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見ればわかる!
宮森健次

 森にゴミを捨てるのも、遠い地に爆弾を落とすのも、山を削って滑走路をつくるのも、見ようとしないからできること。見ればわかります。

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成田空港の問題は「農業問題」である
虫賀宗博(論楽社)

 2002年2月に石井紀子さんの話を論楽社で聞いた。
 成田空港の問題は、「空港問題」ではなく、「農業問題」である。その石井さんの指摘は心にしみた。20年、30年と有機農業を営んできて、そこを「出ていけ」と言われるつらさ。ひどさ。
 実は、きのう、14年間自然農業をしてきた畑を「4月いっぱいでやめてくれ」と地主さんから言われた。即座に石井さんの悲しみを想うことができた。「ただ野菜を育てたい」という石井さんの願いが花咲くことを祈った。
 レフ・トルストイは童話『人にはたくさんの土地がいるか』の結末で主人公パホームに墓穴を掘る土地だけを与えた。ひとに必要なのは埋葬するだけの広さ。
 マハトマ・ガンジーが1930年代に過ごしたのも、小さな粗末な木と泥でできた小屋。庵のような、非・帝国主義の広さ。この広さは人間として、譲ることのできない気品なのだ。
 小さく農的にゆっくり生きる人たちの尊厳は、いくら金力や暴力をつかっても破壊できない。食糧自給率の低下にまったく無関心という犯罪的な政府にできることは、農民たちに譲歩するだけであろう。それ以外に解決法はない。カンタンなことだ。「いままで無礼なことをしてきました。ごめんなさい」と頭を下げることだけだ。
  2002年4月4日

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抹消されることのない風景と
人々の存在は、私自身を突き動かす
茂住 衛

 三里塚の地では、風景が変容していく姿に常に直面させられてきた。
 朝倉部落は、竹藪を抜けた坂の下にある古村だが、私が初めてこの地を訪れたときには、すでに多くの人々は村を出ていった後だと聞いており、公民館の脇の細い道を上っていった小学校の跡地には、壊れかけたブランコが残っていた。それでも、何軒かの点在する家々には、藁ぶきの屋根と古い農家のつくりがそのまま残されていたが、その朝倉の地でも家は壊され、幅の広い直線の道路が、水田の跡地の上を貫通している。
 東峰部落は、ここ三年来の暫定滑走路建設工事のなかで、フェンスや道路によって村のなかが幾重にも分断され、道路も付け替えられてきた。ときおり訪れるものにとっては、それまで何回もごく普通に訪れていた村への入り口にたどり着くことすら困難で、迷いこんでしまうことにもなりかねない。
 いま残されている辺田部落の里山の古村の風景も、これから数年先にかけてどのように変わっていくのだろうか。すでに空港の周囲の移転地には、中途半端な豪華さと大きさだけを競うようなありきたりの新築の家が何軒もたち並んでいる。 横堀部落や木の根部落は、私が初めてきた当時からすでに空港の敷地に浸食され、かって何十軒もの家々があったという風景を想像することはすでに困難になっていた。それでもその頃は、残された農地や原野の周囲はまだ有刺鉄線で囲われておらず、葦や竹の藪のなかを自由に行き来することができた。
 横堀の農業研修センター(旧労農合宿所)辺りから見る空港の風景は、夜の闇のなかでは、原野に唐突に表れた街の明るさを連想させるかのようだが、逆に空港の側から夜半にこの地を見渡してみても、そこからはただ闇夜の拡がりが見えるだけであろう。そこに人々の生活があることを想像することも、ほとんど困難かもしれない。だがその闇の一角では、いまも盆踊りが続けられている。遠目から見たその姿に、不意に狐火がともったかのような幻想を覚えたこともあった。
 私自身は、空港がくる前の三里塚の原風景を知らない。『壊死する風景』(のら社、1972年)[当時の空港反対同盟青年行動隊の討論集]への抵抗が、三里塚の人々の空港建設に反対する根拠の一つだと言われてきたが、外部からの一支援者でしかない私は、想像力のなかでこの原風景を追憶しながら、自分なりにたたかいに参加する根拠を模索してきたと言えようか。
 そして、三里塚の地での空港建設の閣議決定から三五年あまりを経た現在でも、この地における風景の一方的な解体とそこに根づいている人々の存在を抹消する暴力は続いている。三里塚で遊ばせてもらった一人として私は、この暴力に抗していきたいと思う。だがその心情は、単に過去への郷愁に依拠するものではない。
 私にとって三里塚での体験は、風景の変容の一端をただ見てきただけでない。やぐらや要塞をたて、要塞と地下通路にこもり、その結果一年間の拘置所暮らしをし、ステージをつくり、ツアーでガイドをして、農作業をし、酒を飲み、何人もの人々と話し、気まずい緊張感も実感し、機動隊から露骨に恫喝されたことなど、いくつもの記憶が交錯し重なりあっている。その痕跡は、まだ三里塚の地に残されているが、それ自体は、時間と出来事の推移のなかで消え去っていくものかもしれない。それでも三里塚での体験が、いま現在の私を刺激する記憶としてあり続けるかぎり、抹消されることのない風景と人々の存在は、私自身を突き動かすものとして存在しているのではないだろうか。
 過去への郷愁に引かれる支援者としてではなく、自分と他者が共有できるたたかいの現在の根拠を求めて、三里塚との関わりもまだ続いていくだろう。

