Edward Said Interview

ペンと剣

「帝国の土台は芸術と科学だ。これらが失われたり衰えたりすれば、帝国は消滅する。帝国が芸術の後につき従うのであって、イギリス人が思い込んでいるように芸術が帝国の後に従うのではない」--William Blake

帝国という観念の根幹を形成しているのは、あながち利潤の追求ばかりではないということを、コンラッドは理解しています。・・・・・・・・・・・・コンラッドが言うように、近代帝国は、奉仕という観念、犠牲という観念、救済という観念を要求します。ここから、たとえばフランスの「文明普及の使命」というような、誇大に強調された観念が生じてくるのです。自分たちは利己的な動機でそこにいるのではなく、現地人のために赴いたのだというものです。あるいは、ジョン・スチュアート・ミルなどに言わせれば、インドが必要とするから自分たちはそこにいるのだ、この領土と住民が自分たちの支配を懇願しているのだ、ということになります。キプリングの作品に見られるような、イギリス人がめんどうを見てやらなければインドは崩壊してしまうだろうという発想です。

Culture and Imperialism
文化と帝国主義

DB:『文化と帝国主義』は、『オリエンタリズム』をどのように継承しているのでしょう?

『オリエンタリズム』は幅広い問題領域を扱っていましたが、そこで達成できたことは限られていました。ここでの僕の関心は、西洋がとらえたオリエントの姿と、そのような理解が西洋によるオリエント支配へと変容していくプロセスにありました。そこで対象範囲を1800年頃から現代までに絞り、その時期のアラブ・イスラム世界について考察しました。もっぱら西洋の視点を通した姿のみを考察したのです。そして、それに対する僕なりの解釈を下したのですが、僕の解釈は西洋のひとつの側面だけに視線を向け、全体像を見失っているという批判を受けました。しかし、僕は西洋が一枚岩だなどと言おうとしたつもりはありません。問題にしているのは、イギリス、フランス、アメリカなどの西洋諸国で、中東地域に対する政策遂行と支配に携わった部分なのです。

『文化と帝国主義』は、その続編と言ってもよいでしょう。第一に、この本では中東以外の諸地域も取り上げていて、むしろ中東についてはあまりスペースを割いていません。ここで扱ったのは、インド亜大陸全般、アフリカ各地、カリブ諸国、オーストラリアなど、西洋が多大な投資を行った地域です。投資は帝国を通じて行われることもあれば直接の植民地支配によって行われることもあり、インドのように両者が混在している場合もありました。

第二に、この本は、18世紀から現在までという同じ時代範囲を設定しているものの、抵抗運動という問題の諸地域における西洋に対する反応も取り上げているという点で、『オリエンタリズム』に依拠しつつもさらに議論を発展させたものとなっています。『オリエンタリズム』では欧米の作家や政策に視点を限っていましたが、『文化と帝国主義』では、帝国主義に対する反応として出現し20世紀には「ナショナリズム」と呼ばれるものに育っていった「抵抗の文化」についても考察しているのです。カリブ海地域、ラテンアメリカ、アフリカ、アジアに起こった抵抗運動の理論家、活動家、詩人、作家などが取り上げられています。

DB:ということは、もっぱら文学というプリズムを通して見ているわけではないのですね。

というか、西洋というプリズムだけではないのです。文学には、やはり一定の重きを置いています。なぜなら、非ヨーロッパ世界についての欧米の見方や言及は、書物など文化的な記録、とりわけ物語 narrative を下地として形成されたところが大きいというのが、僕の主張だからです。小説 novel は、帝国主義が自分たち以外の世界諸地域を見る姿勢を形成するにあたって、ずば抜けて重要な役割を果たしていると考えています。

ちなみに僕は、ロシアに代表されるような、ただ隣接地域へ膨張拡大していっただけの帝国主義には、あまり興味がないんです。ロシアは東方と南方に向かって進み、そこでぶつかったものはなんでも手当たり次第に呑み込んでいきました。でもそれよりも僕は、イギリスとフランスに代表されるような、ヨーロッパ諸国が自国の浜辺から飛び出して海外を支配する政策を推進したやり方に、ずっと興味があります。それによって、イギリスは、自国から8,000マイルから9,000マイルも離れたインドを300年にわたって支配することができたのですから。

DB:しかも、たったの10万の人員で。

驚くべき事実です。帝国の心臓部と遠方の植民地には大きな地理的隔絶があったにもかかわらず、フランスとアルジェリアの場合のように、遠方の植民地が吸収され本国の一部になってしまうこともありました。カリブ海のマルチニックやグアドループ〔ともに仏領西インド諸島〕は現在もその状態にあります。また、この本ではアイルランドについても、かなり詳しく論述しています。アイルランドは代表的なヨーロッパ内部の植民地だからです。この本は、イギリスとフランスが海外への植民と現地支配という考えに他国に先駆けて到達した過程を検証しています。1945年以降は、植民地独立の時代の到来とともに英仏の両植民地帝国は崩壊しましたが、代わってアメリカがその後釜に座り、実質的には同じものが継続しているのです。

