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この一月末にガザにあるアハリーアラブ病院がイスラエル軍の攻撃を受け、敷地内の聖公会の教会の会堂が破壊されました。そのこともあって、日本でこの病院の支援活動をしてきた日本基督教団では、「アハリーアラブ通信」の号外を出そうということになりました。そこに載せるために書いた映画評です。とにかく、こんなに気に入った映画は久しぶりなのです。

☆ 月刊「みすず」の4月号に、スレイマン監督の「撮影ノート」が掲載されています

☆ 5月初旬にアプデート 『図書新聞』(2003年5月17日号)のために少々書き足しました。イスラエルの中のアラブ人としてのスレイマン監督の位置と、そこからみたパレスチナ人としてのアイデンティティという問題を書き加えました。

D.I. − A Stateless Film?

エリア・スレイマン監督主演 Divine Intervention

2002年カンヌ映画祭審査員賞・国際批評家連盟賞受賞、シカゴ映画祭シルヴァー・ヒューゴ賞受賞

配給 フランス映画社  4月26日から渋谷ユーロスペースで上映

2002年カンヌ映画祭で審査員賞・国際批評家連盟賞をダブル受賞した「D・I」は、アラブ系イスラエル人である監督・主演のエリア・スレイマンがみずからの日常体験をギャグとペーソスと精緻な映像のポエジーに昇華させた作品で、いろんな意味で画期的なパレスチナ映画である。パレスチナの映画が国際コンペで受賞したことも快挙なら、その「国籍」ゆえにオスカーに出品できなかったことが呼んだ波紋も大きかった。パレスチナを国として認めず、外国映画部門の対象から除外したハリウッドの対応が、イスラエル寄りの偏見として非難されたのだが、スレイマン監督自身はそういう議論に引き込まれることを迷惑がっていたようだ。そのような文化を戦場にしたアイデンティティ・ポリティクスに対するオルターナティブこそが、この映画が提供しているものだからだろう。

パレスチナ映画といっても、これは西岸やガザのような占領地や難民キャンプを直接に描いたものではない。描かれているのは、イスラエルの中のパレスチナ人が、悪化の一途をたどる占領地でのインティファーダ(抵抗運動)への弾圧をどのように感じているかである。ナザレ出身のスレイマンは、パレスチナの独立をめざす占領地の同胞たちの抵抗運動に共感を寄せながらも、必ずしも同一の利害を持つわけではないイスラエル国籍のパレスチナ人のひとりだ。1948年のイスラエル建国時に多くのアラブ系住民がテロを逃れて難民化したときも故郷に踏みとどまったこの人たちは、今ではイスラエルの人口の約20パーセントを占める。イスラエルでは、「ユダヤ人国家」に同一化しえない二流市民、日陰の存在として、息を殺してひっそりと生きてきた。ナザレはイスラエル最大のアラブ人の町(約7万人)だが、敵対的な政府のもとで無力化され続けてきたことへの苛立ちと逼塞感は、映画の中で隣人同士が傷つけあう姿に描かれる通りである。攻撃がみずからに向かう社会全体のノイローゼを、患者も医者も看護婦も、そろってうつろに喫煙している病院の廊下が象徴している。

ずっと沈黙を保ってきたこの人たちが、ついに領地のパレスチナ人に共感して立ちあがったのは二年半ほど前に始まったインティファーダがきっかけだった。イスラエルのデパートで放火事件が起こり、占領地の抵抗を支援したとして多数の逮捕者が出た。映画のES(スレイマン自身が演じる主人公)がチェックポイントで逢瀬を重ねる恋人は、占領地で抵抗する同胞たちの象徴であろう。ラーマッラーに住む彼女は、ある日忽然と姿を消す。直前のシーンから抵抗運動で殺されたことが示唆される。これに対し、ESは想像の中でリベンジする──カフィーヤをつけた忍者姿の彼女が、自分の写真を標的にしたイスラエルの狙撃訓練兵たちを徹底的にやっつける。

