98年5月31日
アジア連帯講座

中国民主化闘争の歴史とこれから
民主中国陣線日本分部・趙南さんを招いて


5月31日、アジア連帯講座は、趙南さん(民主中国陣線副主席・日本分部主席)を招いて「中国民主化闘争の歴史とこれから」を開催した。35人が参加した。
 天安門事件9周年の今年は、中国民主化運動のリーダーだった王丹さんの病気療養を理由とした中国からアメリカへの仮釈放を始め、香港では中国への返還1周年を前に立法評議会選挙が行われるなど、中国民主化運動をめぐって注目すべき情勢となっている。
 さらに32年にも及んだインドネシア・スハルト独裁体制に対する民衆の民主化闘争の高揚はスハルトを退陣に追い込んだだけではなく、さらなる学生の急進的要求とともにアジアの指導部や構造改革を強制するIMF体制に対する反撃を用意していくだろう。その意味で、中国の指導部もこのような情勢下で、今後微妙な立場に追い込まれることは確かだ。

首を切られる労働者と政治弾圧
 まずアジア連帯講座事務局から、中国国内の状況について報告があった。97年2月、ケ小平の死去にともない江沢民を中心とした新世代の指導部が確立。98年3月に朱鎔基首相は、中国における三大改革を主張し、その中のひとつとして「国有企業の改革」を主張した。しかし、現在の国有企業での状況は、1150万人にも及ぶ失業者を生み出し、今年はさらに350万人が工場から追い出されている。中国政府は、再就職や社会福祉政策を約束しているが、何ら対策が行われていないようである。98年2月から5月にかけても各地で労働者が決起している。
 また、78年民主の壁で活躍し、中国民主化の精神的支柱でもある魏京生氏、89年の中国民主化運動を闘った中心的指導者の王丹両氏に対する国外追放も、「人権外交」を看板にするアメリカと中国間の駆け引き材料として行われている。民主化運動の著名人に対しては国外追放によって国内での政治的影響力を断ち切ろうとし、無名の活動家は相変わらず獄中での生活を余儀なくされているという。このような状況の中で天安門事件9周年を迎えようとしている。

毛沢東支配との闘いから今日まで
 続いて趙南さんが、「中国民主化闘争の歴史とこれから」と題して報告した。趙南さんは、78年後半から始まった「北京の春」と呼ばれる民主化運動に参加し、82年にはその罪を問われ逮捕され労働収容所に送られた。釈放後、日本へ留学し、89年の民主化闘争を日本で闘った。そして90年には民主中国陣戦日本分部の代表となる。
 趙南さんは、中国民主化闘争の歴史はいくつかの段階に分けられると述べた。清朝政権の打倒と孫文の「共和国」樹立期、蒋介石の国民党指導部体制と国共合作、そして中国革命期、さらに毛沢東による「人民公社」運動と文革期を経てケ小平の「四つの近代化」路線と「北京の春」から89年につながる民主化運動の高まりまで。こうして中国近代史と政治・経済政策の流れの中で民主化闘争を浮き彫りにしていった。
 その中で毛沢東の理論が個人を全く否定した、民主的なメカニズムが存在しないものであり、経済的にも政治的にも宗教的な理想主義である、と批判した。趙南さんは、その上でケ小平体制は、「人民公社」運動で疲弊しきった農村を「請負制」にしたり、大幅に市場を導入することで改革を行なった意味で現実的であり、これを「中国の特色ある社会主義」と言うのではないかと述べた。しかし、そのために中国の労働者階級の経済的権利は極度に切り縮められ、労働組合の結成やストライキを行うことさえ全く禁じられている。
 趙南さんは、今後、労働者は、自らの経済的な権利を防衛するためにも、政治的民主化の要求をますます掲げていくだろうと述べた。
 また、現在の中国民主化運動について、「78年の『北京の春』から現代に至まで民主化運動は、連続性を持ち、かなり社会に浸透している。多くの人の意識のなかに民主化の要求が浸透する中で、国内外で進められている中国民主化のうねりは今後も大きくなるだろう」と述べた。その後、趙南さんへの質疑応答が行われ、今後の中国民主化運動を占う上で重要な討論となった。
 さらに、アジア連帯講座の仲間からは、香港で行なわれた立法評議会選挙について「返還」以降の問題点とともに報告があった。そして、香港トロツキスト組織である先駆社から今回の立法評議会選に立候補した林致良さんの政策やその結果について報告があった。さらに、昨年、「六・四」を記念して中国大使館に献花をしようとして不当にも弾圧された林國輝さんからも発言があり、集会参加者によってカンパが渡された。(S)