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隅谷調査団の責任を問う
山口幸夫(原子力資料情報室共同代表)

 先日、サッカーのW杯に間に合せようと強行工事が進んでいる成田の暫定滑走路の現状を見てきた。東峰部落の民家や野菜の共同出荷場、漬物工場などは10メートルの高さのフェンスに囲まれ、農地と堆肥場ぎりぎりに滑走路と進入灯路がつくられている。ききしにまさる有様だ。この間の経緯を知る一人として、こんな筈ではなかったのではないかと考え、広く訴えたい。
 隅谷三喜男氏を長として、5人の学識経験者たちは、閣議決定から25年目の91年から三年間にわたって、成田空港問題公開シンポジウムと円卓会議とを主催した。そして、94年秋に結論を導き出し、世に高く評価された。「用地取得のために強制的手段を用いてはならない」ことが合意され、「日本の民主主義の進むべき道は如何にあるべきかという問いを、日本社会に投げかけた」と、隅谷氏は述べている。調査団の一人は「成田問題はすべて終わった」と明言した。
 対立する主張を社会的正義にかなうように解決する手続きとして「成田方式」という言葉もうまれ、わが国の今後の係争問題に有力な範例を示したとされた。しかし、東峰部落の現状を見ると、「成田方式」の正体がこれか、と思わざるを得ない。
 去年六月、空港公団が部落に何の相談もなしに、部落の神社の境内にある立ち木を伐採した。公団総裁は事後に謝罪した。そのやり方は成田でずっと行われてきたもので、シンポ・円卓でそれはもうしないと確言したことであったのに。
 公聴会も開き、周辺住民26万人の賛同署名もある。滑走路は北へずらし、短くもした。空港公団と国土交通省はそう言うだろう。だが、暫定開港すれば残っている人も出ていくだろう、その後、当初の滑走路にできると考えていることは想像に難くない。既成事実さえつくってしまえばという官僚・行政の手法は、全く変わっていない。
 暫定滑走路で土地が切り取られた東峰部落は戦後の開拓地だが、無農薬・有機農法の里として三〇年の歴史がある。BSE、雪印をはじめ「食」の不信が世を覆っている今となっては、実に貴重な場所である。見事な土づくりがされた一画で、三代目の若者が養豚を始めている。鶏舎もあり、部落の墓地があり、「地球的課題の実験村」の若い研修生が二人、住みこんでいる。部落の生産者と野菜・卵・漬物・豚肉などで直接につながっている都市生活者は数千世帯にのぼる。
 ジェット機の離着陸時には、一酸化炭素、炭化水素類、窒素酸化物、粒子状物質などの大気汚染物質が高い濃度で排出されることは明らかだ。それらは人家に、無農薬・有機農法の畑に、鶏や豚に、降り注いでくるだろう。平均六分に一回襲ってくる騒音はガード下並みのレベルで、家庭内の会話は通ぜず、テレビの画面はゆがむだろう。
 調査団を結成し、正しい解決のために努力した学識経験者たちは、これをもってよしとするのであろうか。ダムの問題も原発の問題もわが国が直面している難題を正しく解く方法がどうしても必要である。世にいう「構造改革」はそれも含むのではないか。

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三里塚の二本目の滑走路を動かしてはならない
山口雪子(くらしをつくる会)

