Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

ウサマ・ビンラディンはいまやモービー・ディックとして世界中の悪の象徴にされていますが、この男に一種の神話的な地位を与えることは、かえって彼のゲームにはまり込んでしまうことになるのじゃないかとぼくには思われます。 むしろ、この男から宗教的な要素をはぎ取ることが必要だと思います。 彼を現実の領域に連れ戻さなければなりません。この男は犯罪者として、ひとりのデマゴーグであり、罪のない人々に対して非合法な暴力を加えた男として扱われねばなりません。それに相当した処罰を彼に加えるべきなのであって、まわりの世界(彼のものも、わたしたちのものも)を道ずれにすべきではありません。
9−11インタヴュー
On 9-11 Terrorist Attacs, An Interview by David Barsamian
プログレッシブ 2001年11月号  Volume 65, Number 11

☆☆☆ 以下は、テロ事件をめぐって、2001年9月末日に行われた、デヴィッド・バーサミアンによる緊急電話インタヴューです

Q: 9月11日の出来事に多くのアメリカ人はうろたえ、困惑しています。 あなたはこの事件をどのように受けとめましたか?

エドワード・W・サイード: ニューヨーク市民のひとりとしては、衝撃的でおそろしい出来事でした。特にそのスケールの大きさにはショックを受けました。基本的に、あれは罪のない人々に危害を加えてやろうという抑えがたい欲望のあらわれでした。狙われたのはシンボルです。世界貿易センターはアメリカ資本主義の中心、ペンタゴンはアメリカの軍事機構の総本山ですからね。しかし、それは議論を喚起するためのものではありませんでした。どのような交渉にもからんでいません。どのようなメッセージも付随していません。あの事件そのものが主張なのです。これはふつうのことではありません。政治的なものを超えて、メタフィジカルな領域に入ってしまっています。そこには一種のコスミックで悪魔的な性格の精神が働いていて、対話や政治組織・信条などへの関与をいっさい拒絶しているのです。実行することだけが目的の、残忍な破壊行為でした。この攻撃については、どこからも犯行声明がでていないことに注意してください。 なんの要求も示されていません。なんの主張も示されていません。無言のうちに行われたテロなのです。他のなにものにも関係していません。現実を離脱して、まったく別次元の世界、自分たちの目的のためにイスラムを乗っ取った人々がとり憑かれている現実的ばなれして狂った考え、神話じみた漠然とした議論の領域へと飛躍するものでした。このわなにはまりこみ、こちらもなにか抽象的な報復で応じてやろうなどという考えに走らないことが大切です。

Q: 合衆国は何をすべきなのでしょう?

サイード: このひどい事件に対応する正しい措置は、ただちに国際社会に持ち込むことでしょうね──国連です。 国際法のルールが適用させられるべきです。しかし、いまではもう手遅れかもしれません。だって合衆国はこれまで一度もそうしたためしがないのですから。いつだって自分だけの力で解決してきたのです。「国家を廃絶する」とか「テロリズムを根絶させる」という発言や、さまざまな手段を投じて「何年にもわたる長い戦争を遂行する」などという発言が示唆するのは、多くのアメリカ人が覚悟していると思われるよりずっと複雑で長期化する紛争です。はっきりとした目標地点が見えていません。ウサマ・ビンラディンの組織は、もはや彼のコントロールをはずれ、いまではおそらく独立しています。これからも、第二、第三のビンラディンが現れることになるでしょう。だからこそ、もっと正確で、もっと明瞭な、じっくり練り上げた作戦が必要なのです。また、テロリストの居場所をつきとめるだけでなく、テロリズムの根源にある原因(究明可能なものです)の追跡も視野に入れた作戦も必要です。

Q: 根源的な原因とは、どのようなものでしょう?

サイード: イスラム世界、産油諸国、アラブ世界という合衆国の権益と安全保障には絶対に重要と考えられている地域において、合衆国がその諸問題に首をつっこんできたありかたとの長年の相克のなかから生まれてきたものです。この間断なく展開していく相互作用の連続のなかで、合衆国はきわめて特異な役割を演じてきたのですが、そのことについてたいていのアメリカ人は目をふさがれているか、あるいはただなにも気付かずにいるのです。

イスラム世界では、合衆国について二つの大きく異なる見方があります。 ひとつは、合衆国がなんと傑出した国かということを認めるものです。 ぼくの知っているアラブやムスリムはみんな合衆国にものすごく興味を持っています。彼らの多くは教育を受けさせるために子供たちをここに送ります。彼らの多くは、ここでバカンスを過ごします。ここで仕事をし、ここで訓練を受けるのです。それに対して、いまひとつの見方は、国としての合衆国、軍隊を動かし他国に干渉する合衆国です。1953年にイランの民族主義的なモサデク政権を転覆させ、シャー(国王)を復位させた合衆国です。最初は湾岸戦争への介入で、次には経済制裁を発動することによってイラクの民間人に甚大な被害を与えた合衆国です。パレスチナ人に敵対するイスラエルを支持する合衆国です。

