Edward Said Extra   サイード オンライン

アメリカのシオニズムは正反対の思考と、オーウェルが描くような歪曲のシステムであるが、その一段と奇妙なところは、ことイスラエルに関しては、ユダヤ人の暴力、あるいはユダヤ人の行為を話題にすることを許さないことである。イスラエルの行動はすべてユダヤ人の名において、ユダヤ国家のために、ユダヤ国家によってなされているにもかかわらず、こうなのだ。人口の20パーセント近くがユダヤ系ではないのだから、そのような国の呼び方自体が誤りなのであるが、そういう指摘がなされることはない。このこともまた、「アラブ系イスラエル人」と呼ばれるものと「パレスチナ人」と呼ばれるものをメディアが完全に意図的に区別している理由を説明する。そこにおいて視聴者や読者から隠蔽されているのは、このふたつは実は同一の人々であり、シオニストの政策によって分離されているに過ぎないという事実であり、またこの二つの社会はそれぞれがイスラエルの政策の帰結を象徴している──前者はアパルトヘイト、他方は軍事占領と民族浄化──という事実である。

最後に、アメリカのシオニズムは、イスラエル(合衆国の対外援助の突出して大きな受取人である)について、その過去についても未来についても、公然と論議の場に載せることは、いかなる状況においても許されないタブーとしてきた。これを文字通りアメリカの言説における最後のタブーと呼ぶことは、決して誇張ではない。妊娠中絶、同性愛、死刑、さらには軍の予算という神聖領域までもが、ある程度は自由な(常に限度はあるにせよ)議論に開かれてきた。アメリカ国旗が人前で燃やされることはありえても、イスラエルが52年におよぶパレスチナ人に対する組織的な支配を続けてきたことについては事実上、想像することもできない、表に出ることが許されない物語なのだ。

アメリカのシオニズム(3)
American Zionosm (3)
2000年11月20日、Al Ahram Weekly

ここ4週間パレスチナで起こった出来事は、合衆国におけるシオニズムの完璧に近い勝利であった。これは1960年代末にパレスチナの民族運動が近代的な形をとって再生して以来、初めてのことである。アメリカの政治や公論の場における論議はイスラエルを犠牲者へと決定的に変身させることに成功し、最近の衝突で140人以上のパレスチナ人の命が失われ 5000人の死傷者が報告されているにもかかわらず、いわゆる「パレスチナ人の暴力行使」こそが「和平プロセス」の順調な進展を妨げてきたのだということで世論が一致している。

いまや一連の決まり文句による「祈祷集」ができあがっており、論説委員はだれもかれも、そのまま経文を繰り返すか、さもなければそれを暗黙の前提として話を進めるのである。これらの文句は、当惑する者たちを導く指針として、耳に、心に、記憶に、刻みつけられ、少なくとも過去一ヶ月にわたって空気を重苦しくしてきた表現を浄化するためのマニュアルないし機械装置なのだ。 その多くを、わたしはそらんじることができる。「バラク首相はキャンプ・デーヴィッドの交渉で歴代イスラエル首相のだれよりも多くの譲歩を申し出た(占領地の90パーセント返還と東エルサレムにおける部分的主権)」、「アラファトは卑怯者で、イスラエルの申し出を受け入れ紛争に終止符を打つだけの勇気がなかった」、「アラファトの指令によるパレスチナ人の暴力がイスラエルを脅かしており(これには、さまざまなバリエーションがある──たとえば、イスラエルの消滅を願っている、反ユダヤ主義、テレビに出るための自爆攻撃、子供を最前線に立たせ殉教者をつくりあげる、など)伝統的な反ユダヤ感情がその背後にあることを証明している」、「アラファトは指導力が弱いためパレスチナ人によるユダヤ人攻撃を抑制することができず、彼らはテロリストを放ち、イスラエルの存在を否定する教科書を作成して反感を煽っている」等々。

この他にもまだ二、三の常套句はあるだろうが、基本的には次のような一般イメージが定着していると言えよう──イスラエルは投石してくる野蛮人に完全に包囲されているため、彼らからイスラエル人を「守る」ために投入されたミサイルや戦車や武装ヘリコプタさえも、この恐るべき勢力をかろうじて食い止めているものに過ぎない。パレスチナ人は「撤退」せよというビル・クリントンの勧告(彼の国務長官は忠実にこれを復唱した)の効果は絶大で、パレスチナ人がイスラエルの領土を侵略しているのであり、その逆ではないという印象を与えたのである。

