Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

イスラエルの安全は、いまや伝説の獣である。一角獣のように、それはどこまでも追い求められるが、決して見つかることはない。永遠に、今後の行動目標にとどまるのだ。時が経つうちに、イスラエルはますます安全でなくなり、隣国からはいっそう疎まれるようになったが、そのことは一瞬の注意にも値しないらしい・・・・・・カフカの『流刑地にて』という非凡な作品は、途方もなく手のこんだ拷問装置を見せびらかす気の変な役人の物語である。この機械の目的は、犠牲者の身体中に文字を彫りこむことであり、針を埋め込んだ複雑な装置で全身に細い文字を刻まれていく囚人は、究極的には出血多量で死に至る。これはまさに、シャロンと彼の死刑執行人たちがパレスチナ人にしかけていることであるが、それに対する抗議は、最低限の、しるしだけのものにとどまっている。 ・・・・・・パレスチナ人の軍事占領というものは存在しないし、パレスチナ側の戦車も、兵士も、武装ヘリも、大砲も、語るに足るような政府さえも存在していない。それでも、イスラエルが発明した「テロリスト」と「暴力」は存在する。これはイスラエルがみずからのノイローゼをパレスチナ人の身体に刺青し、それに対する実効性のある抗議がイスラエルのぐずな哲学者や知識人や芸術家や平和活動家などの大多数から出ないようにするための発明だ。

・・・・・・要約すると、パレスチナ人がじわじわと死んでいかねばならない理由は、イスラエルの安全という、ほんの目と鼻の先にあるのだが、この国の特別な「不安感」のために決して実現しないものを、獲得できるようにしてやるためなのだ。世界中がこれに思いやりを示すよう求められるが、その一方で、パレスチナの孤児、老いて病んだ女たち、犠牲者を出したコミュニティ、拷問された囚人の声は、耳に届くことも、記録されることもないまま捨て置かれる。・・・苦悩や具体的な日常を表現する言語はハイジャックされてしまった、あるいは大きく歪められた結果、わたしの見るところ、、完全な作り話のほかには使い道がなくなったようだ。その作り話を目隠しにして、さらに多くの殺戮と精緻な拷問を、ゆっくりと、うるさくこだわりながら、容赦なく推進するためだ。これが、パレスチナ人を苦めているものの正体だ


細目にわたる懲罰
Punishment by Detail
Al-Ahram Weekly 2002年8月8〜14日 No.598

長期にわたって患うと、身体的な具合の悪さはもちろんのこととして、精神的にも、自分ではどうすることもできないという無力感でいっぱいになる。 けれどもまた、分析が冴え渡る時間が訪れるのも事実であり、それはありがたく思うべきだろう。この3ヶ月と言うもの、わたしは入退院を繰り返している。くる日もくる日も、長時間におよぶつらい治療を受け、輸血を受け、際限のない検査を繰り返し、ただ天井を見つめて過ごすだけの非生産的なときが何時間も続き、疲労と感染症で体力を消耗し、ふだんの仕事はできず、考えて、考えて、考える。だが、その間隙をくぐって、冴えきった思考と省察の時間が訪れ、それが時には日常生活を全体的にとらえることを可能にし、ふだんとは違った角度からものごとを見ることができるようになる(行動はほとんどできないのに)。パレスチナからのニュースを読み、殺戮と破壊の恐ろしい映像をテレビで観ているうちに、個々の報道から推測されるイスラエル政府の政策、とりわけアリエル・シャロンが考えていると思われることに、わたしは呆然としてしまった。シャロンのF16戦闘機の一つがガザを爆撃し、9人の子供を虐殺したという最近の事件の後、彼がパイロットに祝辞を述べ、偉大なイスラエルの勝利を自慢したと伝えられたとき、病的に錯乱した精神がどんなことをなしうるかについて、わたしは以前よりはっきりした考えを持つようになった。そのような精神が何を計画し、命ずるかということだけでなく、どのようにして他の人々までも同じような妄想じみた犯罪的思考にひきずり込むのかという、もっとたちの悪いことも含めて。イスラエル当局側の思考をさぐってみるのは、気色がいいとは言えないが、無意味なことではない。