中東に住んでいれば、こういったことは継続的な支配欲の表現として映ります。またそれに伴う一種のかたくなな態度、現地の人々の希望や願望や目標などを頑固に阻もうとする姿勢が目につきます。 たいていのアラブやムスリムは、合衆国は自分たちの願望などほんとうはあまり重視していないと感じています。 合衆国の政策はおのれの利益を追求するものであり、まるで自国の占有物であるかのように主張している諸原則──民主主義、民族自決、言論の自由、集会の自由、国際法 ――にはあまり従っていないと彼らは考えています。 例えば、西岸地区とガザの34年にわたる占領を正当化するのはむつかしいことです。140に及ぶイスラエルの入植地とおよそ400、000人の入植者の存在を正当化するのはむつかしいことです。これらの措置を支持し、資金を提供したのは、合衆国です。こんなことをしておきながら、合衆国は国際法や国連決議を遵守しているなどと言えたものでしょうか? こういうことの結果としてできあがったのは、分裂症的な合衆国のイメージです。

さて、ここからが、ほんとうに情けない話になるのですが、アラブの統治者たちは基本的に人気がありません。彼らは、国民の願いには反して、合衆国によって支持されているのです。こういう人気のかけらもない政策と暴力の性急な混合物のなかでは、デマゴーグの出現、とくに宗教に名を借りた──ここではイスラムですが──デマゴーグが出現し、合衆国に対する十字軍を募り、なんとしてもアメリカを打倒しなければならないと呼びかけることは難しくはありません。

皮肉なことに、ウサマ・ビンラディンやムジャヒディーンなどのように、こういう人々の多くは、実のところ80代初期にソ連勢をアフガニスタンから追い出そうとして合衆国が育成したものです。イスラム勢力を結集して、神を否定する共産主義にぶつければ、ソ連を手ひどい目にあわせてやることができるだろうという計算だったのですが、事実そのとおりになりました。 1985年にはムジャヒディーンの一団がワシントンを訪れ、彼らを「自由の戦士」と呼ぶレーガン大統領の歓迎を受けました。しかしながら、こういう人々は正式な意味では決してイスラムを代表しているわけではありません。 イマームでもなければシークでもない。イスラムのための戦士を自分勝手に名のっているだけです。 ウサマ・ビンラディンはサウジアラビア出身ですが、神聖なマホメットの土地であるサウジアラビアに合衆国が軍隊を駐留させているという理由で、自分は愛国者であると思っています。それと並んでまた、自分たちは必ず勝つという信念、ソ連を打ち負かしたように、今度も勝てるはずだという気持ちがあります。そして、このような自暴自棄で病的な宗教意識のなかから生まれてきたのが、危害を加えてやろうという、すべてを包み込むような衝動です。ニューヨークで起こったように、罪のない者や無関係の者のことなどいっさいおかまいなしなのです。これを理解するということは、もちろん、それを容赦することとはまったく違います。恐いなあと思うのは、この事件を歴史的に解釈しうるものとして(共感は込めずに)話しはじめると、愛国心に欠けると見なされるようになり、口を封じられる、という風潮がここにきて強まってきることです。これはとても危険なことです。ぼくたちが住むこの世界、ぼくたちもそこに参加している歴史、超大国として形成している歴史をじゅうぶんに理解することは、まさしくすべての市民にとっての義務ではありませんか。

Q: 有識者や政治家のなかには、「畜生どもを皆殺しにしろ」という『闇の奥』のなかのクルツの言葉をそっくりそのまま繰り返しているような人たちがいますね。

サイード:
 はじめの数日の論調は、憂うつになるほど一色に染まっていると思いました。本質的におなじ分析が何度もくりかえされ、違った見方や解釈や反省が登場する余地はほとんどありませんでした。とても心配なのは、分析や反省が不在なことです。たとえば「テロリズム」という言葉をとってみましょう。 この語はいまや、反米主義と同一視されています。そして今度は、反米主義と合衆国に批判的であることが同義であるとされ、ひいては合衆国に批判的であるということは愛国心に欠けるということに等しいとされるのです。こんなむちゃな等式の連続は、とても受け入れられません。テロリズムの定義はもっと正確でなければなりません。そうしなければ、たとえばイスラエルの軍事占領と戦うためにパレスチナ人がしていることと、世界貿易センターをつぶしたようなテロとを区別することができなくなってしまいます。

Q: あなたなら、どのように線引きなさいますか?

