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20年間島村さんの野菜のお世話になっています
須賀祥枝

 私たちは島村さんの野菜の共同購入をはじめて、20年あまりになります。新米主婦の頃は安全な野菜を手に入れたいという思いで、必死で泥付き・虫付き野菜と格闘していました。島村さんも有機農業を始めて間もない頃で、虫に食われてレース状になった小松菜・山のようにとれすぎたほうれん草・中が真っ黒なサツマイモ等が届いたりしてびっくり。その都度、なぜそうなったかという説明をお聞きして、島村さんの誠実で、真摯な農業への取り組みを知ることにもなったのでした。霜や雹、強風や長雨など、天候にかかわるきびしい取り組みを知るにつれ、土と野菜の命としての不思議さ、農業の奥深さをかいま見ることが出来ました。
 20年も経ちますと、野菜の季節感も体になじみ、自然とつくる料理も決まってきて、いつもおいしくいただけるようになりました。生活になくてはならない野菜ばかりです。島村さんも苦労を重ねて、量も種類も味も一段と私たち消費者に合わせてくれてもいます。
 時々野菜と一緒に届く不二子さん手書きの「野菜便り」をとおして、畑のこと、仕事のこと、家族のことと共に空港のことが書かれています。私たちは自分のために安全でおいしい野菜をいただきたいのではありますが、島村さんの野菜をとり続けることによって、島村さんの農業を応援していると思っているし、島村さんの生活基盤の三里塚を共に守っていると思っています。島村さんがあくまでもここで農業を続けていきたいという思いを応援していきたいと思っています。そしてそのことが私たちの生活を支える農業をまもっていくことと思っています。
 何年もかけてつくってきた土をただはがしてどこかへ持っていけばいいのでしょうか。そこで生きている人々や野菜、鶏やたちに、轟音や排気ガスをぶちまけて追い出そうというのでしょうか。
 三里塚が空港になって行く過程を見つめてきた私たち市民は、今回の暫定滑走路使用がまたもや暴力的に強行されることに強い憤りを覚えます。誰もが当たり前に普通の生活をしているところへ、このような空港公団の工事のやり方はとても許せるものではありません。

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不正を見過ごしてはいけない
―暫定滑走路「強要」という国家テロリズム―
杉原浩司

 人間と人間の信頼を切り裂き、切り離し、突き崩し、人間どうしを敵対させる。そのような暴力ほど恐ろしく罪深いものはないとすれば、三里塚(ナリタ)空港建設は、およそ「人道に対する罪」に値すると思う。今また襲いかかろうとする新たな暴力としての暫定滑走路供用(=強要!)とは、日本国家による「無限の不正義」作戦だ。
 私が生まれた頃に始まった「三里塚闘争」の中で、私の知らない無数の人々が心ならずも、自らの意思に反して、生きていきたい大地から引きはがされていった。国家が用意したメニューは、甘言と札束のセットか、あるいは「機動隊」という名の国家お抱えの暴力装置。それにより殺され、あるいは傷ついた多くの人々。そして、「機動隊」の人間性をはく奪し暴力マシーンにしつらえるのもまた国家だ。
「自らの土地だ。文句あるか」とアスファルトを敷き詰め、東峰の人々と共に生き続けてきた神社の立ち木たちを、根元から切り倒して虐殺したうえで、誇りを持ってその地で働き暮らしていこうとする人々の頭上四〇メートルにジェット機を飛ばし、轟音と排気毒ガスと墜落の危険を一方的に押しつけて、追い出しを図ろうとする国家。そして、人々を「乗客」として、住民への暴力の「共犯者」の位置に据えつけようとしている。
 東峰の石井紀子さんは、「アフガニスタンの空爆にさらされている人たちの気持ちがよくわかる」と話していた。内戦と飢餓で追い詰められている人たちの頭上に爆弾を降り注ぎ、最新兵器の対人実験さえ行うアメリカ。安全なはるか洋上の航空母艦の上でハイテクミサイルを発射する米兵は「ビジネスライクにやっている」と平然と言い放つ。その「正義の」爆弾で粉々にされ焼き尽くされるアフガニスタンの生身の人々との間の距離は絶望的に大きい。そして、ジェット機のシートに座る人々とその真下に生きる人々との距離もまた、実際の物理的距離の近さに反して大きい。
 飛行をやめさせるためにできることのひとつは、その「無自覚の共犯者」にさせられつつある人々との間に築かれた壁の「バリアフリー」化だろう。ちょうど空爆が人々を「難民」化させたように、三里塚空港は既に十分すぎるほど多くの人々を大地から引きはがし続けてきた。「もう、たくさんだ!」
 この巨大な不正義を見過ごさないことは、たぶん誰にでもできるはずのことなのだと思う。それができなくなってきているとするなら、それはなコなのだろう。さらに、こうした露骨な暴力から人々を守るべき法が事実上存在していないとはどういうことだろうか。そして、存在していないのなら、作り出す責任もあるのではないか。そんなこともたまには丁寧に考えながら、自分にできることを探していきたい。