だが欧米では、パレスチナ人の自爆攻撃にろくでもない関心が執拗に向けられたため、それよりずっと悪質なものが現実のひどい歪曲によって完全に覆い隠されている。悪質なものとは、きわめて意図的、計画的にパレスチナの人々に襲いかかる、イスラエル当局の(たぶんシャロン特有の)危害である。自爆攻撃は非難すべきものだが、それは長年の虐待と無力と絶望から直接的に生じたものであり、わたしの意見では故意に仕組まれた結果である。アラブ人やムスリムは暴力に走りやすいとされているが、そんな架空の性格はこの問題とはまったく関係がない。シャロンが望んでいるのは平和ではなく、テロリズムである。それを誘発する状態をつくりだそうと彼はあらゆる手段を使っている。その恐怖だけを残し、パレスチナ人の暴力、恐ろしく虐げられた民族の死にもの狂いの反応は、前後関係やそれを生み出したひどい苦しみという背景をすべて剥ぎ取られてしまっている。これを見ることができないというのは、人間らしさの不足である。それで悲惨さが少しでも緩和するわけではないが、少なくとも本当の歴史と本当の地理のなかにそれを位置づけることにはなるはずだ。

しかし、そのようなパレスチナ人のテロ──もちろん、それはテロである──の位置づけは、表面に出ることが一瞬たりとも許されない。切り離された現象、理由のない純粋な悪事としての注目は、それほどに呵責のないものだ。そのような悪事に対抗して、イスラエルが、純粋な善の行為という想定で繰り広げている気高い戦いとは、三百万人のパレスチナ系一般住民にさまざまなかたちで不釣合いに大きな暴力を加えるというすさまじい行為である。わたしが話しているのは、イスラエルによる世論操作のことばかりではない。イスラエルが、対テロ戦争というアメリカの等価物を利用していることも重要で、それなくしては、イスラエルがこれまでしてきたようなことは実行不可能だったろう。(実際、毎晩テレビ視聴者が見守る中で、細目にわたるサディズムを一つの社会全体に加えておきながら、処罰を免れるという奇跡をやってのけた国は、この地上ではイスラエルの他に思いあたらない。)この悪事が、いとも簡単にアメリカ人の空想と強迫観念を無分別に誇張して、ジョージ・W・ブッシュの反テロ軍事作戦の一環に意識的に仕立てあげられていることは、そのやみくもな破壊性の少なからぬ部分を説明するものである。熱意にあふれた(わたしに言わせれば腐敗しきった)アメリカの知識人軍団が、アメリカ帝国主義の善良な目的と必然性についての巨大な虚構をつくり出しているのと同じように、イスラエル社会は数多くの学者やシンクタンクの政策提言者、防衛関連や広報関連の仕事についている退役軍人たちを動員して、イスラエルの安全のために必要だとされる非人間的な[パレスチナ人への]懲罰政策を合理化し、説得力をもたせる作業に従事させている。

イスラエルの安全は、いまや伝説の獣である。一角獣のように、それはどこまでも追い求められるが、決して見つかることはない。永遠に、今後の行動目標にとどまるのだ。時が経つうちに、イスラエルはますます安全でなくなり、隣国からはいっそう疎まれるようになったが、そのことは一瞬の注意にも値しないらしい。だが、イスラエルの安全がわたしたちの倫理世界を規定してあたりまえという見方に、異議を唱える者がいるだろうか。もちろん、アラブやパレスチナの指導者たちではない。彼らは、この30年間というものイスラエルの安全のためにあらゆる譲歩を行なってきたのだ。このことは問題にされてもよいのではないだろうか。なにしろイスラエルは、核兵器を持ち、合衆国の納税者から無制限に供給される陸・海・空軍力を背景に、国の規模に比例させれば世界のどの国よりも大きな損傷をパレスチナ人や他のアラブ人に加えてきたのだから。結果として、パレスチナ人が経験させられている日々の細かな出来事は隠蔽され、さらに重要なことに、自衛やテロ撲滅という理屈で覆い隠されてしまう。テロリストのアジト、テロリストの爆弾製造所、テロリスト容疑者等々、無限にリストが続くテロ撲滅は、シャロンや嘆かわしいジョージ・ブッシュにはうってつけの仕事だ。テロリズムという観念はひとり歩きしはじめ、何度も重ねて正当化されているが、そこには何の証明も、論理も理屈も合理的な議論もない。

