Noam Chomsky

メディアについては、エドワード・ハーマン(ペンシルバニア大学名誉教授)との共著がいくつかあり、この『マニファクチャリング・コンセント』が出版されたのは、ちょうどドキュメンタリー映画の撮影がはじまったころです。同時期にカナダのCBCで放送されたMassey講演は、Neccesary Illusions という本にまとめられており、合衆国のマスメディア・システムを批判するチョムスキーの発言が、隣接するこの大国の圧倒的な文化的支配にのみ込まれるという危機感をいだくカナダで熱狂的な支持を受けたことがうかがわれます。この本も一部ネットで公開されているのを見つけたので、さわりの部分だけ翻訳。<出版のために従来のものに訂正を入れました(2003年8月) なお、原注は後半の末尾にまとめてあります>
マニファクチャリング・コンセント
Manufacturing Consent  Conclusion (1)
エドワード・S・ハーマンとノーム・チョムスキーの共著(1988年Pantheon Books)の結論部分

公益に資するには、メディアはあまりにも自立的で強力になりすぎたという非難に対し、『ニューヨーク・タイムズ』のアンソニー・ルイスは、次のようにメディアを弁護する。

報道機関が[アメリカ憲法修正第一条(表現の自由)によって]保護されているのは、報道機関そのもののためではなく、自由な政治システムが機能するのを保障するためである。つまるところ、大事なのは記者や編集者ではなく、市民による政治批判なのだ。

わたしたちが報道の自由について語るとき、そこで問われているのは、「政治全体のしくみのために一つの機能を果たす自由」なのだ[1]。ルイスは、パウエル連邦最高裁判所判事の次のような言葉を引用する──「個人は、政治的な責任を賢明にはたすために必要な情報を、独力で入手することができない。……民衆が政治のプロセスをしっかり制御できるようにすることで、報道機関は、修正第一条の社会的な目的の実現に決定的な機能をはたす」。

かつて、『ニューヨーク・タイムズ』が、『ペンタゴン・ペーパーズ(国防総省機密文書)』を公表しようとしたとき、政府は差し止めをはかったが、当該文書の公表によって国家の安全が脅かされる可能性を証明できず、たんに当局がまずい立場にたたされる可能性があるだけだ、ということがさらけ出された[i]。『ニューヨーク・タイムズ』に文書公表の権利を認めた判決文のなかで、ガーフェイン判事が次のように述べたのは、そのためである。「たとえ報道機関が、あつかいにくく、執拗で、どこにでも鼻をつっこみたがるとしても、表現の自由と国民の知る権利という、もっと大きな価値を守るために、権威の座にあるものはそれを甘受しなければならない」。

表現の自由が、何かもっと価値の高いものに役立つという有用性の見地から擁護されねばならないとする考え方には、賛同しかねる。表現の自由は、それ自体に価値のあるものだと、わたしたちは考えるからだ。しかし、それを別にすれば、この声明が高らかに宣言しているのは妥当な願いであるし、加えて、合衆国メディアの自己イメージでもある。本書におけるわたしたちの関心は、この自己イメージと現実のあいだの関係を問うことにある。

メディアは、権威から独立して真実を追究するあまり、あつかいにくく、執拗で、どこにでも鼻を突っ込みたがる、というのが一般的な認識だろう。だがそれに反して、わたしたちが考案し、応用したプロパガンダモデルにおいては、メディアはたしかに「社会的な目的」に奉仕するが、それは政治的な責任を賢明に果たすために必要な情報を民衆に提供して、彼らが政治プロセスをしっかり制御できるようにするという目的ではない。それとはまったく逆で、むしろメディアの「社会的な目的」は、国家や国内社会を牛耳っている特権集団にとっての経済、社会、政治上の優先事項をくりかえし説いて聞かせ、擁護することにある。メディアはさまざまな方法で、この目的に奉仕する──トピックスの選別、関心の配分、問題の枠づけ、情報のフィルタリング、強調の置き方や口調、許容される前提から議論をはみ出させないこと、等々。

