エヴァ・イマード

遠い場所の記憶
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(第十章)夏休みのカイロへの帰省は、ズールに戻ることも意味した。わたしがプリンストンの学生になったころには、ズールは端的に言って、そこで会えるはずのエヴァ・イマードだけを意味するようになっていた。数年後にレバノンで何がおこったかを考えれば──一九五八年の内戦、七〇年代から八〇年代にかけてのパレスチナ時代、一九七五年に勃発した十七年におよぶ破滅的な内戦、一九八二年のイスラエル軍の侵攻──激変が訪れるまでのあいだ毎年途切れることなく続いたわたしたちのズールの夏は、一種の長引いた白昼夢のようなものであり、その中心に存在したのは、エヴァに出会って以来、限りなくゆるやかに展開したわたしたちのロマンスであった。日曜日は別として、ほとんど一日中彼女といっしょに過ごすことばかりに夢中になるのを妨げるものは当時何ひとつなかったように思われた。

わたしたちは、ほとんど気づかぬほどゆっくりと惹かれあっていった。いつも一緒にダブルスで試合をし、隣り合って座り、初歩的なブリッジの一種であるトランプ・ゲームでもパートナーを組み、ささやかな相互の信頼感を育んでいた。保守的なアラブの家庭に育ったエヴァは、彼女のような若い娘が一九五〇年代半ばにはそうあるべしとされていたように、控えめで品行方正だった。彼女の学歴は中等教育で終わっており、当時のわたしは気づいていなかったが、他にどのような選択肢があるわけでもなく彼女はただ結婚を待っているだけだった。それまでのどの女性よりも彼女に惹かれ、愛着を感じていることはわかっていたけれど、わたしの内省や夢想のなかにふたりの未来が存在する余地はまったくなかった。三年か四年ほどの夏のあいだ、わたしは次第に彼女に惹かれていく自分に気づいたが、くだけたつき合いのなかの日常的なひやかし以上のことは何も言えず、何もできなかった。

肉体的にはもちろん言葉のうえでさえ何ひとつ公然としたことが起こらないまま彼女と親しくしていることには密かなスリルがあった。わたしは毎日彼女に会わなければ気がすまず、一緒にいるときには一瞬運も逃さず、自分が彼女のことを慕っていると同じように彼女もわたしのことを気にかけてくれているというしるしを、たとえどんなにかすかなものであっても、見つけようとした。だが、たとえわたしたちの互いに対する愛着が口に出されぬままだったとしても、傍目には、何気ない形で表現されたとはいえ、明らかだったようだ。「エヴァとエドワードのダブルスはもう終わったの?」とネリーに聞かれたり、映画館では「あなたとエヴァの席はあそこよ」と言われたりするのが当たり前のようになっていた。「おまえの新しいラケット、もうエヴァに見せたのかい?」。両親はどちらもわたしたちの友情については何も知らなかった。わたしたちは一年のうち九ヶ月は離れて暮らさなければならなかったけれど──彼女はタンターに、わたしはプリンストンにいた──ズールで彼女に再会すると、まるできのう別れたばかりのようにふたりの関係は一瞬にして復活するのであった。それほど頻繁ではな かったが、わたしたちは心のこもった穏当な手紙を交換した。わたしは彼女の手紙をポケットに何週間も入れっぱなしにし、そうすることによって少しでも彼女に近くなったような気になっていた。

母がエヴァのことを聞きつけるのは避けられないことだった。父はエヴァの年齢について触れ──「おまえが人生の盛りになる頃には、彼女は六十歳のばあさんだ。それがどんなだか、想像できるか?」──そして、一連の決り文句のなかから取り出した「独身時代はひっぱりだこでも、結婚したとたん見向きもされなくなる」という脅すような箴言を付け加えた。少なくとも、父については彼がわたしをどう見ているかがはっきりわかったが、母についてはそうはいかなかった。最初は彼女の行動はかなり用心深く、エヴァやエヴァに対するわたしの態度については中立的な好奇心といったようなものしか示していなかった。しかし彼女のトーンは次第にきつくなり、「どうせ、エヴァも一緒にいたんでしょ?」などと聞く声にはかすかに挑戦的な響きがあった。やがてエヴァは、礼儀作法とたしなみについてある一線を超えたものと映るようになったらしい──「おまえみたいな子供といつも一緒にいるなんて、彼女が何をたくらんでいるか知ったらご両親はなんと思われるやら。結婚相手を見つけるチャンスが浪費されているのがご両親にはわからないのかしら」。

