Noam Chomsky

☆これは2002年4月の上映会についての文章です
東京国立の居酒屋キノ・キュッヘ(映画食堂?)における4月21日の上映会は無事終了しました。驚くほどの反響で、当初予定していたキャパシティーはすぐに越えてしまい、急遽翌日にビデオで追加上映ということになりました。それでも、お問い合わせいただいた多数の方々にお断りをせざるを得ず、残念至極です。ご覧になった方々の感想もすばらしく熱が入っていて、今こそ多くの人に観てもらいたい映画だということを確信しました。日本語字幕つきのフィルムは山形映画祭の所有で、これを貸りて上映することは比較的容易です。これを眠らせておかずに、ぜひまた他のところで上映会をやってもらいたいものです。(山形国際ドキュメンタリー映画祭の情報はここ

16ミリフィルムで観ると印象がずいぶん違っていることに気が付きました。この映画は、監督が意識的にドキュメンタリー映画の手法そのものをパロディ化しているのが隠れたポイントです。いわば「チョムスキーのメディア批判」にかぶせるように「映像の欺瞞への映像を使った批判」があるという二重構造になってるのですが、ビデオでは後者の部分がかすんでしまうのです。映画の随所にはめ込まれている様々な仕掛けを楽しみ、この映画のノリをほんとうに堪能するには、16ミリでないとだめなようです。

このような映像による隠れメッセージの方の主役は、恐らく冒頭シーンに登場する「巨大スクリーン」(テレビのモニターを百以上集めた巨大なアウトドア・スクリーンで、実際にトロント郊外のショッピング・モールに世界最大のスクリーン・モニュメントとして登場したものらしい)でしょう。ここに人の顔が大写しになると、いかにもBig Brother's Watching You というオーウェル風のイメージが喚起されます。これが抑圧的なメディア支配の象徴としてオブセッションのように全編を通して随所に出没し、映画の終わり近くの先代ブッシュ大統領の演説シーンへと繋がっていく構造になっている。このグロテスクな演説シーンが映画のクライマックスです。

実際、10年経ってもこの映画の主張はまったくそのまま現在に通用するようです。映画が製作された80年代末から90年代初めというと、先代ブッシュが大統領に就任するやいなや湾岸戦争をひき起こし、合衆国は対イラク戦争の圧倒的勝利に沸くといった時代背景でした。その息子が現在行なっていることは、単なるこれの再現というよりは、もっと性質の悪いカリカチュアですが、この映画には現在の状況のプロトタイプが正確に映し出されていたようです。


マニファクチャリング・コンセント:チョムスキーとメディア(2)

Manufacturing Consent: Noam Chomsky and the Media
監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック(カナダ、1992、16mm、165分)


<<<<<<<<< 映画からのピックアップ >>>>>>>>>>>>>>>>>

☆ マスメディアの本質

「マスメディアは権力の見張り番であり、特定集団の利益からは独立している」という一般の理解とは逆に、民主主義社会におけるマスメディアの重要な役割は、エリートが決めた政策に大衆がそむくことのないように、情報を管理し、「世論」をつくりあげ、不人気な政策に支持をとりつけるプロパガンダを行なうことだ。

☆ 現代社会における民主主義の実態を理解するための、二つのキーワード 

Manufacturing Consent (合意の捏造)という言葉の出所は、ウォルター・リップマンが1921年ごろに書いた論考。要するに、「プロパガンダの新たな技法によって、一般大衆のあいだに彼らが望んでいないことについて合意を成立させること」であり、民主主義の実践に革命的な変化をもたらすものです(『世論』)。リップマンによれば、一般大衆は「公益のなんたるかを理解できない」ため、彼らの影響力を排除して一握りの「専門家たち」がものごとの決定にあたるのが民主主義の姿として望ましく、必要でさえある、のだそうです。

Necessary illusion (必要悪としての幻想)は米国の神学者・外交評論家で同時代の政治家に大きな影響を与えたラインホルド・ニーバーの言葉。ニーバーによれば、理性はほんの少数の人々だけに恵まれた能力であり、愚かな大衆は理性よりも信仰によって動かされる。この無邪気な信仰は、「必要悪としての幻想」や、「感情に訴える過度の単純化」を要求する。すなわち、このおめでたい人たちが間違った方向にいかないように、つくり話を与えてやらねばならないのだ。

☆ 言語理論から「権力構造」批判へ

あらゆるヒトには言語を学習し、使いこなす力が備わっている。言語能力は生得的なものであり、言語間の差異は表面的なものにすぎない →人間に共通する普遍的な特性("human nature")というものがあるはずだ。(ここで普遍的な「人間性」の存在をめぐってフーコーとのバトルになります。「自明の理」に訴えるチョムスキーの論法との根本的なずれ。)

☆ マスメディア批判は陰謀説か? 