 ワールドカップに間に合せるといって、この4月18日から成田空港の「暫定滑走路」が使用される、と報じられています。もしそうなれば1966年に閣議で決められた空港建設は一つの節目を迎えることになるでしょう。国は「暫定滑走路」と呼びますが、第二滑走路にほかなりません。
 東峰部落に住み暮らし、畑を作り、鶏や豚を飼い、野菜を出荷し、漬物を作っているひとびとには、非常に厳しい環境になりそうです。頭上40メートルを離陸し着陸するジェット機が午前6時から夜11時まで平均6分に一回、一帯を襲ってきます。飛行機の部品の落下や事故にもおびえてくらさなければなりません。ジェット燃料から降ってくる化学物質類や窒素酸化物(NOX)も心配です。誘導路灯が鶏や野菜の生理をおかしくしてしまうでしょう。微生物農法の会の共同堆肥場、小泉循環農場の堆肥場もあります。東峰部落の大切な墓地もあります。お墓の下で眠っている、小泉よねさんや島村良助さんもきっと怒り続けていることでしょう。
 四国の吉野川第十堰も九州の五木の里の川辺川ダムも、国は公共の福祉のため≠ニ言いはります。しかし、そこに住んでいる人たちの人権を無視する公共の福祉≠チてなんでしょう。地域の経済を盛んにするため、少数の人々は出ていけ、というのが周辺の多数派の意見です。そして、それを押しつけてきます。
 この滑走路の南側の離発着によって、島村さん、小泉さん、樋ケさんや、らっきょう工場、ワンパックのひとびとの頭上すれすれをあの巨大な飛行機が飛ぶのを想像するだけで恐怖です。いつぶつかってくるのか、鼓膜が破れてしまうような轟音になんか慣れるはずはありません。そして、轟音による振動、誘導灯の灯りなどが、人々の健康に良いはずもありません。
 三里塚の人びとのつくる有機農法・無農薬の野菜や卵を30年近くも食べ続けてきた者にとってひとごとではありません。住み暮らしている人の居るかぎり、どんな理由があろうとも飛行機を飛ばすべきではありません。

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島村昭治さんとのこと
山口泰子(婦人民主クラブ)

 成田空港建設反対運動のデモや集会には何度か出かけましたが、具体的なことで思い出すのは島村昭治さんとの野菜の産直です。
 その頃日本国中に公害問題が噴出していた時期でした。空港建設に反対する農民の中からも、農薬や化学肥料によって、生きものを殺し環境を傷めつづける農業のやり方について考え直そうという意見が出て、1972年頃微生物農法の会ができました。そしてそれを支える消費者との産直が始まったのです。
 私は東京から横浜に引っ越して間もなくでしたが、現在の暫定滑走路真下の、島村昭治さんの野菜を分けていただくことにしました。なにしろ有機農業への転換直後ですから、ほんとにレースのようなキャベツが届きました。農法転換による病害虫や生育の状況、そして労働力も、農薬や化学肥料使用の農業とは大へんな違いがあることは私には考え及ばないことでした。レースのようなキャベツが届いて始めて知ったことです。理屈ではない現実の厳しさをつくづく知らされました。生産者には分かっていただけに大へんな決断だったことでしょう(転換して二、三年後から生産物は質も味もぐんぐんよくなります)。
 その頃は宅配便もない時代ですから生産者が自分で配達するのです。私たちもある程度の量をまとめないと成り立ちません。より多くの人たちに空港問題を理解してほしいという思いもあり、引っ越してきたばかりのマンションで、居住者に声をかけなんとか数人の賛同で始めた産直でした。島村さんの農場にも何度か行きました。にんじんケーキをご馳走になったり、鶏舎でたまごを集めたり、お邪魔虫だったことでしょう。お隣の小泉さんのところでは、乾ききった畑に何かの苗を植えたのですが、乾燥しているので土をかけてもすぐ倒れてしまいこれで育つのかと心配したこともありました。
 今、実験村で雨を降らせるために苗木を植えていることを聞いていますが、ほんとにからからに乾燥する土地ですね。その上コンクリートでかためた空港のためにますます条件は悪くなっていることでしょう。
 私が行った頃島村さんの畑のすぐ隣が空港公団の土地になっていましたが、そこに滑走路がつくられるのですね。いろいろな事情で島村さんの野菜の購入を続けられませんでしたが、ずっと頑張っていらっしゃる島村さんのことを思うと感慨深いものがあります。今まで以上の、騒音にも、空気汚染にも耐えていかねばならない皆さんの想像を絶する大変さを思うと、なんと言っていいか分かりません。ましてや現在ほとんど三里塚のことに何の協力も出来ていない私が、こんど呼びかけ人になるのはとてもはずかしい気持ちです。けれど人の心を、生活をス気で踏みにじり、環境を破壊し続ける政治のあり方、社会の仕組みをなんとかしたいと考え続ける一人として、今回の計画に参加させていただきました。