このモデルで予測されたことが、メディアの具体的な実践行動のなかに実現していることを示そうと、わたしたちは一連の重要な事例をとりあげて検証したが、実際には、こちらの予想をはるかに凌ぐようなケースも少なくなかった。民主的な手続きが有効に機能するためには「いつも目を光らせている勇敢な報道機関が何よりも必要だ」というヒューズ最高裁判所長官の意見(これもルイスが引用している)には、まったく同感だ。だが、本書で検証してきた証拠によれば、そのような必要は満たされておらず、それに少しは近いものさえ存在していないのが現実だ。

メディアは必ずしも、今日(そうなったといわれている)ほど権力から独立し、権力に目を光らせ、挑戦的であるのが、常態だったわけではないという主張をよく耳にする。前世代の経験がメディアに教えたのが、「国民生活をあちこち嗅ぎまわり、暴露すべきと判断したものを明るみに出す力」を、外部の圧力や権力の要請に屈することなく行使することだった(ルイス)、と考えられている。ということは、その時期こそがプロパガンダモデルの有効性をみる試金石になるので、わたしたちの調査もそこに焦点を合わせた。わたしたちが取り上げた事例の多くは過去十年に起こったものである。この時期には、リベラルなメディアが、かれらの宿敵とされる「保守派」政権と対立関係にあったとされている。

それに加えて、例外的な事例ばかりを選択したと言われないように、事例をあさる網はできるだけ広く打つようにつとめた。ここで詳細に分析するために取り上げた事例は、ことさらわたしたちのモデルに対立しそうなものばかりを選んでいる。すなわち、メディアがあまりにも独立性を強め、権威に対して挑戦的になってしまったため、これを制御しなければ民主主義が滅びてしまう、と主張する評論家たちがよく取り上げる事例、たとえば一九七〇年代から一九八〇年代にかけての、メディアのいきすぎの左証としてよく引き合いに出される、「テト攻勢」についての報道などである。

このような事例でさえも、国家プロパガンダのシステムの要求に、メディアが従属していることを証明している。ヴェトナム戦争が最終段階に突入し、メディアがニクソン政権に対する攻撃を強めていった時期は、メディアの独立がピークに達したとされているが、その時期にも、こうした要求への服従が弱まることはけっしてなかった。それを実証するのが、一九七三年のパリ和平条約についての報道だ。政府の主張を無批判にくりかえし、国策への忠誠を旨とするメディアが、その必要にあわせて事実を歪曲した、もっとも目に余る事例である。

この点をはっきりさせるため、もう一つ事例を挙げてみよう。メディアについての標準的な見方を擁護する人たちが、もっとも重要な拠り所として選ぶもの──ウォーターゲート事件である。メディア批判者の多くにとって、この事件はメディアの無責任ないきすぎを証明するものである。誇らしげにメディアを擁護する人々にとっては、この事件は本物のジャーナリズムの信念と、権力の中枢からの独立を証明したものだ。それでは、ウォーターゲート事件の教訓とは何なのか?

主流の報道機関が描くウォーターゲート事件の主要スキャンダルは、ニクソン政権がごろつきを集めて民主党本部に押し入らせたことだろう。その目的は、いまだによくわからない。民主党は産業界に堅固な基盤を持ち、国内の強大な利権を代表している。それゆえに、ニクソンの行為はスキャンダルだった。

一方、社会労働者党は合法的な政党であるが、強大な利権は代表していない。そのため、ちょうどウォーターゲート事件に対する社会の憤慨が頂点に達していたとき、FBIが不法侵入などの手段によって社会労働者党の活動を十年にもわたって妨害していたことが明るみに出たのだが、この事件は何のスキャンダルも引き起こさなかった。民主主義の原則を踏みにじった点では、ウォーターゲートの公聴会におけるいかなる告発よりも、はるかに悪質で大規模なものであったにもかかわらずである。