例えば、アフガニスタンは散々に破壊され、100人近いパレスチナ人が「標的となって」暗殺されたが(イスラエル兵に一斉検挙され、いまも拘置されている何千人もの「容疑者」については言うまでもない)、このように殺された人々はみな本当にテロリストだったのか、テロリストだと証明されたのか、あるいはテロリストになるところだったのか、そういうことは誰も尋ねない。この人々はみな、ただ断定されただけで、危険だと決めてかかられたのである。ラナアン・ギシン [イスラエル政府報道官]、アヴィ・パズネル [政府報道官]、あるいは ドーリ・ゴールド [首相顧問] のように横柄な報道官が一人か二人いて、おまけにアメリカ政府内にはアリ・フライシャー [ホワイトハウス報道官]のように無知と無定見に弁明をたれ続ける人物がいるというのであれば、狙った獲物はすでにしとめたも同然だ。疑念や、質問や、異議はいっさい無し。証明の必要もなければ、うんざりする気配りの必要もない。テロリズムとそれの偏執的な追跡は、いまや完全な円環構造の、予言が自己達成するような殺人と、選択の機会も発言の機会も与えられない敵の緩慢な死へと変形してしまったのだ。

、ギデオン・レヴィ、アモス・エロン、タニヤ・レイボヴィッツ、ジェフ・ハルパー、イスラエル・シャミールなどの少数の勇敢なジャーナリストを除いては、イスラエルのメディアにおける公論は、品質的にも誠実さにおいても恐ろしく後退している。愛国心と政府へのやみくもな支持が、懐疑的な熟考と真摯な倫理観に取って代わったのだ。 イスラエル・シャハクやヤコブ・タルモンやイェシャヤフ・レイボヴィッチなどの時代は過ぎ去ってしまった。「安全」と「テロリズム」についての愚劣な議論が、イスラエルの和平推進派や、さらには退潮いちじるしい左派の抗議の声に取って代わった観があるが、そのような主要論調から逸脱する勇気をもった学者や知識人(例えばゼエヴ・スターンヘル、ウリ・アブネリ、イラン・パペのような人々[ニューヒストリアンについては、ここ ])は、ほとんど思い浮かばない。イスラエルとユダヤ人の名において毎日のように犯罪が行なわれているというのに、知識人たちがさかんにまくしたてるのは、戦略的撤退について、あるいは入植地を含むべきかどうか、あるいは例の巨大なフェンスの建設を続行すべきかどうか(現代の世の中で、これ以上ばかげた考えが実行に移されたことがあっただろうか? 数百万の人々を檻に閉じ込め、彼らは存在しないと主張するのだ)などというくだらない議論ばかりだ。その様子は、軍司令官や政治家にこそ似合うものであり、独立した判断力と一定の道徳基準を持つ知識人や芸術家にふさわしいものではない。ナディン・ゴーディマ、アンドレ・ブリンク、アソル・フガードなどの南アフリカの白人作家たちは、アパルトヘイトの弊害について曖昧さやごまかしのない口調できっぱりと公言した。この人たちに匹敵するようなイスラエル人はどこにいるのだろう? そんなものは、イスラエルにはまったく存在しない。この国では、作家や学者たちは言葉を濁し、政府のプロパガンダを復唱するのみに陥っている。ほんとうに第一級の著作物や思想は、学術機関からでさえも姿を消している。

だがここで、この数年のあいだイスラエルを虜にしている行動や考え方に話を戻すため、シャロンの計画について考えてみよう。それが帰結するところは、窒息と、明らかな殺人と、日常生活の重圧という緩慢で系統的な手段によって、一つの民族集団をまるごと抹消すること以外のなにものでもない。カフカの『流刑地にて』という非凡な作品は、途方もなく手のこんだ拷問装置を見せびらかす気の変な役人の物語である。この機械の目的は、犠牲者の身体中に文字を彫りこむことであり、針を埋め込んだ複雑な装置で全身に細い文字を刻まれていく囚人は、究極的には出血多量で死に至る。これはまさに、シャロンと彼の死刑執行人たちがパレスチナ人にしかけていることであるが、それに対する抗議は、最低限の、しるしだけのものにとどまっている。パレスチナ人は一人残らず囚人になっている。ガザは、電気を通した鉄条網で三方を囲まれている。動物のように閉じ込められて、ガザの人々は移動もできず、働くことも、自分たちの野菜や果物を売ることも、学校へ行くこともできなくなっている。空からはイスラエルの飛行機とヘリコプターに狙われ、地上では戦車と機関銃によって七面鳥のように撃ち倒される。貧困と飢えが蔓延し、ガザは人類の悪夢と化している。ささやかなエピソードの一つ一つ(エレツ検問所 [ガザに入る唯一のゲート ] や入植地付近で起きていることのような)に、何千という兵士によって、ひとりひとりのパレスチナ人に年齢や性別や健康状態にはおかまいなしに加えられる侮辱、懲罰、耐えがたい無力化が反映されている。医療品は国境でとどめ置かれ、救急車は砲撃されたり拘留されたりする。民間人に対する組織的な集団懲罰として、何百という家がなぎ倒され、何十万という樹木や耕地が破壊された。この人々の大半は、すでに1948年にイスラエルによって自分たちの社会を破壊されて難民となった人々である。パレスチナ人の語彙からは「希望」というものが抹消されており、残っているのはむき出しの反抗だけだ。そしてシャロンと彼の手先のサディストたちは、テロリズムを排除するために占領が必要だとさえずり続けている。刻々と侵食を続けるこの占領はすでに35年も続いているのだ。この作戦そのものが、すべての植民地支配にからむ残虐行為がそうであるように、無益なものであるということ、あるいは、それはパレスチナ人の反抗を煽るだけで、弱めることにはならないということは、シャロンの閉鎖した心には届かない。