このようなメディアの「シオニスト化」は大いに成功しており、テレビや出版物には(地理と歴史に弱いことで有名な)アメリカの視聴者や読者にガザ地区と西岸地区で起こっていることを気づかせるような地図は一枚たりとも掲げられていない。そこではパレスチナ人の土地にイスラエルの野営地や入植地、道路、バリケードなどが縦横無尽に走っているのだ。さらに、1982年のベイルートと同様に、アラファトとその部下たちも含めパレスチナ人たちはイスラエルによる本物の包囲攻撃を受けているのである。もはや完全に忘れ去られている(一度たりとも理解されたことがあったとしての話だが)らしいのは、占領地区をA、B、Cの三区域に分割する制度である。これによりガザ地区の60パーセントと西岸地区40パーセントにおいて軍事占領が継続されているのだが、オスロ合意に基づく和平プロセスはこの制度を決して本気で終わらせようとはしておらず、緩和さえ想定していない。

きわめて地理的なこの紛争において地理的知識が不在であることが示唆するように、映像や描写によって示される「状況」には文脈というものがまったく欠けており、その結果として生ずる中身のなさは決定的に重要である。シオニスト化されたメディアによる削除は、当初は意図的になされたものであったが、いまでは自動的なものになってしまったようだ。それゆえに、トーマス・フリードマンのようなエセ解説者が、臆面もなく自説をふれまわるようなことが可能になるのである。彼はアメリカの公明正大さやイスラエルの柔軟性と寛容についてだらだらとごたくを並べ、先を読んだ実利主義の立場からアラブのリーダーたちを糾弾し、退屈している読者に活を入れるのである。

こうしたものの結果として、パレスチナ人がイスラエルを攻撃しているなどという馬鹿げた見方が横行し、さらにはパレスチナ人を人間らしくない存在、ものごとに感じる力も目的意識もないケダモノへとおとしめることが可能になっているのだ。従って、死傷者の数が唱えられるとき、彼らの国籍が明らかにされないのも何ら不思議なことではない。それによりアメリカ人は「交戦者」の双方が等分に犠牲を払っているのだろうと思い込まされ、 その結果、実際にはユダヤ人の被害が誇張され、逆にアラブ側の感情は完全に排除する(もちろん憤怒だけは別だ)という仕組みなのである。憤怒の類いだけがパレチナ人の感情として残されており、それがパレスチナ人の感情の特徴とされる。これが状況の暴力性を説明し、さらには暴力を体現しているとされるため、イスラエルの方は、憤怒と暴力に永遠に包囲された品性と民主主義を代表するものとなるのである。これ以外のプロセスで、投石する人々に対し断固イスラエルを「防衛」するなどという図式の成立を論理的に説明することはできない。

家屋の破壊や土地の微収、不法な逮捕、拷問などのことについては何も語られない。現代史のなかで最も長期にわたる軍事占領(日本による韓国占領を除く)について何ひとつ言及されることはなく、国連決議についても、イスラエルがジュネーブ協定のあらゆる条項に違反していることについても、一つの民族全体の苦しみと他方の民族の頑迷についても、何ひとつ語られることはないのである。1948年の破局(イスラエルの成立によるパレスチナ人の難民化)、民族浄化と大虐殺、 キビヤ 、 カフルカセム 、サブラー、シャティーラなどにおける破壊と撲滅、長期にわたる軍事政権がユダヤ系以外のイスラエル市民に何を意味したか(ユダヤ国家のなかで20%を占める虐げられた少数民族は今も抑圧され続けている)などといったことは、みな忘れられてしまったのだ。アリエル・シャロンはせいぜいが挑発的な人物であって、戦争犯罪人ではけっしてない、イフード・バラクは政治家であり、けっしてベイルートの暗殺者などではない、というわけだ。この帳簿では、テロリズムは常にパレスチナ方に記帳され、防衛は常にイスラエル方に記帳される。

フリードマンやイスラエル親派の「和平運動屋」がバラク首相の先例のない寛容な姿勢を褒め称えるとき、抜けているのはその本当の中身である。18カ月前にワイで彼が公約した第三次撤退(およそ12パーセントの占領地の返還)はまったく実行されなかったが、この事実はまったく指摘されていない。こんな「譲歩」をさらに積み増しされても、いったい何の価値があるというのか?彼は占領地の90パーセントを返還する用意があると伝えられている。そこに抜けているのは、その90パーセントというのはイスラエルが返還するつもりなどまったくない土地についての話だということだ。拡大エルサレム圏(Greater Jerusalem)は西岸地区の30パーセント以上を占めている。将来ここに合併される予定の大規模な入植地を加えれば、さらに15パーセント拡大する。地区をつなぐ軍用道路については、これから決定される。従って、これらをみな差し引いた後に残ったものの90パーセントといえば、結局たいしたものではない。

