読書感想

10.7 公開講座 「沖縄経験 〈民衆の安全保障〉へ」に向けて


日時 10月7日(土) 18:00〜   
場所 文京区民センター4階B室  
(地下鉄三田線春日駅すぐ)


【管理者から】上記公開講座では、講師の天野さんの『沖縄経験〈民衆の安全保障〉へ』をテキストに討論を深めていきます。私たちの「沖縄連帯」の思想とはなんなのかを、客観的に捉え返す作業にも有効な一冊です。ぜひ講座前に呼んでいただき、活発な討論をしていきましょう。以下に、同書を読み進めている友人からの個人的な感想を掲載していきます。この「連載」は個人的なものではありますが、多くの人の見方を掲載していきたいと思っています。まとまった読書感想もよし、個別の個所に対する感想でもよし、この本に対する直接の感想ではなく運動に対する感想でもよし、とにかく投稿をお待ちしています。(2000年9月17日)



2000年9月25日
 書き忘れたが、本書第1章「〈非武装国家〉化から〈民衆の安全保障〉づくりへ」は、天野、伊藤公雄、鵜飼哲の3者による座談会「観客民主主義をどう越えるか――湾岸戦争後のマスメディアと左派メディア」(『インパクション』70 1991年6月)を振り返る形で書かれている。91年2月に、「かつての革命主義者」の柄谷行人らが中心になって出された「文学者の声明」に対して、天野さんは、現実から乖離した平和原理を賞賛する一方現実の問題には全く触れないこの声明に対して苛立ちを隠さない。また九条の理念を絶賛する一方で海部自民党政府による九十億ドル戦費支出を「肯定するより仕方ない」と言ってのける吉本隆明への批判もある。天野さんは「かつての革命主義者吉本と柄谷にとっては、九条の理念は、この局面では自分のラディカル・ポーズを示すための小道具であるにすぎない。彼らは、九条の理念を、具体的現実を具体的批判する原理として生きるなどということは、これっぽっちも考えていないのである」と述べる。
 天野さんは、この声明を批判していた加藤典洋に対しても「加藤も、ここ(「文学者の声明」を批判した「敗戦後論」を指す:引用者)で問題にしているのは、九条の理念だけである。軍事占領下に押しつけられたこの理念を、「もう一度『選び直す』べきだ」ということのみが力説されているのだ。九条の理念(非武装国家)と現実(武装国家日本)の乖離のすさまじさへの危機感やいらだちは、彼にも、なにもない。だから、湾岸戦争を支えてしまった日本政府・社会へのあり方への具体的批判もない」と手厳しい批判を加えている。そして「加藤が、かつてどの程度の『革命主義者』であったかは知らないが、九条(非武装国家)理念の弛緩した認識という点では、吉本はもちろん、柄谷とも共通しているというしかない」と結論付ける。
 僕は柄谷、吉本をうわさ程度にしか知らないし、加藤も同じようなものだ。ただ、なんとなく胡散臭さや現実乖離という印象はもっていた。戦後初の海外派兵という事態に、九条の理念しか持ち出さない言論状況。その後、ゴランや東チモール周辺など、連続的に海外派兵は続いている。「人道的介入」がヨーロッパで大規模に行なわれた。日本では新ガイドラインという海外派兵のための取り決めがアメリカとなされた。国際的紛争に対して何らかの介入は必要、という世論はどんどん右へ進んでいくようである。ユーゴ空爆ではヨーロッパのラジカル性を一定代表してきたグリーン派の多くが空爆を支持した。日本ではどうか? 東チモールでの混乱に際していくつかのグループが反対行動を展開した。しかし、どうも決定打にかける、というのが僕の印象だ。結局地道にインドネシア・東チモールとの連帯を続けてきたグループが、一定程度開かれた政治的空間で活動を継続していることには敬服するし、そのような連帯を僕たちも学んでいかなければならないとはおもう。コソボ、東チモール、ともに多国籍軍の派兵に対する有効な対案が出てこなかった。それは主体の弱さと国際的な階級闘争の凋落に関係してはいると思うのだが。ただ、現実は現実である。「派兵反対」の具体的な理由を説明すると同時に、それを理由に思考停止にならない運動を作っていかなければならないとおもう。
 
 〈民衆の安全保障〉という考え方は、僕の勝手な理解では、なにか理念を掲げてそれを奉るものではなく、各国・地域の具体的な反戦、平和、生活運動などを国際的につなげていくことを、平和と安定の基礎とするものである。それは軍事力によってつくられる「安定のバランス」とは合い入れない。具体的な平和のプロセスを作り上げていこうというのが、これまでの九条の理念を奉ってきた運動とは違っているのだろう。そういたところに僕は魅力を感じる。