氷河のように悠々とした進展のなかで(三年ほどかかった)ようやくエヴァとわたしが互いの地位を認めるようになるころには、母にエヴァのことを話したり、母のおっせっかいな意見に反応したり(いかに簡潔にであろうと)することは避けるべきだと潜在意識のなかでわたしは気づいていた。エヴァの年齢、うちとは異なり概して無為な彼女の生活スタイル、彼女の宗教(ギリシャ正教)、フランス語を母語とすることなどに母が危惧を持ったのは明らかであったが、わたしたちが交際を続けることに断固反対であるとは思ってもみなかった。

一九五六年の夏、わたしが二十歳でエヴァが二七歳になりかけていた頃、タッバーラ・クラブがグループを組んでベイルートの海岸へ出かけるという企画を実施した。それは十年前に家族で遠出したときのものとはぜんぜん違っていた──親たちは同行しなかったし、うるさく監視されることもなかった。その年のわたしたちグループの目的地は、海を見下ろす断崖に建てられたレストラン=ナイトクラブに付属する「エーデンロック・プール」というカリフォルニア様式のひょうたんプールで、その隣には「ピジョン・ロック」という岸壁がそびえ、またエーデンロックの真下には「スポーティング・クラブ」という新しいビーチ・クラブがあり、岩の上に活気のあるカフェ、無数の日光浴場、バーが建ち並んでいた。「スポーティング」には海水が侵入してくる入り江がいくつもあり、海が荒れていなければ漕ぎボートを借りてピジョン・ロックの方に漕ぎ出し、その向こうにあるひんやりした洞窟に到達することもできた。わたしはエヴァにそれをやってみようと提案した。海は絶好の穏やかさで、陽光はすべてを貫き通すように眩しく、あたりいちめんが素晴らしく落ちついた静謐に満たされていた。彼女 を向かい側の席に乗せて、わたしは「スポーティング」の敷地内からボートを漕ぎ出し、やおら斜めに船を戻して巨大な岩陰に入っていった。ふたりとも、他の人々の詮索好きな目を避けたかったようだ。

ワンピースの水着をつけたエヴァは、これまでに見たことのないほど魅力的だった。滑らかな褐色の皮膚、申し分ない肩の曲線、優美な脚線。顔立ちは俗に言う美人の標準には当てはまらなかったが、生き生きとした敏感な表情の変化はわたしにはたまらなく魅力的だった。ごつごつした岬の下でわたしたちは初めて抱擁した。抱擁により、それまで抑圧されてきたわたしの感情がすべて解き放たれた。わたしたちは愛情を告白し合い、突然スポットを浴びた語り手のように、わたしたちのあいだに何年も続いてきた遠慮と秘められた憧れについてあらためて互いに告げあった。わきあがる熱情の激しさにわたしは唖然とした。その午後わたしたちはズールに戻り、晩にはふたたびグループの他のメンバーとともにシティ・キネマで会い、暗闇の中で隣り合って座り、何度も何度も愛していると情熱的に互いの耳に囁き合った。

映画館を出て、皆が自分たちを見ていることを意識しながら、わたしたちは何気ない様子でさよならを言い、エヴァはネリーと一緒に去っていった。翌日にはわたしは出発する予定で、九ヶ月は彼女に会えないことになっていた。妹のロージーと車に乗り込んだわたしは、ひどい腹痛に襲われた。翌日わたしを診察した医者は、わたしの胃腸はやや虚弱だが別段これといった症状はないと診断した。プリンストン宛てに診断証明が出され、病気のため帰還は一週間遅れるという説明がなされた。恋愛が原因かどうかわたしにはわからないが、もちろんわたしはエヴァとそんなにすぐに別れるのはいやだっだ。