人権と環境を守れとねばり強く訴えている人々と合流しよう
山下一夫(アジア連帯講座)

 政府・国土交通省は、この二月二一日に世界の航空関係機関に暫定滑走路供用開始を四月一八日と通知しました。この通知は、東峰部落住民をたたき出すために供用を強行し、同時に人権・生活・農業破壊を公然と行う宣言でもあります。また、成田市観光協会と成田空港平行滑走路早期完成促進協議会は、四月一七日正午に供用開始セレモニー後、暫定滑走路を使って鹿児島へのチャーター便の飛行を強行します。私たちは、このような暴挙を糾弾し、4.17〜18供用阻止連続闘争を反対同盟とともに闘いぬいていく決意です。
 公団は2001年4月2日、東峰地区に対する暫定滑走路工事の一環としてのフェンス囲い込み、小見川県道付け替え工事の強行と農道・生活道を封鎖し、6月16日には東峰一帯に重弾圧体制を敷きながら東峰神社の立ち木抜き打ち伐採を行ったように、自らの暴力的本質性を露骨に現し、そのレベルをアップしてきました。
 さらに、10月15日からのYS11による試験飛行は暫定滑走路北側で連日強行され続けたが、11月14日からは南側の降下検査に移り、東峰住民の頭上40メートルを飛行し、80〜90デシベル、最大104デシベルという「電車のガード下並」の騒音をまき散らしました。暫定滑走路で使用する中型ジェット機であれば、軽く100デシベル以上の騒音になることは必至です。4月18日の供用開始の強行は、明らかに「傷害罪」に匹敵する重大な犯罪行為です。
 公団の犯罪はこれだけにとどまりません。ジェット機の墜落と落下物の危険性、排気ガスのまき散らしによる身体的健康や農作物への被害、島村昭治さん宅の約4000羽のニワトリへの影響と養鶏妨害、ワンパック野菜やらっきょう工場の生産活動に対する支障などが発生するでしょう。このような東峰地区住民に対する集中した人権・農業・環境破壊の暴挙を絶対に許してはならないと思います。
 本年一月末にブラジル・ポルトアレグレでグローバリズムと新自由主義の流れに抗する「第二回世界社会フォーラム」が行われ、世界131カ国から8万人の人々が集まりました。「もう一つの世界は可能だ!」を合言葉に集まり、このフォーラムでは「新自由主義、戦争、ミリタリズムへの抵抗を 平和と社会的公正のために」という宣言を採択し、新たなスクラムを築き上げていくことを誓いました。三里塚闘争は、このような反グローバリゼーションのうねりと合流し、世界の闘う民衆に三里塚闘争をアピールし、反撃していく水路をたぐりよせていこうではありませんか。
 さらに全国各地で巻き起こっている空港、ダム、干拓、道路、原発建設などの開発至上主義に貫かれた大型公共事業に反対する運動、さまざまな反公害運動、人権と環境を守れとねばり強く訴えている人々との合流を実現し、小泉政府の暴走をストップさせましょう。ともに闘おう。

暫定滑走路と有機農業は共存できない
吉岡正志(ワンパック野菜会員)