さらに言えば、国家政治警察のこのような行動も、独立した政治活動を阻害し、ゲットー内の暴力をあおり、政治の意思決定の舞台に一般に軽んじられている階層を取り込もうとした民衆運動を弱体化させるという、歴代政権が継承してきた政府の長期計画の一部にすぎないのだ[2]。こうした内密で非合法な計画は、ウォーターゲート事件が騒がれていた時期に、裁判においても他の場でも明らかにされたのだが、それらが国会の証人喚問に発展することはけっしてなく、メディアの注目も限られていた。シカゴの警察によるブラックパンサー指導者の暗殺に、FBIが共謀していた事件でさえも、スキャンダルには発展しなかった。ニクソンの「政敵リスト」とは大違いだ。そこに名を連ねた有力者たちは、非公式に中傷されたとはいえ、実害を受けたわけではなかったのだから。

先の章で論じた、カンボディアの「ジェノサイドの十年」の第一段階を開始し、遂行したアメリカの役割は、ウォーターゲート事件の審議にも瑣末事項として登場した。だがそれは、大規模な戦争犯罪のなかで、何十万というカンボディア人が惨殺されたからではなく、連邦議会がこの事件についてきちんとした報告を受けておらず、したがってその特権が侵害されたという理由からである。それさえも、最終告発状では、そこに盛り込むにはあまりに些細な違反行為として排除されてしまった。連邦議会にいえることは、メディアについてもあてはまる。「大統領を辞任に追い込むのに一役買った」(ルイス)メディアによる調査報道は、メディアの独立(あるいは、立場によっては「傲慢」)をもっとも大胆に表明したものとして注目されたが、それとて図式は同じである。

メディアの対決姿勢がピークに達したウォーターゲート疑獄において、ほんとうは何が問われていたのか。ありがたいことに、歴史は、それを割り出すための「対照実験」を企てるのにじゅうぶんな材料を提供している。答えは単純明快だ──有力集団は、自己防衛の能力を持っている(いまさら驚くにはあたらないが)、そしてメディアの基準では、彼らの地位や権利が脅かされることはスキャンダルなのだ。これとは対照的に、たとえ不法行為や民主主義の侵害が起こったとしても、その被害者がマージナルな集団や、遠方にあるアメリカ軍の攻撃対象に限られているかぎり、あるいはそのコストが拡散して一般国民に押しつけられることになるのであれば、メディアの抗議は控えめであり、まるで存在しないこともある[3]。まさにこのために、ニクソンはひとりよがりの誤った安心感を抱き、あそこまでやってしまったのだ。彼を見張る番犬は、彼が特権階級の権利までおびやかすようになるまでは、吼え立てようとしなかったのだから。

これとまったく同じ教訓が引き出せるのは、イラン=コントラ事件とそれに対するメディアの反応だ。レーガン政権がイラン=コントラ疑獄にからんで議会の特権を侵害したことが発覚したときにはスキャンダルになったが、アメリカのニカラグア攻撃は「不法な武力行使」であり、国際条約(陸戦に関する国際法規・慣例:ハーグ条約)違反であると国際司法裁判所が判決を下したのを、レーガン政権が馬鹿にしたように退けたことは、スキャンダルにはならなかった。この十年間でおよそ二十万人の生命を奪った中央アメリカの国家テロにアメリカが資金援助と支持を与えていたことは、議会での追求やメディアの関心の対象ではなかったのだ。このような行為はエリート層のあいだの合意にそって実行されたのであり、メディアは一貫してそれに支持を与えつつけた。同じことは、価値ある被害者と価値なき被害者の運命や、従属国の選挙と逸脱国家の選挙の取りあつかいを検証したときにも、観察された。

