番外編:ベル・フックス
ブラックフェミニストとして注目されているベル・フックスもまた、メディアによって再生産される人種およびジェンダーのステレオタイプについて辛辣な批判を行っています。以下は、「Vibe」マガジンに掲載された、ケヴィン・パウエルによるインタビューの一部です。


bell hooks

ブラック・パフォーマンスアートパルプ・フィクションギャングスタ・ラップカミーユ・パリアO.J.シンプソン

一見しただけでは、穏やかな口調で話すベル・フックス博士(グロリア・ワトキンス)からはハードコアという印象は受けない。そのペンネームのつけ方さえも、むしろ小心さを表わしているような感じがする。だが、実のところベル・フックスはハードコアだ。彼女はこの17年間に14冊の本を書いた(うちArt on My Mind: Visual PoliticsKilling Rage: Ending Racismの2冊は95年の新刊)。そのいずれもが、大胆極まりない内容である。どんなテーマについてもお茶を濁すようなまねはせず、脳天を直撃するようなこの人の主張の切れ味には、だれもが影響を受けずにはいられない。

神経質なまでに整頓されたニューヨークの集合住宅の一室で、ベル・フックスは僕にりんごジュースをすすめてくれた。そうするあいだにも、ひっきりなしにかかってくる電話に彼女はいちいち応対する。ニューヨーク・シティ・カレッジで英文学を教える彼女は、いまやたいへんな売れっ子なのだ。フックスのエッセイや本は、アメリカ中の学界や知識人の間ではベーシックスの一つになっている。だが、そのような本の売れ行きにも、「買って読まない人もいるでしょう」と、本人はいたって冷淡だ。作品に触発されたと直接言ってもらった方がうれしいと言う。

コーネル・ウェスト Cornel West やヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア Henry Louis Gates Jr.などと並んで、彼女は「ニュー・ブラック・インテレクチュアル」としてもてはやされている。だが、フックス博士は、これを黒人知識人の「栄誉のプランテーション」と呼び、そこに引き込まれるのをひどく警戒している。学生やフェミニストのあいだにカルト的な人気を確立しているにもかかわらず、いまだに「ベル・フックスって誰?」と聞く人も多いというのは、このよう彼女の警戒心が背景にあるのかも知れない。

今年43歳になるベル・フックス博士は自分を「探求者」であると言う。この人は、ポストモダン・フェミニズム論議をするかと思えばトゥパック・シャクール Tupac Shakur についても語り、これらの間を自在に行ったり来たりできるきわめて希な思想家のひとりだ。貪欲に書物を読み漁ると同時に、大衆文化にも熱心に目を注ぎ、これを自分の分野としてきわめて真剣に扱っている。それはみな、象牙の塔の狭い世界を超えた視野を持ち、一般の人々の心に迫り、真実を見出すという最終目標に到達するための手段なのである。 (Kevin  Powell)


CP:ベル・フックスというペンネームは曾祖母の名前をとったものですし、作品の中でも幼いころの家庭生活に基づいた記述も多いですよね。子ども時代で最も心に残っているのはどんなことですか?

人種隔離政策の中で育ったことで本当に大きな影響を受けたと思います。わたしたちが育ったのは隔離された社会でした。わたしはケンタッキーのホプキンズビルで、5人の姉妹と1人の兄(弟)に囲まれて育ちました。伝統的な南部の家父長的な黒人家庭でした。わたしの兄(弟)には6人の姉妹はいませんでした。6人の奴隷がいたのです。一方では、そのような男性優位の家族関係だったのですが、しかし同時にまた、そこには女たちの間の強い「姉妹の絆」もありました。

CP:ものを書き始めたのは、いつ頃ですか?

10歳か11歳のころに詩を書き始めたのが最初です。あのころは、一芸を披露してお金を集めるのが、ごく普通のことでした。いまでは忘れられていますが、隔離された黒人学校では必要なものを購入する資金がなかったのです。当時は、そういう事情から資金集めのためのイベントが開かれました。私たちは子どものころから、「ごろごろしてないで、自分の芸を使ってなんとかしろ」と教えられてきたのです。

わたしの芸は、役を演じることと詩を朗読することでした。そこで、ドラマ風のひとり語りをやりました。ジェイムス・ワイトカム・ライリー James Whitecome Riley の「小さな孤児アニー」のような詩を朗読したものです。パフォーマンスという感覚がこれほど日常に密着した環境で育ったというのは大きなことでした。もしテレビがおもしろい番組をやっていなければ、テレビを切って自分たちのショーをやっていたんです。このような伝統的ブラック・フォークカルチャーに存在するパフォーマンスの遺産はとても重要です。リチャード・プライア Richard Pryor のような大コメディアンを考えてみてください。彼が病気になった後で注目し始めた人たちは、彼がどんなにパワフルで考えの深いコメディアンだったかを忘れがちです。伝統的ブラック・フォークカルチャーに存在する、人を笑わせ、何かを感じさせる「語り」の技を、彼は非常に大切にしていたのです。

CP:今日の黒人コメディアンをどう思いますか、とくに冒涜的な言動について?

