Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

夏ごろからサイードの特集を企画していた『新日本文学』では、校正の段階になって彼が亡くなったので、急遽「ロードマップの考古学」に加えて私も追悼文を添えることになりました。慌てて書いたものですが、たくさんの追悼文を読んであらためて彼の人柄を知ることが多かったころの文章です。ここで取り上げられている分離壁については、日本でも強い抗議の声が起こっています。パレスチナ関係の市民団体が結集したかの感がありますが、みなさまもできる範囲で協力してください。


パレスチナの壁、心の壁
Palestinean Wall , Mental Walll
『新日本文学』 No.646 2003年11・12月合併号

「ルネサンス人」と形容される多面重層的な才能の異種混成人サイードにとって、境界とはそもそも踏み越えるためにあったのかもしれないが、とりわけ重要なのは、政治と文化という二つの領域が彼においては完全に通底していたことだろう。チョムスキーは、彼の言語学と政治活動のあいだに関係はまったくないと言い切るが、サイードの場合、パレスチナに生まれ、植民地を体験したという出自を背景に形成された文芸批評と政治的な発言のあいだに切れ目はない。その著述の圧倒的な魅力は、現実との直接的な結びつきが常に維持されていることに由来すると思われる。現代思想の語り手としてはまれにみる真摯で明快な説得力がサイードの文章にはみなぎっているが、それは難解な学術用語や造語が多用されているかどうかという問題ではなく、どれほど切実に現実の問題に具体的に取り組んでいるかを反映したものだろう。サイードの大きな功績は、文芸批評の領域に「帝国主義」というキーワードを持ち込んだことだが、それに平行してパレスチナの解放をめざす活動家として文字通り最後の瞬間まで闘いつづける姿があった

九〇年代はじめになってアラファトと対立し、白血病と診断されたこともあって民族評議会を辞したサイードは、カイロの高級紙『アル・アフラム』に英語とアラビア語の両方で時事コメントを書き始めた。ほぼ月に一度のペースで一〇年以上にわたって途絶えることなく発信されつづけた評論が、若い世代とくにディアスポラのパレスチナ人にあたえた影響ははかり知れない。あるカナダ生まれのパレスチナ系作家は次のように書いている。

「パレスチナの外で生まれたパレスチナ人にとって、サイードの文章はこの世界と、追放の民としての自分たちの位置を理解できるものにしようという試みの中心に存在するものでした・・・サイードが最新の政治や社会のエッセイを出すのを毎月待ち遠しく思っていました。時事の問題について自分の考えは、まずサイードがそれについてどう発言するかを確かめてからでなければ完全にまとめることができないとわかっていたからです。いつでも彼の考えに賛成するわけではなかったけれど──実際、女性問題やジェンダー分析について沈黙に近かったことには反発することがおおかったのですが──サイードの文章はわたしにひと回り大きなパラダイムを与えてくれ、それを通してようやく自分と世界との居心地のわるい関係を明確に理解できたのです」。 (A.Y. May, Edward Said and the Contours of Palestinian Identity,)

また、ひじょうに効果的なインターネット・アクティヴィズムのサイト「エレクトロニック・インティファーダ」の創設者の一人ナイジェル・パリーは次のような追悼文を寄せている。

「サイードのことを思うといつも心に浮かぶのが"物語ることの許し"permission to narrateという、『ロンドン・レビュー・オヴ・ブックス』の一九八四年二月号に彼が発表した文の標題だ。この文句で彼が示しているのは、パレスチナ人が国際メディアから強く拒まれているものだ。すなわち、パレスチナは無人の地であったというシオニスト神話の催眠術にかかった世界の中で、パレスチナ人が自分たちの歴史を人に伝達する力のことだ。わたしが一九九五年ビールゼイト大学の元祖ウェッブサイトの仕事をはじめたとき、このサイードのことばがはっきり念頭にあった。わたしたちは、このサイトを使って自分たちの手で「物語ることの許し」を実現するのだ・・・・・・エドワード・サイードは今朝亡くなった。彼が遺していった多数の書物と一定の用語は、パレスチナの将来に関心を持つ一つの世代の者たちに力を与えてくれた。エレクトリック・インティファーダのようなプロジェクトにひらめきを与え、わたしや共同創始者EIのような個人を刺激してくれた」(Permission to narrate: Edward Said, Palestine, and the Internet

このような新しい世代の動きを代表する占領地での政治勢力は、サイードも全面的に支持を与えていたパレスチナ・ナショナル・イニシアティブだろう。アラファトたちともイスラム主義者(ハマス)とも異なる、占領地の中からめばえた真の民主勢力であり、ナショナリズムの枠を超えて人権法と国際人道法に基づく国際連帯によって占領からの解放を実現していこうとする人々だ。彼らがどれほど力を蓄え、次世代の闘争の担い手として根付いているのか、サイード亡き後の未来への希望はそこに託されているように思われる。」

占領地のパレスチナ人、イスラエル市民となったパレスチナ人、パレスチナを離れ、もう一つの祖国を持つようになったパレスチナ人など、すでにとうてい一括りには語れなくなった人々がネイションを求めるとき、サイードの提唱する「開かれた」アイデンティティ、排除と囲い込みの道具ではない共生のためのアイデンティティという考えは、大きなよりどころとなる。サイードはこの世代のアイコンでありつづけるだろう。またそこには、パレスチナ人のみならず、ユダヤ人も、世界中のどんな人たちであっても、理想の共有によって互いの一部となることを可能にする窓が開かれている。このような普遍性の獲得に向けた解放のヴィジョンを打ち出したことが、パレスチナ人にサイードが遺した最大の遺産だろう。