何がニュースになるかを決めるのは、「ニューヨーク・タイムズ」のような一握りの報道機関。彼らの選択が歴史に記録され、世論を方向づける。この選択が、一定の方針にそって系統的に行なわれているというチョムスキーの主張に対し、それは典型的な「陰謀論」だとして退ける人々がいます。「一握りの資本主義者たちがどこかに集まって、密かにものごとを決定し、世の中を操っている、というばかげた妄想だ」と主張する小説家トム・ウルフ。「陰謀説」というラベリングに対し、チョムスキーは自分の主張は市場原理にもとづいた科学的分析によるものだと反論しています。

☆ 市場原理にもとづいたマスメディア分析

マスメディアは巨大資本が所有する企業であり、利潤を最大化せよとのプレッシャーのもとにおかれている。マスメディアの行動は、市場原理によって説明できる。これを、ニュースを選別する5つのフィルターとして詳細に論じたのがプロパガンダモデルです。その根幹にあるのは、大企業としてのメディアが、番組視聴者を商品として他の企業(スポンサー)に売るという構造です。消費者として位置づけられるニュースの受け手は、まったく無力な存在です。

☆ 「第五の自由」を追求するアメリカ

というのは、もちろんフランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」(言論の自由、信仰の自由、欠乏からの解放、恐怖からの解放)の次に来るもの。すなわち、アメリカが他国において「奪い、搾取し、支配する自由」(freedom to rob, exploit and dominate)だという皮肉。戦後のアメリカの外交政策に貫かれているこの側面が、大衆の目からは隠されている。

☆ チョムスキー・バッシング ――フォリソン事件

言論の自由の擁護は、自分の支持する意見に対してよりも、我慢できない悪辣な主張と思われるものに対してこそ適用されなければならない。フォリソン事件とチョムスキー・バッシング:「歴史修正主義者」とは、ナチスによる組織的なユダヤ人大量虐殺計画というものはなく、ガス室も実在しなかったと主張する人々のことです。このような主張に対する欧米言論界の拒絶反応の強さは映画にある通りですが、たとえ唾棄すべき主張であってもそれを表現する自由は擁護されねばならないという原則をまげないチョムスキーは「ホロコースト否定論の擁護者」としてヒステリックな非難を浴びることになります。こういう妥協のなさがメインストリームから疎まれるゆえんでしょうが、中途半端な妥協がダブルスタンダードを生んでいるのも事実です。現在のパレスチナのありさまと、シオニストのプロパガンダ戦略の威力を見ると、「ホロコーストの特権化」ということについて、改めて考えさせられます。

☆ マスメディアは思考を奪う

分断され、孤立化し、受身の存在にとどめられた大衆は、ものを考える機会を奪われる。 メディアのつくりだす虚構の世界に囲い込まれる無力な存在

☆ メディアの虚構からのがれるために

オルタナティブ・メディアの活動:サウスエンド・プレスは1977年に始まった非営利の出版共同体。チョムスキーのみならず、バーバラ・エーレンライク、ベル・フックス、バンダナ・シバ、アルンダーティ・ロイ、ハワード・ジン等々、活発な政治発言をする人々の著作をすでに200冊以上も出しています。デービッド・バーサミアンはコミュニティ・ラジオ「オルターナディブ・ラジオ」を中心とした放送活動家。番組でのインタビューを基にした出版も多数。そのほかにも、地域のケーブルネットワークで住民の制作した番組を流すパブリックアクセスTVチャンネルは、北米で2200を越えています。これらは相互に協力関係を築いており、主流メディアとは違なる視点からの番組を提供しています

☆ 先代ブッシュ大統領の就任演説 

バックに流れるローリー・アンダーソンの「オー・スーパーマン」がやたら皮肉。アメリカの「自由と民主主義」を称えるパパ・ブッシュの演説をそのまま流しているだけなんですが、異様に浮きあがって反吐が出るほど偽善的に響くのは、それまで映画で説明してきたことに重ねて演出効果も大きい。このあたりが、監督が言うところのチョムスキーが愛用するレトリックのパロディ、すなわち相手の言葉をそのまま引用して、その歪みを際立たせるというテクニックの映像版でしょうか。


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