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風景=歴史を回復し永遠の「暫定」にせん
善方 昭(地球的課題の実験村事務局・編集プロダクション経営)

 この二〜三月に東峰周辺を歩いた。風景が来るたびに変わり、東峰神社は地元の石井恒司さんに案内していただいてようやく”発見”できた。機動隊の検問の手前をフェンスで囲われた狭い専用通路へ曲がると、その路地の突き当たり(行き止まり)に、孤立してあった。だから、ここに入るのは東峰神社に行く人以外ない。
 かつて祠の中のお札を恐る恐る取り出してみた畏怖感は抱きようがなかった。鎮守の森が伐り払われ、フェンスで背景の景色がなくなったそこはまるで舞台の書き割りのようで、戦後の食糧難の時代に木の根や石を掘り起こして開拓し、今もこの地で農を営む人たちの産土神たる扱いとはとても思えない。風景の抹殺はそのまま人々の労苦と歴史の抹殺でもある。
 開拓前には入会(いりあい)の地として周辺の村々に草木を提供し、戦中には旧制中学生のグライダーの練習場ともなっていたという原野の面影を見つけるのは、いまやとても難しい。唯一、東峰神社の石柱の裏面に彫り跡がある「航空神社」の名が往時を忍ばせる。そう、ここには戦後の一時期、皮肉にも飛行機の神・天鳥船(あめのとりふね)が祀られていたのだ。このような扱いに神が祟らぬことを、公団ではなく住民の皆さんのために祈るばかりだ。
 神社はまだしも、直下に住む人たちの健康や生命を顧慮しない事業の「公共性」とは何なのか。人権はかほどに軽く、フーリガンを大量に招くための航空需要などとはかりにかけるべき事柄なのか。
 東峰はいま、地球的課題の実験村どころか航空公害の人体実験・動植物実験村にされようとしている。ぜひ多くの人に現地に立って見てほしい。それがいかに「不条理」なものか一目瞭然だ。供用開始を強行する、想像力のカケラもない人たちには、一日でもいいから直下で暮らしてみてほしい。それでも間違っていないと言えるのだろうか。
 しかし、「暫定」の名のとおり、風景さえ日々変化して定まらないこの地に、恒久的な施設が完成するとはとても思えない。国の方が変わらぬ限り永遠の暫定、過程、途中、半端物であり続けるだろう。いや、あらしめ続けるだろう。
 殺伐とした現風景の侵攻を止め、かつての緑の原風景に回復せん、と祈念しつつ。

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いまや航空行政全体を抜本的に見直さねばならないとき
高木久仁子(高木仁三郎市民科学基金)

