受信機能と同時に発信機能、こういったものをやっていただくことによって、今後国民が憲法を考えるよすがになるのではないかというように思うわけであります。 ○中山会長 安倍君の質疑時間は終了いたしました。 ○安倍(基)委員 終わりましたか。  では、これで終わります。 ○中山会長 次に、東中光雄君。 ○東中委員 先ほど参考人は制定の経過の中で、今護憲を主張している日本共産党が当時は憲法に反対したのだということを言われました。制定経過における各党の態度、政府の態度ということを言われる中で言われるならともかく、わざわざ共産党だけを、しかも、護憲政党と言っているけれども前は違ったんだ、こういうことを言われたというのは、私は非常に遺憾の意を表明しておきたいと思います。  それはともかくとしまして、その時期における私たちの憲法に対する態度というものを、先ほど疑問も呈されましたので、申し上げておきたいんですが、第二次大戦というのは、日独伊侵略ブロックが敗北をした、反ファッショ連合国と世界民主勢力が勝利をして終わった。日本は、ポツダム宣言を受諾して、降伏文書に示された国際的義務を負うて、そして終結したという状態であります。  そういう状態で戦後公然と活動を開始しました日本共産党は、ポツダム宣言の完全実施と民主主義的変革を徹底してなし遂げるという立場で、天皇制の廃止、軍国主義の一掃、国民の立場に立った国の復興のために、そういう立場であの人民共和国憲法草案を発表したのであります。そういう立場が貫かれております。  そういう立場から見て、出てきた憲法草案はどうかということについて言えば、幣原内閣の出した案というのは、全然ポツダム宣言から許容されるはずのない、国際的義務を負うているのと全く違った方向を向いているわけですから、だめになるのは当たり前なんです。しかし、そういう中で、現在の日本国憲法の草案に対して、私たちは、民主主義をもっと徹底すべきだ、主権在民をちゃんと徹底すべきだ、不十分だということで追及したわけであります。  しかし、主権在民と国家主権の大原則、あるいは恒久平和の大原則、あるいは基本的人権の尊重、こういった憲法の基本的な柱、そのほか議会制民主主義なり地方自治の原則がありますが、こういうものを今変えようという動きがあるから、そういう改悪は許されないということを我々は言っておるわけであります。  この点をまず明らかにした上で、参考人のお話を聞いていますと、GHQのスタッフのだれそれの、あるいはマッカーサーの個人的意見とか、そういう角度で物を見ておられるようで、全く制度的に見ていない。これは真野毅さんが憲法調査会のときにも意見を言うておりますけれども、「ポツダム宣言受諾の降伏文書によつて、日本は民主化の国際的義務を負い、これに基づいて総司令官の勧告(命令ではない)により憲法が制定されたのである。全体から見て押しつけというべきものではない。」という発言をしておられるのは御承知だと思うんです。記録にちゃんと残っております。  問題は、ポツダム宣言で日本が受諾した国際的な義務というのは何か、日本国としてですよ。それは降伏文書にもはっきり書いてありますけれども、要するに、日本のあの侵略戦争をやった――こう書いてありますね。世界征服の挙を犯さしめたる者の権力、勢力は永久に除去する、それから、日本国の戦争遂行能力は破砕されるということまで書いていますね、ポツダム宣言に。それを受けているわけでしょう。それで日本軍隊は、日本国じゃない、日本軍隊は無条件降伏をしたということでしょう。そのための無条件降伏の施行を日本政府がやる、大本営がやるということをあの降伏文書に書いています。  もう一つは、日本の民主主義的傾向の復活強化に対する障害をなくする、そして、言論、宗教、思想の自由、それから基本的人権の尊重は確立される、こう言っています。これは明白に、帝国憲法の天皇主権というものはだめだ、主権在民にしなきゃいけないということを受け入れたわけですよ。国際的義務として受けていることであります。  それから、基本的人権というのは明治憲法では一切認めていないでしょう。基本的人権という概念はそもそもないじゃありませんか。治安維持法なんかをやれば、あれはもう全部否定したでしょう。そういうものは許されなかった。基本的人権の尊重は確立されておらなかったので、そういうことをやりますということを受けたというのが、あの降伏文書であります。  そういう義務を受けているので、それに従って、マッカーサー個人でもなければアメリカでもないし、ブッシュ候補のあの演説なんというのは全くジャーナリスティックなことじゃないですか。ここで言われることじゃありませんよ。そういうものを持ってきてまで言うというのは、おかしい。  だから、正確に言えば、そういう国際的義務、それに従って日本の主権を制限するということを日本自身がのんだ、その範囲での勧告があって、それを論議して決めた、こういうのが経過だと思うんですが、その点について、個人的なスタッフが勉強していたか、していなかったか、そんなことは日本国憲法制定の過程からいって問題にならないというふうに思うんですけれども、いかがでしょうか。 ○西参考人 まず第一に、私は別に共産党、社会党を特にターゲットにしたわけではございません。時間がなくて、そして先ほど一番最初に申し上げましたように、どうも世の中にといいますか、そういった憲法の成立過程とかいったものに何か誤解があるんじゃないか。もし私が、これは中野重治さんかな、言っておられたように、共産主義者であれば、当然、共産主義としての憲法を世の中に訴えるべきだ、当然であるというようなことで言っておられましたので、そこで、なぜマスコミの中で護憲になるかということの非常に強い疑問があったから、申し上げたということであります。  そこで、ポツダム宣言について申し上げます。  ポツダム宣言を受諾することが必ず憲法の改正に結びつくか、これは二つあると思うんですね。一つは、先ほど申し上げましたように、宮沢先生、美濃部先生は、この辺は必ずしも結びつかないんだとおっしゃっておりました。  私の考えを申し上げます。いずれ限界が出てくるだろうというふうには思います、ポツダム宣言をそのまま考えれば。  そこで、そういう側面から、どこをどんなふうに申し上げるか、ちょっとあれですけれども、何かいろいろな論点をおっしゃられましたので、ポツダム宣言との関係でいうならば、ポツダム宣言を受諾することが絶対に憲法改正に結びつくか。これは必ずしもそうとも言えないという議論もありましたし、それから、さっきちょっと言い得たかどうか、ハーグの陸戦法規ですね。一九〇七年のハーグ陸戦法規では、これは私の何ページかにありますので、ごらんになっていただければわかるように、占領国はその国の法律を尊重しなければいけない。一体、尊重したかどうかということ。  それから、時間がありませんが、もう一つだけ申し上げます。ポツダム宣言を受けてSWNCC―二二八、これもきょうの配付の中にあると思いますけれども、SWNCC―二二八では、マッカーサーに来たアメリカの指令では、天皇制を存置する場合と存置しない場合を分けているわけであります。ですから、ポツダム宣言を受諾することイコール絶対に天皇制廃止にならないということは、アメリカ自身も認めているということを申し上げておきたいと思います。 ○東中委員 ハーグ陸戦法規で連合軍が日本の法規を尊重したか、しなかったかという問題について言えば、あなたは尊重していなかったぞと批判のニュアンスで物を言われましたけれども、あのハーグの陸戦法規というのは、戦争中の占領地域での問題です。だから、沖縄を占領した米軍が県民を囲い込んで全部土地を取り上げた、ブルドーザーや銃剣でもうむちゃくちゃやりましたね、終戦後も。 そういうことをやった、あれが明白にハーグ国際陸戦法規に違反した行動で、それが今まだ残っておる。そこらが問題なんです。  司令部から、主権は制限されるということを受諾したんでしょう。だから間接統治で、だから武装解除も、米軍は直接武装解除をやっていないじゃないですか。日本が、政府が武装解除をやるんだとやっていますね。  そういう全く基本的な問題さえ、何か陸戦法規のことを言われる人がありますけれども、今は少なくとも憲法学界でまともにそんなことを言う人はないですよ。あなたは何か疑問があるようなニュアンスのことを言われていますけれども、全く学界上認められぬようなことを言われるのはいかがなものか。  時間ですので、終わります。 ○中山会長 深田肇君。 ○深田委員 御苦労さまでございます。もう少しでございますから、よろしくお願いを申し上げたいと思います。  先ほど先生が、この憲法調査会の色分けみたいなものをわざわざ三つに分けてお話しいただいたようでありまして、その中で、大変光栄なことでございますが、社民党は護憲のグループの中へ入れてくださったようでございますが、それは大変光栄と存じます。感謝を申し上げておきたいと思います。  私どもの方は、本調査会で、副党首の伊藤茂衆議院議員の方から、我が党の原則的見解はもう披瀝しておりますし、目を通していただいておると思いますから、その点はしっかり御理解いただいた上で、これから調査会の中で、私どもの立場での意見を少し開陳しながら、国民の皆さんと一緒に共同討議をして、しっかりとした日本の政治のあり方について物事を進めていきたいと実は考えている次第でございます。  そこで、私ごとで大変恐縮なんですが、私、一九三二年生まれですから、中学生のときに、いわゆる隣の広島で、あえて言います、アメリカの原爆が落ちまして、それを隣の岡山におりましたものですから体験いたしまして、広島、岡山の交流が随分あったことを、しっかりと今でも記憶があります。同時にまた、その原爆が落ちる直前までは、予科練にしようか少年航空兵にしようかと迷っておりまして、どちらかに行くつもりで、学校当局にはもう出願の手続をしていたということもあるんです。  それで、御存じのとおり敗戦がありまして、そこで、言うなら民主教育というのをずっと受けて今日にまで参りました。迷わず社会党、社民党へという道を歩んできたのでありますが、今、憲法問題が論議になっている中で、こんな機会をいただきましたので、そういう私ごとを少しお話し申し上げた上で、いろいろなことを体験しておりますので、意外に私たちの世代やこれからの若い人たちに対しても国民的な共感を持てるのではないかと、実はうぬぼれながらおるわけでございます。  さて、その次に、きょうはトップバッターが先生で、先生が実に大きな声で明快に、ずらっと資料に基づいてお話しされましたので、少しぐっと押された感じがしておりましたが、自民党を初めとする先生方の質問とのやりとりや、いわんや野党の方々の御質問とのやりとりを聞いておりまして、いや、これはなかなか、先生の言うとおり世の中回ってないなと。これは私ども、余り少数派だと意識せずに、堂々とやはり先生に論議を挑むべきだと感じましたことも率直に申し上げて、少し私どもの意見を申し上げておきたいというふうに思っている次第でございます。  先生の言葉を、私が余り簡単に申し上げるのは恐縮ですが、こういうところで、十分間でございますからずばり言いますと、今回の調査会におけるテーマでもあると思いますから、おのずからそこに先生が絞り込まれたんだと思いますが、いわゆる占領軍によって押しつけられた憲法だというところを大変強調されたというふうに思います。  その点については、事実経過は、今申し上げたような話だとか、それから同僚である枝野さんとのやりとりだとか、それから、今また東中先生がおっしゃったように、いろいろな公的な発言などがたくさんあることは承知しておりますし、そのことも、体験も含めて、戦後、いろいろなことを学ぶ時期でございましたから、いろいろなことを学び合ったということも申し上げた上でなおかつ言うんですが、やはり日本の国民と日本の政府、そして、そのころいろいろな問題があったかもしらぬが、日本の国会において、今の世界に誇るべき憲法というものがしっかりとつくられたと思っているんです。  今なおかつ、先生は、その経過を踏まえて、ここからちょっと質問に入りますが、日本の主体的取り組みや日本の自主性はなかった、したがって、単純な言い方をして恐縮と先ほど申し上げましたが、これはあくまで押しつけられた憲法であるから、今こそ憲法は、みんなが討論して、私どもにとっては、法的にいえば改正という用語でいいと思いますが、改正するときが来ているんだ、その根拠はあくまで押しつけ憲法であるからだ、こういうふうに、主体性と自主性はないものなんだというふうに断言されるんでしょうか。その点をちょっと最初に伺っておきたい。今なおかつ、そう思われますか。 ○西参考人 先ほども申し上げましたように、二つの論点をちょっと整理させていただきたいと思います。  一つは、憲法成立過程をどう評価するか。この点では、先生のおっしゃる、押しつけである、非常に強かったということを言わなければいけません。  次のことを申し上げると、それでは、今の憲法をどう評価するか、この五十何年間の中でどう評価するか、これはまた別問題であります。これは第二の論点であります。それについて申し上げます。  私は、やはり、今の憲法のいわゆる基本原理、先ほどもちょっと申し上げました、平和主義といっても、ちょっと観念的な平和主義が強かったように思います。 あるいは、基本的人権の尊重といっても、ちょっと何か個の人権が強かったように思います。  そういうことを一応捨象しまして、除きまして、やはり、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、これはもう、当然その基本原理は今後とも守っていくべきだと思います。けれども、やはりこの五十何年間の中に、いろいろ問題も出てきていると思うんです。  先ほど、先生の前でなんですけれども、第九条の解釈でも、今までは反対、自衛隊違憲であったのが、自衛隊合憲になってしまう。一体、九条は何だろうかと。 国民の多くの人たちは、それはやはり疑問に思うと思うんですね。よろしいでしょうか。 ○深田委員 済みません。先生のお話の途中で、腰を折って恐縮なんですが、それはまた別の機会で先生と、個別なり、また委員会でのやりとりをさせてもらいたいと思うんですが。  私が思いますのは、そういう入ってきた経過があったり、そのときのマッカーサーなり極東委員会の経過もあったにせよ、当時の日本政府は、苦慮して苦慮した上で、国民の意見をどこまで聞いたか、保障したかといういろいろな手続論はありましょうけれども、そのことを政府が確認をして、国民が歓迎をして、当時の日本国を再興しよう、再建しようという国民の感情とぴったり合った。  もっと言えば、侵略戦争に対して、我々が思いもよらなかった敗戦を味わった。 その敗戦の原因をいろいろ考えたときに、我々の侵略戦争が過ちであった。それで、アジアを初め世界から大変な批判を受けたということを国民が自覚したがために、後段の話はきょうは避けたいのでありますが、日本国憲法が定着してきている。少なくとも、過半数は今の憲法でいいじゃないかと思っているんじゃないかと私は思っているんです。  そういう意味からしますと、生い立ち論や導入論を中心にして、あたかも当時の日本の政府や、それから、五十年間歩んできた今日までの日本の政治に、いわゆる主体性がないとか自主性がないというレッテル張りは、私はいただけないということを意見としてまず申し上げておかなければいかぬ。  これについて、先生からすれば、それは違うよと反論があると思いますが、申しわけない、反論をしていただく時間もありませんので、私の方のはっきりとした意見を申し上げておきたいというふうに思っております。  そこで、私は、いろいろありましょうけれども、今後のこともあると思いますから、一つ二つ申し上げておきたいのでありますが、今ちょっとお話ししましたとおり、あえて言えば、当時もそうでありましょうが、いろいろなことがあります。九条問題や、時によっては人権問題等々についても記述が少ないとか多いとか、それから、私学助成のことが憲法違反であるかないかというようなことで、いろいろな論議があることも全く知らないわけではありませんが、今の憲法が国際的に、日本国の憲法がお粗末だ、どこかの国からわんわん言われて、国民的に、世界的に日本が孤立している、つまらぬ憲法を持っているじゃないかとどこかに言われているという状況だと私は思わない。  