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5月26日(土) 第3回セクシャルライツ 講師 伊藤悟さん(すこたん企画-ゲイネットワーク) |
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(講演の続き) 「人権推進審議会」の中で性的指向が入ったりしているという状況があるわけですが、一方で幼稚園や小学校でも「ホモ」とか「おかま」という差別用語が使われているのはどうしてかと言うことです。何度かアンケートをとったことがあるのですが、圧倒的にテレビを通じて同性愛者のゆがんだ情報を見ていると答えています。テレビ番組では、同性愛者が集まる場所に隠しカメラを置いたり興味本位で放送しています。同性愛者だけではなく性同一性障がいの人たちもそうでした。同性愛者、セクシュアルマイノリティに関しては、興味本位で簡単に笑えるように登場させます。例えばトランスジェンダーの人を登場させて、見下して笑いのネタにして簡単に視聴率が取れる。で、その番組を見てトランスジェンダーの人やゲイ、レズビアンの人が傷つく人が一杯いるわけです。しかし、番組にたいして抗議などもネットワークを通じて行っています。札幌ミーティングのような活動では、番組の制作会社に対して抗議したり出版した本の回収を行わせるなどしています。ずっと前に扶桑社から出版しました『ノモもホモの見分け方』などは語呂を組み合わせてギャグにしたものですが、それを回収させたりしました。 そのような中で最近の番組では、大変巧妙になってきています。『めちゃイケ』という人気番組がありますが、その中で別の番組から取ってきたコンセプトで出演者の中でゲイだと思われている人に対して「ホモ疑惑」なるものをかけてそのタレントに対してゲイだとされる人たちから愛を告白していくという番組がありました。表向きは「ホモ」、「おかま」などという表現を使っていませんが、この番組では「ホモ疑惑」をかけたタレントに対してゲイの人が風呂場で全裸で追いかけるという行為などが撮影されています。全裸で人を追いかけるという構図は、セクハラでありストーカー行為なワケですが、それをゲイだと自称する人にやらせる。そうすると、放送を見ている人は、ゲイと一緒に入るとストーカー行為やセクハラ行為をするのではないかと思ってしまいます。その番組についてもっと言うと、ゲイがまじめに「カミングアウトする」という行為までをも笑いものにしています。本来、笑えるネタをまじめにとらえているからおかしいというのは「笑い」の基本的なことです。『めちゃイケ』では、その笑いをまじめで美しいナレーションを流し制作して見せることで、笑いをとるという非常に複雑な同性愛者差別を放送しています。結局、差別をしている対象をやさしく扱うことで笑いの種にするという複雑な制作をおこなっています。 マイノリティの問題でわかりずらくさせているのは、「過剰な一般化」という言葉がありますが、一般化できない色々な人がいます。その色々な人がいるということがわからないということが問題なわけです。 それから最近気づいたんですが、昔は、ほめ言葉だと思って使っていた言葉でもよく考えるとひどい言葉だなというものがあるんですね。すこたん企画を共同で運営している簗瀬竜太は、よく女性から「ゲイにしておくのはもったいない」ということを言われていたんです。最近指摘されたのですが、この発言は問題発言なのではないかと友人に言われました。「ゲイにしておくのはもったいない」ということは、ようするに「ゲイ」ではなく「異性愛のほうがいい」という意味合いが裏にある。つまり「もったいない」というくらい「かっこいい」という感じがするのでいいのではないかと思っていたわけです。しかし、「かっこいい人はゲイにはならない」というメッセージ性を、その意味は持っています。 他のマイノリティのことに置き換えてもこの言葉の持つ意味が分かります。例えば、シン スゴさんが「在日朝鮮人にしておくのはもったいない」ということを言われたというんですが、この裏に隠されている言葉には「日本人でなければならない」という意味合いが入っているのではないかということです。私たちも知らないうち、無意識のうちに、同性愛者に対する拒否とか嫌悪を背景にもった言葉を使ってしまうことがあるんだなと実感しています。一見善意やほめ言葉であっても、実は自分たちに対しての差別的表現であるということが一杯あるわけです。その意味で、一方的に確認もせず放送したり援助をするということは、善意の押し売りになってしまうことがあるわけです。それから、一緒にやっていくという装置がない、あるいはそのような関係性が結べないということもあります。