ヴェトナム戦争を例にとっても同じことが言えるのは、第五章で見たとおりだ。メディアの敵対的な姿勢を非難する人々でさえ認めているのは、メディアが初めのうちは、ほぼ例外なしにアメリカの政策に協力的だったということだ。それが変わったのは、南ヴェトナムへの「干渉」に米軍が大規模に投入され、多数の死傷者を出し、莫大な費用がかけられ、自分たちの利害が脅かされていると感じたエリート層の抗議が、表面化してからのことである。そのときになってようやく、メディアの一部が、「費用と便益」がつりあっているかどうかを、きちんと再評価する作業に着手したのである。けれども、もはや手を引くことが難しくなる段階にいたるまでの、アメリカが徐々に介入の度合いを深めていた時期には、この番犬は、窃盗犯がどこか遠いよその土地でわがもの顔にふるまい、思うがままに爆撃と破壊をくりかえすのを奨励していたのだ。

要するに、メディアの独立を褒め賛える、あるいは逆にいきすぎを批判するために引き合いに出される事例も、じつはその正反対のことを証明しているのである。情けない大物官僚を大胆に攻撃する「反骨精神の報道」という通常のイメージとは裏腹に、メディアは行政部門の積み重なる不法行為について、関心も、調査する熱意も、基本的な報道も欠いており、そのことが、さらに大きな法律違反をきまって許容し、助長さえすることになったのだ。それがエリートの利害を脅かすに及んでようやく暴露されることになると、今度はそれが、メディアが「政治全体のしくみのため」に機能している証しとして提示されるのだ。こうした認識は、わたしたちが本書の全体を通じて論証してきた結論を、さらに強化する。

メディアによる現行水準の国家当局への従属は、批判者には不十分とみなされがちだ。本書では数々の事例について論じてきた。国家当局を一般市民のうるさい監視から守ろうとするフリーダムハウスなどの組織は、メディアには政府の聖戦を後押しする熱意が足りないと糾弾し、ヴェトナム戦争やウォーターゲート事件の時代には、体制側の権威に控えめな異議申し立てをしただけでも、メディアが力を持ちすぎると懸念をあおりたてた。たまに反体制的な意見に与えられるわずかな機会さえ、危険すぎて許しておけない、とみなされるのが普通だった。

こうした認識は、ときには、左翼勢力が破竹の勢いで拡大するという妄想のかたちをとる。たとえば、ブルガリアン・コネクションについての報道に圧倒的な力をふるったクレア・スターリング[ii]のような人々は、ソヴィエトのプロパガンダの騒音が、他の声をほとんどかき消してしまったと証言している。もっとすごいのは、ポルポト時代に左翼が、国際メディアや諸政府を「黙らせた」とするエイクマン=ショークロスの夢物語で、他の多くの人々もこの説を熱心に反復した。だが実際に起こっていたのは、クメールルージュの虐殺行為に対する抗議の大合唱であり、そこでの作り話と欺瞞は驚くべき水準に達した。こうした事実や、左翼に強要された「沈黙」という虚偽の申し立ては、ティモールで起こったこれに匹敵する大虐殺や、「ジェノサイドの十年」の第一段階におけるアメリカの侵略と弾圧については真の沈黙が支配していたこととの対比によって、その重要性がくっきり浮かび上がる。後の二つのケースでは、アメリカが責任を負うべき行為主体であったため、それに抗議することによって大規模な殺戮を鎮静させ、終結させることができたかも知れないのだ。

ここに典型的みられる二項対立的な取りあつかいを、プロパガンダモデルは即座に説明してみせる。クメールルージュによる虐殺は、共産主義という敵の責任に帰すことができ、したがってプロパガンダで重要な得点を稼げたかもしれない。ただし、カンボディアの被害者にはなにひとつ有益なことはできなかったろうし、提案もされなかった。また「共産主義の怪物」というイメージは、それ以降のアメリカの、テロと暴力への荷担に役立ったようだ。すぐ後に始まった中央アメリカでの撲滅キャンペーンが、まさにそれだ。エルサルバドルでは、アメリカは「ポルポト左派」と命名したものに対抗するための、残忍な軍事暫定政権を支援した。一方、ジーン・カークパトリックは「ポルポトを彷彿とさせるような狂信的で暴虐な武装ゲリラ」がエルサルバドルに与える脅威について暗い考えをめぐらせたが、それは軍民評議会の彼女の友人たちが、「無防備な民間人に対する絶滅戦争、ジェノサイドを行なっている」と、大司教によって非難された直後のことだった[]

