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ウラン鉱山周辺の村々で生きる先住民族と私たち

宇野田陽子

 インドで最も新しい州、ジャールカンド州。つい1年半前までビハール州の一部であったこの地域は、アディバシ(インドでは先住民族の人々をこう呼ぶ)の人口が28%をしめ、先住民族の人権、土地権などさまざまな問題に対してアディバシたち自身が強大な運動を展開している。数千人のメンバーを擁するジャールカンド反放射能同盟(JOAR)もその一つだ。このジャールカンド州東シンブム地方に、インドの核プログラムに必要とされるウランのほぼすべてを供給しているインド唯一のウラン鉱山と製錬施設がある。
 その周辺で起きている健康被害と、インドウラニウム社(以下、UCIL)の杜撰で非倫理的な行為、そしてそれに抗う人々の闘いについては、日本でも徐々に知られるところとなりつつある。
 私は、3年前にインドで開催されたノーニュークス・アジアフォーラムで、ジャドゥゴダ現地の運動のリーダーであるガンシャム・ビルリさんと、映画「ブッダの嘆き」の監督であるスリプラカシュさんに出会った。アジア各国からの参加者と共にこの映画を見て、さらにガンシャムさんからあまりに重苦しい現地の状況を聞き、インド国内からの参加者すらもことばを失う場面があった。(その後、スリプラカシュさんの映画は東京で開催された第8回地球環境映像祭に出品されて大賞を獲得、日本各地で日本語版の上映運動が続けられている。)そのようにして始まった彼らとのつながりは細々とながら続き、さる12月23日から27日にかけて、放射能汚染調査のために現地を訪問された京大原子炉実験所の小出裕章さんとカメラマンの小林晃さんと共にジャドゥゴダウラン鉱山と周辺の村々を訪問する運びとなった。 

ジャドゥゴダとウラン施設

現地に行くまで私は、ジャドゥゴダという村が一つのウラン鉱山に隣接して位置しているのだと思っていたが、そうではなかった。サンタル、ホー、ムンダ、オラオンの4民族を中心とする先住民族が住むこのジャドゥゴダ地域には、村が10以上あり、あるものはテーリングダム(鉱滓池)に密着するように、あるものは何キロも離れた場所に位置している。そして巨大なウラン製錬工場と、3つのやはり巨大なテーリングダム(3つ目は建設中だが、建設にウラン残土を使っていると聞いた)がジャドゥゴダを占領するかのように非常識なほど大きな姿をさらしており、周囲の山で3ヶ所のウラン鉱山が操業されている。人々の暮らしがあまりに素朴なだけに、突如として視界に飛び込んでくるテーリングダムやUCILの鉄条網は、まさに森を踏みにじり暮らしを引き裂くものにしか見えない。ジャールカンドの州都であるラーンチーから車で3時間半ほどいくと、インド有数の製鉄の町タタナガール(ジャムシェドプール)に着く。ここから広々とした牧歌的な風景の中をさらに陸路で1時間足らず進むと、ジャドゥゴダ地域へたどり着く。まず見えてくる第1鉱山のナルワパハール鉱山では、道路の反対側の草原にものすごい量のウラン残土が野ざらしで投棄されているのが見えた。さらに車を走らせると第2鉱山のバティン鉱山が見えてくる。この鉱山では山の中腹あたりに地下坑道からの空気が噴出する通風孔があり高い放射能を帯びた強風を噴出している。つい最近になってUCILがコンクリート壁を建設するまで、たくさんの人々がそこに集まって涼をとっていたという。バティン鉱山を過ぎるとにわかに人通りが多くなり、果物や衣料品などの露天が立ち並びいくつもの道が交差するジャドゥゴダの中心にたどり着く。活気あるバザールや、人と車と牛とヤギでにぎわう往来を眺めていると、なんとなくほっとした気持ちになった。それでも人々はここで力強く生きている、と。だが、何の変哲もない農村にしか見えないその交差点を右折したとたん、視界の右側にどこまでも続く巨大な土手が飛び込んでくる。ここから第1、第2、第3と巨大なテーリングダムが並んでいるのだ。

