Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

サイードのお葬式には、親友バレンボイムがピアノを演奏し、娘さんが父のお気に入りだったというコンスタンティノス・カヴァフィス(1863-1933)の詩 “Waiting for the Barbarians”を朗読なさったそうです。

この詩は中井久夫さんが翻訳なさっていて(『カヴァフィス全詩集』)、吉新さんがそのことを教えてくださると同時にテキストファイルにしたものを送ってくださいました。なかなかの名訳で、内容にも味わい深いものがあります。そこで皆さんにも転送します。(転載するときには必ず書籍名、中井久夫さん、みすず書房の名前を入れてください)。


野蛮人を待つ
Waiting for the Barbarians (KABΦH 1904)
中井久夫訳、『カヴァフィス全作品集(みすず書房)

「市場に集まり 何を待つのか?」

 「今日 野蛮人が来る」

「元老院はなぜ何もしないのか?
 なぜ 元老たちは法律も作らずに座っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  今 法案を通過させて何になる?
  来た野蛮人が法を作るさ」

「なぜ 皇帝がたいそう早起きされ、
 市の正門に玉座をすえられ、
 王冠をかぶられ、正装・正座しておられるのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  皇帝は首領をお迎えなさる。
  首領に授ける羊皮紙も用意なすった。
  授与する称号名号 山ほどお書きなすった」

「なぜわが両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 みごとな金銀細工の杖を握っているのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  連中はそういう品に目がくらむんだ」

「どうしていつものえらい演説家がこないのか?
 来て演説していうべきことをいわないのか?」

 「今日 野蛮人が来るからだ。
  奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

「あっ この騒ぎ。おっぱじった。なにごと?
 ひどい混乱(みんなの顔が何とうっとうしくなった)。
 通りも辻も人がさっとひいて行く。
 なぜ 皆考え込んで家に戻るんだ?」

 「夜になった。野蛮人はまだ来ない。
  兵士が何人か前線から戻った。
  野蛮人はもういないとさ」

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」


(中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」:みすず書房)より

中井氏による「注」 「野蛮人を待つ」:古代末期、侵入する蛮族を懐柔するのがローマ帝国の延命策だった時期を想定している。執政官《コンスル》、行政査察官《ブラエトス》共にローマ共和政期の官職でこの時期には名誉職。

            *   *   *

ここに描かれているのは、「野蛮人が来る」という、きたるべき大きな破局、自分たちの力ではどうにもならない変化がやってくるということが想定され、それを理由に国内のすべての重大事が棚上げにされ、ただ何かが起こるのを待っている状態、待つことそれ自体が目的になっているような状態です。現在の状況にあてはめて、野蛮人とはだれのことか、皇帝は、元老は、行政官は、演説家はだれなのかと、いろいろな読み方ができると思います。野蛮人をテロと置き換えれば現在のアメリカだし、野蛮人をアメリカと置き換えれば、イラクや日本の政権にもあてはまりそう・・・

最初このタイトルを見たとき、てっきりクッツェーの小説のことかと思いました。この作家を知るきっかけになった多少個人的な思い入れのある本で、植民地支配というものをするどく描いた迫力のある作品です(Coetzeeをクェツィーと読んでいたので、ながいあいだ「クッツェー」とは一致しなかった)。「夷狄を待ちながら」という標題、土岐恒二さんの訳で、 『集英社ギャラリー 世界の文学20』に収録されています。

じつはサイードも、この詩と小説の両方に言及していて、『ゴドーを待ちながら』なども引きながら、オスロ体制末期の状況について一つの記事を書いています。パレスチナ人やアラブの側がこれから起こるであろう大変革の予感をもちながら、なにひとつ積極的な対処ができず、ひたすら「彼らが決める」のを待っていた無力化された状態を描いています。

(関係のあるところを一部だけ翻訳)

「野蛮人を待つ」“Waiting for the Barbarians” はカヴァフィスの最も有名な作品(完全主義者だったので、本人は決して満足なかたちで完成したとは思わなかった)のひとつで、簡潔なスタイルのたった35行の詩のなかに一つのドラマ全体がすべて凝縮された傑作だ。想像上の古代ローマの背景が設定され、人々は都市の外にいる野蛮人の群れが攻撃を仕掛けてくるのを待っている・・・・・
 ・・・・・・この詩の表題と状況設定は南アフリカの優れた小説家J・M・クッツェーのアパルトヘイト時代の南アフリカを描いた小説(表題は同じくWaiting for the Barbarians『夷狄を待ちながら』)にも使われている。避けがたい変化が起こるのを、あたかも外部からやってくるもののように待っているのだが、実のところは内部からそれに対処しなければならない。これが、カヴァフィスのポイントだとわたしは思う。脅威を感じるようなエイリアンや外部者の存在(現実であろうが想像であろうが、そんなことはかまわない)は、社会がそのアイデンティティを維持するために必要な一種の神話的な野蛮に対する防壁のようなものであるだけでなく、外部の脅威を煽り立てることによって、長いあいだ見過ごされ、鬱積してきた内部の状況に直面することを先に延ばす手法としても必要とされているのだ。最後の分析では、「待つ」という前提それ自体がいきなり崩壊するため、外側と内側のどちらの問題もけっきょく取り組まれることはない。

(そのうち余裕ができたら全文訳するつもりです・・・)


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