もっと慎重に意見を述べる者もいる── ウィリアム・バックリーは、「サンディニスタは自国民にジェノサイドをもたらしており」、いまはまだ同じ水準まで達していないにせよ、明らかにポルポトと同じ方向に向かっている、と述べている。ポルポトの残虐行為に対する憤慨を見せつけることが、何の役に立つかを端的にあらわしているのは、この価値ある被害者たちの運命がただちに徹底的に利用されて、アメリカがお膳立てした残虐行為──その内実はまさに、ポルポトの所業といい勝負だった──を正当化するために役立てられたことだ、。

東ティモールにおける残虐行為には、そのような有益な効能がない。それどころか、むしろ害をなしそうだ。この残虐行為を行なっていたのはインドネシアにおけるアメリカの従属政権だった、それゆえ、わたしたちには、それを緩和させたり、やめさせたりすることができたはずだ。けれどもインドネシアの侵略に注目が集まれば、この忠実な同盟者を困った立場に追いやることになり、ひいてはまた、アメリカも軍事援助と外交支援によって、侵略と大虐殺に決定的な役割をはたしたことが、早晩あかるみに出ただろう。明らかに、東ティモールについて報道することは有益ではなかったろうし、実際、国内の有力集団を困惑させることになったであろう。マスメディア(および知識人社会一般)は、善意のはけ口をどこか別の場所に求めた。だからティモールではなくてカンボディアなのだ。

<続く・・・>



注1 1971年、ベトナム戦争のさなかで米国防総省秘密報告書の新聞連載を巡って、新聞メディアと米政府が裁判で激しい論戦を展開した事件。新聞メディアは、国民の知る権利を主張し、政府は、国家の安全保障上の必要を持ち出して連載の差止めを求めた。論争は最高裁にまで持ち込まれ、新聞メディアの勝訴となったが、地方裁判所の段階で最初に新聞側に軍配を上げたのは、ニューヨーク連邦地裁のガーフェイン判事であった。 http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/journal/ron/r1-1-2/r1-1-2b.html

注2 Clair Starling 1968年のプラハの春で流出した資料を使い、1948年のチェコ革命当時のマサリク外相の「自殺」は他殺の疑いが濃厚とする『チェコ戦後史の謎――マサリク外相の死』などを書いたアメリカの作家。『テロ・ネットワーク,国際テロ組織の秘密戦争』(友田錫訳 サンケイ出版 1982)では、ソ連が国際テロリズムの背後にある勢力だという陰謀論を展開したが、その背後にはCIAの暗躍があったと言われ、中央アメリカにおける米国の政策を正当化するために利用されたらしい。

Herman, Edward S. and Brodhead, Frank. The Rise and Fall of the Bulgarian Connection. New York: Sheridan Square Publications, 1986.

During the 1991 hearings for confirmation of Robert Gates as director of the CIA, it was revealed that for years following the 1981 shooting of the Pope, CIA analysts had been unable to find evidence of Soviet complicity. In 1985 William Casey told Gates to try harder, at which point the issue became more political than analytical and the waters got very muddy.

It may have always been political; professional propagandists were hard at work after the shooting to lay the blame on the USSR. One was Paul Henze, a long-time CIA officer, another was Michael Ledeen and his friends at the Center for Strategic and International Studies, and then there was Claire Sterling, who wrote an article on the shooting for Reader's Digest in 1982. All appeared to be more interested in their crusade against "Soviet-sponsored terrorism" than with presenting hard facts to support their case.

This book argues that the hard facts never existed. The authors analyze the background of Mehmet Ali Agca and the evidence surrounding the shooting, and trace the history of the "Bulgarian connection" as an example of Western disinformation. Frank Brodhead is affiliated with Resist, a progressive funding agency, and Edward Herman is an editor of "Lies Of Our Times" and a professor at the University of Pennsylvania.


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