 公共事業は、広く公共性、必要性が認められ、理解され支持されて初めて公共性を獲得できます。公共事業は厳しく「公共性」の内容を問われねばなりません。
 成田空港(新東京国際空港)が、千葉県成田市と山武郡芝山町にまたがる現在の地に建設すると閣議決定されたのは、今から36年前の1966年です。事前に何の説明も相談もなく意見表明の場さえなく一方的に突然にその計画を知らされ強引に進められる建設工事に地元の住民が強く抵抗したのは当然のことでした。空港に決定したのだから立ち退け、補償はするが金額に不満なら強制収用してたたき出すと脅しをかけての建設強行です。空港公団やその関係者の札ビラで頬を叩くような行為が日常となり、畑や田んぼが土地投機の対象とされ、農家は次々に切り崩され、古くから伝わる農村の共同性は急速に崩壊させられていきました。空港絶対反対派にたいしては空港警備の名のもとに機動隊や私服刑事などによる暴行やいやがらせが日常的にくり返されました。反対闘争のなかで地元住民をはじめ支援の学生労働者市民、また機動隊からも死者をはじめ多数の負傷者が出ながらも、空港建設に対する異議は一切無視され建設は強行されてきました。しかし、強行にもかかわらず空港は完成しませんでした。
 1993年には空港の事業認定は失効し、以後空港用地を強制収用することは不可能になりました。ここに至ってようやく政府、空港公団側は今までのやり方をあらためると態度表明して、地元住民も含む成田空港問題円卓会議が発足し、成田空港地域共生委員会が動き出し、地域と共生する空港作りがその一歩を踏み出したかに見えました。
 しかし現実には、地元との話し合いをうたいながら同時に、暫定滑走路は2000年までに完成するとの計画を地元当事者の合意もないまま一方的にぶち上げ工事を強引に推し進めるという従来の方法がまたも取られました。空港反対農家のある南側には滑走路を建設出来ず、北側に滑走路を移動し、計画よりさらに短くして四月には使用開始しようというのです。こんな無理なやり方ですから、空港敷地内に設置されるべき進入灯は空港敷地外の、農家の玄関先や母屋に隣接して設置され、鳥小屋や豚小屋や畑の真中に突然にその姿を現わすのです。これが36年も建設にかかった成田空港の現実を示す姿です。
 たった一本の滑走路で開港した成田国際空港は未だ工事が続いていますが、横風用のC滑走路を含む第二期工事は未完成で現在に至っています。空港建設開始より30年以上かかっても完成しない空港建設事業とは何なのでしょうか。ましてや、30年以上もかかって建設された滑走路がなお暫定滑走路とは一体どういうことなのでしょうか。その場しのぎの無責任な空港建設、空港行政。政府や新東京国際空港公団の事業主体、管理責任者としての無責任さ無能力さは、厳しく批判されて当然です。事業の遂行能力のない新東京国際空港公団の存在や航空行政そのものを今こそ見直す必要があります。成田空港計画の当初から、そのアクセスの悪さ不便さは指摘されてきましたが、都心から60キロメートルも離れた成田に新東京国際空港をもっていった不便さは今もあいかわらず続いています。韓国からワールドカップ見物に来る人は、飛行機に乗っている時間よりずっと長い時間を成田から競技場に行く時間に費やさねばなりません。利用者にとっては余分な時間と高い交通費とエネルギーが必要になります。
 成田空港がいまだ完成できないという事実をかくし、「さらに便利に快適に、成田空港は進化します、本格的ハブ空港の誕生です。海外も国内も成田から」などという新東京国際空港公団の四月一八日新滑走路オープンにむけた新聞広告は事実を曲げたインチキ広告といわねばなりません。いまや航空行政全体を抜本的に見直さねばならないときに至っています。

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官僚と政治家が生み出している政治の腐敗
高橋千代司(東京都調布市)