わたし個人としては気になりません。私たちの「語り」の伝統に乱暴な言葉はつきものでしたから。ただ、それに寄りかかり、それを唯一のパワー源とするようになってしまうと、芸術性は後退してしまうということでしょう。黒人パフォーマンス・アートのルーツは貧しい下層階級にあります。この人たちは、声や身体などみずからの手のうちにある資源のなかから一つの世界を創造しなければなりませんでした。このようなレベルのパフォーマンスアートを商品化し、より物質的に恵まれた人々(たいがいは白人という、あちら側の世界の観客)に受けるようにしようとすると、お笑いネタだったはずのものが全く違って響いたりするのです。

伝統的な黒人生活のなかで愉快とみなされるものの多くは、人種的な文化の壁を越えて誰にでもわかるようなものに焼き直そうとすると大半のニュアンスが失われてしまいます。よくあるのは人種差別的倫理に抗議する表現に白人が出くわしたときで、彼らはそれを理解できないか、あるいは瞬時に危険を嗅ぎとって拒絶反応を起こしてしまうのです。植民地支配をする側は、あなどっていられる限りは支配される側の抵抗に常に魅力を感じるものです。これは一種のサド・マゾ・ダンスと言えるでしょう。

CP:どういう意味ですか?

マスメディアはSMは性的な方面のものだと強調したがりますが、じつは日常生活のポリティクスにもハードコアのサドマゾ関係が存在しているのです。とくに黒人白人関係には、すさまじいSM的権力関係の構図が見て取れます。映画「パルプフィクション」でサム・ジャクソン Sam Jackson が演じたジュールが、いまだ多くの点で権力者に対し服従しているということを考えてみてください。このキャラクターは威厳があり深い知性と見識を備えていますが、それでもあんなばかげたカツラをかぶらされているのです。彼がいちばん重要な発言をする場面でも、このカツラのおかげで発言の重みがなんとなく打ち消されてしまうのです。

もしこれが、「パルプフィクション」のような映画を黒人監督がつくったのだとしたら、どうだったでしょう。私は「パルプ・フィクション」を見た直後、あの同性愛SMシナリオのレイプシーンがジョン・シングルトン John Singleton やマティ・リッチ Matty Rich やスパイク・リー Spike Lee の映画に出てきたとしたら、どうだっただろうと発言したことがあります。ゲイの白人たちがぞろぞろ出てきて、このシーンは同性愛への憎しみを表わしていると騒ぎたてるんじゃないでしょうか。あのシーンに特にこれといって面白いところなどありません。ただファシスト的なゲイ・バッシングの片棒を担いでいるだけです。ホモじゃない黒人とホモじゃない白人が同性愛者への嫌悪を通じて手を結ぶことができるということを思い出させるだけです。こんな事実は、いまさら面白くもないでしょう。排除に努めるべき昔ながらの悲しい事実にすぎません。

このことは、タランティーノ Tarantino が「ハリウッドにおける白人の期待の星」と位置づけられていることを示す一例だと思います。タランティーノという監督は、なにか高尚な解釈ができそうにみえるけれど結局はそんなもの何もない、というようなシーンを作るのがうまいのです。そういうやり方で、タランティーノのように同性愛ではない白人が、ゲイ・サブカルチャーの一番おいしいところを着服し、同時にそれを切り刻んでしまうのです。アフリカ系アメリカ人特有の言語表現についても同じです。彼はきわめつけの「文化の盗人」です。