同時に、日本の国民の中でも、過半数とあえて言いますが、過半数以上の方々が、今の憲法をしっかり踏まえて、この憲法の三つの条項といいますか、この条項もしっかり守りながら、これをどういうふうに、具体的に憲法に合わせた――今の世の中とは違っておりますから、今の変わった世の中に向かって憲法を変えようと言うんじゃなくて、憲法をつくったときの気持ち、そして、その憲法が世界的に認知されていること、日本の国民がそれを認めていること、ここを出発点にして、この憲法に現実がずれているんだから、現実を憲法に合わせていったらどうか。  私どもの言葉では、護憲だけじゃないんです。先生方は皆御存じかもわかりませんが、最近私どもがいろいろと考えますのは、憲法を生かすことを考えようと。 憲法を守ろうとか、変えないという言葉だけに埋没するんじゃなくて、今、憲法どおりに日本の政治をやろうじゃないか。議会制民主主義もそうですよ、人権問題もそうですよ、ダイオキシン、環境問題もそうですよ。憲法を生かすことである。生かす生かすという言葉を今使っておるんですが、ここで終わります。  先生の方でもしあれば御意見を伺って、これは失礼ですからね、言いっ放しでは恐縮ですから。先生から、そんな話は話にならぬよとおっしゃるので結構でございますが、御意見を伺った上で、うちの方は終わっておきたいと思います。 ○西参考人 時間の関係もありますので、ほんの一分だけ。  ただ、先生のお言葉ですけれども、最近の世論調査を見ると、憲法改正の方が憲法改正反対よりも多くなってきております。それは、もうこの何年間かの、朝日新聞を初めすべての新聞と言って構いません。  それから、先生のおっしゃる憲法を生かす、これは非常に重要なことだと思います。私は、その辺はもう先生と一〇〇%同意いたします。  ただ、問題は、五十何年前の憲法に今の世の中を合わせるといっても、当然これは無理なところが出てきます。だから、どこが無理なのかということをぜひこの調査会で調査していただきたいということをお願いして、最後の言葉にいたします。 ○深田委員 どうもありがとうございました。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  西参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)  午後一時三十分から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。     午後零時三十一分休憩      ――――◇―――――     午後一時三十一分開議 ○中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。  この際、御報告申し上げます。  憲法調査会では、憲法に関して広く国民一般の意見を受け付ける窓口として「憲法のひろば」を設け、ファクス、封書及びはがきにて意見を受理することとし、調査の参考に資することといたします。  日本国憲法に関する件、特に日本国憲法の制定経緯について調査を続行いたします。  午後の参考人として日本大学法学部教授青山武憲君に御出席をいただいております。  この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。  次に、議事の順序について申し上げます。  最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。  なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。  それでは、青山参考人、お願いいたします。 ○青山参考人 青山でございます。  日ごろテレビでしかお目にかからないお顔を拝顔いたしまして、少しく緊張しております。緊張いたしますと、私は、日本語が出てこなくなったり、少しく論理がおかしくなることがございますが、その点、御寛恕をいただきたいと思います。  きょう、霞ケ関の駅をおりまして少しく感じたことですが、二・二六事件というのが間もなく迫ってまいりました。今、首相官邸をだれかが襲って、閣議中であってみんな死んだら憲法上どうなるんだろう。皆さん方は政治家ですから、そういったことは不断にお考えになっておられると思います。国会はだれが召集をするのか、召集しても、今度は内閣総理大臣の任命に対してだれが助言するのか。内閣は存在しないわけです。これは非常に重要な問題です。内閣が二・二六事件みたいなもので消滅したらどうするのか。ないとは言えません。およそ十年ほど前、内閣じゃなかったですが、サミットがミサイルによってねらわれたということがあります。 ですから、日本国の閣僚だけじゃなくて、あのときには外国の国家元首あるいは政府首脳、これが全部やられる可能性だってあったわけですが、国会は、そういったことを皆さん方はよく日常検討なさっているものだと私は思っております。  それから、きょう、こういった立場に置かれまして非常に光栄でございますが、午前中、西修という駒沢大学の教授が参考人としていろいろお述べになりましたが、私は、西先生とは親しく接しさせていただいております。時々、資料をもらいます。なぜかといいますと、西先生はアメリカまで資料をとりに、集めにいらっしゃるんです。私ども貧乏人はアメリカまで行けないんです。日本国の憲法の資料をとりに何でアメリカに行かなくちゃいけないのか、我々貧乏人をどうしてくれるんだと言ってみたいんですけれども、とにかく西先生はよくいらっしゃいます。私は行けないものですから、よく教わっている、そういう立場でございます。  ともあれ、日本国憲法の制定の経緯がここで問題になっているわけで、調査されるわけですけれども、憲法調査会というようなものが国会に置かれたということは、非常にすばらしいことだと思います。  と申しますのは、この国会以外のところでは、憲法、これを改正というような感じで物を言いますと、暗黙のうちに圧力がかかってくる。これが憲法学界でもそうなんです。現にそれがまだあると聞いております。私は学会もサボってばっかりですから、私には圧力はかかりませんけれども、表現の自由が二十一条で保障されて、それを大学でとうとうと講義なさっている人たちが、自分の思った真情を吐露しますと、これに対して圧力をかける。これは、学界の先生方は国家権力じゃないですから憲法問題ではないんですが、しかし、民間ではこういったことが行われていたんですし、現に依然存在するようです。  でも、私も、大学の講師になりたてのころですが、そういう雰囲気がありますので、大学の講義で――私は熊本の田舎で育ちまして、何でも自分でやらなくちゃ済まないという気の人間だったものですから、憲法なんかよくわからなかったんですが、非常に早いときから、日本国の憲法は日本人の手でつくらなくちゃいけないと、わけはわからないんですが、そういう気にはなっていました。そこで、大学の学生は判断力がありますから、それから、大学の自治が保障されておりますので、少々自分の意見を述べましても権力は干渉してきませんから、私の思ったことを申しますと、昭和五十二年当時はもう教室が本当に白けたムードになっていました。講義しにくくなるんです。ある大学では学生たちが前にぱぱぱと出てきて、何か非常に圧力をかけてきたということもございました。こういう雰囲気でした。ですから、権力が言論の自由を圧殺しようとするんじゃなくて、民間人の間で何となくそういうことがあった。  それが徐々に徐々に雰囲気が変わってきまして、今は憲法の欠点なんか物を言いましても、学生たちは非常によく聞いてくれます。全く雰囲気が変わってしまいました。ですから、講義もうんとしやすくなりました。  似たようなことは国会でもあったんじゃないか、報道によりますと。私は、学会とも余りつき合いませんし、政治家とはまるでつき合いがありませんので、国会のことは新聞とあとテレビ以外ではよくわかりません。ですから、そういうところの報道で見ますと、ちょっとした憲法発言ですぐ問責しようとする。何で国家の基本的なこと、一番重要なことを審議しようとするときにそれを抑圧しようとするのか、私には全く理解ができないことでしたが、しかし、今は国会の方も相当変わってきて、私どもの言論を代表する、真の言論の府としての地位を築きつつあるんじゃないかと思われます。  この憲法は、本当に一〇〇%欠点がない憲法であれば、仮にそれがそうだったとしても論議することは自由でなくちゃいけないんですけれども、そうでないにもかかわらず言論を抑圧しようとする動きがあった。私には、憲法二十一条等が保障されているところで、理解できないことが行われていました。  報道、これは我が国の報道、ばかにするわけじゃありませんが、時々正確性を欠くところがあるのじゃないかと思われまして、この憲法問題がよく論議されますときに、報道する立場にある人たちが、いわゆる護憲勢力とかいわゆる改憲勢力、こういった言葉を使って報道します。ですから、この問題を真っ先に取り上げなくてはいけないのじゃないかと思いまして、最初にこれに触れることにいたしました。  いわゆる護憲勢力と銘打たれている勢力、これは本当に護憲勢力であるのかどうか。といいますのは、例えば憲法制定当時、社会党はなかなか信念が強かったようでして、本当に社会主義というようなものをいいものと信じていたようです。 ですから、この憲法ができましたときに喜んだのですが、これはまだ第一歩なんだという趣旨のことを言っている。これを改正して社会主義の方を実現しなくてはいけない。社会主義は非常にいいものだと信じていたのだと思います。なかなか昔の政治家というのは堂々たるものだなと思いました。  今は政治家の中で、国会で社会主義を実現しようと論陣を張っている人、私が憲法の国会中継なんかを見ていますときに、聞いたことがないのです。ですから、社会主義がいいと思っている人は今は政界にいなくなったのかどうか、これが知りたいのですが、しかし、日本社会党というのは、自分の意向がある程度憲法に入りましたものですから喜んでいたのです。さらに社会主義の実現を目指して行動しなくてはいけないという趣旨のことを、皆さん方のお手元の資料、この社会新聞、十一月六日のこれに堂々たる意見が出ております。昔の政治家というのは、本当に信念、信条というものに忠実であろうとしたのだなと思いますが、ともあれ、社会党にはそういう動きがありました。  ただ、憲法に不満がなかったかといいますと、ないことはなかったと思います。 鈴木義男という先生なんかは、局外中立というようなことはアナクロだというようなことまで国会で発言なさっているのです。これも資料の、こういう形の一枚のものがあると思いますが、そこではっきり言っております。ですから、意に沿わない面があったことは間違いないわけです。  ともあれ、社会党というのはこの憲法を歓迎しましたが、さらに社会主義を実現するために行動しなくてはいけないと言っていたのです。その党がどうなりましたか。実際、これは昭和三十年前後、社会党左派なんかはその意欲はまだありました。ですから、当分の間、憲法を改正しないということで、当分の間ということで、憲法改正の方に動くということは示していたのです。これを何で護憲勢力と呼ぶのか。  私は自民党のことも余りよく知りませんが、自民党の場合が、むしろ、この憲法の基本的なものを守りながらさらに発展しようとするような感じを受けているのですが、社会党の場合は、この憲法で社会主義というところですから、随分大きな違いがあるような気がします。ともあれ、どちらも改憲に向かっているところは一緒じゃないかと思います。にもかかわらず、護憲と改憲という報道の仕方がなされます。  同じようなことは日本共産党なんかもそうです。日本共産党も社会党も、戦後のああいう事情で憲法の制定の審議をすること自体、これに対しまして非常に批判的でした。その日本共産党なんかがまた堂々たるもので、野坂発言という資料があると思いますが、自衛戦争ができるような憲法でなければならぬという趣旨の論陣を張っております。  依然として日本共産党には頼もしいところがありまして、まあ手段はどういう手段をとるのかわかりませんが、公明党が一番上に来ていますこういう資料があります。一番最後のところを見ますと、これはある雑誌が各政党の意見を整理したのですけれども、百十五ページというのがついていまして、「中立国日本にたいして、干渉と侵略がくわえられたときには、主権国家の固有の権利である自衛権を行使し、国民の団結と、それに支えられ、可能なあらゆる手段を動員してたたかい、国の独立と安全をまもりぬく。」これはさすがだなと思いました。国家を守るという姿勢、気構えを持っているというのはさすがです。  ともあれ、憲法制定時は、共産党は、もしかしたら西先生の発表にあったかもしれませんが、全員反対の投票をしているのですね。そして、共産党の場合には、自分たちの憲法草案をつくって、別な方向を歩もうとする、こういう姿勢を示しております。これをなぜ護憲勢力と言うのか。  やはり本質をとらえて報道してくれませんと、私どもは判断を間違うのではないか。自民党の改憲に対して反対を言っている、それだけの報道でいいと思うのですけれども、そうじゃない名前のつけ方をしてまいります。ですから誤解を招きやすい。そういったところはきちんとしておく必要があるのではないかと思います。  憲法ができたときの雰囲気につきましては、的確に述べることは困難だ、当時、憲法制定に携わっていた芦田という人がおっしゃっています。憲法調査会で委員で発言をなさっていましたが、あれほどの人が、「的確に述べることは困難」、このように言っておりました。高柳賢三先生なんかは、これは貴族院にいらっしゃった人ですけれども、「内容の可否はともかくとして、外国人の起草したものを日本の憲法にするのはけしからぬというナショナリズム的な感情に基づく不満の念が議員の間にあったことは事実のようである。」このようにおっしゃっています。同じように貴族院にいらっしゃいました宮沢俊義先生ですが、この先生は戦後の憲法学界の非常に指導的な地位を占められる先生ですが、この先生は、「反対者はいうにたらない数であったが、それでは当時の貴族院議員の大多数は、日本国憲法に終始賛成であったかといえば、その点は疑わしいと思う。」このようにおっしゃっています。  ただ、にもかかわらず、なぜ賛成が得られたかということにつきましては、第一に、政府が国際情勢を理由にして賛成を強く要望したこと。これは、国際情勢というのは、ただ単に、東西冷戦の雲行きが怪しくなりそうだということだけじゃなかったと思うのです。連合国の中にもいろいろな主張がありましたから、そういったことも頭にあったのではないかと思います。  それから第二に、政府が日本国憲法が総司令部の意向に合致すると強く述べたということです。総司令部の意向に合致するということを強く述べた、これはかなり影響力があったと思います。なぜかというと、このときには既にホワイトパージが行われていまして、いわゆるポツダム貴族が出てきています。そうすると、ポツダム貴族は、貴族院議員、ホワイトパージされたのを補うために入れますが、ただでさえ発言内容等を審査されている人ですから、これに政府が総司令部の意向というようなことを強く述べていきますとどうなるか。よほどに勇気がある人じゃないと反対するという気にならなかったんじゃないか、このような気がします。  それから第三に、既に衆議院で圧倒的多数で可決されていたこと。しようがないなと思ったのかもしれません。といいますのは、宮沢先生が、大多数が終始賛成であったかといえばその点は疑わしいと思うというようなことの意味合いと、これは一緒になって考え合わせる必要があるんじゃないかと思います。ただ、このとき衆議院では反対票が八票でしたけれども、共産党の議員、当選者数がたしか五名だったと思いますが、五名全員反対しております。  それから第四に、昭和二十一年四月十日の総選挙のときの選挙民の意向も支持を表明していた、宮沢先生はこのように判断されております。これは、事の表面を見ますとそのようになって当然だと思うんです。  後で申し上げますが、言論も情報も教育も統制されていたんです。すばらしい、すばらしいということでしか情報も流せなかった。教育も、批判的なことをやるとすぐパージが行われる。今、占領軍がやっていることはすばらしいことなんだ、そういうことがあっちこっち植えつけられていく。そうしますと、普通の人というのは非常に素直ですから、いいものが来る、これはいいものだと思うのが当然だと思うんです。  私は、その当時のことを憲法を勉強するようになってから私の母に聞いたことがあります。