西岸地区は、1000台のイスラエル軍戦車によって占領されている。その目的は民間人を砲撃して威嚇することだけだ。外出禁止令は、長ければ2週間も連続する。学校や大学は閉鎖されるか、そこに行くことができない。主要9都市のあいだの移動が阻まれているだけでなく、各都市の内部でさえ移動ができないのだ。どの町も、いまでは荒廃しきっている──建物は壊され、事務所は略奪され、水道・電気システムは故意に破壊された。商業活動は壊滅した。子供たちの半数が栄養失調に陥っている。 住民の3分の2が、貧困レベルとされる1日2ドルを割り込んだ生活をしている。ジェニーン(イスラエルの装甲部隊による難民キャンプの破壊という重大な戦争犯罪も、コフィ・アナンのような卑怯な国際官僚がイスラエルの脅迫に屈したため、調査されることがない)では、戦車が子供たちに発砲し、殺しているが、それさえもパレスチナ民間人の殺戮という途絶えることのない流れの、ほんの一滴でしかない。これを実行しているイスラエル兵たちは、イスラエルの不法な軍事占領に無条件で忠実な奉仕を提供しているのだ。パレスチナ人はひとり残らず「テロ容疑者」である。この占領の真髄は、若いイスラエルの新兵が、検問所において、パレスチナ人にありとあらゆる形の私的な責め苦と屈辱を加えることが無制限に許されていることだ。日の照りつけるところで何時間も待たされる。医療品や生産物が腐るまで留め置かれる。すき放題にぶつけられる侮辱的な言葉と乱打、パレスチナ人の生活を窒息地獄のようにしている無数の検問所では、千人単位で順番を待たされている民間人に、突然ジープや兵士が凶暴に襲いかかる。何十人もの若者を太陽の照りつけるなかで何時間もひざまずかせる。男たちの衣服を脱がせ、子供たちの前で親を侮辱し、恥をかかせる。ただの個人的な気まぐれで病人の通過を禁止する。救急車を停車させ、砲撃する。パレスチナ側の死者数(イスラエル側の4倍)は日々上昇しているが、集計されることはまれだ。「テロ容疑者」とその妻子の数は増えているが、彼らの死は「われわれ」も遺憾に思っている、というのがイスラエルの言い草だろう。

イスラエルはよく民主主義国として言及される。もしそうであるならば、それは良心の欠けた民主主義国家、国の魂が弱者の懲罰に夢中になっており、統治者シャロンの病的な精神構造を忠実に反映している民主主義国家である。シャロン将軍の唯一の考え(この言葉が適当ならばだが)は、パレスチナ人を殺し、おとしめ、身体を損ない、追い払うことによって、「やつらが降参する」のを待つことだ。シャロンは自分の作戦(現在のものも過去のものも)の目標として、それ以上に具体的なものは何ひとつ提供していないし、カフカの物語の饒舌な役人のように、無防備なパレスチナ民間人を虐待する自分のマシンを自慢にしている。また同時に、シャロンはグロテスクな虚言を吐いているが、それを忌まわしくも煽っているのは彼の相談役や哲学者や軍司令官たち、加えて忠実なアメリカの家来たちの大合唱である。パレスチナ人の軍事占領などというものは存在しないし、パレスチナ側の戦車も、兵士も、武装ヘリも、大砲も、語るに足るような政府さえも存在していない。それでも、イスラエルが発明した「テロリスト」と「暴力」は存在する。これはイスラエルがみずからのノイローゼをパレスチナ人の身体に刺青し、それに対する実効性のある抗議がイスラエルのグズな哲学者や知識人や芸術家や平和活動家たちの大多数から出ないようにするための発明だ。パレスチナの学校、図書館、大学はもう何カ月間も通常の昨日を停止している。それなのに、欧米の「著述の自由」擁護団体やアメリカにおける学問の自由を声高に擁護する団体はいまだに抗議の声をあげていない。イスラエルでも欧米でも、このようなパレスチナ人の知識や学習の権利、通学の権利を完全に廃棄するような事態に対し、何らかの声明を出した学術団体はいまだにみたことがない。

