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国家に礼節は不用なのか:鎌田 慧

 どのように自分の人生を築いていくのか。このテーマは人間一生の課題であり、それを追求するのは、なんぴとによっても妨げられない、個人の権利である。たとえ、 まちがった判断とはたから思われたにせよ、決断の責任と結果は自分に帰するのだから、まちがいということはできない。他人に迷惑をかけないかぎり、自分の夢を追求 し、自己決定するのは人間の尊厳というものである。
 もしも、個人の生活を暴力や偽計によって押しつぶし、その運命に不当に介入しようとするのは、人間の尊厳にたいする冒涜であり、許すことのできない犯罪行為である。
 しかし、そのような蛮行を、これまで国家は平然とおこなってきた。徴兵制度がそうであったし、他国への侵略がそうだったし、死刑制度もまた戦争とおなじような人間にたいする野蛮である。基本的人権とは、個人からであっても、自治体や国家からであってもけっして侵されることのない、人間固有の生きる権利であるはずだ。
 戦争や死刑ばかりか、表現の抑圧や居住地の制限など、個人の生活と生命活動を妨げることは、基本的人権の尊重に反する、というのは、もはや疑うことのできない社会通念である。
 ところが、千葉県成田市と芝山町のあいだにある、三里塚の台地のうえに空港建設を計画したものたちは、そこに住んで土を耕し、野菜をつくりながら、おのれの夢を育てていた農民たちを、ひとりの人間として尊重していなかった。
 だからこそ、ひとことのことわりもなく、畑のうえに線をひき、その区域内にいれられた農民を、武装した機動隊の革靴と催涙弾とによって追いだす蛮行を、平然とおこなうことができたのだ。
 三里塚農民の主張とは、国家とわれわれとは対等な関係にある。だからこそ、対等な話し合いによってコトをきめるべきではなかったか、という人民主権の主張だった。
「空港をこの地にもってきたものをにくむ」と書きつけて自死した三ノ宮文男の悲しみと憎しみとは、自分の生きようとした道を、国家が暴力によって奪い取った行為によって引き起こされたものであって、その若すぎる死はいのちをかけた無念の抗議だった。
 空港がそのとき本当に国民に必要なものだったとしたなら、政府はどうして一軒一軒の農家をまわって、空港をつくらなければならない理由を説明してまわる手順を踏まなかったのか。それが人民を基本に考える民主主義というものだったはずだ。
「問答無用」として、ただ大量の機動隊を差しむけたのは、相手に人権があることなど、考えてもいなかったからである。このとき、日本政府には「主権在民」の思想など、どこにも見当たらなかった。

 政府が、これから近郊農業地帯として発展する可能性にみちていた三里塚の地に、空港を押しつけたのは66年7月だった。
 その三年ほど前の63年、「新東京国際空港」の建設計画は、綾部運輸大臣の浦安沖案と河野建設大臣の木更津沖案とが対立していた。さらに茨城県霞ヶ浦案、千葉県富里案などが出されていたが、それぞれ政治家たちの利権の思惑を反映したものだった。
 結局、地元出身である自民党副総裁・川島正次郎の富里案が有力になったのは、ライバルだった「実力者」河野一郎の急死によっている。当初の富里案は、2300ヘクタール、滑走路五本の巨大なものだった。それはいかにも誇大な需要予測にもとづいたものだった。その計画面積だけ、農民が土地から追いだされ、土地を収奪されることになるのだが、永田町のソファーにすわって計画をたてるものは、農民の現実の生活やささやかな希望などに想いをいたすことはない。
 最初の富里案は、千葉県の友納知事にさえ秘密にすすめられていた。自治体の頭越しの計画だったことにも、中央政府の傲慢さがあらわれている。この巨大な計画は、富里、八街、山武地域の農民の猛反対を受けて、隣接する成田市三里塚と芝山町の農地に不時着することになった。
「喫緊の国家的事業」などといわれ、羽田過密論、羽田危険論などがふりまかれながらも、富里の代替案になった三里塚案は、結局、半分以下の1065ヘクタール、滑走路三本に縮小された。この案が発表された66年から、「一部開港」の78年5月まで、12年もの歳月がかかったのは、「問答無用」のやり方にたいして、農民と支援勢力との身体を張った抵抗があったからだ。そのあいだに、羽田空港がパンクすることなどなかったのだから、政府の「喫緊」などという言い方は、いかに虚構にみちたものだったかがよくわかる。
 川島副総理が建設地を三里塚にずらしたのは、そこに経営が左前になっていた「三里塚カントリー倶楽部」があったから、と言われている。ゴルフ場の広大な敷地を高値で買収させれば、経営の再建におおいに寄与する。
 このゴルフ場の経営者が、川島の友人の丹沢善利だった。丹沢は「船橋ヘルスセンター」の経営者でもあったが、川島や田中角栄、小佐野賢治などと昵懇の「政商」だった。彼が三井不動産の江戸英雄、京成電鉄の川崎千春とともに創立した、「オリエンタルランド」の大株主から脱落して、失墜するのは、そのあとの話である。
 富里空港が、本格的な空港の計画だったとすれば、「成田空港」は暫定的な空港だった。
「設計図もない、法解釈や技術論はどうでもいい。とにかく既成事実をつくることに全力をあげた」
と空港公団幹部が述懐していた(「毎日新聞」75年6月13日)ごとく、この空港は、とにかく、とりあえず、既成事実として、暫定的に建設されたものだった。それを証明する、つぎのような記事がある。
「佐藤首相としても、7月半ばに予定されている内閣改造前にけりをつけるため、まず三里塚御料牧場に暫定的な空港を建設、これを拡張して最終的には名実備えた国際空港にする案も考慮していたようだ」(「朝日新聞」66年6月23日)
 ことし4月、むりやり運用開始された二本目の滑走路は、「暫定滑走路」などと自称されているのだが、この空港は、計画のはじまりから、無計画、場当たり主義の犠牲を農民に押しつけ、あとは機動隊の暴力にまかせて建設されてきた。政治家や官僚たちの無責任によって出発した「暫定空港」そのものだったのである。