私の母は天草で当時生活していましたけれども、私もそこで生活していたんですが、どう、憲法をつくったときの雰囲気はと聞きましたら、全く知らないと言うんです。ただ、何かいいものがありそうだという雰囲気はあったけれども、大体、だれもラジオも持っていない、新聞だってきちんととっていないんだと。それで日本国民が圧倒的に支持するムードになっていたのか。  ですから、そのときの世論調査をやるにも、批判的な世論調査のやり方をやりますと、時間があったらまた触れるかもしれませんが、検閲が行われていたんです。 すごい検閲が行われております。去年、紅白歌合戦がありまして、長々と紅白歌合戦の由来なんかをやっていましたが、放送局でちょっと戦というような感じの言葉が使われるとすぐチェックがある、そういう時代だったらしいんです。これも人が言っていることですが、NHKがいきさつをずっと話していたことで、名前をつけることも苦労したとかなんとか言っていたと思っています。去年のことです。  それから、こういったムードですから、宮沢先生の第四のところは、宮沢先生がこのようにおとりになることは、宮沢先生も非常に素直な方だな、非常に善良ですから、世論調査の結果なんかを素直にとられたとしてもそれは性格じゃないかな、そういう気がいたしております。  ともあれ、護憲あるいは改憲といったことだとか憲法制定当時のいきさつをちょっとお話ししましたが、現在は、憲法制定、つくったいきさつの過程をめぐる論争の中で、この憲法は日本国民がつくったのか、それともそうじゃないのか、こういうことがよく論議されています。  ごらんになった方もあられると思いますが、昭和五十七年でしたか、憲法論争というのが五月三日に長々と行われたことがあります。あそこでも、この憲法は押しつけられた憲法かそうでないかということを論議しています。そのときの第一部のテーマがたしか、憲法は定着したかというようなテーマだったと思います。昭和五十七年ころのことです。そうしましたら、憲法は定着したかどうかをテーマにすること自体が定着していないということじゃないか、定着していたらそういうことはテーマにならないというような発言もなされていました。私もなるほどと思って聞いていましたけれども。  ともあれ、押しつけられた憲法かそうでないかということについて、押しつけられたとばかり徹底して言い張る、一〇〇%そうだと言う人もそう多くはないんですが、逆に、全く押しつけられていないと言う人もそうは多くない。一部は自由はあったんだというのはお互いに認めていますが、どっちに重きを置くかという感じになっています。  押しつけでないと主張する人たちは、民主化や基本的人権の確立を要求したポツダム宣言を受諾しながら、それにこたえなかった我が国の姿勢が悪いと。我が国の姿勢というのは、そのときによく出てきますのが憲法問題調査委員会、いわゆる松本委員会と呼ばれるものですが、ここでつくった案を批判するケースが非常に多いんです。これは、憲法改正には賛成だけれども、押しつけられたということは憲法改正の理由にならないと言う人たちも、よくこの憲法問題調査委員会を批判します。  まず、押しつけられた憲法じゃないという説は、例えばある学者は、「憲法の成立史のある断面だけをとってみれば、その草案がマッカーサーから「与えられた」という事実がある以上、こうした主張に全く理由がないわけではない。」と言っていますから、押しつけられた面があるということは一応認めているんです。「けれども、ポツダム宣言を受諾して、新しい民主国家として出直そうとした日本が、今日のような民主的憲法をもつことは、初めから当然の基本方針でなければならなかったはずである。」このように言うわけですね。  これについてはちょっと一言述べさせていただきますが、それをやらなかったからマッカーサーが押しつけたのはいわば当然だという感じなんですね。これには私は納得いきませんが。  ただ、憲法を改正しなくちゃいけないと言う人の中にも、この憲法問題調査委員会を出して、この憲法問題調査委員会がつくった案は日本国憲法より劣っている、だから押しつけられたということは理由にならない、いいものはいいんだ、いいものはいいが、それだけじゃだめなんだ、こういうことを言います。これは、憲法問題調査委員会というのが当時どういう性格のものであったかということをやはり考える必要があるんだと思うんです。  我が国は、御承知のとおり、無条件降伏をしないで戦闘行為を終えたんです。 条件つき降伏をして戦闘は終わる状態を迎えたわけです。そういう状態でこちらからつけた条件がなかったかというと、ありますので、お互いに条件を突きつけ合って戦争を終えている。ですから、無条件降伏ではなかったんですが、そのときこちらから突きつけた条件は何かというと、いわゆる国体の護持です。国体という言葉を使っていませんが、いわゆる国体の護持を条件としているんです。  そして、憲法学者を含めた人たちが憲法問題調査委員会に入ってまいりました。  そうしますと、憲法は何でもかんでも改正できるか、こういう問題が出てくるわけです。現在の国民主権というのを改めて、これを君主主権に変えられるかどうか、こういった問題なんですね。  それで、今もそうですが、かなりの学説、まあ通説と言っていいと思いますが、限界があるというのが通説なのです。現行憲法については、例えば国民主権は変えられないんだ、それから基本的人権の尊重、これも変えられない。それから国際平和協調主義がそうだと。私は、第一条の天皇制もそうじゃないかと思っているのです。ですから私は、よく教科書に出ています三基本原則なんという言葉は使いません。ともあれ、よく三基本原則と言って、これは憲法改正でひっくり返すことはできないんだというのが通説です。  そうすると、国民主権を変えられないんだったら、帝国憲法の改正手続を利用して、当時は天皇が主権を持っているという言葉はどこにも書いてないのですが、天皇が主権を持っている、このようにとらえられていた。国民主権を現在の憲法で変えられないのなら、昔の憲法の手続で天皇主権を変えられるはずがない。そういったものを降伏の条件として、守ろうとして降伏したんじゃないか。  そうしますと、憲法問題調査委員会が、自分たちで守ったものを廃棄するような行動に出るはずがない。何をやったかというと、大日本帝国憲法を将来改正しようと思えばどういうところに改正すべきところがあるかの調査をやったのであります。  今回のここがそうみたいですね。憲法改正のための委員会じゃなかったのです、もともとは。でも、ここもそうなると思います。それは、一生懸命勉強してみて、欠点があるからどういう条文にしてみたらいいのだろう、そう思うのは自然ですから、恐らくここもそういうふうになると思います。ここは欠点がある、では、どうなるんだ、それは知らぬというふうなことにはならないと思います。ましてや、そこにはそうそうたる憲法学者がいましたから、欠点があったら、どういう文章にしたらいいかというような方向に自然に向いていったのです。  ところが、これがある新聞の誤報をきっかけにして、それは民意を反映しないといってマッカーサーが干渉してきて、こんなのをやれと。世論調査もしないで民意を反映しないと言って、やった。そういうことですが、ともあれ、松本委員会、憲法問題調査委員会というのは、問題点の究明をやろうとしたわけであります。それだけの作業であった。  そして、それぞれ案を考えて、もともとは委員会として案を出すつもりはなかったのですが、さすがにまじめなものですから、ふまじめだったら調査しっ放しというような感じになるでしょうけれども。大学院生なんかもそうですが、憲法の問題はどこにあると言いますと、欠陥が出てきて条文が悪いのだったら、ではどういう条文にしようかという話し合いに自然になっていくのです。ですから、松本委員会もそうなったというだけですが、そのときには、大日本帝国憲法の枠内であって当然なんです。  それを、民主化、民主化ということで、ポツダム宣言のどの条項から帝国憲法をひっくり返せというのが出てくるか、私は納得いかないのですが、ポツダム宣言にそういう条項があるということで、ここで突然に、民主的な憲法をつくれということが要請されている、このように後で理解していくのです。当時の人は、少なくともそうではなかったのです。  では、どうであったかといいますと、何か資料としてポツダム宣言とカイロ宣言なんかが皆さん方のお手元に配付されているそうですが、ちょっと失礼して、私も六法で正確に。  ポツダム宣言十項で民主主義化を要請しているのは、間違いないのは間違いないのです。何かというと、十項の最後のところをごらんになってください。「民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」こうなっていますから、民主主義化しなくちゃいけないということは約束になっています。それはそれでいいのです。  そこで、民主主義に対すること、民主主義的でないのは非民主的なことですが、ポツダム宣言を受諾した後、大日本帝国憲法のもとで民主主義化していけばいいわけですね。なぜかというと、復活強化と言っているわけですから。ですから、かつて民主主義はあったのだ。大日本帝国憲法のもとで民主主義はあったのだ。それを復活強化する、こういうことを言っているわけですから、憲法を変えろとまでは言っていなかったはずなんです。  ところが、この十二項を盾にして、言っているんだ、このように説いていくのです。「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ」こういう付近をとらえまして、ここで、日本国国民が自由に表明した意思に従って憲法をつくりかえなくちゃいけなかったのだ、そこまで持っていっているんです。そういうふうに後で批判する。当時は、そういう雰囲気なんかなかった。そういうふうに後で批判するんでしたら、私どももまた別な考えで、その批判を返すことが可能になってまいります。  なぜかというと、この十二項では、要するに、平和的傾向を有しかつ責任ある政府を樹立すればいいとなっているだけじゃないか。憲法を変えろと言っていない。 軍事政府、ミリタリーガバメントというのですかね、軍政、それをシビルガバメントに変えればいいと言っているだけじゃないか。大日本帝国憲法のもとで、十項で、民主主義は不可能とは言っていない、あったのだと言っている。だから、復活してそれを強化しろと言っている。それを松本委員会が、憲法を大きく変えて国民主権みたいになるようなほどに民主主義化しなくちゃいけない、そういうような感じにまで持っていけるのかどうか。  ともあれ、後知恵的には批判を返すことは可能なんです。ポツダム宣言は、必ずしも憲法改正まで要求していなかったのではないか。憲法改正という言葉が向こうの方から出ているのは間違いないのですが、その憲法というときに、私どもが言う憲法と向こうの人が言う憲法は、即同じじゃないんじゃないか、これが美濃部先生や宮沢先生たちのとらえ方なんです。  憲法というのは国の基本的な組織、作用に関するものですから、例えば選挙制度なんかでも、国の基本的なものだ。こういったものを民主化していけばいいんだ。あるいは、大日本帝国憲法の規定にはないのですが、発展していたいろいろな国家の基本になる機構があったではないか、こういったものを廃止していけばいい。  つまり、実質的に憲法を改正していけばいいんじゃないか。アメリカが要求しているところの憲法というのももともとはそうであったのではないか、このようにとらえられますし、大体、当時のああいう世情のもとで、形式的な、形で言う憲法を変えるということ自体がいいことではない。宮沢先生、それから美濃部先生の見解が資料としてコピーしてここに配付されているはずですが、そういった主張をなさっております。  要するに、ポツダム宣言が言っているのは、憲法を変えろと言っているのではない。国の基本的なもので、必ずしも憲法の条文でなくてもいいから、実質上の憲法を変えろ、こういうことなんですね。  例えば大日本帝国憲法期は憲法が二つあった。形でいう憲法ですがね。皇室典範という憲法と大日本帝国憲法という憲法がありました。現在は一元化して、皇室典範は法律になっている。法律ですが、中身は憲法なんです。  ですから、こういったところを、つまり形は法律という形をとっているものもあるかもしれない。あるいは、命令という形のものもあるかもしれない。あるいは、ついこの間までそうでしたが、不文の憲法というのもある。日の丸とか君が代なんかは不文の憲法であった。これは、不文法とすれば、国の基本的な法ですから憲法ということになりますから、こういった形式的な憲法以外のところの改正。ポツダム宣言の受諾は大日本帝国憲法とは矛盾しなかったんだ、このように考えられるんです。これが宮沢先生たちの立場で、私もそうであると思っているんです。  それから次に、押しつけでないとする説は、日本国民は日本国憲法を歓迎していたと先ほど言った宮沢先生の説がそうですが、しかし当時の候補者の意見を内閣の憲法調査会が非常に集めておりますが、当時は当面の生活問題でいっぱいであった。お芋を二個食えるか三個食えるかの方が憲法なんかより重要であったと、きのう、どこかの新聞にその当時のことを書いていらっしゃる人がいらっしゃいましたが、ああいう、後に国を社会的にリードするような立場になる人だってそうであったんですから、ましてや普通の人はそういう状況でなかったんじゃないかと思われます。  林修三先生によりますと、社会党の候補者、こういったところも、やはり降伏の条件であった国体の護持を喜んでいたんでしょうね。選挙のとき、こういったことはかなり強調していたというようなことを主張なさって、むしろそっちが選挙の焦点であった。憲法を変えるというようなことは、抽象的に憲法を変えると述べた人はいるんですが、中身について選挙で主張した人なんかはほとんどいなかったということだそうです。  それから、先ほども言いましたが、検閲が非常に存在したということです。私はこちらに資料を出しておいたんですが、その資料がなくなっていまして、ここに出ていません。私のところにも返されていませんから、皆さん方のお手元にもないと思います。どういうところを検閲されたかという証拠をこちらにお届けしておいたんですけれども、とにかく検閲が非常に行われていた。検閲以外でも、教育も統制されていた面もある。暗黙のいろいろな統制があった時代であったということで、民意の反映というのがあったかどうか、それからそういうところで本当に国民が歓迎したと言えたのかどうか、こういう問題があるかと思います。  それから第三番目に、押しつけでないとする説は、この憲法につきまして、極東委員会というのがマッカーサーの上にあったんですが、ここが、見直しを一年以上二年以内にするように要求しているんです。レジュメでちょっと三と四がダブった面もありますけれども、そこで見直さなかったというのは国民が支持していたからだ、このように論陣を張るんですね。押しつけでなかったから支持していたんだ、国民の中に素直に入っていたんだ、このように言うんです。  ただ、当時は非常に統制が厳しい時代でしたから、政府としては見直しをやらないというのが自然であったと思います。当時の政府はやる雰囲気がなかったとも言っておりますが。  それから、これは極東委員会の方もするとなっていたんですが、次第に東西の冷戦の風の冷たさが出てきていたころですから、こちらの方もなおざりにしてしまいます。ですから、見直さなかったということと、支持していた、押しつけられていないということは必ずしも関係ない、このように思います。  それから、押しつけでないとする説は、審議が自由に行われていた、このように言うんですね。しかし、先ほども申し上げましたように、本当に審議が自由であったかどうか。かなりの程度に自由であったことは間違いないんですが、言いたいことが秘密会でしか言えないことがかなりあったんじゃないか。  御承知のとおり、昭和五十五年当時でしたか、ここの憲法制定過程のことについて、森清という先生、これは新聞で読んだんですが、情報の開示の請求があった、そうしたら社会党が公開に反対したと新聞に書いてありました。社会党は情報公開法制反対なのかどうか知りませんが、それはなぜかといいますと、うわさですけれども、鈴木議員あたりにかなり激しい言葉があって、むしろ九条に関しまして後の日本社会党とは違う発言が明らかになるからだ、このようにある新聞では解説されていたと思います。  