新しい政権、新しい情勢に直面する台湾労働運動

洪濤

『左翼』第六号(2000年4月30日発行)から


5月20日、民主進歩党の陳水扁が、中華民国始まって以来の政権交代を実現し総統(大統領)に就任した。民主進歩党は、国民党による戒厳令下の中から、民主化運動を軸に発展してきた正当であり、多くの社会運動とも関係を持ち、多くの社会運動活動家が民主進歩党の政権に期待を持っている。しかし、すでに既成政党となり、様々な面で台湾ブルジョアジーとの協力関係を追求している。選挙スローガンでは、労働時間の短縮を公約に掲げたが、ブルジョアジーからの反発で、その歩調を緩めつつある。また、台湾独立問題に際して、明確に日米安保体制を背景に、独立論を掲げる姿勢も、けっして民衆のオルタナティヴを代表はしない。以下は若干「賞味期限切れ」と感じる個所もあるが、的確に陳水辺政権へのスタンスを提起し、また今後台湾の労働運動の進むべき道を示した文章である。(H)


 三月十八日(総統選挙の投票日)の夜から現在にいたるまで、台湾の政治社会の変化は非常に多岐にわたっている。支配グループの権力の再編と同時に、「社会」の面でも中華民国全国総工会(訳注:これまで台湾唯一のナショナルセンター。以下「全総」)の分裂状況が出現した。他方で、陳水扁は当選後、全国産業総工会(以下「全産総」)の結成大会への出席を承諾し、全産総の合法的地位を事実上承認した。二年以上におよぶ準備をすすめ「上場前の有力株」と称されてきた全産総の今後の行方は悪くないだろう。一連の変化に直面した自立的労働運動にとって「状況は全面的によい」ものなのか、それとも厳しい課題に直面しているのか。ここではこの問題に対する初歩的な考えを提示する。

新政権の性格――陳水扁は「われわれの総統」か

 陳水扁政権が大ブルジョアジーの政権であり、この点にわれわれはいかなる躊躇や幻想を持ってはならないことは、まったく疑う余地のないところである。この何年かのいわゆる民主進歩党(以下「民進党」)の転換過程の中で、最も重要な意義は民進党が中台関係、「執政能力」、様々な社会経済政策において大ブルジョアジーを安心させることができる準政権党になったことである。党外時期(民主化勢力が非合法であった八六年ごろまでを指す)と党の結成当初は、国民党から政権奪取を目的として、大衆を動員するためにラジカルなスローガンと行動を掲げていた。しかし民進党は資本家を不安にさせる大衆運動と、そもそも存在などしていなかった「反資本主義的コンプレックス」をとっくに放棄し、大ブルジョアジー的性格を確立した。陳水扁が「李登輝路線」を継承した意義はこのような角度から読み解かなければならない。
 陳水扁は当選後ブルジョアジーへの訪問を頻繁に行なっている。また全産総系列を中心とした労働組合指導者との会見では、国民党の常套句「安定の中の改革」を持ちだし、組合指導者たちに彼の選挙時の公約を「我慢して」待つことを要求した。今後の組閣の中で、大ブルジョアジーの積極的な介入は誰もが認めるところである。さらにはブルジョアジー自身の入閣やこれまで長期間にわたり「自由化、民営化、国際化」政策の推進派であった国民党官僚の入閣によって未完成の任務を遂行するだろう。これらはすべて陳政権と民進党の大ブルジョアジー的性格をあらわすものである。これまで、国民党は長期間大ブルジョアジーの上に君臨する「あるじ」であったが、李登輝時代を通じ政治経済は変化した。陳水辺と民進党は大ブルジョアジーの優良な僕(しもべ)として政権を受け継ぐだろう。「効率」「清廉」「気迫」というイメージに忠実に、大ブルジョアジーの資本蓄積と勢力拡大に不利な障害を取り除くだろう。
 労働者は「われわれの総統が当選した」という無邪気な幻想を放棄しなければならない。確かに陳本人がいうように「台湾に大きな変化は起こってはいない」のだ。もし運動側の力が成長しなければ「自由化、民営化」政策を変化させることはできず、労働者は職場では依然として資本のいいなりであり、大ブルジョアジーは公然と「国勢」を操ることになるだろう。注意を怠らず、しっかりと監視をし、闘争の準備をするということが唯一の道である。また、民進党の性質はいまだ変化の過程にある、大ブルジョアジーはまだ陳政権を支持するかどうか観察している、という考えは現実を知らない、全く無邪気な考えであるというだけではなく、実践の上で民進党に対して幻想を抱くという結果をもたらす事である。