CP:タランティーノの最初の映画作品「レザヴォア・ドッグズ」を誉めた人の多くが、いわゆる「ギャングスタ・ラップ」に対しては手のひらを返したように批判的です。

「レザヴォア・ドッグズ」は、「パルプフィクション」とは全く違う意欲的な作品だったと思います。この作品は、殺人を美化しているだけのものではなく、社会に対するある種の解釈と批判を意図したものでした。この点において、Ice-T の「警官殺し」と同一レベルのものなのです。ここで面白いのは、ちょっときわどい白人青年がこれをやったときには、何か複雑な理論的根拠があるんじゃないかと考えてみる人々も、黒人青年が同じことをやった場合には、そのような気を起こさないという傾向です。彼らには、Ice Cube や Ice-T の音楽の中にも何か複雑なものを見出そうとするような態度は見られません。「彼らが言いたいのは、“さあ、お巡りを撃っちまえ”ということだけで、支配や抑圧やファシズムの問題などこれっぽっちも示唆されていない」と受けとめているのです。 Ice-T が『The Ice Opinion』という著書を出版したことの重要な意義は、彼が自分たちの活動にも思想的な背景があるんだということを人々に認めざるをえないようにしたことです。わたしたちは、ただ思いつくままに汚ない言葉をはき散らしてるわけじゃありません。

CP:「わたしたち」とおっしゃいますが、こうしたラッパーに強い一体感を持ってらっしゃるわけですか?

アメリカ社会で黒人言葉を使うアーティストは、白人の意識において黒人言葉はつねに愚鈍という観念と結びつけられてきたことを承知しています。アーティストとしての私の使命の一部は黒人言葉の美しさと美的な複雑さを理解することのような気がします──これがわたしを Ice Cube のみならず Snoop Doggy Dogg とさえ文化的に結び付けるものなのでしょう。白人だけでなく、黒人特権階級のあいだにも、方言的(ヴェナキュラー)な文化は複雑さや深みに欠けるという認識があります。黒人のなかでも Henry Louis Gates のような知識人は「方言的な文化」の擁護に回りますが、彼らの擁護には、「こういう無頼な黒人たちが本当は何が言いたいのかは、われわれの方がよく理解している。彼らと白人のメインストリーム文化との間の仲立ちをしてやろう」とでも言わんばかりの、なにか恩着せがましいところがあります。

CP:あなたは『アウトロー・カルチャー』の中で、いわゆるギャングスタ・ラップについて「アーバン・プリミティビズム」という言葉を使って論じています。この黒人アートの一形式に対して向けられてきた攻撃についてコメントしてください。

あたかも黒人男性の性差別意識や女性蔑視が黒人以外の男性の性差別より悪質で始末が悪いかのような言動が横行していることを、世間ははっきり認めたがりません。こういうことが起こる背景には、白人女性たちが、当世風のフェミニズムには染まったけれども人種差別は捨てていないという事実があると思います。必然的に、彼女たちは、男性中心主義の究極表現として黒人男性に目を向けたのです。今日でも、カミーユ・パリア Camille Paglia やナオミ・ウルフ Naomi Wolf のように、この種の白人女性の君臨がみられます。彼女たちはラジカル・フェミニズムを代表する一面もありますが、腹の奥ではきわめて反動的なところもあるのです。

ラップの暴力や女性蔑視をめぐる議論の多くは、たんに洗練されたスケープゴートづくりに過ぎないのではないかと思います。ホンネでは性差別主義者で女性を蔑視している黒人説教師たちがフェミニズム的な立場からラップを非難する行動をとる姿は、なんと皮肉なものでしょう。黒人ブルジョワたちのあいだには、黒人文化からストリート言葉やストリート文化を排除し、新鮮で清潔なものにしたいという強い願望があるのです。彼らは、白人からジャングル・バニーと見られるかも知れないなどとは気にもしてない黒人大衆を、本気で監視したいと思っているのです。

CP:あなたの同世代の文化的表現とヒップホップ世代の文化的表現はどう違いますか?

現代の若者は「白人からどう見られるかなんて問題じゃない。どのみち、この世にろくなことはないのだから。だいじなのは、自分が望むような在り方を追求することさ」と言います。彼らより上の世代の黒人は、これにどう答えていいかわからないというところじゃないでしょうか。というのは、若い世代のこうした態度は、従来の黒人文化に欠けていた主体性の表明だからです。すなわち、「白人からどう見られようが気にしない。どのみち白人文化のなかで成功できるとは思えないから」という主張です。

CP:それがギャングスタ・ラップの人気の理由の一つですか?