 78年3月、福田内閣は14000人の機動隊を配置して、「開港」を強行しようとしていた。春のつむじ風のようにたちあらわれた反対派の「管制塔占拠」は、それまでの闘争のなかでの死者や負傷者や膨大な数の逮捕者の「空港反対」の想いを引き受けて実行されたものだった。
 厳戒態勢の管制塔が、非暴力のデモ隊に占拠されるなど、世界空港史上まったく例をみないものだった。デモ隊にむけられた警官隊の拳銃発射は、政府の説得性の欠如と焦りそのものだった。福田内閣は、強制収用とガス弾と拳銃と策略が総動員された「成田空港」を、大弾圧態勢のもとで、78年5月、計画から十二年もたって、その一部だけをようやく開港させた。
 それから十三年がたった91年5月、政府(村岡運輸大臣)は、これまでのやり方がまちがっていた、と謝罪し、「いかなる状況においても、強制的手段はとらない」と農民にたいして確約した。かつて、「喫緊の国家的事業」などといって、農民の土地を強制代執行によって奪い取ったことへの反省だったはずだが、こんどは、「サッカーのワールドカップが開催される」との口実をもちだして、滑走路の建設に着工し、いま寸たらずの「暫定滑走路」が運用されている。
 畑を耕して種を撒き、ニワトリや豚を飼育して、都市住民の生活と生命を維持している農家の軒先にまで、勝手に滑走路の先端を伸ばし、ジェット機の轟音と排気ガスとを吹きかける空港公団のやり口は、バブル期に、住民を追いだし、土地を奪うために、騒音や汚物をふりまき、あるいは脅迫してあるいた、地上げ屋に雇われた暴力団の犯罪行為と、いったいどこがちがうのか。
 そこでは、30年にわたって有機農業の畑がつくられ、二代目の息子があとを継ぎ、三代目の息子たちも、農業に夢を託している。その三代にわたる希望と人間的な営みを、一方的に取り上げる権利が、はたして国にあるのか。
 成田空港は強権だけによって、人民の抵抗を暴力的に排除し、遮二無二建設がすすめられた。人間的なつながりを断ち切られ、他所に移住せざるをえなかった人たちがいかに多かったことか。全国に共通するそれらの嘆きは、これまで、利権まみれの「公共事業」とメリット論のもとで、かき消されてきた。高速道路やダム建設、干拓事業、あるいは、新幹線工事。民家の軒先すれすれに新幹線のコンクリートの路床をつくって平気なのは、人権や快適な生活権などの考えが、この国のどこにもなかったからだ。
 しかし、政府はかつて、三里塚の農民にたいして、これまでの権力を笠に着たやり方を反省し、謝罪し、対等に話し合うことを約束したはずだ。それがただ、第二期工事をすすめるためだけの偽計だったとしたなら、この国家はとんでもないペテン国家ということになる。公共事業の大半が、実際よりも過剰なものになったのは、そのあいだに賄賂やリベートや政治資金や官僚の飲み食いがふくまれていたからで、それもまたこの国が前近代的国家であることの証明だった。
 畑を耕し、子どもを育てて生活している人びとの生活を守るのが、国や自治体の役割のはずだ。手段を選ばず追いたてるだけなら、国などはいらない。まして、農業は人間の命をつくりだすもっとも重要な仕事である。罰当たりな妄論は、つぎのような「社説」によくあらわれている。
「成田空港はわが国最大の国際空港であるばかりでなく、横浜港を大きく引き離す最大の『貿易港』でもある。代替農地も用意されている以上、居座りは国民的迷惑としか言いようがない。
  成田空港には一人2040円の施設利用料がかかる。最初から二滑走路で運営されていれば、安く済んだはずだ。  国土交通省と千葉県は反対派との話し合いを続ける方針だが、そろそろ法的手段による解決を検討すべきである」(「読売新聞」2002年4月17日)
 まず経済的な重要性で脅かし、居座り、ときめつける。そのあと利用者の経済的損失をもちだしているのだが、それらは農民の責任ではない。そもそも、空港が勝手に、農民の許可をえることなく、強引に畑に入ってきたのだ。この論説記者のような、憎しみによってまわりを高い鉄柵で囲いこまれ、それでも作物を育てる土を慈しんで生活しているのを「居座り」などきめつけるのは、侵略者の視点からの、盗人猛々しい理屈というものである。
 ここにいる農民は、これまでなにひとつ悪いことをしていない。だからこそ、政府も強権を行使できずにいるのだが、新聞が国家よりも先まわりして、「法的手段」(強制代執行)をかけろと、と書きたてるのは、言論の暴力である。この新聞の論調は、記者というよりは警察官の主張というものであって、人間の尊厳とか人権とか生活権とか、農業の重要性とか、およそジャーナリストとしての冷静さも見識もこころをもまったく欠如した、珍無類のものである。
 政府が、2002年4月、どさくさにまぎれて運用開始した滑走路を、「ワールドカップ開催のためにつくられた暫定滑走路」といい張るならば、会期が終了したあと、さっそく取りのける、と約束できるはずだ。暴力団のように甘言を弄してはいりこみ、そのあと、詭弁と暴力を背景にして卑劣な居直りをしない。それが国家の礼節というものであろう。

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