三つの全国規模のナショナルセンターの出現で……

 選挙後の情勢の変化のなかで、将来の労働運動の発展に直接影響するのは、全総の内紛による全国労工総工会(以下「全労総」)の分裂と、全産総の間近い結成である。全労総の出現は全総における最も保守的な勢力による選挙結果に対する反発に過ぎない。
 全労総はさておいて、われわれが注目するに値するのは全総と全産総の同質化という問題である。内紛の後、全総は、全産総と競合・協力を維持するために、その歩調を整え、いくらかは比較的進歩的、自主的な傾向に向かわなければならないだろう。全産総はといえば、この二つのナショナルセンターの加盟組合が一定程度重なっており、多くの組合は自立的労働運動の洗礼を受けておらず、これまでの組合運営のあり方を変えておらず、将来的、進歩的な志向とスタイルに欠けている。ひどい組合は名誉と利益を追い求めるために汲々としている。また、選挙後、全産総に対する状況が好転した事で、これまで傍観していた、あるいは全く無視をしていた勢力が次々に積極的に介入してきている。短期間では全産総を操ることはできはしないが、長い時間を通じて、あるいは様々な対立の蓄積の上で、将来的に全産総が変質してしまうという事はありえる話である。
 結成準備の過程で、一部の全産総の中心的指導者と活動家は次のような共通認識があった。「全産総はこれまでの十数年の自主的労働運動の基礎の上に結成されたもので、全産総の独立的自主性を維持しなければならない、全産総を組織するということは合法的地位を追求するためではなく団結の基礎を拡大強化するためである、労働組合が合法であるか否かは全産総に加盟できるかどうかが判断基準ではない、将来的に全産総は産別に組織される労働者の利益だけを代表するのではなく、職能別に組織される労働者や未組織労働者と連帯し、さらにその他_社会的進歩勢力と連帯し、階級的政治勢力の結集に邁進しなければならない」。しかしこのような考えが全産総の大多数の組合員の共通認識になるにはきわめて多大な努力が必要である。
 さらに重要なことは、自主的労働運動の低迷、有力な労働者政治勢力の欠乏、陳水扁の総統当選による影響、労働者の中にある既存政党に対する思い入れなど、多くの主観的、客観的要素が働き、全産総が真の自主独立の道、既成政党に拠らない道を歩むことができるのか、あるいは民進党の御用組合となってしまうのかは未確定であり、関係者の積極的な奮闘を待たなければならない。

ニンジンを求めるのか、それとも棍棒を奪い取るのか

 労働運動の発展にとって、陳水扁の当選は「短期的に見れば大きな意味があり、長期的に見ればむなしい」という状況だろう。短期的にいえば、陳の当選直後は一定の混乱期と蜜月期があるかもしれない。民進党が実権を握る労働委員会(労働省)も相当の資金を放出して自主的労働組合を養成するかもしれない。加えて、連戦、宋楚瑜、陳水扁の三候補の労働に関する公約の中で、陳の公約は相対的に進歩的な性格を有していた。これらはすべて労働組合の要求や組織的発展にとって一定の空間を供給するものである。しかし、長期的には、陳水扁政権の階級的性格といわゆる新中間路線は、労働者階級の力量が真に強大になることに対して放ってはおかないし、政権による資金をふくむ様々な支援は、当初自主的性格を有していた労働組合が政権に依存し、その指導者が取りこまれる可能性がきわめて高い。これは労働運動の発展にとって真の致命傷になる。民進党から最近政界入りした者の中には社会運動に従事していた人間が少なくない。彼らは社会運動に対して国民党の人間よりも手馴れており、更に鋭い。
 考えられる情勢の変化に直面し、一方でわれわれは、労働運動の今後の発展に有利な条件をかちとるために短期間の蜜月期を利用しなければならない。もちろんわれわれがかちとらなければならないのは徳政による優遇ではない。ある古参の労働運動活動家の口癖は「我々が必要なのはニンジンではなく棍棒なんだ」というものである。重要な目標の一つは労働組合制度の変革である。台湾の工場組合(企業組合)の構造は少しずつ打破しなければならない。「労働組合戒厳令」の束縛は打破しなければならない。現段階において実施可能なことは、労働組合連合の自由化、労働組合内部の運営(組織形態、財政など)の自主性の確立、使用側の不当労働行為への規制と厳罰などであり、またストライキ権縮小のたくらみも阻止されなければならない。もちろん労働権の防衛や労働時間の短縮は労働運動の発展にとって大きな意義がある。総じて言えば、我々の闘争は、階級的団結の基礎の強化のためであり、多くの防衛的性格のそして攻勢的性格の武器を労働者が手にするためであり、我々の口や手足にまとわりつく甘い蜜のためではないのだ。

体制から自立した組織を発展させ、労働者への政治教育を進めよう

 全産総が結成された後、労働運動の勢力と様々な資源が全産総に集中するだろう。しかし各地の経験から、制度化された労働組合連合組織は様々な組合がごったがえしているだけという状況を免れず、それに前述の「政党化」などによる変質の可能性が加わる。それゆえ体制外労働運動の防衛と労働組合組織の存在と発展が重要な任務となる。このような力の継続した発展のみが、自主的労働運動の灯火をつなぎ、全産総の発展にとっても、もう一つの推進力が形成され、また変質の可能性をけん制する。
 その一方で、労働者の政治教育の推進は一刻の猶予もできない活動である。資本主義代議制民主主義という制度は、民衆の中に「(すでに)自分は国家の主人公である」という幻想を容易に発生させる。台湾のような左翼運動が発展していない社会では、民衆は既成政党や政治家の階級的本質を見破ることは容易ではなく、国家が結局どの階級に奉仕しているのかを見抜くことも難しく、簡単に政府とブルジョア政治化に対して幻想を抱いてしまう。民進党の政権獲得という新しい局面に直面し、「全民衆による共同の統治」という妙なスローガンが振りまかれているが、われわれは周密で系統的に実戦時と平常時の機会を利用して、労働者と様々な政治・経済問題について討論し、労働者への政治教育を展開し、現存の制度の本質を見極める手助けをしなければならない。特に、再び様々な弁解と行動で労働者の政治認識をあいまいにさせてはならない。でなければ労働者の政治勢力というスローガンの呼びかけ全てが無駄なお喋りで、さらにはペテンにしかならないからだ。




ホームに戻る