 九条の捉え方に、若干の違和感を覚えた。天野さんは自分の座談会での発言を引用している。「九条の問題を考える時に、基本的に武装を原理とする国家が、非武装を原理とする憲法を____、自己否定するような原理は凄いと。…実際には軍事大国であるという現実と、九条の理念の乖離というのは尋常ではないと思う。この点の考えなければ話にならない」。もちろんこれは、現実との乖離を全く考えない「かつての革命派」を意識して発言したものではあるのだが。僕は9条に別段感慨深い何かを持ってはいない。それは良く言われるように「生まれた時からあったから」ということではなく、本当に平和を作るには9条では(「日本は戦争をしません」)では、なにもできないと思っていたからだ。戦争をしなくても、この日本の中では人が人を搾取して、生活と自由を奪い、挙句の果てには命までも奪う。海外に目を転じれば、日本企業が、国内ではできないような人権侵害や環境破壊を平気で行なっており、その「恩恵」を日本に住む僕たちが受けてきた。そういった「変えなければならない現状」があるのに、変えることをスポイルしたような九条では、本当に平和を作ることはできないんだろうなーというのが単純な感想だ。ただ、9条という最低限のラインさえもぶち壊そうというのがいまの改憲派だ。そういった攻勢にはできるだけひろい共闘が必要になるんだろうな、というのも今の思い。まとまらないがこの辺で。

2000年9月16日
 10月7日のアジア連帯講座の講師でもある天野恵一さんが、『沖縄経験〈民衆の安全保障〉へ』を出版した。講座ではこの書籍を参考文献に討論を深めていこうと考えている。「ヤマト」で反安保にとり組みながら、沖縄との連帯を考え実践してきたこの間の軌跡をまとめた一冊だそうで、随分前に購入したのだが、この機会に少しずつよみながら個人的な感想を書いていこうと思っている。できれば10月7日の講座までに読み終えたいと思っているのだが、いろいろ原稿を抱えていたりして途中で挫折するかも…。

 さて、第1章「〈非武装国家化〉から〈民衆の安全保障〉づくりへ」。湾岸戦争を契機に冷戦構造に根ざしてきた運動のあり方がひっくり返された。天野さんは、「自由主義史観派」「かつての『革命主義者』」「『平和基本法』グループ」のそれぞれの「崩壊感覚」について語っている。

 天野さんは「アメリカかフセインか」という二者選択をとる事のできない事態を「ある意味で僕は積極的な部分があった」と語っている。かつての「ベトナム反戦」の場合には、南ベトナム民族解放戦線に対する思い入れから、それが「正義の戦闘というロマン」に包まれていた部分があり、「暴力的な抵抗としての戦争が、侵略された方に不可避であったとしても、戦争や軍それ自体を価値にしてしまうのは、間違いではいないか」とふりかえる。そして「もう一つの抵抗の武力(暴力)への荷担という構造がうまれようもない「湾岸反戦」は、その荷担ができないという点がもつ、積極性についてこそ考えるべきではないか」と考え始めたそうだ。

 困難な状況にある中で、その客観状況から生まれた運動のあり方や思想から積極的なものを汲み取り未来につなげていく作業というのは、言うのは簡単だが、実践するのは難しい。天野さんの思想の根底には、この積極的な意味付けがチラホラ見えていて頼もしい。人は困難な状況に置かれているときには、後ろ向きの考えになる場合が多いからだ。

 この「民衆の安全保障」という思想を、この間の反戦運動を通じて確固たるモノしつつある人々は増えてきている。それに対して「具体的ではない」という感情で切り捨てるのではなく、僕の考える「民衆による平和」を、沖縄、ヤマト、アジア、世界の実際の運動のなかから作り上げていきたいというのが、いまの考えだ。その過程で、ある人はこれまでの運動のあり方を拒否することによって、新たな運動のあり方を模索していくのかもしれない。

 しかし、僕のようなベトナム革命を同時代の歴史とせず、湾岸戦争、PKO闘争以降に運動に参加した人間にとって、天野さんの言うような「崩壊感覚」は自分のものとして感じる事は少ない。それは一つには僕自身が「ベトナム反戦」ではなく「ベトナム革命支持」のスローガンと運動に対してのシンパシーと、自称「社会主義」国家や共産主義運動における官僚的堕落や腐敗に対するアンチテーゼとしての思想に共感を寄せるという感覚が働いているせいかもしれない。

 そのせいか「『平和』の思想とは、戦争は起きてほしくないという願望を事実認識に転じた『戦争は起きない』という前提(状況判断)に支えられて成立するものではないのだ。藤岡のこういった薄っぺらな平和観(戦争観)は、コミュニストにほぼ共通した、社会主義国の軍事力による平和の秩序づくりをあてこむ発想にも支えられていたのだと思う」といわれても、「それこそ薄っぺらじゃないか」と反発してしまう。

 「崩壊感覚」の中から新しい運動を模索していく人々とともに、僕としてはこれまでの思想的伝統に改めて確信を持ちつづけながら共闘していきたい。第1章の、しかも最初を読んだだけでえらそうなことを言っていますが、読みつづける事によってコロコロ変わるかもしれません、悪しからず。(はやの)




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