わたしの本当に最後の晩、エヴァを車から降ろした後でうちに帰ると、母がまだ起きて居間でわたしを待っていた。以前は寒々としていた居間にも、いまでは品の良いアームチェアが置かれ、床に敷かれたペルシャ絨毯や母がベイルートの画商から購入したレバノンの風景画などが和らいだ雰囲気をつくりだしていた。母はわたしがズールの灯りも乏しくひと気のない街頭をうろついているのが心配で、明日はニューヨークに向かう二十時間の旅のため早起きしなければならないというのにこんなに遅くなったことが心配だと主張した。いままでどこにいたのか執拗に問いただす彼女の声には予想外の思いやりのない辛辣さがあった。自分がどこに行ってきたのか、これからどこへ行こうとしているのか、いつもは喜んで母に話すわたしも、今回は自分とエヴァの両方を守ろうとして、しぶしぶと、そっけない返事を返すばかりだった。ありがたくない過ぎ去った時代から戻ってきたとでもいうように、かつての攻撃されやすい自分が復活した。「ついでに彼女とキスもしたんだろう?」彼女は強く迫り、初恋の喜びを罪悪感と居心地の悪さに変えてしまった。

母の口調には、話題がセックスや性的特質のことに及ぶといつも感じられた嫌悪感が篭っていた。母の質問に苛立ち、あんたの知ったことじゃないと言い返しながらも、わたしは心のどこかで、確かに彼女の関知するところだとみとめていた。母のとぐろを巻いたアンビヴァレンスは解けていなかった。わたしへの愛情から、わたしが他のいかなるものに惹かれても彼女はそれを自分のわたしへの支配力の後退と受けとめた。にもかかわらず、また同時に彼女はセックスを嫌悪していたにもかかわらず、人は結婚するものだという非常に月並みな観念を持っていた。

わたしはその後二年間にわたりエヴァと恋愛関係にあったが、エヴァにとっては結婚がわたしたちの関係の論理的な帰結なのだということを認めるのを、わたしはほとんど子供のように拒絶していた。一九五七年にプリンストンを卒業したとき、少なくとも二人のエヴァの友人から結婚を真剣に考えるようにと説得された。ハーバードで大学院コースを始める前にわたしは次の一年(一九五七年から五八年にかけて)をエジプトで過ごすことになっていた。エヴァは最近夫に先立たれた姉と一緒にアレクサンドリアに住んでおり、わたしは表向きには父の仕事のためという名目でそこへ行き、エヴァに会った。わたしたちの肉体的な関係は、情熱的ではあったが一線は越えていなかった。それを越えてしまえば、わたしたちは事実上夫婦とかわりのないものになってしまうだろうとふたりとも認識していたからだ。そして、わたしがいつも彼女の深い愛情と感受性の表れと見なしていたものに従って、エヴァはわたしを抑止し、わたしに責任を負わせたくないのだと言った。変わらぬ情熱を抱きアレクサンドリアで密会を重ねるあいだに、エヴァの強さ、知性、肉体的な魅力に対するわたしの賞賛は高まっていっ た。彼女はインテリではなかったが、わたしが自分の読んだものや発見したことについて話すとき、素晴らしい忍耐力と興味を持って耳を傾けてくれた。エヴァはわたしの新しい対話者となり、彼女に取って代わられた母は、すでにわたしの注意や親密さが自分から他の女に移行しているのに感づいていた。

翌年からは膨大な距離で引き割かれ、互いに大きく異なる生活をし──わたしはハーバードの大学院生として、彼女は家族で最後に残った未婚の娘としてタンターかアレクサンドリアで──わたしたちが会う機会は次第に少なくなっていった。もしわたしたちが結婚しなかったならばエヴァの人生はどんなに甚大な影響を受けるだろうということに次第に認識が深まるにつれ、わたしの幸福感は色あせていった。エヴァの家族は彼女の生活を耐え難いものにしており、彼女が数ヶ月の間ローマに滞在し、美術史とイタリア語を学ぶことも、しぶしぶながらやっと許してもらったほどだった。エジプトへ帰省する何度目かの旅行の最中、本人から聞いたところでは、彼女はついに、ほとんどやけになって、カイロのうちの母を訪ねて彼女の承認をもらおうと決意した。結婚問題についてのわたしの優柔不断を解決するにはこれしか道がないと彼女は考えていた。エヴァが到着したときわたしは遠くハーヴァードにいた。彼女はうちの母から心のこもった歓迎を受けたが、後にエヴァや、母や、妹たちの一人からそれぞれ聞いたことを総合すると、わたしにはそこに母の驚嘆さえ感じるような技巧が見てとれるのであ った。

