参議院憲法調査会(5・2) 平成十二年五月二日(火曜日)    午後一時一分開会     ─────────────    委員の異動  五月一日     辞任         補欠選任      本岡 昭次君     円 より子君     ─────────────   出席者は左のとおり。     会 長         村上 正邦君     幹 事                 久世 公堯君                 小山 孝雄君                 鴻池 祥肇君                 武見 敬三君                 江田 五月君                 吉田 之久君                 魚住裕一郎君                 小泉 親司君                 大脇 雅子君     委 員                 阿南 一成君                 岩井 國臣君                 岩城 光英君                 海老原義彦君                 扇  千景君                 片山虎之助君                 亀谷 博昭君                 木村  仁君                 北岡 秀二君                 陣内 孝雄君                 世耕 弘成君                 谷川 秀善君                 中島 眞人君                 野間  赳君                 服部三男雄君                 松田 岩夫君                 浅尾慶一郎君                 石田 美栄君                 北澤 俊美君                 笹野 貞子君                 高嶋 良充君                 角田 義一君                 直嶋 正行君                 円 より子君                 簗瀬  進君                 大森 礼子君                 高野 博師君                 福本 潤一君                 橋本  敦君                 吉岡 吉典君                 吉川 春子君                 福島 瑞穂君                 平野 貞夫君                 佐藤 道夫君    事務局側        憲法調査会事務局長                 大島 稔彦君    参考人         元連合国最高司令官総司令部民政局調査専門官                 ベアテ・シロタ・ゴードン君         元連合国最高司令官総司令部民政局海軍少尉                 リチャード・A・プール君            (通訳 池田  薫君)            (通訳 長井 鞠子君)            (通訳 西村 好美君)     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○日本国憲法に関する調査     ───────────── ○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。  日本国憲法に関する調査を議題といたします。  本日は、憲法調査会設置後、明五月三日、初めての憲法記念日を迎えるに当たり、日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案起草に携わった当時の連合国最高司令官総司令部民政局関係者の方々から日本国憲法の制定過程について御意見をお伺いした後、質疑を行いたいと思います。  本日は、参考人といたしまして、当時、調査専門官として草案起草に携わり、人権に関する小委員会に所属されていたゴードン女史、また、当時、海軍少尉として草案起草に当たっては、天皇・条約・授権規定に関する小委員会の責任者をされていたプール氏に御出席をいただいております。  なお、当時、陸軍中尉として草案起草に当たっては、行政権に関する小委員会に所属されていたエスマン氏にも御出席をお願いしておりましたが、健康上の理由により、私のところに出席不可能の通知を診断書を添えていただいております。残念ながら、そういうことで欠席されることとなりました。  この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。  本日は、本調査会のため、はるばるアメリカよりお越しいただきまして、まことにありがとうございます。調査会を代表して厚く御礼申し上げます。(拍手)  また本日、委員各位におかれましても、大変、連休の谷間に何かと御用御煩多の折にもかかわらず、全員御出席を賜って御協力を賜っておりますことを会長として厚く御礼申し上げます。  参考人の方々から忌憚のない御意見を賜りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。  本日の議事の進め方でございますが、ゴードン参考人、プール参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、委員各位からの質疑にお答えいただきたいと存じます。  なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。  それでは、まずゴードン参考人からお願いをいたします。ゴードン参考人。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君)(通訳) 参議院の皆様、私は、本日呼ばれましてこの重要な場でお話をすることができますことに御礼を申し上げます。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、ベアテ・シロタ・ゴードンと申します。  きょうは遠くから来た方もいると思います。しかし、私が一番遠いところから来たと思います。ニューヨーク市から来ました。憲法調査会が私を呼んでくださったことを大変光栄に思います。ありがとうございます。  そして、憲法調査会ときょうのお客様の間にこんなに多くの女性も参加しているのは本当にうれしいです。これは第二次大戦の前には考えられなかったことですので、五十五年の後にこのようなことが実際に起こるというのは夢みたいです。女性参議院議員四十三人が今活躍していることは、本当におめでたいです。アメリカのセナトよりずっといいです。アメリカで女性はセナトに九人だけです。ですから、日本の女性たち、おめでとうございます。  一九四五年の十二月に、私はアメリカの軍属としてニューヨークから日本へ飛んできました。私は五年間日本を見なかったので、破壊された東京を見たときに心が痛みました。私はウィーンで生まれましたが、五歳半のときに家族と日本に移りましたので、東京はオーストリアのウィーンより私のふるさとでした。  私の両親は戦争中、軽井沢にいましたので、私はマッカーサー総司令部の仕事を始める前に軽井沢へ行きました。食料不足と燃料不足で苦労した両親は、私に戦争中の様子を教えてくれました。また心が痛かったです。二日間滞在の後は、私は東京へ帰ってマッカーサー総司令部の民政局に入って仕事を始めました。  私の最初の仕事は、女性政治運動そして小さい政党の運動のリサーチでした。 そして、一カ月そこで勤めたころ、二月四日の朝十時に民政局長ホイットニー准将が私たちを呼んで、次のことを発表しました。あなたたちはきょうから憲法草案制定会議のメンバーになりました、これは極秘です、あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草案をつくるのが任務です。これを聞いたのは二十人ぐらいでした。みんな随分びっくりしました。  マッカーサー元帥は、その二月四日まで自分のスタッフにこの仕事を与えるつもりは全くなかったので、松本烝冶無任所大臣に何度も民主的な憲法の草案を頼みました。松本さんはいつも明治憲法と余りにも変わらない草案を書きましたので、最後にマッカーサー元帥はこの仕事をホイットニー准将に頼みました。  ホイットニー准将の発表が終わった後、ケーディス大佐が憲法草案の仕事を振り分けました。人権に関する草案は三人に与えられました。男性二人女性一人、その女性が私だったのです。  その後、三人で人権の草案についてはだれがどういう権利を書けばいいかと相談したときに、二人の男性が、ベアテさん、あなたは女性ですから女性の権利を書いたらどうでしょうかと言いました。私はすごく喜んで賛成しました。しかし、女性の権利のほかにも学問の自由についても書きたいと言いました。みんなで賛成して、私は間もなくジープに乗っていろんな図書館へ行っていろんな国の憲法を参考に集めました。この仕事は極秘だったので、一カ所の図書館だけに行ったら、図書館長がなぜ司令部の代表者はこんなにいろんな憲法に興味があるのか疑うといけないと思い、私はいろんな図書館に行きました。事務所へ帰ってきたら、みんながこの本を参考に見たがったので、私は引っ張りだこになりました。  マッカーサー元帥の命令ではこの憲法を早く書かなければなりませんでした。それで、私は朝から晩までいろんな憲法を読んで、何が日本の国に合うのか、または自分の経験で日本の女性にはどういう権利が必要であるかをよく考えました。  私は、戦争の前に十年間日本に住んでいましたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていました。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかったんです。そして、それを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったんです。  例えば、最初の私の草案には次のことを書きました。  「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。」。  ほかの条項には私は次のことを書きました。  「妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。」。  そしてまた、私は次の言葉を書きました。  「養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。 養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。」。  そのほかにも私は子供の教育の平等についても条項を書きました。  すなわち、「公立、私立を問わず、国の児童には、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また、適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。」。  そういう詳しい点を草案に含めました。  それで、カーネル・ロウストとプロフェッサー・ワイルズに私の草案を見せて、二人とも賛成して、次に民政局の運営委員会と私たちのコミッティーの会議があったときに、それを推薦しました。  その運営委員会には三人がいました。カーネル・ケーディス、ケーディス大佐ですね、コマンダー・ハッシーとコマンダー・ラウエル。みんな弁護士であってみんな男性でありました。  そして、その男性は、私が書いた草案にあった基本的な女性の権利に賛成しましたが、私が書いた社会福祉の点について物すごく反対しました。そういう詳しいものは憲法に合わない、そういうものは民法で決めなければならないというようなことを私に言いました。私はがっかりして、こういう社会福祉の点を憲法に入れなければ、民法をつくる男性はそういう点を絶対民法に入れないと私は言いました。  ケーディス大佐は、あなたが書いた草案はアメリカの憲法に書いてあるもの以上ですよと言いました。私は、それは当たり前ですよ、アメリカの憲法には女性という言葉が一項も書いてありません、しかしヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利と社会福祉の権利が詳しく書いてありますと答えました。  私はすごくこの権利のために闘いました。涙も出ました。しかし、最後には運営委員会は私が書いた条項から次の言葉だけ残しました。すなわち今の第二十四条、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」、それだけが残りました。  ホイットニー准将がこの草案を日本の政府に渡したときには、私が一番最初に書いた基本的な女性の権利についての言葉がまだ入っていました。すなわち、「結婚と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく、相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく、両性の協力に基づくべきことをここに定める。」、日本の政府は、その「親の強制ではなく」と、「かつ男性の支配ではなく」という言葉をカットしたんです。  とにかく、私は運営委員会が私が書いた草案をあんなに縮めたということについてはもちろん随分がっかりしました。しかし、運営委員会が私みたいな若い者より、私はそのときに二十二歳でした。だからその運営委員会が私より随分権力を持っていたので仕方がないと思いました。一番基本的な権利が第二十四条に入っていることで、心が重たくても受け入れなければならないと思いました。  一週間の間に憲法の草案ができ上がって、民政局部長ホイットニー准将がマッカーサー元帥にそれを提出しました。その次にホイットニー准将は草案を日本の政府の代表者に渡しました。それで私たちの仕事が終わったと思いました。でも、そうではありませんでした。  三月四日にまた極秘の会議が開かれました。この会議に参加したのは民政局の運営委員会と日本政府の代表者でありました。  私もその会議に呼ばれたのは、草案を書いたからではなく、通訳として呼ばれました。通訳は五人いましたので、通訳部長はジョセフ・ゴードン中尉でした。一年半ぐらいたった後、私はそのゴードン中尉と結婚しました。だから、憲法の草案の仕事からいろんな結果が生まれました。  十時に極秘会議が開かれました。会議が終わるまで部屋からは出られないことが命令されました。お食事もその部屋で食べなければならなかったんです。おいしくないアメリカの陸軍から出たCレーション、お肉などの缶詰と、そしてKレーション、これは乾物。そういう食事が出ました。  私は、会議が三、四時間で終わると思いました。しかし、最初からいろんな議論がありました。特に天皇制についての議論が長かったです。意味だけではなく、言葉の使い方、どういう字を使うか、全部議論になって、大騒ぎでした。日本側は、我々のつくった草案ではなく、日本政府がまた新しくつくった草案を基本にして、私たちは私たちでつくった草案を基本にして、それを比べるのは本当に複雑でした。日本側は英語がわからず、アメリカ側は日本語がわからないので、通訳の仕事はとても大変でした。日本政府が新しくつくられた憲法の条項を順番に翻訳しなければならず、そしてそれを運営委員会が読んで日本側に返答しなければならず、随分時間がつぶされました。  私は通訳が速かったので、アメリカ側と日本側の両方の通訳をしました。日本側は私によい印象を持ちました。運営委員会議長ケーディス大佐はそれにすぐ気がつきました。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、また大騒ぎになりました。天皇制と同じように激しい議論になりました。もう随分遅く、みんな疲れていたので、ケーディス大佐は日本の代表者の私への好感をうまく使いたいと思いました。そして、こういうことを言いました。ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう。日本側は、私が男女平等の草案を書いたことを知らなかったので、ケーディス大佐がそれを言ったときに随分びっくりしました。そして、それではケーディス大佐が言うとおりにしましょうと言いました。それで、第二十四条が歴史になりました。  翌朝の十時まで通訳の仕事を続けました。二十四時間通訳の仕事をしました。ケーディス大佐はうちへ帰りなさいと言って、私は神田会館へ行きました。その日はよく寝ました。ジョセフ・ゴードン中尉は憲法の仕事を続けて、午後の六時まで働きました。いろんな詳しい言葉の使い方を調べました。  さて、日本の国民は新しい憲法を喜んで受け入れました。