 暫定滑走路の工事が急速に進んでいる。先日、半年ぶりにバスツアーで東峰を訪れたのですが、たった半年でこうも変わってしまうのかと驚きを隠せませんでした。道がつけかえられ、トンネルができ、これまで何度も訪れたワンパックの出荷場やらっきょう工場への行き方もわからない始末。たどり着けたかと思えば、まわりの森の木々は切られ、高いフェンスで囲われてしまい、陸の孤島のようになってしまっていた。ここに住んで、畑を作って、野菜を出荷して暮らしている人たちがいるのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
 3月29日の朝日新聞に掲載された暫定滑走路の上空からの写真を見ると、飛行機が着陸するときは、東峰部落の民家や出荷場、らっきょう工場に突っ込んでいくような感じでした。「いくら安全だ」と言われても、これでは事故が起こらないほうが不思議なくらいです。加えて、騒音、振動、大気の汚染など、想像を絶する恐ろしさです。
 エネルギー資源や鉱物資源には限りがあります。その限られた資源をどう使うのか。便利さを、豊かさを追求して、破壊された地球環境を未来の子どもたちに残すわけにはいきません。
 遺伝子組み換え、BSE、雪印など、食べ物に関する不安は高まり、無農薬・有機農法がますます重要になってきています。東峰部落には、農薬も化学肥料も一切使わず、土中の微生物を増やすために、堆肥、鶏糞、米ぬかなどさまざまな有機肥料を入れ、長い年月をかけて仕上げてきた畑があります。振り返ってみると、かなり先進的な取り組みだったといえます。
 このような畑をつぶし、暫定という名目で強制的に進めるやり方を認めるわけにはいきません。

成田空港とキリン麦酒とバドワイザー
吉川勇一(市民の意見30の会・東京)

 歳をとると、人間、いろいろなこだわりが増えてくる。私は、ベ平連時代、三菱重工の一株運動に参加し、暴力団に株主総会場から叩き出され、その際、「ベ平連のチョーセン野郎!」(もちろん、「挑戦」ではなく「朝鮮」だ)と怒鳴られて以来、周辺から三菱資本関連の製品をいっさい排除することにしてきた。だから、ビールは大好きだが、キリンは飲まないし、バドワイザーも追放。カメラはニコンは使わず、お茶も伊藤園はダメ。『週刊新潮』と喧嘩をしてからは、新潮社の本はいっさい買わない、などなど……。
 他人には強制しない、自分だけのこだわりである。別にそうしたからといって、相手に何らかの影響が与えられるとも、もちろん、思っていない。人間、弱い存在だから、何か自分でそうしたこだわりを決めておかないと、あるときの怒りや決意も次第に薄れてゆくのではないか、と思っているからだ。
 三里塚闘争にかかわってからは、成田空港を利用しないことにしてきた。何度か東南アジアに出かけたが、その際、羽田から大阪まで飛び、場合によっては大阪に一泊してまでそこからの出発にこだわった。帰国もそうだ。ただし、絶対というわけではなく、親の死に目に会えないとか、どうしてもやむをえない場合は除くという「付則」(?)もあったが……。私の周辺にも、何人かそういう人がいる。
 つい先日、ベトナムへ行った。ホーチミン市の戦争証跡博物館にベ平連など、日本の反戦市民運動の資料を届けるためだった。旅行会社に関西発の切符の手配を頼んだのだが、今、日本ではベトナム観光ブームだとかで、どうしても関西発の券は入手できず、やむを得ず成田から飛んだ。
 爆音の下で暮らしているベ平連以来の仲間、小泉英政さんのことや、何千羽の鶏のことなどを思うと、やはり心が痛む。つい先日も、暫定滑走路の視察にいった「市民の意見30の会・東京」の梶川凉子さんや、鎌田慧さんの話を聞いたばかりだ。政府も公団も、人の心の中に残したこうした傷やこだわりは、おそらく決して理解できないのだろう。
 共有地の一坪の権利は、自分からは決して放すつもりはない。

私たち自身の自治の力をどう強めていくか
吉田信吾

 最近の国会で外務省のドタバタを見ていてもこの国の在り方は全然変わっていないと思っています。
 政府や空港公団は、これまでの強制収用をちらつかせ強制手段を用いるやり方を反省したはずなのですが、その本質にさして変化はなかったということなのでしょう。あれから三年、これまでとまったく同じようなやり方で工事は一方的に強行され、民家のすぐ軒先に滑走路が姿を現わし、4月18日には暫定滑走路の供用が行われるという事態を迎えています。
 奴らは、反省などしていません。
 国や行政への過度な期待は不要です。私たち自身の自治の力をどう強めていくかが課題だと思います。