 成田空港が開港されたばかりの頃、滑走路南端から500メートルしか離れていない岩沢政雄さん宅では、毎晩耳栓をしていたおばあさんの鼓膜が破れたという(田中伸尚「成田空港の騒音問題」『反成田空港論』技術と人間、1979年発行)。当時の調査で115デシベルを記録し、着陸時の爆風でスイカさえもが地面から飛び上がり、つるが引きちぎられるなどの被害が出たという。
 今回の東峰ではどのようなレベルの騒音が記録され、住民やにわとりや野菜にどんな被害が及ぶのか。暫定滑走路の供用を進める国や公団は、あらかじめそれを予測し住民にきちんと説明する責任があるのに、実際のレベルよりもかなり押さえた騒音レベルを提示している疑いがある。YS11型機で、地上40メートルを飛行した時の騒音が104デシベルだったと新聞は報道している。工事開始前後の説明では中型機でも100デシベル以下であるとしていたのではなかったか。YS11型機で104デシベルということは、中型ジェット機が同様の低空を飛ぶとすれば104デシベル以上になるはずであり、極めて深刻な騒音被害が憂慮される。
 サッカーのワールドカップに間に合わせるという掛け声で住民の反対を踏みにじって強行された暫定滑走路が、その時どんな利用のされ方をするのかも定かではない。それもまた、住民にきちんと説明する義務があるのではないか。
 40メートルの頭上をジェット機が飛ぶという住民の生きる権利さえ奪うような計画は、直ちに中止すべきである。無責任な官僚と政治家が生み出している政治の腐敗は、暫定滑走路という恐るべき計画として現れていると言わざるを得ない。

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僕ら同じ百姓の思いはいっしょ
舘山光春

 成田空港滑走路問題につきましてまだ十代の頃、事の重大さも判らないままに夜行列車で三里塚と八戸を何度も往復したのが昨日のことのように思い出されます。ともすればお祭りと勘違いしていたような節もありました。コ〇ドー〇に人糞を詰め込む作業を黙々とこなしていけたのも、将来の約束を疑わなかったからだったからでしょう。
 ようやく、その約束が不満は残るものの「現実としてなされた」と喜んだのもつかの間で、「またしても……またしても……」と言う思いだけを呼び起こす処置を「また……やるのか」これが正直な気持ちです。公団と言うよりは、政府の一貫した方針と捉えたほうが、よほどしっくりくるようにおもいます。
 家業の農業を継いで20年が経ちましたが、三里塚、今は成田空港闘争と呼んでいるのでしょうか、成田の問題と農業を続けると言うことは、言葉は違えど、 意味は同じであるようです。
 農業で生計を立てるということを20年もやってくると、必ずと言っていいほど成田と同様の問題にぶつかるのです。ところが、村社会にあっては、不満を自分の中に押し込め、訳のわからない烏帽子をいただき、さも、自分の判断が正しいかのように振舞うのです。その意味では農業者はほとんど物の根っこを見ていないと言えると思います。また、一面良く見ているともいえます。
 村社会にあっては、または日本そのものが、頑固でハードボイルドな人の集合体のように、このごろは感じられます。
 都合の良いハードボイルドな人は「反骨の人」と呼ばれますが、あソらがわの人はなんと呼ばれるのでしょう?
 人間関係は難しいとつくづく思います。運動はもっと難しい。闘争に至っては命を削る思いがあります。
 それを続けることに意味があったのでしょうか。勝つことに意味があったのでしょうか。そうじゃなくて、それを通して人間を育てることに意味があったと僕は信じたいと思います。育てられたと思われる人は、今一度その思いとともに成田の地に思いと体を運び今まで頂いたものをほかの人に分け与えましょうよ。独り占めは良くないと思います。
 寺下力三郎さんという方がいらっしゃいました。たくさんのものを彼から頂きました。返そうにも、もうこの世には住所がありません。「開発難民を出したくない」この思いを彼から頂いたものといっしょに実践しながらたくさんの人に伝えていくつもりです。
 生きる場所は違っても僕らは同じ百姓。やられてることも同じ。思いはいっしょです。それぞれの場を守りましょう。できることがあったら、やります。

闘いつづける三里塚農民を支持します
塚本春雄

「成田空港の暫定滑走路の供用中止を訴える運動の呼びかけ」に賛同します。
 東峰部落をはじめ、現地でくらしている人たちの頭上わずか40メートルのところに、ジェット機を飛ばすなどという、政府・公団の暴挙を許すことはできません。
 三里塚空港の廃港をめざし、30年以上にわたって闘いつづける三里塚農民を支持します。
 しかし、今の私には、賛同・支持を表明することはできても、そのために、何も有効な行動ができず、残念でなりません。