日本の政府はそのときに余り喜ばなかったのです。日本の国民は、日本の憲法がマッカーサー元帥のスタッフによって書かれたということは知りませんでした。しかし、一九五二年に占領軍がアメリカに帰ったときに、ある日本の学者と新聞記者はそのことを知って、この新しい憲法は日本に押しつけられたものであるから改正すべきだと主張しました。  マッカーサー元帥が憲法を日本の政府に押しつけたということが言えますでしょうか。普通、人がほかの人に何か押しつけるときに、自分のものよりいいものを押しつけませんでしょう。日本の憲法はアメリカの憲法よりすばらしい憲法ですから、押しつけという言葉を使えないかもしれません。特に、この憲法が日本の国民に押しつけられたというのは正しくありません。日本の進歩的な男性と少数の目覚めた女性たちは、もう十九世紀から国民の権利を望んでいました。そして、女性は特別に参政権のために運動をしていました。この憲法は、国民の抑えつけられていた意思をあらわしたので、国民に喜ばれました。  憲法草案に参加した我々は、この仕事について長い間黙っていました。一つの理由は、これが極秘であったからです。もう一つの理由は、次のような私の気持ちから出たものです。  憲法を改正したい人たちが私の若さを盾にとって改正を進めることを私は恐れていました。それだから黙った方がよいと思って、私は日本の新聞記者のインタビューを受けませんでした。五年前まで親しいお友だちにも何も話しませんでした。一回か二回だけ、一九七〇年ごろ、ある学者に少しこの話をしました。  私は、私の若さについて一言申し上げたいと思います。  当時の二十二歳と今の二十二歳の人を比べれば、大きな違いがあります。私は、二十二歳のときに六カ国語をしゃべれました。私は、十九歳半で大学を卒業しました。六歳のときからピアノとダンスを習いました。六歳のときからいろんなコンサート、オペラ、芝居などを日本で見ました。第二次大戦が始まったときにアメリカにいた私は、日本にいた両親から隔離されたので、一人でお金を稼いで生活しなければならなかったのです。十九歳から二十二歳まで三年間、難しい翻訳、リサーチとジャーナリズムの仕事をしました。その上に、私の大学ミルズ・カレッジは進んでいた大学であって、フェミニズムがまだ流行ではないときにフェミニストでありました。私は、二十二歳のときにも世界を回ったことがあって、ヨーロッパとアジアのいろんな国に旅行しました。  私は、小さいときから日本の軍国主義を自分の目で見ました。私は、憲兵隊のことをよく知っていました。憲兵隊は、毎日私のうちへ来て、私の女中さんたちにいろんなインフォメーションを頼みました。  私は、六歳のときから日本の社会に入って、日本のお友達と遊んで、虐げられた女性の状況を自分の目で見ました。私は、奥さんがいつでも主人の後ろを歩くことを自分の目で見ました。 ○会長(村上正邦君) 大変恐縮ですが、おまとめをお願いいたします。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、奥さんがお食事をつくって、だんなさんとだんなさんのお友達にサービスして、会話には参加しないで、お食事も一緒にとらないで、全然権利がないことをよく知っていました。好きな人と結婚できない、離婚もできない、経済的権利もない、それもよくわかりました。  家庭の中では女性が力を持っていることも知っていました。女性は、子供の教育と主人がうちへ持ってきた給料をコントロールしていました。それも私は知っていました。ですから、私は、二十二歳のときに何にも知らない小娘ではありませんでした。  ある方は、この憲法は外から来た憲法であるから改正されなければならないと言います。日本は、歴史的にいろんな国からずっと昔からよいものを日本へ輸入しました。漢字、仏教、陶器、雅楽など、ほかの国からインポートしました。そして、それを自分のものにしました。だから、ほかの国から憲法を受けても、それはいい憲法であればそれでいいではないですか。若い人が書いたか、年とった人が書いたか、だれがそれを書いたということは本当に意味がないでしょう。 ○会長(村上正邦君) お時間でございます。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) いい憲法だったらば、それを守るべきではないですか。  この憲法は五十年以上もちました。それは世界で初めてです。今まではどんな憲法でも四十年の間に改正されました。私は、この憲法が本当に世界のモデルとなるような憲法であるから改正されなかったと思います。  日本はこのすばらしい憲法をほかの国々に教えなければならないと私は思います。平和はほかの国々に教えなければなりません。ほかの国々がそれをまねすればよいと思います。  一九九九年の五月十五日に…… ○会長(村上正邦君) 恐れ入ります。大体結論が出たようでございますので。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 少しだけ、それじゃ一番最後のことを済みませんですけれども言いたいと思います。  私は、日本の女性をすごく尊敬しています。日本の女性は賢いです。日本の女性はよく働きます。日本の女性の心と精神は強いです。  私は専門家ではありません。私はシロタと申します。けれども素人でございます。 私はお母さんでありおばあさんです。だから、私は子供と孫の将来について心配しています。平和がないと安心して生活ができないと思います。私は外人ですから、皆様日本人は私の声を聞かなくてもいいと思います。私は日本で投票できません。  しかし、日本の女性の声を聞いていただきたいのです。私の耳に入っているのは、日本の女性の大数が憲法がいい、日本に合う憲法だと思っているということです。  日本の憲法のおかげで日本の経済がすごく進歩しました。武器にお金を使わないで、そのお金をテクノロジー、教育、建築などのために使って、日本が世界の中で重要なパワーになりました。隣のアジアの国々も日本について安全な気持ちを持っています。日本の女性はそれをよくわかっています。  だから、私は一つのお願いがあります。日本の女性の声を聞いてください。  ありがとうございました。(拍手) ○会長(村上正邦君) きょうの女性議員の皆さん方の晴れやかな、あでやかなことだと思って聞いておりました。  では、次にプール参考人にお願いをいたします。プール参考人。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) それでは、まず本会の主催者であられる方々に対しまして、御招待いただいたことを御礼申し上げます。  憲法について述べよということでございますけれども、本論に入ります前に、ぜひ御紹介申し上げたい本がございます。新刊書でございまして、セオドア・マクネリーという人が書いた本なんです。この方は一九九七年に開催されましたフォーラムに参加なされた方でありまして、著名な学者でもあり歴史家であられるということで、特に日本における進捗については権威的な存在の方でございます。  マクネリーさんから御依頼を受けましたので、ぜひ皆様方にこの本を差し上げたいと思います。調査会の方々、ぜひお受け取りくださいませ。進呈させていただきます。 ○会長(村上正邦君) ありがとうございます。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) それでは、私の日本での経歴をかいつまんでお話し申し上げたいと思います。  まず、私は横浜生まれでございまして、誕生日は一九一九年の四月二十九日です。もうかなり年をとってしまったんですけれども。たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして、これは単なる偶然なんですけれども、その後になりまして複雑なことになりました。日本では五世に当たります、私の兄弟も含めまして私の代で。私の曾曾祖父の一人は、一八五四年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人でございまして、以来、私の家族の各世代はそれぞれ、私の世代も含めてずっと日本に滞在した経験を持っているという家系です。私の先祖のうちの四名は、実は日本のお墓に眠っております。  横浜に住んでおりまして、一九二三年の関東大震災が起こりまして、幸いにも命は助かりました、その他はすべて失ってしまったんですけれども。その後、神戸で二年過ごしまして、予想に反して私の父は、当時勤めていた会社の命令でニューヨークの事務所の長になるということで転勤を余儀なくされましたので、一九四五年に私が日本に戻ってくるまで私の家族は日本を離れていたわけです。  しかし、私は日本に対して深い愛着の心を持っております。また、日本の国民に対してもそうです。アーマといいましょうかお手伝いさんと申しましょうか、私の母のお手伝いをしていた人たちが私の面倒を見てくれたということで、とても愛着心を持っています。そして、時々連絡が途絶えたこともあったんですけれども、その連絡を後で復興させることができましたし、深いきずなを日本に対して抱いております。  そして、日本の文化からも大いに影響を受けております。例えば、掛け物ですとか広重の浮世絵ですとか家具ですとか、いろいろなもの、伊万里焼などのお皿も持っておりまして、私の先祖から代々伝わってきた日本の工芸品をたくさん我が家が所蔵しております。そして、日本の文化に対して、また日本の文化的な進捗に対して深い敬意を持っておりますし、また西欧に対しても日本の文化が大きく影響を与えたということを十分踏まえております。  一九四五年に、また私は日本に戻ってまいりました。当時は若い海軍将校でありました。当時、外交官としての勤務から、休暇を与えられてこちらに参っておりました。当時、そもそも陸軍と海軍との合同の形で九州に上陸、侵攻の計画でしたが、それは免れて横浜という私の出生地にまず上陸いたしました。  横浜に二度目参ることができたということで、当時、GHQ、スキャップの民政局の方に配属されました。連合国最高司令官総司令部です。そして、一週間のうちに憲法草案を起草する仕事を補佐するように命じられまして、驚きました。それから、二人で構成する天皇及び条約改正、条約締結などのその他の事項を担当する委員会の長となりました。ベアテさんほど若くなかったんです、当時私は二十六歳でしたから。それでも、私自身も外交官としての経験がございましたし、国際法、商法ですとか憲法ですとか海洋法ですとか、国際関係、歴史等々の学問を修めておりました。そして、常に私は日本に対して関心を生涯を通じて持ち続けておりましたので、それも関係して、私はまだ位は低かったんですけれども、この職に多分配属されたんだと思っています。  ケーディス大佐は民政局の長であられたということで、かつ運営委員会の議長を務めておられていたということで、ケーディス大佐いわく、占領軍にかかわっている人たちは、長い間日本に住んだ経験を持っているアメリカ人については猜疑心を持っているんだといったような話をしていました。でも、私の場合は例外になるかもしれない、六歳のときに日本を去っているからというふうに言われたものです。  さて、憲法の起草の背景については皆様方もうよく御存じだと思います。この件については九七年の憲法フォーラムでも詳細が語られております。これは日本の国会議員の先生方がスポンサーになって開かれたフォーラムでありまして、皆様方の憲法調査会の背景情報の源にもなっているかと思います。  当時、私ども三人招待されました。今回は二人だけですが、我々起草にかかわった人たちで生き残っている数はもはや少ないんです。  東アジア・太平洋に対して行った日本の侵略によりまして、明治憲法は改正すべしということになったのです。というのは、狂信的国粋主義者と軍国主義者が明治憲法を隠れみのにして侵略を行ったからです。ポツダム宣言及びその他の連合国の声明も、変更を要求しておりました。  このようなことから、連合国最高司令官は、占領当初から、日本政府に対して、民主的な行動をとることと憲法改正に着手することを指示いたしました。米国政府がガイドラインを示しましたが、これはSWNCCナンバー二二八ということで国務、陸軍、海軍三省調整委員会が提示しておりましたけれども、ベアテ・シロタさんがおっしゃったように、マッカーサー元帥は、日本の人たちにまずは憲法改正をするようにと最初は考えていたわけでありますが、同時に発生した二つの出来事により急遽スキャップ、連合国最高司令官が直接かかわるようになったのです。  まず第一は松本案で、これがあるということをスキャップは知らなかったんです、新聞に漏れるまでは。そして、結局その松本案は明治憲法の表面的な改正だけのものであるということがわかりまして、受け入れられないものだということが判明いたしました。  ですから、そのような案をもとに討議するよりは、連合国最高司令官が草案をつくることを決定いたしました。いわばこういった例がありますよということを日本側に提示することで討議を進めようとしたわけであります。そして、それをたたき台に討議をいたしましょうというふうに提案いたしました。  そして、もう一つの要素は、ソ連がちょうど極東委員会に加わったということで、同委員会では米国、英国、中国、ソ連が拒否権を与えられたということから、ソ連がベルリンの場合と同様な問題を起こすおそれがありました。そして、連合国軍として民主的なことを達成したい、しかしその邪魔をするかもしれないと思ったわけです。  またもう一つ、達成不可能なことがありました。それは四月十日の選挙に間に合うような形で憲法を起草できないかという点でした。国会が憲法草案を承認し、国民投票といったような形で総選挙の機会を得て、憲法に対しても国民の審判を仰いだ方がいいんじゃないかという話もあったんです、当時は。しかし、これは時間がなくて無理でした。  そして、連合国最高司令官からの圧力を含めて、異常な状態で憲法改正議論が始まったことに不満のある方は、次のことに留意してほしいと思います。  すなわち、最高司令官の草案は、数多くの日本の学者や研究機関及び有識者の方々の見解を反映させたものであること、そして内閣との御検討もされまして、その結果、ある程度改正について合意されたということ、そしてその結果、政府の承認した改正案として国会に提出されたということ、そして結果、長時間の討論の末に追加の修正が合意をもって行われ、最終的には圧倒的多数で承認されたということをぜひ御留意いただければと思います。  さらに、忘れてならないのは、天皇陛下御自身が内閣での意見対立の解消に尽力され、草案の国会提出を支持されたことです。  ちょっとそれますけれども、約五年前のことだと思いますが、新しい天皇皇后両陛下がワシントンにお見えになりました。ちょうどケネディ・センターで日本の芸能をなさるということでそのオープニングにいらしたんですけれども、そのときに、天皇陛下は自由にお客様と交わられておりました。私は、向こう見ずにも陛下に自己紹介し、実は日本の憲法の起草に加わったんだということ、特に天皇条項について私は役割を持っていたということを申し上げましたら、天皇陛下はお笑いになって、そうですね、私の指示だったんですよというふうにおっしゃったわけです。つまり、私の印象では、皇室の方々は、天皇陛下の役割については、憲法の草案に入っていた条項について満足なさっていたということだと思います。もちろん、最終的には若干修正された形で採択されたんですけれども。  私の考えでは、憲法起草の過程よりも、その結果に焦点を当てる方が重要であると思います。  連合国が意図したところは、平和な日本に真の意味での民主主義を樹立することでありました。そして、歴史に逆らおうとする人たちが悪用できないような制度をつくろうということだったのです。そして、制度として正式に記載するのは、主権在民であり、基本的人権であり、真の民主主義であり、政治的権限を持たない立憲君主制であり、戦争の放棄であり、またこれらの原則がいかなる理由によっても縮小されたり停止されたりしてはならないということだったのです。  憲法は、これらの原則を樹立し、それらを実現するための機構を定めていることから、私は、これによって日本国民の利益が守られ、日本が西側の民主主義国家に仲間入りできるようになったと信じております。  しかし、だからと申しまして、憲法改正の可能性が否定されるものではありません。改正は憲法自身が認めているところです。しかし、私の意見では、憲法全体を改正しようとすれば、手に負えないような提案がなされてパンドラの箱をあけるようなことになるので、必要が生じた場合にのみ個々の問題についての改正を検討すべきだというふうに思っております。  憲法問題に関係する人たちもしくは憲法修正に関心ある人たちは、国民の間に本当に憲法改正への要求があるのか、またそうした要求がもたらす結果を和らげる方策があるのかについて、広く意見に耳を傾けるべきであると思っております。  ある人によっては、二十一世紀のニーズを満たすために憲法を近代的なものにすべきと言う人もいます。