DB:文化が帝国主義を可能にさせたと主張してらっしゃいますね。ウィリアム・ブレイク〔William Blake 英国の詩人・画家。1757-1827〕の「帝国の土台は芸術と科学だ。これらが失われたり衰えたりすれば、帝国は消滅する。帝国が芸術の後につき従うのであって、イギリス人が思い込んでいるように芸術が帝国の後に従うのではない」という言葉を引用されています。

帝国主義についての経済や政治や歴史の文献は大量に存在しますが、それらに共通する大きな欠点のひとつは、文化が帝国の維持のために果たした役割を軽視していることです。コンラッド Joseph Conrad は、このことについての非凡な証言者です。帝国という観念の根幹を形成しているのは、あながち利潤の追求ばかりではないということを、彼は理解しています。もちろん利益という動機もあるのですが、19世紀の英仏に代表されるような近代帝国が、それ以前のローマやスペインやアラブのような帝国と一線を画するのは、それが絶え間なく再投資を繰り返す計画的な事業であるという点なのです。彼らのやり方は、単にある国を襲って略奪し、奪うものが尽きたところで撤退するというような単純なものではありません。

コンラッドが言うように、近代帝国は、奉仕という観念、犠牲という観念、救済という観念を要求します。ここから、たとえばフランスの「文明普及の使命」というような、誇大に強調された観念が生じてくるのです。自分たちは利己的な動機でそこにいるのではなく、現地人のために赴いたのだというものです。あるいは、ジョン・スチュアート・ミル〔John Stuart Mill 英国の哲学者・経済学者。1806-73〕などに言わせれば、インドが必要とするから自分たちはそこにいるのだ、この領土と住民が自分たちの支配を懇願しているのだ、ということになります。キプリング〔Joseph Rudyard Kipling 英国の小説家・詩人。1865-1936〕の作品に見られるような、イギリス人がめんどうを見てやらなければインドは崩壊してしまうだろうという発想です。

このような観念の複合が、特に僕の興味をそそるのです。僕にとって特に大きな発見だったのは、こうした観念が、帝国の中心地ではほとんど批判されることがなかったということです。トクヴィル 〔Alexis de Toqueville フランスの歴史家・政治家、1805−59〕やミルのように、今日でも高い評価をうけているような人たちや、19世紀末に始まった女性運動でさえ......

DB:ジェーン・オースティン〔Jane Austen 英国の小説家、 1775-1817〕もそうですね。

ジェーン・オースティンは、また別の話です。彼女の時代はもっと古い。僕が言っているのは、自由主義や進歩主義、労働運動、女性解放などの組織化された運動のことなのです。彼らはみな、おしなべて帝国主義者でした。それについては反対論者などいなかったのです。ヨーロッパや合衆国の内部で変革が起こってきたのは、植民地の人々がみずから反抗し始め、帝国主義的な考えが無批判にまかり通ることが困難になってからのことでした。そうなって初めてサルトルのような人々が出てきて、アルジェリア人の独立要求を支持し、彼らの代弁役をかって出たのです。でもそうなるまでは、ほとんどの人々が共謀に荷担していました。英国のウィルフリッド・スケイワン・ブラント〔Wilfred Scawen Blunt 英国の旅行家・政治家・作家、1840-1922〕などは、それに意義を唱えたごく少数の人物の一人です。

DB:しかし、文化という表看板の背後には、帝国を一つにまとめておく接着剤として、武力や締めつけや脅迫などがあったのではないでしょうか。

それはもちろんです。しかし、ここで押さえておかねばならないのは、多くの場合、武力の投入がいかに最小にとどまっていたかということです。たとえば英国のインド駐留軍の規模は、インドという広大な領土を統治・維持するものとしては、きわめて小さなものでした。それに代えて投入されたのは思想的な宥和を図る政策、インドの例で言えば、1830年に公布された教育制度です。この制度は、英国統治下のインド人の教育は英国文化がインド文化より優れていると教えなければならないと言明しているのです。

そのうえで、もちろん反乱が起こった際には、有名な1857年の「セポイの反乱」の時のように武力が投入され、情け容赦なく、残忍で断固とした処置が取られます。そして、ふたたび表看板が掲げられ、「われわれは、おまえたちのためにここにいるのだ、おまえたちは恩恵を受けているのだ」という言説が流れだすという具合です。だから、武力は確かに投入されるのですが、それは選択的に行使されるにとどまり、それよりずっと大きな役割を果たしているのは、植民地の人々に、西洋に支配されるのが自分たちの宿命なのだという考えを植えつけることだ、というのが僕の意見です。


< 『ペンと剣』(ちくま学芸文庫)>

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