ギャングスタ・ラップは一元的にはとらえられません。とくに若者に対し説得力があるのは、権威に対する抵抗という側面です。しかし同時にまた、完全に資本主義の原理に組み込まれたものという側面もあるのです。ギャングスタ・ラップにはまた、人種に基づく連帯感と「おれにケチをつけやがったら、ぶっ殺してやる」という典型的なギャング気質とのあいだの緊張関係もあります。トゥパックが射殺された事件は、このようなギャング気質がどれほど人種的連帯を分裂させているかを示しています。この才能ある黒人青年を殺害したのも黒人青年であり、彼らの行動は伝統的なラップにある人種的連帯の精神には基づいていません。

この文化では、生死を決する究極の力が男らしさの神髄と固く結びつけられています。フェミニズムは、この状況を変えることは何ひとつ果たしていません。喧嘩早さを誇示することが、男らしさの証明となるのです。たとえそれが、友人と一袋のポテトチップスを争い合うようなくだらない喧嘩であっても、愛国心の名のもとに外地へ赴き他国民を撃ち殺すことであってもかまわないのです。

CP:一般的な黒人女性の描かれ方について話してください。ラップの世界でも、他の分野でもかまいません。

私たちの文化が黒人女性に対し深い憎悪を抱いているということは、誰も認めたがりません。皮肉なことに、この憎しみの根は、「裏切り者」という黒人女性の伝統的なステレオタイプにあるのではありません。例えば、ハイレ・ゲリマ Heile Gerima 監督の「Sankofa」という映画をとってみると、黒人文化の「裏切り」が、白人男性に繁殖目的でレイプされる黒人女性の身体を通して表象されています。しかし、現実のアメリカ黒人の歴史においては、黒人女性はつねに抵抗闘争の最前線に立ってきました。裏切りどころか反抗の最前線に立ってきたのです。伝統的に、白人男性と寝る黒人女性のイメージは売春婦でした。黒人娼婦が白人の客をとることが利己的な裏切り行為であるなどと本当に言えますか?実のところ、それは歪んだ構造の犠牲としての、徹底した無力の象徴ではないでしょうか。

CP:しかし、権力構造に頑強に抵抗した数人の黒人女性もいるではありませんか、オプラ・ウィンフリー Oprah Winfrey のように...

オプラ・ウィンフリーは、悲惨な成功者だと思います。彼女は、個人的な内面の障害を売り物にして成功したという点で、マドンナ Madonna と似ていなくもありません。実際、そういうものが人気の一部となれば、「回復する」ことが不可能になります。不健全なところが買われたわけですから。

オプラの問題は、名声とスターの地位に中毒してしまったことです。マイケル・ジャクソン Micael Jackson のような他のアイドルたちにも同じことが言えます。この人たちは想像を絶するほどのお金持ちですから、しばらく仕事から手を引いて自分を見つめ直す時間をとることができないはずがありません。オプラ・ウンフリーのような人気スターを通じて送られてくるメッセージは、白人文化にこびへつらうことによってのみ、黒人はトップにのぼりつめ、その地位を保つことができるということでしょう。

わたしがこんなことを言うと、黒人の多くは「そんなひどいことがよく言えるもんだね、ベル。出世した黒人は絶え間なく攻撃されているというのに」というでしょう。黒人バッシングと、建設的な批判を下すことは、区別されねばならないと思います。わたしたちは出世した黒人たちをガラスの檻に囲い、まるで「成功者の動物園」のようなものを作っているのです。これでは、わたしたちは本当は自由について語っていないことになります。植民地化のパラダイムを打ち破るような議論はしていないのです。「批判するな」と言うことは、そのシステムを持続させることにつながるだけです。

CP:マイク・タイソン Mike Tyson やマイケル・ジャクソン、O.J.シンプソン Simpson のような人々が犯罪を追及されたとき、多くの黒人が手放しで彼らを擁護したことについては、どうお考えですか? 実際、この一連の動きはマイク・タイソンが始めでもないようです。クラレンス・トーマス Clarence Thomas 判事を取り上げてみましょう。マイク・タイソンやO.J.シンプソンは日陰の社会の出身で、彼らの成功と本人のアイデンティティの間には常になにかアンビバレントなものが付きまとっていました。しかし、クラレンス・トーマスは白人システムの中で教育された人間です。なぜ、彼のように黒人解放の推進を支持していないことが明白な人物に対してさえ、黒人たちは口を揃えて支持を表明するのでしょうか。これではまるで、黒人の男らしさには深みも複雑さもないと黒人たち自身が信じ込まされてしまったようです。