例えば、環境問題、人口増加、世界的な疫病、麻薬、犯罪、さらには新技術の発展を規制する問題等々です。しかし、これ以外にどんな問題が発生するのか予見するのは困難です。  このように指摘されている問題及び予見できないような問題を憲法改正で処理しようといたしますと、細かい事柄まで立ち入ることから、さらに多くの変更が必要となるので、むしろ法律や司法上の解釈によって解決されるべきだと私は考えております。したがって、憲法というのは幅広い文書であるべきだから、日本政府としましても法律制定もしくは司法上の解釈によって解決できるものではないでしょうか。  それでは、二つの具体的な条項について意見を述べたいと思います。  一つは、天皇に関する条項です。  これには私自身直接関与しておりました。私の少人数の委員会は、ケーディス大佐を長とする運営委員会と密接な協議も行っておりました。ですから、協議を行った上での草案ということです。  明治憲法では主権はすべて天皇に付与されておりましたが、この規定と憲法上の権利を停止させる権限を悪用して、天皇の名において軍事的な侵略を行い、反対者を抑圧したのが内閣と枢密院内部の狂信的国粋主義者と軍国主義者でありました。これは改正する必要があったのです。  さらに、連合国の一部と米国議会からは、裕仁天皇を戦争犯罪人として裁判にかけ、天皇制を廃止すべきだと要求しておりましたが、そのようなことをすれば、占領軍にとって重大な問題が発生したでありましょう。  日本の侵略について天皇御自身が個人的にどのように思っていらっしゃったかはだれにもわかりませんが、天皇が放送で降伏を表明し、武装解除を呼びかけたこと、一般大衆が天皇の声を聞いたのはこのときが初めてだったんですけれども、及び一九四六年一月一日にみずからの神格を否定して改革を呼びかけたことは、結果的には連合国にとって都合のよいことでありました。新憲法草案では天皇の役割を大幅に削減することになっておりましたが、天皇がこれを支持したことも有益でありました。  我々が目指したのは立憲君主制で、そこでは天皇は統治権を持たず、国家及び主権者である国民統合の象徴としての役割を果たすものでした。しかし、天皇には、儀礼的な行事を行う以外に、内閣の承認を条件に数多くの役目を付すことで、ある程度の意義ある役割が与えられたのです。  「象徴」という言葉の翻訳には困難が多少ありましたが、しかし、この問題は、起草者の意図した、また草案を承認した日本政府の意図した意味を備えた「象徴」という言葉を使うことにより満足裏に解決されたのです。ですから、私の印象としては、この言葉は我々が意味し、日本国民が一般的に理解し受け入れた意味を伝えたのです。  天皇の地位についての当初の論争はおさまり、その後これについて改正しようという要求は私の知る範囲では出ていないと思っております。  二番目は、第九条についてです。  第九条は、いまだに憲法での最大の論争となっていると伺っております。もちろん、一九四六年に国会は疑念が生じないように修正を行ったにもかかわらずです。  現在の第九条のもとになった考え方は、ホイットニー准将及びマッカーサー元帥かあるいは二人が発案して幣原首相に伝えられたのか、またはマッカーサーのメモワールにあるように幣原の発案だったのか、また、この条項及び民政局へのその他の指示を含む鉛筆書きのノートがマッカーサーによって書かれたのか、あるいはマッカーサーの指示でホイットニーが書いたのか、これらの疑問点については多くの書物が書かれております。  でも、私はもう今となってはどちらでも構わないと思っております。余りにも遠い昔のことでありますし、問題は現在だからです。  私自身は第九条については何ら関与はいたしませんでした。  ただ、将来、日本が平和条約を締結して主権を回復した後でも軍事力を永久に放棄するのかという点について懸念を表明したことはあります。起草委員会が初めのころ、全体で会合を開きましたときに、意見を言い合う機会が与えられました。  その議長を務めたのはケーディス大佐だったんですけれども、最終的に第九条に盛り込まれた幾つかの点というのは、前文に意図表明として書かれるのはよいが、憲法本文に書くのはどうかという疑問を持って私は発言したのです。ケーディス大佐いわく、この条文の由来はどこだか知っていますかというふうに言われまして、彼は大佐でしたし、私は一本線の一介の海軍将校でしたから、いや知りませんというふうに言いました。そしたら、これは元帥から来た考えなんですよというふうに言われたわけです。元帥といえば一人しかいません。何かこれ以上質問があるかねと言われまして、もうありませんと私は答えました。この問題と私のかかわりはこれですべてです。でも、この問題についてはずっと私の個人的な関心として残っております。  私は、憲法改正をしてもいいんじゃないかというふうに思っております。でも、憲法全体を見直すという大変な作業のことを言っているのではありません。しかし、この点は検討してもよいのではと。  特に、第九条の前段の部分は、戦争と武力による威嚇または武力の行使を国際紛争解決の手段としては放棄しております、国権の発動たるということで。そして、一九二八年のケロッグ・ブリアン不戦条約に合致するものであり、この条約は約六十五カ国によって受け入れられていたことから、この第一項は論争の対象にはなっておりません。  しかし、論争が起きるのは第二項の方です。そちらのところでは、上記の目的達成のために陸海空軍を永久に保持しないと定めてあります。そして、交戦するという権利も認められないというふうに書いてあるというふうに思いますけれども、でも、日本は自衛隊という名のもとに軍隊を持っておられることは事実です。ただ、名称が違うということでありまして、軍隊であることに変わりはございません。  今日の現実に照らし合わせ、そして日本が他の主要な民主国家と同様に国際問題で責任を果たす必要があることを考えれば、現在のあいまいさは終止符を打つべきだというふうに私は考えております。そのために軍隊の役割は防衛に限定すべしと定めるのです。ここで言う軍隊とは、既に存在しているものですから、この役割とは既に制度的に存在するものについてであり、その役割は防衛に限定されるが、防衛とは自衛のみでなく、最近見られるケースのように、自分の国境を越えての防衛行為も正当化される場合があります、特に国際協力の枠組みのもとにおいて。ですから、自衛ということだけではなく、国際平和維持活動等にも参加するということで、国連のみならず、もちろん最たるものは国連だと思いますけれども、枠組みとしては。でも、そのほかにも国際合意がされる場合もありますので、その中で活動をするといったようなことで、この場合、日本国民の意思を明確にし、日本国民及び過去において日本の侵略に苦しんだ国々に対して、二度とそのような行動をとる意思が全くないことを保証することが不可欠でありましょう。  以上です。御清聴ありがとうございました。(拍手) ○会長(村上正邦君) ありがとうございました。  今のお話の中に、五年前天皇訪米の折と、こういうお話がございましたが、これは単なる訪米の時期の間違いだと思いますので確認をいたしますが、恐らくこれは昭和五十年、一九七五年に訪米なさったときの、昭和天皇のときのお話であると、こう思います。間違いございませんでしょうか、参考人。  今の天皇様が憲法に携わったということについてのお話になるものですから、この憲法調査会、正確にこれは議事録に残ってまいりますので、後ほどでも結構でございますので、その点のひとつ精査をお願い申し上げておきます。  次に、本日欠席されましたエスマン氏から発言の予定原稿が提出されておりますので、幹事会の協議によりまして、武見幹事に代読していただきたいと思います。  武見幹事、どうぞこちらへ来て、私のところへ来てやってください。 ○武見敬三君 それでは、エスマン氏の予定原稿を読み上げさせていただきます。   一九四六年二月に連合国最高司令官総司令部民政局所属の人たちが日本国憲法を起草する任務を受けたが、彼らは当然のことながら政府についての米国的な哲学や経験に影響されていた。米国での憲法という概念は、国民の基本的権利と自由を守り、常に変化する社会のニーズを満足させるために十分な権限を政府に与え、政治的秩序の安定と継続性を保障する、立憲政治の憲章である。憲法は何十年、何百年という長期間にわたって存続するよう意図されたものであるから、政府の生きた憲章として、制定された当時には予想されなかったような状況の変化にも対応できるような柔軟性を持たなければならない。   当時、私は新憲法起草のために選択された方法には反対を表明した。権威主義的な明治憲法に取ってかわる民主主義を鼓舞する新しい政府の憲章が必要ではあったが、私は民主主義的考えを持つ日本の学者とオピニオンリーダーが新憲法起草の仕事に参画し担うことが重要だと考えた。それができないことには、新憲法は外国から押しつけられたものと見られ、占領時代が終わった後には存続できないと考えたからだ。当時の私は総司令部の中では若い下級将校だったために、私の反対意見は簡単に退けられた。しかし、その後の展開で私の考えが間違っていたことが証明された。すなわち、日本国民の大多数はマッカーサー昭和憲法を自分たち自身のものとして受け入れ、熱心にこれを擁護してきた。その理由は、憲法の条文がぎこちないものであったにもかかわらず、彼らの真の政治的願望を表現しているからである。   当時、私と私の同僚が日本政府の高官から頻繁にかつ厳しく受けた警告は、日本の大衆は民主的政府を運営するまでには成熟してもいなければ、そのような教育も受けていないということ、それに必要な教育を施すには少なくとも一世紀はかかるということ、そして民主主義体制を性急に設立しようとすれば、その意図が善意なものであっても何らかの災難につながるということであった。私たちは、こうした警告を真剣には受けとめなかったし、日本国民の政治的成熟度と健全な判断に対して私たちが抱いていた尊敬の念が正しいものであったことが十分に証明されてきている。   どの憲法でも同様だが、昭和憲法にも個々の条項が盛り込まれている。しかし、何よりも重要なのは憲法に生命を吹き込んだ基本的原理である。これらの原理は、憲法の条文を将来の新しい課題や変化するニーズに対応させるための指針である。私は昭和憲法には九つの指針が含まれていると思う。  一、日本国は主権者たる国民が選挙された代表者を通じて国会で発言し、行動する立憲君主国である。これらの代表者は定期的に、選挙によって自由に選ばれる。  二、行政権は総理大臣を長とし、すべて文民によって構成される内閣によって行使される。内閣は国民の代表者に責任を負い、常に衆議院の過半数の信任を得ていなければならない。  三、すべての個人に与えられた信仰、表現、結社、集会等の基本的人権は不可侵のものであり、政府によって保護されなければならない。  四、すべての人々は法のもとに平等である。人種、信仰、性別、民族、門地によるいかなる差別も不平等な取り扱いもあってはならない。  五、法の支配が常に優先し、何人も、法の定めによらない限りは生命、自由もしくは財産を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない。裁判官は政治的影響に一切左右されることなく、憲法と法律を適用しなければならない。  六、政府は社会福祉、社会保障及び公衆衛生を促進し、学校教育を無償で、義務として、かつ平等に提供しなければならない。  七、国会の具体的承認なしに税を徴収したり、支出を行ってはならない。  八、地方公共団体は可能な限り最大限の自治権を持たなければならない。  九、日本は二度と再び侵略的軍事行動を起こさず、平和を愛する諸国の国際社会に積極的に参画する。  五十五年近くも前に総司令部民政局で昭和憲法の起草に尽力した人は私たちを含めて数少なくなってしまったが、彼らがもう一度一堂に会することができるならば、彼らが最も重要だと考え、後の日本政府に求めたものは、啓蒙された民主主義政府のためのこれらの原則であったということに全員が賛成するだろう。これらの指針としての原則が尊重される限り、日本国民と政府が将来直面するであろう問題は憲法の条文によって十分に対応できるであろう。  それならば、憲法を新しい時代に即したものにし、将来の世代に効率的に役立つようにするにはどうすればよいのか。個々の条文を超えたり、国家の基本的制度を変更するためには正式な憲法改正が不可欠になることもある。私の国でも、奴隷制度の廃止、婦人参政権の採択、大統領の三選禁止のような場合には憲法改正が必要であった。また、日本で総理大臣または大統領を直接選挙で選出しようとすれば、これは国家体制の変更であるから、同じく憲法の正式な改正が必要となる。 しかし、日本でも我が米国と同様、正式な憲法改正の手続は煩雑で、国民の大多数が改正を必要だと考えても、団結した少数派によってこれが阻止される嫌いがある。  そこで、憲法を変化する状況に適合させる一般的な方法は、上記の指針としての原則に照らして、新しい状況にふさわしいようにその条文を解釈することである。米国ではこうした方法によって、連邦政府が航空機の運行規制、インターネットでのプライバシーの保護、化学的物質からの環境の保護というような二百年前の憲法起草者には考えられなかったような新しい問題を解決してきた。五十五年前に昭和憲法を起草した人たちも、憲法の解釈によって政府が必要なことを行い、国際的義務を果たせるのだということを知っていた。  憲法が具体的権限について明記していなくても、政府は憲法の条文から合理的に導き出せる行動をとることができる。したがって、すべての国家が自己防衛のための権利を持っているとの理由から、国会と裁判所が第九条の解釈を通じて自衛隊を認知したのは正しいことだったと私は考える。同様に、憲法前文に、「いづれの国家も、自国のことのみに専念してはならない」と規定していることは、国際平和と秩序の恩恵を大きく受けている日本が、国連の平和維持及び平和強制活動に応分の金銭的、物質的、そして軍隊を含む人的貢献をすることを義務づけられていることを意味する。  ここで私が思い出すのは、一九四六年当時の私の同僚たちは、欧州とアジアで六年間にわたる悲惨な戦争を経験してきたばかりの人たちだったということだ。彼らは核戦争を恐れ、人類が過去の教訓から国際協力を通じて戦争をなくすることを希望し、戦後の日本が平和を愛する諸国と力を合わせて国際平和の維持に積極的に参加することを望んでいた。彼らが、日本による国連平和維持及び平和強制活動への参加を禁止したり制限したりするような条項を憲法に挿入しようとしたとは考えられない。  この憲法調査会に次の三つのことを言い残しておきたい。  一、一国の憲法は、国民の選ばれた代表者が慎重かつ十分な討議の末に国家のために必要だと考える政策または行動を促進するためのものであり、これらを妨害したり阻止するためのものであってはならない。  二、新たな課題に直面し政策を変更するための最も一般的かつ実践的な方法は、憲法の条文とその底流となる大原則に基づく合理的な解釈によるべきである。 正式な憲法改正は最後の手段として残すべきである。  三、一九四六年に民政局にいた人たちは、新しい国連について楽観的な希望を持っていた。国際協力の必要性を強く感じていた。さらに、日本が国際社会に復帰したら、国連が主宰する国際平和と秩序の維持のための活動に主導的役割を果たして参画することを彼らは希望していた。  以上でございます。(拍手) ○会長(村上正邦君) 以上、参考人の意見陳述を行いました。  時間も大分超過いたしておりますが、話が非常におもしろいものですから、なかなか時間どおりここでおやめくださいというわけにもいかないし、遠いところから来てもいただいておりますし、時間が延びておりますことをおわびいたします。  本来ならば十五分の休憩をとる予定でございましたが、五分の休憩ということで、五分後に再開いたしたいと思います。  五分間休憩いたします。    午後二時十五分休憩      ─────・─────    午後二時二十三分開会 ○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を再開いたします。  休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。  これより参考人に対する質疑に入ります。  なお、時間が限られておりますので、委員の御発言は、まずお答えをいただく参考人のお名前をお示しいただいた上で簡潔にお願いをいたします。  質疑のある方は順次御発言願いますが、あらかじめ事務局の方へお名前を各会派から提出いただいておりますので、各会派一応一巡をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。まず、久世公堯幹事。 ○久世公堯君 日本国憲法の生みの親とも言うべきお二方には、遠路はるばる来日をされ、ただいまはまた大変貴重なお話を拝聴いたしまして、ありがとうございました。 ○会長(村上正邦君) 所属会派をおっしゃってください。 ○久世公堯君 自由民主党・保守党でございます。  日本国憲法の制定以来五十数年、我が国の社会経済環境は内外ともに大きく変化をいたしました。国際的には、冷戦構造の終結による国際情勢の変化、それに伴いまして我が国の国際社会における役割、使命はますます大きくなってきております。国内的には、産業構造や国民生活が変化をし、国民の価値観も大きく変革をいたしております。  社会経済的環境の変化によって憲法と実態との乖離は極めて大きくなっております。このような変化に対応するために今日まで憲法の最大限の拡大解釈をいたしてまいりましたが、しかし限界でございます。憲法の見直し、憲法改正論がほうはいとして起こり、今衆議院、参議院には憲法調査会が設置されている次第でございます。  私は、そこで、国際的、国内的危機管理と憲法という視点から、お二方に御質問をしたいと思います。  ここ十数年来、国際的、国内的に人心を震駭するような事件が多発をいたしております。北朝鮮ミサイル発射事件等朝鮮半島に係る安全保障問題、あるいは阪神・淡路大震災、サリン事件等、我が国の安全神話が崩れかかってきております。予測できない多様な危機が発生し、今また有珠山の噴火を憂慮するところです。国家や国民の安全を脅かす多様な危機にいかに対応するか、国民的に大きな関心事となっております。  そこで、まずプール氏に御質問いたしたいと思いますが、プール氏は、先ほど、憲法全体を改正しようとすれば手に負えない、憲法改正は必要が生じた場合にのみ個々の問題について改正を検討すべきであると、こう御指摘になりました。そして、その例として憲法九条を御指摘になりました。プール氏は、憲法九条につきましては、防衛と国際平和維持活動だけに役割を限定された軍隊の規定を明確にすべきであるという御意見でございました。  御指摘のとおり、私どもは、一九五四年の自衛隊法を初めとして、PKO法やあるいは日米ガイドラインによる周辺事態法によりまして、防衛面における危機管理体制を整備しております。さらに、現在、有事法制についても検討中です。日米安全保障体制のもとに半世紀、この五十四年の間、憲法九条を最大限に拡大解釈して対応してまいりました。今後、国際情勢の変化に適切に対応し、我が国の安全確保に万全を期するためには、解釈の対応だけでは限界でございます。  ただいま御指摘ありましたように、防衛や国際平和維持活動に関する限り、そのネックとなる点、例えば集団的自衛権や国連の集団安全保障等について、拡大解釈ではなく国民合意のもとで九条をきっちりと改正をすべきであると思いますが、この点について御所見を承りたいと思います。たしか、一九九七年、先ほどお話にありました、来日をされましたときには、九条を改正すべきであるということを明言されたことを記憶をいたしております。  危機管理、特に国内的な危機管理と行政権の対応について実はエスマン氏に質問を予定しておりましたが、エスマン氏は来日されません。もしプール氏に御回答願えればありがたいと思います。  危機は多岐多様にわたり、本来的に予測不可能であり、かつその生起に対して万全の即応体制が必要でございます。憲法には、非常時の規定として五十四条の参議院の緊急集会があるだけで、行政上の特別の規定はございません。加えて、行政権の主体は合議制の内閣であって、総理大臣の権限は弱うございます。危機管理体制の万全を期する上で、非常時における危機管理体制の整備は憲法見直しの重要事項であると思いますが、これについてのプール氏の見解を承りたいと思います。  最後に、ゴードン氏に対して質問を申し上げたいと思います。  ゴードン氏は、女性の権利、女性の福祉について憲法制定当時にさまざまの提案をされたことを先ほど承りました。我が国におきましても、昨年、一九九九年に男女共同参画社会基本法が制定されまして、女性の立場は一段とまた高くなってきております。さらなる前進でございます。  基本的人権の確立や実現はもちろん重要でございますが、他方、危機等におきましては、公共の福祉、安全確保のために事態によっては個人の権利が大きく制約されることも想定されます。天災を初めとして内外にわたる危機に備えるため、国家と国民、公への義務と個人の自由との関係をどのように考えられるか。国民の生命、財産はもちろん、国民の暮らしや社会を守るという公共の福祉による人権の制約についてのお考えを承りたいと思います。  この点に関連いたしまして、先ほどお話がありましたように、憲法の起草当時、「家庭は、人類社会の基礎である」という条文を憲法に入れるべきだということを主張されたということでございますが、今、我が国の社会の現状においてこの必要性は非常にございます。それを痛感するだけに、この点について現在どうであるかということを承りたいと思います。  以上でございます。 ○会長(村上正邦君) では、プール参考人から今の御質問に対してお答えいただければありがたいと思います。どうぞ。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) もう一度質問を明確に言い直していただければ大変助かるんですが。より単純な言い方に言いかえていただければと思います。あなたの声が大き過ぎて通訳がよく聞こえませんでした。ですから、もう一度申しわけありませんが繰り返していただけますでしょうか。 ○久世公堯君 大変失礼をいたしました。  先ほど御指摘になりましたように、憲法九条については…… ○会長(村上正邦君) 久世さん、演説はいいから、一つこれ、一つこれと。 ○久世公堯君 憲法九条については、防衛と国際平和維持活動だけに役割を限定された軍隊の規定を明確にすべきであるということをおっしゃいました。それは私も同感でございまして、この問題についてネックとなる点、例えば集団的自衛権や国連の集団安全保障について拡大解釈を今までしてまいりましたが…… ○会長(村上正邦君) 一つ一つね。一つ一ついかないと、どうもやっぱりお年を召しておられるから。 ○久世公堯君 九条改正についてどのように思っておられるか。憲法九条についてのお考えを重ねてお願いいたしたいと思います。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 既に申し上げたことになるかと思いますが、繰り返しになるかと思いますが申し上げたいと思います。  憲法九条については明確化すべきだと思います。やはり兵力、軍隊ということの役割をより明確にすべきであります。というのも、軍隊というのは別の名称のもとに既に存在しているからです。憲法九条によって軍隊がつくられたわけではありませんが、既に軍隊が存在しているということがあります。ですから、その点を明確にすべきであります。憲法と現実とを沿ったものにすべく明確にすべきであります。その明確化によって、希望としては、今九条をめぐって意見が分かれている点にある程度の解決が見られればと思います。いわゆるアームドフォーシズ、軍隊、兵力のあり方が、防衛ということ、そして国際的な平和維持活動への参加ということに制限されるということを明確にすればということです。それだけのことです。  さて、その論拠はということなんですが、日本は今や世界の大国になっております。しかも、民主主義諸国の一つの国であります。ですからこそ、ほかの民主主義国と同じベースで国際的な平和維持活動に参加すべきだと思うからです。しかし、日本の占領のもとで苦しんだ国々からは確かに問題視されることもあるでしょう。しかし、私の提案は、新たに軍隊をつくるというものではなく、既にある、存在している兵力をどのような意図のもとで行使されるのか、使われるべきなのかということを明確にするということだけであります。  そして、日本は、例えば湾岸戦争やカンボジアの紛争に助力を提供されました。 非常に有益な助力を貢献されたわけです。そして、それがほかの国からも感謝されております。しかし、日本は、ほかの国々とともにもし必要とするならば国際的な平和維持活動のもとで軍事活動に携わるということにちゅうちょしています。もちろんこれは慎重に進めるべきことであります。というのも、特に昔、日本の占領のもとで苦しんだ国々の反応を考えますと。  しかし、私が憲法の改正と言った場合、その意図するところは、あくまでもそれらの国々に対してもより明確化すべきであるということです。明確にすべきことは、以前のような侵略戦争は一切するつもりはないということ。私が提案した文言は当然改善し、よりよいものにできましょう。これが私の提案です。そしてまた、日本の侵略によって苦しんだ国々に対しても安心感が与えられます。ただ、そのような修正を必要とするかどうかは日本の国民が決めるべきことです。  これでお答えになるかどうかわかりませんが、私の最善のお答えをいたしました。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) もう私は余り、しゃべりましたから簡単に返事いたします。どうも済みませんでした、本当に。  私は、人権をカットするということは非常に危ないことだと思うんです。だから、そのために今度憲法を改正するのはまた危ないと思います。だから、こういうことについては、どうしても、法律をつくることはできるので、民法か何かの中にそういうことを決めてもいいんじゃないかと思うんです。  それで、とにかく、日本は自由権規約委員会に入っていますね。そして、それを一九七九年にサインしたみたいなんですね。だから、そこからもそういう言葉が出てきているみたいです。いろんな何ですか、パブリックウエルフェアというものを、いろんな使い方があるから、それがちょっと危険があるから、危ないから、よく考えなければならないから、もちろん私は政治学者じゃないですけれども、こういう場合にはどうしても気をつけて、憲法を改正しなくてもいろんなほかのインタープリテーションして、どうか、法律か何かつくることが多分できると思います。 ○会長(村上正邦君) では、笹野貞子委員に参りましょうか。 ○笹野貞子君 民主党・新緑風会の笹野貞子と申します。  最初に会長にお礼を申し上げたいと思います。  二十世紀最後のときにこのような大変な憲法調査会のイベントをなさるということは、とてもすばらしいことでありますし、今、自民党の皆さんから憲法改正の…… ○会長(村上正邦君) 私にはいいですよ、いつでもお話ができますから。どうぞ、貴重な時間ですから。 ○笹野貞子君 いえ、とてもこれも重大なことです。  憲法の改正がほうふつとあるという意見でしたけれども、少なくとも女性にはそんなほうふつと意見がありません。この憲法がすばらしいという、女性のほとんどが思っているということでございます。 ○会長(村上正邦君) それは私に対しての質問…… ○笹野貞子君 これからが会長に対する私の意見です。  やっぱり人の意見をきちっと聞くということは大変重要なことですから、これから、今後とも、この憲法調査会は急ぐことなくみんなの意見を聞いて、二十一世紀に通じるような憲法をひとつみんなで論議していただきたい。  まず、そのことを申し上げまして、非常に会長の女性に対する温かい御配慮、ありがとうございました。 ○会長(村上正邦君) 精力的というのと急ぐということは違いますから、精力的にやってまいります。 ○笹野貞子君 でも慎重にやってください。  ベアテ・シロタさんにまず御質問をいたします。  まず、質問の前に、先ほど大変重要な部分をもしも会長が急がせて読み落としていたとすれば、どうぞ先にその読み落とした部分を御発言いただいても結構かと思います。  続きまして、先ほどからシロタさんは大変に女性の人権のことで精力的になさったということを聞いておりますが、私が、やっぱり一番シロタさんのすばらしい意見だというところがありました。これは、憲法二十四条にもちろん残っておりますが、それよりもシロタさんは勤労権のことを言っております。シロタさんの草案を見ますと、「女性はどのような職業にもつく権利を持つ。 その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。 同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。」ということを草案の過程で書いておられます。これは私にしたら、婚姻も家庭も重大ですけれども、同一労働同一賃金という勤労権というのをかつて五十年前にきちっと草案にされたということは、本当に私にとっては敬意を表します。  そして、今、日本の同一労働同一賃金を見てみますと、労働省の調べによりますと、昭和二十三年のとき、男一〇〇に対して女性は四一・八%、平成四年は男一〇〇に対して六三・九%ですが、年齢が五十歳になると五三・三%に下がります。 これは男性の半分の賃金、現状でも今そういう状態です。  私はそこでシロタさんに、この条文を書いたとき、女性が働くということに対してどのような理想を持っていられたか、また、今の日本の現状で男性の約半分という女性の賃金に対して、我々女性にもし御助言がありましたら、よろしくお願いいたします。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) これは日本の女性の問題だけではないです。アメリカでも随分時間がかかりました。私たちはもうデモクラシー長くありますので、今でも男性が一ドルをもうけていれば女性は八十セントです。だから、考えればあなたたちは五十年だけこの権利を持っているので、もう六三%になったのはすごいですよ、本当、アメリカと比べれば。二百年に八十セントになって、あなたたちはもう今六三にできる。だから本当にまたここでもおめでたいです。女性が活動的だから、一生懸命やっているからそういうふうになったと思います。  でも、五十五年というのは歴史的立場から見ると全然長くないんです。こういうものはどうしても暇がかかると思います。そして、あのときには日本は保守的な国だったので、今は随分変わったので、しかしここからここまでジャンプするのは難しいです。私は今から多分もっと速く全部が進むと思います。それは、コンピューターとインターネットとそのグローバリゼーションというのがあるから。私は、多分日本の女性が今度からは非常に速く進歩すると思います。 ○会長(村上正邦君) もう一問だけね。 ○笹野貞子君 こういう現象も、シロタさんがそういう物の考え方を今の憲法二十七条の中に残してくれたということが大変に日本の女性には意義深かったというふうに思いますので、この憲法が一〇〇対一〇〇になるように私たちも頑張りますし、それまでにこの憲法改正が逆戻りしないような方向で頑張りたいと思います。  続きまして、憲法の学問的な理解度なんですが、シロタさんが憲法をつくったときに日本の社会は、大学あるいは高等学校を含めまして、このすばらしい憲法をみんな学習いたしました。ところが、昭和三十年ぐらいからこの憲法を徐々に教えなくなりました。特に女子大では憲法は全部選択になりました。そして、男性の大学でも法学部を除いて憲法は選択制に変わっていきました。現状ではほとんど女子大学では憲法を知らない学生がたくさん出てまいりました。こんな女性の権利を保障した憲法を今知らないで日本の国民は改正云々を言っているということは、大変に私は不思議だと思います。  この女性の大学で憲法を全部外し選択にしたという現状、また男性の大学でも憲法を学ぶ機会が非常に少なくなったという、こういう現状に対しまして、シロタさんの御見解を伺いたいと思います。  これは文部省の方針でやっていることですが、私は大変危険なことだというふうに思っております。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) これは私への質問ですね。  またこれはアメリカとちょっと同じなんです。今の若い人たちは、なぜだかわかりませんけれども、投票もしないんです。だから、日本と同じです。何だかもう興味がなくて、ちゃんとやっていないみたいです。だから、今の教育がよくないからそうでしょうか。あるいは、ある政治家について余り安心していないか何か、興味ないか何か、日本とアメリカは同じことだと思います。  だから、私が前に言ったのは、あのときの二十二歳と今の二十二歳は随分違います。あのとき私たちは必ず投票しました。そして、女性運動、いろんな政治的運動もやりました。だから、今のことはどうしても、ちゃんとおたくがみんな出て、講演して、一生懸命みんなに教育を与えて、もっと憲法を読ませて、そういうことをしなければならないと思います。でも、どこでも同じです。 ○会長(村上正邦君) ありがとうございます。  けさNHKに出演なさっておられて、日本の男女の力関係に私は満足していますと、こういう御発言がございましたので、私からつけ加えて申し上げます。 ○笹野貞子君 いや、それはちょっとお世辞があると思います。 ○会長(村上正邦君) では次に、高野博師委員にお願いいたします。 ○高野博師君 公明党・改革クラブの高野でございます。  