エルサレムについては、イスラエル側の譲歩とは主として議論に応じることと、場合によっては(あくまでも、場合によっては)ハラム・アッシャリフ(「神殿の丘」)の共同管理を提供するということに過ぎない。この問題にからむ驚くべき欺瞞は、西エルサレム(1948年には主にアラブ系の居住区であった)の全体がすでにアラファトによって譲歩されており、それに加えて広大に拡張された東エルサレムの大部分も譲歩されているということである。さらに具体例をつけ加えれば、ギロ入植地を小火器で攻撃するパレスチナ人の姿はいつも根拠のない暴力のように描かれるが、ギロは近隣の町ベイト・ジャラから没収された土地に建設されたものであり、攻撃はこのベイト・ジャラから発せられているということには誰も言及しない。そのうえ、 ベイト・ジャラ はヘリコプターを使ったイスラエルのミサイル攻撃によって不釣合いにひどく叩かれ、民間人の家が破壊されたのだ。

主要各紙の論調を見てみよう。「ニューヨーク・タイムズ」、「ワシントン・ポスト」、「ウォールストリート・ジャーナル」、「ロサンゼルス・タイムズ」、「ボストン・グローブ」の五紙を見ると、9月28日(2000年)このかた、平均して一日一本から三本の論説が出ている。パレスチナ寄りの見地から書かれたとおぼしき三本の記事が「ロサンゼルス・タイムズ」に載ったことと「ニューヨーク・タイムズ」に載った二本の記事(一本はイスラエル人法律家Alegra Pacheco、いま一つはヨルダン人でオスロ合意推進派のリベラルなジャーナリストRami Khoury のもの)を例外として、残りはみな(フリードマン、ウィリアム・サファイア、チャールズ・クラウサマーなどのような常連コラムニストのものを含め)イスラエル寄り、合衆国が支援する和平プロセス支持であり、非をとがめられるべきはパレスチナ側の暴力とアラファトの非協力的態度、イスラムの原理主義であるという主張のオンパレードである。

こういう記事を書いているのは、米軍や政府の元高官、イスラエルの政府合衆国、民間であると同様、軍の高官、イスラエルの弁明人や官僚、シンクタンクの専門家や権威、イスラエル派ロビーや団体の役員などだ。これはつまり、イスラエルの市民に対するテロ戦術、入植による植民地政策、軍事占領などといったことについてのパレスチナ側あるいはイスラム教徒側の立場など全く存在しない、あるいは耳を傾けるに足りないという前提のもと、 メインストリームは完全にこれらの声を遮断しているということに他ならない。このようなことは合衆国ジャーナリズムの歴史のなかでも前代未聞であり、人間行動の基準をイスラエルに置こうとするシオニスト的なものの見方を直接に反映したものである。その結果、3百万人のアラブ人と12億人のイスラム教徒の存在が同一基準に立った配慮の枠内から排除されることになる。長い目で見れば、これはもちろんシオニストにとって自滅的な立場であるが、権力の驕りは大きく、だれ一人そのような考えには至らないようである。

上述のような物の見方は、唖然とするほど無謀なものであり、これほど実際的な目的による事実の歪曲でなかったとすれば、隠れた精神錯乱の一形態として話題になるだろう。しかしながら、これはイスラエルのパレスチナ人に対する公式政策ときっちり対応しているのだ。それはパレスチナ人を、イスラエルが直接に責任のある追放(dispossession)の歴史を持つ民族としてではなく、定期的に面倒を起こす厄介ものとして扱い、これに対処する唯一の手段は、理解でもなければ和解でもなく、武力だけであるというものである。その他すべてのことは、文字通り考えられないのである。この驚くべき無分別が合衆国で成立しているのは、アラブ人やイスラム教徒は(以前の文章で述べたように)野心的な政治家のあざけりの的になる以外はほとんど注意を払われることがないためである。

数日前、ヒラリー・クリントンは、不快きわまる偽善的なジェスチャーとして、アメリカ人ムスリム団体から受け取った50,000ドルの寄付を返却すると発表した。彼らはテロリズムを支援している、というのがその理由だ。これは真っ赤な嘘だ。問題の団体は、現在の危機的状況においてイスラエルに対するパレスチナ 人の抵抗を支持すると表明しただけだ。そのこと自体は決して問題となるような立場ではないのだが、アメリカの体制においては犯罪とされる。なぜなら、イスラエルの行為に対する批判はいかなる(文字通り、いかなる)ものであろうとも、絶対に容認できない悪質な反ユダヤ主義である、と見なすことをシオニズム全体主義が要求するからである。世界全体が、イスラエルの軍事占領、相手に比べて不釣り合いな暴力の行使、パレスチナ人の包囲攻撃という政策を非難していることも、なんらその障害とはならない。アメリカではどんな批判も控えなくてはならない。さもなければ徹底して非難すべき反ユダヤ主義者としてきびしく追求されるのだ。