審議は自由に行われたのはある面では事実ですが、せいぜいそれは仏様の手のひらの上の孫悟空くらいにすぎなかったんじゃないか、そういうところもあります。ましてや、マッカーサー三原則なんかに関して、これを覆すような審議を本当にできたかどうか、それは非常に疑問があるところだと私は思っております。ある程度の自由でしかなかったと私は推測しているんです。  それから、ポツダム宣言受諾後の若干の動きについて、ここで私の解説的なことをちょっと言おうと思いましたが、時間が迫ってまいりましたので、日本国憲法制定行為、これは違法だ、これを私は少しく述べておこうと思います。  なぜ違法かといいますと、まず極東委員会の行為、それからマッカーサー総司令部の行為は、ハーグの陸戦法規に四十三条というのがありますが、レジュメの八ページの上の方に置いておりますが、これに違反する、こういうことです。  これは皆さん方のところに資料が配られているはずなんですが、ハーグの陸戦法規四十三条、ここで、占領者はその占領地の現行法でやれ、このようになっているんですね。  占領者というのは、戦闘行為中のものだけをいうんじゃないんです。戦闘行為中のものだけいうんでしたら、これは相手は交戦権を持っていますから、どんどん抵抗してきます。ですから、ハーグの陸戦法規、配られていると思いますけれども、款を別にしております。「戦闘」の外側に四十三条を置いています。  ですから、どういうことかというと、戦時の反対の平時が来るまで、平和条約を結ぶまでは、占領という言葉を使っているんですね。戦闘行為中のことだったら、相手から税金を取るというようなこと、取られる方は戦いを挑んでいいわけですから。ですから、「戦闘」という款、章とか款とか節とかありますね、その款を別にして、四十三条は別な款に定められている。ですから、戦闘行為が終わって平和条約を結ぶ間もこの適用があるんです。  我が国では、御承知のとおり、玉音放送があった後、変な動きがあったかといいますと、それはなかった。イタリアなんかは、ムソリーニなんか殺されてしまいますけれども、我が国はそれはなかった。御巡幸なんかを見ていますと、非常に平穏に行われていた。そういうことですから、我が国では絶対的な支障なんかなかったにもかかわらず、憲法を変えさせる動きをした。これはマッカーサーの行き過ぎた行為であったじゃないか。  ただ、マッカーサーだけじゃなくて、後で極東委員会は、あの文民条項なんか、ソビエトの意向から極東委員会、GHQというラインを通じて憲法に干渉してくるわけですから、マッカーサー総司令部も極東委員会もこの条約に違反する行為をやった、このように私は考えております。  それから、マッカーサーの行為も極東委員会もポツダム宣言に違反している、このように思っております。  なぜかといいますと、先ほどの十二項を見ますとわかりますように、我が国のことは基本的には我が国が決めるんだ。これは、大西洋憲章、欧州共同宣言でしたか、ああいったところを見てみますと、こういった趣旨があらわれていますが、これがポツダム宣言に反映してきているのです。私どもの政府から、降伏の条件としていわゆる国体の護持を出したときに、日本国の最終の政治の形態というのは日本国民が自由に表明した意思で決めるんだ、そういう回答が参りますので。にもかかわらず、こういう行為をやった。ですから、極東委員会とかマッカーサー総司令部、これはポツダム宣言及び降伏文書に違反している。  ただ、降伏文書を意図的に強調しなかったのはなぜかといいますと、降伏文書というのを我が政府は条約の形にしていないのです。向こうも宣言して、受諾するという形にした。こちらは向こうが申し入れしたところをただ受け入れた、それだけですから、条約という形をとっていないのですね。ですから、条約違反という形と言うには、やはりポツダム宣言じゃないか。  降伏文書は、ポツダム宣言の条項を履行するため、こうなっています。ですから、マッカーサーは何でもかんでも支配できたわけじゃないのです。ポツダム宣言の条項を履行するためしか支配はできなかった、それ以外の支配はできなかったはずです。我が国の政府がポツダム宣言以外の領域で行政行為を営んだときに、これについてマッカーサーが干渉できたかというと、これはできない。マッカーサーは絶対ではなかったわけです、降伏文書にもポツダム宣言の条項を履行するためとなっているわけですから。それを我が国が勝手に、戦後、言うことを聞き過ぎたということはありますけれども、マッカーサーは絶対ではなかった。それが憲法改正の圧力をかけてきたというのは、行き過ぎた行為があって、ポツダム宣言違反ではないか、このように思っています。  それから、マッカーサーの行為自体につきましては、極東委員会の方針に違反していますから、ここに条約違反がある。極東委員会をつくったときの協定で、憲政機構、占領管理制度の根本的な改革、こういったものはマッカーサーの権限ではないということを明らかにしているのです。これは極東委員会の権限だ、このようにしているのです。ですから、極東委員会の協議及び意見の一致があったものだけ極東委員会も発令できるのですが、それをマッカーサーが勝手にこれ以外のところで動いてしまった。  もちろん、マッカーサーは、この極東委員会が実質上動き出す以前に動きを開始しているのです。ただ、極東委員会は、昭和二十年の十二月二十六日だったと思うのですが、諮問委員会というのが日本に来る途中で、その協定ができた。その諮問委員会のメンバーをすぐそのまま極東委員会のメンバーにしてしまいましたから、いつ諮問委員会が極東委員会の委員になったのかはっきりしないのですけれども、その諮問委員会の委員が二十一年の一月三十日に我が国から去るときに、私には憲法改正の権限はないというようなことをマッカーサーははっきり認めているのです。諮問委員会の委員といったらいいのか極東委員会の委員といったらいいのかわかりませんが、その委員たちにはっきり認めているのです。  ところが、御承知のとおり、動きが始まったのはその月が明けてから、二月になってからマッカーサーの動きが出てくるわけですね。ともあれ、極東委員会の政策決定権を侵しているのではないか、このように思われます。  それから、今度は言葉をかえますと、マッカーサーには憲法の改正をする権限などはどこにもなかった、にもかかわらずやらせた、これはおかしいではないかということです。  それから、理由づけは少し飛ばしますが、最後に、この憲法改正権の限界を超える問題がある、こういうことです。  ここで九ページをちょっとごらんになってほしいと思います。  憲法をつくる権力と憲法によって組織された権力は区別されるんだ、これはアベ・ド・シエイエスという、第三階級とは何かということを述べた人が言っておりますが、憲法を制定する権力が憲法をつくって、これがこういうことをやってはいけないと言ったことを憲法上の権力が変えられるのかどうか。憲法によって組織された権力、憲法改正権力というのは、憲法でこれは変えてはいけないよと言っていることについては変えられないのではないか、これが私どもの説いているところです。  そうすると、マッカーサーの行為には条約違反の行為がありましたし、憲法違反の行為があった、このように理解しております。ですから、憲法制定行為自体には違法行為があった、こう私は理解しているのです。ともあれ、そういった感じで憲法ができてまいりました。  憲法をつくったときに、なぜ国民が主権を持っているかというようなことについても真剣に議論をしていません。だれが国民に主権をくれたのか、そういう議論も何もやっていません。ですから、普通、憲法制定権力というのは主権者であるはずなのですが、我が国ではそれがよくわからない。憲法制定権力と主権者国民とがどうも違いそうだ、こういう感じがするのです。普通は、主権者がその憲法をつくるのです。この図表を御参考にしてほしいと思います。  それから、それでもこの憲法は正しいのだと言いたいために、いや、八月にポツダム宣言を受諾したときに革命があったのだ、このように説くのが八月革命説です。  ところが、ポツダム宣言の受諾は合法的になされたのです。合法的になされる行為がなぜ革命なのか、これについてはきちんとした説明がなされていない。これも、八月革命説を批判するために十ページに図式にしておきました。  ポツダム宣言の受諾、これが革命を意味するのだったら、革命の主体はポツダム宣言を受諾した天皇になるではないか、こういうことになりかねないですから、八月革命説でもってこれを説明することはできない。ですから違法なのだ。それで、違法につくられたものがそのまま現存して運用されている。  私どもは、こういう重要なことを何も解決しないで、まあいいじゃないかという感じでやっている。一番基本的な重要なことを解決しないで、まあこれでいいじゃないかというのだったら、不文憲法でやっていった方が一番いいのです。ところが、一応これでやっています。そして、そのもとで、従来は、憲法を改正するということ自体を批判する、こういう動きがあった。私には非常に理解しかねるところです。  個々の条文以外に、こういう入り口の問題あるいは制定過程において重要な問題があるということを、皆さん方はもう御承知かと思いますが、再度調査してほしいと思います。  以上でございます。(拍手) ○中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。     ――――――――――――― ○中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。愛知和男君。 ○愛知委員 青山先生、大変ありがとうございました。大変貴重な御意見を聞かせていただきましたし、またいろいろと教えられるところも非常に多うございました。  特に、最後の、日本国憲法制定行為の違法性という問題については、ちょっと時間が足りなくなってしまって、先生、十分言いたいことを言い尽くせなかったのではないかという印象を受けましたが、この点につきましては、後ほど保岡委員の方から、再度、質問という形で問題が提起されると思いますので、私からは、質問に入る前にといいましょうか、私の憲法というものに対する思いをちょっと申し上げてみたい。  私は、何も日本の憲法だけではなくて、憲法というのはそもそも、その国の形をその国の国民が描いた国の自画像のようなものだ、こういうふうに思っているのでございます。国の形を描いた自画像だ。  自画像だとすれば、まず自分でかかなければなりません。  もう一つは、自画像だとすれば、時の経過、移り変わりによって変わるということでございます。二十歳のときにかいた自画像と、五十歳、七十歳のときにかいた自画像が違うのは当然でありまして、したがって、憲法も時代の変化に応じて変えていくというのがごく当たり前ではないか、こんなふうに思うのでございます。  甚だ書生論的な素人っぽい言い方でございますが、こういう認識について、先生はどう思われますか。 ○青山参考人 お説のとおりだと思います。  ただ、自画像といっても、やはり自分の顔を将来に向けて美しく描かなくちゃいけないのではないかと思います。私なんかは、自画像でそのまま描きますと非常に汚いものになってしまいますが、そのまま描いてしまうと将来のものに合わない、だから、ある程度将来のことも予定しながら描く。その意味で、どういう感じの自画像かという違いは出てまいりますが、ただ、やはりいつ見ても、この人は私だとわかるようなものでなくちゃいけませんから、基本的なところは一致させておくというのが重要なんですね。  そこで、基本的なところは変えないというような形でやっているのが憲法改正手続で、これはほかのところ以上にちょっと難しくしてあるんです。  ドイツとかアメリカの場合、私は外国のことをよく知らないのです。知ったふうにしゃべりますけれども、アメリカの場合には、いろいろな意味で非常に不信感を持っている国家でしたので、要するに、自由は人にとって大事だ、しかし人は悪いことをやるというのが前提でできていますので、自由のためにあらゆる形をつくり上げている、だから憲法改正手続を非常に難しくしています。その人たちが私どもに同じようなことをやっている。我が国が過たないように、我が国の憲法についてもかなり難しくしております。  ドイツの場合には、ちょっと憲法改正の思想がアメリカと違いますので、改正手続は易しくしていますから、ドイツというのは、わけがわからないようにどんどん変化してまいります。ですから、しょっちゅう憲法を改正していきます。これもドイツ国民にとっては理由のあることなんですけれども、なぜドイツの憲法改正手続が易しくてしょっちゅう改正が行われるか、アメリカでは比較的少ないかというのは、そういうところにあります。  ちょっと長くなって恐縮ですが、アメリカでは、民主主義、民主主義といいましても、国民さえ信頼していないところがあるのです。ですから、大統領を直接選ばせるということは建国の父たちがやらせなかったのです。立法権も、弱くするために二つに分けたんですね。モンテスキュー型に権力分立を徹底してやる。ですから、懐疑主義に立って、自由だけを非常に強調しようとする、建国のイデオロギーが自由主義なものですから。こういう考え方で少しく日本に影響を与えた面が出て、憲法改正規定はかなり難しくなっております。  その他の点は、私であるということが認識できれば、大体その程度の自画像で、ほかは将来に備えて、やはり基本的なところを一致させておく必要があるのではないか、こういうことでございます。 ○愛知委員 ありがとうございました。  今、改正のお話になりましたが、どうも憲法制定の経緯の中で、この改正手続の点は余り議論されたようには思えないのでございます。今お話がございましたけれども、私は、改正が非常に難しくなっている、これは今の日本の憲法の大きな特徴だと思うのでございます。  この九十六条があるがために、なかなか改正できないので、世の中の移り変わりに対応するために、解釈ということでこれに対応してきたというのが歴史ではないか、だれがその解釈を権威づけたかというと、内閣法制局の長官か何かが国会答弁で述べるということが何か権威になって、それで今日まで戦後五十何年の歴史が推移してきたのではないか、こういうことがあるわけですね。  ですから、非常に憲法の議論などがねじ曲がってしまったり、あるいは、いろいろな問題のもとがそこにあるような気がしてならないのでございます。いかがでしょうか。 ○青山参考人 私もそのとおりだと思います。  悪意であったか悪意でなかったかは別ですが、アメリカは、いいものをつくったらやはり守らなくちゃいけないという感じがありますから、アメリカ自体についても憲法改正手続を厳しくしている。それを日本の場合にはもっと厳しくした。アメリカが日本国憲法を押しつけたということを非常に象徴的にあらわしている規定の一つが、この九十六条だと思います。  その結果、それでもアメリカは憲法改正の動きをどんどん示してまいりますけれども、我が国では、憲法改正につきまして、初めから諦観があるような感じがあったんですね。現実に合わないところがあったり、なおかつ、困った事態が起きたときにどうするか。  一番最初に申し上げましたが、ここに来て気がついたのです。不穏当な言葉で恐縮ですが、内閣を全部ミサイルでぱっと撃って、サミットのときみたいに、ああいうことがあったときに内閣が消滅したらどうするんだ、こういったことも対応できなくなる。  それから、いわゆる適法手続とよく言われますが、三十一条がありまして、国の行動をきちんとやらせるようにしていること自体はいいのですが、国家に対して非常事態が起きたときに、この三十一条の法手続規定、あるいは適法手続の規定と言われますが、これでがんじがらめになりますと、迅速な対応ができません。  ですから、国家緊要時については、この憲法のもとでは行動しにくいのです。それでも不断にかなりのところを用意しておければいいんですが、用意していませんから、あの阪神・淡路大震災のときに行動がおくれるというような事態も起きてきたんだと思います。ですから、将来を見越して我が国には悪いことはないんだという感じででき上がった憲法のような気がするんですね。  ですから、この憲法は、平時においてはかなりの点でよく機能し得るものです。 機能していないところもありますが、かなりよく機能し得るものですけれども、国家非常時には何の備えもしていない、非常にバランスを欠いている憲法だと思います。  