サイード:
 たとえば、ガザのひどい惨状(イスラエルに大きな責任があります)のなかで暮らす若い男が、ダイナマイトを体に縛りつけてイスラエル人の群集に突っ込んでいったとしましょう。 ぼくは一度もそういうことに容赦を与えたり賛同したりしたことはありませんが、少なくとも理解することはできます──自分の生活や身の回りのすべてから締め出されたと感じている人間、自分のなかまたち、他のパレスチナ人や、両親や、兄弟姉妹が苦しめられ、傷つけられ、殺されたりするのを見てきた人間の、すてばちな望みなのです。彼は、なにかをして反撃したいのです。これは、ほんとうにせっぱつまった人間が、不当に押しつけられた状況から自分を解放しようとして訴えた行為として理解することができるでしょう。それに賛同することはできませんが、少なくとも理解することは可能です。世界貿易センターや国防省の爆撃テロを実行した人々は、これとは別のものです。明らかに、彼らはすてばちになった貧しい難民キャンプの住民ではないからです。 彼らは中産階級で教育があり、英語を話し、飛行士訓練校に通い、アメリカに渡航し、フロリダに住むことができるような人たちでした。

Q:『イスラム報道』の改訂版の前書きで、「イスラムについての悪意に満ちた一般化は、西欧において外国文化に対する侮辱が許されるものとして残された最後の形式となった」と述べておられますね。なぜ、そんなことになったのですか?

サイード:
 油断のならない「他者」というイスラムに対する意識――ムスリムは狂信的で粗暴で貪欲で分別がないと描かれる――は、植民地時代にオリエンタリズムとぼくが名づけたもののなかで発達します。この「他者」についての研究は、ヨーロッパと西洋一般のイスラム世界における支配と優越性に、おおいにかかわっているのです。 そして、執拗に続いてきました。なぜならそれは、イスラムをキリスト教に競合するものとみなす宗教的なルーツに非常に深く根ざしたものだからです。この国のたいていの大学や各種学校のカリキュラムを見てごらんなさい。イスラム世界との長い接触の歴史にもかかわらず、イスラムについて本当に教えられるようなものは、ほとんど見つかりません。人気のメディア番組を見れば、「The Sheik」のルドルフ・ヴァレンチノに始まるステレオタイプがいまもちゃんと残っていて、しかも国境を超えた悪役へと進化して、テレビや映画や文化一般に登場しているのがわかるでしょう。イスラムについて乱暴な一般化をするのは、とてもたやすいことです。「ニュー・リパブリック」〔民主党系の雑誌〕をとりあえず一冊読んでみるだけでじゅうぶんです。かならずそこには、イスラムと結びつけられた急進主義の悪玉、堕落した文化を持つアラブ、などといった記事が見つかりますから。こんな大雑把な一般化は、合衆国では他のどんな宗教やエスニック・グループに対しても、とうてい許されるものではありません。

Q: ロンドンのオブザーバー紙に最近発表なされた記事(「集団的熱狂」)で、 戦争にかりたてられる合衆国は、モービー・ディックを追うエイハブ船長に薄気味悪いほど似ているとおっしゃってますね。 なにを思って、そう書いたのですか?

サイード:
 エイハブ船長は、自分を傷つけた(片足をもぎとった)白鯨を追跡することに脅迫的な情熱を燃やし、どのようなことが起ころうが、地の果てまでも追いかけようとした男でした。小説の最終の場面で、エイハブ船長は、自分のモリのロープに絡めとられて白鯨に巻きついて海に引きずり出され、明らかに死の運命にむかいます。 ほとんど自滅的といってよい最終シーンでした。 さて、今回の危機のはじめの時点でジョージ・ブッシュが公衆に向けて放った言葉――「殺してもいいから捕まえろ」とか「十字軍」とかです――が示唆するのは、国際ルールに従ってこの男に裁きを下すための秩序だった思慮ぶかいステップというよりは、むしろなにか黙示祿的なもの、それ自体もまた犯罪的な残虐行為と同列に並ぶようなものです。 それは事態をさらにずっと悪化させるだけのことでしょう。ものごとには、つねに結果が伴うものですから。

ウサマ・ビンラディンはいまやモービー・ディックとして世界中の悪の象徴にされていますが、この男に一種の神話的な地位を与えることは、かえって彼のゲームにはまり込んでしまうことになるのじゃないかとぼくには思われます。 むしろ、この男から宗教的な要素をはぎ取ることが必要だと思います。 彼を現実の領域に連れ戻さなければなりません。この男は犯罪者として、ひとりのデマゴーグであり、罪のない人々に対して非合法な暴力を加えた男として扱われねばなりません。それに相当した処罰を彼に加えるべきなのであって、まわりの世界(彼のものも、わたしたちのものも)を道ずれにすべきではありません。


The Progressive November 2001 Volume 65, Number 11
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