人々の健康への影響

テーリングダムは、往来の多い生活道路からほんの数十メートルしか離れていない。ダムは、村人の生活圏の真っ只中に存在するわけだ。生活道路とテーリングダムの間にも集落があり、ダムのふもとでは老人が牛やヤギに草を歯ませており、乾季でかわいたダムを横切って森から帰ってきた女性たちが薪を頭に載せて次々と土手から降りてくるのだ。ダムから流れ落ちたと思われる水でできた池では子どもたちが遊び、女性たちが洗濯をし、家畜が水を飲んでいた。ダムの反対側には堅牢な塀に囲まれてUCILの広大な敷地の中にウラン製錬工場と第3鉱山であるジャドゥゴダ鉱山が操業中である。
村によってテーリングダムからの距離は大きく異なるので、ダムがあるからという理由だけですべての村が直ちに影響を受けているとは言い切れないと感じた。しかし、製錬所から出る残土やテーリングは、地下坑道に埋め戻すためにシート1枚かけただけのトラックで生活道路を何度も往復する。鉱山からは掘り出されたウラン鉱石が製錬所に向けてやはりずさんな形で繰り返し搬送される。その道は人々が裸足で行きかい農産物を並べる場所でもあるのに。森と一体になって暮らしてきた人々は、薪を取るため、生きるために集落と森の間に突如現れたテーリングダムの中を横切って歩いていた。そのようにして、人々は確かに放射能にさらされている。また、鉱山労働者の間では結核を始めとして病気が蔓延しているし、坑道内で使う作業服を家に持ち帰って洗濯させるというUCILの無責任な方針が家庭まで汚染を広げていると考えなければならないだろう。
ジャドゥゴダはインド唯一のウラン鉱山であり、国内の原発にウランを供給している。インドでは、1962年に制定された原子力法によって核開発やウラン鉱山に関する情報は国家機密とされ、政治家や科学者はそれらの情報を公表することを禁じられた。いったいどれだけの労働者がどれほど被曝したのか、テーリングダムには都市部から送り返されてきた放射性廃棄物も投棄されているのか、とにかくあらゆることが極秘とされ情報は公開されていない。
3鉱山の労働者は合計約6000人おり、現役労働者とすでに退職した者をあわせて毎年25〜30人が亡くなっているとのことだ。これは、UCILで労働者の健康管理を担当しているスタッフが内部情報として提供してくれたものらしい。
どのような健康被害がこの地域に存在するかについては、インドの医師であるサンガミトラ・ガデカルさんと夫のスレンドラさんらが詳細な疫学調査を実施しており、その結果が待たれている。短い滞在ではあったが、UCILがまともな対策をとりさえすれば劇的に改善されるであろう事態も多いと感じたので、疫学調査の結果が出たら日本でもジャドゥゴダの現状を広く紹介し、村人たちを人間とも思わないようなUCILのやり方が改善されていくよう声を上げる必要があるだろう。

先住民族への抑圧

テーリングダムによる汚染が最も激しいと考えられる村のひとつ、チャティコチャ村では建設中の第3ダムが見えた。チャティコチャ村は2つの集落に分かれていた。第3ダムの建設が始まるとき、チャティコチャの片方の集落は強権的に土地を取り上げられ、家はブルドーザーで破壊された。「ここは先住民の土地として政府に登記された場所ではない、ここはUCILの土地なのだから立ち退くのは当然」そのような論理で、UCILは強制的に人々を立ち退かせて建設を始めた。このとき、立ち退きにあったチャティコチャの人々はもう一方の集落に避難し助け合ってそこで暮らすようになった。しかし、すでに第4テーリングダムの建設が計画されており、その計画によると第3ダムによって追いやられた人々が住み着いたもう一方の集落が再び根こそぎ破壊されて第4ダムができることになる。「前は、同じ村人同士、親戚がいた人も多かったので何とかこちらの集落に落ち着いた。しかしもしここからさえも追い出されたら自分たちは一体どこに行けばいいのか」この日私たちに同行してくれたドゥンカ・ムルムさんが強制立ち退きの様子を話してくださったが、土地権を奪われた人々の叫びはあまりに切実なものだった。
私は、インドにおいて先住民族の人権、土地権、文化権、生存権がまったく価値のないものとして扱われていることに恐れをなした。ジャールカンド各地で、ダムをはじめとする巨大開発によって被害を受ける先住民族たちがその土地権のために団結して立ち上がるケースが増加している。ジャドゥゴダに関しても、土地権という視点、先住民族の権利という視点からもっと国際的に議論がなされるべきだと考えた。
現在JOARが進めているプロジェクトに、障害児たちのリハビリ施設の建設がある。これには日本の「ブッダの嘆き基金」が資金的な支援を行っている。建設予定地はジャドゥゴダから10キロ以上はなれた村で、すでに設計段階に入っている。施設が完成するまでの間にも障害を持った子どもたちになんとか望ましい環境を提供したいという思いから、JOARは村の集会所で昨年10月から週に2回、障害を持つ子どもたちを集めて療育を行っている。約30人の子どもたちが在籍しており、私たちが訪問した日には9人の子どもたちに会うことができた。現在5人の若者がスタッフとして働いており、ゆくゆくはリハビリテーションセンターへと移行していくために試行錯誤で取り組んでいるとのことだった。
知的障害を持つ7歳のカリグリちゃんと小頭症の2歳のハラゴップ君は仲良しの姉弟。お昼ごはんを食べるのも、手を洗いに行くのも一緒、いつもしっかり手をつないでいる。ラズマン・バネラ君は口唇裂、7歳だけどちょっと小柄で、眼が合うたびに恥ずかしそうに顔を手で覆ったりにっこり笑ったりと魅力的だ。カルナ・バガットちゃんは11歳、ダウン症だ。年の離れた仲間たちと室内にいるのが我慢できないらしく、すぐに外に飛び出してぴょんぴょん元気に跳ね回る。グディア・ダスちゃんは1歳半の女の子。大きな瞳がきらきらしてかわいいこの子は、筋力が非常に弱く食べものの飲み込みが難しいのでいつもお母さんが抱っこしていてご飯を口に入れてもらう。映画「ブッダの嘆き」の撮影中は監督を自前のオートリクシャに乗せて弾圧の危険を顧みずジャドゥゴダ内を走りまわった通称インターナショナル・ドライバー、チャトゥア・ダスさんの大切な一人娘だ。ダスさんは、ここまで通って来られない障害児の送迎もボランティアで行っておられる。
私は今回の訪問で、まずは外国から来たお客さんとしてでよいから、子どもたち一人一人ととにかく出会い、彼らのかわいらしさやしぐさを感じたいと思っていた。遊びと食事の時間に加わらせてもらえたことで、短い時間だったが、私は確かに9人の子どもたちと出会うことができた。一緒に楽しくすごした時間が忘れられない。