お二人の貴重な証言に感銘しておりまして、ありがとうございます。  最初に、ゴードン参考人にお伺いいたしますが、ゴードン参考人が、当時二十二歳の若さで、人権に関する小委員会の中で女性の権利を初めとして子供の権利等について極めて重要な役割を果たされたことについて、改めて敬意を表したいと思います。日本に住んだ経験をお持ちで、日本の伝統や文化や日本の女性の社会的地位について深く理解をされておられた女史ならではの、貴重な存在であったと思います。  また、外国人の権利についても小委員会の原案の中に盛り込まれていたということについては驚いております。  女性の権利に関するゴードン女史の主張のかなりの部分は削除されたようでありますが、それでも現行憲法に男女平等が厳然とうたわれている。  そこで、当時の日本人女性と比較して、現在の日本人女性の地位の向上に果たした憲法の役割は極めて大きいと思いますが、その点についてどのような御感想をお持ちか。大体今のお話でも回答は出ているのであります。  もう一つ、二十一世紀の日本の女性に対して何かメッセージがあればぜひお伺いしたいと思います。  それから、プール参考人にお伺いいたします。  これまで日本国憲法が改正が一度も行われなかったということについて、どのような感想をお持ちか、お伺いしたいと思います。  憲法と現実の乖離が指摘されていながら、解釈でこれに対応してきた。しかし、今限界もあるんではないか。そこで、九日間でつくられた憲法が五十年も改正されなかったということは予想していなかったのではないかと思います。ちなみに、当時プール参考人は、ミステリアスな考えをする日本人だから、民主主義を学ばせるために十年間は憲法改正を禁止すべきだというような趣旨の発言をしておられるということも書いてありましたが、どういう感想をお持ちか、お伺いします。  それからもう一つ、これも先ほどのお話でもう回答が出ているんですが、憲法の改正をしてもいいではないか、あるいは九条をあいまいなままにしておいては、これのあいまいさに終止符を打つべきではないか、あるいはもう一つは国際平和維持活動に協力することができるようにすべきではないかというような発言をされておられたと思います。  もう一つ…… ○会長(村上正邦君) もういいんじゃないの、その辺で。 ○高野博師君 もう一つだけ。  マッカーサー元帥が、この九条については自分の考えを貫いたと、こう言われているんですが、世界で初めて戦争放棄を誓わせることによって、軍事指導者のみならず偉大な政治家として後世に評価されることを意識していたと、こうも言われているんですが、その点は、そういうことは当時感じられたかどうか、お伺いいたします。  以上です。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) メッセージですね。  私が言いたいメッセージは、女性が今から男女平等のために毎日毎日闘わなければなりません、それをストップすることはできません、いつでもそのことをしなければならないんです。そのほかにも、もちろん自分の国の政治運動をやらなければなりません。そして、国際的運動にも入らなければならないんです。北京に行ったときに、日本から五千人の女性が行ったということをすごかったと思いました。本当によかったと思います。  そして、全世界は今全然平和がないみたいと思います。どこへ行っても戦争ばっかりなんです。だから、多分、二十一世紀の一番大きい問題は平和の問題です。なぜだかは私知りませんけれども、女性が男性より平和的だと思います。だから、これは女性の任務だと思います。平和のために毎日毎日闘って、頑張ってください。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) たくさんございましたよね、質問。 私あての質問は何だったでしょうか。 ○高野博師君 じゃ、最後の一つだけ。 ○会長(村上正邦君) 一つだけに絞ってやってください。 ○高野博師君 マッカーサー元帥が、当時、憲法九条で戦争放棄をうたうことによって後世偉大な政治家としての評価を受けるだろうということを意識していたと、こういうことも言われているんですが、その点について感じられたかどうか、お伺いします。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) マッカーサー元帥の心の中は全くわかりません、将来について何を思っていたかということは。  ただ、わかっていることは、元帥が日本を去った後おっしゃったことなんですけれども、この憲法は自分が行った業績の中でも占領軍として最も光り輝いていたものだというふうにおっしゃっていました。ただ、政治的な動機が働いていたのか、その辺のところは率直に言って全くわかりません。ただ、ある意味においては、第九条はマッカーサー元帥が堅持し、かつ賛成していたものでありますが、朝鮮動乱が勃発いたしまして、もしかしたらその後考えが変わったかもしれませんね、本当に憲法第九条が現実的であったかということについては。でも、これは私の憶測なんです。彼は心のうちを私には明かしてくれませんでした。  それで、ちょっとそれますけれども、どうも私が申し上げたことが誤解を呼んでいるようです、先ほどの天皇陛下とお会いしたときのこと。これは明仁天皇のことを申し上げていたんです。  新たに天皇になられた直後だったんですけれども、期日としては多分四年か五年前のことだったんです。ちょうどそのときにケネディ・センターでレセプションが開かれまして、天皇皇后両陛下がお見えになりましてゲストと交流なさったんです、会場を回られて。そのオケージョンというのはケネディ・センターで日本の舞台芸術を上演するということで、それで、私ちょっと大胆だったかなと思うんですけれども、天皇陛下に対しまして、実は私、日本の憲法の中の天皇条項の草案にかかわったんですと申し上げたんです。そうしましたら、天皇が面白がられて、それが私の指示だったんですよといったようなことをおっしゃったわけです。つまり、今の昭和憲法には私に対する指示が入っているとおっしゃったわけです。つまり、天皇陛下の役割を規定しているのは憲法だといったような意味でおっしゃったわけです、その指示というのは。いわば自分の役割というのは憲法によって定められているといった面持ちでおっしゃったわけです。かなりリラックスして、御理解なさっておられるということで、天皇みずからこの天皇条項について問題を持っているといったような印象は全くございませんでした。  ですから、それ以前の裕仁天皇訪米のことではないんです。 ○会長(村上正邦君) はい、わかりました。  高野委員の質問は、わかりますか、私が今通訳しますから、彼の言っていることを。──いや、よろしいの、それで。 ○高野博師君 もう結構です。 ○会長(村上正邦君) 結構、はい。  一つ一つぴちっぴちっとお聞きになられた方が非常にいいと思いますので、どうぞ今までのやりとりを聞きながら、参考にしてひとつ質問してください。  では、次に移ります。吉川春子委員。 ○吉川春子君 私は、日本共産党の吉川春子でございます。  お二人の参考人の皆様に心から感謝申し上げます。大変感動的な、そして興味深いお話をお聞きいたしまして、ありがとうございました。  まず、リチャード・プールさんに質問いたします。  日本国憲法の制定はポツダム宣言の受諾によるものですが、その内容は、第一次世界大戦後の歴史の流れ、とりわけルーズベルト大統領の四つの自由、それを受けての大西洋憲章や連合国共同宣言、国連憲章、ポツダム宣言と、このように発展する連合国文書に示される反ファシズム、反軍国主義、民主主義と人権という基調に立ったものであると思います。  そして今、その日本国憲法、とりわけ九条への世界の関心が高まっています。世界を未曾有の戦禍に陥れた第二次世界大戦の火つけ役を果たした日本が、その戦争の反省と戦争のない世界を目指して第九条を持つ憲法を制定したということを私は誇りに思っています。  それで、プールさん、この憲法に直接かかわったということで、どのような感想をお持ちでしょうか。  それからもう一点ですが、最近の日本国内の論議に、GHQの草案はわずか二週間でつくられたものだ、こういう非難があります。アメリカでは、開戦と同時に大規模な戦後日本の研究が始まり、その研究の中には、日本国憲法についての研究もあったことがアメリカの学者、日本の学者の研究で明らかにされています。  そこで、伺いますが、GHQの日本国憲法草案はそういう研究成果も踏まえたものだったのでしょうか。それとも、そういうアメリカの研究成果とは無関係なGHQだけの作業によるものだったのでしょうか、お伺いします。  それから、ベアテ・シロタ・ゴードンさんに続けて伺います。  あなたは、日本国憲法の草案に女性の権利を書くという歴史的な仕事をされた際、子供のときに見た不幸な日本の女性の姿を思い、各国の憲法を読み直し、女性の権利で見落としている事柄はないか、気がつかなかったばかりに後で日本の女性が苦労することがないようにと念を入れてチェックをされました。  また、民間情報局のウィード中尉が、女性参政権の意味を指導するために関西、東北地方を回って、女性参政権はマッカーサーの贈り物ではなく、戦前から女性たちの積み重ねがあってかち取ったものですと強調されたと日本の大新聞に報道されています。GHQの中に日本の女性に心を寄せ激励してくださった女性たちがいたということを非常に私は感動的に受けとめています。  それで、伺いますが、日本にも第一次世界大戦後、女性の参政権獲得運動を含む民主主義の運動がありました。GHQ憲法草案づくりには、このような日本の運動も念頭に置かれたのでしょうか。  また、あなたの著書の中に、GHQ憲法草案の論議について、戦勝国の軍人が支配する敗戦国の法律を自分たちに都合よくつくるなどという傲慢な雰囲気はなかった、理想国家をつくるといった夢に夢中になっていたとありますけれども、これは人権、平和に関して、当時、世界の到達していた最高水準の憲法の規定を日本の憲法に盛り込みたいという意味なのでしょうか。お伺いします。  以上です。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 一つだけでしたか、幾つかの質問があったように思うんですが。  たしか、私が理解した限りでは、最後の質問はこういうものだったと思います。GHQの民政局の草案者たちは国務省の研究について知っていたかどうか、そしてそれが反映されていたかどうかというのが趣旨だったと思います。  国務省の見解は伝えられました。一九四五年の十一月に、先ほど申し上げましたSWNCC二二八号の資料の中で国務省の見解というのは伝えられておりました。このSWNCC二二八号という文書は、国務・陸軍・海軍三省調整委員会、すなわち国務省と陸軍、海軍との調整委員会のつくった文書であります。  当時、極東問題担当部署、今は東アジア問題担当部署と言われているところのヒューボートン博士がその草案に大きくかかわったと言われております。彼の補佐をしたのはマーシャル・グリーンでありまして、グルー大使の個人的なアシスタントでありました。グルー大使はその後駐日大使になった方です。  国務省からそのような見解が二二八号を通じて我々にも伝えられたわけです。ですから、我々が日本側に提示すべき憲法の草案づくり、起草をしたときには、そのような文書はもちろん我々のところにありました。  マッカーサーは、実は余り国務省と相談したがりませんでした、本当のところを言いますと。マッカーサーの政治顧問とは実はマッカーサーは距離を置こうとしたわけです。彼は政治的アドバイスなど要らないと思っていたのです。ということで、いわば密室で憲法の起草というのが行われたわけですが、ワシントンに対してもこれが行われているという情報が伝えられたのは事後になってでありました。ポリティカルアドバイザーのオフィス、これは国務省のもとにありますが、そこも知らなかったんです。  私自身は、もともと外交官でしたからこの件については少し変だなと感じていたんですが、当時は私は軍人ということで、若い将校として参加していたということで、ポリティカルアドバイザーオフィスに注進するということはしませんでした。また、彼らのアドバイスを受けるということも求めませんでした。  SWNCC二二八号の文書は、我々にとってはガイドラインでありました。将来の憲法の草案のためのガイドラインとなったわけです。これは、国務省と陸軍、海軍によって共同でワシントンでつくられた文書でした。  これで御質問のお答えになったでしょうか。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) ウィードさんのことですけれども、ウィードさんは、総司令部の中ではなかったので、ほかの仕事をやっていましたから、私、多分一回か二回だけ会ったと思います。  そして、もちろん私たち、この憲法を書くときにはそれは極秘だったから、だれとも話すことはできませんでした。しかし、ウィードさんがすごくいい仕事をしたということは私の耳に入りました。そして、私あの後十年後ぐらいにウィードさんにニューヨークで会って、いろんなことを聞いて、あの方は本当にすごいいいことを日本の女性のためにいろんなところでやったと思います。教えてあげたと思います。  そのリサーチというのを、GHQの草案を書くときに、日本でどういう女性の運動、そういうことを私はやっていたんですね、一カ月ぐらい。もうその草案を書くときにはもちろん暇がなかったんですよ。ちゃんとほかの国の憲法を見て、それでだれとも話すこともできなかったから。私は知っていたんですよ、日本に女性がもう前からいろんな運動をしていた、そういうことを知っていましたけれども、そう詳しくは知らなかったんです。それは後で、私が市川房枝先生の通訳だったときに、それは一九五二年だった、そのときにいろんなそういうことを教えてくれました、先生は。  人権について、私たち、それを書いたときに、もちろん理想的な憲法をつくりたいと思いまして、一番いいものを、人権、何でも入れたかったと思うんです。そして、私は、平和についてのクローズと全然何も関係がなかったんです、私はそれを書かなかったので。  しかし、もちろんそれがあったということは、私たちは、そのときにすごくいいと思ったのは、一つは、ほかのアジアの国も随分苦労したので、軍国主義がもう全然日本になければ、今度安全に生活することができると思って、そして全世界のためにも、こういう平和的な憲法があれば、それがモデルになって、ほかの人たちも、ほかの国もそれをまねすればいいと思って、それはもちろん私たちの頭には入っていました。 ○吉川春子君 ありがとうございました。 ○会長(村上正邦君) ありがとうございました。  続きまして、大脇雅子幹事。 ○大脇雅子君 社会民主党の大脇雅子と申します。  遠路はるばるお出かけくださいまして、貴重な証言を興味深く拝聴いたしました。 どうもありがとうございました。  まず、プールさんに伺いたいと思います。  マッカーサー草案が策定されました当時、日本のジャーナリストや研究者で構成する憲法研究会の手によって、主権在民説をとる憲法草案要綱など私擬憲法が作成され、発表されてもいました。先ほど、マッカーサー草案は、数多くの日本の学者や研究機関の見解を反映させたものであるとの御発言がありましたが、それはどういう人たちにヒアリングされ、あるいはどの資料を参考にされたのか、具体的に覚えていらっしゃるでしょうか。 ○会長(村上正邦君) じゃ、一つ一ついきましょう。どうぞ。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 団体の名前を言うことはできるんですけれども、それはちょっと探さないと。  それはケーディス大佐のスタディーの中に出てくるのですが、私の担当のセクションのところでも幾つかそういったドラフトを参照しております。特に運営委員会自身が、憲法についての作業を行う前に民政局の法務班を担当していたラウエルさんが主として検討していました。  あなたがお聞きになっている憲法研究会というお名前ですね、憲法研究会というところだったと思いますよ。ラウエル中佐はそれについての研究を以前していたんです。これは一月の十一日に、このドラフトにはいいところがいろいろあるというふうに彼は思ったわけです。それが一つですね。これはケーディス大佐が後でリストとして出しましたものの中に入っております。  全部これを読んでほしいですか、どういう草案を見たかというリストを。 ○大脇雅子君 読んでください。 ○会長(村上正邦君) いやいや、時間がありませんから。 ○大脇雅子君 でも。──それじゃ後で。 ○会長(村上正邦君) 時間がありません。それはだめです。 ○大脇雅子君 しかし、それは非常に歴史的な証言ですから。 ○会長(村上正邦君) いや、だめです。時間が、もう皆さんの、まだ質問者ありますから。あれを全文読むなんて大変なことですよ。後で資料をいただきましょう。 ○大脇雅子君 じゃ、ぜひ後で資料をください。 ○会長(村上正邦君) そうしてください。後で資料を。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) コピーをすればできると思いますよ。この部分をコピーすればいいと思います。ケーディス大佐がつくったリストです。  あとほかにもあります。ほかに学識経験者がやったものというのもあります。これも影響力のあるものでありました。全体のプロセスに影響力があったと思います。 残念なのは、時間がなかったためにこういったすべての資料などを精査に検討することができなかった。時間がなかったんです。  それからまた、すべての世界の憲法を網羅するということもできなかった。シロタさんもいろいろと集めてくれたというのは本当に役に立ったんですけれども、その中の幾つかを見ることはできました、アメリカの憲法も含めてですけれども。しかしながら、全部を検討するということはできなかった。残念だったと思っております。  とにかく、いろんなソースがあったことは事実です。憲法の草案者たちが書いた源になるようなものはいろいろありました。いろいろな影響力をいろいろなところからとったというところはありました。あの草案内容というのは突然どこからか一週間かけて完全な形で生まれてきたというものではありません。いろいろなものがあって、そこから生まれてきたというものであります。源はたくさんありました。 ○大脇雅子君 どうもありがとうございます。  もう一つプールさんに御質問したいのは、そのマッカーサー・ノートが、「エンペラー・イズ・アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート」という文言から始まっていますが、これはどういうふうに内容として認識されたんですか。私がとても興味があるのは、シンボルという言葉はいつ、だれが発案したものなんでしょうか。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) まず第一に、マッカーサー元帥というのは憲法学者ではありませんでした。マッカーサー氏は元首とそれから首脳の区別というのははっきりと認識していなかったと思います。その「アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート」ということを書いたときには何を意味していたかはそんなに明確ではなかったと思います。そこで、こちらが彼はこういうことを意味しているのだろうと決めたわけです。それは立憲君主のことを言っているんだろうというふうに思ったわけであります。図を書けば、一番上にいるのが象徴的な地位になって、それから内閣があって、それから国会があって、そして国民がいるというふうになるんだろうと。これは何も重要度で順位がつけられるというわけでは必ずしもありませんけれども。  そこで我々は、ケーディス大佐の同意も得まして、そこでシンボルという言葉を使うことにしたのです。我々がこの言葉を発明したわけではありません。前に使われているところもあります。しかしながら、私の知る限り、まさにこの憲法草案の一部として使われたのはそのときが初めてだったと思います。でも、ほかの言葉を考えてもよかったわけですけれども、我々がその当時考えていたものをあらわす一番いい言葉がそれだったのです。象徴という言葉を使ったわけです。そして、それが我々が考えていたことの意味を一番よく伝える言葉だと思ったからなんです。そしてこの条項というのがみんなに受け入れていただけるというものになりました。 ○会長(村上正邦君) ありがとうございます。  もう一問ね。 ○大脇雅子君 もう一問、ベアテ・シロタ・ゴードンさんにお伺いします。  憲法二十四条の個人の尊厳と男女の本質的な平等というのは、もう私たちの魂の奥深く、勇気を与える言葉でありました。  一九七七年にスーザン・J・ファーさんという方にお述べになりましたときに、スーザン・J・ファーさんという学者の方が、ともかくどの分野で改革を必要とするか選定する権限というのは上部から人権委員会に課せられたものではなくて、委員会に任された、下から始められたものだというふうに述べておられるのですが、それは事実でしょうかということ。  それから、憲法二十四条の精神をめぐって、占領軍当局の軍人と文官の意見対立、それから日本政府の反対というのがあった。そして、女性運動はそれをどう受けとめていたのか。その当時のことについてもう少し詳しく話していただけるでしょうか。具体的に、どういう反対があってどういう対立があって、この憲法二十四条…… ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 運営委員会の中でですか。日本の代表者じゃなくて、ケーディスとラウエルさんと、その人たちですか。 ○大脇雅子君 そうです。それから日本政府も。先ほど日本文化に関すると言っていたんですけれども、ぜひ教えてください。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) それはちょっと長くなるかもしれませんけれども、どうぞ制限してください。  アメリカのケーディスとラウエルとハッシーは、本当にアメリカ憲法から来た人なんです。あの人たちは弁護士だったからすごくアメリカの憲法をよく知っていたんですよね。そこには女性については別に何も書いてありませんね。だから、アメリカの憲法にも社会福祉のこと、女性のためにも書いていなかったから、そこから来た人だったから、これは今度民法にどうしても入らなければならないけれども憲法には合わないという、そういう考え方だったんです。だから私がヨーロッパの憲法はそうじゃないと言っても、それはあの人たちにそんなに印象を与えなかったみたいです。  しかし、ケーディスさんが亡くなる前に、それは二年前だったんです、私に、もちろんあなたが言ったことは私たちよく聞いて、そしてそれを全部縮めることはすぐ決めなかったんですって。ホイットニー准将とそのことを話して、ホイットニー准将と相談して、そしてその後はそれを全部カットしちゃったんです。でも、すぐ決めることではなかったんです。だから、何かそのことはあの人たちの心に入ったみたいです。  しかし、今度運営委員会と日本政府との最後の会議には、日本側が、これはこういう権利は日本に合わない、文化に合わない、全部そういうことを言いました。しかし、大騒ぎであったんですけれども、余り議論にはならなかったのは、そのときには今度ケーディスさんがそれを制限したんです。だから、余りいろんな、ほかに私が今言った上には日本の代表者は何にも言いませんでした。それだけだったんです。 ○大脇雅子君 女性運動の方の受けとめ方は何かその当時御存じでしたか。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) あのときの日本の女性運動ですか。 ○大脇雅子君 例えば選挙がございましたね、その後。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) もちろんそれは私、自分の目でよく見ましたよ。私、最初の選挙に行って、そしてすごくびっくりしちゃった。だって、おばあさん、若い人、みんな出てきて投票したんです。だから、今もそういう人たちがみんな出てきて投票すればいいじゃないと思うんですよ。あのときはすごかったです。だから、あのときの二十二歳とあのときの五十歳も、今の二十二歳と五十歳よりよかったんじゃないですか。ごめんください。 ○会長(村上正邦君) 続きまして、平野貞夫委員。 ○平野貞夫君 参議院クラブの平野でございます。  きょうはまるでGHQの中で憲法草案をつくっているような、非常に緊張感をかいま見るような会議でございまして、大変私も勉強になっております。  プール参考人に、憲法改正規定の、GHQで御苦労なさった話を二点お聞きしたいと思います。  ラウエルさんの文献によりますと、憲法改正の規定について、当初、憲法制定後十年間改正を禁止する、そして十年後日本の国会は憲法改正を審議すればいいという構想があったというふうに聞いておりますが、この考え方は、日本の民主化を定着させるため十年間はGHQの指導による憲法で日本の政治を行い、十年後は日本人自身の判断で憲法改正を行えばよい、こういう発想だったでしょうか。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 実は、修正条項についてはいろんな形で論議が当時されておりました。いろんな案が出ていたんです。ですから、今おっしゃったラウエルさんの文書ということはよくわからないんですけれども、日本に対して提出されたものはそういうものではなかったということで、我々内部で討議していたことはあるんです。改正の条件ということで、今おっしゃったような案も含めて討議はされておりましたけれども、アイデアとして日本政府に当時提出したものではないです。あくまでも内部討議の材料として討議されただけです。  人によっては、改正をしにくくした方がいいと言った人もいました。そして、迅速に改正されない方がいいんだという意見もありました。日本が主権国家に復帰してすぐに憲法を捨ててしまうのはよろしくないんじゃないかと思った人たちもいました。  その意見を反映したのが今おっしゃった文書ということだと思いますが、これはあくまでも非公式のメモといったような形ぐらいでなかったんじゃないでしょうか。日本の政府が憲法を例えば十年に一度見直す義務を負うというアイデアも出ました、一方では。でも、これはあくまでも出てきたいろんな考えということで、別にその意見をまとめて日本政府に提出したということではないんです。  今の形で憲法の改正規定というのが入っているわけですから、改正はいつでも可ということになっていると思います。日本の政府と国会と日本の国民が合意すれば、いつでも改正可能というふうに今規定はなっていると思います。  ただ、アメリカの憲法でさえ改正するのは非常に大変なことなので、皆様方は十分この日本政府に提出した憲法改正規定案の内容はどういうものであったのかを御存じだというふうに思います。 ○会長(村上正邦君) もう一度どうぞ。 ○平野貞夫君 二問目も重複しましたので、結構でございます。 ○会長(村上正邦君) 佐藤道夫委員。 ○佐藤道夫君 佐藤でございます。先ほどゴードン参考人の話に登場いたしました、戦前からの日本では最も著名な婦人運動家である市川房枝さんの始められた二院クラブに属している佐藤でございます。どうか御記憶くださいませ。  そこで、プール参考人にお尋ねいたします。  憲法学説上、憲法改正には限界があると。要するに、やみくもに何でもかんでも改正はできない、憲法の基本理念を改正することはこれはできない、新しい憲法をつくる、一種のクーデター、革命であるというような考え方があります。  今の日本の憲法の原則というのは三つありまして、一つは国民主権、主権が国民に属する。もう一つは国民の人権を最大限に尊重する。それから三番目が平和主義であります。国民主権ですから、これをやめて天皇にもう一回主権を戻そうということは今の憲法の枠内ではできないという考えです。それから、国民の人権を大幅に制限することも許されない。最後の一番問題は平和主義でありまして、第九条は戦争放棄ということで、その目的のために軍隊を持つことを禁止している、こう考えてもいいと思います。  これが実は憲法の基本原則で、この憲法の枠内で軍隊を持つことが許されるのか許されないのか。伝統的な憲法学の考えからいうと、これはできない、もう今の憲法を廃棄して新しい憲法をつくるしかないんだ、一種のクーデターだ、こういう考えがむしろ普通だと私は思っておりますけれども、こういう考えが憲法制定の際に議論されたかどうか。それから、議論されなかったとしても、今どのようにお考えなのか、その辺をお聞かせ願えればと思います。  それからもう一つ、ゴードン参考人に対するこれは要望でありますけれども、今青年劇場というところで「真珠の首飾り」という、これまた著名な劇作家のジェームス三木が作並びに演出している演劇が行われているそうでありまして、これは一週間で今の憲法の草案を大急ぎでつくった、その苦労を取り上げている。こういうことで、何か昨日ゴードン参考人も行かれたということが報道されておりますので、どうか、一見に値する演劇なのかどうか。結論だけで結構でありますから、ここに何百人という人がおりますから、皆さんこの問題には関心を持っておりますから、大変見るに値する演劇だということならば私も率先して参ろうかと思っておるわけでありまして、その点の感想を簡単にお願いできればと思います。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) どのような改正が検討されるかという点については制限はないと思います。ただ、賢明ではない提案が受け入れられることはないようにと思っております、日本の国民あるいは日本の国会によっても。それが制約と言えるのかもしれませんが。  しかし、もともとの草案では、第三章の市民の権利については改正がなされないということが言明されておりました。すなわち、国民投票にかけて日本の国民に諮られることなしにはと。しかしながら、これはマッカーサーによって、そういう制限も設けてはならないということになったわけです。当然日本政府が市民の権利の規定について変更を試みないであろう、そして天皇の役割の規定についても、あるいは憲法の理念そのものを変えるということはないだろうということでした。  しかし、技術的にはもちろん改正はできるわけです。ですから、明治憲法に戻りたいならばそれもできる、それも可能なんです。ただ、それは賢明ではないと思いますし、日本の国民もそれを受け入れないだろうと思いますが、法律的にはそういう制限は一切ないわけです。ですから、何を改正してもいいわけです。  しかし、先ほど申し上げましたように、やはり全部の見直しということになりますと、パンドラの箱があけられてしまうということになりますので、それは賢明ではないだろう。ただし、検討されるべきことは個別に取り上げて検討されるべきであろうと思います。ですから、憲法全体を見直すということは避けられるべきでありましょう。もし憲法全体の見直しということになりますと、パンドラの箱があいてしまうということになりますので。そうしますと、憲法は今とは全然変わってしまうということにもなってしまうでしょう。  もともとの疑問であります、本当にこれは日本の憲法なのかということですが、日本の国民もそれを受け入れたわけです。日本の内閣によっても受け入れられました。日本の内閣と交渉をし、そして受け入れられました。日本の国会も上程されたものを受け入れたわけです。そして、この受け入れるということを通して日本の憲法となったわけです。  ですから、何もこれまで変わらなかったという事実によっても確認されたのではないでしょうか。本当の意味で日本の憲法になったと言えると思います。  占領時代につくられた憲法だというそのものの起源という問題から受け入れるのが難しいという疑問もあるかもしれませんが、その問題は憲法の文言や憲法が何をするのかに比べ、はるかに重要性の低いものです。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は素人と言いましたね。しかし、文化交流を四十年の間いたしましたので、芝居については私は本当に専門家です。だから、「真珠の首飾り」は本当に推薦できます、本当にすごいいい芝居ですので。そして、女優二人私の役割をやっているんです。一人は若いベアテ、一人は年とったベアテ、その二人が出ますから、どうぞ見てください。 ○会長(村上正邦君) 佐藤先生、どうぞお行きになられてください。  一応各会派一巡いたしました。御協力ありがとうございます。  なお、あと三十分か四十分の時間ございますので、時間があれば審議に加わりたいという申し出をいただいております小山孝雄幹事、円より子委員にそれぞれお願いをし、なおあと二名ほど、時間がございますから、発言がございますれば事務局の方へ。  はい、わかりました。今注文とりに行かせますから。  では、小山孝雄幹事。 ○小山孝雄君 両参考人にお尋ねをいたします。  先ほどSWNCC指令のお話が出ておりましたが、いわゆる降伏後における米国の初期の対日基本政策、その中に冒頭に、日本国が再び米国の脅威となり、また世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすることというのが占領政策の基本政策の重要な柱として第一番目に掲げられております。憲法草案をつくる上において、そのことは知っておられましたか。  私は、憲法の制定作業もその線に沿ってつくられた憲法だと、このように認識をしておりますし、多くの国民の中にも、現憲法を日本弱体化憲法、占領憲法、あるいは諸悪の因、現憲法という言葉すら語られているわけでございますが、当時そのことを認識しておられたかどうか。  