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佐藤真監督の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』は2006年5月15日からアテネフランセで公開されます。公式サイトはこちら この映画についてのレビューを書きました。

同名の書籍も出版されました。映画には入りこめなかったサイードをめぐる多くの発言や思想、状況説明が別途編集されてサイードを理解するためのみならずパレスチナ・イスラエル紛争の根底にある問題を知るためにも格好の案内書となっています。ぜひお読みになってください。
映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』
Fad 映画レヴュー

これはエドワード・サイードの生涯や業績を忠実になぞる映画ではないし、本人が直接に登場するわけでもない。制作にとりかかろうとした矢先にサイードが亡くなり、映画は主人公の「不在」を前提に出発することになったからだ。だが佐藤監督は前作『阿賀の記憶』でも、いまはそこにいない人々の記憶と痕跡を描いている。「不在」を語る映像表現は、彼が追うテーマのひとつなのだ。

佐藤真のアプローチは、足元をはっきり見据えた等身大のものである。日本の日常からは遠く、ある意味で対極ともいえる中東のイスラエル/パレスチナに向かうとき、ひとりの日本人がどのようにそれを、どこまで迫ることができるのか。この問いが映画の中でくりかえされる。

日本においてイスラエル/パレスチナを語るむずかしさは、それが語り手の生活現場とつながっていないことだ。主張に対して現実の責任がともなうことはほとんどなく、言語の壁に守られて一方的な思い入れが許される。同じことばを自分の暮らしがかかったところで発することができるのか、みずからは決して傷つかない特権的な位置から批判することがどんな意味をもつのか──発言することにデフォルトで組み込まれている「軽さ」を意識せずにはおられない。

ましてや佐藤真は他ならぬサイードを主題とする映画を撮っているのである。サイードの映画である以上は「他者への視線」の問題に鈍感でいられるはずはなく、むしろ映像そのものによってこの問題に解答することが期待されているはずだ。この点については今後どのような映画評がでてくるのだろう。

サイードの思想や生き方の背景にあるものを求めて、佐藤監督はサイードの『自伝』(Out of Place)を唯一の手がかりに中東という多元的で複雑をきわめる世界に分け入った。そこに生きる人々のありようをみつめようとするとき、生活感をとらえることに監督は執着する。この監督の姿勢に、上記の問いへの一つの解答があるように思われる。また「自分にこの映画を撮る資格があるのかどうか」という監督の逡巡をふまえたうえで、結果的にこの映画は、過剰な歴史のしがらみでがんじがらめにされたイスラエル/パレスチナ問題を、先入観を取り払ってみつめるという、日本の監督の視線でこそ可能になる試みに成功していると評価できよう。

では佐藤監督の言うサイード的な生き方とはなにか。映画制作ノートには「境界線上にゆれるアイデンティティのあり方をおおらかに受け入れる態度」と記されている。アイデンティティとは典型的には国や民族や宗教によって線引きされる帰属意識である。それによって保障される安定感への欲求は、ともすると、わりきれない要素を排除し純正化をめざそうとする衝動にもつながる。そうした価値観に真っ向から疑問を差し挟むサイードの態度は、そのような純粋で固定した自己を確立することが不可能な境遇を背負った人物が長い試行錯誤を経てたどりついた自己肯定の道である。アウトサイダーにはならず、あくまで主流社会の内部にとどまり積極的に関わりつづけながら、この主張を貫徹するのは相当にむずかしい。サイードがこれを打ち出した70年代や80年代には、堅固なアイデンティティへの信仰が今よりもずっと強かったはずだ。

この境界線上にゆれるアイデンティティに呼応するものを求めて佐藤真が中東で出会った人々の人生や、インタビューに応じた多数の知識人のことばを通じて浮かびあがってくるのは、サイード的な生き方が、じつは今日の世界に生きる人々の多くが経験している現実にほかならないという事実である。難民となって、あるいは生活の糧を求めて、あるいはよりよき人生を求めて、世界中の多くの人々が生まれた土地を離れて暮らし、ときには帰るべき場所をもたずに、異なる文化や社会のなかで生活を築いていくことが日常化している現在、もはやサイードの声は少数の例外者のものではなくなっている。グローバリゼーションという、誰もが直視せざるを得なくなった90年代以降に急速に進展した現実に、ひとところに帰属しない多元的で流動的な自己を肯定的にとらえるサイードの考え方は、ある種の予言的な役割を果していたと言うこともできよう。

その一方で、こうした現実にもかかわらず(あるいはこうした現実のゆえに)声高に「愛国」を叫び対立を煽って人々を国や民族の枠にとじこめようとする力は、むしろ強まっている。つまるところその動きは、枠からはみ出た者たちの権利を否定することを合理化し、人権剥奪と搾取のメカニズムの肥大化を支え助長する役割を果している。押しとどめようもなく混ざり合い絡まりあう人々のあいだに無理やり柵を設けて引き離しても問題の解決にはならないというサイードの主張は、このような力に対抗するきわめて理性的な訴えである。


2006年4月1日 中野真紀子
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