とにかく、憲法改正規定があるために、非常時を考える習慣が私どもの身についていませんから、そういったことに備えようとする考えさえも、しばらくは圧力がかかって論議できないんじゃないかと思います。九十六条があるということは、相当私どもに足かせをしているし、それから、審議すること自体を非常にちゅうちょさせている原因でもあると思うのです。  以上でございます。 ○愛知委員 ありがとうございました。  午前中、西先生とのやりとりの中であったことの一つですが、昭和二十一年四月十日の総選挙の意味、それから、そこでできた議会で、八月ですか、この憲法を可決しているこの意味について、まず一つは、この選挙そのものが本当に公正に行われたのかということ、それからそこでの結果というのが一体どういう意味を持つのか。先ほど主権者の話がございましたけれども、この議会というのは主権者を選ぶものではなかったんだというような話もほかの委員からもございました。 先生はこの議会の性格をどう位置づけられますか。 ○青山参考人 主権という言葉は非常に難しい概念でございまして、非常に乱暴に使われていると思うんです。  東京大学で美濃部先生が講義を始められますときに、主権が国民にあるか君主にあるかは法的には全く問題でない、このように言って講義なさったそうです。  ところが、多くの人は、主権者というのは今生きている国民が主権者という感じで、これがいうところの主権者、こうとらえていきますが、これを主権者と言うととらえ切れないんです。これは時々刻々変わっていますから、主権者の意思というのは出ようがないんです。一人死んで、一人生まれるという形が常に繰り返されているから、一秒前の主権者と二秒後の主権者は違うんです。ですから、法理論的に言う主権者というのは非常に難しい。ただ、建前上、主権は国民にある、こういうことなんです。  ただ、その国民というのは何かというと、抽象的な日本国民で、ここに、この世にいるわけじゃ決してないんです。過去、現在、将来にわたって行動している日本国民を一体として存在するかのごとく、私は戦争をやっていませんが日本国民が戦争をやった、私はやっていませんが日本国民は賠償しろ、こういう形になりまして、連綿と続いている一体としての国民を主権者、法理論的にはこう言うんです。 ですから、主権者の意思があらわれたかどうかというのは、単なる政治学的な発言にすぎないわけです。  ただ、その政治学的に主権者といいました場合でも、現実に存在する国民の意見がまず国会に反映したかというと、それは疑問なんです。  なぜかというと、本来、十二月に解散が行われていますから、三十日以内には選挙をやらなくてはいけなかったわけですね。ところが、やりません。やらせなかったんです。なぜかというと、いろいろな人が通ってしまうと困る。もう翌年の一月にはホワイトパージをやるんですから、ホワイトパージをやらなくてはいけないような人が通ってはいけませんから、衆議院議員選挙法が存在するにもかかわらず、GHQが圧力でやらせなかったわけです。こういったところで民意がどうやって反映しているか。  他方では、国民の意識には国体を護持したいというのはあるんです。ところが、これに対しては、今度は一部の人たちが、それは上層部だけの考えであって国民はそんなこと考えていなかった、そういうことを言う人がいます。  それは理屈ではどちらにとっても構わないんですが、レジュメでも言いましたように、日本国民と天皇の関係はどういう関係にあるかというのは、外国人でも素直に見てわかるものですから、この四ページの「「国体の護持」が、降伏の条件であったことを看過してはならない。」というようなところでグルー元駐日大使がどうとらえているか。  これは、無意識のうちに天皇と国民というのは一体感があったわけです。ですから、その後の御巡幸のときにも全然もめごとは起きませんで、私も天草で船の上で天皇陛下をお迎えしましたけれども、みんなで喜んで迎えて、将来の日本国をつくろうという感じで、私どもの父親なんかは少し興奮していたようです、私も幼きながら覚えていますけれども。  ともあれ、この国体の護持というようなことを余り強く言いますと、ホワイトパージにもなりかねないんですね。ところが、多くの人は、天皇が統治するといってもこれは建前なんですけれども、大日本帝国憲法でも天皇が統治していたわけじゃ決してないんですが、そういう建前だけは持ちたいという感じがあったかもしれない。 にもかかわらず、そういったことを強く主張する人はもう通さないといったら、民意を反映した議会であったかどうかという問題があるわけです。  また、そこで自分たちで案をつくって審議したわけでもないんですね。案はだれが出したか。向こうが出してきたわけです。ですから、憲法前文で日本国民が憲法を確定するなんか言ったのはさらさらおかしいですね。全くのうそですよ。うそでも何でも憲法に書いていいというんだったら、それはいいですけれども、やはり憲法は一種の自画像的なものもありますから、ストレートに自分を映し出すものも必要だと思いますが、前文の書き出しからうそがある。文章も前文の書き出しはおかしいですし、うそがあるというのはよくないんじゃないか、私はそのように思っているんです。  以上です。 ○愛知委員 大変ありがとうございました。  残りは保岡委員にバトンタッチさせていただきます。 ○中山会長 保岡興治君。 ○保岡委員 今、青山先生のいろいろな後半の部分のお話を伺っていますと、日本国憲法制定の行為というのは、これは条約や国際法規違反である、ポツダム宣言にも違反しているが、陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則四十三条という国際的な約束事にも反している。しかも、極東委員会、マッカーサーの総司令部もポツダム宣言にも違背している。しかも、マッカーサーの行為が極東委員会の政策決定を侵している、大体これぐらいの御指摘の上に、憲法改正の限界を超えたという理論的なこともおっしゃったわけでございますが、このような国際法、条約違反の我が国の憲法制定行為というものは、先生のお立場からすると、一体どういう効力というか、どういう法的位置づけをすると考えていいんでしょうか。 ○青山参考人 私は、日本国憲法は有効だと思っております。  なぜかといいますと、一応これは法理屈の問題ですけれども、大日本帝国憲法の限界を超えていますから、大日本帝国憲法から見たら違憲です。ところが、憲法違反の行為があったから有効か無効かということについては、大日本帝国憲法で、どの種のものが有効であり、どの種のものが無効とも言っていません。まず、審査する機関さえ置いていないんです。  ですから、大日本帝国憲法のもとで、二十二条で居住移転の自由を保障しています。保障していますが、東京に移入することを禁止する法律をつくりました。しかし、これは合憲なんです。なぜかというと、審査する機関がないんですから。司法権にいわゆる違憲立法審査権を与えていませんのでね。  残念ながらこれは、法はなぜ守られねばならないか、これも非常に重要なことなんですが、これにきちんとした回答は憲法学者も与えていませんが、法が政治の言葉という面が間々あるんです。ですから、法を徹底するんだったら、審査機関を置いて、どういう場合は有効、どういう場合は無効という形もかなりの程度に明らかにしませんと、無効と言うことはなかなか厳しいんです。じゃないと、今度は日本国憲法から見ますと、大日本帝国憲法が存在したこと自体が違憲になるわけで、これは単なる事実にすぎなくなってしまうんですね。  これは現実の現象でもよくありますが、憲法違反があったからすべて効力を失うということじゃ決してないんです。ですから、皆さん方御経験なさったと思いますが、ある内閣総理大臣がカナダなんかに予備費でいらっしゃいました。ところが、予備費を使ったことを国会に承認を求めましたけれども、承認しなかったということがありました。承認しなかったら、これは憲法に違反する行為が行われたんでしょうけれども、これは無効にしないんです。あるいは、天皇に対する財産の授受、憲法八条なんかもそうですが、やった行為自体は有効にしてしまうんです、仮に違憲な行為があったとしても。  ですから、違法があったからすべて無効となるという法理論は、必ずしも現実に行われている実定法上もありませんし、ましてや、この憲法制定権力の行為をだれが審査するんだ、こういう問題があります。  この図式のところをちょっとごらんになってほしいと思いますが、九ページの「憲法制定権力」、「憲法の基本原則」、「憲法改正権力」、それから「普通の憲法規定」があるわけです。「憲法改正権力」というのは、私どもから見たら、普通の憲法規定を改正することを予定しているのですが、これを司法権で審査できるか。できない、こういうことで、私どもは、残念ながら、違法だけれども有効という形でやっていくのです。  これは、突き詰めますと非常に難しい法哲学にもなってきますので、結論については、いろいろな違いが出てくるかと思います。 ○保岡委員 確かに先生がおっしゃるように、この憲法は、司法の判断する機会に、憲法に適合するかどうかという判断が最高裁に認められているだけで、いわゆる憲法裁判というような効力が認められているわけではない。そういう意味で、結局、違法性があっても無効と言う機関がないじゃないか、こういう御指摘だったと思うのです。  私は、それはまた同時に、制定過程の問題ということを離れても、先ほど愛知先生が言われたように、内閣の法制局が状況に応じて、憲法改正が難しいということでいろいろ解釈を大きく変更してきている。それのみならず、最高裁が憲法判断を統治行為という理論で、なかなか判断することに消極的になっているということなども出てきていることに、先生のおっしゃっていることがまたつながっているのじゃないか、そういうふうにも思います。  それから、こういった我が国の憲法制定過程の国際法的な違法状態というものを、外国はどう評価したのでしょうか。あるいは、我が国の国民が自由に憲法を制定できるという前提を、外国ではどういうふうにとらえられていたのでしょうか。 ○青山参考人 憲法ができて以降のことについては、たしか内閣の憲法調査会は、調べてみた方がいいという感じの報告をしていたと思います。ただ、GHQなんかの案に基づいて日本が憲法案を発表したら、アメリカの新聞なんかは、評価しながらも、ちょっと奇異なところがある憲法だと。余りにも理想主義的だとか、そういった報道がなされていたという報告が報告書の中に書いてあります。  ただ、外国といいましても、私、貧乏なものですから、全部の国家について調査したことはありませんで、人の本を読んだだけです。調査に行ったこともありませんものですから、そこで、この点については、内閣の憲法調査会の報告書をちょっと読ませてもらいました。でも、そういった点も、やはり調べるべきだということは内閣の憲法調査会が言っていたという記憶を持っております。  繰り返しますが、案を発表したときにはアメリカの方では、総じて歓迎的でしたが、ちょっと奇異なところがあるというようなのが大方の新聞報道ではなかったか、そのように理解しております。 ○保岡委員 それから、先ほど先生が、鈴木義男議員の憲法制定議会での発言を資料で示されました。それは昭和二十一年六月二十六日の質疑なんですが、やはり鈴木義男議員は自衛権の存在を認める論陣を張っておられます。  「局外中立、殊に永世局外中立と云うものは前世紀の存在でありまして、今日の国際社会に之を持出すのは」時代錯誤だ、「アナクロニズムであります。今日は世界各国団結の力に依って安全保障の途を得る外ないことは、世界の常識であります。加盟国は軍事基地提供の義務があります代りに、一たび不当に其の安全が脅かされます場合には、他の六十数箇国の全部の加盟国が一致してこれを防ぐ義務があるのである。」これは国連を想定しているんじゃないかと思いますが、「換言すれば、其の安全を保障せよと求むる権利があるのでありますから、我々は消極的孤立、中立政策等を考うべきでなくして、飽くまでも積極的平和機構への参加政策を執るべきであると信ずるのであります。」  私は、この鈴木議員の発言は、国連加盟国が一致して安全を守る義務があって、消極的孤立に陥ってはいけないと平和機構への積極的参加を促している。これは、現在から見れば、国連軍への参加に連なる考え方を示しているんじゃないかと思いますし、当然、国連平和維持軍、PKFへの参加も問題ないことを意味している。要するに、将来国連軍ができれば、それに参加するということも想定している。こういう、今考えれば非常に、今の時代というかこれから先の時代を見る、きちっとした論陣を鈴木義男先生はとっておられます。  これに対して、先生が先ほどお話しになったように、社会党がどう対応したかということなんですが、先ほどの先生のお答え、簡単にもう一度お話しいただけますか。 ○青山参考人 社会党の方は、そういう意見を憲法制定時には吐いたのですが、だんだん、いわゆる憲法上の平和主義というのを強調するようになります。それで、内閣憲法調査会ができる前後になりますと、彼らが言う平和主義を守るために、内閣憲法調査会をつくること自体にも反対し、できても参加しないという姿勢をとったのです。  その後は、今度は逆さまになりまして、石橋委員長だったと思いますが、非武装中立主義が出てくるのですね。ですから、相当変化をしながら、今度村山さんのときになりますと、またかなり違ってまいりますから、社会党というのは、かなり変容し過ぎたのではないかと思います。  ただ、一言言わせていただきますと、この憲法議会で九条を論議したこと自体は、法的には無意味であったと私は見ているのです。なぜかというと、ポツダム宣言で軍が解体されているのです。約束で軍がなくなっているわけです。我が国は軍を持てないのです。ということは、国防の能力を奪われているのです。国防の責任も負わなくなっているわけです。その責任は、残念ながら奪った、解体させた連合国の方にあるわけです。  ですから、主権の問題で、国権の最高性という意味の主権、こういう意味合いの主権がありますが、我が国は半主権国家にすぎなかった。軍を持てないと法的になっている国は、戦争もできないわけです。戦争もできない国が、戦争を放棄するとか放棄しないとか、これが法的に何の意味があるのだと思うのですね。政治的にはいいですよ。法的には何の意味があるのか。能力がないものが何か約束して、法的効果が生ずるか。我が国は、ポツダム宣言によって軍は解体させられた。これは調印と同時に実施されているのです。軍を持てないのです。持てないところが戦争すると言おうと、戦争しないと言おうと、できないのですから。能力を奪われている、責任をも奪われている。  ですから、我が国が国防のことを本当に考えるのは、能力を法的に与えられてからでないといけなかったと思うのです。それはいつかというと、占領軍が認めてくれるか独立のとき、これしかないわけです。それを、能力も責任もないときに、九条、将来は、将来はと言うのは、法的には意味はないのです。政治的意味合いにすぎない。だから、この九条は、つくった当時は大した法の問題じゃなかったのですが、意外とこれは慎重に審議されているんですね。  ですから、法理論と政治の世界の違いの問題じゃないかと思います。私はそのように理解しております。 ○保岡委員 本当は、愛知議員や、また先生がお述べになっていた、憲法制定過程で国民が本当に世論としてこれをどう受けとめていたかというようなことを、我々、占領中のいろいろなことを多少知っているから断片的には想像できますけれども、憲法制定過程にこれほどいろいろ異常な状況が続いていたことは、小学校の教科書でも我々教えてもらったことがないし、司法試験の勉強をしたときにもないし、国会に出てたまたま勉強する機会を得て、非常に異常な状況でつくられたということを多少承知する機会を得ました。  こういうことは、やはりひとしく国民が認識を共有して、私たちの憲法をどういうふうに論議していくかという基礎にすべきだと存じます。特に教科書は、きょうは取り上げたかったのですが、かなり事実と違った印象を与えるかの記述が、中学校、高校の社会科の教育にあるという事実を指摘して、質問を終わります。 ○中山会長 次に、仙谷由人君。 ○仙谷委員 参考人の青山先生に、本日の御意見の陳述、ありがたく御礼を申し上げます。どうも御苦労さまでございます。  先生の教科書といいましょうか、「憲法講義」という御著作もちょっと拝見をいたしましたが、目線が、押しつけられた、押しつけたという議論は、当時の為政者あるいはその周辺にいた人については、確かに経緯としてはそのような事実経過があったんだろうなとわかります。  