おっしゃるとおり、マルコムX MalcomX とファラカーン Farrakhan の違いがわからないのも黒人文化です。彼らの大きな違いのひとつは、ファラカーンが資本主義体制の完全な支持者であることです。この人物が合衆国政府やアメリカ社会にとってそれほど脅威とならずにすんでいるのは、彼が自由競争のシステムを完全に支持しているためです。これに対し、マルコムXは本気でこのシステムに疑問を提示し、世界的な反帝・反植民地闘争と連帯していました。

これが意味するところは、じつはわたしたち自身の中にも人種偏見が浸透していて、黒い肌しか目に入らないようになっているということです。「おや、困っている人がいる。この人たちは黒い肌をしている...」というように。もちろん、心の奥ではわたしたちはO.J.シンプソンやマイケル・ジャクソンやマイク・タイソンに同情しています。人種戦争の戦場で負った彼らの傷は、わたしたち全員が共有する傷でもあるからです。O.J.シンプソンが、自己のアイデンティティ、黒人であること、自己愛などの矛盾に悩まされていたことを、わたしたちは知っています。彼の抱えていた矛盾は、白人優位の社会で生きるわたしたちにとっては基本的な問題なのです。シンプソンやタイソンにわたしたちが自己を投影し、彼らを象徴として扱うということは、彼らの行為(犯したとされている犯罪)を大目に見ることとは同じではありません。ただ、不合理で正気を失った行動に彼らを駆り立てた情緒的障害について、わたしたちはある程度理解しているということなのです。

CP:彼らの犠牲となったアニタ・ヒル Anita Hill やデジリー・ワシントン Desiree Washington、ニコール・ブラウン・シンプソン Nicole Brown Simpson のような女性たちについては、どう思いますか?

この女性たちは被害者ではありますが、同時にまた、自分たちを傷つけたシステムに対する盲目的な信奉者でもありました。これを指摘しても、彼女たちの受けた苦しみを矮小化することにはならないと思います。彼女たちは、性による差別を信じていました。フェイ・レズニック Fey Resnick の評伝本に多少なりとも信憑性があるとするならば、ニコール・ブラウン・シンプソンは性差別や人種的なステレオタイプに異議を唱えるような女性ではなかったようです。黒人男性は性的能力が高いという人種的なステレオタイプに注ぎ込んで、そのあげく、自分がつぎ込んだそのシステムの犠牲になったのです。

女性を被害者としてだけみるのは、もう止めにするべきでしょう。女性もまた政治的な選択をする者としてとらえるべきです。アニタ・ヒルやデジリー・ワシントンは自分の身に起きた体験を通じて先鋭化したといわれていますが、わたしが望むのは女性たちが被害を受ける前に先鋭化できるような社会です。

CP:現在の黒人指導層の状況をどうお考えですか?

個人的な見解では、黒人指導層が危機的な状況にあるのは、黒人のあいだに性差別が続いていることが原因だと思います。指導者の不在というとき、そこで意味されているのは、米国黒人の集合的な想像力をゆさぶるようなカリスマ的な男性リーダーがいないということです。わたしたちがカリスマ的な女性リーダーを受け入れるようになるのは、いつのことなのでしょう。アンジェラ・デイビス Angela Davis を政治シンボルとして語ることはできますが、彼女がリーダーシップをとるというような議論は不可能です。左翼的な政治思想に多くの黒人の目を開かせたという点では確かにマルコムXの方が勝っていましたたが、それはアンジェラ・デイビスが劣っていたからではありません。彼女の業績の価値を認めず、さらに闘争を進めるよう彼女に求めようとしない、黒人社会の性差別のせいなのです。同じことが、他のパワフルな黒人女性──たとえば批判的思考、カリスマ性、政治展望をかね備えたジュン・ジョーダン June Jordan など──についても言えます。でも、黒人はこういう人たちには目を向けないのです。

マスメディアで取り上げるようになったことから、誰が次の黒人指導者になるのかという問題を、次第に白人文化が左右するようになってきました。ファラカーンでさえも、ある意味で合衆国の承認というお墨付きを頂戴したと言うことができます。いったんファラカーンの映像を流し始めると、白人マスメディアは彼を指導者として容認し、女性の黒人指導者は登場させなくなりました。ジョスリン・エルダー Joycelyn Elders は指導者ですが、はたして一般の黒人が彼女を擁護し、NAACP(National Association of Advancement of Colored People黒人向上協会)の新リーダーとなってビジョンを打ち出してくれるように要請するでしょうか。黒人たちが性差別を放棄し、黒人女性の非凡な潜在的統率力を活用することができて初めて、黒人解放闘争の刷新と前進が可能になると思います。
< VIBEmagazine 1995年4月15日号から >

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