要約すると、パレスチナ人がじわじわと死んでいかねばならない理由は、イスラエルの安全という、ほんの目と鼻の先にあるのだが、この国の特別な「不安感」のために決して実現しないものを、獲得できるようにしてやるためなのだ。世界中がこれに思いやりを示すよう求められるが、その一方で、パレスチナの孤児、老いて病んだ女たち、犠牲者を出したコミュニティ、拷問された囚人の声は、耳に届くことも、記録されることもないまま捨て置かれる。このようなおぞましい行為も、ただのサディスト的な残虐行為ではなく、もっと大きな目的に奉仕しているのだと、わたしたちは告げられる。なんとなれば、「二つの陣営」がはまり込んでいる「暴力の連鎖」は、いつか、どこかで、阻止されねばならないのだから。たまには、わたしたちも立ち止まり、憤りをこめて表明すべきだろう──軍隊と国をもつ陣営は一つしかなく、もう一方の側は国もない追放された民族であり、何の権利も、自衛手段も持たない人々なのだ。苦悩や具体的な日常を表現する言語はハイジャックされてしまった、あるいは大きく歪められた結果、わたしの見るところ、、完全な作り話のほかには使い道がなくなったようだ。その作り話を目隠しにして、さらに多くの殺戮と精緻な拷問を、ゆっくりと、うるさくこだわりながら、容赦なく推進するためだ。これが、パレスチナ人を苦めているものの正体だ。だが、どのみちイスラエルの政策は、最終的には敗北する。
(=^o^=)/ 16 August 2002 (reviewed version in October 2002)


訳注
☆ 1 <戻る> イスラエル軍は2002年7月22日、パレスチナ自治区であるガザを空爆し、イスラム教組織「ハマス」の軍事部門「カッサム隊」の創設者サラハ・シャハダ師(50)を殺害した。この爆撃で、同師を含め15人が死亡、うち9人は子供、約150人が負傷した。「テロリスト」殺害のために一般市民を巻き添えにした攻撃は、アラブ世界を中心に大きな国際的非難を浴びた。
シャロン・イスラエル首相は23日、「この軍事作戦は最大の成功の一つだ。テロと妥協はできず、戦わなければならない」と言明、対テロ強硬路線を継続する考えを強調した。市民の死傷について首相は「市民を攻撃する意図はない。被害を受けた市民については遺憾に思う」と述べたという。(毎日新聞2002年7月24日東京朝刊から)

☆ 2 <戻る>"targeted" assassination:英語圏とくにアメリカのメディアでは、イスラエルによる占領地のパレスチナ人活動家の暗殺を決してassassinationとは言わず、"targeted killing"(標的となって死んだ)という曖昧な表現でごまかしている。これはパレスチナ・イスラエル問題について私用される数ある婉曲表現の一つである。英インディペンデント紙の中東特派員ロバート・フィスクは、BBCも含め英米の主流メディアでは、このようなイスラエル政府の公認表現を使うよう内々の指示が回っていると指摘している。この他にも、イスラエルの占領地(occupied land)は"disputed" land (係争地)、占領地の諸都市の封鎖(blockade)は closure、イスラエルが占領地に不法に建設している入植地(settlements)は"neighborhoods"(最近ではoutpostとも)、自分たちの土地を奪った入植者と摩擦を起こすパレスチナ住民は"militant"(武断派)などと呼ばれている。
Home| Edward SaidNoam ChomskyOthers | LinksLyrics

(=^o^=)/ 連絡先: mailtomakiko@yahoo.com /Last modified: 02/08/168