ところが、一つ先生にお伺いしたいのでありますが、沖縄という存在がございます。  昭和二十年三月二十六日から戦闘が始まって、四月一日には沖縄本島へ米軍が上陸した。その後、一九七二年でございましたか、いわゆる沖縄返還に至るまで、占領下の時代と、サンフランシスコ平和条約以降の施政権をアメリカが持った時代、こういうふうになるわけですね。こういう状態は、押しつけられたとか押しつけたとか、盗まれたとか強奪されたとか、こういう議論からいうとどういうことになるのですか。 ○青山参考人 私がそういう主張をしているということですか。 ○仙谷委員 いや、違います。沖縄の状態を、押しつけられたとかというレベルの議論でいえばどうなるのか、どういうふうに理解したらいいのか、こう言ったのです。 ○青山参考人 戦争に負けますと、どういうふうに戦後を解決するかというのは当事国が話し合うことで、その中で沖縄は、施政権を一応向こうにやって、我が国は潜在的主権を確保するという形でもっていった、そういう約束事でやったわけです。ですから、沖縄の住民にとっては非常にかわいそうな状態になったことは間違いないです。でも、戦後の解決策としてそういう方途がとられたという事実問題にすぎなくて、沖縄の人には本当にかわいそうだったですが、日本政府としていいかげんにそれをやったとは決して思っていないんです。  向こうも、将来の国際情勢なんかを考えますと、やはり支配してみたい地域もあったと思います。ソビエトなんかや中国なんかも、中国なんかは軍隊をどこに置かせろと言ってきましたし、ソビエトは現実に北方領土の方に進駐してきました。これについても私どもは不満を持っていますけれども、負けてしまいますと理想どおりの解決はできません。ですから、少し犠牲になってしまったということだと思います。 ○仙谷委員 そうしますと、北方領土の問題も同じような問題だとおっしゃるのであれば、それはそのとおりでしょう。要するに、戦争に負けてポツダム宣言を受諾して、力によって強制された状態が、少なくともサンフランシスコ平和条約のときまでは続いた、沖縄について言えばこういうことですね。 ○青山参考人 沖縄はもっと後までです。 ○仙谷委員 サンフランシスコ平和条約及び安全保障条約によって、強制されたもとだとはいえ、ある種の選択を日本政府がした、こういう理解でいいんじゃないですか。 ○青山参考人 そのとおりだと思います。日本政府がそのようにやってしまったということですね。ですから、北方領土もそうでして、事実上向こうが違法な支配を続けていますが、こっちの方はアメリカとは違って解決できないものですから。 沖縄は、佐藤栄作総理大臣のときに一応努力をしまして、こちらに戻すという形をとったということだと思います。  しかし、負けますと、何が何でもこちらの思うとおりに解決するということは難しいものですから、かわいそうですが、やはり犠牲になる人が出てくるということで、沖縄の人に対しては私も本当に申しわけないと思っています。 ○仙谷委員 そうすると憲法も、戦争に負けてポツダム宣言を受諾して、占領軍が乗り込んできて、法理論的に事のよしあしはともかくとして、あれやれ、これやれと言われて、そのとき我々の先輩が、みずからの思想信条を押し殺してくしゃっとなってしまった、はい、いただきますと受けてしまった、それもある種の主体的な選択ですね。  そこで、お伺いしたいのですが、私は別に、共産党の方とか古い時代の社会党を応援しようとかなんとかいう気持ちは全くないですよ。共産党の戦後史に果たした役割というのは、プラスの部分もマイナスの部分も正確に認識しているつもりですから、そのつもりは全くないですけれども、きょうお越しになった、先生を含めて二人の参考人が、社会党と共産党のことを言われるけれども、当時の自由党と進歩党のことを全然言われない、おかしいなと思ってさっきから聞いていたんです。  それで、この憲法制定過程における自由党と進歩党というのは、何を考えて、憲法草案をつくったのかどうなのか、その憲法草案はどういう内容だったのか、御存じであればおっしゃってください。 ○青山参考人 私が、なぜ社会党、共産党に触れたかといいますと、いわゆる報道において護憲勢力と改憲勢力という二つに分けられていますから、事の本質をとらえなくちゃいけないということで、政党を意識したのではなくて、たまたま、むしろ報道がもう少し正しく報道した方がいいんじゃないかということで。自民党は、党の綱領でたしか全面的な憲法の改正を言っているようですから。自主憲法だと思いますけれども、それをはっきり言っています。それに対して、報道がどうも、憲法記念日が来ますと護憲、改憲とやるものですから、この憲法制定過程もそうですが、やはり真実を報道してほしいということで、先生方は皆さん御理解だとは思いますけれども、ちょっと念のため触れてみただけなんでして、別に他意はありません。  自由党とか進歩党、法案を全部詳しくは見ているわけじゃないのですが、進歩党の場合、珍しく、宣戦にかかわる規定を要綱の中に掲げていると思います、たしか要綱だったと思いますが。ですから、あの政党だけは、ちょっと戦争に関して一言だけ触れている政党だったと思います。ほかの政党は、この軍事の問題は、私の記憶ではどの法案も触れていないはずなんです。  まともでしたら、私は、触れない方がまともなんだと。なぜかというと、先ほど申し上げましたように、当時は軍が解体されていますから、触れても触れなくても、法的には何の意味もなかった。だから、それは触れるべきときに憲法の問題として審議すればよかった問題で、触れないのがまともであったんじゃないか。  ただ、実際には、当時の自由党政府を含めて、占領軍の言いなりになっていたんじゃないかという気はしています。強いものがあったわけじゃ決してない。ただ、強いものを出すとどうなるかというと、その後またパージが行われるということもありましたから、かなり遠慮があったんじゃないかと思います。 ○仙谷委員 いや、先生本当に御存じないのですか。自由党の憲法草案、進歩党の憲法草案、御存じないですか。  つまり、先生がお書きになっておるものでも一番はっきりしているのは、押しつけられた、押しつけた、その話の中で、中身というか一番重要なところは、まさに国体論争であった。天皇主権をどうするのか、天皇の地位をどうするのか。  大日本帝国憲法、第一条から第十七条まで天皇の規定があるのですよ。天皇主権、天皇大権じゃないですか。そういう大日本帝国憲法を維持するのかどうなのかというのが、当時ポツダム宣言を受諾する前後から憲法制定にかけての最大の問題であったわけですよ。  その点について、自由党と進歩党がどのような草案をつくったのかということを御存じないですか。 ○青山参考人 私は、残念ながら詳しくは見ていないものですから、九条にかかわるところはよく見ているのですけれども。  ただ、天皇主権というのを強く打ち出すということは、当時の姿勢としては言えなかった時代ですからね。 ○仙谷委員 いや、だから、そうじゃないから僕は言っているのですよ。  いいですか。例えば自由党の憲法草案は、「統治権の主体は日本国家なり」というふうには書いてあるけれども、「天皇は統治権の総攬者なり 天皇は万世一系なり 天皇は法律上及政治上の責任なし」ということを堂々と書いてある。それから、進歩党は、ほとんど大日本帝国憲法と変わるところがない。そして、人権規定については、国民の権利義務ではなくて、「臣民の権利義務」というふうに書かれてあった。  つまり、物事の発想が、当時の政権党たる自由党、進歩党ですらそのとおりであって、そのような考え方が松本私案なり宮沢甲案、松本乙案とか、そちらの方に引き継がれていくというのが、ある意味でGHQに、こんなことでは困るじゃないの、ポツダム宣言の趣旨を全く理解していないんじゃないのと、こういうある種の介入を許した相当の原因なんじゃないですか、これは。  そして、もう少し言うならば、自由党と進歩党は、憲法審議が始まったら、マッカーサーからいただいたのか何か知らぬけれども、その憲法草案に、ありがとうございます、これで結構ですと言ったんじゃないですか。そういう経過でしょう。 ○青山参考人 当時は、やはり国体の護持というのは大きな国民の願いではあったんだと思うのです。それをマッカーサーが国体の護持はだめというようなことまで本当に考えたかどうかというのは、ちょっと私は疑問だと思っているのです。 ただし、もう少し平和的な方向に早く持っていかないと四囲の状況から天皇の戦争責任の問題が起きてくるからということですね。ですから、大日本帝国憲法の主権の所在がどうこうというよりも、むしろそっちの方がねらいであった。  そのときに、いかにも国体の護持の方に我が国の戦後の論文の書き方が注目されてしまって、占領軍は民主化、民主化ということで来たんだ、そこで憲法を変えさせたんだということですが、民主化に来たのは間違いないのですけれども、憲法まで変えろという民主化であったかどうかということは、それは私は疑問だと見ているのです。ただ平和的憲法をつくるということの方が、急がせるところであったんじゃないか。  マッカーサーも、マッカーサー・ノートの第一の第一項で、天皇を国家の元首に、訳はいろいろな問題がありますが、ヘッド・オブ・ザ・ステートという言葉を使っている。ですから、ヘッド・オブ・ザ・ステートという形は認めているのですね。ただし、GHQの方は、マッカーサーの思惑と違って、かなり動いたところもあるようです。ですから、大日本帝国憲法の改正まで本当に占領軍が最初から考えていたかというと、私は疑問視しているのです。幣原さんなんかと会ったときに全然言っていないですね、九月に二回会っているのですが。 ○仙谷委員 話をそちらに進めますが、先生の御著作の中にも、四五年の十月八日に近衛公がアチソン大使に会って、十二項目の、要するに指示といいますか、十二項目の訓令を伝達するという格好でしょうか、そういうふうにされた。それは、きょう、この調査会に資料として配付されましたSWNCC―二二八号という、国務・陸軍・海軍三省調整委員会文書の中身とほぼ同じであったというふうに先生は書かれていますね。  これを見ますと、ポツダム宣言でいいますと、先ほど先生が、そこまで言っているかどうか疑わしいとおっしゃるんだけれども、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テ」という表現がございます。ポツダム宣言が四五年の七月二十六日です。  それから同時期に、当時、四五年の四月二十五日から六月の二十六日にかけて、将来国連憲章として発効することになる憲章案がサンフランシスコ会議で討議されておって、六月二十六日、つまりポツダム宣言をさかのぼること一カ月前に連合国五十カ国で署名されているのです。その中にも、一切の国民がみずからの政体を選択する権利があるんだ、こういうことが明記されているのです。  それで、連合国司令官も、マッカーサーも、あるいは後に憲法改正作業を具体的に担当することになるGSですか、先生おっしゃるように。そういうところに対する影響といいましょうか、国際的な思想的潮流、つまり、そもそも民主主義を奉ずる連合国が、軍国主義やナチズムに対して勝ったんだ、勝つんだという前提で、民主主義と、つまり国民主権と基本的人権、平和主義、この流れの中でGHQはあったわけですから、私が先ほどから申し上げておる大日本帝国憲法の、天皇主権で軍事大権、つまり、統帥権から、戒厳令の権限から、立法権から、何から何まで天皇にしかないような憲法がそのまま解釈の方法によって通用すると考えることの方が、これは私の世代の後講釈でありますけれども、ちょっと想像力に欠けた人たちが多かったんだな、鈍い人ばかりだったんだなと。まあしかし、内部には野村さんとか想像力の欠けていない人もおったようでありますが、そういうように理解するのです。  だから、これは、さかのぼれば、ポツダム宣言をなぜ受け入れたのか、戦争に負けたからだ、なぜ戦争に負けたのだ、この戦争をやった責任はだれなんだ、全部なぜなぜでずっとさかのぼっていきますよ。あるところから押しつけられたというところだけ取り出せば、それはそのとおりですよ。何で押しつけられたんだ、戦争に負けたんだ、何で戦争に負けたんだ、その戦争はだれがやったんだという話になってくると、東条だ、東条だけの責任じゃないじゃないかという話にもなる。いかがですか。 ○青山参考人 マッカーサーは、グルー大使なんかの進言もありまして、天皇制に対する認識を非常に変えておりまして、それから、ポツダム宣言なんかを起草した場合に、大日本帝国憲法にそう敵意を示していたわけじゃないのです。  ですから、三軍調整委員会なんかは非常に厳しく天皇の権限を奪おうとしてきますが、ポツダム宣言は二十六日ですが、二十九日ぐらいに、この宣言の目的を示した案を出すのです。その中で、これは約束事だということを言いながら、必ずしも大日本帝国憲法の天皇制を大きく動かせというような趣旨を定めたものじゃない、ただし、早く降伏させるには、やはり天皇の地位を保証してあげなくちゃいけないということで、これを出すのだという案ができているのです。  ですから、それは権限は天皇から奪ったって構いませんが、しかし、あの大日本帝国憲法があるから民主化できないなんとは考えてない。国務省の方では考えたものがあるのですが、ポツダム宣言を起草する段階では、変化が生じてきているのです。  それで、平和的なものにつきましては、一応ポツダム宣言の受諾によって憲法は停止させられますから、ある程度の改正というのは将来必要になるかもしれませんが、その点について早く明示しないと天皇の地位が危なくなる、これを考えたのがマッカーサーじゃないかと思っているのです。ですから、マッカーサーは天皇の地位を守ることで憲法改正を急がせたと私は思っております。そうでないと、その戦争責任を問われるから。  それを民主化、民主化ということで――民主化を図ろうとしたことは間違いないのですが、それは大日本帝国憲法の規定ではなくて、実質的に、選挙法を変えたり、あるいは貴族院令なんかを変えたりして、あそこでも、庶民の代表でも地位を与えてあげられるとか、学術代表なんかを入れて貴族院をつくるようにしました。 そういう実質上の民主化をどんどんやるということは期待していたと思いますが、大日本帝国憲法を民主化、民主化で主張することはどうかと思うのです。改正させたのは、やはり天皇の戦争責任を問う動きが出てきたから、これでは守られなくなるから、これが主眼ではなかったかと思うのです。その意味で、押しつけが出てきたということです。  ただ、私が言っているのは、押しつけられたというその事実を言っているだけでして、それ以外のことは言っていません。それがいいとか悪いとかは言っていません。私は天皇制は大好きなものですから、よくぞ守ってくれたということは思っておりますが、それを、もう何でもかんでも憲法改正は民主化のため、民主化のため、これが今は強く出過ぎているのではないか、そういう気がするのです。余り国体の護持ということを正面から出せる時代ではなかったのです。それは共産党が言っているじゃないかといいますが、逆さまの方は可能だったのです。ただし、共産党は間もなくレッドパージに遭うようになります。その当初は、共産党の発言が非常に認められた時代なんです。  ですから、向こうからの発言、俗にいわゆる左からの発言は最初は自由にできたのですが、俗にいわゆる右からの発言となると、相当厳しい時代であった、こういうことです。 ○仙谷委員 ありがとうございました。 ○中山会長 次に、太田昭宏君。 ○太田(昭)委員 公明党・改革クラブの太田です。きょうは貴重な御意見をちょうだいいたしまして、ありがとうございます。  私は、憲法調査会が発足をして憲法論議が行われる、どの時限から論議をするかということが非常に大事だと思う。日本のさまざまな行き詰まりということを考えましても、どのあたりから論議をするかということで、会長を初め、大変御努力をいただいて、きょうのような、まず制定過程という事実確認から始めようということについては、御努力をいただいたのだというふうに思っております。  実は、私が一番心にとめておりますのは、言葉というのは当然、時代に制約をされる。その時代がどういう雰囲気で、国民というか人々はどういう気持ちであったか。そして、為政者はどうであったか、アメリカはどうであったか、そうしたことであろう。制約は免れない。