懸命に生きている人々がいることを忘れずにいたい
吉野忠雄

 約二年前に三里塚に初めて訪問しました。三里塚は私にとってカルチャーショックでした。三里塚闘争を知らずに育った私は訪問して初めてそれを知り、それが古傷として残っているだけでなく現在でも重大な問題として存在していることを感じました。
 三里塚の人々の生活、生命は空港という存在に大きく影響されていると思います。空港による雇用の確保は確かにあるでしょうし、海外への窓口としてもニーズはあるでしょう。しかし、そこにはいつも空港と隣りあわせを強要されてきた人々がいることを忘れてはならないと思います。現在も続く国の異常な政策下でさえ、三里塚には懸命に生きている人々がいることを忘れずにいたいと思います。
 国際競争の観点で言えばハブ空港というものは日本には必要なのかもしれませんが、これは例えば経済成長率のプラス成長のように必要不可欠なものなのでしょうか。近年、ゆっくり生きることを見直す意見が聞かれるようになりました。私は多くのエネルギーを使用し、資源を枯渇させてまで経済を発展させたいとは思いません。少しでも未来の子どもたちに資源と希望を残したいと切に思うのです。私たちは物質的に豊かになっても、心は豊かにならないことを経験的に知っています。空港を拡張して物流を盛んにし、化石燃料を加速度的に消費させ排気ガスを増やしても、未来に希望はもてないと思います。ここで化石燃料は買うことはできても作り出すことは難しく、排気ガスは排出できても回収することは難しく、なおかつ有害であることを認識しなければなりません。加えて言うならば、お金は社会の中で循環しており自分に戻ってきますが、燃料や資源はほとんどが使用されると元には戻りません。つまり、私たちは元に戻らないもの(燃料、資源)と元に戻るもの(お金)を対等に扱っているという真実を受け止めなければなりません。
 個人の空港の使用という視点から考えますと、ごみ問題と似ている部分があります。ごみ問題のように使用する側(捨てる側)は地元住人側i処理施設付近の住民)、自然環境のことが見えていません。今回の空港拡張で自分の家の上すれすれに航空機が飛んだら誰でも抵抗するでしょう。これは国策だといわれても、やはり抵抗するでしょう。抵抗している人の存在を知りつつ航空機に乗り、排気ガスを振りまいていくのは私には出来ませんし、したくもありません。国策という暴力で苦しんでいる人々の存在を、私たちは認識しなければなりません。国策のありかたを問い直す必要があるのではないかと考えます。
 強制収用という異常な暴力が現在でも(時には秘密裏に)行われていることに危機感を抱きます。今回のワールドカップ名目で空港拡張に踏み切ろうとする国策に一人の国民として大きな疑問を持ちます。

4月18日の供用開始には絶対反対です
渡邉充春(関西東峰団結小屋維持会代表・歯科医師)

 1999年5月「2000年の平行滑走路完成は、無理断念」と発表しながら、舌の根も乾かぬうちに「ワールドカップ前につかえる暫定滑走路」の発表でした。反対農民の土地、家をさけ、北に800メートルずらし、しかも2180メートルの中距離機しか使えないという、とにかく作ることの既成事実をとの魂胆丸見えのものでした。作ってしまえば、騒音と排気ガスの中で、農民や住民が生活できなくなり、追い出せば当初の計画2500メートル以上の長さの滑走路が出来る、出来なくとも離着陸の短い軍用機の使用には使える、国、公団の考えている事は見え見えです。
 工事の強行、東峰の方々が迷うほどの生活道路まで含む付け替え、閉鎖、何よりも許せないのは、2001年6月の東峰神社の抜き打ち立ち木伐採でした。東峰の石井武さんが2002年の旗開きでお話ししているように「無法でやっておいて、後からこっそり形ばかり謝りに来る。盗人たけだけしいとはまさに公団、政府のことだ。理は我々にある」のです。
 4月18日の供用開始には絶対反対です。
 東峰団結小屋維持会は、七七年に東峰のB滑走路予定地内の一坪共有地(石井武さん等所有)に建てられた東峰団結小屋の支援を担いながら、三里塚に係わってきました。これからも東峰の農民、住民の方々が住み、営農し、物産をつづけていくことに微力ながら係わっていこうと思っています。
 昨年11月、大阪で「反空港全国連」が、三里塚、羽田、静岡、中部、びわこ、新関西、伊丹、神戸、播磨、新石垣島空港等を結んで結成されました。緩やかなネットを結びながら進んで行くと思いますが、私たちも係わっていくつもりです。
 戦争の出来る国の体制づくりに、公共事業の見直しが一方で言われながらも、港湾と空港だけは別です。これからも空港問題に取り組んで行きましょう。
 暫定滑走路4月18日供用開始に反対します。