やっぱり、お役人は信用できない
辻 和夫

 三年前、暫定滑走路の計画が発表され、久しぶりに東峰を訪れた。そのときには、東峰神社も木々に囲まれていた。その後、集会で訪れるたびに部落の風景が変わっていった。道路が付け替えられ、神社も鉄板で囲われ、ついには立ち木も切られ、神社は裸にされた。
 部落の中の林も切られ、直射日光にさらされたシイタケを見たとき何とも言えない悲しさを感じた。
 いまでは、東峰十字路も移動し、部落に入る道さえわからなくなった。県道も地下道となり、そこを通行する車からは、農業を営み、人々が生活していることなど想像すらできなくなっている。
 暫定滑走路のさらに南の横堀でも、人々を追い出す工事が同じ様に進んでいる。滑走路の供用が始まれば、上空や誘導路を通る航空機の騒音や排ガスも加わり、生活するには厳しい場所となるだろう。
 こうした事態を見せつけられると、かつてシンポジウムで誤りを認め、謝罪した運輸省の姿勢は、ウソだったと思わざるをえない。やっぱり、お役人は信用できない。 ならば私たちも、かつてのように闘おう、と簡単に言える状況にはないが、反対同盟の皆さんと共に出来る限りの行動をしたい。
 いま、食べるものに対する信頼が崩れている。口に入れるものが、どこで、どのように作られ、そして安全なのか。誰もが心配している。困難な状況の中でも、空港建設に反対し、安全で信頼できる食べ物を作っている三里塚の人々を孤立させないようがんばりたい。

便利なら、それでいいのかなぁ
つるたまさひで(工場労働者)

 あたりまえの話かもしれないが、ぼくには便利は手放せない。もう染み付いてしまっている。だから、そのことに自覚的であり続けるのは、けっこう難しい。でも、そうありたい。
「便利」の影で生活を破壊される人の声が耳に届いたときには立ち止まりたい。「開発」で生活が破壊される人の声が聞こえたときに、立ち止まって、みんなで考えることを可能にするラディカルな民主主義こそが、いま世界中で求められているのだと思う。それは確かに手間暇がかかる。だけど、その手間暇をおしんではいけないはずだ。
 今は足が遠のいてしまったけれど、ぼくが「三里塚」で学んだのはそういうことだったと感じている。
 第二滑走路の供用(強要)も目前にした、「いま」こそ立ち止まって考えるべきときなのだと思う。

『この地で暮らす』ことの意味から
中里英章(七つ森書館)

 先日、「こんなことがあっていいのだろうか」という切迫した想いに見舞われました。
 4月18日から供用が開始される、成田空港の暫定滑走路の予定地内で暮らす人びとのところへ行ったときのことです。「成田空港の暫定滑走路の供用の中止を訴える運動のよびかけ」の事務局のお手伝いをしているのですが、見学ツアーを催すことになって下見に行ったのです。
 二年半振りに現地を訪れたのですが、あまりの変貌に度肝を抜かれました。話には聞いていたのですが、まず道がわかりません。県道のそばにある神社を目当てに農道に入り、こんもりと茂った木々につつまれた農家を目指して行って「こんにちは」と言えば、笑顔で迎えてくれたのですが……。県道は、飛行場の滑走路をくぐり抜けるトンネルとなり、農家へ向かう農道は付け替えられて、両側に張り巡らされた三メートル余のフェンスに視界が遮られているのです。神社を包んでいた立木は伐採され、ここもフェンスに囲まれている。農家や畑、共同出荷場、鶏舎の敷地境界ギリギリにフェンスが建てられている。手が届きそうなところには滑走路の誘導灯が立っている――このすぐ上を飛行機が飛ぶのです。なかでも驚いたのは、5メートルを越えるフェンス。その向こうには、滑走路へ向かう誘導路があって、そこを通るジェット機がまき散らす排気ガスを避けるためだというのです。
 暫定滑走路の供用が開始されると、農家の軒先わずか40メートルをジェット機が飛ぶ――これが、現実です。”成田問題の話し合いによる解決”を標榜した国のやり方の実体です。
 目を転じると、有機農業を営む島村さんや小泉さんの肥沃な畑が広がっています。空には雲雀がさえずり、子ぶたが餌を食べています。にわとりが鳴いています。らっきょう工場があったり、有機農業の研修をしている若い人や仕事をする人たちの住まいもあります。フェンスの内側の巨大な空港とは、まったく違う暮らしがあります。
 利便性のみを追求した現代文明と巨大科学技術がもたらす矛盾の縮図がここにある――と、言葉でいうのはたやすいことですが、こう述べることは、現実を反映していません。島村さんや小泉さんの話を聞いていると、奇しくも同じことを言っていました。
「オレら、ここで暮らしているだけだ」
 重い言葉です。”この地で暮らす”ことは、何人も侵すことはできません。支援する、とは簡単に言えませんが、ともに歩んでゆくきっかけをつかみたい――そして、力を生みだしたいと思います。