アメリカのシオニズムは正反対の思考と、オーウェルが描くような歪曲のシステムであるが、その一段と奇妙なところは、ことイスラエルに関しては、ユダヤ人の暴力、あるいはユダヤ人の行為を話題にすることを許さないことである。イスラエルの行動はすべてユダヤ人の名において、ユダヤ国家のために、ユダヤ国家によってなされているにもかかわらず、こうなのだ。人口の20パーセント近くがユダヤ系ではないのだから、そのような国の呼び方自体が誤りであるという指摘がなされることはない。このこともまた、「アラブ系イスラエル人」と呼ばれるものと「パレスチナ人」と呼ばれるものにメディアが完全に意図的に差異を設けている理由を説明する。そこにおいて視聴者や読者から隠蔽されているのは、このふたつは実は同一の人々であり、シオニストの政策によって分離されているに過ぎないという事実であり、またこの二つの社会はそれぞれがイスラエルの政策の帰結を象徴している──前者はアパルトヘイト、他方は軍事占領と民族浄化──という事実である。

最後に、アメリカのシオニズムは、イスラエル(合衆国の対外援助の突出して大きな受取人である)について、その過去についても未来についても、公然と論議の場に載せることは、いかなる状況においても許されないタブーとしてきた。これを文字通りアメリカの言説における最後のタブーと呼ぶことは、決して誇張ではない。妊娠中絶、同性愛、死刑、さらには軍の予算という神聖領域までもが、ある程度は自由な(常に限度はあるにせよ)議論の対象として開かれてきた。アメリカ国旗が人前で燃やされることはありえても、イスラエルが52年におよぶパレスチナ人に対する組織的な支配を続けてきたことについては事実上、想像することもできない、表に出ることが許されない物語なのだ。

このコンセンサスも、パレスチナ人の人間性はく奪と虐待の継続を美徳と化すという効果をもつのでなかったならば、どうにか我慢のしようがあったのかもしれない。今日の世界で、その殺害がテレビで放映されてもアメリカの視聴者がそれは当然の報いであるとして容認するような人々などどこにも存在しない。だが、それこそがまさにパレスチナ人に起こっていることなのだ。過去一ヶ月、毎日のようにパレスチナ人の命が失われてきたことは、「双方の暴力」という見出しのもとにひとくくりにされる。これではまるで、不正と抑圧にうんざりした若者による投石があたかも重大犯罪であって、彼らに割り振られた屈辱的な運命に対する勇敢な反抗ではないといっているようなものだ。彼らにそれを強いているのは、アメリカに武器を与えられたイスラエル兵だけではない。バンツスタン(南アのアパルトヘイト政策のもとに作られた黒人居住区)や動物が住むにふさわしいような特別保留区に彼らを押し込めようという意図で進められる和平プロセスも同罪なのである。

合衆国のイスラエル支持者がおそらく7年間もかけて謀略をねり、本質的に人々を精神病院か監獄に収容するかのように檻に入れようとする文書を作成したということ──これこそが本当の犯罪だ。こんなものが和平としてまかり通り、実際には荒廃をもたらすものでしかなかったという事実がなおざりにされるなどということが起こり得るというのは、とうていわたしの理解力を超えるものであり、不道徳の極みという以外にこれを満足に表現する言葉も持たない。なかでも最悪なのは、イスラエルに関するアメリカの言説は鉄のような壁で守り固められているため、オスロ合意を作り上げ、7年間にもわたって世界に対しこれを平和として押し通してきた人々の心に、一片の疑問が浮かぶこともありえないということである。パレスチナ人には不公正を感じていると表現する権利さえない(そうするには下等すぎる品種だから)と考えるような精神構造と、彼らの奴隷化をさらに進めようと企み続ける精神構造と、どちらのほうが悪性なのか誰にもわからない。

ここまでで終わっていたとしても、すでに十分ひどい話だ。

けれども、合衆国のシオニズムによってもたらされたわれわれの惨めな立場は、それに対抗するオルターナティブを生み出すことのできるような機構が、この国においてもアラブ世界においてもまったく欠如しているということによって一層ひどいものになっているのだ。ベツレヘム、ガザ、ラマッラー、ナブルス、ヘブロンなどで投石によって抗議する人々の姿を伝える報道も、オロオロするばかりで前進も後退もできないパレスチナ指導部には十分に反映されないだろうとわたしは懸念している。

まさに遺憾の極みである。



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(=^o^=)/  /09/28/01