            *  *  *

今年六月、サイードは「ロードマップの考古学」という記事を発表した。詳細に現状を分析した時事批評としては最後のものであり、三〇年以上にわたる解放運動への積極的な関与によって蓄積した深い知識と経験を踏まえた鋭敏な分析は、政府発表を無批判に受け入れがちなマスコミ報道の無定見で浅薄な楽観論を、一瞬にして色あせたものにしたように思われた。パレスチナに関心を持つ多くの人が、サイードの最新の記事を心待ちにしていた理由がよくわかる記事である。アッバス首相は九月はじめに辞任し、「ロードマップ」は過去のものになった感があるが、今後も交渉による和平への取り組みが再開するときには同様のパターンが繰り返される可能性はあり、その点ではこの分析の基本的な重要は失われていないと思う。

ブッシュ政権が推進する「ロードマップ」に対するサイードの不信は、それが基本的にオスロ和平プロセスの焼き直しにすぎないからだ。一九九三年にパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)が成立してから一〇年が経つが、不毛な交渉の果てにパレスチナ側に提示されたのは、分断された西岸地区とガザの断片の寄せ集めであり、その上に入植地をつなぐイスラエル人専用道路が縦横に走るという、とうてい自立した独立国家が形成できるような領土ではなかった。そうする間もパレスチナ人の土地はどんどん没収されていき、意図的な貧困化政策によって経済は困窮していった。それに対する人々の不満の爆発を取り締まり、抑えこむことが、占領地の外からやってきて治安維持の役割を担わされたアラファトの自治政府の役割だった。

イスラエルが占領地でとってきた「脱開発」政策は、ひんぱんな外出禁止令や道路閉鎖をはじめとするさまざまな障害をもうけて経済発展を意図的に阻害し、占領地の経済をイスラエルに完全に従属させるというものだった。自立しえない「国土」をでっちあげ、人々をそこに押し込めて、移動や就業を制限・管理することにより徹底的に搾取するというのは、かつて南アフリカで実施されたアパルトヘイトと同じである。 今後どのような和平提案が出てこようと、そこに想定される「パレスチナ国家」が自立の条件を明確に与えられたものでないかぎりは、この繰り返しでしかない。

西岸ではいま、イスラエルとパレスチナを隔離する「分離壁」の建設が急ピッチに進められている。幅三メートル、高さ八メートル近くにおよぶコンクリートの壁を、一九六七年の停戦ラインよりパレスチナ側にかなり深く食い込んだところに走らせ、パレスチナ人をバンツースタンに押し込めようとするものだ。この現実を黙認して推進される「ロードマップ」は、和平提案の名のもとにパレスチナ人の抵抗を抑え込み、アパルトヘイト化をスムーズにするための道具にしかならないであろう。

だが、膨大な予算をつぎ込んだこのような分離壁の建設は、むしろイスラエルの行き詰まりと方向喪失を示しているようにも思える。すでに四年目に入った占領地の民衆蜂起と抵抗運動(インティファーダ)は、どれほど弾圧を加えてみても終息する気配はなく、国内経済は疲弊し、失業とスラム化にあえぐ中東系ユダヤ人たちは欧州系エリート層に対する不満を鬱積させ、超正統派が政治的に過大な影響力を行使することへの反感も渦巻いている。その一方で、アラブ系の急速な人口増加に対抗するため、なりふり構わぬ移民受け入れが推進されており、国籍付与の条件をめぐって誰がユダヤ人なのかという問題が再燃している。ユダヤ人国家の人口構成におけるマジョリティを確保せんがため、ユダヤ人というアイデンティティそのものを脅かす政策が取られているのだ。つまるところは、恣意的に境界線を引いて他者をその外に追放し、みずからの特権的地位を確保しようというユダヤ人国家の発想こそが、パレスチナ・イスラエル問題の根幹にある問題なのだ。そのような観念的な境界線をもうけることをオリエンタリズムと呼ぶのではないのか。

九〇年代になってサイードが強調しはじめたバイナショナリズム(二民族が共存する国家)という考え方は、それへのアンチテーゼだった。PLOとイスラエルの対話が始まって、ディアスポラのパレスチナ人たちにもようやく故郷に足を踏み入れる機会が開かれるようになった。四〇年近くの不在を経て帰郷したサイードが見たものは、実際にそこに暮らしてきたアラブ人たちは、ユダヤ人たちとの間に幾重にも絡み合った密接な相互依存関係をすでに築きあげているという現実だった。この人々を引き離す壁を築き、むりやり二つの国に振り分けるということがほんとうに実際的なことなのか、むしろ相互の存在を認め合い、平等な権利の下に共存する道をさぐる方が現実的なのではないのかというのがサイードの提案だ。「分離壁」が積みあがる矛盾の重圧に耐え切れず自己倒壊した暁には、そこから湧き上がってくるのは南アフリカと同じく「一人一票」を要求する声だろう。

中野真紀子 2003年10月
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