ジャドゥゴダは遠くない

今回の訪問では、日本に来られたことのあるJOAR代表のガンシャム・ビルリさんとスリプラカシュ監督、そしてたくさんのJOARメンバーたちが献身的に私たちを支えてくれた。連日同行してくれたドゥンカさんやマンガル・ソレンさんを始め、村を訪問するたびに数百人規模の人々が歓迎してくださり村長の家に招かれてお茶をいただくという経験を何度もした。現地での先住民族の人々の闘いが、まさに生活に根ざした、そして広がりと厚みを持つ運動の上にあることを実感した。
現在、ジャドゥゴダの問題は、デリーの弁護士が中心となって最高裁判所へ請願が提出されているところだという。先住民族の権利をまったく無視する形で、危険性についての何の対策も採られずに事業が強行されている現実を、最高裁を通じて是正したいという試みである。よい判決が出る可能性は低いが、インド国内でもさまざまな場所からさまざまな取り組みが行われている。前述の疫学調査の結果が出されれば、ジャドゥゴダの健康被害の問題について強力な科学的証拠となるだろう。また、このたび小出先生が現地を訪問して汚染調査をされたことで、UCILの杜撰な運営と周辺での健康被害の関係について新たな事実が明らかになっていくだろう。JOARはそのようにして科学的な証拠を固めていく作業をしつつ、人々を組織して先住民族としての土地権や人権が尊重されるよう闘争も継続していく決意だ。そして同時に、障害を持った子どもたちへの療育提供、そしてこれ以上被害者が生み出されないような闘いを展開していこうとしている。
ゆるやかな死の影は確かに彼らの暮らしと大地にしみこみつつあるかもしれない。しかし、決して彼らは座してその影に飲み込まれようとしているのではない。そこには子どもたちの笑顔があり、闘う人々がいて、数千名が集う運動があった。それを支えているのが、民族としての彼らの誇りであることも痛感した。ジャドゥゴダは、徹頭徹尾差別と抑圧におおい尽くされた核という代物の本当の姿を、そしてそのサイクルにどっぷりと浸かった日本の姿を厳しく私たちに突きつける。ジャドゥゴダは遠くない、と思う。
滞在中ずっと私たちを助けてくれたJOARの友人たちとの別れ際、私は覚えたてのサンタル語で「アロ・ボニャ・パマ!(また会おうね!)」と手を振った。するとそのうちの1人がすかさず茶目っ気たっぷりにわざと「ガッパ・ボニャ・パマ!(また明日!)」と返してきた。ここ数日間、1日の作業が終わって宿舎に帰るときにいつも交わしていたことばだ。今や私にとって、ジャドゥゴダはもう遠くない。


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