そのための憲法作業だということは知らないまでも、そういうSWNCC指令の中身にそういうことが書かれていたということを承知していたか否か。これを両参考人にお尋ねします。  なお、先ほどゴードン女史からお話がありましたが、一番最初に民政局に呼ばれて憲法草案の作業を命ぜられたときがこのことだと思いますが、一九四六年二月四日、ラウエル中佐、たしか司法担当の委員長だったでしょうか、GHQ草案を日本がのまない場合、力を用いて、脅すだけでなく力を行使してもよいという権能をマッカーサー将軍から与えられていたということを記録に残しておりますが、そのことは承知していたか否か。  そしてまた、そのことを、皆さんがつくったんだということを検閲するマスコミの検閲が厳しく行われていたということ、それは承知していたか否かをお尋ねします。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 最初に、SWNCCメモの内容を知っていたかということですか。  もちろん起草したときにはそのメモは我々の目の前に置いてあったのです。それぞれの起草グループはそれぞれそのメモをちゃんと前にして作業をやっていたということですから、内容のことはしっかりと知っていました。  最後の点ですけれども、ホイットニー准将が言ったと伝えられているところによると、もしこの草案が日本側によって拒否されたのであれば、マッカーサーは国民、人民に直接働きかけて支持を得ようとするというふうに言ったということであります。率直に言ってどこまで本気だったかはわかりませんが。ただ、そこまで行かないことを望むということで、日本政府のレベルで十分討議をするということで受け入れてもらえるということを期待していたということです。すぐに受け入れてもらえるとは期待しておらず、草案として、たたき台として受けとめてもらえればというふうに思っていました。  内閣の方では、松本氏も発言して、GHQ草案はもう最初から拒否すべきだというふうに言っていた人もいます。それは賢明ではないと思っていた閣僚もいたわけで、内閣も意見が分かれていたということです。  でも、天皇陛下自身はこれを受け入れることを支持されたのです。もちろん文字どおり一言一句そのまま受け入れるということではなく、少なくとも交渉のためのたたき台として討議はできるんじゃないか、そういった形で受け入れてもいいではないかというふうに思われていたということです。  これでお答えになったでしょうか。  率直に申し上げて、もし憲法案が拒否されたら、直接日本の国民に呼びかけて受け入れてもらうようにしようといったようなことは、単に会話の中で出てきたものかもしれません。そこのところは私にはわかりませんが、ワシントンから来た指示ですとか、マッカーサー元帥がおっしゃったことから考えますと、日本の国民の意思に反して憲法を押しつけても、その憲法は国民に受け入れられるものとしていずれ育たなくなると思っていたし、それは占領軍のやりたいことに反することでもありました。  ですから、実際に交渉されたものとしては最終的にはほとんど原案と変わらなかったじゃないかというふうにおっしゃるかもしれませんけれども、いろんな修正も加えられ、日本政府が最終的にはそれを日本の草案とすることを受け入れて、国会に提出されたということは確かです。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 済みませんけれども、ちょっと私への質問を。私は全部プールさんの質問になったと思って。ちょっともう一度私へのことを。 ○小山孝雄君 簡単に言いますと、憲法草案の作業中に、これはラウエルさんが文書に残して、ラウエル文書ということで残っておりますけれども、たしかゴードン女史は何かにそのことを語ったことを記憶しておりますが、日本側が皆さんの草案をのまなければ力を用いてもいいよということをマッカーサー将軍から与えられていたということをホイットニー将軍が語っていたということをラウエル中佐が文書に残していますね。  それからもう一点が、GHQが日本国憲法の草案をつくったんだということを、新聞の検閲を、マスコミの検閲を厳しくやっていたということについて御存じでありましたか。私は、言論の自由を盛り込んだ現憲法制定の過程でそのような検閲が行われたということについてどう考えていらっしゃるかなということを聞きたかったんです。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そのことについては私は本当に何も知らないんです。  ラウエルさんがこのことについて何かそういうマッカーサーの気持ちを伝えたということは私はどこかで読みましたけれども、私はそのことを本当に何も知らないんです。だから何も言えません。それは本当かうそかはちょっとわかりません。 ○小山孝雄君 先ほどの証言の中で、日本国民の人は自分たちがこういう作業をやっているということを知らない、また知られまいとしたという努力を、そしてあちこちの図書館を回ったと、一カ所の図書館ではなくてあちこちの図書館を回ったという証言がありましたね。それからいくと、知らせまいとしたと理解したんですが、それは違いますか。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そのこともちょっと本当に何も言えません、ちょっとわからないんです、ここは。  私たちはみんな本当に別々でやっていたんですよね。だから、私は人権のことだけやって、そしてその人権つくる人の間にもミスター・ロウストとワイルズがいましたので、その三人でも、ほかの人が何を書いた、何を考えたか、それを一緒に話しする暇もなかったんですよ。だって七日で、朝から晩まで自分の書くテーマのことについて随分それぞれに注意をしなければならなかったから、そういうディスカッションみたいなものは余りなかったから、ほかの人たちがどういうことを書いたか本当に知らなかったんです、あのときに。 ○会長(村上正邦君) ありがとうございました。  では、円より子委員。 ○円より子君 民主党・新緑風会の円より子です。  私は、憲法調査会の正式メンバーではないのですが、きょう、憲法起草にかかわられたお二人をお迎えするに当たってお話をぜひとも聞きたいとの思いのもと、委員として加わらせていただきました。その上、こうして発言の機会をいただけた幸運を大変感謝しております。  まず、ベアテ・シロタ・ゴードンさんにお伺いしたいのですが、占領下という状況、そして時間的に大変制約された中で、戦勝国の人間が敗戦国の憲法をつくるという状況、大変だったと思います。  その中で、ベアテ・シロタ・ゴードンさんら三人の方々、人権条項の起草に携わった方々や、またそれ以外の方々も、この憲法を、単に日本の国民のために民主政治を樹立するだけでは不十分で、それまでに人類が達成した社会及び道徳への進歩を永遠に保障するという理想を掲げようと大変情熱的に取り組まれたことを、さまざまな書物やまたお二人のお話から知り、私たちはとても感謝しております。  今、この憲法を押しつけられた憲法だと言う人がいるんですが、日本人の、それも権力を持つ一握りの男の人たちがつくった帝国憲法に縛られて生きがたい人生を生きてきた女たちから見れば、そのとき松本私案、松本烝冶さんがつくられた、甲案、乙案があったと聞いておりますが、この憲法が押しつけられなくてどんなに幸せだったかと思っております。  さて、この松本私案ですが、これについては毎日新聞がスクープしたと聞いておりますけれども、ベアテ・シロタ・ゴードンさんはこれをお読みになったのか。また、もしお読みになったとしたら、この中には人権条項も女性という言葉もございませんが、それについてどう思われたでしょうか。  まず、それについて伺います。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) がっかりしました。随分がっかりしました。 ○円より子君 それでは、この人権条項をつくるに当たりまして、「オール・ナチュラル・パーソンズ」、つまり、「すべての自然人は」という言葉が、最初あなた方がつくられた草案の十三条でしたかに入っていたと思うんですけれども、この言葉は皆さんがどのような思いで入れられたんでしょうか。  もし、こうした人権の本質は民族や国によって束縛されるものではないとの思いから入れられたとしたら、そのまま残っていれば、在日外国人に指紋押捺を強制したりというような、そういったことがなかったのではないか。さまざまな外国の方々と日本人との関係性がもっとよくなったのではないか。そういったこともいろいろ考えるのですが、この「すべての自然人は」ということをお入れになった思いを教えていただけませんでしょうか。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そのことも私全然知らないんです。それはドクター・ワイルズさんが書いたんです。あの方はとてもおしゃれな方だったので、とても難しい言葉が好きだったんです。だからそれを書いて、だれも本当にわからないんです、その自然人という意味というのは何だかわかりません。  私、ケーディスさんとそのこともお話ししましたけれども、ケーディスさんもちょっとわからないと言いましたよ。そして、もうドクター・ワイルズが亡くなっていたから、もうあの方と話しすることができなかったから、何も言えません。 ○円より子君 そうですか。  ワイルズさんは、インドでのカーストの制度を十分見てきて、人の間に差別を入れるとかそういうことをとにかくなくして、国と国、そういったものをなくした上での人権の本質、民族や国によって束縛されるものではないという思いを入れられたというふうに聞いていたんですが、そのことについては、その当時はじゃお聞きにはならなかったわけですね。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そうです。済みません。 ○円より子君 はい、わかりました。  では、もう一つお聞きしたいと思いますけれども、先ほども他の委員からもお話がありましたが、例えば、働く権利ですとか同等賃金等のことについても、すべてのこと、既婚未婚を問わずといった文言も最初のベアテさんが書かれた草案には入っておりました。そうした草案が、ただ単に細か過ぎて憲法にはそぐわないという理由でカットされたのか、それとも起草した人たちの中に、アメリカ憲法よりも私たちはいい憲法をもらえたと思っておりますけれども、男性優位の壁が結局大き過ぎたのか、そのあたりのことについてお伺いしたいと思います。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) ケーディス大佐は、私が書いたいろんな社会福祉とかそういう点については本当に反対していなかったんです。それはケーディスさんが亡くなる前に私に言いました。でも、憲法には入れたくなかったんです。それは憲法には合わないです、民法には合うと、そういう考え方です。私はそれは本当だと思います。 ○円より子君 ただ、ベアテさんは先ほど、もし憲法に書いていなければ、民法をつくるのは男の人たちだからそれが入らないおそれがあるとおっしゃいました。今でも…… ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) それは言いましたけれども、それはそうじゃないと思ったかもしれない。  ケーディスさんは日本の官僚的な人と経験がなかったんです。戦争の前に日本にいなかったでしょう。私はそういう経験がたくさんあったんです。それは、私は私のお父さんとお母さんの通訳だったんです。時々パパとママがどうしても警察かどこかに行かなければならなかったんです。そのときに官僚的な男性に随分いじめられるということがあったんですよ。だからそれも私の頭に入っていたんです。でも、ケーディス大佐は多分そういうことはわからなかったので。  そしてもう一つは、ケーディスがそのときに私に言って、四年前にも言ったのは、それはケーディスは、そのときには、占領軍がまだ日本にいるときに民法にちゃんと書かれると思ったんです。だからそのときに、まだいるからそれをぜひ民法に入れることを、進歩することだったんです。しかし、そうにはならなかったんです。だから最後に私が言うとおりになったんです。 ○円より子君 残念です。今でも民法改正など、夫婦別姓などしますと日本の文化にそぐわないと言われておりまして、私たち頑張らなきゃいけないと思っておりますけれども。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) それはよく知っております。残念です。 ○円より子君 あと一つ大丈夫でしょうか。 ○会長(村上正邦君) いや、もう時間が参りましたので、そこら辺で御遠慮願いたいと思います。 ○円より子君 そうですか。わかりました。  本当にありがとうございました。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) こちらこそありがとうございました。 ○会長(村上正邦君) 扇千景委員。 ○扇千景君 調査会長にこうして機会を与えていただいて、これはこの参議院に憲法調査会が設置された当初から私の希望を申し上げておりましたので、きょうは心から御礼を申し上げたいと思います。  るる御意見を伺っておりまして、私は一つずつ順番に行きたいと思いますので、まずゴードン女史にお伺いしたいと思います。  私は、女性の権利をこれだけ高めていただいたことには感謝申し上げますけれども、現実に日本の今の我々の生活、日本が今日あるということに関しては、この憲法の中から、これは日本国でなければならないという、女性というものが、女性の創造が見えてこないんですね。それは、日本の伝統文化というものが、今の日本の中でいかに伝統文化が重んじられていないかという点、そして義務と権利の民主主義のあり方等々も私は女性としては大変問題点もやっぱり今現実には起こっているであろうと。  ですから、権利は与えられたけれども、それに対する本来の、ゴードンさんが先ほどおっしゃった、女性の虐げられたという言葉をお使いになりましたけれども、虐げられただけではなくて、日本の女性のいいところがこの五十五年の中で失われてきたということも私どもは大いに勉強しなければならない、また私たち自身も反省しなければならないことだと思います。  一つ、ゴードンさんが今まで自分が憲法を草案したということを公表なさらなかった、あるいはしばらく沈黙を守ってきたという中に、当時、皆さん方が作成していただいたこの憲法に関して、アメリカのニューヨーク・タイムズも述べておりますけれども、それは「新草案が陸・海・空軍を全面的に廃止し、日本は今後その安全と生存を世界の平和愛好国の信義に依存すべしと宣言するにいたっては、余りにユートピア的であって、むしろ現実的な日本人として草案を軽んずるにいたらしめるであろう。」というふうにニューヨーク・タイムズは評しています。  また、その当時、同じくニューヨークのサイエンス・モニターというところにも、「草案自体はなんら難点はないが、これをもって日本の憲法である、これにより日本は民主的な平和愛好国となるという主張は問題にならない。これは日本の憲法ではない──日本に対するアメリカの憲法である。」と断言をしたんですね。  ですから、私は、ゴードン女史が今まで自分が草案したんであるということを黙っていたという中には、当時のアメリカの新聞にこういうふうに評論されたことも原因の一つではないか。また、日本の女性が虐げられたというだけで日本女性のよさというものもむしろなくされて、ユートピアをむしろこの憲法に求められたというふうに評されたことに対して、どういう御感想をお持ちでしょうか。まず、ゴードン女史、一問伺います。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、それがニューヨーク・タイムズに書いてあったということを知らなかったんですよ、全然。初めて聞いているんです。  しかし、おたくが言った、いろんないいものが、伝統的なものが日本にあるので、それを失うということは、私ももちろんいつでも残念だと思います。私は、文化について特別に、いいものを守らなければならないと思うんです。  しかし、女性の権利については、女性は全然権利がなかったでしょう。だから、どうしても初めから、でも女性だけじゃないですよ、権利がなかったのは。男性も権利がなかったんです。だから、それはそのときはそうだったんです。  だから、でも女性の方が圧迫されていましたから、どうしても圧迫されている人に援助しなければならないという気持ちで私は草案を書いたんです。そして、私は自分で、女性ですから、もちろん女性のことをもっと考えました。今のところはまたちょっと変わったかもしれません、今は男性もサポートしなければならないと思うんです、私は。だから、それも女性に今度は頼みます、今の男性にどうぞサポートしてください。  でも、本当にそれは平等じゃないとだめなんです。