その憲法というものを構成する背後にある思想とか哲学ということ、そこの論議が今、大事だと私は思っているわけです。制定当時は、これは一体どういう論議だったのかなということに大変興味を持っているし、そこを知りたい、こう思っております。  私たちの党でも、この憲法論議の位相といいますか、どのあたりからやるかということで、一つは、そうした憲法制定時、そして今日に至る、何を思想的あるいは哲学的な背景としながら憲法論議をしていくかということが第一に大事だと思う。  それは、日本は戦後、さまざまな面で追いつけ、追い越せということもやってきたかもしれない。しかし、グローバリゼーションということの中で、間違いなく日本のアイデンティティーというのが問われてくるようになる。日本は何をもって日本という国家を形成し、そして日本人たり得るか、そして日本人とは一体何かという、そこのところを、偏狭なナショナリズムではない形でどう展開するかということが非常に大事だ。  ともすると、何となく論議が横とか平面ということが今までの戦後の論議には多いのですが、私は、縦軸ということが、歴史とか伝統とか、人間が制約をされて今日生まれてきて、存在しているというような、ある意味では実存的な、個別的、具体的なそうしたことの中からの論議というものが非常に大事だと思っております。  そこで、お聞きをしますが、思想あるいは哲学という背景の中で、午前中に西先生のインタビューがありまして、御友人だそうですのであえてお尋ねをするのですが、インタビューしましたら、作業をされた方が、職務に忠実、しかしそれは西欧的民主主義の普及という使命感でやった、こういうふうに答えた方がいらっしゃったそうで、かなりの方は自信を持ってやったような感じがするわけなんですね。  ところが、実は当時から日本の知識人の中には、例えばカール・レービットなんというのは、日本の知識人というのは一階は和風で生活をし、二階は洋風の家に住んで、一階と二階を行ったり来たりしているというようなことを言っているわけですね。そういう問題意識は当然あった。そういう中でまた日本でも、和辻哲郎さんなんかは「人間の学としての倫理学」というようなことの中で、人間というものを、北東アジアという中でどうとらえるかということを研究されたと私は思います。  そういうような中で、非常に制約をされていることはわかります。二月に、突然そうしたことでGHQが前へ出ていって素案をつくっていくということもわかります。しかし、知識人の中に、そうした異なった思想的、哲学的、あるいは日本人は一階と二階が違うという違和感みたいなものの中で、そういう作業の中に入れ込むというタイミングとか、そういう場は果たしてあったのかどうか。それについて御存じのところがあったら、その辺が案外言われておりませんものですから、お聞きをしたいと思います。 ○青山参考人 私は、そういうことをやる基本的なところを議論はしていないと思うのです。ですから、この憲法をつくるときに本当に重要なことが審議されていない。  例えば、ポツダム宣言の要求もありまして、基本的人権を導入するように言っているのですが、我が国に基本的人権が合うのか合わないのか、全然言っていないのですね。もういいものだという感じで入れているのです。  ところが、皆さん方の中にも、どのくらい基本的人権というのを国会で審議していたか、それはちょっと私は存じませんが、憲法十二条で自由及び権利と言いながら、十一条で何で永久不可侵の基本的人権と触れているか。だれが基本的人権を日本にくれたんだというようなことなんかは、全然やっていないのです。こういうのは思想的にどこから出てくるかというのもやっていませんから、これが乱用されてしまいまして、何でもかんでも人権といいますから、国家権力は出にくくなった。  国家権力に対しては、アメリカの影響で、不信感というのが前提に出ているわけですね。これは、モンテスキューの思想をアメリカは導入して、その程度のことは日本でもやったかもしれませんが、肝心の、例えば主権は何で国民が持っているんだという議論もやっていないのです。基本的人権というのはどこから来ているかというのもやっていません。  ですから、一番肝心なことをやらないで、受け売りでやっていますから、アメリカ以上に秩序が乱れる可能性があるんです。  時間があれば説明させていただきますが、よろしいんですか。 ○太田(昭)委員 ちょっと短く。 ○青山参考人 本当はこういうのは五十分とか百分でも説明しにくいところですが、基本的人権というのは、アメリカのは、国家をつくる前から持っているんだから、後から出た国家というのは干渉するなというのが基本的人権なんですよ。それを憲法にばっと入れました。権力は出てくるなというのをばんばんやりますから出ていかないから、警察だって、あそこに変なものが閉じ込められているけれども、厚生省から行ったから私は控えておこうと、遠慮してしまうところが出てくるわけですよね。  基本的人権というのは、何でもかんでも基本的人権とは憲法は言っていないんですが、みんなが乱用してやっていきますし、他方では、生存権でもちょっと削ろうとすると、基本的人権を制限するとか言って、とにかく自分のことだけを基本的人権という感じで、国家を悪としてしまっているんです。  先ほど仙谷先生、天皇制を悪いと思っていらっしゃるんじゃないと思いますが、体制を批判しているんだと思いますが、我が国の天皇というのは昔から統治権を行使していないんですよ。我が国は外国と違って、「民」と書いて「おおみたから」(大御宝)と呼ばせるようなところはほかにないです。ただ、西洋のまねをして「臣民」とやっただけです。我が国では天皇は非常に民のことを思って、歌なんかを調べてみますとよくわかりますね。ですから、民も天皇のことをお上といって、相当尊敬する気になっているんです。ところが、統治する者に対しては批判は出てきてもこれは当然ですがね。  大日本帝国憲法は、基調はそういうものであるべきだったと思うんですが、残念ながらプロイセンのをまねてしまったものですから、いかにも天皇が何でもやったかのごとくですが、天皇は日露戦争にも反対した、なぜやったかと。天皇がやったんじゃないですね。あるいは、大東亜戦争だって天皇は反対だったんです。天皇の大権、天皇の大権とこれは悪用されたと美濃部先生はおっしゃっているんでして、そのことなんかをグルー大使が見抜いていて、国民と天皇の関係は、よその国の国王と国民との関係じゃありませんよということを見抜いていてくれているんだと私は思うんです。 ○太田(昭)委員 あと一分しかなくなったようなんですが、私は、さっき仙谷さんもおっしゃったが、為政者の間の話はあるけれども、庶民とか民衆というのがなかなか見えないな、こう思っていたんです。  お母さんの例を引いたりということで、生活に忙しくて、とてもじゃないがそんな状況じゃないと言うけれども、私に言わせますと、戦争は嫌だなとか、戦争には正義の戦争も不正義の戦争も、そんなものはないんだというような、直観的に受けていて、身内が死んでいるというような中から出ている感情というものは今以上にあったんではないか。民衆の声は、確かに忙しくてどうしようもないだろうというけれども、その辺のところが果たしてどういうふうにこの憲法の制定過程の中で展開されていたかということを、もう時間が来ましたので短い答弁で結構です、お願いします。 ○青山参考人 戦争を嫌悪する気持ちは個々にいっぱいあったと思います。それは間違いないと思います。それは今度は政治の面で、憲法理論としては、九条を審議したこと自体が無意味であった、これを言ったわけでして、それは、憲法を変えなくたって、平和を望んでいるのは間違いないです。  その点は、大日本帝国憲法はもうポツダム宣言の受諾で停止しているわけです、軍に関する規定は。ですから、ここで問題としているのは、憲法制定過程で、憲法を変えろというところまでポツダム宣言が要求しているかどうかの問題だった、こういうことですが、戦争を嫌悪することではみんな一緒だったと思います。  ただ、戦争に正義の戦争もその他の戦争もないという感じですが、それは言葉の問題でして、コソボなんかのように、やっつけに来るのがいるわけですよ、強姦したりする。それに抵抗するのを何と呼ぶかという問題ですよね。それをくしくも共産党の人はいいことを言ってくれたと思うんですが、やはり守るべきところの戦いというのはあるんじゃないかということを言いたかったんじゃないかと思いますよ。 言いなりになることだけが正義とは私は思わないんです。  ですから、戦争はすべてだめということが本当に言い切れるのかどうかです。ただ言葉で自衛の行為だと言うだけなんですね。実質は戦争じゃないかという気がします。 ○太田(昭)委員 終わります。 ○中山会長 次に、安倍基雄君。 ○安倍(基)委員 参考人さん、どうも御苦労さまでございます。  実は、午前中、西先生のときに、日本とドイツと非常に環境が似ているのに、なぜこれだけ差があるのかという話と、ドイツにおいてはどんどんと憲法改正されてきたけれども、日本はされなかった。それは、一つは手続規定が日本は若干厳しい。ただ、ドイツの場合もそんなに簡単ではないんですね。その二点を議論したんでございます。  きょうは、実はどの条文がいいとか悪いという憲法の評価というよりは、どちらかというと制定の経緯あるいは法的性格でございますので御質問するんでございますけれども、ある面からいうと、これは先生の言われるように、改憲というところを超えているわけですね、はっきり言いまして。日本とドイツの場合、私はある意味からいうと、いわば新しい憲法の創出だと考えます。日本とドイツの場合に少し意味が違うのかどうか。  第二点としていろいろ考えますと、一応一つの方向としては、例えば、日本が独立したときに、憲法制定議会というのを本当はつくって、そこでやるのが正しかったんじゃないかと思いますが、この二点についてお聞かせ願いたいと思います。 ○青山参考人 ドイツと日本の場合にはまるで環境が違いまして、ドイツは国家がなくなってしまっているんです。ドイツという国はなくなっているんです。連合国軍が州の存在を見て、州が集まって実質上の憲法、基本法といいますか、これをつくったんですが、なぜドイツが憲法改正を易しくしているかといいますと、ワイマール憲法の失敗に懲りまして、憲法ではぴしっと決めておく。決めたことが憲法なんだ。書かれているところが憲法じゃないんだ。  用語がまずいですが、こういうことなんです。ちょっと特定の人の名前を言っていいのかどうかわかりませんが、あるプロ野球の選手が契約しますときに、コミッショナーの規定を読みまして、空白の一日というのを利用してやったんですね。ところが、そのときに……(安倍(基)委員「御説明は短くしてください」と呼ぶ)そうですか。  実は、ドイツの場合には、立法者の意思と法律の意思を一致させようというところにその基本があるものですから、憲法改正の規定を非常に易しくしているんです。そういうことなんです。ですから、書かれていないところを法律でつくろうとすると、すぐ今度憲法裁判所というので守ろうとします。  例えば外国人の参政権なんかは、規定していないじゃないか、それを立法やったじゃないかということで、規定していないところをやると憲法裁判所が違憲判断を下すんですね。じゃどうするか、憲法を改正してやろうということで、その都度改正していく、そういう基本思想を持った国なんです、ドイツの場合は。  それから、二番目の問題は何でしたっけ。 ○安倍(基)委員 二番目は、つまり、日本の場合にも、独立したときに憲法制定議会のようなものをつくって、そこでやるのが筋だったのかなと。 ○青山参考人 それは筋ですが、これは極東委員会の決定もそうですが、マッカーサーも、ハーグの陸戦法規の四十三条があります。それから、ポツダム宣言の約束事もあります。降伏文書、それからバーンズ回答の約束事がありますから、日本国民が自由な意思でつくったという形をとらないといけなかったわけです。ですから、彼らは強制的に、連続性を保つという形を要件にして、これも非常に強く圧力をかけてきました。  民定憲法であるとすれば、代表議会をつくってやるのが筋です。ところが、代表議会をつくらなかったですから、この憲法の前文の書き出しは、その意味でもうそがあるというわけですね。正当に選挙された国会における代表者を通じて行動して憲法を確定したと言っていますが、貴族院は選挙をしていませんから、そこで選挙されたということで、ここでも虚偽があります。とにかく筋はそうです、民定憲法であるとすれば。そういうことです。 ○安倍(基)委員 私の聞いている趣旨は、ドイツの場合には、憲法改正というよりは、新しい憲法の制定かなと。日本の場合も、憲法改正という名前は持っているけれども、新しい憲法かもしれないと。しかし、最終的には、これは午前中にも拝聴していたのですけれども、押しつけられた、押しつけられたと言うよりは、むしろ、何で今まで変えなかったのかというのが問題なんであって、憲法制定当時のアメリカ人が日本に来て議論したときも、何で変わっていないんだろうという疑問を呈したわけです。  ですから、今の先生の憲法論からいえば、いわゆる日本の独立達成期に、憲法制定議会をつくって、そこで新しい憲法をつくるのが筋ではなかったかという話をしているのですけれども、その点について、はっきりとした御意見を承りたいと思います。 ○青山参考人 それは戦時中のことですね。この憲法をつくるときの話なんでしょう。今からのことですか。(安倍(基)委員「独立のとき」と呼ぶ)独立のとき。それは実際やるべきだったと思います。  しかし、その当時はどうかといいますと、国際情勢が非常に緊張している時期でした。バンデンバーグ決議なんかもありましたから、我が国の防衛の装備をきちんとするということに、政府の頭はそっち側に向いていたんじゃないかという気がするのです、経済の方は朝鮮特需で立ち直ってきているのですけれども。でも、独立のときだったら、本来は、その余裕があったらやるべきだったと思います、表現の自由も回復しますので。 ○安倍(基)委員 いや、私の言っているのは、先生の法理論からいえば、あるいはポツダム宣言で言う自由に表明される国民の意思という意味からいえば、独立したときが初めて自由に表明できる時期でもあったし、日本の将来の政体は、自由に表明された意思というわけですから、本来は、独立したときに憲法制定議会をつくって、そこで制定するのが筋だろうと言っているのですが、その点は同じですね。いかがですか。 ○青山参考人 はい、同じです。 ○安倍(基)委員 これからの我々の議論ですけれども、もちろん、憲法制定議会というと言い方は悪いけれども、本当に憲法を論議していこうとするならば、改憲論でいいのか、あるいは制定議会でいいのか、その辺のお話と、もう一つ、私は、要するに憲法改正の手続規定の改正という点に絞っていろいろ考えるのも一つの方法じゃないかと思います。  十分ではたちまち時間も過ぎてしまうので、あともう一、二分でございますから、この二点を御答弁いただいて、私の質問を終わりたいと思います。 ○青山参考人 憲法手続規定をつくれということですね。 ○安倍(基)委員 憲法改正手続規定の改正です。  それから、もう一つは、要するに制定議会という感じの議会でやるべきだろうかということです。 ○青山参考人 民定憲法でしたら、そういうふうに進めていった方がよろしいかと思います。ただ、今のこの憲法の改正手続を利用して全面改正をやってしまったとしますと、この憲法から見たら審査する機関がないですから違憲になりますが、このまま全面改正をやってしまったとしても、実質上は有効で、やらざるを得ないということになります、それがいいことかどうかは別問題ですが。そうすると、後世の人がまた批判すると思います。  ですから、本来は、手続規定をつくって、それで憲法議会をつくれるようにして、そして国民投票にかけるという方向に持っていったら、本当の民定憲法になるんだと思います。 ○安倍(基)委員 時間もございませんから、ここでやめておきます。 ○中山会長 次に、佐々木陸海君を指名いたします。 ○佐々木(陸)委員 日本共産党の佐々木陸海です。  憲法の制定過程は違法だったけれども、残念ながら有効であるという先生のお立場を伺いました。  先生、最初に憲法学界にいろいろ不満をお述べになりましたけれども、やはり先生の立場というのは、日本の憲法学界の中では極めて特異な立場だろうというふうに思います。  