わたしへの愛情を断言しながら、エヴァは母が自分に対してどのような不満があるのか教えて欲しいと切り出した。控えめな、持ち前の慎み深さでエヴァは自分の主張を信頼のできる説得力のある言葉で訴えた。母は辛抱強く、また本人が後に語ったところでは、共感をこめて、それに聞き入った。やがて、自分の番になると母は次のように答えた。「包み隠さず正直に申し上げましょう。あなたは、美点に恵まれた素晴らしい方です。問題はあなたではありません、エドワードのほうです。あなたは彼にはでき過ぎなのです。彼はやっと大学を卒業したばかりで、これから何をするつもりなのかはっきりした考えがありません。本人はこの先まだ何年も研究を続けたい、さもなければただのらくらしていたいなどと言っているので、当分は自立できないでしょうし、ましてや妻子を養うことなどできるはずもないのです」。エヴァはすばやく異議を差し挟み、自分にはふたりで生活していくに充分な金があると主張したが、母はその点については無視することに決め込んだ。「あなたは成熟した、とびぬけて洗練された女の人で、これから充実した人生を歩もうとしています。エドワードの方はといえば──も ちろん息子として大きな愛情を持ってはいますが、客観的に見ることだってできます。わたしはあの子をあまりにもよく知っているのです──彼はまだ完成の域に達していません。これまでにみせてきた投げやりなところや集中力のなさを思うと、あの子がこの先どうなっていくのかとても心配で、不安さえ感じると言わねばなりません。もちろん、彼には大きな可能性があるとは思っていますけれど、とてもあなたに対して、あの子に期待をかけろなどと、誠意を持って言えた義理ではありません。どうしてあの子のように不安定な人間に賭けて、あなたの未来を棒に振ろうとするのでしょう。わたしの忠告をお聞きなさいな、エヴァ。あなたにはもっとよい道が開けているはずです」。

この件で母をなじったとき、わたしは彼女の意見のうちどれが一番わたしを傷つけたのか、ほっとさせたのか、動揺させたのかを整理することがほとんどできなかった。たくみな駆け引きで母はエヴァをすっかり面食らわせた──自分を弁護するつもりでやってきたエヴァは、気がついてみると、母に対して彼女の息子の美点を確信させようと一生懸命になっていた。わたしを愛しているから、自分だけが現在のわたし、過去のわたし、これからのわたしを知っているという母の始末の悪い主張は、いつもわたしを怒り狂わせた。「自分の息子のことはわかっているわ」と母はおごそかに宣言し、彼女の不承認や、自分だけが知っているとするいつも変わらぬわたし(長い目で見れば失望の種)に、わたしを縛りつけた。母にもう少し温情のある見方をしてほしかったというよりも、わたしが変わるかも知れないという可能性を彼女に受容れて欲しかったのであり、彼女が落ちついた自信と不滅の快活さという、こちらには気がめいるような態度で保持している見方──まるで彼女の息子は一連の「美徳と悪徳」の在庫目録に永遠に縛り付けられており、そこでは彼女が第一の、そして間違いなく最も権威ある記 録係りだといわんばかりの──を少しは改めてもらいたかったのである。

同時にまた、母がエヴァの結婚計画を脱線させたことに、かすかに感知できる程度の些細なものではあるが、わたしがほっとしたのも事実である。母の隠れた功績は、わたしをそっと突ついて自分の影響下に戻るよう促し、母の愛情(どれほど特異で不満足なものであれ)に心地よく浸ることを許し、同時にエヴァとの関係をこれまでとは違った、冷めた目で直視するよう促したことである。なぜ、わたしは家庭という責任をいま引き受けなければならないのだろう(結婚は、「永遠に」耐え忍ぶものとされる基本的に地味で、楽しみのない営みであると、母によって描かれていた)、なぜエヴァとわたしが友人として交際を続けてはいけないのだろう?母のエヴァに対する警告の中に隠されていたのは、結婚というものの恐ろしい重みをもたず、「母」との関係が引き続き支配的であり得るような無責任な交際の、わたしに対するそれとない是認であった。

数年後ズールで、母がわたしに手渡したエジプトの日刊紙「アフラーム」の記事で、エヴァが彼女のいとこと婚約したことを知った。わたしも当時他の女と交際しており結婚を予定している(エヴァの婚約の記事を読んだその週に実行された)ということを、おそらくエヴァは聞いていたのだろうという考えがわたしに浮かんだ。わたしの最初の結婚は短い、不幸なものであり、自分がエヴァにふさわしくないという憂鬱な気持ちを強めることになっただけだった。彼女にはその後四十年近く一度も会っていない。
『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright 2001 Misuzu>

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