ですから、同性愛者の問題を通じて、同性愛者ではないけれど自分の生き方につなげてゆきたいと考えてくれば、私たちも当然関係性が深まることがあるわけです。 結婚披露宴の話に戻りますが、家と家に披露宴でせざるを得ない所がありますが、異性愛中心社会というのはとても複雑ですし、異性愛といってもどんな異性愛でも許されるという社会にはなっていません。色々な条件が付くわけです。男性が優位に立って、男性が進めなければだめですよというのがある。女性は男性に従いましょうということが入っています。レズビアンやゲイの中にも色々な関係性があります。片方が支配、片方が支配されるという関係もあります。しかし、往々にして異性愛の方が対等なカップルとして成立しずらいということがあります。ちょっと前になりますが、ある取材を受けた際に、取材をしている際に私と簗瀬が一緒にうち合わせしていたのですが、取材者が質問すれば二人で一緒に話をして答えるわけです。これを見てディレクターがすごく感動しているわけです。そのディレクターは「いや〜、すごい。お二人ですべて相談して決めている」と言うんです。当たり前のような気がするんですけど、そのディレクターは異性愛者でパートナーの言うことを全部無視して家のことは自分で決めているというんです。 介護の問題もそうです。私の母が痴呆症が進行して、二年間ほど単独で介護していました。介護というのはすごい大変で、二四時間付き添わなければならず、その悩んだ末に現在のナーシングホームに入所させることになったんです。その介護の時は、私も本当に大変でした。二四時間、転倒しないようにしたり、下の世話をしたり、何でも食べたがる母親をコントロールさせなければならないとか色々な問題があります。そして、私も燃え尽きそうになったりもしましたが、デイケアの方ですとかナーシングホームの方が話を聞いたり励ましたりしてくれて、自分の中で整理がついてきました。そのような慰める言葉のなかで、「伊藤さん男性でここまで介護をやる人はいないんですよ。偉いですね」と誉められたんですよ。私自身は、男性と言うことよりも、家事をせざるを得ない状況に追い込まれたわけです。そこでやったことだったんです。しかし、世間では介護は女性がやるもの、女性の方がいいという思いこみがすごくあるんです。そういうときに誉められてしまうというのは違うのではないかなと思ったりしました。逆に言えば、男性でも介護することができるということを証明したことになるんですが、何かそれってヘンという違和感をもってしまいがちです。 このように異性愛中心社会というのは、必然的に男性優位で女性が差別されるという構造が入ってきます。その構造とセクシュアルマイノリティが差別されるという構造はすごく関係しています。ですから現実問題として、今日なんかは多くの女性と男性がほぼ半分ずつ参加しているのは非常にめずらしいんです。 よく「子育てを男性もしよう」ということがありますが、フェミニストがよくいうのですが、子育てしても男性がいいとこどりの場合がおおいという指摘があります。おしっこやうんちの世話や夜泣きをしたときにどうあやすかとか食事を戻してしまったときなどはしんどいことは女性に押しつけていて、それでいて「子育てをやった」などと言う男性はずうずうしいという本を読んだことがあります。本当に男性と女性が共同作業をするということが難しいというかなかなかやれていない。本当に対等な関係を作っていくということが難しいということです。私がこの度翻訳し出版するゲイのカップルが子育てをするというアメリカの本なのですが、養子縁組したり子育てのことなど自分のライフヒストリーを含めて、男性二人で一緒に悪戦苦闘する中で育児とは何だろうということが書かれています。男性問題、女性問題、セクシュアルマイノリティの問題を考えるときに、そこの問題に行き当たるわけです。そして、異性愛の問題を考えるときに同性愛者たちの実践が参考になるときがあるんですね。ジェンダーフリーや役割分担の問題もよく質問に出る質問の中に、どっちが男役割でどっちが女役割ですかという質問が多いのですが、カップルが百いれば百違うわけです。例えば、レズビアン・ゲイの場合同性同士であるだけに、支配、被支配をなくしたパートナーシップの可能性があるわけです。現実的にそれを実践している同性愛カップルはいます。それから子育てにしても、アリバイ的に男性がやるという関係ではすまない問題も同様です。同性愛者がやっている生活の中から異性愛の関係を問い直すと言うことも出来ると思います。私も男性として育てられていますから思い込みなどがいっぱいあります。例えばカップルになる際に相手を支配したくなるということがありました。色々な葛藤というのは女性と共通した葛藤があります。その意味で、フェミニズムと共通した話をする機会が多くなっています。(了) |