私、お聞きして、少し驚いたのは、天皇の名においてアジア太平洋地域で行われたあの侵略戦争、あの日本の侵略戦争の敗北に当たって、その敗北を受け入れる条件について、何か連合国と日本が対等な交渉をやったかのようにおっしゃったように伺いました。  そして、ポツダム宣言受諾は国体の護持が条件になっていたというお話もありました。  しかし、このポツダム宣言受諾に至る経過を見れば、日本政府が八月十日に、天皇の国家統治の大権を変更するの要求をポツダム宣言には包含していないとの了解のもとにこれを受諾すと言ったのに対して、翌日、連合国が返してきた返事というのは、そのとおりでございますなどとは一切言っていない。「日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス」、これが回答でありまして、何か国体の護持が条件だったなどというのは全くおかしな議論だ、通用しない議論だというふうに言わざるを得ないと思います。  それから、ポツダム宣言が憲法の改正まで要求しているとは思われない、大日本帝国憲法のもとでもポツダム宣言の履行は可能であるというふうに言われたこの観点も、全く納得のできない御説明だろうと私は思います。  と申しますのは、あの侵略戦争は天皇の名によって行われたものでありまして、ポツダム宣言は明確に、「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ」、こううたい、かつ、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」、こういうふうに明確に述べていたものを日本は受け入れたわけであります。「基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とも述べている。大日本帝国憲法と基本的人権の尊重などということは両立するものでは全くないわけであります。  とりわけ、これらの文言は、日本の国内では確かに、特に政府の中の一部の人たちには、大日本帝国憲法と両立するような考え方をする人もあったかもしれない。しかし、日本の侵略をこうむったアジアの諸国、そういうところから見れば、このポツダム宣言を日本が受諾したということは、当然ながら、天皇が主権者として振る舞ってきた、あの戦争にああいう責任を果たしたこの天皇制、それを定めた大日本帝国憲法に影響が及ばないはずはない、こう考えるのが当たり前じゃないかと思います。  当時、及ばないと考えた人たちがいたということは、それは事実でしょうけれども、先生自身もそういう考え方というふうにお伺いしたのですが、間違いありませんか。 ○青山参考人 そうです。  私は、大日本帝国憲法を変えなくても、大日本帝国憲法は十分に民主的傾向を有した責任ある政府をつくる体制になっていたと思います。ただ、このポツダム宣言の「基本的人権」という言葉、これは確かに大日本帝国憲法と矛盾するのです。矛盾するのですが、ここの書き方から見ると、ポツダム宣言で言う「基本的人権」というのは、中身を理解して書いているわけじゃないのです。  要するに、自由を保障しよう、民主的な体制を築くための自由を保障しよう、それだけのものなので、高邁な基本的人権の思想の根底にあるものを考えた上で書いたわけじゃないのです。 ○佐々木(陸)委員 それはお聞きしましたけれども、要するに、連合国のこのポツダム宣言というようなものも、世界の世論の背景があって出されたものでありまして、あなたがそういうふうに解釈されるのは自由ですけれども、そんなことは国際的に通用しないということを私は申し上げておきたいと思います。  当時の日本の政府の内部にいた人たちが無反省に、大日本帝国憲法のもとでもポツダム宣言は履行できるというふうに考えていたとしても、それは不思議じゃないし、そういう人たちにとってみれば、日本国憲法は確かに押しつけというふうに考えるに至ったのもおかしくはないだろう、私はそう思います。  しかし、現実には、ポツダム宣言を受諾し、降伏文書に署名した時点で、大日本帝国憲法の基本点を改変することを日本は客観的には受け入れていたわけでありまして、日本国憲法の制定過程は、突き詰めれば、その国際的な約束の履行の過程にすぎなかったということを私は申し上げたい。  先ほど話が出ましたように、自由党や進歩党などは国体護持という到底受け入れられない憲法の草案を出しておりましたけれども、戦前の時代に、民主主義のために闘い、治安維持法などで過酷に弾圧されてきた日本共産党などにとっては、日本国憲法の新しい内容は、単なる押しつけというようなものではなくて、我々は当時天皇制の廃止まで主張していたわけですけれども、それは当然のものだったということになるわけであります。  そして、先ほど参考人は、マスコミに異を唱えるんだという形で、当時の日本共産党の主張についていろいろ触れられました。  しかし、例えば憲法九条は自衛権まで否定しているのかというのに対して、我々は今も九条が日本の固有の自衛権を否定しているものだというふうには解釈しておりませんが、当時は、吉田茂首相の方が、自衛権まで放棄したものだというふうに、あの九条の解釈について述べていたわけであります。その後、そういう吉田首相につながる側の人たちの方が、憲法の解釈を変えて自衛隊をつくる、それで憲法九条の本来のあり方というものを踏みにじるという方向に進み出てきていて、我々の立場は極めて一貫している。我々は、民主的改革があの憲法ではまだ不十分だったから当時反対したということも、いささかも不思議なことではないわけであります。  当時、その憲法を、言ってみれば心ならずも受け入れた人たちが、その後、アメリカの政策が変わって九条を変えなければならぬというようなことになってくる中で、それに追随して今の憲法を邪魔者扱いするような状況になってきている。そういうときに、我々は、憲法改悪反対、憲法の平和的、民主的条項の完全実施という立場を今も続けているわけでありまして、それ自身には何の不思議もないというふうに私は考えておりますが、いかがですか。 ○青山参考人 先ほどから申し上げていますように、あの事態では、法理論的には、憲法九条なんかのことを問題にすること自体がおかしかったんですね。ただし、政治的には価値があったというだけです。そのときに、吉田さんは確かに、共産党に対する答えで、自衛のための戦争を放棄すると言っているのですが、金森さんの方は、攻められたとき守ることがあったとしても、これは批判されることはないというような趣旨のことをたしか答えているんです。ですから、その意味では共産党と違わないところも示しているんです。ただし、吉田さんが野坂参三さんに答えたところだけがクローズアップされているんだ、こういうことだと思います。  それから、学界とのことですが、確かに学界ではそういう風潮はあったのですが、今は逆になってしまっているんです。みんな論ずるものですから、今まで改憲というのを批判していた連中が、私どもは細々と護憲のための集会を開いていますと言っているんですね。ですから、世の中がこれだけ変わってきているんです。  それから、基本的人権については、共産党はいかにも重要というような感じで言われましたが、共産党の基礎思想と基本的人権の思想は合いませんよ。これはプロテスタントから出てくるんでして、ですから、本質的な源まで研究してみてほしいと思います。 ○佐々木(陸)委員 時間が来ましたからこれで終わりますけれども、いずれにいたしましても、私どもの立場はそういう意味では一貫しているということを申し上げておきたいと思います。 ○中山会長 次に、深田肇君を指名いたします。 ○深田委員 社民党の深田肇でございます。  先生、御苦労さまでございます。もう少しで終わりますから、おつき合いのほどをよろしくお願い申し上げたいと思います。  先生の一時間の講話を伺い、後は先輩議員の方々の質疑応答を伺っておりまして、これは大分私個人もしくは社民党と先生の考え方は違うな、これはもう質問というのじゃなくて討論をせないかぬような感じですが、十分間で討論できませんし、また、質問というところへ戻りますと、お互いに全部話ができたり、先生のお話を全部伺うこともできませんので、その点はお互い言葉足らずで終わるかもしれませんが、御了解いただきまして、一つ、二つに絞ります。  けさからもあったのですけれども、押しつけ憲法論というのが、押しつけ憲法であるというのが一般的に言われております。俗っぽい言い方で、そういうものが押しつけられたと。それがGHQであったり、マッカーサーであったり、いろいろあるということを承知の上でありますけれども、そういうふうにGHQやアメリカさんやマッカーサーさんがいろいろやったということが、経過として確認をすることができるんだと思います。そういうことがあったんでしょうが、何人かの同僚議員からも発言があったし、先輩も言っておられましたように、やはり当時、思いも寄らない敗戦を味わいまして、侵略戦争であるかどうかというおしかりもあるかもしれませんが、あの大きな戦争をやって、思いも寄らない敗戦を受けて、それで、私などもショックを受けた方の一人でありますが、全国民がそうなって、戦争に対しては、もう全面的に反省を込めて放棄しようということについては、大変大きな共感があった時期だろうというふうに思いますよ。  それに対して、天皇制というものに対する評価もたくさんあって、私たちのような世代からすれば、一番その中で渦巻きに巻かれて動揺したり遁走した経過を思い出すのですが、それは別にいたしまして、敗戦の直後のときに、一方では大きな、いわゆる国体を維持したり、これを守り抜くかどうかという、戦前からの思想性を、また日本の国体そのものを継承しようという動きがあったことも聞いておりますし、書物でも拝見します。  そうしますと、それに対して、どこの党と党を言ってはいけませんが、いわゆる占領軍を解放軍と見るかどうかは別にいたしまして、どんどんと物を言われてきた。 それはだれが言ったかは別にして、当時、我々が世界的に反省を求められたような、同時に日本の国民は皆大きな被害を受けたのですから、その戦争のことを思い出したときには、それに対して、だれがどう言ったかは別にして、我々が自主的に考えて、この中で憲法問題をそれなりに論議して、今のようなマスコミの時代ではありませんから、十分な討論があったりどうこうとは申しませんが、そういうものがそれなりにあって、それで世論はそういうふうに傾いていく、世論はそっちへ行ったというのが、現在の私どもの考える、俗に言う平和憲法であるし民主憲法ができ上がった、これは大変いいことだと思っているんです。  それも、現在どういうふうに定着しているかどうかという論議はありますが、そこへ行く前に、けさ方の先生のお話なり、今の先生のお話との関係で申しますと、ちょっとデータを見てもわかりますように、一九四六年五月二十七日、直後ですね、そのときの世論調査によりますと、これは毎日新聞ですか、数字が出ておりますが、国民主権と象徴天皇制というものについて、賛成が八五%ですよ。  今先生は、昔の帝国憲法でも民主主義は保障されるし、いいではないかというお言葉が出ちゃったのであります。あれあれ先生は、では昔の憲法に戻れとまでおっしゃっているのかなと思いながら聞きましたが、そこはいいんです。今は答弁を求めません。  そういうふうに思いましたが、象徴天皇制という言葉をわざわざ入れて、賛成が八五%。同時に、戦争の放棄というところは、賛成は七〇%というデータがあるんですね。まさにそのときは、憲法がずっと走っていくという状況でありますから、こういうときの国民的状況、日本の状況をお互いに評価したらどうかと思うんですよ。  その上で、その後の状況の中で、先生からまたちょっとぱちんとパンチが飛びましたが、いわゆる戦後の社会党と、それから石橋元委員長の話、それから、名前は出ませんでしたが、村山総理なり村山委員長のところまで行くのかわかりませんが、そういう話がありました。それはまたちょっとおきまして、いわゆるあの直後のときの国民的な、今の憲法に対する三分の二以上の支持という声は、お互いにしっかりと確認し合っていいんじゃないかと思いますが、その辺の認識は大いに違いますか、一緒になりますか。いかがでしょうか。 ○青山参考人 ちょっと違います。といいますのは、戦争が終わったばかりで戦争を嫌がるのは、二日酔いをやって頭が痛いときに酒を飲まないというのと一緒でして、やはり攻められてきたときに守りたいというのは、落ちついたらそういう思想になると思うんです。そのときに、何もできないという形を一番極端な状態のときに考えるのはどうなんだ、私はそう思うんですけれどもね。 ○深田委員 憲法学者で法理論家の先生のお話を、私、授業で伺うチャンスもなかったものですからわかりませんが、えらいわかりやすいお話をされるように思うんですよ。  例えば、自民党さんは改憲を言う。じゃ、社会党も前身以来改憲と言ってきているじゃないか。それを今、護憲護憲と言うと。報道の線引きは間違っていると説明されますが、法理論家の説明としては、大変ジョークを入れて国民にわかるように見えるかもしれませんが、今さっきのように、二日酔いの話までひっかけて話をされますと、ちょっとかみ合わないんではないかと思いますから、また次の機会には少しきちんとその点はやりたいというように申し上げておきたいと思います。  そこで、憲法上の九十六条ですか、改正の手続のところ、いろいろお話がありますが、これは、今の憲法にあることは、私なんかは大変大切なものだと。まさに国民の主権者としての政治参加論も含めて、いわゆる三分の二があり、国民投票制があり、それで国民投票制がどれだけでき上がっているかというのは別ですけれども、その点では大変大事なことであって、まさに民主憲法としては大切なことだと思っているのですが、これは邪魔だというお考えですか、要らないとお考えですか。そこをちょっと聞かせてください。 ○青山参考人 憲法改正の手続が難し過ぎるというだけでして、それは民意をもう少し反映できるようにしたらいいんじゃないか、そういう気がするのです。 ○深田委員 時間がもうありません。  難し過ぎるとおっしゃるけれども、いわゆる衆参議員の三分の二と、数を書いてあるのであって、今なら自自公で三分の二あるかもしらぬものね。公明さんは微妙なことをおっしゃっているけれども、ほかの問題では一緒になっても、憲法問題は微妙に違いがあるかもわかりませんが、手続論が難しいとは思わない。三分の二の量がいけないとおっしゃっているのかどうかだけですよ。そこで発議していけばいいわけですから、その状況は今まで何遍もあった。我々社会党の全盛時代といったらもう懐かしい話になっちゃったけれども、三分の一の壁を絶対守れとよく言ったものですよ。  今もう一遍盛り返さなければいかぬと思って、民主党さんにも声をかけて、御指導いただいている状況でありますが、そういうことを含めて、やはり手続上難しいのではなくて、これでは憲法が改正できないからまずいというのであって、改正をするかしないかは、今のような九十六条がむしろ一番的確で、三分の二で国民投票にかけなさいというのは、これほど理想的な手続はないじゃないかと思いますが、もう一遍御答弁いただけますか。もういいと思いますけれども。 ○青山参考人 それは、若いときにぴしっとした背広を仕立てたようなものでして、このように太ってくるとだめなんですよ。ですから、やはり時代に合うような背広をつくれるようにしておかなくちゃいけませんので、もう少し和らげておきませんと時代の変容に対応できないと私は思っているのです。  ですから、各議院の三分の二、総議員の三分の二ですからね。 ○深田委員 そうですね。だから、もう量の問題、質のことをやる時間がありませんから、私は、そういうことが大切なものだということを申し上げて、ひとつ先生とそこはまた意見が違うなと。もう寂しいことばかりでありますが、申し上げておきたいと思います。  以上、ありがとうございました。 ○中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。  この際、一言ごあいさつを申し上げます。  青山参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。調査会を代表して厚く御礼を申し上げます。(拍手)  次回は、来る三月九日木曜日、幹事会午前九時五十分、調査会午前十時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。     午後四時四分散会