運輸省、空港公団の「反省」とは、口先だけのものだったのか
奈良本英佑(教員)

「遊園地を建設するから」と田畑を強制収用した話は聞かない。競技場についても
聞いたことがない。だが、空港建設の場合には当然のように強権が発動される。空港は、国際交通施設であって、娯楽施設ではないからというわけだ。
 だが、航空機利用者の圧倒的多数は観光客だ。空港は九〇%程度娯楽施設なのだ。しかも、騒音、墜落の危険など、周辺の地域社会にあたえる被害の大きさは、遊園地やスポーツ施設の比ではない。
 ダムや道路建設などの「公共事業」が、本当に「公共」のためなのか。至るところで問い直されている。「公共事業」を錦の御旗に、国家の意志を力で押し付けるやりかたを、この国は誤りだと認めたはずだ。運輸省、空港公団の「反省」とは、口先だけのものだったのか。

ジェット機でなく鳥が飛び交う空を
新野祐子(白鷹町農産加工研究会)

「こんなところで農業をしてみたい」。空を見上げてそうつぶやいた石井紀子さんの姿を見て、私は思わず涙が込み上げました。3月2日農村女性と都市労働者女性の交流会を白鷹町内で開き、翌日その参加者を私たちの共同畑に案内した時のことです。この地域は「蚕桑」と言い、名称の通り養蚕が盛んでこの場所も一面桑畑でした。しかし輸入による繭価の下落で養蚕農家は風前のともしびとなりました。6年前WTOの補助金で50ヘクタールの桑園が掘り起こされ畑地として整備され、三年前から私たちはその一部を借りて耕しています。まだ畑は一メートル近い雪に覆われていますが、その日は固雪で自由に歩き回ることができました。
 頭上高くヒバリがさえずり、川べりの雑木林では繁殖期を迎えたトビとカラスが縄張り争いをし、渡ってきたサシバがそこに加わりいっそう賑やかになる。背景の山々ではブナの芽吹きが始まる。ここではそんな春がやって来るのに、三里塚ではジェット機の轟音、撒き散らされる排気ガス、目のくらむ進入灯。まやかしの暫定滑走路のために人々が、生きとし生けるものが、一日の休みもなくそんな中にさらされようとしているのです。
 89年2月5日、三里塚を支える会の誘いで私は石井さんはじめ三里塚の女の人たちが企画した空港包囲一周マラソン(16キロメートル)に参加しました。随所に機動隊が立ち物々しい空気が漂い、楽しく走ろうという気持ちがそがれそうになりましたが、バイクで伴走してくれたYさんの応援もあって全力を出しきって爽快な気分でゴールに入ることができました。オオイヌノフグリの咲く広場で、女の人たちが用意してくれたトン汁、おしるこ、おにぎりなどの昼食をおいしくいただいたことが思い出されます。女の人たちも何日か走って練習したとかで、あの頃は楽しい運動もしようよ、という余地もあったのではないかと思います。
 しかしこの暫定滑走路はむごすぎます。過日の交流会で石井さんの話を聞いて、怒りに震えなかった人はいないでしょう。人々の心のよりどころである神社、その鎮守の森、御神木も一本残らず切られてしまったとは。そこに住む人たちを迫害し伐採を強行した者たちにたたりがあるのは必至です。初めから欺瞞に満ちた成田空港問題、国はどこまで歴史に汚点を残すつもりですか。暫定滑走路の供用開始は絶対に許せません。