いや、もしかすると彼女ははじめから想像の世界にしかいなかったのかも知れない。その関係に示唆される、ためらいと屈折のある同胞意識は、例えばメイ・マスリ監督のドキュメンタリー映画「夢と恐怖の狭間で」に描かれるストレートなナショナリズムとは大きく位相の異なるものだ。後者はレバノンと西岸の二ヵ所の難民キャンプの子供たちの交流を軸に、失われた故郷のかたみや記憶を頼りに自分たちのアイデンティティを守ろうとする難民の姿を描いており、クライマックスの国境での出会いのシーンでは圧倒的なナショナリズムの表出が描かれる。だが、この作品が一方では絶賛されながら、他方では完全な拒絶反応を招くのを見れば、このようなアプローチが対話を促すものではないことは明らかだろう。もはや相手の言うことが冷静に聴けない二つの陣営の罵り合いの中で、対話は断絶している──「D.I.」の冒頭でサンタクロースが刺されたように。この断絶を前提に、スレイマンは別の手段でコミュニケーションをはかろうとする。ユーモアと多義性だ。

正面きって一つの解釈をつきつければ大きな抵抗に出会う。だが、笑いは拒まれない。やや刺のあるユーモアとペーソスはスレイマン独特のものだ。日常のディテールにが、徹底的な純化とデフォルメによってローカル性を殺がれ、詩情とイメージで増幅されて、誰にもわかる笑いに再構成される。パターンの反復によって期待感が積み上げられ、そのうえでハズされ、裏をかかれる。それに翻弄される観客は、文化背景のいかんによらず同じことを期待したのだ。つきつめれば、結局わたしたちは同じ人間なのだ。

一方、解釈は完全にオープンだ。映画に本人(ES)が登場する理由は、監督自身が状況に投げ入れられることで、作品に君臨する神の地位を降り、見られる者の弱さを分け持つためだと語っている。悲しい目をしたESは一言も発せず、ナレーションもなければ、人物同士の会話もほとんどない。意味の押しつけは徹底的に排除され、すべては観客の解釈に委ねられている。だが解釈の丸投げは、かえって陰影を深読みさせる結果になるようだ。パレスチナ人の置かれた状況が、シンプルなギャグの連続に否応なく多くの含有を持たせてしまう。

挑発も仕掛けられている。「暴力性」をめぐるトリックだ。たとえば、近所の人々が不安げに見守る中、庭の一角で少年たちが棍棒で何かをめった打ちにしているシーン。なかなか「くたばらない」ため、ついには銃が発砲される。人間か家畜かと想像して眉をひそめた観客は、それが大きな蛇だったという種明かしでまんまとひっかかったことを悟る。凶暴性や残虐性は「想像された」のである。

ニンジャ・シーンのトリックも同じだ。奇跡とファンタジーという安全地帯におかれた「マトリックス」ばりの特撮活劇に「暴力性」を感じ取るとすれば、それは受け手の側の問題である。「欧米のインタビュアーはこの場面だけを取り出して、その暴力性を問題にしたがる」とスレイマンは嘆いてみせるが、彼はわざとキワものを入れてマスコミの反応を試し、欧米が自らの想像力で作り出した「暴力性」につまずいてダブルスタンダードをさらけ出すのを待っているようにも思われる。

だが、彼が望んでいるのは対決ではない。イスラエルが普通の国になり、非ユダヤ人への差別が終わることを願っている。ユダヤ人とアラブ人がイスラエルという国の中で平等に暮らせるようになるのが当面の目標だが、本当にそれが実現すればイスラエルとパレスチナという別々の国家に無理やり分かれる必要もなくなるだろうというのが彼の主張だ。現在、パレスチナ・イスラエル紛争の解決法として主流になっている考えは、パレスチナを独立させ、二つの国家の共存をめざすというものだが、実際にはこれだけユダヤ人とアラブ人の混在が進んだ中で無理やり国境を引くことには矛盾が多い。スレイマンのような二つの国民が一つの国土を共有するという考え(バイナショナリズム)は、二国家分離に比べてそれほど極端な理想主義的とも思われない。その実現ためにも対話が不可欠であるが、それは笑いの共有から始まるのかも知れない。




2月25日 (=^o^=)/