どうしても、どっちかでも、自分の力がないと楽しく歩くことができないんです。だって、男性と女性が結婚して一緒にいるので、そして男性が発展して女性が発展しなければどうにもならないと思うんです。また、同じことで、女性だけ進歩して男性がそうしなければ、また本当に自分の家族の中でも幸せになれないと思います。  そして、私は、どうしても将来について考えると、平和は一番。家庭の中で動くのもすごく重要なもので、家庭は社会の一部であるから、その社会で動くのはすごく重要なことですから、だからそういうものに全部、女性と男性が一緒にサポートして歩かなければならないと思うんですから。そういう気持ちです。 ○扇千景君 いや、それではなくて、私が申し上げているのは、平和憲法を持っているから平和であるということではならないと。諸国に対しても、世界じゅうに対しても我が国は平和憲法を、先ほどゴードンさんが理想だとおっしゃいましたけれども、平和憲法を持っているから平和になるということではない。平和ということに対してはやっぱりある程度の責任を世界に対してもしなきゃいけないということを申し上げたかったんです。  それから、一九九七年に皆さん方においでいただいて、憲政記念館で皆さんの御意見も聞きました。きょうは残念ながらエスマン氏がいらっしゃいませんけれども、私はエスマン氏がおっしゃった中でどうしても聞きたかったことが一つあったので、プール氏に改めて伺いたいと思います。  この憲法草案をつくっていただくときに、アメリカは絶対一院制ということを主張なさった。けれども、私どもは、今これ参議院という二院制で、参議院で今おいでいただいたわけですけれども、あくまで日本は二院制を主張し、アメリカは一院制だということをおっしゃって、エスマン氏が前回、一九九七年のときにはどうしても二院制というものを受け入れたくなかったということをおっしゃったんですけれども、その当時の一院制と二院制の論議を、プール氏が覚えていらっしゃる程度で結構ですけれども、何か御開陳いただければ参議院としてはありがたいと思います。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) この問題は、実はマッカーサー自身が一院制ということを主張していたんです。たしかそうだったと思います。彼が考えていたのはこうだったと思うんですが、貴族院というのは余りにも民主主義的でなかった、だからほかの形でも再現したくなかったということです。ですから一院制を主張したのではないかと思います。ということで、一院制をもとに草案をつくったわけです。すべての修正とかいうことが本当にとらえられたかどうかわかりませんが、国会については一院制ということでもともと考えておりました。  ところが、それを変える必要が出てきました。その当時の理解では、これは交渉に付されるべき点であると。日本政府は二院制をより好んでいるのかどうか。上院という名前にするのか、上院という名前の方が皆さん気に入るかもしれませんが、今参議院という名前にもなっているわけですが。民主主義的な選挙によって選ばれた議員から構成される参議院と。しかし、これは交渉の対象になる点として譲歩されたのです。マッカーサーもこの点は理解し、交渉における日本側の得点ということになりました。 ○会長(村上正邦君) どうもありがとうございました。  時間も迫ってまいりましたが、大体十五分ほどおくれておりますので、その時間を、せっかくのこういう機会ですから一人でも多くの方の御質疑をと、こう思って、今希望者からの届け出がございましたが、会長の整理権においてお許しをいただきたいと思います。  最大限あとお三方にお願いをしたい。特に女性の先生方が参考人に対していろいろお聞きしたい、こういうことですから、福島瑞穂議員。そして魚住幹事、最後、当調査会の吉田会長代理に締めくくって、質問を終わりたい。共産党さんも、おれのところもじゃもう一人いいじゃないかと、こういう今申し入れを受けましたが、ここはひとつ泣いて、会長からお願いを申し上げます。  では、福島委員から。ただし一問です。 ○福島瑞穂君 今日も日本の家父長制と闘っている日本の女性たちに大変勇気を与え、武器となる憲法をプレゼントしてくださって本当にありがとうございます。ベアテさんに一つ質問をいたします。  憲法が改正され、九条が改正され、日本が軍を持つということになれば、アジアに対してどういったことを意味するのでしょうか。憲法九条の意義について最後に御質問したいと思います。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 九条について、あなたが今聞いているのは、ほかのアジアの国に対してどうということですね。 ○福島瑞穂君 はい。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、ほかの国々は、アジアではまだずっと戦争のときの日本の軍国主義を忘れていないと思います。今この平和憲法があるから安心していると思います。しかし、それを今度改正すれば、そこから何が出るかと疑うと思います。 ○会長(村上正邦君) 魚住幹事。 ○魚住裕一郎君 公明党・改革クラブの魚住裕一郎です。  プール参考人にお聞きしたいんですけれども、先ほどプール参考人は、明治憲法に返ることも可能だというような御意見を陳述されました。ただ、日本国憲法ではかなりいわゆる硬性憲法、改正が難しいという、そういう憲法につくっておりますし、また憲法の前文にも、いろんな国民主権主義等を書いた上で、「この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅」という表現になっておるんですね。  これは憲法の前文ですが、GHQの中で議論をされている段階あるいは日本政府と議論をしている段階では、この点について、改正の限界ということについて議論はなされていたのでしょうか。マッカーサーはないというふうにおっしゃいましたけれども、もう一度その辺、憲法の委員会の中での議論を御紹介ください。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) でも、憲法の中には別に修正できる対象について何の限度もまた制約も設けていないということで、日本の方々の英知をベースにして、また選挙によって選ばれた日本の政府の方がお決めになることということでございまして、これは普遍的にいかなる憲法にも当てはまるものだと思います。憲法というのは、いわば国民の利害を満たしていくという限りにおいてずっと存続するというものです。  前文がいわゆるトーンを定めているということで、後に続く憲法の本文のトーンを定め、その中で言っているように、人々による人々のための人々がつくった憲法ということです、リンカーンがいみじくも昔言ったように。いわば民主的な憲法だったらずっと続くことができるということを意味しているのです。  もちろん、修正するということは可能であり、もし望むのであれば憲法全体を書き直すということももちろん可能性としてはありますけれども、でも、私の意見としては、全部を書き直してしまうとか多数の条項を修正するのは賢明ではありません。 大変な作業になるということだと思います。でも、理論的にはもちろん可能なことです、そうはいいましても。我が国の憲法も改正して憲法そのものを消滅させてしまうこともできるわけです、皆が賛成すれば。でもそんなことはいたしません。  ですから、民主的な憲法というのは、国民の利害が満たされる限りにおいてはずっと存続が保障されるということだと思います。 ○会長(村上正邦君) はい、ありがとうございます。  非常に能率的な質問でございますので、もう一人入ります。吉岡吉典委員。 ○吉岡吉典君 では、お二人に…… ○会長(村上正邦君) お一人にしてください。 ○吉岡吉典君 簡単な質問ですから。 ○会長(村上正邦君) まあ、一人にしてください。 ○吉岡吉典君 それでは、ゴードンさんにお伺いします。  日本で今、憲法をめぐる論議の中で、わずか一週間でつくり上げられた草案だということが非常に問題にされております。その一週間でつくられた草案だということから与えているニュアンスは、非常に短時日につくられた、十分練り上げられていない無責任な憲法草案が押しつけられたのではないかというニュアンスの議論があります。  きょうのお二人のお話を聞く中で、私は、そうでなく、一週間の大変な作業でつくられたものではあるが、それはアメリカでの対日政策についての研究成果を踏まえ、かつ日本の学者の意見もよく聞き、また日本の歴史についてのいろいろな知識をも念頭に置きながらつくられた。作業は一週間であったかもしれないけれども、そういう作業の結果つくられたものだということを私は強く感じました。  そういうふうにとっていいのか、やはり時間が足らなくて非常に不十分なものになったということなのか、お伺いしたいと思います。 ○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、一つは、ほかの憲法も参考にしたので、その憲法を書いた人も多分自分の憲法について随分考えたと思います。だから、そういう憲法から一番いい点を私たちはこの憲法に入れたんです。だから、私たちの考え方だけじゃなくて、ほかの世界じゅうのいろんな人の考え方が入っています。そして、もちろん日本の憲法研究会というのが随分いい草案をケーディスさんに渡したんです。社会党もすごくいい草案をつくったんです。それはみんな運営委員会の方がよく知っていましたので、私たちに教えてくれました。だから、日本の考え方が入っていないということは、本当にそういうことは、そうじゃないんです。ちゃんと入っています。  そして、それを七日だけでやったということは、私たちは、ちゃんと私たちが考えたことを七日の中で憲法に入れることができると思いました。そして、朝から晩までやりましたけれども、十分だと思っていました、そのときには。  そして、その憲法が今度、今まで改正されなかったので、そして何だか本当に日本の国に合うみたいな感じが随分ありますので、だから多分その一週間でつくった憲法はいい憲法だと思います。 ○会長(村上正邦君) どうもありがとうございました。  最後に、吉田会長代理から、本日のこの歴史的な審議を終えるに当たりまして、締めくくり質問をお願いして、終わりたいと思います。吉田会長代理。 ○吉田之久君 会長から大変大事な任務を承りまして恐縮いたしておりますが、本当にきょう、ゴードンさん、プールさん、遠いアメリカから御多忙の中こうして日本へお越しいただきまして、先ほどから憲法制定の経過についていろいろと御苦労いただいたお話をるる承りまして、非常に深い感銘を覚えた次第でございます。  特に、お二人が、それぞれ深く日本を御理解いただき、日本を愛しながら、日本と世界のためにいい憲法をつくろう、こう思ってあらゆる努力をいただきましたことがよくわかりました。本当に改めて敬意を表しますと同時に、この憲法がいよいよ我々にとって身近な感じを一層濃くした次第でございます。  さて、私どもが今一番問い詰めながら悩んでおりますことは、やっぱり世界の平和の問題であります。  今までの歴史上の世界の戦争は、我が国も含めまして、全部世界の平和のためという名において戦争が行われて、それが紛れもない侵略戦争であったことが極めて多いわけでございます。それだけに、その反省に立って、この憲法ができたときに、我々は二度と再び戦争をしてはならない、世界に戦争を起こしてはならない、そういう意味ではもう軍隊それ自身も否定した憲法、それが最上のものであろうと。でなければ、いかに平和のためと言いながら、ともすれば侵略戦争につながらないわけではない今日の歴史を知っておりますだけに、一層、陸海空軍一切の戦力を持たないこの憲法は最高に平和な理想的なものだというふうに思ってまいりました。努力をいたしました。  しかし、世界の情勢は必ずしもまだその状況にありません。そして、今も世界で国連のPKO活動なんかがいよいよ必要な時期に来ております。そして、我が国もこれほど大きく立派になった国家として、それなりの貢献をしなければならないということを知っているわけでございます。そこに来て、この国の自衛隊が軍隊なのか軍隊でないのか、憲法との整合性をどうすべきか、憲法と現実とがミスマッチしていないかという点で非常に苦労しているわけでございます。  先ほどプールさんからも、どうしても変えるならば、それは被害をかつて与えたアジアの国々に対しても十分に理解を求めながら、二度と再び恐れられる国家になるような日本ではないということを十分に丁寧に説明しなければなりませんというお教えをいただきました。  そこで、私どもは、いかに文言でそういうことをうたってみても、なかなかに世界というのは信用してくれない。だから憲法を適当にそのように変えるとしても、事前に十二分に諸外国に説明をする必要があるのではないだろうか。あるいは、憲法だけではなしに、その他の経済協力とか文化の交流とか、あるいは今、日本とアメリカが結んでおりますような安全保障条約をさらに多角的、集団的に安全保障条約を結ぶことによって、より安心してもらえる状況の中で日本がこれから世界に貢献していくべきではないかというふうなことを非常に考えているわけでございますが、そういう点で、さらにそういう外交面での努力について皆さん方のお考えがあればお教えをいただきたいと思います。  それからいま一つは、この憲法というものは、日本の憲法も確かに普遍的な哲学的なすぐれた憲法であるとは思うんですが、世界でも改正しない古い順番で四番目ぐらいの憲法になっていると聞きます。  憲法というのはずっとそのままなるべく原則的なものとして、理想的なものとしてそのまま存続して、後は解釈で処理していった方がいいとお考えになるのか、むしろやっぱりこういうテンポの速い時代に、時々刻々、せめて十年置きぐらいには見直して、そして国民合意の中でよりよく改正していく方が新しいこれからの世界の憲法なんだろうか、その辺のところもまたお気づきがあればお教えいただきたいと思います。 ○会長(村上正邦君) どちらの参考人にお聞きしますか。 ○吉田之久君 プールさんに。 ○会長(村上正邦君) では、プール参考人。これが最後の質問でございますので、本日の締めくくりで、何かまたこれだけは言っておきたいというようなこともございますれば、あわせて御発言を賜りたいと思います。  どうぞよろしくお願いします。 ○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 吉田さん、ただいまのお言葉ありがとうございました。  私なりに考えますと、あなたは現実的でもあるし理想主義的でもあると思います。 私は、この両者の間には矛盾はないと思うんです。あなたが言っておられるようなこと、あなたが提案しておられることというのは、私が信じていることとも相通じるものがたくさんあります。ですから、あなたの今の御意見を本当に多といたします。  それで、私は、憲法というのは現実に適応させていくということはできると思うんです。そして、そのやり方も、隣国を安心させるようなやり方で、すなわち日本の今の役割というのは以前の役割とは違うんだということをはっきりと言って、全く日本の国の意図として過去の軍国主義に戻ることはないのだということをはっきりと言うと。そして、やり方としてはいろいろあり、広報活動あるいは外交活動、そういったものによって対応するということもできると思います。それによって隣国の人たちも安心することができるはずであります。  それからまた、他方、皆さん方の方でも、これが国民が望んでいるのだということをはっきりとつかむということが必要であります。  こういった二つの条件があれば、憲法を改正するということ、特に九条の問題というのがありますけれども、これが、まさにこの二つの条件というのが大事なものであります。これが改憲の手続によって成るのか、もちろんそういったことはなし得ることはできるわけですけれども、本当にそうなるかどうかというのは、それはまだ答えの出ていないものであります。  私は、皆様方の審議というのがこれから五年間続くというふうに伺っております。 私は百歳まで生きるつもりでございますので、ですから、必ずやまた議論に参加できる、五周年目の会合にはまた私もぜひ参加できるものと確信をしております。 ○会長(村上正邦君) ありがとうございました。  時間が参りました。本日の質疑はこの程度といたしまして、また次の機会、今おっしゃいましたように五年後にはぜひ来ていただいて質疑をしてみたいな、こう思っております。  なお、幹事会の協議によりまして、本日の会議録の末尾に参考資料として英文の会議録を記載いたしたいと存じております。  両参考人に対しまして、大変率直な、貴重な御意見をお述べいただきましたことを感謝申し上げます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)  本日はこれにて散会いたします。    午後四時十七分散会