趙南さんの講演から

 20世紀の中国民主運動を孫文の共和国の樹立から中国共産党による文化大革命にいたるまでを報告していただいたあとの趙南さんの発言は以下のとおり。

ケ小平時代と清朝の洋務化運動

 毛沢東の後に出てきたのがケ小平でした。ケ小平時代の幕開けです。ケ小平は毛沢東に比べて実務的現実的な官僚です。毛が生きている時代に活躍したこともあり、その頃から経済を自由化し、人々の生活を考える実務的な官僚でした。ケ小平は、毛沢東のような理想主義者ではないと思っています。彼自身は共産主義者であると言っていますが、「資本論を読んだことがない」と述べていました。
 ケ小平時代の最初は清朝の洋務化運動に対比できるのではないかと思われます。経済的には資本主義を導入しはじめましたが、その大前提として一党独裁を堅持することが重要であると考えていました。しかし、ケ小平のような政治と経済を分ける考え方は清代末期に崩壊しています。経済的には西側資本を導入しましたが、文化・思想の導入は拒否しました。
 78年にケ小平が復活した頃は、混乱し貧困が全土にひろがっていました。貧しい状況の中で唯一の功績といえるものは、自由に経済活動ができるようにしたことでした。
 ケ小平が復活した頃、食料生産や工業生産が計画経済によって抑えられており、個人の要求や、やる気による生産活動がなされていませんでした。まず、ケ小平は、農村の改革から手を付けはじめました。農民のやる気を起こすために請負制を導入して、中国では食料が豊富になりました。ケ小平は毛沢東と違って個人の経済的権利を認めていたからです。
 それによって中国経済は相対的に発展を遂げたと私は思います。というのも、ひとつはケ小平の政策もありますが、一方で中国人民は非常に貧しかったからです。資本主義経済によって中国社会主義を作ったのではないかと言えるのではないかと思います。これがケ小平の言う、いわゆる「中国の特色ある社会主義」ではないかと思います。

改革開放と労働者の権利剥奪

中国の社会主義は政治面における独裁と経済面における一定の自由です。しかし、ケ小平の経済と政治を切り離した政策は、非常に大きな問題をはらんでいました。というのも「改革・開放」経済が進む中で労働者の権利が保障されなくなっているからです。
 最近の新聞で、香港の投資家が中国に建設した工場での事件を扱っていました。それは、その工場で働く中国の労働者が物を盗んだのではないかと経営者が疑い、労働者に体罰を加え死亡させてしまったという事件です。
 経営者は警察の取り調べを受けた際に、警察が「香港でも労働者にこんなことをするのか」と聞いたところ、「香港労働者は物をとらない」と述べたといいます。中国の労働者は、ストライキなどを行なうことも全く保障されていない中で、経済的な権利によって自らの生活さえ守れないという状況です。
 中国の中で一部の人間が豊かになっていることは知っていると思いますが、その一部の人間とは中国官僚と非常に関係の深い人間です。この一部の人間が新たな資産階級となりつつあります。労働者は経済改革の犠牲になったといえます。
 中国では大量の「失業者」がいます(中国では「失業者」とは呼びません)。しかし、中国の労働者は自分たちで労働組合を結成する権利が保障されていません。多くの工場が倒産する中で労働者は街頭に放り出されますが、工場主や官僚に責任が及ぶということはありません。
 労働組合を結成する権利やデモをする権利をもつためにも政治的な権利を求めるべきです。というのも自らの政治的権利を守ることができなければ、経済的権利をも守ることができないからです。

78年「北京の春」から今日まで

 中国の民主化の要求は78年に起こりました。北京をはじめ中国各地で民主化の運動が起こりました。言論、出版の自由を求める運動です。いわゆる「北京の春」と呼ばれているものです。
 私はその運動に参加していました。中国の民衆の生活が向上するためには中国国内の政治改革を進め、民衆的なメカニズムを確立することが重要であると考えていました。「北京の春」に関わっていたのは文革時代に中学生だった世代が中心でした。
 「北京の春」の運動は政治的な運動以外のさまざまな分野から要求を掲げて登場するようになりました。「民主の壁」には芸術家なども多く存在し、「現代芸術をすすめよう」などという要求もありました。
 ケ小平は「四つの現代化」という要求を掲げたのですが、この運動の中で魏京生は五つ目の現代化として「政治の現代化」を掲げました。この要求は中国共産党の独裁体制にまで改革をというものになっていました。それに危機を感じたケ小平は、81年までに政治的な要求を掲げる出版物に弾圧を加えました。
 さまざまな出版物が弾圧の対象とされました。しかし、文学や芸術に掲げられた要求である現代化は受け入れられました。現在、中国の中で有名になった人々のなかには、78年の運動に参加している人がいます。78年のときには魏京生なども労働者として登場していました。学生などもいましたが、それほど多くはありませんでした。
 78年から90年にかけて多くの学生が民主化運動に参加するようになりました。89年には多くの学生が参加しましたが、学生以外のインテリが参加するということはありませんでした。
 現在の民主化運動の中で多くのインテリが参加しています。78年から現代に至るまでに、民主化の意識が多くの民衆に受け入れられるようになっています。多くの人の意識のなかに民主化が浸透する中で、政治的な要求を掲げる人々がこれから増えるのではないかと思います。これまで国内の民主化運動について語ってきたのですが、国外でも中国の民主化運動は闘われています。このような国内外での中国民主化の運動によって大きな改革ができるのではないかと思います。





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