メインタイトル SACO合意に異議あり…中間報告2 

                   琉球新報99年11月25日

サブタイトル  33年前に作成された那覇軍港の移転計画

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 日本政府は、「普天間移設」と「那覇軍港移設」という二つのボールを使って
沖縄の人たちを踊らせている。

 ところで沖縄の人たちは、SACO合意の意志決定に、だれも加わっていな
い。それで日本政府は、九月の沖縄県議会で、普天間基地の県内移設促進を強
行採決させた。

 私たちは集めた資料を議会に提供しつつ、一部始終を傍聴した。また、県議
会には、日米両政府に米軍の長期計画などの資料を公開させて議論することを
求めた陳情書も出しておいた。それには小渕総理への公開質問状もそえてある。

 しかし、県内移設決議を提案した議員たちは、なんの裏付け資料も示せない
ままに「基地の縮小には県内移設しか道はない。機能強化にはつながらない」
と、くり返すだけであった。ついに未明には沖縄の歴史に残る「県内移設促」
の強行採決をしてしまった。

 何も知らされないままに、だまされてはいけない。そこで「SACO合意を
究明する県民会議」で収集した資料をもとに、軍港を那覇から浦添に移そうと
いう長期計画をアメリカ軍がもっていたこと、そして海兵隊が普天間を辺野古
に移したい理由を考えてみたい。

 また、北部訓練場の一部返還にはオスプレイの訓練場建設が隠されているこ
とを明らかにしたい。

浦添軍港・米軍の三三年計画

 一九六五年三月、アメリカ海兵隊はベトナム・ダナンに上陸したが、沖縄は
出撃、補給基地であった。そのベトナム戦争と一九六六年、天願桟橋の拡張に
住民がねばり強く反対した具志川市の昆布闘争、それらと那覇軍港の浦添への
移設計画はつながっている。

 米軍が1968年1月30日にアメリカの民間会社に委託した「沖縄・工業
                      

用地新都市調査」を発見した。この報告書によると浦添沖に新軍港をつくる計
画が立案されたのは1966年であり、その案を改良したマチナト軍港図と予
算が示されている。
                   

 1970年5月付け秘密電報をメンバーが県立公文書館で見つけだした。
「那覇軍港を返還する代わりとして、(浦添)マチナトへの移設を米国は日本政
府に交渉すべきである」と進言しているアメリカ太平洋軍司令部から統合参謀
本部への電報である。

 この米軍の主張による「浦添移設」密約は、まとまったものと思われる。米
軍は、一九七一年八月に天願埠頭の拡張をあきらめ、復帰直後の74年1月30
日には、移設条件付きで那覇軍港の返還を合意しているからである。浦添へ
の移転は米軍の強い希望である。

 稲嶺知事は「軍港の浦添移設は促進。基地機能の強化には反対」という。

 ところが米軍は、先の報告書や秘密電報の中で、浦添への軍港建設によって、
いかに機能強化が計れるかを書いている。

   「那覇より大きい船が接岸できる。
    倉庫と統合され効率が良くなる。
    デモ隊などから安全な港になる。
    機密保持の面では大きく改善され、
    貨物の損傷等は大はばに減少する。
    運送作業を集中化することで経済効果も望める」

 宮城浦添市長は、「米軍の生活物資なら軍民共用しても良い」という主張のよ
うだ。しかし、生活物資は、安謝新港に毎週三隻のコンテナ船で運ばれており、
新しい港の必要はない。搬入場所の目印は、黄色い大きな「ガントリークレー
ン」である。そのクレーンが動いているのは米軍物資を扱っている時で、すでに
軍港移設は完了している。

 さて浦添に軍民共用の港をつくると米軍はどうするのだろうか。
 さきの秘密電報では怖いことを言っている。

「米国の琉球における長期的関係を最大限に生かせる」

米軍は…長期的に居座り続けます…と宣言しているのだ。

           真喜志好一(SACO合意を究明する県民会議会員)

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